四肢創造
ゆっくりと手を伸ばししたが、残っているはずの右腕が、自分のものではないかのように重かった。ため息が、生ぬるい沈黙に混ざり、溶けていく。
リハビリの後はいつもこうだ。
仕方なく腕を下ろすと、換気のために開けられた窓から、熱風がゆっくりと流れ込んできた。
ここ、『下野リハビリテーション病院』に入院して、二か月が経った。
僕は窓外に視線を預けたまま、いつものように脳内のフィルムを巻き戻す。
そう──あの日を境に、僕は二肢となったのだ。
五月の朝。両毛線の列車は乾いた陽射しを浴びながら、ゆっくりと進んでいた。差し込む光は、車内の空気をじわじわと膨らませるようで、肌にまとわりつく微かな熱気がある。
列車が無人駅に差しかかった。ゆっくりと減速するにつれ、ブレーキの低い軋み音が車内に広がる。停車と同時に、どどどど、という無数の足音と、にぎやかな笑い声が一気に車内を満たした。少しやんちゃな私立高校の生徒たちが、一斉に降りるのだ。
彼らの姿が消えると、途端に車内はしんと静まり返った。冷房の風が、首筋をやわらかく撫でてくる。どこか、鉄と埃のにおいが混じっていた。
僕は小さく息を吐いた。ほんの十五分の乗車時間でも、この時間帯は気が張る。気づかぬうちに、肩に力が入っていた。ようやく落ち着いたと思ったのも束の間、列車は次の駅に到着した。僕が降りる駅だ。
ホームに降りると、むっとした空気が身体を包み込んだ。まるで待ち構えていたかのように、蝉の声が不快なほど鼓膜を震わせる。横を向くと、他の車両からも十人ほどの生徒が降りてきていた。古びた改札でSuicaをかざし、コンクリートの階段を下りる。その先に、友樹と佑真が待っていた。僕に気づき、軽く手を振っている。僕も手を振り返す。ふと、二人の足元に視線が落ちた。
〝やべ、日傘忘れた〟
あの日の朝の記憶は、いつも同じ場所でぷつりと切れる。
病院は栃木と群馬の県境に位置する。増築を繰り返したせいで、西側の旧棟と東側の新棟の境界がはっきりと分かれている。僕のいる三二〇号室は、幸い、東棟だった。西棟のトイレは、便器こそ新しくなっているものの、壁や床に染みついたアンモニア臭が抜けず、西棟の患者たちもわざわざ東棟のトイレを使いに来る。
病室の入り口まで車いすを漕ぎ、ひょこりと顔を出す。廊下は静まり返り、五メートルほど先、トイレの入り口には歩行器にもたれかかる老人が一人、じっと立っていた。
諦めて車いすを半回転させ、病室の窓際までゆっくりと漕いでいく。窓を覗くと、眼下に渡良瀬川が細い帯のように流れ、その向こうには、名も知らない山がのっそりと横たわっている。最初は退屈な風景だと思っていた。でも、こうして二か月も眺めていると、不思議と愛着が湧いてくる。
「さとるくーん。リハビリに行きますよ」
背後から声がかかる。振り向くと、水島が笑みを浮かべて立っていた。僕のリハビリを担当している、理学療法士の女性だ。年の頃は二十代半ばだろうか。
「……はい」
気の抜けた返事が口をついて出る。けれど、水島はそんな返事など気にも留めない様子で、すでに車いすの背に手をかけていた。軽やかに、慣れた手つきで向きを変えると、そのまま病室の出口へと滑るように車いすを押し出す。
「あ……」
廊下に出ると、トイレの前にいたはずの、歩行器にもたれかかる老人の姿がない。
「ふふ。いいわよ。待ってるから」
僕の視線に気づいたのか、水島は躊躇なく男子トイレへ直行し、僕の両脇を抱えると、くるりと便器へと移乗させた。
リハビリ室は一階にある。エレベーターを降り、薄暗い廊下を抜けて入口に差しかかると、受付の女性がにこやかに挨拶をしてくる。病室に比べ、リハビリ室はひときわ明るい。晴れた日などは、大きな窓から差し込む光が床に反射し、視界を焼くほどだった。
広々とした室内の壁際には、各種の歩行補助具が無造作に並べられている。その奥に設置された二本の平行棒には、僕がここへ来ると、たいてい誰かがつかまりながら、ぎこちない歩みを繰り返していた。
僕はいつものように、車いすを治療台に寄せ、水島に支えられながら移乗する。仰向けになると、天井の白さがじんわりと瞼の裏に染みてくる。
僕には、歩行器も平行棒も必要ない。
今のところ痛みもなく、物理療法の機器とも無縁だ。僕のリハビリはただ、右足の筋力強化練習、座位保持練習、移乗動作練習——その繰り返しにすぎない。
けれど、水島は決まってその合間に、奇妙な動きをする。
それは、もう「存在していない」はずの左腕や左脚に、そっと手を添えるような動作だ。掴むというよりは、撫でる。撫でながら、何かを確かめているような、あるいは、呼び戻そうとしているような。もちろん僕には、そこに触れられているという実感はない。でも、仰向けのままその動作だけを見ていると、自分の身体がこの世のものではないような、奇妙な浮遊感に包まれていく。
それは十分ほど続くが、そのあいだ僕は何も言わない。彼女の顔が、あまりに真剣だから。
「今度は、右脚ね」
そう言って、水島は顔の緊張を少し緩める。筋力強化練習の前に、いつものように右脚をマッサージしてくれるのだ。長く臥床していたせいで、僕の右脚はすっかり硬くなっていた。その筋肉を、彼女がゆっくりと、ていねいにほぐしていく。彼女の手はいつも温かく、少し湿っている。その手の温もりが、僕の体温と溶け合いながら、じわじわと染み込んでくる。まるで皮膚を越え、体内にまで浸透し、こわばった筋肉をじかに解きほぐしているような感覚だった。
その心地よさに、思わず声が漏れる。
「……手、温かいですね」
水島は手を止め、目をぱちりと瞬かせる。すぐに、ふっと微笑んだ。
「そう? ありがとう。……ん? ありがとうって、変かしら」
照れ隠しのように笑うと、下瞼がぎゅっと上がって、目尻が柔らかく垂れる。その仕草を見て、僕の顔にも自然と笑みがこぼれそうになる。けれど、なぜだろう。それを押しとどめる力が、反射のように働いた。僕はそっと目を伏せ、いつもどおりの、無表情を装った。
*
二肢では歩けない。正確にいえば、右腕と右脚のみでは、歩けない。それが自明であるがゆえに、僕は「歩行」に執着していない。
「必ず、歩けるようになるから」
退院が近づくにつれ、母は以前にも増して頻繁に見舞いに来るようになった。
「絶対歩けるようになるからな! 待ってっからな!」
友樹と佑真も、来るたびに僕を力強く励ます。けれど、そうした言葉を耳にするたび、喉の奥に細く硬い小骨が引っかかるような、奇妙な違和感が残る。
障害と健常。
両者を分かつものは、歩行……。いや、そんなはずはない。僕にはいまだ、自分が「障害をもった」という実感が乏しい。たしかに、不自由ではある。けれども、右にカーブせず車いすを漕げるようにはなったし、移乗もなんとか一人で行えるようになった。少なくとも、「歩けない」という一点をもって、外部の誰かが僕の背中に『障害』という表札をぶらさげようとすることに、強い反発がある。もちろん、使えるものは使う。障害者手帳も、いずれ申請するだろう。でも、自分の内部にまで、その表札を設置する義務なんて、どこにもない。
水島は一度も、「歩行」について語らなかった。かと言って、この言葉を避けているようにも見えない。他愛のない会話はするけれど、過剰に励ますわけでもない。
彼女は、ありふれた言葉をそっと僕のそばに置いていく。僕はそれを、ひとつずつ確かめるように拾い上げる。水島との会話は、そんな静かな営みのようだった。
「少し、楽にしててね」
彼女は僕の左方をそっと撫でる。もしかすると、それは左腕と左脚を創造する儀式なのかもしれない。僕は目を閉じる。
「今日、さとるくん誕生日よね? 病院で誕生日を迎えることになっちゃって、本当にごめんなさい。でも、なんとか退院できそうで良かったわ。……本当はもっと左の手足が使えるようになれば、生活もしやすくなるだろうけど。……わたしたちの力不足ね。外来リハビリも、一緒に頑張りましょう」
彼女の声は春のそよ風のようだった。それを受けながら、ふと思う。言葉は、ただの音の羅列ではない。意味を認識するだけのものでもない。発せられた言葉には、色があり、リズムがあり、そして温度がある。
がちゃ、と近くの窓が開く音がした。換気のため、職員の誰かが開けたのだろう。どっと、灼熱を孕んだ空気が流れ込んできて、微かな排ガスのにおいとともに、僕の身体を包む。左方から、彼女の手の温もりが、柔らかな波となって漂っている。
四肢創造