“命ーミコトー” 前編
壱
――――夏。
それはどうしてこんなにも胸を躍らせるのだろうか。日常から抜け出せるかもしれない。新しい出会いがあるかもしれない。何かいつもと違う変化というものを外に期待してしまう。それはここにいる、榊命も同じだった。
「あーあ、どうしてこうなっちゃうのかな。」
クーラーのない教室ではじっとりと汗が肌にまとわりつき、セーラー服がぴったりと肌にくっついているような感覚に陥る。外でけたたましく騒ぎ立てる蝉の声は耳につき、集中力をそぐ。涼しさを求めて机につっぷしてみるが、そこに冷たさは皆無だ。二度目の大きなため息をつこうとしたとき、後頭部にバシッと打撃が走った。
「いった!」
「それは榊、お前がアホだからだ。」
恨みのこもった目線で後ろを振り返ると、ニヤニヤ笑いの男が立っていた。
「蓮見ー…私の脳が壊れでもしたらどうするのよ。」
「まだお前の脳みそに壊れていない場所があったなんて思わなかったな。あーすまん。」
さすがにそれはひどい。イーッと歯をむき出しにして応戦するが、鼻で笑われただけで相手にもされなかった。男、蓮見陽杜はそのまま教壇に立つと、教室中を見渡して盛大にため息をついた。
「こんだけ俺の夏のスタートを遅らせて下さった人がいるとは、あー先生は嬉しい限りです。なんて幸せ者でしょう。」
爽やかな顔で嫌味を言い出した教師に、ここにいる補修組の生徒たちはそれぞれそろっと視線を泳がせた。この男に彼女ができないのはこういうところのせいなんじゃないかと思う。黙って立っていれば、180センチを超える長身にがっしりとした体躯、顔もまあまあ男前なのに。どの学校にもこういった教師は一人はいるもので、年齢も若く大学生くらいにも見えるため女子生徒には大人気である。恵まれた体格は体育教師かという印象を受けるが、これで数学教師というところももしかしたら人気に拍車をかけているのかもしれない。ギャップというやつだろうか。
「おい、榊。何をジロジロ俺のこと見てるんだ。そんなに見とれられたら先生照れちゃうじゃないか。」
しかし口を開けばニヤニヤと、嫌味、からかい、ナルシストである。外見がなまじいいばっかりに勘違い野郎と言えないのがこれまた厄介だ。
「あらやだわ先生。暑いし早く始めて下さらないかしらってガン飛ばしてただけなのに。」
いつものニヤニヤ笑いが少し引きつって一瞬止まり、「ま、お生意気!」とこちらに乗って少しお嬢様言葉で返した蓮見は、気を取り直して課題のプリントを配りだした。こういったノリのいい部分が人気の大きな一つなんだろうな、ということは分かる。命も蓮見のこういう部分を気に入っていた。生徒との距離がほかの先生と比べても近いため、こちらも話しやすく、ついついタメ口で話してしまうのだ。
手元にまわってきた本日の課題は両面印刷A4プリント3枚。終わらせたものから教員に採点をしてもらい、了解をもらえしだい家に帰れる。何としてでも早く終わらせて、夏休みを楽しみたい。家に帰ったら何をしようかな、とニマニマ笑っていると座っているイスに衝撃が走った。蹴られたかのような衝撃。いや、実際にこれは蹴られた衝撃…。恐る恐る振り返ると、作り物めいた美少年がこちらを睨んでいた。切れ長の目元はこの蒸し暑い中でも涼しげで、鼻筋はスッと通っていて、眉毛も綺麗な弓の形を描いている。薄い唇がそっと開かれて…
「おい、プリント。」
「は?」
間抜けな声を出すと、人形の顔がしかめられた。その顔も相変わらず作り物めいた美しさなのだが。
「だから、プリントだって。あんたで止まってるの。早くしてくんない?」
慌てて手元のプリントをまわす。
「ご、ごめんね。」
またその顔は無表情に戻り、淡々とプリントを受け取って後ろに回していった。目も合わせてもらえなかった。
どこかで見たことある顔だな、と思っているとふと隣のクラスの藤家月音だということを思い出した。命は噂に鈍い方ではあったが、さすがにその存在は知っていた。人間離れした美少年ぷりは入学した時からすぐに学校中の噂になった。しかし本人極度の女嫌いのようで、告白してこっぴどく振られた女の子は数知れず。
確かになあ、と命も間近で本物を初めて見て思った。きめ細やかな陶器のような肌はほくろひとつなく、真っ直ぐな肩ほどまである黒髪がその白さを更に強調していた。神様が丹念に1ピース1ピース完璧に作られたものが正確な配置で置かれている感じで、美しすぎてどこか機械的な冷たさを感じる印象だった。それにしても…
「ほーお、榊。名前すらまだ書かずにぼーっとしているとは、よほど余裕があると見えるが、そんなに余裕ならお前には追加で…」
「ああ!すみません!やだなー、私ったらこのプリントにこめられた先生の愛を感じて感動しちゃって、もう!」
「じゃあ、俺の愛にとっとと答えてあげてください。」
「ええ!もう!今すぐに!」
ははは、と命と蓮見はお互い作り笑顔で乾いた笑顔を交換し合った。命は慌ててシャーペンを手に取り名前を書きこんだ。
それにしても、藤家って確か学年主席で合格してきた秀才君だった気がするけどどうしてこんな所にいるんだろう。
「さーかーきー?手がとまって…」
「あらやだわー、この問題難しいわー」
どうやら人のことを気にしている場合ではないようである。
弐
時計の長い針が一周をもうすぐ回ろうとしている。しかし命は完全に課題の前で白旗をあげていた。イスの背もたれに寄りかかり、呆然と問題を見下ろしていた。すでにシャーペンは手元を離れ机の上に転がっている。
「三角関数…サイン、コサイン、タ…タンジェイン?は…ははっ…」
清々しいほどの分からなさに笑いしか出てこない。いや、しかし実際笑っている場合ではない。授業中自分は何をしていたのかと命は自分で自分を心配した。横目でチラチラと周りの様子を伺ってみるが、みんなも同じように手が止まっている。 よかった。少なくとも私一人じゃない。だいたいこんなところに来ている人たちが、そうそうスムーズに事が運ぶわけがないのだ。できるならこんな場所にいない。だからこんな短時間で問題を終わらせる人がいるはずない。
そう高を括っていると背後でイスが引かれた音がした。命の真横を藤家が涼しい顔でプリント片手にカバンを肩に背負って通り過ぎていき、蓮見が行儀悪く足を乗せている教卓の前へ進み出た。その足をチラリと不機嫌そうな顔で見下ろし、その足を避けてプリントをばさりと置いた。
「なんだ藤家、もう終わったのか?」
蓮見は足を下ろすと胸に挿した赤ペンを手に取り採点をはじめる。その様子を藤家は無表情でじーっと見ている。いや、見てはいないのだろうがとりあえず感情の読めない顔でじっとしている。蓮見は三枚の採点を終え、赤ペンにキャップを戻すとうーんとひと唸りしてプリントを藤家にへと返した。
「ミスなし、全問正解、おめでろう。」
顔を軽く下げてなんの感動もなく藤家はそのプリントを受け取った。
「しかし、分かんねえな。なんでお前こんなところにいるんだ?お前のことだから自主補習…ていう感じでもなさそうだし。」
「寝坊」
「あ?」
「寝坊して数学のテスト受けれなかったんで。」
「あー…まあ、それもお前らしいっちゃらしいかもな。」
変に納得しちまったのが何ともなあ、とブツブツいいながら蓮見は短い頭を掻いた。
寝坊して補習ってことは、寝坊しなかったら多分学年上位にいたってことでしょう?同じ人間なのにこうも頭のできは違ってしまうのか。なんと神様は残酷なんだろう。
命は呆然と二人の会話を聞いていた。運が悪いことにそこでチラリと蓮見と目が合ってしまい、その口がニヤリといつもの悪い予感しかしない笑みをたたえるのを見た。
「じゃ、先生。俺もう帰るんで。」
「ちょっと待て、藤家。」
「はい?」
「どうせ今日このあと暇だろう?」
「…俺が暇だとどうして決め付けるんです?」
「なんだ、用事あるのか。」
「…いや、まあ、今日はないですけど。」
「そうか!それはよかった!いやな、ここに一人どうしようもない奴がいるんだよ。そいつに数学教えてやってくれねえかな?この様子じゃ午前中に終わらせてくれなさそうで、俺の貴重なランチタイムが奪われそうなんだよ。な、頼む!」
ヘラヘラ笑いながらまるで誠意を感じさせない頼みっぷりである。
「いやです。」
ピシャリと間髪あけずに藤家が言い放った。
「なんで俺がそんなことしなくちゃいけないんです?」
最もな意見である。
「そんなこと言うなよ。ほら、これやるよ。」
蓮見は教卓の机の中をゴソゴソと探して、何かを藤家に差し出した。それを見た瞬間、今までゆっくり優雅な動作だった藤家が、カッと目を見開きそれを急いで奪い取った。少し頬が赤い。
「…こんなもの、どこで拾ったんです。」
「そんなに焦ちゃって可愛いところあるじゃねえか藤家君。別に俺はお前が…」
「分かった。やりますよ。」
藤家は不本意そうに不機嫌丸出しで言った。蓮見はにぃっと口を横に開き人の悪い笑みを浮かべ、チラリともう一度命の方を見た。
「そうかそうか、それで世話してやって欲しいのがお前の前の席に座っていた榊って奴なんだが。」
「……は?」
周りの視線が一気に命の方に向けられた。その中でも女子の視線が痛い。面倒なことに巻き込みやがって蓮見の奴…。そして、さも迷惑そうに見てくる藤家。
「い…いや、蓮見先生?私一人で大丈夫で…」
「ほお…じゃあ今すぐ手元にあるプリント見せてみろ。」
「ぐ…」
正直二問目で止まっているこの状況を見せられるわけがない。命は今日この日が無事に終わらないことを感じた。
「あの…何か本当にすみません」
ガタガタを無言で藤家はイスを引きずってくると乱暴に腰掛けた。背もたれに深く寄りかかり、長い足を見せつけるように軽々と組んだ。
「いいから早く終わらせろ無駄なことは喋らなくていい。」
刺々しい口調で一気に言われてしまった。そちらも不本意だろうがこちらも大変不本意なのだ。ああ、蓮見。本当に余計なことをしてくれたものだ。この恨み忘れはせんぞ。
それにしても、美人の無表情はこんなにも威圧感があるものなのか。かえって顔をしかめられている方がいいというものだ。
ああ、そうよね、私女だものね。ごめんなさい。
無駄なことは喋るなと言われたので心の中で誤っておく。しかしこの緊張状態では頭が回るはずがない。ただただ気だけが焦るばかりである。
「ねえ」
「はい!?」
突然話しかけられたため必要以上に大きな声で、しかも裏声った声が出てしまった。そんな命を藤家は冷たい目で一瞥した。
「これ、何て読むわけ?」
「え?」
「だから、名前だよ。いのち?」
細く長い指で刺された箇所には『榊命』と書かれた名前だった。
「ああ、私の名前。命って書いて『みこと』って読むの。」
「ふーん」
藤家は先程までの期限の悪さは一体どこへやら。興味津々といった様子で名前をじっと見つめていた。
「おもしろいね。」
「おもしろい?」
「いいんじゃないの、個性があって。」
「個性、ねえ。」
そういう言い方もあるのか。命は感心して自分の名前を眺めた。これまで散々変だ、変だとからかわれてきた名前である。あの教卓で好き勝手に黒板でお絵かきし始めている蓮見でさえ、いかつい名前だと笑い飛ばしたのだ。
「そういう藤家君だって面白いじゃない。」
「俺の名前?何が。」
「月音って、一文字変えれば『つくね』でしょう。」
しばし沈黙が流れた。段々と命は冷や汗が出てきた。最初に無駄なことはしゃべるなと言われたばかりなのに、少し話しかけてもらったから調子に乗りすぎてしまったきがする。いや、間違いなく乗ってしまった。しかも、小学生並みのセンスのない会話のチョイスだった。こういうところでも自分の頭の悪さは染み出してくるのかと自己嫌悪に陥る。
命が恐る恐る様子を伺ってみると、藤家は俯いたままその肩を小刻みに揺らしていた。起こっているのだろうか。
「あの…。」
「………」
「………」
やだ、この人静かに笑っているんだけど。そんなに肩を震わすほど笑いを押さえ込んで苦しそうにするならいっそのこと大声で笑えばいいのに。そのほうがこっちも対処が楽だというのに、こんなのどういう風に反応したらいいか分からないじゃない。それにしても…
「藤家君、その笑い方不気味なんだけど。」
「……笑って、いない…」
嘘つけ!声が震えているし、なんでそんな片言なのよ!顔を覗き込んでみると、目が会った瞬間藤家は吹き出した。そのまま大声で笑い出す。
「何なのよ!失礼じゃない!私の顔見たとたん吹き出すとか!沸点分かんないし!」
しかし笑い声は止まらない。教室中の人が手を止めて藤家を信じられないといった目で見ている。それはそうだ。無口、無表情、無愛想な藤家がこんな大声で笑うなんて誰が想像しただろうか。しかし、藤家の笑いが止まらない限り、その傍にいる命への視線も止まらない。
再び教室が落ち着くまでしばらくの時間がかかった。その頃には笑い疲れた藤家だけでなく命も完全にげっそりしていた。
「藤家君、大丈夫?」
「……忘れてくれ。」
「あんな風に笑えるんだね。」
「本当に忘れてくれ。恥だ。末代までの恥だ。世間に顔向けできない。」
「そんな大げさな。ちょっとツボちゃっただけじゃない。いやー、それにしてもあの藤家君がねー。」
「もう言うな。ちゃんと勉強も教えてやるから。」
藤家は睨みながら命にシャーペンを手渡してきた。しかしいくら睨んだとしても先ほどより怖くはない。照れたように頬が少し赤らんでいるからだ。
「ありがとう、藤家君。」
「…別に。それに藤家でいい。」
「え?」
「あんたに君づけされるとイラッとする。馬鹿にされてるみたいだ。」
照れ隠しのその言いようがどこか可愛らしい。
「うん。よろしく、藤家。」
実は可愛くていいやつなのかもしれない。命は藤家に対する見解を少し改めた。
参
前言を撤回しよう。
「またそこ間違えてる。さっきも説明したよね。」
「………」
「学習能力ないわけ?その脳ちゃんと機能してる?」
「………」
「なんで掛け算間違えるんだよ。もう一度九九からやり直してきたら。」
「………」
思った以上にスパルタだ。鬼だ、鬼。しかも無表情で淡々と怒られるのって精神的にくるものが大きい。しかし反論はできない。まったくもってその通りだからだ。
藤家から勉強を教えてもらい始めて早一時間が経過しようとしている。もう周りの生徒もぼちぼち課題を終わらせて、数人しか教室には残っていない。気持ちは焦る。しかし頭は全く付いてきてはくれない。
「ちょっと、手止まってる。」
「あの、手が言うことを聞いてくれないんですよ。」
「言うこと聞かないのは手よりあんたの頭だよ。」
さすがに藤家も教え疲れたようで先程からため息ばかりもらしいている。しかしこちらは謝ることしかできない。
「で、次はどこが分かんないの?」
「とりあえず、ここ。」
「とりあえず、ね。」
もうこの『とりあえず』というのが全部が分からないという意味だと理解しているようで、藤家は諦めたようにその部分を見てくれる。受け取る方の能力が足りないだけで、藤家の教え方はその無愛想な性格に似合わず丁寧で分かりやすい。嫌味や文句が一々入ってくるのが残念だが。これは蓮見よりよっぽど教師向きなんじゃないかと思ってしまうほどだ。
「いや、藤家さん、すごいね。」
「褒める暇あったら理解してよ。」
常人に比べて理解速度は亀の如しだが、徐々に要領も分かってきた。
「あ、もしかしてここはさ、こう?」
命は自分の力だけで試しに一問といてみた。一応布な数値になったので藤家を伺うと…
「うん、あってる。やればできんじゃん。」
ふわりと柔らかく藤家は笑った。初めての笑顔だ。いつもピンと張り詰められていた空気が一気に解かれた。こんな雰囲気も持っていたのか。いや、むしろこっちが本当の藤家の持つ空気なのかもしれない。
思わず命が見惚れていると、一気に藤家の眉間にしわが寄った。
「なに。」
「いや、失礼ながら可愛いな、と思ってしまいまして。」
「可愛い?」
更にしわは濃くなる。
「そんなこと言われたことない。」
「まあ、藤家って可愛いっていうより綺麗で美人だし。」
「ああ、それは言われるな。」
どちらにせよ男が言われて嬉しいものではなさそうだが、そちらの方は真顔で藤家は肯定した。よほど頻繁に言われなれているのだろう。それを認めて嫌味にならないというのがまた何というか…。」
「ま、どちらにしても正直まったくもって嬉しくない。」
「だろうね。そういうふうなこと言われるの好きじゃなさそうだし。」
「男でそう言われて喜ぶやつの方が稀だと思うけど。」
「いや、じゃなくてさ。何か藤家って好意もたれるの自体嫌いそうだなーって…」
しまった。これは言ってはいけないやつだったか。
人は地雷を踏んでしまったとき、一瞬で周りの空気が変わる。あ…やってしまった、と気づいたときにはもう遅い。紡がれた言葉は戻ってこないからだ。
「藤家、ごめ…」
「何で?」
「え?」
「何でそう思う?」
てっきり怒られるのかと思ったが、どちらかというと藤家の声は不安げに揺れていて、その瞳には様々な感情が入り乱れていた。怒り、焦り、困惑、悲しみ、そしてかすかな喜び…?この瞳に一体どういった言葉を返せばいいのだろうか。形にならない言葉だけが頭に浮かんでまたはじけていく。
「おい。」
緊迫した空気が一瞬で解ける。この空気の読めない男の声で。
「もう教室残ってんのお前らだけだぞ。」
二人共はっと我に返り、周りを見渡せば、確かに教室はガランとしていて、時計を見ればもう昼時を指していた。そう自覚するとおなかが空いているような気持ちになってくる。
「先生、すみません。俺昼過ぎに用事あるんでこれで失礼します。このあとは先生が榊の面倒見てあげてください。」
俯きがちに軽く頭を下げて、早口でそう言うと、藤家は命の方はチラリとも見ずにカバンを手に足早に教室を出て行ってしまった。藤家を傷つけてしまっただろうか。そう考えて命は自分の手元の目を落とした。
「何か、あったのか?」
蓮見が先程まで藤家の座っていた椅子に座って尋ねた。
「怒らせちゃったかも。」
誰にだって人に触れられたくないことはある。命にだってもちろん。ただ、少し話せたのが嬉しくて、短い時間だったけど少し心を開いてくれ多様な気がして、藤家のそんな部分に土足でズカズカと入り込んでしまったのかもしれない。
目に見えて落ち込んでいる命を見て、蓮見はそっと大きな手をその頭に乗せた。
「でも俺は、あいつが誰かと、しかも女とあんなに楽しそうに話していたのは初めて見たぞ。あいつの担任でもないし、数学を担当していたのも去年だけだったが、いつも一人でぼんやりとただ座っているのしか見たことがなかった。明日また会えるんだ。もう一度話して、何か怒らせちゃったんだったら謝ればいいんじゃないか。」
あやすようにぽん、ぽんと大きな手で包まれるたび、少しずつ気持ちが楽になった。
「そうだね。ありがとう、蓮見。」
「こういう優しいところがモテるんだろうな、俺。」
「そういうところがモテないんだと思うよ。」
「あ?ほら、早く残りの問題終わらせろよ。あと三十分で。」
「えー。」
「えー、じゃない。」
「はーい、蓮見先生。」
いつもは腹立つこの軽口もこの時ばかりは本当に感謝した。
肆
「お…終わった」
糸が切れたように命はそのまま机に突っ伏した。蓮水はその身体の隙間からプリントを抜き取ると隣の机で採点をしていった。その丸付けをする手を命はじっと見つめていた。
大きな手だな
あの手で撫でられると、心がくすぐったく、温かな気持ちになるのだ。
手って、『手当て』という言葉があるとおり、色んな力があるのかもなぁ…。
「ん。よろしい。まあ、少々惜しいところはあったが、今日はこれで勘弁してやろう。お疲れ様」
そのまま手が伸び、ぐしゃぐしゃと髪の毛をかきまぜられる。
「ちょっと!おぐしが!」
「頭がよくなるまじないだ」
「いや、脳細胞死ぬって、馬鹿力」
「素直じゃないな、嬉しいくせに。にっしても、お前髪の毛何もやってないんだな」
「何。手抜いてるって言いたいんですか」
「いや。日本人らしく真っ黒、真っ直ぐ、サラサラでいいんじゃない。お前黙ってれば大和撫子っぽいし」
「大和撫子って。いつ時代よ」
「一見頭も悪そうには見えないしな…」
反論しようと口を開いた瞬間、キュルルとお腹が鳴った。
これは、は、恥ずかしい…
顔を赤くし俯く命の様子を見て、蓮見は腕の時計を見ながら笑った。
「もう十二時過ぎたもんな。珍しく頭も使ったようだし。頑張ったお前にご褒美として、蓮見先生が奢ってやろう」
「え!本当?」
「だが、他の奴らには内緒だぞ。たかられたらかなわねェ」
「うん!」
「ただし、期待すんなよ」
「うんうん!」
まさか昼飯奢りというオプションまでついてくるとは。たまには頑張ってみるのも悪くはないかなと思ってしまう。
……が、
「期待してませんでしたよ。」
「ズズズ…」
「期待してませんでしたけど!」
「ズズズズ…」
「これはないでしょう。」
「ズズズズズズズズ……」
蓮見に奢ってやると命がついていって連れてこられたのは数学の準備室。
食堂じゃないのか、と思ったけれど、もしかして出前とってくれるのかな、なんて思っていた私がバカだった。
期待してイスに座って待っていたら、目の前に持ってこられらのは、ダンボールの中から取り出されたカップ麺だった。
「これ、元々ここにあるやつだよね?しかも賞味期限間近だし。全然おごりじゃないじゃん。」
「なんだ、別に食いたくなかったら食わなくてもいいんだぞ。」
「いえ、頂きますけど!」
ぶつぶつ言いながらも命はズズズズ、と音をたてて勢いよく麺をすすった。
暑い。
このクーラーのない暑い部屋で、熱いきつねうどんをすするのだ。何てことだ。それでも食べるけれど!
「ズズズズズズズズズ…」
「まあ、しかし勢いよくすするな。普通女ってもう少し男の前とかだと大人しく食べないか?」
「何か悪いですか?麺はすするのが醍醐味でしょう。」
「ははは。さすが命ちゃんだな。」
「…名前で呼ばないで下さい。」
「嫌いなんだっけ?この名前。いい名前なのに。」
「散々笑ったじゃないですか。」
今だに根に持っているのだ。あんなにも無遠慮に笑ったのは目の前にいるこいつだけである。まあ、もしかしたら今日命も藤家に対して同じくらい失礼なことをしてしまったのかもしれないのだが。
「笑ったっけ?」
「笑いましたー。何きょとんとした顔してるんすか。私の純粋な乙女心はひどく傷付いたんですからね。」
それは悪かったな、と蓮見はニヤニヤ笑いながら言った。この男、絶対悪いとなんか思ってない。
「そういえば榊、お前夏休みどこか行ったりしないのか?」
「ズズズ…何でですか?」
一旦箸を休める。
「いや、おみやげ目当て?」
その答えがあんまりにも蓮見らしく、命は呆れて笑ってしまった。
「とりあえず予定はないですけどー。ていうか、美嘉も有里もちょうど私が補修終わってヒマになるくらいの時に、彼氏と旅行に行っちゃうらしいし。」
「美嘉と有里?ああ、安池と松下か。…榊、お前は彼氏とかいないのか?」
出たよ、と命は盛大に顔をしかめた。
「何だ、お前その顔」
「この顔が答えですよ。どうせ私もてませんし。何です、いなくて悪いの!?」
「落ち着けよ。別に悪かねえよ。むしろ、そういうのに真面目に真剣な方がいいんじゃねねのか。いるからってえらいわけじゃない。自分のこと、やすくしない方がいいからな。」
「ふーん。」
「何だ、ふーんって…。」
「いや、意外だなって思って。」
「そうか?」
「うん。名前のときみたいに馬鹿にされるかなって思った。」
「いや、そん時は悪かったって。それより話は戻ってさ、家族旅行とかはいかないのか?」
「家族旅行?」
そうだ。旅行の話をしてたんだっけ?
「それもないよ。うち空けられないんで」
「何だ?お前の家自営業か何かか」
「自営業っていうか、しきたりっていうか…」
「しきたり?お前そんな古い家柄のいい家のお嬢ちゃんか?」
「いい家はともかく、古い家であることは確かだけど…」
「お前んちか…高校だと家庭訪問なんかもないからな。特別にしてやろうか?」
「いいです!いいです!」
「そんなに拒否されるとますます気になるっていうか…」
「もう、本当!いいって!」
命がここまで拒否するにはそれだけの理由があった。本人の中では。自分の家を誰にも知られたくないし、見られたくもない。別に家自体が見られて困るものではない。言うなればトラウマだ。小学生のときのトラウマのせいで、それ以来どれだけ仲のいい友達も家に呼んだことはない。家が何をやっているかは命の大切な秘密だった。そしてもう一つ、守らねばならない秘密がある。
命は一気に残っていたスープを飲み干した。
「それじゃ蓮見!私もう帰るから。」
「ああ、また明日な。」
「はーい。」
命はカバンを肩にかけると急ぎ目に数学資料室をあとにした。ちらりと振り返ると蓮見がこちらに背を向けたまま、ひらひらと手を振っていた。
伍
学校から電車で四駅。そこから徒歩三十分。少し細い道に入り、山の中を歩く。緑の葉がカサカサと風になびき、少し涼しい風が命の髪を撫でた。葉の間からもれる日の光が地面の上でゆれている。
「んー、気持ちいい」
目を軽く閉じて自然を肌で感じる。都会では感じることのできない気持ちのよさだろう。この静かな和やかな空気が命は好きだった。
しばらく行くと古い石段が見えてくる。
一段、二段、三段…。
その長い石段を登りきると赤い鳥居が見える。くぐった先には二体の狛犬。いや、本来狛犬がいるはずの石が見える。昔から、この神社には何故か狛犬がいないのだ。はじめからそんなものがいなかったのか、それともいつの間にかいなくなったのか。
――――ここは古びた神社。そして、私の家…
「ただいまー」
ガラッと引き戸を開け、歩くたびにギシギシと音が鳴る古い廊下を通り、これまた古びて抜けてしまいそうな階段をを上り、自分の部屋へとたどり着く。カバンを机の上にドスッと置き、ベッドに身を投げる。床の上に落ちているリモコンに腕をグッと伸ばして拾い上げると、クーラーのスイッチを入れて冷房をかける。
「あー…暑かったあ」
大の字に仰向けになって寝そべり、クーラーから出る冷風を直接全身に浴びる。あまり体には良くないかもしれないが、これが一番早く涼める方法なのだ。徐々に体温が下がっていくのを感じる。これで扇風機をプラスすると、さらに効率的なのだが。
扇風機をこっちに持ってくるのも今は面倒くさいので、とりあえずクーラーだけにしておく。
目を瞑って耳を澄ます。ここは少し人気から離れてある場所なので、物音はしない。耳に入るものといったら、虫の声、鳥の声、風の音、すべて自然なものばかりだ。とても静かな場所だ。正月ぐらいは少し騒がしくなるけれど。相当くたびれた神社なので、あまり人も来ない。もしかしたら、知られていないのかもしれない。そんなレベルだ。
―――そう、私は神社の娘…
小学生のとき、友達を家に連れてきた。最初はもの珍しそうにしていた。みんなの家は洋風だし、こんなに古くもないはずだ。一緒に家の中を探索して遊んでいた。
しかし、その中で一人、霊感のある子がいたのだ。そしてその子がこういったのだ。
「ここ、怖い。何かいる」
一気にみんなざわめいた。
どこ、どこ?そんな風に騒いでいると、その子は手を上げて、まっすぐ指差した。
「み、みことちゃんのすぐ後ろ。女の人…」
その途端みんな悲鳴を上げて家を飛び出していった。その話が広がって、大きくなって、しばらく誰も話しかけてくれなくなった。榊命と一緒にいたら呪われるとか、とりつかれるだとか。家に帰ると毎日泣いていた覚えがある。
人のうわさは七十五日ということで、しばらくしたらみんなすっかり忘れていつも通りに戻ったのだけれど。それでも命には立派なトラウマになってしまったのだった。
確かに神社という場所は、少し気味の悪い場所かもしれない。生まれたときからずっとこの場所にいるから分からないが。神と通じている場所ということは、少なからずその反対とも通じているのだ。世間一般的にいう妖怪とか幽霊だとかいう…。そして代々この土地の神を崇め、邪悪な妖気を抑えるのが榊家の慣わしである。だから一般の人と比べると霊力、霊感が強い。榊家の家系の女は、代々巫女としてその霊力でこの土地を陰ながら守ってきた。最近は神を信じている人なんかほとんどいなくなり、神社に参拝しに来る人さえ少なくなってしまったけれど。
ベッドから体を起こし、壁にかけてある鏡の前に立つ。そして目につけていたコンタクトを取る。ごく普通の高校生が鏡の向こうにいる。瞳の色以外は…。
「赤い瞳…みんなとは違う」
命は歴代の巫女の中でも先祖返りといわれる強い霊力を持って生まれてきたと言われている。その証拠がこの赤い瞳である。
榊家の先祖の巫女で一番力が強かった者の名前は『ミコトの巫女』。長い艶やかな黒髪に赤い瞳をしていたといわれている。そしてその傍で彼女を支えていたのが狛犬。世間一般的にそれは犬だと思われているが、実際は狛犬と言う名の守り役、人間である。光の狛と影の狛、二人でひとつでミコトの巫女を守っていた。そう、ある事件が起こるまでは…。
これは古くから家で語り継がれているので本当かどうかは怪しいのだけれど。しかし命の親はその伝説を信じ、ミコトの巫女と同様に赤い瞳を持つ私に同じ名前、命と名をつけたのだ。
「でも、まあ、私の瞳の色がこれなんだから、信じるしかないんだろうけど…」
何度この瞳を呪ったことだろう。何度この家系に生まれてしまったことを恨んだことだろう。普通の子として生活できないのだ、この瞳がある限り。
正直学校の勉強をいくらしたところで、将来は決まっているわけだ。この山奥の神社で、誰にも知られることなく裏ではこの地の平和のために尽くすのだ。一生。学校で学んだ勉強が使われるような場ではない。
週に一度正装をし、山の上のあの世とつながっている場所へ、扉が開かないように力を送る。伝説上、そこにはミコトの巫女がある者を封印した場所と言われているのだけれど。
だからと言っては何なんだが、学校の勉強に対してのやる気と言うものが、命は全く起こらなかった。少なくとも高校卒業できる程度には勉強しなければいけないけれど。
「どうせ夏休みも例年と変わらずに、いつも通りに過ぎていくんだろうなぁ。」
しかし今年の夏はいつもとはだいぶ違うものになるのだった。
陸
窓の外が茜色に染まり始めた。夏の日は長いから、もうすぐ夕飯時か。少し外も涼しくなったようなので、久しぶりに神社のほうへ遊びに行くことにした。遊びに行くといっても別に何もないのだが…。
命の家は神社の敷地内にある。だから本当に一分歩けばすぐ着く場所だ。じゃり、じゃり、と歩くたびに音がする。この音が命は結構好きだった。何だかんだ言っても、神社の雰囲気が好きなのだ。気分が落ち着く。
カランカラン…
鈴を鳴らす音が聞こえる。珍しく、誰かが参拝に来ているようだ。そっとそちらの方に回ってみる。紺色の着物を着た若い男がそこには立っていた。
「藤…家?」
ビクッと肩がゆれ、静かに顔だけこちらに向けてきた。少々驚いているようだ。強い風が二人を包んだ。境内に植えられている大きなケヤキの木がザワザワと揺れる。
「…榊。お前、どうしてここに?」
「だって、ここ…あ、いや、私、ここ落ち着くから好きでよく来るから。」
しまった。ついつい「ここ、私の家だから」なんていいそうになってしまった。口が滑らす所だった。
「あ…そ。」
藤家は興味なさそうにそう言って、階段に腰を下ろした。命はちょどその前に立っている状態で、その微妙な距離感と身長差が気まずい。
「あの…」
「………」
「えと、隣、座っていい?」
藤家は無言で少し身体を横にずらした。これは、座っていいっていう事だろうか。
別にだめとか言われてないし。ていうか、ここうちの敷地だし。
頭の中でぶつぶつと言い訳を言いながら、命は少しだけ距離を離して、藤家の隣に腰掛けた。
「………」
「………」
会話が、ない。
沈黙ってこんなに痛いものなのか。やっぱり、先ほどの補習での一件のせいかな。やっぱり、謝った方がいいんだろうか。
「藤家、あの、さ」
命が口を開くと、藤家は少し顔を動かし、切れ長の目でじっと見つめてくる。そんなに見られると、かえって言いずらいというか、何ていうか。言葉が後に続かず、口だけがパクパク開閉するまぬけな様子となる。
「あ、ふ、藤家。今日は着物なんだね!」
ち、ちがーう!
そうじゃない。言いたいのはそれじゃない。確かに少し気になってはいたけど、いやに和服が似合いすぎているけど。決して今はそういう事を聞きたかったわけではなく…。自分のあまりのヘタレ加減にほとほと呆れてしまう。
「ああ。今日は稽古だったから」
「稽古?」
「そう、家の」
良かった。せめて答えてくれて。そういえば、藤家の実家が日舞をしているって風の噂で聞いたことがあるような。
日舞って関わり全くないし、どんなものなのかさっぱりだけど。あれでしょう?扇もってこう、舞う感じの。うん、イメージついた。和風美人な藤家にはピッタリだな。うん、うん、と命は一人で納得していた。
「今日稽古入ってるの忘れてて、だから急いでて」
「え?」
「…だから、別に怒って帰ったとかじゃないから」
藤家は少し顔を俯かせた。
「あんた、ずっと気にしてただろ。悪かったな」
ぶっけらぼうに藤家は言ったが、そこからは気遣いが見て取れた。この人、素直じゃないだけで、優しい人なんだ。
「藤家…」
「いや、でもちょっとはむかついた」
「え!ごめん!私もあの後自分で反省した。もう何か無遠慮にドカドカ入り込んで、教えてもらっている身でありながら。今日会ったばかりの訳分かんない奴にあんなこと言われたら、私だったらぶん殴りたくなるかもだし…」
そう早口で焦ったようにまくしたてる命の様子を藤家はきょとん、と眺めていたが、すぐにフッと笑った。二人の間の緊張も解けた。
「いや、ちょっと戸惑ったんだ。榊の言っていたこと、当たってたから…」
藤家は立ち上がり命に背を向けた。着物の袖が風で少しなびく。
「今まで人が近くにいるのって嫌だった。自分に干渉されたくなかった」
藤家は夕日をしばらく見つめていた。命はその後姿を見つめていた。
なんだかすごく儚くて、今にも姿が消えてしまいそうに見えたのだ。
「藤家、私…」
「でも、」
藤家は命の方へ再び向き直った。なんだか少しスッキリしたような表情をして。
「でも、榊は嫌じゃない。何だろう。落ち着くんだ」
「私も、何だか今日はじめて会ったような気がしないよ。」
「ふ…、何かへたなナンパみたいだな」
「あはは、確かに」
「今日は、久しぶりに普通に人と話したから。自分の感情についていけなかった。今まで、こんなに感情が動いたりすることはなかったから…。でも、これが普通。少し普通を怠っていたかな」
そう言って笑う藤家は、少し寂しそうに見えた。
「こんなに、話すのも久しぶりだから、自分でも何を言ってんのかよく分からないんだけど…」
すると藤家は何を思ったのか、ちょっと待ってて、と命を置いてどこかへ行ってしまった。
「びっ…………くりしたー」
まさか藤家があんなに喋ってくれるとは思わなかった。しかも、すごく考えながら一生懸命話してくれたのだ。しかし、藤家が話しているのを聞いていて、何か暗い闇のようなものを命は感じた。心の深いところに。
「榊」
しばらくして、藤家が少し小走りで帰ってきた。下駄の音が心地よく響く。
手には何か花が握られている。
「藤家、急にどうしたの?」
すると藤家は無言で花を差し出した。
「桔梗の花?」
「そう。それこの神社の裏に咲いてる」
へー、そうなんだ…。自分の家なのに全く知らなかった私って…。
「俺の一番好きな花なんだ」
「桔梗が?」
「ああ、それに俺が生まれた日…八月二十八日の誕生花が桔梗で、俺のもう一つの名前。」
「もう一つの名前?」
「うん。家の仕事の外での呼び名。小さい頃からそっちの方ばっかり呼ばれている」
桔梗の花に目線を落とす。薄紫色の可愛らしい花は、どこか凛としているような感じもして…。
「桔梗の花…藤家にピッタリだね」
そう言うと藤家は少しだけはにかんだ。その表情は可愛らしく、やっぱり桔梗の花に似ているな、と思ってしまった。
「確か花言葉は気品、誠実、従順、清楚…。」
「なに?そんな事まで知ってんの?」
「うん、うちの父親何故かちょっと見かけによらずに乙女チックな趣味も持ってて、家に花言葉の本があるんだよね。でも、うーん…何だかもう一個ぐらいあったと思ったんだけど…なんだったっけ…。」
「いや、それは思い出さなくていいよ…」
「藤家何か知ってんの?ねえ、何だったっけ?」
だんまりである。しょうがない、まあいいか。
「でもさ、いいよね、桔梗の花って。」
命は桔梗の花を夕日に照らしながら言った。夕日に当たって輝く部分と影の部分のコントラストがきれいだった。
「私、好きだな、桔梗。」
「は!?」
藤家はビックリしたように突然大きな声を出した。そんな声を出されたらこっちだってビックリしてしまう。
「え、藤家?どうしたの?顔赤いけど」
見ると藤家の頬は夕日みたいに真っ赤に染まっている。うろたえている藤家は、何だか藤家らしくなく、不思議な感じがした。
それにしても、一体何に対して赤く…
そこでやっと命も先ほどの発言の意味に思い至った。徐々に顔が赤くなる。桔梗が藤家のもう一つの名前だとさっき話されたばかりなのに、自分の記憶力の無さに情けなくなってくる。
「あ、あの!藤家…あの」
「大丈夫。分かってる。あんたのことだからすぐ忘れて言ったんだろうなって。」
「あああ…ごめん…。」
「さっきまで稽古で桔梗って呼ばれてたからこっちも反応しちゃったんだよ。別に謝ることじゃない。」
二人共顔をほんのり赤くしたまま黙り込んでしまった。先程までとはまた違う気まずさだ。藤家は軽く咳払いをすると立ち上がった。
「じゃ、俺もう行くから。」
「そっか。じゃあ、明日ね。また勉強教えてね。」
「嫌だよ。あんた物覚え悪いし。」
「え…。」
「嘘だよ。気が向いたらな。」
そう言うと藤家は、じゃり、じゃり、と足音を立てて石段を下りていった。その後姿を命は見送っていた。
『じゃあな、ミコト』
あれ?
一瞬誰かの姿が藤家の姿と重なったが、すぐに消えてしまった。何だったのだろうか?何だか知っているような気がするのだけれど…。
しかしその時はそんなに気にも留めなかった。今思えば、それは事が起こる前兆だったのかもしれない。もうそれは運命によって決められていたのかもしれない。
運命が変わる事件まであと1週間
漆
榊命は現在もの凄く感動していた。思わず手元が震えてしまうくらいに…。
「どうしよう…」
「榊?」
隣で藤家が不審に思っている。だが、それもどうでもいい。
「分かる!分かるぞ問題が!」
藤家に教えてもらいはじめてから4日目の木曜日。何と教えてもらう前に問題を見て、解き方が浮かんできたのだ。
「まあ、俺の教え方がいいからね。」
「その通りでございます!藤家先生!」
そうなのだ、藤家は本業が教師である蓮見よりも教え方が分かりやすい。もうびっくりしてしまうくらいに、飲み込みの悪い命でもどんどん吸収してしまう。
「榊は、別に頭が悪いわけじゃないんだよ。だけど、全くもって理解しようとする気がなかっただけ。」
「そんな事…。」
「だって、本当に初日とかまだ考えていないうちから『もう無理』とか『絶対分かんない』とか言ってたじゃん。」
「ぐ…」
反論できなかった。確かに授業中ももう諦めてノートの端っこにお絵かきしたりしていた。しかしよく私の事をこの短期間で分かっていらっしゃるな、と命は感心してしまった。
「藤家、よく私の事分かるね。」
「ああ、俺榊マニアだからね。」
「え?」
「聞き返すなよ。冗談言ってみただけだ。」
「藤家が冗談言えるようになるなんて、藤家も私から日々学んでいるんだね。」
「下らないこと言うなら今すぐ帰るぞ。」
その言葉に命も慌てて問題に向かい直した。この3日間毎日ビリな命だったが、この調子でいくともしかしたら今日こそはビリにならないかもしれない。
「藤家、私今日こそビリにならないように頑張るよ!」
「うん、本当にそうして。」
藤家はニッコリ笑うが、何だか無言の圧力がかけられているような気がした。そりゃそうだろう、毎回1番に課題を終わらせているのにもかかわらず、最後まで残っていなくてはならなかったのだから。
教えてくれている藤家のためにも、そして蓮見に早くお昼休み取らせてあげるためにも、頭をフル回転させて、数字の羅列に向かうのだった。
「お、終わった……。」
「おめでとう榊、祝脱ビリ。」
パチパチと無表情で拍手する藤家。だが数日間共に過ごしてきた命には、かすかに口元が緩んでいるのが分かった。一応一緒に喜んでくれているようでよかった。
「蓮見!」
「お?」
命は軽くスキップ状態で蓮見の元へ行った。この手に持っているプリントの束が、何だか伝説の巻物のようにとても大切なもののように思える。まあ、それは言い過ぎかもしれないが、私の心は満足感でいっぱいなのだ。
「何だ?質問か?」
「終わったんですよ!プリント!」
すると、蓮見は目を大きく見開いて、なぜか急いで教卓の下にもぐりこんだ。
「あの…蓮見?何してんの?」
「榊がビリじゃないなんて、天変地異の前ぶりだ。きっと大地震が来るに決まっている。」
命はその様子を見て呆れて笑ってしまった。そんなに私はダメダメな子として認識されているのか。確かにそうだったが…。
「藤家効果ですよ!」
「む!そうか、藤家のおかげというなら信用できるな!」
蓮見はノソノソと教卓の下から出てきた。よくもまあ、そのでかい体が教卓の下に入ったものだ。
「採点お願いします。」
「おお。」
蓮見は胸ポケットから赤ペンを取り出して丸付けをし始めた。多少ケアレスミスはあるが、大半は丸であった。 その結果に満足げに蓮見はにっと笑うと、片付けを始めていた藤家を手招きした。
「何です?」
「お前ら、ちょっと来い。」
小声で蓮見は二人を呼んで、教卓の影に座らせた。その狭いスペースで三人で円のように並ばされる。
「蓮見、狭いんですけど。」
「まあまあ、これを見ろ。」
蓮見がそう言ってポケットから取り出したものは…
「甘天屋のパフェ割引券!?」
「しっ!大きな声出すな。他のやつらに気づかれるだろう。」
思わず大きな声を出してしまった命は、蓮見の大きな手によって口をふさがれた。
鼻、鼻のほうまで来てます!息が…!
「甘天堂?」
「そうだ、今若い子に人気の甘味屋らしい。実は期限が今日までなんだ。俺は貰ったはいいが甘いものは苦手でな。二人で行って来い。」
蓮見は命の口元から手を離し、その券を握らせた。少し先ほどまでは苦しかったが、でもそんなことはどうでもいい。だって、今手元には甘天堂のパフェ割引券があるのだから!
「榊もがんばったし、藤家は良くこいつの面倒見てくれていたからな。ささやかな俺からのご褒美だ。もらっとけ。」
「蓮見…いいの?」
「おお、だからこの調子で勉強がんばってくれよ。そして冬休みは補修を取るな。」
命はガシッと蓮見の手をつかみ、うんうん、とうなずいた。
ありがとう、蓮見!脱補習の保障はできないけどさ!
命は藤家とこの素晴らしい蓮見からのご褒美と一緒に教室を後にした。
捌
暑い、暑すぎる…。ここは本当に日本なのかと疑いたくなる暑さだ。視界が熱で歪んでいる。
「ああ…蜃気楼が見える…。」
「榊、ここは砂漠じゃないから。」
「うう…。」
横目で藤家のことをチラリと見ると、涼しい顔で歩いている。何だか藤家を取り巻く空気だけ、万年適温みたいだ。
「藤家、暑くないの?」
「え?暑いよ…すごく。」
全くそうは見えないんですけど。この男、汗ひとつかいていない。
「本当に?そうは全く見えないんですけど…。」
「本当だよ、本当…ねえ、その甘天堂とやらはまだなの?」
「いや、たぶんもうすぐだと思う。私は行った事ないんだけどさ、多分道あってんだと思う。」
「本当に?ちょっとこの暑い中道に迷うとか本気で嫌だからね…。」
そう言われると、何だか非常に不安になってきた。もう一度券の裏側に書いてある地図を見る。
「あっ…。」
「何、榊?」
「道一本間違えてた。」
「……それ貸して、俺がその地図見るから。」
藤家の真後ろを歩いて、少しでも日陰で涼しい思いをしようとしながら歩く。しばらくすると藤家がピタリと足を止めた。
「藤家?」
「榊、ちょっとそこに座ってて。」
「え?」
藤家は路地裏の小さなベンチを指差していた。
「で、そこ座ってちょっとだけ待ってて。」
そう言って藤家は走ってどこかへ行ってしまった。何だろうか、と思いながらもとりあえず藤家の言ったとおりにベンチに座って休むことにする。本当にへばっていたらしい、体がぐったりしてきた。
「ああ、帰宅部だから体力ないんだよな…。」
はあ、とため息をつきながら突っ伏す。
「ひゃっ!」
突然首の後ろに何か冷たいものが当たった。
「な、何!?」
驚いて顔を上げると、そこにはラムネを持った藤家がいた。
「はい、取りあえずコレ飲んで休んでから行こう。」
「あ、ありがとう。」
藤家から差し出されるラムネを受け取る。冷たくて気持ちいい。
「あの、お金…。」
「いいよ、別に。そのくらい。俺もちょっとばてて、のどかわいてたし。」
藤家は前髪をかきあげ、命の隣に腰掛けた。のどを勢いよく鳴らしながらラムネを飲む。
「いただきます。」
命もありがたくラムネに口をつけた。冷たいラムネがのどを通っていくのを感じる。この感覚は夏にでしか味わうことのできないものだろう。
「生き返った?」
そう言って命に微笑みかけてくる藤家は何だかキラキラしていて、少しだけドキッとしてしまった。
「藤家ってさ…」
「何?」
首を少しかしげる藤家。若干上目遣いのように見えるのは暑くてやられた脳の錯覚なんだろうか。というか藤家、分かっていてやっているんだろうか?女嫌いな人が特別にやさしくしてくれたりすると、こちとら少し勘違いをしてしまいそうになるのだが…。
「ううん、何でもない。」
「ふーん…。」
そんなこと藤家に言ったらまた不機嫌がられるかも知れないのでやめておいた。それに、出会ってまだたったの3日しか経っていないのにありえないだろう。
「榊、ごめんね。榊が地図読めないバカだって知ってたら、最初から俺がやってたのに…、悪かったね。」
「………嫌味かい。」
やっぱりそんなのあるわけがないよね。熱にやられた自分のうぬぼれ具合に命は苦笑してまたラムネに口をつけた。
玖
「やっと着いた…。」
少し古風な店構えの『甘天堂』。この券を他にも持っている人がいるからだろう。店は結構混んでいた。
「何名様ですか?」
「あ、二名です。」
しかし、分かりやすいな、この周りの態度は。
女性が多い『甘天堂』に男性が来るのは珍しい、さらにしかもそれが美形なのだ。
当然周りの視線はみんな藤家に向いている。熱のこもった視線が。店内には言った瞬間藤家の機嫌が急降下していくのを肌に感じた。更には頭上から舌打ちも降ってくる。眉間のしわがこれでもかというくらいに寄せられているんだが、そんな表情をしても美しく見えてしまうのだからどうしようもない。
「あの、何か、ごめんね。すごい居心地悪いでしょう?女のお客さんばっかりだもんね。」
「…いいよ、別に。俺も甘いもの結構好きだし。それに…」
すると藤家は前髪を思いっきり顔の前にたらした。突然の奇行に少々びびってしまう。
「あの、藤家さん?何を…」
「こうして顔隠してたら、見てこない…」
確かに顔は隠れているけど、かえって注目を集めると思うのだが。本人がそれで気が収まるなら突っ込まないでおく。
「藤家、どのパフェにする?」
「いちご」
即答する藤家。しかもセレクトがいちご。なんとも可愛らしく、ついついプッと笑ってしまった。
「何?」
「いや、別に…じゃあ、私チョコにしよっと。」
「ああ、一番カロリーの高そうなやつ…」
「そういう食べる気がなくなるようなこと言わないでくれるかな。」
注文してあまり時間がかからないうちにパフェは届いた。
「わっ、おいしそう。」
さすが、パフェで有名な『甘天堂』である。他のところのパフェとは一味違う。何だか甘いというだけでなく、上品な感じがするのだ。
藤家を見ると、目を輝かせて、うれしそうにパフェに手を伸ばしている。これはは相当の甘党だとお見受けする。学校の皆さんは、クールな藤家がこんな表情をしているところなんて見たことがないんだろうな。命は少し優越感を覚えた。
「榊、食べないの?」
「ううん、食べるよ!」」
一口、口に含む。するとほろ苦い甘さが口いっぱいに広がった。思わず、顔がにやける。ああ、このアイスと生クリームとチョコレートの黄金比。最高です!この世にパフェを生み出してくれた人ありがとう!顔をにやつかせながら味わっている命を藤家は鼻で笑った。
「な、何よ!」
「いや、幸せそうに食べるな、と思って。」
目を細めて笑う藤家。前髪を下ろして普通ならダサく見えるはずなのに、どうしてこんなに絵になるのだろうか。前髪ごときでは、その美しさは衰えないってことか?女として全て負けているような気がする。
「あっ」
「何?」
「クリームついてる…」
「え!どこどこ!?」
うわ…恥ずかしいな…。手でくちびる付近をこすってみる。すると藤家はくすりと微笑んだ。
「ここ…」
そうやって藤家は手を伸ばして指先でくちびるの左端についていたクリームをスッと取った。そのとき指がかすかにくちびるをかすめる。そしてそのクリームをあたかも当然のように、自然な動作でなめてしまったのだ。流れる一連の作業に呆然としていたが、されたことを理解した瞬間顔に一気に熱が集まった。せっかく冷房とパフェで涼んだと思っていたのに。
「……ん、甘い。」
「あ、あ、甘いじゃなくて、あんた…。」
「ん?」
あわあわしている命に藤家は首をかしげた。これは、天然なのか?天然でタラシなのだろうか?だとしても。
「天然でなんでも許されると思うなよ!」
行き場のない恥ずかしさを足を蹴ることでごまかした。
「いたっ…何?急に。」
「何、急にはこっちのセリフよ!」
「は?」
「あんた、今何をして…」
「クリーム舐めただけでしょう。」
「どうして舐めるの!」
「だって、他にどうすればいいんだよ。」
「あるでしょうが!たくさん!こう別に位置を教えるだけでもいいしさ、布きんを使うであるとかさ…」
「ああ。」
「ああって納得しないでよ。」
「ま、チョコもちょっと食べてみたかったし。」
「そうならそう言ってくれれば…じゃなくて!」
命はあがった息を整えた。だめだ、動悸が…。とりあえず水をグッと飲み干す。
「お、女の子にそんなことしたら、勘違いするでしょう?」
すると藤家はテーブルにひじをついた。命が何を言ってるのか、全く分かっていないご様子だ。
「別に、榊にしかこんなことしないし…。」
「は…?」
呆然と固まる命をよそに、一緒に頼んだコーヒーを優雅に藤家はすすっている。
「いや、ねえ、その言い方じゃあ、私が特別みたいに聞こえてきちゃうから、もうちょっと言い回しを…」
「え?だって、そうだよ。」
「………え?は?」
「だって、女で仲がいいって榊ぐらいだし。」
その藤家の言葉を聞いて、納得がいった。ああ、そう。それと同時に少しほっとした。
しかし、まあ、よくもそんなに誤解が生じるような言い方にいちいち変換できるものである。一種の才能だろう。藤家と会話していたら、何だか寿命がどんどん減っていくような気がする。本人、これで女嫌いというのが不思議である。
「藤家、私以外の女の子と話さないの?」
すると藤家の眉が思いっきり寄った。
「女?勝手に話しかけてきて、ベタベタ触ってきて、写真パチパチ取ってきて…なんか、話する前に見るのも嫌だ…。」
「そんなに女が嫌なら男子校行けばよかったのに。」
「……それもそれで嫌だ。なんだか崇めてくる。」
男からも崇められるんだ…。確かにそんなに綺麗だったら男子校でも危ないかもね。
「藤家、本当に女嫌いなんだね。」
「女嫌いって言うか…苦手?いや、やっぱり嫌い?」
「私に聞かれても困るけど。」
…て、待てよ?藤家は今私と話してるんだよね?私一応女なんだけど。
「じゃあさ、私は良いわけ?女なんだけど…」
「うーん…榊は何か違う。何ていうか、女らしくないというか?」
「何、けなしてんの?」
「いや、いい意味で。」
いい意味で女なのに女らしくないって言うのはあるのか?
「とりあえず、榊は不思議と大丈夫。最初は正直面倒でうざかったけど、不思議と他の人よりかは嫌悪感はなかったし。」
そうか、やっぱり最初うざがってたんだ…
「俺、榊のことは信頼できるよ。」
藤家はニコリと微笑んでくる。前髪があって幸いだ。直接受けていたら死にそうだから。
それにしても、出会って間もない人にそんなに信頼を寄せるなんて、私は少し藤家が悪い人にだまされなければ良いけど、なんて心配してしまった。
だけど、券のおかげで藤家ともさらに仲良くなれ、おいしいパフェも安く食べられたので、蓮見には本当に感謝の一日だった。
それでも、刻一刻と魔の手は忍び寄る。
事件発生まであと4日
拾
「蓮見。」
補修が終わって、みんなが教室を出たのを見計らって、命は蓮見に教室のドアのところで声をかけた。
「何だ、お前、まだ帰ってなかったのか?」
「うん、昨日のことで蓮見にお礼を言おうと思ってね。」
すると蓮見は少し照れたように笑った。こういう表情をすると、本当に大学生くらいに見える。実際今二十五歳だから大学を出てそんなにまだ経っていないのだが。
「うまかったか?」
「うん、ものすっごく!」
「そうか、俺にはアレのよさは分かんねえけど…。藤家も食べたのか?」
「うん、イチゴのやつ。」
「またそれは甘そうな…」
「多分藤家、見かけによらず私よりも相当の甘党だと思うよ。」
「イメージ崩れんな。」
蓮見は苦笑しながらドアにもたれかかった。
「でもね、藤家と仲良くなれたよ。」
「ん?お前らもともと割と仲良くやってたじゃねえか。」
「そうだけど、もっとだよ。」
すると蓮見はこめかみに指を当てた。これは蓮見が不機嫌になったときの癖だ。二年間担任だから、嫌でも覚えてくる。
「蓮見、何不機嫌になってんの。」
「いや、なってないから。」
「なってるよ。」
「どこがだよ?」
自分の癖に気づいてないんだな、この人は。そう思うと笑えてくる。命がクスクス笑っていると、蓮見がにらんできた。
「ああ、怖い怖い。」
「ほら、もう帰れよ。」
「はいはい、じゃあね、蓮見。また来週!」
「ああ、またな。」
まだ少し蓮見は腑に落ちないご様子。にしても、蓮見ってからかいがいがあるって言うか、教師らしくないというか…。でもそれがこの人の人気の理由の一つでもあるのだ。
家に帰って、命は真っ直ぐベッドについた。今日は週に一度の仕事の日。そのために十分睡眠をとって力を蓄えておかなければならない。
「面倒くさいな…。」
命はそう思いながらもゆっくり目を閉じた。そこまで眠くなくても、いつもそのまま意識はゆっくり落ちていく。
次に目を覚ましたとき、辺りはすっかり暗くなっていた。ぼーっと夜空を窓から眺めていると、携帯が鳴った。
「おいっ、命、起きてるか!?」
目覚めて一番に聞く声は馬鹿でかい父親の声だった。非常に目覚めが悪い…。
「起きてますよー。起きてるから電話出たんでしょー。」
「そうか、じゃあ早く清めて着替えろよ。そろそろ時間だぞ。」
「うん、分かった。」
時間を見るとちょうど0時だった。普通に本気で寝てしまった。というか、寝過ぎである。まさか自分でもこんなに寝てしまうとは…。すごく時間を無駄にしてしまった気分である。
「お腹空いた…」
当然だ。夕飯を食べていないのだから。どうせなら、夕飯前に起こしてくれれば良かったのに…。
とりあえず何か胃に入れようと思い、下におりていった。
母の作ったおにぎりを胃に入れて、水浴びをして清めたので、ぱっちり目が覚めてきた。
現在午前1時、仕事開始の時間である。午前2時丑三つ時が、一番霊力が強くなる時間なので、向こうの世界の者たちもこっちの世界に来ようとするのだ。だからその時間に巫女は結界を見張り、強化しなければならない。
昔は母も一緒にこの仕事を行っていたのだが、私がだいぶ力の送りに慣れて、また力もさらに強くなってきたという事で、最近は一人で行うようになった。
髪をひとつに結い、巫女装束を身にまとう。絶対にこの姿は見られたくないな、と思う。単なるコスプレにしか見えない。もちろん、命にそんな趣味はない。これは命の正装なのだ。そして、コンタクトもはずす。このコンタクトは色を隠すためだけではなく、大きすぎる霊力を抑える役割もあるのだ。赤い瞳が現れ、力がドクン、ドクンと全身にめぐっていくのを感じる。
「さあ、行きますか。」
結界が張っている場所は、山の上の方。そちらの方までは、歩いていく。夜道で少し危ないが、ここは田舎なので空気が澄んでいて、月明かりや星の光で十分見える。
足元はごつごつしているが、歩きなれているので目をつぶっても歩けそうだ。まあ、それは言い過ぎだけれど。
しばらく歩くと、目的のものが見えてきた。大きな岩だ。変な文様が彫られている以外は、気にも留めないぐらいの岩。だが、それは柵に囲まれている。
この岩は、初代のミコトの巫女が、ある事件のときに何者かを封印したのだといわれている。しかも、命をかけて封印したのだそうだ。
「あれ?」
何故か結界の力がいつもよりも弱まっているように感じた。いつもこんなに一週間で消耗されないのに。少し不安に思いながらも、とりあえずいつもより少し力を多く送ることにしよう。
目を軽く閉じ、意識を集中させ、石へと力を送っていく。
世間の人が思っているような呪文なんてものはなく、どういったらいいものであろうか。遺伝子として組み込まれているのか知らないが、力を操ることができるのだ。どうして話せるの?と聞かれるようなもんで、命には当たり前のようにできるのだ。さすがにコントロールの練習などは、親に嫌というほどさせられたのだが。
そのとき、カサッと背後で物音がした。誰かに見られたかと思い、ビクッとする。ゆっくりと振り向いた先にいたのは…
「榊!?」
「は、蓮見…」
担任の蓮見陽杜だった。
拾壱
気まずい沈黙が流れる。
月が雲に隠れてしまっていて、あまり良くは見えないが、珍しくスーツをきちんと着ているようだ。いつも下ろしている髪を上げて整えていて、年相応に見える。
それにしても、今は夜中の2時近く。こんな時間にこんな場所でいったい何をやっているというのだろうか。
「蓮見、こんな時間にいったい何を…」
「それはこっちのセリフだ!」
蓮見の大きな声が、静かな夜の森の中に響いた。いつも冗談半分にしか怒らないから、その迫力に心臓の音が大きくなる。しかし夜中だということを思い出したのか、蓮見は声のボリュームを落とした。
「未成年が、こんな時間にこんな人気のない場所にいて、何かに襲われでもしたらどうするんだ…」
蓮見はそうため息混じりに言いながら近づいてきたが、命の格好を見てぎょっとした様に目を見開いた。
「おま、どうしたんだ!?その格好!」
「あっ…これは、ちがっ」
命も自分の今の格好にようやく気がついて顔が熱くなる。女子高生が夜中に山の中で巫女さんコスプレして…もはや、変態にしか見えないだろう。これは、誤解されないためには正直に言うしかないな…。
「蓮見、この下に神社があるのは知っているでしょう?」
「?ああ、そうだな。俺もたまに行くが、どれがどうした?」
「私そこの娘なんです。」
蓮見は口あんぐりになっていた。そうだよな、神社の娘なんて、思わないよな。
「仕事として週一でこのあたりの見回りをしなくちゃいけないんですよ。まあ、こっちの職業も色々大変なんですね。だから、あの、この格好でこの時間にね?おうちのお手伝いです。」
そう言って、我ながら呆れた。嘘は言ってないのだが、どうも嘘っぽいのだ。蓮見は無言のままだ。恐る恐る蓮見の方を見上げると、蓮見の大きな手がガシッと命の頭に置かれた。
「えらいぞ榊!」
「え?」
「正直、お前のことをバカにしていたが…」
「おいっ!」
「見直したぞ、榊!」
ワシャワシャと頭をかき回される。せっかく髪の毛をきちんと結ったのに、グチャグチャにされてはかなわないと思って、抵抗した。しかし蓮見は笑いながらなおも続行する。
「ちょっと、蓮見、やめてったら!」
「何だ何だ、照れてんのか、榊。かわいいやつめ。」
「照れてなんかないっ!」
そう言いながらも、命の顔には熱がたまっていく。この手には弱いのだ。とても安心感があって、気持ちよくてぼーっとしてしまう。そうすると、絶対だらしない顔になるから、やめてほしいのだ。
「は、蓮見はどうしてこんな時間にここにいるの?」
「あ?俺か?」
蓮見はあごに当ててうーん、とうなった。
「まあ、お前にならいいか。」
「何?」
「俺さ、ここらへんの地主の息子なんだよ。」
………初耳だ。ここにずっと住んでいるのに地主の名前を知らないなんて。苗字さえ聞けば気づいていたかもしれないけれど。というよりも、蓮見の家が近所だと言う事も驚きである。
「そ、れは知らなかった…。」
「だろうな。俺も知られたくない事だし。」
「え?何で??」
「だって、考えても見ろよ。金目当てでうざいくらいに寄って来るだろ。」
何が?と聞くほど野暮ではない。確かにその通りだ。その顔目当てでただでさえ女が腐るほど寄って来るのに、更に金がプラスとなれば…他人事ながら、想像しただけで鳥肌が立ってしまった。
「で、それを私に言っていいの?誰かに言うかもよ?」
すると蓮見はにっと口の端を吊り上げた。
「お前のことは信頼しているからな。口が堅い奴だからそんな事言わないだろう。それにもし言ったら、俺もお前の家が神社だと学校中に言いふらすからな。」
「はい、絶対言いません!」
こぶしを握り締めて言うと、蓮見は呆れたように笑った。
「お前、そんなに神社だって知られたくないのか。」
「嫌ですよ、薄気味悪いでしょう?」
「そうか?神聖な感じがしていいじゃないか。」
そんなものだろうか。本当の事を知っても、蓮見はそう思ってくれるのだろうか?命は蓮見の目をじっと見つめた。
「まあ、とりあえずこの事は二人だけの秘密って事で、な?」
その言葉に何だかちょっと恥ずかしくなってしまった。結構、そういう二人だけの秘密、とかには弱いのだ。自分だけに、という特別感がして。まあ、蓮見はそんなに深く考えてないのかもしれないけど。初めて蓮見相手に少しドキドキしてしまった。
「そ、それじゃあ、またね、蓮見先生!」
命はその時、雲に覆われていた月が姿を現し、淡く私たちを照らしていたことに気がつかなかった。そして、仕事が中途半端に終わってしまっていたことも忘れていた。
この小さなミスが、全てを招いていくことになる。少しずつ、歯車は回り始めたのだ。
拾弐
「はあ……。」
電車に揺られながら命は深いため息をついていた。本日土曜日、補習はない日だ。では何故学校に向かっているかというと、蓮見に昨日の夜の事について話があるからだ。
昨日の夜。
蓮見と別れて家に帰ってから、命はある重大な事に気がついた。そのままの赤い瞳の方が力が出ることから、仕事の時にはコンタクトははずしていたのだ。当然あの時、蓮見は本当の目を見ていたはずだ。そして気づいただろう、赤い瞳の事を。
確かにあの時辺りは薄暗かった。運が良ければあの人は気づかなかったかもしれない。そう前向きに考えようともした。だが…
「蓮見に限ってありえないよな…。」
そう、彼、蓮見陽杜は異常に目がいいのだ。以上に。あれは暗闇でも何の支障もなく生活できるだろう。
よく考えれば不思議な男だ。
授業中に蓮見が後ろを向いて黒板を書いている隙に、ある男子生徒が机の中に隠していた携帯でメールをしても、彼は後ろを振り向かずにそれが誰なのかを的確に注意できる。
というわけで、昨夜のことは完璧に見えていたわけで…
「はあ、やらかした…。」
蓮見に限って誰かに言うなんて事はないとは信じているが、だが一応話しておかなければならない。
また蓮見との秘密が増えてしまった。それは面倒なことであるはずなのに、なぜか頬が緩み、顔がにやけてきてしまう。それに何かこう、胸の奥がざわざわとして何だか変な感じだ。こんな感じは初めてだ。
学校に着いて命は、まっすぐ職員室に向かった。
「失礼します…」
そろりと職員室の扉を開けると、中にいた先生たちが一斉に振り返った。それは面白いくらいに…
「どうした榊!?今日は土曜だぞ。」
学年主任の体育の片岡先生が言った。そんなに意外なのだろうか。
「あの、蓮見…先生はいますか?」
「蓮見先生?」
キョロキョロ職員室を見渡す片岡先生。
「ううん…ここにはいないな。」
「そうですか…」
じゃあ、どこにいるんだろうか。
「あっ、でも今ちょうど昼だからいつもの所だな。」
「いつもの所…?」
「屋上だよ。休日の昼は大抵そこで食べてるからな。」
片岡先生にお礼を言うと、急いで職員室を後にした。屋上は5階にある。今まで気になってはいたが、あそこにはちょっと悪いお方たちがたむろしてらっしゃるので、行ったことがないのだ。一段飛ばしで階段を上っていたが、日頃の運動不足が災いしてか、3階の時点で力尽きてしまった。
「はあ、はあ…」
息切れがして、足も重く感じて上がらず、手すりに掴まりながら上っていく。勉強もできない上に、運動もできないなんて、何て救いようのないやつなんだ、私…。情けなくて涙が出てきそうだ。
やっと5階に着き、重い扉を開けると、ビュッと気持ちのよい爽やかな風が吹き抜けてきた。目の前に雲ひとつない綺麗な青空が広がる。目的の人物は、扉のすぐ横にいらっしゃった。
「うわ…ビックリした。榊、どうした!?」
「はあ、蓮…見」
目的地に無事たどり着けた安堵感で、ズルズルと体が落ちていき、蓮見の横にへたりこんでしまった。
「お前、何でそんなに疲れてるんだよ…ここまで階段で上がってきただけだろ?」
「はあ、かよわい…んです…。」
「おいおい、かよわいって言うか…本当、若いのに今からそんなんでどうするんだ?」
「はあ、はあ…うう…」
「本当に死にそうだな。ほら、これ飲め。」
そう言って蓮見は持っていたペットボトルのお茶を渡してきた。ありがとう、と言ってペットボトルのキャップを開けて口をつけようとしたが、はたと気がついた。
これって、蓮見も飲んでいるんだから、その…もしかして…
ペットボトルを持ったまま真っ赤になり、命は硬直していた。そんなうろたえている姿を見て蓮見はふっと笑った。
「それ、口つけてないから。俺、マイコップでペットボトルも飲む派だから。」
そう言ってシンプルなコップを私に見せてきた。というか、そんな派あるんだ…。そう思いながらも少しホッとしながらペットボトルに口をつけた。その様子を蓮見はすぐ横でじっと見ていて、いきなりぼそっと呟いた。
「お前、かわいいな。」
ブッッッ
盛大にお茶を噴き出してしまった。吹き出させた犯人は汚いな、とか言いながら笑っている。命は更に顔を真っ赤にしながら、唇を手でぬぐってバッと蓮見の方を向いた。
「な、なななな何なの、急に。」
「どもってるぞ。」
「うるさい!」
「ほら、もう飲まないなら返せ。」
蓮見は手を伸ばすと、私の手元にあったペットボトルを掴み、そのまま口を付けた。
「ペットボトルのまま飲まないんじゃなかったの!?」
「ん?コップ派だとは言ったが、別にそのまま飲まないわけじゃねえよ。」
蓮見はのどを鳴らしてお茶を飲みながら流し目でこちらを見てきた。そして目を細めて笑う。
悔しい…完全に反応を見て遊ばれている。どうせ蓮見から見たらお子ちゃまだろうけど、年の差を何だかすごく見せ付けられたような気がした。
「で?」
「え?」
呆けたように命が言うと、蓮見は呆れたような口調で言った。
「補習もないのにわざわざ学校に来て、俺に何か話があるんじゃないのか?」
「あっ…。」
そうだった。すっかり忘れていた。何のために、頑張って階段を上ってきたんだ、私…。
命は蓮見に向かって正座をした。
「な、何だ…。」
「あの!昨日…見ましたよね?」
「あ?」
「だから!えっと、私の…」
すると蓮見は手のひらをこちらに向けて言葉を止めた。
「なあ、榊。もうひとつ俺の秘密、教えてやろうか?」
「え?」
蓮見はちょっと待ってろ、と言って、少し後ろを向いた。そしてすぐにくるり、とこちらを見た。
「あ…」
「俺の目、何色に見える?」
先ほどまで真っ黒だった蓮見の瞳の色はもうそこには無く、代わりにそこにあるのは今日の青空のように澄んだ綺麗な青いビー玉のような瞳だった。
「蓮見って…ハーフかなんかだっけ?」
「いや、普通に代々日本人。俺だけだよ、こんなんなのは。」
そう言いながら目を伏せる蓮見はひどく悲しげで、この人のこんな顔は今まで見たことが無かった。
「これで、どんな事が起こるかは、まあ、想像つくだろう?だから隠してるんだよ。お前と一緒だな。」
「蓮見…」
何でそんな人に絶対知られたくないような話を、一生徒である私なんかにしてくれるのだろうか。どうしてそんなに信頼してくれるのだろうか。気持ちがこみ上げてきて、胸がひどく熱くなった。
「蓮見、ありがとう。じゃあ、私の話も聞いてもらっていい?」
蓮見はうなずきはしなかったが、黙って私の目を見つめた。
「今まで、誰にも話したことが無くて、というより話せなくて、だから、うまく言えるか分からないんだけど。」
「うん。」
「信じられないかもしれないけど。」
「いや、信じるよ。」
そう言って笑う蓮見の顔を見ていると、何だか、本当にこの人なら分かってくれるような気がした。
「ありがとう。」
命はぽつり、ぽつりと話し始めた。家のこと、伝説のこと、そして私の力のこと。
蓮見ははじめ、やはり信じられないような顔をしたが、何か思い当たる節があったのか、はっとしたような顔をした。
命が言い終わった後、蓮見は柔らかく微笑み、いつものように頭を撫でた。
「話してくれてありがとな。」
普通なら信じられないような話なのに、どうやら受け止めてくれたらしい。たった一人理解してくれる人ができただけで、こんなにも世界は変わるものなのだろうか。心は軽く、世界が明るいものに見えた。
拾参
また月曜日がやってきた。
悠々自適に過ごしていた休日はまるで一瞬だったかのように終わり、補習の日がまた来てしまった。とはいっても、以前ほど補習は苦にならないのだけれど。しかし、そんなのんきに考えている場合ではない。現在、手元の目覚まし時計は恐ろしい時刻を指していた。
「9時…ジャスト?」
あーあ、ちょうど補習が始まる時刻だ。終わった。頑張ろうと思った矢先がこれである。
「まあ、行かないわけにはいかないけれど…。」
おかしいな、何で目覚まし時計鳴らなかったんだろうか?ため息をつきながら準備をのろのろと進める。どうせ遅刻するなら、別に急ぐ必要は無いかな、などと考えてしまうダメ人間である。
鏡の前に向かって、いつのもようにコンタクトをつけようと思ったとき、ギクリとした。自分の赤い瞳が、確かに赤い瞳なのだけれど、ぜんぜん違う人のもののように見えたのだ。そんな不思議な感覚も気のせいかと思うくらいのほんの一瞬で、すぐにいつも通りの自分が見えた。それがこれから起こることを暗示していたのかもしれないが、そのときは深く考えなかった。
学校に行くために電車に乗り込むと、見たことのある人が座って寝ていた。腹が立つほど艶やかな緑の黒髪が、白い首筋に流れている。藤家だ。改めて思うが、どうしてこの人は男なのだろうか。まあ、女でも色々と面倒だから問題はあるが。こいつも遅刻なのだろうか。にやり、と笑って藤家の隣に腰掛ける。
「藤家。」
ぽんぽん、と肩を叩く。だが、全く反応は無い。
「藤家。」
軽く揺すってみるが、やはり反応は無い。
「藤家!」
バシバシと体を叩いてみるがそれでも反応はない。死んでいるのだろうか。だんだん命もむきになってきた。ほっぺたをぎゅっとつねる。ひじでつつく。それでも無反応なので、イライラしてきて耳元で叫んでやった。
「ちょっと!藤家!!!」
周りの人が一斉にこちらを見る。
しまった…。つい意地になって公共の場で大声で叫んでしまった。周囲の目が痛い。しかし、さすがの藤家も気づいたのか、うっすらと目を開けて不機嫌さ全開でこちらを見た。
「ちっ…うるさい…って、榊?」
「舌打ちしたね。このままだとずっと寝てるままだろうと思って、親切心で起こしてあげたのに。」
「そう…ありがとう。」
まだ寝ぼけているだろう、藤家はぼーっとしつつもふにゃりと笑った。可愛いじゃないか。何だかひどく負けた気がする。この人、何をやっても色気が出ているんだよ。
「藤家さ、痴漢にあったりしてない?大丈夫?」
「はあ?何急に?」
藤家はさも馬鹿にしたように命を見た。
「いや、藤家何か色気があると言いますか、美人と言いますか…。」
「褒めてんの?でも、さすがに狙われないから。」
本当だろうか。説得力は無い。だって…。
命はちらりと前に座っている中年男の顔を見た。鼻の下が伸びていて嫌な目で舐めるようにこちらを見ている。しかもその視線の先は命ではなく、藤家だ。さすがにこれは同情する。
「ていうか、藤家も遅刻なんだね。」
「遅刻…?」
藤家は首を傾げた。そして携帯で時間を見ると軽く目が見開かれた。
「何で9時過ぎてんの?」
「いや、私に聞かれても。それが真実だから。」
「俺、8時20分くらいにこの電車乗ったんだけど。」
藤家よ、それはあなたが1時間近く爆睡していたという事だよ。電車往復し終わったんだね。多分駅員さんは親切に起こしてくれたはずだよ。だけどさっきみたいに君は起きなかったんだね。
「まあ、遅刻は遅刻だし。」
「あんたもでしょ。何でそんなに笑顔で言うの?」
赤信号、みんなで渡れば怖くない、だ。遅刻仲間ができたことで、命の憂鬱も軽減した。
「でも藤家、私が起こさなかったらいつまで寝てたんだろうね。」
「さあ…ずっと寝てたなんて恥ずかしいな。」
真顔で言われても、全くそんな風には見えませんけど…。この人本当に表情変わらないなあ。
「すみません、遅れました…」
ソロリと後ろのドアから入っていく。命の後ろを藤家が無表情でついてくる。
「榊…藤家も朝から一緒か。」
蓮見が眉をしかめながら、意味深に言ってくる。すると黙っていた藤家が口を開けた。
「朝帰り…」
「わああああ!」
蓮見がぎょっとした顔で本当か、と命の顔を見てくる。
「嘘に決まってるでしょ!電車で会ったんです!私は家で寝坊、こいつは電車で寝坊!」
「そうか、そうだよな。」
蓮見はほっとしたように息を撫で下ろした。しかし、やめてくれよ、藤家。そういう冗談は蓮見に誤解を招くだけじゃなくて、ここにいる女の子たちを敵にまわす恐れがあるんだから…。もしかしたらもう、まわしてるかもしれないけど。
その後はいつもと同じように、普通に補習を受けた。蓮見はいつもと同じく教師らしからぬ態度だったし、藤家も何も言わずに自分の課題が終わったら命に勉強を教えてくれた。
そしていつもと同じように過ぎていくと思ったのだが…
ガタガタガタガタガタガタ…
「きゃあっ!」
「やだっ!地震!?」
「結構大きいぞ!」
「机の下に…!」
違う…ただの地震じゃない。これは、この気配は…
命はまだ揺れているなか、よろめきながら教室を出ていった。
「榊…!」
「榊待て!藤家も!」
命の後を追って、藤家と蓮見も教室を出ていった。手すりにすがりながら、階段を下りていく。上履きのままグラウンドに出ていって、そこで目にしたものは…
「こ、これは…!」
青いはずの空には、どす黒い雲が渦を巻き、光を全て塞いでいた。そして辺り一面に黒いもやのようなものが漂っている。まるで夜の闇の中にいるようだった。身震いするほどの邪気が溢れ、背筋に悪寒が走った。これは、非常に強い力の魔だ。
これほどの力を今まで感じたことは無い。
一体、どうして…
「あ…もしかして…。」
そこで初めて先週の金曜日の仕事が途中止めで終わってしまっていた事実に気づいた。もし、あそこの結界が破られ出てきたのがこれだとしたら、これこそ言い伝え上のミコトの巫女が命がけで封印したものなのだろうか。しかし、確かアレは一体だったはず。だが、今命が感じているのは、2つの力だ。
一つは大きな安定した魔の気配。もう一つは、やや不安定魔の気配。一体、どういうことだろうか。
「な、何だこれは!?」
「黒い…霧…。」
蓮見と藤家が追いついて、グラウンドに出てきた。命は二人の発言に驚いた。
「二人とも、見えるの?」
「ああ。で、あれは一体…?」
これは一般の人には見えないはずだ。見えるのは、代々この地を守るべきもののみ。いくら霊感が強いものでも、見えないのだ。見えるのは、この地を影で治める巫女と、もう二人…。
「光の狛、影の狛…?」
とりあえず、この状況を何とかしなくてはいけない。他のみんなは、この霧は見えないだろうが、この学校を中心としているので、その中にすっぽり入っている状態になる。長時間いては魔はみんなの中に入り込み、身体的、精神的に悪影響を与えるだろう。命がどうにかしなければならない。
「蓮見、藤家、これから何を見ても落ち着いていてね。」
「え?」
「榊、お前まさか…。」
コンタクトをはずすと、赤い瞳が光った。手を胸の前に置き、目をつぶり、意識を集中させる。
「我は榊家の巫女。我、この地を守護する者なり。ミコトの名において、この地を鎮めん。」
手で素早く九字を切る。ごおっと陣風が吹き荒れ、つむじ風となって空へと昇っていき、雲を蹴散らす。青い空が見え、やったか、と思ったのもつかの間。残りのもやが鋭い刃のようにまっすぐ命の方へ向かってきた。足がすくんだように全く動かず、逃げることができない。
「榊!!!」
命は思わず目を瞑って身を硬くした。蓮見が駆け寄って、庇うように覆いかぶさる。次の瞬間、ドオオオンッと凄まじい音が辺り一帯に響いた。
「ん……。」
目を開いたときにまず最初に目に入ったのは、蓮見の洋服だった。
「榊、大丈夫か!?」
蓮見があせったように命の顔を覗き込んできた。命は、言葉が出ず、ただ頷いた。
「良かった…。」
蓮見の肩越しに周囲の状況を見渡すと、二人の周りを綺麗に避けて地面が衝撃でへこんでいた。命と蓮見の周りだけ、なぜか何とも無かったのだ。
「な、何で…。蓮見、何かしたの?」
「いや、俺は何も…。」
「あ!藤家は…!?」
見ると藤家はここから少し離れていたところにいたようで、無事だった。だが、今目にした光景のあまりの凄まじさ、信じられなさに、呆然と立ち尽くしていた。辺りはしん、としている。終わったのか、と胸を撫で下ろした瞬間再び悪寒が走った。
『見つけたぞ…長い間探していた…』
頭の中で声が響いた。男とも女ともつかない声で、心臓が早鐘を打った。どうやら蓮見と藤家にも聞こえているらしい。
『ミコトの巫女、そして狛たち。逃げられると思うな。これで終わりではない、これから、始まるのだ』
引きつったような笑い声が響くと、その声はスーッと消えていった。後に残ったのは澄み切った綺麗な青空だけだった。
ミコトの巫女と光の狛、影の狛、数百年を経ての再会であった
拾肆
不思議なことに、他の生徒は先ほどの事を全く覚えていなかった。大きな地震が来たということさえ、覚えていなかったのだ。命と蓮見と藤家の三人は、数学資料室に集まっていた。中からしっかr鍵を閉めて。
「さっきのこと、みんな覚えていないけど、事実だよね?」
命は不安になって、二人に尋ねた。二人も何だか腑に落ちないような顔をしていたが、うなずいた。三人ともが同じ記憶を持っているということは、あれはやはり現実のことなのだ。そして、正体が分からない声が話したことも…
「あの声、ミコトの巫女と狛たちって。じゃあ、もしかして、お前が…。」
藤家が少し青ざめた顔をして言った。命が小さく頷くと、藤家はゆっくりフーッ、と息を吐いた。
誰も一言も話さず、静かである。ただ、時計の針のカチ、カチという規則的に時を刻む音だけが、その部屋中に響き渡っていた。息が詰まりそうだ。こんな状況が一番苦手なのだ。だからと言って、どういう言葉でこの沈黙を破るかは考え付かず、ただ命も黙って俯いているのだった。
こんな状況を破ったのは、蓮見だった。
「お前ら、ちょっとついてこい。」
そう言って蓮見は席を立った。命たちはあまりにいきなりのその発言に、戸惑うばかりだ。
「ついてこいって、蓮見どこにつれてくつもり?」
すると蓮見は振り向きざまにニヤリ、と笑った。
「俺ん家だ。」
蓮見に半ば無理やり連れて行かれた命たちは、その家を見て愕然とした。
「蓮見、実家住みだったんだね…。」
「ああ、出たいんだけど、まだ金がな。」
いや、蓮見、この生活に慣れてしまっているのなら、多分普通の生活は無理だと思うよ。蓮見の実家が地主だということは聞いていたが、地主ってそんなに儲かるものなのだろうか。
蓮見の家は、命の家があるあの山のすぐ下にあった。昔から、やけに馬鹿でかい屋敷があるな、とは思っていたけれど…。まさかそれが蓮見の実家だったとは…。
「ほら、ボーッとしていないで、ちゃんとついてこいよ。途中で捕まるぞ。」
「捕まる!?」
命と藤家はあわてて蓮見のすぐ後ろにピッタリとついていった。
「お帰りなさいませ、坊ちゃん。」
「ああ。」
――坊ちゃん!?
玄関に入ると使用人のような人がいて、頭を下げていた。あの、蓮見に対してだ。
「ぼ、坊ちゃん!?」
あまりにそのキーワードと蓮見とが結びつかず、似合わなかったのでつい吹き出してしまった。
「おい、何か文句あるか。」
バシッと蓮見に頭を叩かれる。暴力反対だ。
笑っているのは私だけなのだろうか、と思って藤家を見てみると、いつも通りに無表情に見えるが、よく見ると、口の端が引きつっており、鼻の穴がヒクヒク動いている。必死に笑いを耐えているんだね…。そんな藤家の姿も見て、命はまた笑いそうになってしまった。
蓮見の部屋へ向かう途中。蓮見は、使用人のおじさんのような人を途中で捕まえた。
「今日、親父とお袋は?」
「今日、だんな様と奥様は、町の方に出て行かれてまして、夜は遅くなるかと。」
「そうか。奥の俺のところには、誰も通さないように。」
「分かりました。」
そんな風に命令する蓮見は、学校での姿と全く違っていて、本当に坊ちゃんのようだった。というか、事実そうなんだけど…。その姿は、年相応にやはり大人びて見えた。
三人は、本館からすぐ出て、庭を通ってはなれのような所に着いた。
「蓮見の部屋って、この中にあるの?」
「いや、このはなれ全部俺の部屋だけど。」
しれっと言ってのける蓮見にぎょっとした。この人、普通に言うことじゃないだろう。
命の家は神社を経営しているが、もちろん半分廃れているので全く儲からない。
結構神社の仕事も雑用というか、内職のようなものがあるので、地味に大変なのだが。このはなれと命の家全体とそう大して大きさは変わらないだろう。
中に入ると、和風の外観と全く違って、フローリングの洋風な造りになっていた。そのギャップで入った瞬間変な感じがする。いっそのこと全部洋風にすれば良かったのに。そう蓮見に言ったが…
「口うるさいばばあが、伝統的な我が家の雰囲気を破壊するものは止めなさいとか何とかで、せめてもの抵抗がこの現状だ。」
と、口をとんがらせながら、蓮見は言った。
「まあ、そこらへんに適当に座ってくれ。」
はなれに入って一番手前の蓮見のプライベートルームとやらに通された。
本当にはなれは、一軒の家のようだった。大きな部屋(プライベートルーム)が一つと(実際、蓮見はこの部屋しか使っていないらしい)、客間のような部屋が二、三あった。
蓮見の部屋は物がスペースの割りに少なかった。命のイメージでは、物が溢れかえって汚いイメージだったのだが、これでは命の部屋の方が汚そうだ。帰ったら掃除しよう…。そんなどうでもいいことを考えてしまった。
蓮見は自分のベッドに腰かけ、命と藤家は床に座った。先ほどまで一言も発していなかった藤家が、いきなり話し始めた。
「この際、みんな正直に話して、隠し事は無しにしましょうか。」
すると蓮見はフッと笑った。
「お前、性急過ぎるだろう。まあ、でもお前の言うとおりだ。多分、俺たちは同じような秘密を抱いてこれまで生きてきただろう。たとえば……瞳の色…とか。」
藤家はバッと蓮見を見た。
「そうか…先生も、榊も、か。」
命と蓮見はコンタクトをはずした。それぞれの本当の瞳の色が露になる。藤家はじっと私たちの目を見つめていたがが、ふいに制服のズボンの裾をあげた。そこには、ミサンガのようなものがくくりつけられていた。
「藤家?それは…。」
藤家は俯くと、器用な手つきで、きつく結ばれたその紐を解いた。再び藤家が顔を上げたとき、その瞳の色は変わっていた。
「綺麗…。」
思わず私はそう呟いた。藤家は目を細めた。
「本当、綺麗な紫色だな。」
「藤色です。」
藤家はキッと蓮見を睨んだ。
「何か、お前俺には冷たくないか?」
「気のせいです。」
藤家はツン、と顔を背けながら言った。
その間も、命は藤家の瞳をじっと見続けていた。透き通る藤色。最近、カラコンとかが出回っていて、紫色のものもあるそうだが、そんなものとは全く違う。何てったって、天然物なのだ。深い色合いで、光の具合によって淡かったり、濃かったりと。私はついつい魅入られてしまった。
「不思議…。三人とも瞳の色に秘密があったなんて…。こんな偶然…」
「いや、偶然じゃないだろう。」
「え?」
そう言った蓮見の顔を真剣そのものだった。
「榊。さっきの声が言ったこと。ミコトの巫女、そして狛たち。狛たちって俺たちのことでしょう?」
藤家が神妙な顔で言った。
「そう、それでミコトの巫女ってのがお前のこと。」
蓮見が続けて言う。
「何で?何で二人とも知ってるの?」
すると蓮見と藤家が顔をあわせた。
「俺は、小さな頃、おばあさまから聞かされたから…。」
藤家が目線を床に落として言った。
「そうか。俺は割と最近蔵で古い本を読んで…。あれは確か去年の四月くらいかな。榊は?」
「私は…この目が先祖帰りだって言われて。父親から耳にたこが出来るほど、何度も、何度も…。」
三人とも前から知っていたと言うことは、確かにただの偶然ではない。むしろ必然的、運命的な何かが…。
「じゃあ、光の狛と影の狛って…。」
「ああ。多分俺が光の狛。」
蓮見が腕組みしながら言った。
「じゃあ、俺が影の狛か…。おばあさまが生きていたのって、俺がまだ小さな頃だったから、あんまり詳しくは話してもらったこと覚えてないんだけど。」
「それより、さっきのアレは何だったんだ。何だって、いきなり…。」
蓮見が命に聞いた。
そうだ、あの出来事は私が多分引き起こしてしまったんだ。
「私の…せいなの。」
命はこの間の金曜の出来事を二人に話した。いつもと様子が違う何者かが封印された石。それを蓮見に会ったことで中途半端な状態にしてしまっていたこと。それが多分、ミコトの巫女が命がけで封印した者で、先ほどのアレは多分それだろう、ということ。
「そうか。俺のせいだな。そんな大事なときに声をかけてしまって。」
蓮見が頭をかきながら申し訳なさそうに言った。
「そんなこと無いよ!すっかり忘れてたのは私だから…。」
「おもしろくないな。」
「え?」
いきなり藤家が口をはさんできた。少し驚いて藤家の顔を見ると、ものすごくいじけた様な顔をしていた。
「藤家…どうしたのその顔…。」
少し呆れて笑ってしまう。だって、あまりにらしくないから。
「先生だけ、榊の巫女さん姿見たんだ。おもしろくない。」
「おいおい、今の話で食いついたのはその部分かよ。そこはどうでもいいだろう。」
蓮見も呆れて笑った。藤家は更に機嫌を悪くした。
「俺だって、ちょっと見てみたかった。」
少し口をとんがらせながら言う藤家。その姿はさながら幼稚園生の男の子のようで。思わずプッと笑ってしまった。
「何だよ。」
「ふ、藤家可愛いんだもん。」
口に手を当てて笑ってしまった。藤家の顔が少し赤くなる。
「あ、それも可愛い。」
「――!み、見るな。」
顔を背ける藤家。その様子がおもしろく、ますますからかいたくなる。藤家のそむけた方向に命も追う。見ると真っ赤だ。
「わあ!藤家そんな顔もできるんだ。」
「俺は見世物じゃない。」
だんだん藤家の赤みが引いてきて、いつもの調子に戻ってくる。すると、藤家は何か思いついたようにニヤリと笑い、顔をズイ、と近づけてきた。突然綺麗な顔がすぐ目の前にあるものだから、命の方は少し引いてしまう。
「じゃあ、今度、見せてくれる?」
「え…。」
グイ、と藤家は右手を支えに命の方に上半身寄った。
非常に、近い。
今度はこちらが顔が赤くなってきてしまう。
「いいだろ?」
「わ、分かった!分かったから離れて!!」
藤家の肩を掴んで押し戻す。藤家は機嫌を良くしたようで、満足そうにしていた。そしてチラリ、と蓮見を見た。
「藤家…お前、分かっててやってるだろう?」
「何をですか、先生。」
無表情で言ってのける藤家に、蓮見は言葉が出ないよう。しかし当の命は赤くなった顔を冷やすにに必死になって全く見ても聞いてもいなかった。
拾伍
「はあ…。」
命は大きなため息をつき、周りから見たらさぞ迷惑なほど落ち込んでいた。学校カバンと、もう一つ大きなカバンを持って、登校してきた。
今日は火曜日。あの事件の翌日である。
「おい、榊。イライラするくらい落ち込んでるな。」
バシン、と勢いよく蓮見に背中を叩かれる。いつもはそれに食いついて、言い返したり、反撃したりするのだが、今はその気力さえない。これは、本当に何かあったな、と蓮見も感じたようだ。
「分かった。補習終わったら話聞いてやるから、それまで今日も頑張れよ。」
「……はい。」
そんな状態で補習に集中できるわけもなく、その日何度も藤家に怒られた。だけど、その最中も上の空で、命はこれからどうすればいいのだろう、と考えめぐらせながら落ち込み続けていた。
その日久しぶりに補習終了はビリであった。
「終わった…。」
やっとプリントが終わり、机に突っ伏す。
「ほら、榊。終わったなら先生に提出しなきゃ。」
「んー。」
「ちっ。」
藤家は命が使い物にならないと分かったのか、舌打ちをして、ブツブツ言いながら、代わりにプリントを蓮見のところへ提出しにいってくれた。
何だかんだいって、藤家本当に面倒見いいよな…。そうは見えないけど…。
そんなことをボーっとしながら考えていた。すると、ポカリと頭を叩かれる。顔を上げると、蓮見が腕組して机の前に立っていた。
「ったく、本当重症だな。とりあえず、資料室で話し聞くから付いて来い。」
「はい。」
命はノロノロと席から立ち、カバンを二つ持って蓮見の後を付いていく。
「藤家、お前は何でついて来るんだ?」
見ると、藤家もカバンを持って命の後ろについてきている。
「何か、俺がいて悪いことでも?」
「……いや。」
しょうがないので、三人で資料室に入っていった。
「んで、何があった?」
蓮見は部屋にカギを閉めてから、命と藤家が座っているイスの向かいのイスに座った。
「いや、あのですね、実はですね。」
命は昨夜の出来事を二人に話し始めた。
昨日、家に帰ると、玄関に父親が仁王立ちで立っていた。般若のような顔をして。
もともとごつい顔立ちなので、あまりの形相に、わが父ながら悲鳴を上げそうになってしまった。
『お、お父さん?どうしたの…。』
『おい命。今日の昼の出来事は何だ?』
『は、はい?』
『今日の昼前ぐらいに、あの場所から封印されたはずの者が出て行ったように感じたが?すぐに行ってみると、入り口は開いているし。慌てて母さんに閉めてもらったから大丈夫だったものを。だが、重要な一匹が出て行ってしまったように見えたが?』
『そ、それは…』
命は正直に父親に話した。
『なるほど、そうだったのか…』
思ったよりも冷静に落ち着いて話を聞いていてくれたので、大丈夫かな、と思ったのだが。あの父はそんなに甘くなかった。
『馬鹿やろう!お前は榊家の恥だ!恥!なんて事を…ご先祖様に申し訳がたたん…。どう詫びればいいのだろうか。』
『お、お父さん、私…』
『もうお前は勘当だ!封印するまで帰ってくるな!』
「ということで、現在家を追い出された状態でして…。」
蓮見も藤家も口をポカンと開けている。そりゃそうだろう。蓮見が私の持っている大きなカバンを指さして言った。
「じゃあ、その荷物は…。」
「今朝捨てられる前に急いで片付けた、自分の身の回りのものでございます。」
命はぎゅっと荷物を抱きしめた。あのままだと、命の荷物全て家の外に出されそうな勢いだったのだ。だから、必要なものは慌ててまとめてきた。こっそり朝抜け出すとき母親がこう言ったのだ。
『お父さん、あのままだと私の言うことも聞かないから。2、3日したら頭も冷えると思うから、その間お友達のところに避難しておきなさい。こっちで説得するから。このままだと、あの人何をしでかすか分からないからね。大丈夫そうになったら、私が命に連絡を入れるから。』
ということで、命は母から連絡が来るまで、自分の心身の安全のためにも、家には帰れないのだ。
「で、榊これからどうするの?」
藤家が心配そうに言ってきた。
「ど、どうしよう?」
「どうしようって、俺に聞かれても…。」
「お前、安池か松下の家はどうだ?」
そうだ。家に置いてくれるほど仲のいいのはこの二人しかいない。
中学のときは、まだ小学生のときのトラウマがあったので、なかなかそこまで仲の良い友達を作ることができなかったのだ。
「そうだ!美嘉と友里!」
希望の兆しが見えた。だが、すぐにその光は消えた。
「ダメだ。ちょうど今日から彼氏と旅行行くって…。あの二人金持ちだからな、結構遠くに行くんだろうな。2、3日行くとか言っていたような…。」
三人は顔を見合わせ、同時にため息をついた。
「もうダメだ…ホームレスになるしか…。それで、本でもだそうかな。『ホームレス女子高生』とか。」
そんな風に現実逃避し始めた私を見かねて、蓮見が言った。
「しょうがない、しばらく家に置いてやろうか。」
「え…蓮見の、家?あの、でっかい家?」
「ああ、さすがに本館には俺の一存では置いてやれないが、はなれなら部屋も余ってるし。」
確かに、昨日行った時、客間がいくつかあったけど。でも、アレは実際蓮見の部屋なんであって…。
「でも、それってどうなの?教師と生徒が一つ屋根の下とかって。」
藤家が少し顔をしかめながら言う。
「勉強合宿とでも思えばいいんじゃないか?」
蓮見が飄々と言ってのける。
「いやいや、問題はそこじゃなくってさ。」
藤家がチラリと横目で命を見る。
「あ?」
蓮見も命を見る。な、何だ。すると、蓮見が声を上げて笑い出した。
「ないないない!藤家は俺がこいつに何かするのかって心配しているんだと思うけど、それはないって!」
「ちょっと!あったら困るけど、そんなに『ないない』連発しないでよ!」
「だって、8つも下なんだぞ?」
その言葉にチクリとなぜか胸が痛んだ。
「もちろん、俺のところにいるんだから、数学の勉強もきっちりしてもらうけどな。」
「げえっ。」
藤家は私と蓮見の様子をじっと見つめていた。少し何だか考えている様子で。
「決めた。」
小さな声で藤家がつぶやいた。
「決めたって、何が?」
「俺も先生ん所に榊がいる間泊まる。」
「え?」
「そうは言っても色々心配だし、俺が見張る。」
うんうん、と一人納得している藤家。蓮見がニヤニヤと笑う。
「藤家、お前分かりやすいな。」
「何が?」
冷ややかな目で藤家は蓮見を見る。蓮見はニヤニヤしたままだ。
「お前が何かするってことはないのか?」
藤家がチラリと命を横目で見る。分かっている、どうせまた『ないない』言われるのだろう。
「榊。」
「な、何?」
藤家がじっと命を見つめる。そんなに見られるとさすがにたじろいでしまう。
「カギをちゃんと閉めていれば大丈夫。」
何が大丈夫なんだ。何に対して大丈夫なんだ?予想外の返答にポカン、としてしまう。向かいで蓮見は大爆笑している。
い、意味がわからない…
「で、でも、藤家お家は大丈夫なの?」
「問題ない。誰も俺には逆らえないから。」
無表情でそう言う藤家の表情は少し物悲しく、怖くもあった。
「まあ、俺は別に部屋はあるんだし。かまわないけど。」
「蓮見のご両親は大丈夫なの?他人を勝手に家にあげても。」
「ん?別に。どうせあの人たちいつも出歩いているからな。色々付き合いがあるんだろう。分からねえよ。」
こんな風にして、命の居候生活は始まったのだった。
命と藤家、それぞれに貸された部屋は、立派なものだった。藤家の言うカギもちゃんと付いているし。
「こんな立派な部屋。本当に借りていいの?」
「ああ。どうせ使ってないんだし。部屋としても、使ってもらった方がいいだろう。」
「そんなものか。」
荷物だけ置いて、命たちは蓮見の部屋に集合した。
「蓮見、やっぱりこんだけ家がすごかったら、本当に知られたらひどいことになるね。」
「考えさせるな、想像しただけで恐ろしいから。でも、これは別に親の金によるものであって、俺のじゃないから。もう少ししたらここから独り立ちしたいと思ってるし。」
「ああ、先生もう25だもんね。」
「藤家、何かいつも癪に障る言い方するよな。」
蓮見と藤家はお互いにらみ合っている。仲が良いのか、悪いのか。
「それにしても、昨日の声。『これで終わりではない、これから、始まるのだ』って、一体何が起きるって言うんだ?」
蓮見がベッドに寝そべりながら言った。命も少し考えていたのだ。昨日の出来事よりも、もっと凄いことが起こるのだろうか。
ゾクゾクッ
悪寒が背筋を走った。そして、ガタガタと体中が震えだす。寒いわけではないのに、震えが止まらない。指先に力が入らない。
「榊、どうしたの!?」
「わ、分かんない。分からない、けど。」
そう言う声も震えて、思うように言葉が紡げない。
藤家が命の指先にそっと触れる。すると、だんだんと落ち着いてきて、しばらくして震えは嘘のようにピタリと止まった。
「大丈夫か、榊。」
「う、うん。もう大丈夫。」
さっきのは何だったのだろうか。でも、これはあれが近づく予感だったのかもしれない。変化はきっともうすぐ訪れる。
拾陸
今日は金曜日。今日で無事、補習も終わり、命にも2週間ばかり遅れて夏休みがやって来た。勉強から開放され、今は悠々とテレビを見ていた。蓮見の部屋で…
「お前らはいいな…。」
夕方ごろ、蓮見が帰ってきた。疲れたからだで家に帰って目にするのは、教え子が夏休みになって自分の部屋でダラダラとテレビを見ながらくつろいでいる様子。
「俺にも、俺にも早く夏休みをください!」
夕日に向かって叫ぶ蓮見。だけど、いくら夕日に願っても、夕日が何とかしてくれるわけが無い。
蓮見はキッと命と藤家を恨めしげに睨んできた。
「ちくしょう…お前ら、クーラーぼんぼんかけて、テレビも見て、アイスも勝手に食べて…もう少し遠慮しろ!」
「金持ちなんだから、ケチケチすんな。」
「アイスは自腹なんだああ…。」
窓際でしゃがみこんで蓮見はいじけている。どうやら、最近補習の後の仕事をおろそかにしていたので、仕事が溜まりに溜まって、まだまだ夏休みはもらえないらしい。まあ、それもそうだろう。補習が終わったら命と藤家と一緒に帰宅していたのだから。先生なのにいいんだろうか?と少し不安に思っていたが、やはりダメだったみたいだ。仕事を終え、疲れて帰ってきたらこの様だ。そりゃあ、腹も立つだろう。
「それにしても、何でお前らいちいち俺の部屋に集まるんだ。お前らに部屋貸してやっているだろう。」
そういえばそうだ。
命と藤家は顔を見合わせた。
「だって、居心地いいんだもん。この部屋何だか雰囲気が暖かくて柔らかいっていうか。光の狛だからかなあ。」
「ああ、俺も落ち着く。」
影の狛である藤家は、無意識のうちに自分と正反対の性質を求めるのだろうか。蓮見といつも喧嘩ばっかりしているものの、気づけば割と近くにいる。
命は蓮見と藤家の二人をじっと見つめていた。
そういえば、どうして光の狛と影の狛は、ミコトの巫女と別れてしまうことになったんだろうか。
ミコトの巫女の代を最後に、その後狛に関する記述は一切残っていない。狛という存在が消えてしまったのだ。神社の狛犬の石像まで消えてしまうなんて変だ。
そして、どうして今、光の狛と影の狛がまた再び現れたのだろうか。この赤い目、ミコトの巫女から引き継がれたものも何かしら関係しているのかもしれない。
最近、こんなことを考えるようになったのだが、その度に何か頭にストッパーがかけられているかのように、頭が割れるように痛くなり、気持ち悪くなるのだ。何かが、考えさせる、思い出させるのを阻止するかのように…。
『ミコト…』
え…?
『ミコト、ミコト…』
知らない男の人の声が頭に響いてきた。何故か、なつかしい感じがする。
『ミコト、おいで…』
頭がグラリと揺れて、床に倒れこむ。
「おい!榊、どうした!?大丈夫か!?」
「榊?」
蓮見と藤家が駆け寄る。でも、頭が働かない。乗っ取られたかのように、体だけが勝ってに動き、立ち上がった。
「榊…?」
「行かなくちゃ…」
「え?」
「あの人のところへ…」
「あの人って誰だよ?」
蓮見が私の腕を掴んだが、私はそれを振り切って部屋を出て行った。足は独りでに動き、私をあの人のところへ、あの場所へ運んでいく。
私は、どこに向かっているのだろう?
「ここは…」
辺りは段々薄暗くなっていた。命はいつのまにかあの岩の前にいた。風によってザワザワと揺れる葉の音が、不気味に感じる。
ゾワッ
肌に纏わりつくような嫌な気配がした。生暖かく、闇のように深く、血のようにドロリとした…。吐き気がする。
ここにいてはいけない。
そう思ったが、体が動かない。足はまるで地面にくっついてしまったかのように、その場から動くことが出来ない。
「やっと来たか、ミコトの巫女。いや、榊命。」
先ほど頭に響いた、美しい男の人の声がした。その声の方に頭を動かす。その姿が目に入った瞬間、心が波打った。
「あ…。」
一人の男。
腰まである少し癖のある黒髪、服装からして現代の人間ではない。肌は青白く、だが薄暗い森の中で光っているように見えた。冷たい印象を受けるような整いすぎた顔で、目がじっと命を見据えている。
私と同じ、赤い瞳…。
「あ、あなたがここに封印されていた人?」
恐ろしさで声が震えるが、命は美しいその人に聞いた。男は何も答えず、ただフッと笑った。
この人じゃない。あの時の声と違う。だけど、何だか、この人も嫌な感じがする…。何か…。
「ミコトも哀れな。命を削って封印した者を、まさかその魂を持つお前に解かれるとは…。いや、運命だったのかもしれないな。」
男は目を命の目からそらさずに話した。目をそらしたいのに、そらすことが出来ない。
「あの順応な狛たちを捨て、また自分自身を捨ててまで、私を守ったのだ。もう一度私と会うため。」
「何を…?」
「私もミコトに会いたい。もう一度。」
その目は命を見ているのか、またはその奥の誰かを見ているのか。
「お前は覚えてないのだな。まだ魂が十分ではないのか。」
男が言っている意味が全く分からなかった。
「ならば、思い出させてやろう。その魂を完全なものとさせるために。」
男は一歩近づいた。
「お前は私と愛し合っていたのだ。」
突然そう言われ、頭が真っ白になる。
「あ、あなたとミコトの巫女が…?」
「そうだ。全てを捨てるほど。」
男はまた一歩近づき、命の肩に手をかけた。その手は冷たく、生気がなかった。
「嘘!」
命は肩に乗せられた手を振り払って叫んだ。
「嘘…だと?」
男の声は震えている。怒りのためか、赤い瞳の色は濃くなり、本当に血の色のようだった。
「そう!嘘に決まっている!だってあなたは…」
「人間ではないからか?」
男がフッと笑った。瞳が悲しげにゆれる。
「ああ、本当に何も覚えていないのだな。お前なら、転生しても、私のことは忘れないとばかり思っていたが…。」
命は黙って男から顔をそらした。だが、男はそれを許さず、命の顔を両手で挟み、無理やり再び自分の方へ向けた。
「ああ、こうして近くで見ても、やっぱり似ている。」
命はキッと男を睨んだ。
「そういう気の強そうなところもそっくりだ。お前を……のが惜しくなる。」
「え?何?」
男の声はどんどん小さくなる。
「まあ、良い。少しずつ思い出させればいいのだ。再びお前を手にいれるまで…ミコト。」
ドクン、と胸がはねた。
でも、これはきっと『榊命』を呼んでいるのではない。『ミコトの巫女』のことを呼んでいるのだろう。おそらく命の中にいる…
「聞いているのだろう?お前が覚えていなくても、お前の魂は覚えているはず。」
男は命に手を伸ばし、視界を手のひらで覆った。途端にだんだん意識が遠のいていき、足元も崩れていく。力が入らない。
「もう決して逃げられない。私の名前は…」
真っ暗な闇に落ちていく。その狭間で聞いた美しい男の声。
「夜琴(ヤコト)だ。」
*
何だろう…、ここはどこだろう…。
生い茂った森の中にいた。大きな木にもたれ、誰かを待っている。
「ミコト!」
そう、この声の人だ。ミコトはその人のほうへ振り向いた。心が弾む。早く会いたかったのだ。
「夜琴!」
急いでかけてくるのは、あの人。白い肌に汗をにじませながら、ミコトの方へやって来た。ミコトはその人の胸に飛び込んだ。キレイな手がミコトの髪を撫でる。
「待ったか?」
「ちょっとだけ。」
ミコトは顔を上げて、夜琴の顔を見る。赤い瞳が目に入る。ミコトの影響で赤くなったその瞳を。
「何だ?」
「その目、嫌でしょう?ごめんなさい、私のせいで。」
すると、夜琴はやさしく笑った。
「何を言っているんだ。お前がいなくちゃ私はいなかった。この目も気に入っているぞ。お前と同じ色だからな。」
「夜琴…。」
夜琴はミコトの目を覗き込んだ。そして愛おしそうに微笑む。
「美しい…瞳。」
ミコトの視界は真っ暗になった。
*
何だろう。あたたかい。心がほんわかしてくる。このままこうしていたい。
暗闇の中から、小さな光が差し込めてきた。命はその方向に向かって歩く。だんだん、その光が大きくなっていく。出口は、ここだ。
出口を出たとき、体にあたたかい光がさしこめた。ああ、分かった。この光は…
「太陽…」
ぼんやり目を開けると、そこはあの山の中ではなかった。蓮見の家の命の部屋だ。いつの間に戻ってきたのだろうか。
「あ……。」
すぐ隣を見ると、蓮見の顔があった。目を閉じている。寝ているのだろうか。今までこんなに間近で見たことは無かった。藤家みたいに色気があったりだとか、完璧に整っていて美人だとか、そういうタイプだはないのだけれど。何だろう。この人の顔は、人を惹きつけるものがあるのだ。力強さ、男らしさ、そういう魅力を感じる。
こうしてみると、やっぱり大人の男の人なんだなあ。
いつも口を開けば子供じみたことばっかり言うから、そうは思わないけど。こうして黙っていると…
「何かなあ…」
「何が何なんだ?」
「わっ!」
いつの間にか蓮見は目を開けていた。
「起きてたの!?」
「いや…起きてたといえば、起きてたんだけど。榊があんまり俺の顔を見つめるものだから、タイミングが…。なあ、俺そんなにかっこいい?」
蓮見はニヤニヤしながら聞いてきた。
「……そうだね。」
命がそう素直に言うと、蓮見は目を見開いた。予想外に返答が出てきて、少なからずビックリしているようだ。
「お前、気持ち悪いぞ。」
「何よ!蓮見が言ったから、一般論を述べただけでしょう!」
「一般論かよ…。」
命は部屋を見渡した。やはり、帰ってきた記憶は無い。
「ねえ、どうして私ここにいるの?」
だって、あの時あのまま意識が遠のいていったのに。すると、蓮見は真面目な顔になった。
「離れの前に倒れてたんだ。」
「え?」
「この花と一緒に…。」
そう言って蓮見は花を命の膝元に置いた。手にとると、それはチューリップの花だった。
「夏に何でお前この花持ってたんだ。」
しかし、驚いたのはその色だった。
「にしても、随分変わった色のチューリップだな。普通、赤とか黄色とかピンクとかじゃねえのか?しかも形も変わってるし。」
「『スプリング・グリーン』」
「え?」
チューリップを持つ手が震えた。
「緑のチューリップ…花言葉は…『美しい瞳』…。」
「お前、一体誰に会ったんだ。」
蓮見が私の腕を掴んだ。痛いくらいの強さで。命が顔をゆがめると、蓮見は悪い、と言って手を放した。離されてもまだ力強い手の感触が腕には残っている。
「この花、誰に貰ったんだ。『美しい瞳』って、お前の赤い瞳のことだろう?誰か他に知っているやつがいるのか!?」
あの男だ。夜琴だ。この花を贈ったのは。それに、さっき見た夢は…
「おい!」
「し、知らない!……覚えてない。」
なぜかそう言ってしまった。別に隠すことなどなかったのに。いや、隠したりなどしてはいけないのに。蓮見の目をまっすぐ見ることができなかった。
夜琴。美しいあの男、恐ろしい男。近づくのは危険、危険だと分かっているのに!心の中で、どこかまた会いたいなどと思ってしまっている部分がある。今日の出来事を話せば、蓮見は絶対に私を夜琴に近づけさせないだろう。
怖い。この気持ちは、本当に私の気持ちなのだろうか。それとも、私の中にあるミコトの巫女の気持ちなのだろうか。
命はそっと、チューリップの花を握り締めた。
拾漆
部屋が眩しい光に包まれ、三人は思わず目をつぶった。再び目を開いたとき、そこには一人の美しい男が佇んでいた。黒い髪を横で編み、愉快そうにこちらの様子を見ている。細めた目は、どことなく藤家と似ているような気がした。
『なんだ男か。残念だな。美しい顔をしているのに勿体無い。』
その言葉にピクリと藤家のまゆが動く。どちらかというと女顔の自分の顔を気にしているようだ。少し頬を引きつらせながらも、いつもの平静を装って藤家は言った。
「ずっと俺の中にいたのはお前か。」
『いたとはいってもずっと眠っていたからね。さっき起きたばかりだ。だから心配しなくていいよ。桔梗ちゃんの知られたくないこととか、見られたくないこととか暴露する心配はないからね。』
にこりと男が綺麗な顔で微笑む。それを見て藤家は心底嫌そうな顔をした。それはそうだろう。どちらかといえば、いや、完全に藤家の苦手なタイプだろう。
男は藤家から目を離し、部屋中を興味深げに眺めていたが、命を視界に入れて小さく息を飲んだ。そしてそのまま目を細めて微笑んだ。
『ふふ、はじめまして。君がミコちゃんの生まれ変わりかな?本当によく似ているね。』
「ミコちゃん…って、ミコトの巫女のことですか?お知り合いなんですか?」
男は嬉しそうに頷き、横に流していた前髪をかきあげた。左の額には勾玉形の例の痣があった。
「じゃあ、あなたがこの本に書かれていた…?」
男は命の前に跪き、その手を取り額に当てた。手馴れた様子で抵抗する暇もなかった。
『私が梁慶の時代の影の狛。皆からは光の君と呼ばれていた。光と呼んでくれていいよ。』
「光…さん?」
命がおずおず呼ぶと、光さんはにやりと笑って耳に顔を寄せて囁いた。
『実のところね、かの有名な光源氏っていうのは私の生まれ変わりなんだ。』
「うそ!光源氏が!?」
命が驚いてそう叫ぶと蓮見が頭を叩いた。
「馬鹿、嘘に決まっているだろう。あれはフィクションだ。」
『ふふ、簡単に人を信じちゃいけないよ、命ちゃん。』
確かに言われてみればそうなのだが、自分の中で思い描いていた光源氏像と光があまりにもマッチしていたのだ。見るからに女タラシのプレイボーイそうだ。藤家をオープンにした感じだ。
「それにしても藤家、どうしてお前がミコトの巫女の狛である光るさんを呼び出せたんだ?」
蓮見が不思議そうに藤家に聞いた。確かにそれは気になる。藤家は本を手に取った。
「ここ。」
そう言って藤家は本の裏表紙をトントンと叩いて示した。そこには文字が書いてあったが、にょろにょろした昔の字なので、読めない。
「何て書いてあるの?」
「……狛の瞳を持つもの、狛の血を継ぐもの、血を持って我らは甦らん」
そう言って藤家は切った指を出した。ああ、だからそんなことをしたのか…。
『さすが私の後継者だね、桔梗ちゃん。』
「あの…。」
蓮見がおずおずと手をあげた。
『何だい?』
「さっきから、藤家のこと桔梗って呼んでるけど、こいつの名前月音だろう?」
「ああ、蓮見は知らないんだ。藤家って家関係の名前があって、それが桔梗なんだよ。」
「何だ、榊は知ってたのか。」
『桔梗って良い名前だよね。さすが美しい私の後継者。』
ニヤニヤ笑う光さんを、藤家はキッと睨みつけた。
『ねえ、陽杜くん?』
「はい、何ですか。」
『私、ヒナちゃんにも会いたいんだけど。』
「ヒナちゃん?」
蓮見が首をかしげた。
『君の中にいる、私の相棒だよ。』
ゲッという顔を蓮見がして逃げ腰になったが、それよりも早く藤家がカッターの刃を出して、蓮見の手を掴むと指を傷つけた。
「痛っ!おい、藤家、お前やっぱり俺に何か恨みが…。」
蓮見の指から血が流れ、今度は白い陰陽の方へ落ちた。
本が今度は赤く燃えるような光に包まれたかと思うと、そこには一人の男がいた。見ると、蓮見の瞳が黒くなっている。
男は少しボサボサの髪を無造作に後ろで一つに束ねていた。力強い顔立ちは、少しだけ蓮見に似ているかもしれない。右の額には勾玉の痣が見えていた。
『はじめまして。私が梁慶の光の狛。陽(ヒナタ)の君と呼ばれていました。』
陽は命の顔をじっと見た。なぜだか瞳が揺れていて、動揺しているように見えた。光とはまた違った反応だ。
『ヒナちゃんったら、いくら命ちゃんがミコちゃんにそっくりだからって緊張しすぎ。』
光さんにバシバシと背中を叩かれると、ああ、と小さく言って視線をそらした。
『私もヒナちゃんもミコちゃんに惚れていたからね。まあ、しょうがないか。』
ケラケラ笑う光を陽は無言で殴った。陽は唇をかみしめていた。やっぱり、まだミコトの巫女のことが忘れられないのだろう。少し辛そうな表情をしていた。
「あの、光さん、陽さん。今、私たちの身に何が起こっているか分かりますか?」
そう聞くと、陽が辺りを見渡して答えた。
『ああ、何だか嫌な気を感じるからな。あの時のあいつが出てきたんだろう。』
「あの時って、ミコトの巫女が…その…。」
『ああ、命、そのとおりだ。あいつが死んだときに封印したものだ。』
「私…ごめんなさい!私のせいなんです。」
命が頭を下げると、陽は優しく笑って頭をポンポンと叩いた。
『いや、命のせいじゃない。時が、来たんだ。』
「時…?」
『そう、この時を待っていた。』
「え…?」
そう言う陽さんはどこか遠くを見つめていた。
『大丈夫だよ、命ちゃん。私たちも手を貸すから、ね。』
光が陽の肩に手を回しながら言った。命は小さく頷いた。
「あの…ミコトの巫女ってどういう人だったんですか。」
すると陽さんは微笑んだ。遠い昔の記憶を呼び起こすように。
『ミコトは…、うん、おもしろいやつだった。』
「おもしろい?」
『ああ、その本を読んだか?』
「あ、はい。」
『その本…私が書いたんだ。』
「えっ!?陽さんが?」
三人ともビックリしていた。
『そうそう。ヒナちゃん結構文才があったからね。村長に今の国の状況を書き記してくれるように頼まれていたんだ。私たちの魂の半分を、何かあったときの未来に残しておこうと言ったのもヒナちゃんでね。』
『そこにはミコトは随分おとなしい感じに書かれているが、本当は全然違うぞ。ミコトに命令されたからそう書いただけで…。実際、ミコトは力が強すぎるから、あまり外に出歩いてはいけないことになってたんだが。だが、あいつは見張りの目を欺いてはよく町に遊びにいっていた。自分の力を封印するためのものを作ってな。』
すると陽は机の上に置いてあるものに目をとめた。驚いたように眉が上がる。机に置いてあるのは、藤家がいつも足につけている紐のようなものだ。不思議にあれをつけていると藤家の藤色の瞳は抑えられるのだ。
『それは…』
「それ、俺のですけど。」
『少し見せてくれないか?』
藤家がそれを手渡すと、陽はじっくりとそれを見た。そして納得がいったように頷いた。
『これだ。まさにこれだよ。ミコトがいつも身につけていたものは。』
「これが…?」
それを聞いて一番驚いているようだったのは藤家だった。陽からそれを返してもらうと、不思議そうに眺めていた。
「藤家、それどうしたの?どうして藤家がミコトの巫女の物を持っているの?」
「これは…俺の瞳を見て、おばあさまが下さったもの…。うちの家宝のようなものだって…。」
すると光が「あっ」と小さく声をもらした。みんな一斉に光の方を向く。
『思い出した。あれは、ミコちゃんが死ぬ2ヶ月くらい前だったかな。ある町の子にあげたんだ。』
『あげた!?』
陽はビックリしたように聞いた。どうやら初耳らしい。
『ヒナちゃんはその時いなかったかな?町の踊り子の女の子で、病気にかかっている子がいてね。でも家族のために働き続けなければいけなくて。ミコちゃんはそれを放っておくことができなくて、自分の力が込められているそれを、その少女にあげたんだ。もしかしたら、それが桔梗ちゃんの遠い先祖かもしれないね。』
藤家は少し照れ臭そうにしながらも、大切そうに再び足に結んだ。
「でも、やっぱりミコトの巫女の力ですかね。随分状態が綺麗ですね。」
命は藤家の足に結ばれたそれを見て言った。やはりそれだけミコトの巫女の力は強かったのだろう。
『実はね、私たちは直接ミコちゃんが死んだのを見てはいないんだ。』
「え…?」
光が少し肩をすくめながら言った。
『だからどうも何百年経った今でも信じきれなくて。でもミコトの気配と力が無くなったのは感じた。』
『最後に一目だけでも会いたかったな…。』
光は遠くを見つめ、悲しそうに呟いた。その時、うっすらと光と陽の体が透けてきた。
『もうそろそろ時間かな。体がない状態で実体化するのはやはり力を使うんでね。』
陽が透けている自分の手を見つめながら言った。
『あまり役に立つ話が出来なくて悪かったね。またしばらく君たちの中で休ませてもらうよ。』
そう言うと二人の姿はすっと消え、またどうやら蓮見と藤家の中へと戻っていったようだ。するとまるでタイミングを図ったかのように、命の携帯が鳴った。
「あれ…お母さんからだ。どうしたんだろう?いつもはめったに電話なんかかけてこないのに…」
命は不思議に思いつつも携帯を手に取った。
「もしもし?」
『もしもし命!?』
すると焦ったような母親の声が聞こえてきた。いつも穏やかな母が。珍しい。何かあったのだろうか。
「お母さんどうかしたの?」
『お父さんが…!』
「お父さん…?」
ドンドンドンドン!
するとはなれの扉を思いっきり叩く音がした。何だか外でわめき散らしているような声も聞こえる。
『遅かったみたいね。』
「遅かったって何が?」
『命…』
真剣な声で何を言うかと思いきや、ファイト!と一言言い、ブツリと携帯を切られた。
「な、なんだったんだ?」
母の意味深な電話も気になるが、今気にすべきはこの現状だろう。何だかはなれの外で揉めているみたいだ。
三人は蓮見の部屋から出て、玄関の方へ向かっていった。すると段々と会話がはっきり聞こえてきた。
「お客様、困ります!そこは坊ちゃんの部屋でして。勝手には…」
「坊ちゃん?やっぱり男のところへいるのか!」
何だか聞き覚えのある声である。命は嫌な予感がしてきた。
「二人ともちょっと待ってろ。俺が出てくる。」
「ちょと、蓮見…。」
蓮見は玄関のノブに手をかけた。
蓮見、その男の人は多分…
「すみません。俺に何か用でしょうか。」
「お前が坊ちゃんとやらか!よくも…うちの娘を…。」
ガツッ
男は蓮見に殴りかかった。玄関を出てすぐのことだったので、よろめく蓮見。
「お、お父さん!」
「命!」
目を吊り上げてものすごい形相をしているのは、紛れもない命の父だった。
「え、お父さん…!?」
蓮見は殴られた頬に手を当てながら、驚いたように命の父を見上げていた。それはそうだろう。命とこの父は全く顔が似ていないのだ。
「お父さん…だと?お前は何の権利があって、私をそう呼ぶんだ。だいたい、未成年の女子高生を自宅に誘い込むなんて…なんては、破廉恥な!」
破廉恥って…。まだその言葉使う人がいるんだ。
父の興奮はどんどんヒートアップしてくる。
「どうせ金とその顔で娘を誑かしたんだろう!」
「誑かすって…お父さん、その人は…。」
命が出て行って説明しようとしたときは、もう時すでに遅く、父はまた蓮見の胸倉を掴むと、先ほどよりも思いっきりぶん殴った。
蓮見の悲痛な叫び声が、はなれ中、いや、屋敷中に響き渡った。
拾捌
「すみませんでした!」
蓮見の部屋で、床に額をこすりつけるようにして謝っているのは、先ほど蓮見を殴った命の父、榊源造である。
「いや、いいんですよ。説明しなかった俺が悪いんですし。気にしないでください。おとう…榊さんが怒られるのは、娘を愛する父親としては当然なことでして。」
ははははは、と乾いた笑いをもらす蓮見。その頬は腫れ上がっており、氷で冷やしている姿はとても痛々しい。口元がピクピク引きつっている。相当痛かったのだろう。何せ、馬鹿力なのだから。
「まさか、命の担任の先生様で、わざわざ部屋まで貸してくださって、勉強まで教えてくださっているとは…。しかも、あの伝説の光の狛さまだとは。そんな方に手を上げてしまって、もうご先祖様になんと顔向けしたらよいのやら。」
「お父さん、もう顔上げてよ。もともとは、全て私が悪いんだし…。」
「当たり前だ!」
源造はバッと顔を上げると、命の頭をげん骨で殴った。あまりの痛さにしゃがみこんでしまう。すると、慌てて藤家が走りよってきた。
「榊、大丈夫?」
「ん?」
源造は腕組みしてしかめっ面をしながら、今度は藤家に目を向け、難癖をつけ始めた。
「蓮見先生は分かったが、この坊主は何だ?随分なれなれしいな。」
藤家は落ち着き払って源造の目の前までいき、丁寧に頭を下げた。
「はじめまして、榊のお父さん。僕は榊さんの同級生で藤家月音と申します。実は、僕が影の狛でして。」
にっこりと藤家が笑った。こんな社交的で愛想が良い藤家なんて初めて見て、何だかその姿を不気味に思ってしまう。しかも、僕って…。チラリと源造の顔色を伺ってみると、しばらくまだしかめっ面をしていたが、にかっと歯を見せて笑った。
「そうか、そうか。君が影の狛か。いや、お目にかかれて光栄だよ。」
源造はうれしそうに藤家の手をとってブンブンとまわした。蓮見相手と何だかえらい違いだ。
「それに藤家って、あの日舞のお家だね。いやあ、私も見に行ったことがあるけどね。」
「はい、あの、桔梗って名前でやっているんですが、ご存知ですか?」
「桔梗、桔梗…ああ!桔梗か!」
いつの間に源造はそんな伝統的な和なものを見に行ったりしていたのだろうか。勝手に藤家と二人で会話をはずませてしまっている。命はその様子を口をポカンと開けて見ていた。
はあ…
盛大なため息が聞こえた方を向いてみると、蓮見が氷を頬に当てながら今度はこちらがしかめっ面をしていた。藤家の方を恨めしく見ている。それはそうだ。これだけ待遇が違うのならば…。
「蓮見、大丈夫?」
命は蓮見のすぐ隣に腰を下ろした。蓮見は力なく頷いた。どうやら何だか色々ありすぎて、ついていけていないみたいだ。
「ごめんね、うちのお父さんが…」
「いや…。」
蓮見は腫れてない方の口元を少し上げた。
「月音くん!」
いきなり源造が大きな声を出したので、命たちは反射的にそちらの方を向く。見ると源造が藤家の肩を掴んでいた。
「いやあ、君のような美男子な彼氏がいて、私はもう安心したよ。」
は…?
「いや、あの、僕は…」
藤家も少し困ってるようで、誤解を解こうとしているのだが、源造には人の話を聞かないという欠点がある。
「いやね、命は本当に男っ気がないと言うか。全くそんな話も聞いたこともないし、様子も無いから、少々心配していてね。普通、男親というものは、その、娘の恋愛沙汰には敏感になるはずなんだが。君が、うちに婿に来てくれるのは大いに大歓迎!嬉しいよ!」
む、婿?段々話が大きく膨らんで、戻れなくなってきているけど…。
命は慌てて二人の間に入った。
「ちょっとお父さん!」
とりあえず藤家の肩から源造の手を離した。けっこう力強く握っていたようで、藤家は離れた瞬間少し肩をさすっていた。
「何だ、命。」
「あのね、藤家とはそんなんじゃなくてただの友達なんだって。」
源造は一瞬止まったが、すぐに大口を開けて笑い出し、命の背中をバシバシ叩いた。あまりの強さに少し咳き込む。これは半分DVなんじゃないのか?
「そんな、照れなくってもいいぞ。父さんはちゃんと分かっているから、な?」
な?って笑顔で言われても…。
すると、藤家が命の背中を軽く叩いた。振り返ると藤家は少し頷いた。俺に任せろ、ということだろうか。きっと命が何と言っても父は信じてくれないだろうから、ここは藤家に任せることにして、一歩退いた。
「お父さん…」
「何だい?」
「命さんは、僕に任せてください。」
胸を叩いてみせる藤家は立派に見えるが…
「いやいや、おいっ!」
二人は何の意味を持つのだろうか、握手までしてしまっていた。
命はこの誤解によって進められている話の中心人物であるはずなのに、完全なる蚊帳の外である。どんな抗議など全く聞き入れられてもらえなかった。そして命と蓮見は訳が分からないまま、置いてけぼりをくらうのであった。
「命、月音君に免じて、お前の勘当は取り消してやることにした。」
「本当!?その、藤家に免じてって言うのは全く持って意味が分からないけど、でも、よかった。じゃあ、もう家に帰れるってこと?」
「ああ、いいぞ。」
「良かったな、榊。」
蓮見が肩をポンポンと叩いた。命は見上げ、微笑んだ。
「うん!今まで置いてもらっててごめんね。ありがとね、蓮見。」
すると、源造のわざとらしく咳払いする声が聞こえてきた。何がしたいんだ、この親父は。
「だがな、明日な。」
「は?」
命は今すぐ源造と一緒に帰れるものだろうと思っていたから、拍子抜けしてしまった。
「え?何で明日なの?もう取り消しされたんだから部屋に戻っていいでしょう?」
「いや…実は、少しイライラしてたからお前の部屋のものを…」
「ちょっと!捨てたの!?」
「いや、捨ててはない。断じて捨ててはないんだが…。ちょっと、今日お前が男のところに入り込んでいると知って、少々イラついてな。足が踏み入れられなくて、見せられない状態になっていて。」
いったいどういう状態なんだ?要するに命の部屋で暴れまわったのだろう。考えるだけでもため息が出てくる。
「何?お父さんが片付けるの?」
「いや、蘭子が…お前の母親が片付けてくれて…。」
「はあ?何でお父さんが片付けないの?」
「うるさい!私が手伝ったらかえって邪魔だから放っておけ、とあいつが言ったんだ。」
お母さん…。あの人はボーっとしてそうに見えて、人の何倍もすばやく動けるから。それに比べてこの父は、体格のとおり、がさつで、大雑把で、基本適当なので、確かに足を引っ張るだろう。
「いや、それなら余計に私帰らなくちゃ。お母さんだけに任せられないし。何より私の部屋なわけだから、私に責任があるんだし。」
「いや、母さんいわく、お前も邪魔になるからいらない、と。」
「あ、そうですか。」
確かに命も性格は源造に似て細かい作業とかできないし、きれい好きでもないけれど。
「それにな!」
ニコニコと源造は笑っている。非常に彼に似合わない笑い方なので、ゾッとしてしまう。源造はがっしり藤家の肩に腕をまわした。
「未来の息子と親睦を深めるために飲みに行ってくるから!」
意味が分からない。思わず蓮見と顔を見合わせてしまう。
「未来の…息子…?」
完全にそれは決定事項になってしまったような言い方だ。命は、ちょっとちょっと、と藤家の腕を引っ張り父から引き離し、ヒソヒソ声で抗議を始めた。
「ちょっと藤家!どんどん話が膨らんでいって、どうにかしてくれるんじゃなかったわけ?」
すると、藤家は困ったように眉を下げ、肩をあげた。
「いや、榊のお父さんがあまりに嬉しそうだから、言えなくて…。」
「でも、このままだと本当にお父さん信じちゃうよ?どうするの?私なんかと勘違いされて嫌でしょう?」
そう聞くと、藤家はじっと命の顔を見て、目を細めた。
「いや。別に嫌ではないよ。」
サラッと言ってのける藤家に、ため息が出てしまう。本気で言っているのか、冗談で言っているのか、本当に分からないで言っているのか、この人は表情があまり変わらないから読み取れないのだ。この短期間の間で何度も振り回されたので、藤家の言うことは話半分で聞くようにしているが、でも少し顔が赤くなってしまう。
「それに、俺、榊のお父さん好きだし。」
ニッコリ、と笑う藤家は、何だか本当に嬉しそうだった。
「まあ、でも後で様子を見て、ちゃんと話しておくよ。」
「うん。」
「まだ俺の片思いなんですって。」
「は?」
命が口を開けて藤家を見上げると、藤家はプッと噴出した。どうやらこれは冗談で言ったらしい。
「藤家!」
藤家は珍しく声を出して笑いながら、源造と一緒に出かけていってしまった。
取り残されたふたりは、現在月の光が窓から降り注ぐ蓮見の部屋で留守番をしている。二人きりになるというのは久しぶりで、変な話少し照れくさく感じてしまう。
「ほらよ。」
そう言って蓮見は部屋にある小さな冷蔵庫からアイスを二つ取り出して、そのうちの一つを命に渡した。
「あ、ありがと。」
蓮見はビリっと袋を開けながら、命と背中合わせに座った。軽く触れている部分が熱く感じるのは、蓮見の体温が高いからだろうか、それとも命が変に意識しているからだろうか。何だかある種の居心地の悪さを少し感じつつ、命はアイスにかぶりついた。夏の夜の少し涼しい風を浴びながら食べるアイスは、暑い昼間に食べるものよりも贅沢に感じる。
「藤家はさ。」
「え?」
急に話始めた蓮見の顔を振り返ってみてみると、ひどく真面目な顔をしていた。
「藤家…?」
「ああ。あいつ、父親がいないらしいんだ。」
「お父さんが…いない?」
「ああ、詳しくは知らないが、なかなか複雑な環境で育ったみたいだぞ。だから、父親に甘えたことがないんだろう。そういう存在にあこがれているのかもしれないな。」
命は蓮見が言いたいことが何となく分かった。
「うん。私の父親なんかでよかったら…。というか、別に嫌じゃないし。」
すると、蓮見はビックリしたような顔でバッと命の顔を見た。蓮見が何でそんな顔をするのかはじめ分からなかったが、すぐにピンと来た。
「違う違う!その、別に婿のことが嫌じゃなくて、父親を藤家に貸すのが、というか、貸すっていうのはおかしいし、上から目線だけど…」
手を横にブンブンと振って、支離滅裂なことを言いながら必死に否定する命の様子を見て、蓮見はフッと分かった。
「嘘だよ。分かってるよ。お前にそういう話はまだ早いもんな。」
馬鹿にしたように話す蓮見を私はキッと睨み、背中を思い切りぶつけてやった。痛えな、とケラケラ笑う蓮見を見て命はおおげさにため息をついた。
「でも、藤家ちゃんと否定してくれるかな?あのまま本当にゴリ押しで婿にされちゃいそうな勢いだもん。」
「ああ、流石にそれは…。」
蓮見は黙り込んだ。どうやら完全否定はできなかったようだ。源造の強引さは、少し藤家にも共通する部分があるかもしれない。だから、あの二人は気が合うんだろうか。二人ともあまりすぐに人と打ち解けられるタイプではないのに、会って数時間であの仲の良さだ。どちらかというと、藤家のほうが源造の息子みたいだ。そんな風に考えて、命は少し笑ってしまった。
「蓮見のお父さんはどんな人なの?」
「俺の親父?」
命は背中合わせの会話は疲れるので、蓮見の横にまわった。ベッドを背もたれにして、隣り合わせに座る。
「だって、蓮見の家族って1週間くらいここにおいてもらったけど、一度も見たことないし。」
「ああ、俺は一応実家にいるっちゃあいるけど、敷地だけだし、全然付き合いないしな。」
「仲…悪いの?」
「うーん。いや、良いわけじゃないけど、別に普通じゃないか。お前の父親は本当に娘思いだと思うよ。あんなに全力でぶつかってくれる親、大事にしろよ。」
ポンポン、と大きな手が命の頭を叩いた。命は蓮見の顔をじっと見つめ、小さく頷いた。何だか少し寂しそうな表情に見えたのだ。蓮見も何か色々あるのかな。そう思ったが、口には出さず、心の中にそっと閉じ込めておいた。
しばらく沈黙が続いた。先ほどは気まずい感じがあったりなんかしたのだが、何だかこの沈黙が少し心地よく感じる。どうしてこんなに感じ方が違うのかはたいそう不思議だが、何故か今夜はコロコロと心地が変わるのだ。ふと、視線を感じ、蓮見の顔を見上げると蓮見は命に向かって微笑んでいた。
「な、何?」
「いや、お前出て行っちゃうんだな、っと思って。」
その言葉に命は少し笑ってしまった。何だかそのセリフだと、同棲中の恋人なんかが離れて暮らすことにする、みたいな感じを受けたのだ。蓮見も自分の言い方が変なことに気づいたのか、少し照れたように頭をかきながら言葉を続けた。
「いや、お前たちがいたのは、ほんの一週間だったはずなのに、何でかな、随分一緒にいたような感じがして。少し寂しくなるな、と思ったんだ。」
「そうだね。蓮見の家、居心地良かったから。」
確かに短い間だったけど、何だか蓮見の言うとおり、本当にずっと一緒にいたような、そんな感じだ。特に今日は色々起きて、一気に一週間ぐらい過ぎた感じだ。
「ちょっとだけ、寂しいかもね。」
命がポツリとつぶやくと、蓮見は大きな手で命の頭をワシワシとかきまわした。
「ちょ、ちょっと!」
「んな風にいうなよ。別にいつでも遊びに来ればいいだろ、な?」
ニカッと笑う蓮見。確かにそのとおりだ。命はこくんと頷いた。
「でも、他のやつらには秘密にしろよ。大勢でおしかけられたら困るし、さすがに親からクレームくるから。」
「分かってるよ。」
蓮見は、絶対早く家探してやる、とぶつくさ言っていた。命はその姿を横から見て、ついつい口元が綻んでしまった。なぜだろうか。こうやって過ごしているうちに、蓮見が教師であり、担任でもあることを忘れてしまいそうだ。命はフーッと息をついて、頭をベッドに倒した。さすが坊っちゃんのベッドなので、頭が沈んで気持ちがよい。力がふっと抜けていった。
「何だ?眠くなったのか?」
蓮見が命の肩をポンポンと少し叩いた。そう言われた途端、何だか一気に眠気が襲ってきた。
催眠術にかけられたようにまぶたが重く感じ、目が開けられなくなってくる。どうやら昼間の疲れがリラックスした途端にドッと押し寄せてきたようだった。
「んー…」
命は目をつぶったまま、生返事をした。蓮見は命の体をゆさぶる。
「おい、寝るなら自分の部屋で寝ろよ。せっかく貸してやってんだから。」
命は眠気を妨げる蓮見の腕にいらつき、払いのけた。どうやら本気で眠くなったようだ。
眠気って急に一気に訪れるものだ。今、それに抵抗する元気も気力も残っていなく、欲望に忠実になっている。命はボーッとしたまま立ち上がった。
「そうだ、そのまま自分の部屋に…。」
行かずに命はすぐそばにあるフカフカのベッドへと身を投げた。弾むベッドの心地よさに、無意識に微笑む。
「おい、榊。そこ、俺のベッドだから。」
蓮見はそう言って頭を軽く叩いたが、命はもう寝ることしか頭になく、顔をしかめるだけだった。蓮見はしばらく私を起こそうと躍起になっていたが、全く起きる気配がないので、とうとう諦めてベッドの端に頭をゴロリと乗せた。
「まったく、酒も飲んでねえのに、酔ってんじゃないんだから。何でったっていきなりそんなに…。」
そんなこと、命はもう全く聞いていなかった。ぐっすり蓮見のベッドで熟睡中である。
「はあ。」
蓮見は頭をかかえながらため息をつくと、命を横目でチラリと見て困ったように微笑んだ。そしてそっと手を伸ばし、頭を優しく撫でる。
「早く、お前も大人になれよな。」
命はムニャムニャと夢の中で返事をした。そんな命を蓮見はクッと笑った。
「やっぱり、お前はそのままでいろよ。」
そうして蓮見は立ち上がると、静かに部屋を出ていった。
拾玖
ミコトは待ち合わせのあの大きな岩のところへ腰かけて、あの人のことを待っていた。
最近なかなか会うことができない。いつもは抜け出す手助けをしてくれていた狛の二人が、最近反対に妨害にまわっているのだ。私たちが遊びにいくからいいだろう、て。でも、私は村のみんなの普通に暮らしている姿が見たいのだ。
それに、あの人にも会いたい。
「というか、そもそもあっちが私の所に来てくれればいいんじゃない。いつも私ばかりが苦労して抜け出して会いに行って…。」
その時、向こうからかけてくる者の姿が見えた。ミコトはスクッと立ち上がり腕を組み、仁王立ちで出迎える。
「悪い、ミコト。遅くなった。」
無言で睨みつけてやるつもりだったが、あまりにも落ち込んで可哀想だったため、しょうがないので許してやることにした。
「全く、夜琴は…」
大方、世話になっているものにちょっかいを出されていたのだろう。あの人は随分性格が面倒くさい女だから。ていうか、正確には人間じゃないのだけど。
「ん?」
ミコトは夜琴が手に持っているものに気づいた。
「花…?」
野で摘んできたのだろう。色とりどりの花々がその手には揺れていた。
「女は花をもらうのが好きなんだろう?」
毒気のない顔で笑いながら、夜琴はミコトに根っこつきの花束を手渡した。夜琴の冷たい手がミコトの手に触れる。
「それ、あの人が言っていたの?」
「ああ。それで花を摘んでたら遅くなって、悪いな。」
全くこの男は純粋すぎるというか。でも、まあ、しょうがないだろう。一見大人でも、この世で過ごした期間はまだ小さい子供と同じくらいなのだから。この人が今まで向こうでどう過ごしたかなんて、ミコトには想像できないけれど。
「ありがとう。」
ミコトは不器用な花束を見つめてポツリと言って夜琴の顔をみた。
私が無理矢理ここに留まらせてしまっているけれど、本当にこれでいいのだろうか。私のせいでこの人は、皆から気味悪がられ、避けられている。私には巫女という立場と狛という守ってくれるべき後ろ楯があるけれど、この人には私しかいないのだ。
静かに頬に涙が流れるのを感じた。夜琴は慌てたようにミコトの肩を掴んだ。
「ミコト。何で泣いているんだ?この花のせいか?もしかしてあの女、嘘をついたのか。喜ぶどころか、悲しんでいるじゃないか。」
そう言う夜琴にミコトは首を振った。
「違うの、夜琴。嬉しくてもね、涙は出るの。だから、これは嬉し涙なの。」
「じゃあ、お前はその花が嬉しくて泣いているのか?」
「そう。嬉しいの。」
あなたはもしかしたら、ここにいるのが辛くなるかもしれない。だけど、私はもうあなたがいないと生きていけない。だから、――として私のわがままに付き合ってね。ごめんなさい。ありがとう。
「じゃあ、これから私はお前にたくさんの花を贈ってやるからな。」
夜琴の微笑む顔がどんどん遠くなり、視界は真っ暗になった。
目を覚ますと、そこは蓮見の部屋だった。なぜ私は蓮見のベッドに寝ているのだろう?
「あれ?」
命は頭をひねらせた。そうすると、だんだん昨日の出来事が甦ってきた。そうだ、あのまま寝てしまって…
「蓮見…?」
部屋を見渡してみても蓮見の姿はない。そのとき、枕元にある花を見つけた。白い花弁の花。そしてこの独特の強い芳しい香りは…
「ローズマリー?」
花言葉は『記憶』『追憶』『思い出』『私を思って』…
その時、先ほどまで見ていた夢が走馬灯のように甦ってきた。あれも、もしかして、この間のようなミコトの巫女の記憶なのだろうか。しかし、あの夜琴は、命が会った夜琴とは到底思えず、本当に別人のようだ。
別人…?
命は花をじっと見つめた。
花が、私にミコトの記憶を甦らせているのだろうか。でも、本当に何のために。何だか段々自分が自分ではないものに変わってしまいそうで、ゾッとした。
命は気味が悪く、また見つかっても困るので、蓮見の部屋の窓からそっと花を投げた。
部屋のドアを開けると、足元にうずくまっている物体を見つけた。蓮見だ。
「え、何で…?」
命が部屋を占領してしまったからだとは思うが、どうしてこんな廊下に。他にも命と藤家が使っていた部屋があるだろうに。命はとりあえず蓮見を揺り起こした。
「ん…」
蓮見はゆっくりと目を開けた。まだ寝ぼけているのだろう、ボーッとした目でこちらを見ていて、視点があっていない。
「榊…?」
「そうだよ。もうすぐお父さんと藤家も帰ってくるだろうし、起きて。」
蓮見は眉を寄せ、頭を軽く振りながら、だるそうに体を起こした。まだまだ眠いようだ。それはそうだろう。廊下で寝て、十分に睡眠が取れるわけがない。
「いいよ、蓮見まだ寝てて。私が蓮見の部屋のベッド占領しちゃったのが悪かったから。ごめんね。」
命は寝ぼけている蓮見の腕を引き、ベッドへと連れて行き、そこに寝かした。
「じゃあ、また起こしに来るから。」
そう言ってベッドから離れようとすると、ガシリと手首を蓮見が掴んだ。驚いて蓮見の方を振り返るが、寝ている。だが、どうやってもこの手は取れない。寝ぼけてものを掴むなんて、いい年して、赤ん坊じゃあないんだから。どうしようかと迷っているときに、バタンと部屋の扉が力強く開けられ、源造を担いだ藤家が入ってきた。
「榊…」
「藤家、お帰り。」
何もやましいことはないのに、冷や汗なんかが出てしまうのは何故でしょうか。とりあえず命は腕を掴んでいる蓮見の手を思い切り振り払った。思ったよりも簡単に手は外れた。命は蓮見の腕をベッドの上に乗せると藤家の方へ歩んだ。
「お父さん、酔って寝ちゃったの?」
藤家の肩に手をまわしてイビキをかきながら本気で寝ている源造の姿を見て苦笑した。
「ごめんね、藤家。迷惑かけちゃって。」
「いや…別に。榊のお父さん面白いし、楽しかったから。」
藤家は源造を蓮見のベッドの所まで運ぶと、蓮見をベッドから引きずり下ろして床に寝かせ、源造をベッドの上に寝かせた。
「榊、ちょっといい?」
「う、うん。」
「とりあえず、ここから出よう。イビキすごいし。」
命は頷き、源造のイビキが響き渡るこの部屋を出た。
「榊、先生と二人でずっとあの部屋にいたの?」
廊下に出た瞬間藤家が聞いた。
「ずっとじゃないよ。私はあの部屋で寝ちゃったみたいだけど、起きたら蓮見は廊下で寝ていたし。」
「でも、榊が寝るまでは一緒にいたんだ。」
何をそんなに気にすることがあるのだろうか。少し考えて、はたと思い立った。もしかして…?
「あのさ、藤家。別に変なこととかなかったからね。」
「変なことって?」
口だけ笑って目は笑わず、藤家はそんな風に返してきた。ああ、やはりこの事を誤解していたのか。
全く、何かなんてあるはずなんてないのに。仮にも教師と生徒なのだから。
相手にするのが少々面倒くさくなり、命は話題を変えた。
「そういえば、お父さんと何話したの?」
藤家は話題を変えられて少し不満そうだったが、壁に寄りかかりながら答えた。
「別に、普通に色々だよ。榊のお父さん花が好きなんだね。」
「うん、そうなんだよ。あの顔と図体に似合わずね。」
命は源造が花の辞典などを見ながらニヤニヤしている姿を思いだし、笑ってしまった。
「だからあの神社には色んな花が植えてあるんだね。」
「そうなの。花言葉の本なんかもあるんだから。うちのお父さん、あれでいて結構乙女なんだよね。」
「榊、お父さんのこと好きなんだね。」
藤家はフワリと笑った。命は少し照れくさがりながらも軽く頷いた。
「あ、そういえば、お父さんの誤解ちゃんと解いてくれた?」
藤家ははじめ、キョトンとしていたが、ああ、と小さく呟いた。そして顔を思い切りしかめた。
「そんなに、誤解されるのが嫌なんだ。」
「いや、嫌っていうか…藤家にも悪いし…。」
藤家の表情がスッと変わった。能面のような顔。全く何も心情が読めず、怖くなった。
「藤…家…?」
「ちゃんと、言ったよ。ちゃんと、ね。」
そう言って目を細める藤家は、恐ろしかった。何だか、全く別な人に変わってしまったような…。
「ねえ、榊。緑のチューリップ。あれ、一体誰にもらったの?」
ドキリとした。夏なのに辺りがひんやりと感じる。
「何で…。」
「蓮見と榊が話してるの、実は聞いていたんだ。」
藤家が片手で命の肩をガシリと掴んだ。
「ねえ、何で黙っているの?何で何も話してくれないの?」
藤家の手の力が強くなり、思わず顔をしかめる。
「藤家…痛い…。」
「榊もなの?俺は、いらないの?」
途端に藤家は悲痛な表情になった。まるで見捨てられた子どものような。誰か、命以外の誰かに訴えかけているような。
「藤家…。」
命は肩を掴み、震えている藤家の手にそっと手を重ねた。藤家がどこかに行ってしまうような気がしたのだ。藤家の手がビクリとし、ゆっくりと力を抜いていった。
「あ…ごめん。」
そして命の手を軽く払うようにして離れると、気まずそうに視線を床に落としたのち、逃げるようにして自分の部屋に引っ込んでしまった。
弐拾
「私、何してるんだろう。」
命は大きくため息をついた。少し、頭を冷やした方がいいかもしれない。
命ははなれの玄関から庭へ出た。あまり、本館の方へ近づいてしまってはまずいので、屋敷の裏門の方へ歩いていく。日本庭園が広がっていて綺麗な場所だ。命は池のほとりの石に腰掛けた。
「何で、私は、あいつと会ったことを隠しているのかな?」
するとザッと風がふいた。あまりの激しさに一瞬目をつぶる。再び目を開いたとき、池の水面には命ともう一人が映っていた。
「おはよう、命。」
「夜…琴…。」
驚いて振り返ると、そこには黒い着物を着て立っている夜琴がいた。明るい朝に似合わない、暗い雰囲気が夜琴には渦巻いている。
「お前、私のことを言ってないんだな。私に、再び会いたいからか?」
クッと目をほそめて笑う夜琴。そう言われて命は真っ赤になった。恥ずかしさ、怒り、自分でも訳が分からない。
「誰が!誰があんたなんかに…。」
命は立ち上がって夜琴に掴みかかろうとしたが、夜琴はスルリと軽い足取りでそれを避けた。やり場のな手をグッと握り締めて夜琴を睨み上げる。
「そういうところ、本当にミコトのままだな。私には、お前の考えていることが手に取るように分かるぞ。」
冷えた目の奥で私をどのように見ているのだろうか。命はこの男の恐ろしさに思わず一歩下がった。
恐ろしい…?
命が夢の中で見たこの人は、恐ろしさとは無縁の一だった。こんなにも、人は変わるものなのだろうか。一体、何によってこんなにも変わってしまうのだろうか。命はこの夜琴という男に違和感を感じていた。
「あなたは、何がしたいの?夜琴。」
すると夜琴の顔つきは重くなった。何か、悲痛なことにでも耐えるかのように。苦しそうな表情に。
「私は、やらなくてはいけない。取り戻さなければならない。ミコトを。あいつを。そのためには、お前が邪魔なのだ。」
そう言って夜琴は命を睨みつけた。だが、その瞳は微かに揺れていた。心の中で、何か葛藤があるかのように。
「まだ、直接手は出さない。その前に下準備が必要だからな。」
「下…準備…?」
「お前の中のミコトという存在を大きくしていくことだ。」
私の中にある、ミコトの巫女の存在?
確かに、命の中にあの人がいることは確かだ。時折浮かんでくる自分のものではない記憶。それは紛れもなくあの人のものだ。でも、それでどうするつもりなの?
「ミコトと花には強い関係がある。あの者の記憶や魂は、花に閉じ込められているのだ。」
「花、に…?」
「だから、私はお前に花を贈り続ける。お前に、その花を拒む権利はないし、しようと思ってもできないだろう。」
夜琴はどこからかスッと花束を取り出した。ピンク、青、青紫、白の美しい小さな花の花束。
「これは…勿忘草。」
受け取りたくないのに、手だけが命の意志とは反し、スッと動きその花を受け取った。途端に目の前の景色が歪み、気が遠くなっていく。
勿忘草―――……
真実の恋
真実の愛
私を、忘れないで
目の前に広がるのは月の綺麗な夜空と、揺れる木々の葉。呼吸が浅くなり、心音がゆっくりになっていくのが分かった。
ああ、私は死ぬのだろう。
だけど、死など怖くはなかった。私は、もう十分に生きた。人から見れば短いものだったかもしれないけれど、でも、私の寿命は生まれたときから決められていたし、こういった終わりになるのもきっと決められていたこと。
ミコトはひどく冷静だった。こうも間近に死が近づいて、ミコトは面白いくらいに物事が理解できた。何が起こったのか、自分の置かれている状況も。
ねえ、私、ちゃんと分かっているのよ。
「ミコト、私は、私は…。お前がいなくなったらどうしていいのか。私は、生きてはいけない。」
そう言って、彼はミコトにしがみついて泣いた。ミコトはその頭をそっと撫でた。いつも大きく見える彼が、この時ばかりは小さな子供のようで。
ねえ、私はあなたが何をやったか知っているのよ。
知っているけれど、あなたのために、あの子のために、これは内緒にして、知らないふりをしていてあげる。正直、あなたもあの子も恨んでないと言っては嘘になるけれど。憎くもあるけれど、愛おしくもあるあなた達だから。それに、私のせいでもあるから。あなた達を、その苦しい心の状況から救ってあげたいけれど。私にはもう時間がない。それだけが心残り。どうか、自力でそこから抜け出せますように。
ミコトは彼の顔を再び見た。恐れと、後悔と、悲しみに歪んだ顔。
今、私の一番の願いは、これ以上この人が愚かな行為をしないこと。それだけは、どうしても、伝えなくちゃ…。
「ねえ…一つだけ…私が、いなくなってしまう前に、約束して…。」
「何だ?」
「私を…っ」
ドクン、と心臓が大きく鳴った。
まるで、最後の力を振り絞り、絞りきったかのように。
ああ、間に合わなかった。伝えられなかった。
スーッとミコトの目じりから涙が一筋ながれ、何も見えなく、何も聞こえなくなった。最後に感じたのは、花の、香りだった。
どうか…もう二度と…
目が覚めると、命はベッドの上にいた。先ほどまで外にいたはずなのに。夢だったのだろうか。しかし、胸元にはあの勿忘草の花束が置かれていて、それが夢ではなかったことを示していた。
夢といえば、先ほどの映像は、あれはミコトの巫女の最期の瞬間だろう。肝心な一緒にいた人物を思い出すことはできないけれど。それに、ミコトの巫女の言葉の意味も分からない。分かっているって一体何を…。
「榊、気が付いたか。」
声の方を見ると、蓮見と藤家がドアに寄りかかって立っていた。ミコトはベッドから身を起こした。
二人はベッドの方へと近づいてくる。
「蓮見…藤家…。」
蓮見は無言で花束を掴んだ。
「榊、話してくれるな?」
ミコトは黙って頷いた。ポツリポツリと話す話を、二人は黙って聞いてくれていた。初めて会ったあの夜のこと、花のこと、ミコトの巫女の記憶のこと。命が話し終わったとき、藤家は命の腕をグッと掴んだ。
「榊、どうして、今まで話してくれなかったんだ?」
「おい!藤家!」
蓮見が藤家を止めにかかるが、その手を振り払った。
「先生は悔しくないんですか!俺達、信用してもらってないってことじゃないですか!」
「藤家…違う、違うの。」
「じゃあ、何で!」
命は何と言ったらいいか分からず、込みあがった気持ちの行き場が見つからず、目から涙としてこぼれ出た。
「ごめ、んなさい…」
「榊…」
その時藤家の体がグラリとゆれ、そのまま後ろへと倒れていった。
「藤家!?」
咄嗟に蓮見が藤家に手を伸ばした。そのまま藤家は蓮見の体へと倒れこんだ。
「おいっ、藤家!しっかりしろ!」
「藤家!?」
すると、藤家のまぶたがスッと開いた。しかしそこから現れたのは、藤色の瞳ではなく、真っ黒な瞳だった。
「大丈夫だ、心配しなくていい。」
藤家が蓮見から離れてスクッと立った。
「藤…家…?」
口調も雰囲気も全然違う。そして、目の色も、これは…
「光…さん?」
藤家、もとい光はニコリと笑った。
「あの子は今興奮して混乱していて、何をしでかすか分からないからね。ちょっと強引に変わって、少し頭を冷やさせることにするよ。ああいう大人しい奴ほど本当は恐いからね。」
「光さん…。」
「それにあの子の気持ちは痛いほど分かるしね。」
光は悲しげに笑った。
「あの子が過剰に反応してしまったのは、あの子の過去も影響しているんだろうけど、私の過去の感情、記憶とも共鳴してしまったからかもしれない。」
「光さんと…?」
光はああ、と小さく頷いた。
「ミコちゃんも私たちに黙ってあいつに会っていたことがあってね。」
「それって…」
「そう。君が会った夜琴だよ。それで、随分彼女を責めてしまってね。」
そういえば…
前に藤家の姿が誰かとダブって見えたときがあったけれど、あれは光だったのか。とすると、あれもミコトの巫女の記憶…。
「夜琴、か。私はあいつが殺したいほど憎かった。それで、私は…」
光はボソリと命たちには聞こえない声で呟くと、突然真っ青な顔をして、頭を抱えた。
「光、さん…?」
光の目が揺らぐ。
「ミコト、すまなかった。」
そう最後に言って、瞳の色はまた藤色に戻った。光の言葉の意味は何だったのだろうか。命はもう、どれが真実なのかも分からなくなった。
その時、扉がバタンと開き、神妙な顔つきの源造が入ってきた。
「お、お父さん!?」
「榊さん、もう大丈夫なんですか?」
「ええ、すみませんね、ご迷惑をおかけして。それと、今の話聞かせていただきました。」
扉の前で立ち聞きでもしていたのだろうか。そんな事なら、いっそのこと、別に堂々と入ってきて良かったのに…。
「命…」
「え?なに?」
「先ほど、夜琴と言っていたな。」
「う、うん。」
すると源造は腕組みしながらうーん、と唸った。
「その男の事なら、もしかすると少し分かるかもしれん。」
「ええ!本当に!?」
三人は驚いて顔を見合わせた。
「ああ、夜琴…。確かうちの家系のものだろう。」
え………?
夜琴が榊家の家系って、どういうこと?
「まあ、詳しくはうちでだ。確か家に夜琴に関する書物もあるはずだ。」
「家に!?」
知らなかった。ミコトの巫女に関する書物ならもう既に全て読んだとばかり思っていたのに。
「とりあえず、月音君も、蓮見先生も、一緒に来ていただけますか。」
「榊さんのお宅にですか?」
「はい。」
こうして命は荷物を持って、四人で久しぶりの我が家へと帰ることになった。
「え…ここの神社って榊の家だったの?」
藤家は神社に着いて驚いたように言った。そうだ。そういえば藤家とは神社で会ったことがあるけれど、恥ずかしいから秘密にしていたのだった。
「うん、そうなの。」
「ああ、でもそう言われれば納得かも。」
藤家はうん、うんと軽く頷きながら言った。
「この神社と榊って雰囲気にているし。」
その不思議発言に命はクスリと笑った。
「命!」
声がするそうを見てみると、命の母、蘭子が小走りでこちらからやってきていた。
「お母さん!」
久しぶりの母子の再会である。蘭子と会っていないのは1週間程度だったが、その本当に見えてるのか分からない細い目は懐かしくて、笑ってしまった。
「ケガはないわね。どうやら無事に帰って来れたみたいで良かったわ。あのお父さんの剣幕じゃあ、無事では済まされないかと思ったわ。」
「ああ…うん。でも、できればもう少し早くしっかりと連絡してくれてたら、もっと対処のしようもあったんだけど。」
命がそういうと、蘭子は少し肩をすくめてみせた。
「命の部屋、綺麗にしといたから。前よりも綺麗になっているわよ。」
「それは、どうも。ありがとうございます。」
そして、その部屋もじきにまた汚くなっていってしまうでしょうが。
命は父と蓮見と藤家の三人のほうを振り返った。
「あら、蓮見先生。お久しぶりです。」
蘭子はニコニコ笑って、蓮見の方へと歩んでいった。三者面談などがあるので、二人はお互い顔を見合わせたことがあるのだ。
「どうも榊さん、お久しぶりです。」
蓮見はスッカリ教師の顔だ。何だかその表情は久しぶりで、変な感じを受ける。
「母さん、この方は光の狛なんだぞ。」
源造がなぜか自慢げに言った。蘭子は、まあ、まあと手を合わせてニコニコしていた。蘭子はいつもニコニコしているので、藤家以上に感情を読み取ることが難しいのだが、これは少し驚いているみたいだ。
「で、こちらは?」
そう言って蘭子は藤家のほうを見た。
「はじめまして。命さんと同級生の藤家月音と申します。」
藤家は丁寧にお辞儀をした。するとすかさずまた源造が割り込んできて、藤家の肩を抱いた。
「そして母さん、月音君は影の狛なんだよ。見ろ、この整った顔立ちに知的な雰囲気、上品な感じが全身から溢れ出していて…」
源造の藤家自慢は延々と続く。藤家はお前の自慢の息子か何かか。婿という紹介はないので、やっぱり藤家はちゃんと説明してくれたみたいだ。だが、やはり藤家は源造のお気に入りのようだ。命はこの馬鹿げた光景に顔を引きつらせつつ、苦笑した。
「おっと、こんな所でいつまでも立ち話してたらいかんな。命、とりあえず自分の部屋に行って、荷物を片付けてきなさい。あの部屋で待っているから。」
「分かった。」
「じゃあ、蓮見先生、月音君、行きましょう。」
そうして三人は命とは別れ、あの部屋へと向かっていった。
あの部屋とは、榊家だけしか知らず、入ることのできない秘密の間なのだ。いつも結界を張られていて一般の人は気づきもしないので、大事な話をするときに使われ、重要な文書などもそこに保管されているのだ。多分、夜琴に関する文書もその中にあるのだろう。
弐拾壱
「わー…なんか凄い久しぶり。」
命は自分の部屋に入って、ほっと息をついた。確かに前よりも断然きれいにはなっているが、やはり自分の部屋。一番落ち着く。しかしそれと共に、安堵のせいか一気に疲れがドッとやってきた。
命はフラフラとベッドへと移動し、寝転がった。
「この一週間ぐらい、色々あったからな…。」
本当に色々あった。ありすぎた。生活が随分と変わってしまった。
はあ、と大きなため息をついて、命は目を閉じた。ベッドに体が沈んでいく感じがする。非常に心地よく、このまま身を委ねてしまいたいが、人を待たせているのだ。
命は自分の心に鞭を打ち、必死にまぶたを開かせて、体を起こした。
「片付けは…またでいいや。」
もう疲れているのだ。話が終わってから、片付けることにしよう。命はしばらくの間、ベッドの下に座り込んだ。何だか非常に動きたくないのだ。階段を下りて例の部屋に行くという動作さえも面倒くさい。誰か迎えにでも来たら…。
「おい、榊。迎えに来たぞ。」
「え?」
声が聞こえてきて顔を上げると、部屋の入り口にニヤニヤ笑っている蓮見の姿があった。
「は、蓮見!何勝手に入ってきてるのよ!」
「ノックしたけど。まあ、ボーッとしていて気づいてなかったんだろ。」
蓮見は部屋に更にズカズカ入ってきて、キョロキョロと見渡した。
「お前の部屋、物多いな。」
「うるさいな!蓮見の部屋が物なさ過ぎるんだよ。それより、何でここに?」
「お前、遅いからな。便所のついでに、迎えに来てやったんだよ。どうせ部屋に着いたら、何だか色々面倒くさくなったんだろ?」
「うっ…」
全くもってその通りである。それが蓮見にも伝わったのか、笑われた。
「ほら、座ってんなよ。行くぞ。」
蓮見は命の手を掴んでひっぱりあげた。
「うわわわ!」
命はよろめきながらも蓮見に引かれて立ち上がった。蓮見はそのまま手を離さず、命を引っ張って歩き始めた。
「ちょっ、ちょっと!」
命は顔が赤くなってしまった。蓮見は少し振り向いたが、ニヤリと笑っただけだった。
変に手を意識してしまっている私が馬鹿みたいじゃないか。
命は蓮見から顔を背けた。赤くなっている顔なんか見られたくなかったのだ。
蓮見、どういうつもりなんだろう。
元々命と蓮見は仲が良かったが、それは教師と生徒としてのレベルでだ。だけど、これもそのレベルでの事なのだろうか。蓮見は大人だし、こんな事なんとも思ってないのかもしれないけれど、命は男性経験など皆無で、ちょっとのことですぐに動揺したり、誤解してしまったりするのだ。
蓮見の表情をチラリと伺ってみたが、いつもの顔だ。やっぱり意識してしまっているのは私だけで、きっと蓮見にとっては唯の一生徒としてぐらいにしか見えていないんだろうな。
そう思うと、心の奥がズキンと痛んだ。命は苦しくなって、軽く蓮見の手を振り払った。
「もう、ちゃんと歩けるから!」
そう言って笑いながら。
「あれ?本当にさっきまでいた部屋が分かんなくなってるな。」
1階に下りて、蓮見は先ほど出た扉を探そうとしているみたいだが、見つからずにウロウロしている。
「うちの家系にしか見つからないようにしているし解けないようにしているからね。」
そう言いながら命は結界を解いた。途端に蓮見の目にも扉が見えるようになった。
「おっ!すげえな。」
蓮見はニカッと笑い、二人で扉の中に入っていった。
「お、命もやっと来たか。」
見ると、源造は古い巻物のようなものをちゃぶだいの上に置いていた。命達もその近くに座る。
「お父さん、それは?」
そう聞くと、源造は紐をひっぱり巻物を広げた。そこにはズラリと名前が書かれていた。
「これは榊家の家系図だ。」
「あっ、本当だ。」
見ると一番下のところに命の名前が書かれていた。
「それで、見てほしいところはここだ。」
現像の指はスーッと上にあがっていき、一度ミコトの巫女の名前が書かれているところで止まった。そして、そのまま左へ移動していく。ミコトの巫女の兄弟なのだろう。ズラリと名前が書かれている。
「兄弟多くない?」
「当時は治安が良くなかったからな。それになかなか強い巫女も生まれなかったから、一夫多妻制のようなものを置いていたんだ。」
源造の指は一番端の名前のところで止まった。命達はそこに書かれている名前を見て、目を疑った。
「え…夜琴?」
源造は無言で頷いた。
「どういうこと?じゃあ、ミコトの巫女と夜琴って兄弟かもしれないっていうこと?」
「ああ。でも、お前が見た夜琴はもう大人だったんだろう?」
「うん。でも、それがどうし…」
源造はトントンと名前の下に書かれている漢数字を指先で叩いた。
「え…」
「そうだ、夜琴は生まれてから一年で亡くなっている。」
「どういうことだ?」
命達は唖然としてしまった。あまりの訳の分からなさにただただその名前を見つめることしかできなかった。
「これは、あくまでも私の推測なのだが…」
源造は顎に手を添えながら言った。部屋に緊張が走る。
「この当時、死人を甦らせる術というものがあったらしい。もちろん、それは禁忌なのだが。自然の摂理には絶対に逆らってはいけないからな。夜琴は一番初めに生まれた息子だ。当然両親の思い入れも強かっただろう。そして、両親は禁忌に手を染めてしまった。」
「で、でも、一体そんなことどうやってやるの?」
源造はまっすぐ命の目を見た。
「生け贄だ。」
生け…贄…?
「あくまでも、これは私の推測だ。真実は全く違うものかもしれない。でも、確かにその時代にそのようなことが裏でなされていたんだ。その行われた場所というのがあの岩がある場所なんだ。そこには、黄泉の国と繋がる物の怪がいるらしくてね、生け贄という贈り物を贈ることによって扉を開いてもらい、死人をこちらへ返してもらうんだ。生け贄と交換で。もしかすると、それによって夜琴は甦ったのかもしれない。」
確かにそう仮定すると、納得がいかなくはない。ただ、それと断定することはできないが。
「そのことに関しては、私が分かる。」
蓮見の声がした。命たち三人は驚いて蓮見のほうを見た。蓮見の目の色はどちらにせよコンタクトをしているので分からないが、雰囲気が変わっている。
「陽、さん?」
蓮見の姿の陽はニコリと笑った。
「陽さんは、このことについて何か知っているんですか。」
「ああ。」
陽は小さく頷いた。
「昨日は目覚めたばかりで記憶がはっきりしていなかったがな。今その話を陽杜のなかで聞いていて段々思い出してきた。」
陽は正座していた足を崩し、あぐらをかきながら話し始めた。
「その夜琴の甦りはミコト自身の手によって行われたんだ。」
「え!?」
あの、ミコトの巫女が禁忌に手を染めていた?
「確かに、あの時代そういう禁忌を通じての行為がなされていたこともあった。だが、ミコトの力ならそれに頼らなくとも一時的になら連れ戻すことができたんだ。そもそも、ミコトのお父上が不治の病に倒れ、ずっとはっきりしない意識の中で夜琴の名前を呼んでいたんだ。最初の男児だったからな。それでミコトは父上への最後の孝行として一時的に夜琴を連れ出すことにした。」
「一時的に?そんなことできるの?」
「ああ。ミコトは死後の世界と繋がる門の番をしているあの女と親しかったからな。」
番をしている女?そんな人がいたんだ。
「でも、どうして?どうしてそんな事になってしまったの?」
陽の顔は一気に険しくなった。
「あいつは榊家に恩がある身にも関わらず、条件を出してきたんだ。実は、番をしている女というのは弱い妖狐なんだ。でも、妖狐の一族は滅びていてあいつがただ一人の生き残りだった。村と妖狐の一族は仲が悪かったんだがな。あいつは、ミコトの父親に仕事と居場所をもらったんだ。あいつは、力がほしかった。それで夜琴の存在を知って、実はそれを利用していたんだ。夜琴を成人の姿にして力を成長させ、自分はそのおこぼれをもらって少しずつ力を溜めていた。それを失うと困るからだろう。だから、代わりのものを要求してきた。」
ああ、だから夜琴は1歳で死んだにもかかわらず、あの大人の姿だったのか。
「それで、ミコトの巫女はどうしたんですか?」
「あの女が要求してきたのは、光だったんだ。影の狛で力もあり、何よりあの女は何故か光を随分と慕っていた。自分のものにしたかったのだ。そうすれば、一晩とはいわず夜琴を返してやろうと。もちろんミコトが了承する訳がない。すると、あの者は次に違う要求をしてきたんだ。」
「違う、要求?」
「榊家の現当主、ミコトの巫女の力だよ。ミコトはそれで了承した。ミコトの絶大な力を手に入れたあの女は、村のものを襲いだした。しかも、それは死から甦った夜琴のせいになった。ミコトは罪悪感をおぼえ、責任を感じ、あの者を愛したんだ。いや、愛したつもりで、それは同情だったんだ。」
陽は強い目でいった。
同情…?
はたして本当にそうだろうか。
命には、ミコトの巫女のあの愛情は、夜琴への親類に対してでもない、哀れみからでもない、ただ一人の愛する人への者だと感じられた。しかし命はそれを言わないでおいた。今の陽には、何だか有無を言わせぬ気迫のようなものがあるのだ。陽は冷めた目で遠くを見るようにして呟いた。
「私はあの女を許せない。ミコトを苦しめたのだ。あいつがっ、ミコトを…。そして、私は夜琴をも憎んでる。可哀想なやつだとはお前達は思うか?今の話だけ聞けばそうだろう。でも、あいつは、ミコトに対してひどいことをした。裏切ったのだ。だが、私が今していることはどうなのだろう…。」
「陽さん…?」
陽はニコリと笑うと、スッと目を閉じた。再び目を開けたとき、もうそこには蓮見が戻っていた。
「そういう事だったのか…。」
源造が息をフーと吐きながらいった。どうやら伝説の光の狛がいきなり出てきて、驚いたと同時に随分緊張したみたいだ。
「じゃあ、夜琴も大変だっただろうな。夜琴が甦ったことは、あの小さな村ではすぐに広まっただろう。すると、人々は災いの元が夜琴と認識するだろう。ミコトの巫女と同じ赤い瞳を持っているにもかかわらず、正反対の者だと。居場所もなかっただろうし。ミコトの巫女も罪悪感にさいなまれたに違いない。でも、夜琴がした裏切りって何だったのだろうな。陽様もそこまで言ったのなら教えてくれてもいいだろうに。」
その時、命はふと夢で見たミコトの巫女の記憶を思い出した。確か、夜琴はミコトの巫女に花束を贈っていたとき、あの人がそう言っていたからといっていた。もしかして、それは陽のいっていた妖狐の女と同一人物ではないのか、と。
しかしそこで疑問が生まれる。それならミコトの巫女も、夜琴もどうしてその人を恨んでいないのだろう。あの話の感じからして憎悪の感情は受け取れなかった。それに、夜琴がミコトの巫女に対してしたひどい仕打ちとは何なのだろう。
命は、陽の話に疑問を感じていた。いや、陽だけではない光からも。命の知っているミコトの巫女の記憶から見て、それらは少しずつ矛盾しているように見える。これは、どういうことなのだろうか。
「榊、どうした?」
みこ後が考え込んでいる様子を見て、藤家が顔を覗き込んできた。命は咄嗟になんでもない、と手を振った。
私の考えすぎだろう。それに、もしかしたら理解のある村の女の人が夜琴をかくまっているのかもしれないし。
しかし、命の推測は当たっていたのだ。この矛盾と誤解の積み重ねで、あの事件が起こったのだから。
本当にあの当時全てを知っていたのは、誰一人としていなかったのだ。
“命ーミコトー” 前編
まずは第一章です。
失われたはずの二人の狛と伝説の巫女の名前を継ぐ者の再会。三人のもとに次々と謎が舞い込んできました。一体どれが真実なのか。命たちは真実にたどり着けるのか。
続く第二章はコチラです→http://slib.net/12996