狐の恋路
ひとりぼっちの狐が神様と出会った後、美しい花と出会い恋をします
充音は、もう一度高校へ行くことにした。親たちを説得し、アルバイトをしながら通える定時制の高校を選んだ。
トコさんが調べてくれた資格は、高校卒業制度の学力が必要なものもあった。
19才でやり直す高校生活。一応入学式がある。充音はこの日、人生で二度目の運命の出会いをする。トコさんとの短い時間とは違い、それはこの先ずっと続くことになる。
花冷えの日、明らかに親からの借り物の紺色のスーツ姿の女の子は母親と一緒だった。
用心深く臆病な小動物のような彼女、毛量の多い縮毛を一つに結び、全体的な印象はあどけないが、実は21才になる年だと後で知る。鳥の巣の中の白い卵のような小さな顔に目鼻が行儀よく配置されている。
三日月型の眉、薄くけぶるような長い睫毛、いつも涙ぐんでいるような目じりがほんのり朱い目元ときりっとした口元とがアンバランスで危うい可憐さを作り出している。
時折、半開きの柔らかそうな唇から白い前歯が覗き、所謂男好きする顔立ちでもあるが、彼女自身はそう見られたくないのか、常に伏し目がちだった。
どんなに美しいとされる顔立ちでも本人が自分の顔を好きでないとああいうふうに自信なさげに見えるものだと充音は思った。
短い時間で、よく観察したものだと自分でも思う。初めて見た時から、美しいけれど、あか抜けない内気な彼女に惹かれたのだが、それは認めたくない。それで、印象をすりかえる。
うきうきしている母親とは対照的に生真面目そうで暗めな彼女は、見ていて少しイライラする。
充音の好みの外見は、さらさらとした艶のある髪、くりくり丸いか猫のようなつり目、唇はできればぽってりしていてほしい。
彼女は美人だがそれらをあまり満たしていない。外見は充音の好みではないが、男子生徒たちの値踏みするような視線がその細い足首に注がれているのを充音は感じ取り不快になる。
しかし、充音自身も無意識ながら、美しいものに目がいく人間の習性で、彼女の細い足首に加え、引き寄せたくなるような柳腰につい目が行きそうになっているから彼らの視線に気づくのだ。
流行遅れの母親のおさがりのスーツに見苦しくない程度の身だしなみの彼女は「入学式」と書かれた立て看板の周りを母親と右往左往している。記念写真を撮りたい母親と、そんなのいい、と拒否する娘。
確かに周りの学生たちもあまり写真を撮る様子はない。そこまでの感慨もないようだ。永遠に続くようなやり取りを見ていると、母親が「撮ってくれませんか」と声をかけてくる。
笑顔の母親とむっつりとした娘の奇妙な親子写真が撮れた。母親が、娘にかわって自己紹介する。
「宇野りんどうです。どうぞよろしくお願いします」
りんどう、変わった名前。初めて聞く。どんな漢字を書くのか。イメージがわかない。母親が聞いてもいないのに教えてくれる。
「ひらがなでりんどう、です。」
後で調べるとりんどうは花の名前だった。湿った山野、草原に自生する。古くは薬用になった。色は青、紫、白、ピンクなど。見た目は小動物、名前は花の名前。
「今からオリエンテーションだね。お母さんここで帰るね。すみませんが、一緒に行ってやってくれませんか」
「お母さん、私は、一人で行けるから」
「そうね。いっちゃんの顔見てから帰るね。しっかり勉強してね。いるものがあったら電話してね。がんばって、りんちゃん」
「はい、今日はありがとう。がんばります」
まるで、15才で入学したような親子のやりとりを、充音はぼんやり眺めていた。
会ったばかりのこんな男に娘を託す常識あるようで少しずれた母親、そんな母親に素直にうなずく娘。充音の親は来ていない。来ていなくてよかった。
母親を見送り、充音に気づき、「まだいたのか?」という表情をする。忠実に待っていた自分は馬鹿みたいだ。母親の社交辞令を真に受けるなんて。自分はどうしてしまったのか。
放っておいても一人で教室に行けるだろうが、この機会を逃せば、出会いはこの時限りとなるような気がした。もう少し自分を印象付けたい。
「行こうか」
りんどうは素直にうなずいた。ぽつぽつ話していると、驚いたことに充音より年上だった。
そして一年生の教室の前で立ち止まる。成人ということにも、初めての高校生活ということにも驚く。実年齢を知ると、急に大人びて見えるから不思議だ。
編入する充音は二年生の教室なので、ここまでとなる。
「ここでいいです。ありがとうございました」
りんどうは軽く頭を下げる。長い髪が一房顔に垂れている。それを耳にかけながら、教室に入ろうとするが、その前に深呼吸を何度か繰り返している。
「そんな緊張しないで、肩の力抜きなよ。何か困ったことあったら言って。俺は白石充音。きつねに聞こえるだろう。あ、これじゃ招き猫か」
手できつねを作るつもりで猫の手ポーズをしてみせた。
充音としては、きつねを出すことは嫌であるし、それでも最大限の思いやりある親しみをこめた言葉を選んだつもりだが、何か失敗しただろうか。
りんどうは微睡の中にいるような目を細めて、狐や猫を想像してしているのか、唇の端をもちあげた。それも一瞬でひっこめて、こくりとうなずいて軽く頭をさげた。
「はい。これからもよろしくお願いします」
やっとそれだけ言って、教室へ入ってしまった。教室中の視線にさらされて、突然街中に放り出された小さな生き物が隠れ場所に逃げ込むようにおどおどと自分の席を探していた。
「こっちだよ!」と女の子の声がしてひとまずは落ち着いたようだ。
充音は、二年生の教室を目指しながら、ため息をついた。あんな風にふわふわして頼りなさげでこの先やっていけるのか。しかし、心配してやる義理はない。すぐに退学してしまうかもしれない。
あの年まで何をしていたのか。困ったことがあっても言いつけてくるような風にも見えない。
充音が、教室に入ると、見たことがある顔が散見される。
「キツネだ」「聞こえたらやばいぞ」
そんな声が聞こえる。こちらは知らなくても悪名はあちこちで知られているのか。聞こえよがしのひそひそ声にあいさつ代わりに大きな音を立てて、扉を閉めてやる。
俺も長くは続かないかも。本気でがっかりしてくれる人もいないし。新しい出会いと居心地の悪い机と椅子、充音の高校生活が始まった。
心配はしたが、りんどうは意外にも友達ができていた。楽しそうに廊下を歩いているのを見かけた。
明らかに現役十代の女子二人。原色使いの上も下も柄物の非常に難易度の高い組み合わせでも、その個性を生かしたスタイルにしてしまう並外れたセンスのしーちゃんこと静稀(しずき)、こちらはパステルカラーがよく似合うが化粧は派手なあーちゃんこと彩莉(あやり)。
正直、充音の本来の好みは顔だけなら断然あーちゃんの方だ。
両極端の年下の友人たちと、お弁当を食べている。眼尻を下げて、固く結んだ口元がほころんでいる。
その笑顔は年上ながら、いとけなくなんともほっとするようで、ささくれがちな充音の心を優しく撫でてくれるようで、荒ぶる波が静まっていく。
あんな女子ではなく、自分を頼ってほしいと思ったとたんこれは庇護欲と支配欲ではないかと気づき、時々の優しさと恐怖で家族を支配する父親を思い出してぞっとする。
父は思い通りになる母なら愛した。思い通りにならなければ貶めた。その愛し方は間違っている。そう思うのに、もしかしたら自分も父のようにしか誰かを愛せないのではないか。充音は時々自分自身を傷つけてしまう。
何か困ったことや悩んだとき父にされた時と同じような痛みを感じて他のことを忘れようとする。見えないところにいくつもある傷。充音は、夏場でも長袖を着続けた。
放っておけないという感情は実は恋慕だと言うこと、実はりんどうの美しさに惹かれているというのに、いや違う、あんな野暮ったい女、好みの外見ではないし、と彼女を目で追う自分に気づいて邪な考えを打ち消す。
年下の元気で明るい友達ができたことで、りんどうも明るく笑うようになった。3人いるといつもりんどうが真ん中でいかにも楽しそうだ。どんなことで盛り上がるのか知りたい。
彩莉が指でりんどうの唇に色を乗せている。似合うーとにぎやかにはしゃいで、次はりんどうの携帯を覗き込んで歓声をあげる。
「わあ、いっちゃん、かわいい~」
「将来有望!かわいいし、かっこいいよ」
「ランドセルの方が大きいみたい。うれしそう」
どうやら“いっちゃん”の小学校入学式の写真を見ているらしい。
「学童にお迎えに行くから今日はもう帰るね」
「すごい~がんばってるね!りんちゃん、えらいよ。」
「何かあったら言って。代わりにお迎え行くよ」
「いつでも言って!いっちゃんにも会いたいもの」
かしましくりんどうを見送り、二人はまたひっついて次の予定を確認している。気が付くとぽつねんと女子のやり取りを眺める不審な男となってしまっている。
すると、長いまつげに縁どられた四つの目がこちらをとらえる。
「きつねだ」静稀が言う。さっきと違う低めの声。
「黙って。怒らせたら何するかわかんないよ」
「平気。きつねくん、何か用?」
静稀は度胸がある。彩莉を背後に隠して、挑発するように真正面からにらみつける。こういう気の強さはここ以外の学校では浮いてしまうかもしれない。
「別に。うるさいやつらがいるなと思ってみていただけだ。」
「ああ、それは失礼しました。ぼっちのきつねにはお耳障りでしたかね。」
蛇のような目つきで、充音を上から下まで眺めまわす。
彩莉が、もうやめよう、とたしなめ、すみませんと言いながら立ち去ろうとするが、静稀は止まらない。
「入学式であんたを見たときからずっと言ってやりたかった。こっちを見ているのも知っている。汚い目でこっちを見るな。女癖も手癖も悪いのは変わってないね。でも、仲間のいないきつねなんて怖くない。仲間外れのきつねのくせに一匹狼気取ってんじゃねえよ。悔しかったら仲間を連れてこい。私のお兄ちゃんや友達もあんたたちみたいな腐ったやつらに心を八つ裂きにされた。だけど私は違う。いつかあんたのその汚い毛皮をはがしてやる」
したかもしれないし、していないかもしれない。誰かが充音の名を騙りしたことかもしれない。
追いつめられる顔も覚えていない相手達の泣き声を思い出す。昔のことを糾弾されても返す言葉がない。
静稀の大切な人たちは、消えない傷を負わされた。トコさんの言葉がよみがえる。
静稀は誰もが恐れた狡猾で冷酷な狐に、立ち向かっている。見かけより骨のある女子だ。
「覚えていない。だけどあの時俺が関わった人たちには悪かったと思っている。」
ガラガラ蛇がシャーッと威嚇するような静稀の表情が崩れる。黒く縁どった目の周りが汚れている。
「ひとごとみたいに言うな。簡単に悪かったな、ですまされるか。された人間はずっと忘れない。悪いと思うなら死んで詫びろ」
静稀は走り去った。静稀はおそらくりんどうにこのことを話すだろう。
そして、りんどうも自分を見る目が変わる。控えめながら気づけば会釈してくれた。ちゃんと覚えていてくれることがうれしかった。最近どう?と聞けば、楽しいよ、白石君は?と答えてくれた。
しかし、次は目をそらされるだろう。入学式の日のあの怯えたような目で見られることになる。高校に再入学してから、ヒソヒソ声は聞こえてくるが、聞こえないふりをして学業に勤しんだ。授業にもついていけていた。勉強自体は嫌いではなかった。トコさんは、自分で調べる学習の楽しさを教えてくれた。
一人であることを除けば、大きな問題を起こすこともなく毎日が淡々と過ぎて行った。
時々、りんどうを見かけ、何かの行事が重なると心が躍った。彼女が、友人と笑いあいながら、人形のように表情がなかった顔に徐々に笑顔が灯っていく様ももう見られないかもしれない。
静稀に突かれた昔の罪にぴりぴりと痛む胸、過去には戻れないのだからどうしようもないではないかという思いを抱えたままの休日、ホームセンターをぶらぶらする。
ここにはペットショップもあり、そこで熱帯魚や爬虫類を見るのが充音の最近の癒しだった。亀やカエルもいい。動物は全般的に好きだが、体毛のないつるりとした生き物の方がより好きだった。
小動物が、さらに小さな動物を眺めている。りんどうが、ハムスターのケースの前で、微動だにせずそのせわしない動きを追っている。ひとしきりハムスターを堪能すると次はウサギに移る。
視線を感じたのか、はたと目が合い、照れたように苦笑いして軽く会釈をする。
りんどうは名残惜しげにウサギから離れる。茶色ウサギは何にも関心を示さず目を細め鼻をむぐむぐ動かしている。自分から近づいてくるところに、初対面からの成長が見られる。
今からどこへいくの?と尋ねれば、園芸コーナーに用があると答える。りんどうがあさっての方向を向いていることが気になっているとそこがカエルの水槽の前だということに気づく。カエルが嫌いらしい。
りんどうは向こうをみたまま不自然な回れ右をする。カエルが視界に入らないように必死な姿に、いじわるな狐がひょっこりと出てくる。
これを見てと指さすと反射的にその指の方を向いてしまったりんどうは大きなカエルと目が合った。
「こいつは希少なカエルだよ。ほらもう買い手がついている」
そう説明していると、りんどうの目に涙が浮かんでいる。想像以上に嫌いなようだ。その嫌いなカエルと至近距離で目が合う衝撃が大きすぎた。
りんどうは思い出していた。小学校の池に住んでいた大きな大きなカエル、それを網ですくってそれを持ちながら女子を追いかけまわした男の子がいた。
網の中でもがくかわいそうなカエルのお腹、男の子が転び網からカエルが放り出される。べちゃっと落ちたが何事もないように無表情な目をしてのそのそはっている。大きなカエルは動作がのろい。
あのときほど悲鳴をあげたことはない。そのカエルより今目の前にいるカエルは大きく見えた。このカエルをつかみだして自分に押し付けてくるかもしれない。男の子とはどうしてこんな幼稚な嫌がらせをするのか。
ぬれたまつげをしぱしぱさせて、本当に涙がこぼれそうなりんどうに、充音はあわてだす。自分の中のいじわるな狐は飛ぶように逃げていく。
「嫌いなら見なくていい。俺は魚や爬虫類や両生類の方が好きで、こいつも希少なのは本当で、珍しいかと思って・・・」
りんどうはもう絶対見たくないというように、充音を押しのけて、園芸コーナーを目指して歩き出した。好きな子をわざといじめる小僧になってしまった。
りんどうと目があった大きなカエルが、「馬鹿だな、お前」というように口をぱかっと開けていた。そこにいる動物たちみんなから責められているようだ。無関心なウサギまでからも睨み付けられている。
りんどうはもう振り返らず、充音から離れていこうとしている。休日のホームセンターは混雑しており、小柄な彼女はすぐに見えなくなる。
園芸コーナーにはしばらく向かわなかったようで、完全に見失ってしまった。園芸コーナーに行ってみたが見当たらない。充音が来ると警戒して時間をつぶしているようだ。
どのくらい探し回ったか、りんどうは園芸コーナーにいた。詳しそうな店員に、あれこれ自分から聞きながら選んでいる。
球根を買い土と肥料を抱えて会計を済ませると、重たそうなビニール袋を持つ白い指はちぎれそうに赤い。
充音は見ていられなくて声をかけた。
知らないふりをしていたが、やがてりんどうはあきらめたようにこちらを見る。またいじわるをされるのかと身構えて、重たいビニール袋の取っ手を武器のように握りなおす。
「さっきは本当にごめん。つい調子に乗りすぎた。お詫びにそれを持つよ。それからコーヒーでも奢る」
静稀から話を聞いているなら手遅れかもしれないがどうか嫌わないでほしい。必死な気持ちが通じたのかりんどうは黙ってその重そうなビニール袋を差し出す。
彼女が向かったのは、ホームセンターから徒歩15分、住宅街の入り口にある小さなレストランだった。準備中の札がかかっていて、裏に二階建ての家がある。
りんどうは、手を洗うと衝立の向こうの厨房に入り、やがてふくよかなコーヒーの香りが漂ってくる。
お茶請けはなぜかおはぎだった。店内はテーブルが4脚、カウンター席が7席、20人程度のお客が入れる広さで、装飾は少なめで古風だが落ちついた内装で、床はぴかぴかに磨かれている。
「私が作ったの。おばあちゃんに教えてもらった。コーヒーには合わないかもしれないけど。重たいものを運んでもらって助かりました」
まだ言葉がよそよそしい。よほどカエルが嫌いで、カエルが好きな充音も嫌いになっている。
まだ、充音がポケットにカエルを隠し持っていると疑っていると言わんばかりに、自分はカウンターの中にいて、おはぎをぱくぱく食べている。すぐに二つめにとりかかり甘いもので怒りも落ちついたのか、いつものふわふわした雰囲気が戻ってくる。
ここでコーヒーを入れてくれるということは、静稀から話は伝わっておらず、許されたのだなと思っていると、りんどうが放った言葉に絶句する。
「半殺しにする」
カエルのせいで俺は半殺しにされるのか。充音はこのおはぎかコーヒーに毒が入っているのかと覚悟した。もだえ苦しむ自分を冷たく見下ろす魔女。
「小豆やもち米の触感を残すようにすることを半殺しというの。おばあちゃんが言っていて私も最初はびっくりした。私はこしあんの方が好き」
和菓子用語らしいが、話題の選び方が独特で物騒だ。りんどうのにこりともしないで説明する顔がなまじ整っているだけに能面が話しているようで怖い。
それでも、おはぎもコーヒーもおいしかった。きなこをまぶしたおはぎもいただいてすっかりお腹が満たされる。りんどうは、充音自身を恐れる様子はない。それよりもカエルをまた出してくるのではないかということを恐れている。
このレストランは祖父母のお店で、学校がないときは、ここで調理担当とのことだ。飲食店で2年実務経験を積めば調理師免許試験を受験できるそうで、日々励んでいると話してくれた。
「実家では食事は私がほとんど作っていた・・。あの時間も役に立ったかなと思っている。おいしかったって言ってもらえるとうれしいから仕事にしたいなって・・」
「料理の次は園芸に挑戦?」
「ダリアを咲かせたいの」
検索すると、ダリアの画像がたくさん出てくる。たしかに華やかできれいだが、なぜダリアなのか。その疑問に気づいたようにりんどうが話しだす。
「姉の名前がだりあ、どんな花だろうと調べたら、それはきれいな花で、まさに姉のよう。いつも見ていたいけど、一本が結構高くて、自分で咲かせてみようって思ったの。今回が初挑戦」
「なぜりんどうじゃないの?」
「ダリアの方がきれいだから。お店の前に咲いているときっと華やぐと思う」
「りんどうもきれいだ」
白いりんどうの花に夕日が当たるように、彼女の頬にも赤みがさす。
「りんどうって名前好きじゃなかった。自己紹介すると何度も聞き返されていやだった。でも今は好き。りんどうの花言葉のようになりたいと思う。父が考えたそうで、これはこじつけだと思うけど、凛として道を歩めという思いもあるって、母に聞いた」
「とてもいい名前だ。宇野さんによく合っている」
素直な感想を言ったつもりが、お互いに恥ずかしくなり、会話が途切れてしまった。
「ただいまあ~」
子どもの声がした。遊びに行っていた“いっちゃん”が帰ってきた。いっちゃんは見知らぬ男に、大きな目を向けている。りんどうの眠そうな目にはない子どもながら鋭い眼力だ。
「いっちゃん、おかえりなさい。弟です。こちらは、りんちゃんの学校のお友達、ご挨拶をしてください」
「宇野樹凪です。こんにちは」
樹凪とかいていつな、とよむ。とりんどうが補足する。
「こんにちは。何年生?」
「一年二組です。担任は花木先生です。いまはくばりもの係りです」
同じことをいつも聞かれるのだろう。よどみなく答える。あいさつすると、りんどうの細い腰にしがみついて、充音をじっと見ている。大きな目で、お前も自己紹介しろと催促している。
「二年一組、しらいしみつねです。担任は加藤先生です。明日日直当番です」
樹凪と同じように自己紹介すると、樹凪は抜けた前歯を見せて、にっと笑った。
「そろそろ帰るよ。ごちそうさま」
「荷物運んでくれてありがとう。気をつけて帰って。また学校で」
去り際、樹凪は不服そうな声で甘えている。
「りんちゃん、一人で行ったの?俺が荷物持ってあげるって言ったじゃん」
「いっちゃんには無理だったよ。重かったもの。ね、おやつにしよう。おはぎつくったよ」
姉と弟の結びつきはとても強そうだ。りんどうにとっては14才下の弟、充音のまわりには子どもはいないが、かわいくてたまらないに違いない。
その時の流れで携帯電話の番号を交換したら、翌日初めてメッセージが届いた。
画面いっぱいの土の写真、白い指が一か所をさしている。
「ダリアを植えました」とだけ書かれている。りんどうのメッセージはいつも簡潔だった。まるで観察日記だ。
学校では相変わらず遠巻きにされているし、静稀の目は蛇の目のままだ。りんどうをいつも見られるわけでない。
しかし、りんどうが時々送ってくるメッセージが灰色の毎日を明るくしてくれる。だいぶ心を開いてきてくれている実感がある。
一度も行ったことはないが、この市には花公園がある。季節ごとの花が咲き誇る人気のスポットだ。花だけでなく時にはマジックショーや移動動物園などのイベントも不定期に開催されているらしい。
全くの偶然だった。いつもは全く目を通さない家の玄関にあった回覧板に挟まっていたチラシ。
『ダリアが見頃です』とあり、花畑を埋め尽くすダリアが美しかった。花公園など行ったことがない。しかしそれを見て、即座にりんどうにメッセージを送っていた。
「ダリアが見頃、咲かせ方のヒントがあるかも。いっしょにどうですか?」
すぐ、既読がつき、返事がくるものを思っていた。しかし返事がきたのは丸一日経ってからだった。
「お誘いありがとう。いつなといっしょでもいいですか?」
少し迷って「もちろん」と返す。親が不在で姉が弟の世話をしないといけない日かもしれない。
花を見て喜ぶのはりんどうだけのような気もするが、たくさんの花に囲まれる彼女を見てみたい。
りんどうも充音も車を持っていない。ゆえに公共交通機関を利用して花公園にたどり着く。
ダリアの見ごろは例年10月上旬から11月上旬、その日は秋とは思えない汗ばむ陽気だった。
りんどうは肩から保冷バッグを提げて樹凪と手をつないで現れた。
「ここはお弁当を食べられる場所があるって聞いたの。あとでみんなで食べようね」
花公園は、順路どおりに行けば一周して元の場所に戻れる。三人で季節の色とりどりの花を見て回る。思った通りりんどうは全ての草花に興味を示している。そのまま風景に溶け込んでしまいそうだ。
今日は髪を結んでいない。わたあめみたいで手を置くと沈み込みそうな髪質だ。
お目当てのダリアの前に来ると、りんどうは一面のダリアの前でしばらく動かなくなった。
ダリアには様々な色がある。花言葉も色によって違う。風に揺れて美しくどこか妖艶なダリアたち。
季節外れの蝶が一匹、りんどうの頭の上で羽を休める。強い風がふいて、その重たげな髪をあおった。細い首があらわになり、りんどうは目を閉じる。また目を上げて閉じる。カメラのシャッターをきるように何度も繰り返す。
そんなことしなくてもいい。何度だって来ればいい。一緒に行くから。そんな今生の別れのように目に焼き付けようとしなくてもいいのに。なぜそんな切なげな顔をしているのか。問いたいが言葉が出ない。
一番近くの、ダリアに顔を寄せているりんどうに、樹凪が、寄り添い小さな手でりんどうの手を握る。
りんどうは樹凪の肩を抱いて何かを囁いている。割り込んではいけない2人の静謐な姿、樹凪が素直にうなずき、りんどうの髪をなでているのを充音はただ見守っていた。
「少し早いけどお昼にしよう。ごめんね、とてもきれいだから立ち止まっちゃった。」
りんどうは充音から保冷バッグを受け取り、飲食ができる東屋をめざす。おはぎ以来、彼女の手料理を食べるのは久しぶりだ。
海苔巻きにサンドイッチ、ピーマンの肉詰め、から揚げ、野菜のベーコン巻、ウズラ卵のスコッチエッグ、焼き野菜のマリネ・・
子どもの喜ぶものをつめこんでいる。手早く取り皿に二人分とりわけ、お箸と一緒に渡してくれる。
一心に食べている樹凪の世話を焼いているりんどうは、ふわふわしているのは見た目だけで、樹凪といると本当の母親のようで、年上の大人なのだと改めて思う。
自分もああやって母親に口元や手指をふいてもらっていたと遠くに去った日々を思い出す。充音の皿にも次々おかずや海苔巻きを乗せてくれる。樹凪と充音があらかたお腹がいっぱいになって、やっとりんどうはサンドイッチを食べ始めた。
「りんちゃん、シュワシュワジュースかソフトクリーム食べたい」
樹凪がデザートを欲しがる。シュワシュワジュースとは炭酸飲料のことらしい。
「いいよ。どっちかひとつね。お腹痛くなるから」
りんどうが立ち上がりかけるのを制した。
「ゆっくり食べてて。俺が一緒に行く。買ってあげるからおいで、いっちゃん」
「やったー。どっちにしようかな」
樹凪はごく自然に充音についてくる。まだ幼児を残したふっくらした手が充音の指をつかむ。少し離れたところで、充音は、こっそりと樹凪に言う。
「いっちゃん、ソフトクリームにしろよ。俺がコーラを買うから、半分飲んでいいよ」
樹凪が目を輝かせる。
「ほんとに?」
「ほんと。でも、おなかだいじょうぶかな?」
「うん。コンちゃんは?」
樹凪は充音をコンちゃんと呼ぶ。名前の響きからだろうが、他の人間にきつね、と言われると怒りを覚えるが、樹凪の呼び方は心からの親しみを感じるから呼ばせている。
「満腹だよ」
「まんぷく?」
「おなかいっぱいってこと。何味にする?いちご味にチョコもあるよ。お姉さんにも買おうか。どれが好きかな」
「そりゃ、おうどうのバニラだよ。おれはチョコ!まだまんぷくじゃない。あまいものはべつばらだ」
背伸びしてソフトクリームが機械から出てくる様を見つめている樹凪の言い方がおもしろくてかわいらしい。
「りんちゃんは、はりきってお弁当つくったんだ」
「うん、全部おいしかった」
「いぶくろつかまれちゃったかんじ?」
「よく知っているな、そんな言い方」
「りんちゃんのつくるものはなんだっておいしい。おれはいぶくろつかまれちゃってる」
こっそりコーラを飲ませてもらって、ご満悦の樹凪と、りんどうのもとへ戻る。りんどうは片づけをしている。
「いつな、よかったね。白石君、ありがとう」
「どういたしまして。はい、これどうぞ。お弁当のお礼」
りんどうのためにカップ入りのソフトクリームを手渡す。りんどうの眠そうな目がキラキラし出す。甘いものに目がないようだ。
「りんちゃん、こんどアイスクリーム作って。」
「アイス?できるかなあ」
「りんちゃんならできる。アイス毎日食べたいよー」
「よし、挑戦だね」
アイスクリームを食べてしまい、樹凪ももう花には飽きている。
「いっちゃん、眠そうだね。今朝一緒にお弁当作り手伝ってくれたからね。帰ろうか」
花公園の出口に向かっていると、どこからかシャボン玉が風に乗って飛んできた。一つ、二つ、そして大量に飛んできて、シャボン玉の世界になる。
「ご来場の皆様、今日は花の妖精たちのパレードの日です。さあ、花の妖精たちが出てきますよ。」
人が集まり始めた。季節でなく、何も咲いていない花畑の上に、サーカスの時にみるような一面に花の絵が描かれたテントが置かれている。そこから生まれて出てくるように花の妖精たちが次々に出てきた。色彩豊かな花びらで編まれたようなドレスやタキシードをまとった妖精たちがダンスをしている。どこからか現れた花の女王を貴婦人や紳士たちが取り囲み練り歩く。
女王は竹馬をはいているのか背がものすごく高い。夢のような光景だ。花の女王が立ち止まる。
「花の女王とじゃんけんをしてくれたらご褒美にお菓子をあげますよ。さあ子どもたち、こちらにいらっしゃい」
子どもたちが歓声をあげて、女王のまわりに集まる。つき従う家来たちが風船で作った剣を振り回して子どもたちを誘導する。
「行ってきていい?」
樹凪も眠そうな目をぱっと開いて、駆け出そうとする。わくわくした気持ちが伝わってくる。
「いいよ、ここで見ているから」
初めて二人になる。女王は竹馬でバランスを取りながらゆらゆらとしている。まるで向日葵だ。
ふと、視界に何かが入る。粋な花売り娘たちがかごにはいった花を配っている。
一人の花売り娘が充音に一輪のダリアを差し出した。
「お連れ様にどうぞ。思いをこめてお渡しください」
有無を言わさず握らされ、樹凪を見守るのに夢中なりんどうの肩に触れる。
ダリアと充音を交互に見て、ようやく状況を理解する。私に?と首をかしげたあと、笑みが顔に広がっていく。周りの人たちも皆同じことをしていて、花を交換している人たちもいる。
「これはカエルに化けたりしないよ。受け取って」
たった一輪のダリアでこんなきれいな笑顔を見れるなら、自分は花盗人でも何でもなって、ダリアの大輪の花束を捧げたいと思った。
条件はそろっているはずだった。お互いの気持ちもおそらく同じはず。帰りの電車の中、樹凪は眠っている。
つぶれてしまわないように大切にペーパータオルにダリアをくるみ、花びらを触っている。
帰りの電車の中、これまでの中で、一番会話をした。
りんどうは、この市から車で二時間くらいかかる小さな町から高校に通うためにやってきた。樹凪がどうしても一緒に行くと泣くので、一緒に来た。
母親は長く続けている仕事があるため地元にいて仕送りをしてくれている。いつもは樹凪から一口もらうくらいだったが、今日久しぶりに一つのソフトクリームを食べられた。
静稀と彩莉は年下なのに、仲間に入れてくれてとてもうれしい、授業は正直ついていけないときがある、単位がとれるか心配・・・
充音も、自分のことを話した。あまり話したくないことや聞かせたくないこともあるので、自分の名前のことやトコさんのことを話した。りんどうは、スマホのことを徹底的に調べた話に目を輝かせながら、今度図書館で、歌集を借りてみようと古の歌人の名前をメモしていた。
トコさんは亡くなったと言うと、会ってみたかったなとトコさんを想像しているのかさびしそうに微笑んだ。
年齢の割に幼げだが、異性から花をもらう意味が分からないわけでもないだろう。成り行きで渡したと思ってほしくない。そして、自分の隠された傷を見ても動じないだろうか、と気になる。
「今日はありがとう。とても楽しかったです」
メッセージと一輪挿しに飾られたダリアの写真が送られてきた。
だが、りんどうが、深い母性と強固なまでの責任感と樹凪への保護者意識があることを、充音は甘く見ていた。
花公園以降は、何に誘っても樹凪のことなどを理由に断られた。母親がいるはずなのに姉のりんどうが一人で子育てをしているかのようだ。
二人で話せるのは、学校の時だけとなったがなかなかそれもままならない。りんどうは充音と向き合うことを避けているとしか思えない。あの花公園は都合のよい夢だったのかという気さえしてくる。思い切ってメッセージを送ってみた。
「二人で話したいことがある。」
既読はついたが、返事はない。りんどうにはまわりくどい言い方は通用しない。生真面目な彼女には、返事をしなければと思わせる内容でないと。
「ちゃんと付き合ってほしい。その返事が欲しいから二人で会いたい」
それでも一日以上待っても返信はない。沈黙に焦りと不安が募る。最後通告のつもりで、待ち合わせ場所と時間を指定する。
返信がないまま、りんどうは一人で現れた。入学式の日、写真を撮ってあげた場所、人目があるので場所を移すと、りんどうの方から口火を切る。
「ごめんなさい。返事を返さなかったこと。でも付き合うことも二人で出かけることも今はできません。あれが最後だと思ってください。」
返信がすぐ帰って来ない時点で、おそらくそう言われるだろうと思っていた。
「返信を先延ばしにしてごめんなさい。でも、初めてのことでどうしたらいいか分からなくて、迷ってしまった。このまま返事をしないまま時が止まってくれたらと思った。でもやっぱり、お付き合いはできません。私は樹凪を育てないといけない。あの子が独り立ちするまでそばにいないといけない。一番大切な樹凪を育てることと誰かと付き合うことは両立できない。」
充音だって、初めて、きちんとした告白だった。昔から女子が自然に近づいてきて、気がついたら付き合っていて関係をもっていた。
初めての彼女と関係をもったときも特に感慨はなかった。衝動のままに関係を持った後、「付き合う?」とかは伝えた記憶はあるが、彼女とは結局、気持ちや言葉などなくても抱き合えるような相手だった。
気持ちをきちんと伝えてから付き合いたいと思ったのはりんどうが初めてだ。断られる理由はりんどうの強い責任感ゆえで、りんどうは一人ですべて背負う気でいる。もちろん、一緒に育ててくれと言われたら大いに悩むだろうが。
「理由は本当にそれ?あの友達は関係ない?俺がどんなことしてきたか聞いたからじゃないの?」
りんどうは首を振った。
「聞いたよ。でもそれは関係ない。お付き合いはできません。」
「ぜんぜん理解できない。他の奴に言われてもそうやって断るのか?」
「相手が誰でも断るよ。ちゃんと高校を卒業して、樹凪のために経済的に安定した仕事をしたいと思った。でもそこで人を好きになるなんて想定していなかった。私は誰のことも好きになったことはなくて、白石君のこと好きなのかもって思ったらどんどん気持ちが大きくなって怖くなった。その感情を知ってしまったら樹凪をまっすぐに見られない。今ならまだ、終わらせられる。樹凪より考えてしまわないようにしないと。樹凪には私しかいない。だからごめんなさい。親しくしてくれて本当にありがとう」
「俺が他の人と付き合っても平気なの?」
幼稚な駄々をこねている。りんどうの生真面目さにつけこんで、罪悪感を煽って、そんなことをしてもお互い気まずくなるばかりなのに止められない。
「そうなっても私にはなにも言うことはできない。白石君の自由だから。その人を大事にしてあげて」
「もういいよ。そんなこと聞きたくない。結局、自分とその子のことが一番で余計なものはいれたくないわけだろう?」
「そうだよ。私そんなにたくさんいろいろなことができない。樹凪のことで精一杯」
「俺がずっと待っているって言ったらどうする?」
「いつまでかなんて約束できないよ。意味ないよ。」
「さっき、私しかいないって言ったけど、どうして一人でしようとする?母親だっているのに。君任せなのか?一生あの子のためって縛られて生きるのか?」
「私が自分で選んだの。樹凪を育てるって私が望んだ。母は私の気持ちを尊重してくれている。白石君がよくしてくれたのは分かっている。でも私だって人間なんだよ。悩んできたし傷ついてきた。白石君までそんな言い方しないで」
樹凪と母親のことになると、りんどうははじめて怒りの感情をあらわにした。
りんどうには、自分でも驚くほど底知れないほど深い樹凪への愛情がある。この子のためならどんな大きな相手だって怖くなくなった。
生まれ育った町で、とてもつらい仕打ちを受けた。まだ14才だったりんどうには受け止めきれないほどの人の悪意。家族以外の人間を信じられなくなり、その後初めて信じることができたのが樹凪だった。
家にひきこもっていた17才の冬だった。樹凪は三才。りんどうの姉だりあの子どもで、母を失い、父親も祖父母も無関心の小さな樹凪が全身で抱きしめてくれる相手を欲していた。
冷たい大人たちの前で、樹凪を抱き上げて、この子を育てる、と言い切った時から、そこに他人の入り込む余地などなかった。この子のためなら今までのひきこもり生活が嘘のように外へ出て、働くことができた。
誰かが噂を流して、みんながそれを信じて、父親のいない子どもを産んで育てているとひそひそと言われても、アルバイト先で誰も口をきいてくれなくても気にならなかった。
結局辞めるように仕向けられてどこも長続きしなかったけれど。役所の人がひとり親の家庭で、未成年のりんどうが主に子育てしていることを問題視して、訪問を受けたこともあった。
そこから逃げるように、この大きな市に来て、高校卒業資格を得て、ずっと勤められる仕事につきたいと思っている。
学校生活は存外、楽しかった。友だちになってくれた静稀や彩莉。それぞれ何かわけがあって同じ学校にいる。静稀や彩莉は、何を話しても変わらなかった。それどころか応援してくれている。
入学式で母との写真を撮ってくれたきつい目つきの男子生徒。派手な見た目に反して、穏やかな声をしていた。肩の力を抜いてと言われて、本当にそうできたのは初めてだった。
「あの人かっこよくない?」
隣に座った彩莉が初めて話しかけてきたのが充音のことだった。静稀の仇だと知ると、それからは三人の中では、充音のことは話題にのぼらなくなった。
りんどうが幼い頃、父親が亡くなった。父親とは優しい思い出しかない。母が唯一愛した人。それ以外の大人の男性への不信感、言葉では説明できない彼らの持つ自分たちに向けられる欲望や好奇心への不快感は、いつか思い込みではなく現実に形になり襲いかかってきそうで怖かった。事実何度か不快な目にあっている。だから目を伏せて息をつめて生きてきた。
しかし充音は、そういうものを感じさせなかった。少しずつ距離が近づき、友だちとは違う感情が芽生える。
これはなんというのだろう。充音は優しくはない、目つきも厳しいし、評判も悪い。実際少し意地が悪いところもある。
反面、だいたい一人でいて、常に何かに抵抗しているように人をよせつけない。りんどうに対しては、心の中にはまだ小さな子どもの彼がいて、自分がいじわるしたくせに、どうか嫌わないでと必死になっている。そんな彼は、自分の作ったものをおいしそうに食べてくれて、そして、おずおずと一輪の花を差し出してくる。自分のこともみてほしい、と言われているように。
これは樹凪への気持ちと同じではと思った。樹凪も自分の気をひこうとわざといたずらをする。それを可愛いと思うことと同じかもしれないと思ったが、いつしか、充音といると一度も目を向けていなかった心の中の一部分が開かれたようなたことに気がついてしまった。充音なら触れられてもたぶん怖くないし、自分も触れてみたい。男性から花を贈られても、その相手が充音でなければ受け取らない。
これはきっと恋という気持ちだ。そうでなければこんなには悩まない。大切なものは一つだと思っていたからだ。彩莉が実は充音を気にしていることを打ち明けられて、何と答えていいか分からなかった。
しかし、りんどうは言葉にすることできっぱり自分の気持ちが定まった気がしていた。迷ったことは本当だ。
こんなに迷ったことは初めてだ。絶対に樹凪には言えない。樹凪と誰かを天秤にかけるときが来るなんて。
心がふたつに引き裂かれるとはこんな時のことをいうのだと知った。しかし、もう樹凪を選ぶことに迷いはない。たぶん迷っても結局はそうするだろうと心のどこかで分かっていた。人に恋するより早く幼い子どもの保護者になることを選び、そしてその子の将来のために様々な決断をした。そのことに後悔はない。
たとえ今、この関係が終わったとしても自分はやはり樹凪を優先する。樹凪にさびしい思いをさせないと約束したのだから。気づいてしまっても今ならまだこの気持ちを抑え込める。
「やっぱり無理だね。私たちはきっとうまくいかないよ。」
りんどうがぽつりと言葉を吐き出した。それはかつんと二人の間に落ちた。
「そうだな。俺もそう思う」
「白石君、がんばって卒業しようね。さようなら」
充音の方が先に卒業する。そうすればもう会おうとしなければ学校でのようには会えなくなる。
そんな当然のことを思い出す。自分は選ばれなかった事実があるだけだ。待っていれば樹凪はいつか巣立ち、りんどうが受け入れてくれるかもしれないが、いつのことになるだろう。先のことなど誰も分からない。そんな不確かなもののために時間や思いを費やすだけの価値はあるのか。
今、この思いが届かないなら、もう話すことはない。ほのかに咲きかけたと思った恋は実らずに終わった。
あまりに遅い初恋に戸惑う不器用な彼女を好きになってしまった。
しかし彼女は戸惑いこそすれ、大事だと信じるものを見失うことはしなかった。
りんどうがこの時何を感じていたか、自分のことでいっぱいの充音には分からなかった。自分の心を整理するのに必死だったのだ。
充音にとっての二度目の高校生活は、りんどうに出会ったことで、今日は会えるだろうかと期待に満ちたものに変わった。
だが、募る思いを打ち明けると、断られた。しかし、自分を好きだと確かに言っていた。お互い憎からず思っているのにどうしてなのか。
りんどうは母親がいるとはいえ、一人の子どもを育てるという責任の大半を背負っている。それが明確な理由だ。恋に溺れるよりも子どもを選んだ。
もし、りんどうが子どもを顧みることなく自分を選び飛び込んできたとしたらうれしかっただろうか。ほんの一日しか一緒に過ごしていないが、あのかわいらしい樹凪から、大好きな人を奪ってしまったら、りんどうが言うようにきっと遅かれ早かれ関係は破たんする。
充音も、母子二人の期間が長かった。あったかどうか知る由もないが、子どもの頃に、母親の女の部分を見たらきっと母親もその相手も許せなかっただろう。
充音は、久しぶりに図書館へ足を向けた。トコさんと出会った公民館に隣接している。天窓から光の帯が差し込み、館内はそれだけもじゅうぶんに明るい。やわらかく沈み込む絨毯をふみしめて館内を散策する。
古典の書棚で立ち止まる。自分の名前と同じ読み方の古の歌人、古典の授業で習ったその人の和歌を探す。
千年以上前の人々もきっと恋をしていた。身分や時代背景、今以上にままならないものがあったに違いない。
好きだという気持ちだけでは越えられない垣根、それは物理的な距離、家庭環境、周りの理解、年齢、価値観、貧富の差、若さで突き進むもの、分別をもってうまくすすめようとするもの・・自分と彼女は何が合致すればうまくいったのだろうか。
(大いに悩め)
トコさんが言っていた。自分が出した宿題に取り組む充音に対してかけた言葉だ。きっと千年前の人も言うだろう。何だ一回の失恋くらい。大いに悩め、と。
しかし、充音は今はそう思えない。今回は何かが違うと思っていただけに、何もかも終わったように感じている、強がる以上に痛手だった。
こんなに自分は弱く未練たらしい人間だったか。しかし、時折湧き上がる凶暴な支配欲に今もとらわれる。こんな不完全ないつ暴発するか分からない危険な自分におびえる時がある。
古の人々の歌の心も、今は何の参考にもならない。もう思うことはやめよう。あんな融通の利かない女、子どもの世話に汲々として一生終わるといい。悪態をつかないと思い切れない。
あの葡萄はすっぱいからだと言い訳をしてあきらめようとする狐のように。
どうにか高校生活は維持していた。りんどうとは学年が違うので、意識して避ければ目にすることも少なかった。
だが、そうであっても変化に気づく。りんどうがあの友人たちと一緒でなく、一人で過ごしている。黙々と授業を受け、わき目もふらずに帰っていく。
昼休み、食堂にいると隣に気配がする。彩莉が座っていた。静稀はいない。カラーコンタクトなのか瞳の色がはしばみ色で、人形の目のようだ。それを上向きのまつげが縁どっている。吸い込まれそうな魅力的な目に、艶のある唇、そういえば好みの外見だったなと思い出す。
席はいくらでもあいているのに、隣に座るのは何か意図があるからそうしている。人もまばらで、充音もどうしたものかと考える。
「聞かないんですか?今日は一人か?とか」
「聞く義理はないけど、せっかくだから聞いてやる。今日は一人?」
「はい。どうしてか知りたいですか?」
彩莉は、この間のように充音を恐れる様子はない。どちらが本当の彩莉か。
それとも静稀と示し合わせて自分をからかおうとしているのか。長い爪で髪を弄ぶ様子は、蠱惑的で余裕がある。人間関係で修羅場を経験した人特有の動じなさが垣間見える。
「私と付き合ってくれたら教えてあげます」
思わぬ申し出に、困惑し、視線が泳いでしまう。その反応を見て、彩莉は艶然と微笑む。大人の女の計算高さ、少女の残酷さを持ち合わせた彩莉は、悪名高い狐も、大したことないなと思っている。
「知りたくないし、誰とも付き合う気はないから」
「だめかあ」
あっさりといって彩莉は舌を出した。充音はよく女の子のこういう顔を見てきた。りんどうはこんな風に笑わない。またしても二人を比べてしまっている。
「あのガラガラ女子に俺のこと聞いているんじゃないの?怖くないの?」
「聞いてますよ。しーちゃんの大切な人、今でも立ち直ってないです。それはとても心配。本心ですよ。でも、充音さんと付き合ってみたいっていうのも本当です。私のまわりにもけっこういます。充音さんに興味ある子」
彩莉は、好きなものは好きだし、欲しいものは手に入れたい。友だちの仇だとしても充音への興味は隠せない。そのためなら自分から近づくことも恥ずかしくもなんともない。選びたいし選ばれる自信もある。
「この学校に入った時からかっこいいなって思っていました。しーちゃんの話を聞いたら少し怖くなったけど、女の子にはどうなんだろうって考えただけでドキドキしました。ギャップが大きい方が強い印象に残りますよね。りんちゃんと話しているのを見たとき、分かりました。好きな子にはあんな風に優しくなれるんだって。」
「そんなの宇野さんにだけかもしれないよ。」
「それは付き合ってみないと分からないです。でも今だって、全然怖くない。近くで見るとやっぱりかっこよくてドキドキします。」
そう言って、震える指先で、触れない程度にテーブルに置かれた充音の手の周りをなぞる。
この細かい震えは演技ではできない。彩莉なりに真剣なのだろうと思う。きれいな色のキラキラした石がついた指先、料理も家事全般もしたことのない手は小さくて白い。
こういう子の方がいいに決まっている。何の荷物も背負ってなくて、羽のように軽そうで、しかも可愛い。拒む理由はない。これまでも特に愛情をもってなくても、付き合うことはできてきた。
「俺と付き合ったら、友達と切れるんじゃないか。それでいいのか?」
「もう私たちはほとんどバラバラなんです」
その言葉の先が気になる。まだ、付き合うとは言っていないが、充音がもう半分以上こちらの手の中におちてきたことを確信したのか彩莉はいろいろと話してくれた。
「しーちゃんがりんちゃんに迫ったんです。充音さんがりんちゃんに好意を持っているって気づいていて、充音さんの昔のことを話して、どっちをとるの?って。りんちゃんはどっちも選ばないってきっぱり言いました。かっこよかったなあ。しーちゃんはひっこみがつかなくなって、今の状態です。りんちゃんがいて、私たちうまくいってました。3人でいると不思議と楽でした。私もたぶん他の2人も中学の時とか異物みたいに見られてました。でも、りんちゃんがいなくなったら、しーちゃんのいやなところばかり目につくようになって、しーちゃんも私みたいな子本当は好きじゃなかったみたい。私は他の子とも仲良くしたいけど、しーちゃんはあまり他人をいれたくない。意見があわない私たちだけど三人だとバランスがとれていました。二人になったらお互いが苦痛になってしまいました。私が充音さんと付き合ったらもう決定的ですね」
「それでも、俺と付き合いたいのか?」
「充音さんは私のこといやですか?」
質問に質問で返され、彩莉の真意がわからなくなる。
「やっぱりりんちゃんですか?すごくきれいですもんね。もう告白しましたか?それだったら一緒にいるかな。でもりんちゃんは誰の告白も受け付けないですよ。何度かそういう人がいたけど全部玉砕です。私は今でもしーちゃんもりんちゃんも大好きだけど、充音さんに対する気持ちとは違います。私はどっちも欲しい。わがままですよね。でも充音さんが俺にしろって言ってくれたら充音さんを選びます。私の入る隙間は全くないですか?」
口ではどっちも大切と言いながら、自分を選んでくれたら迷いなく友達を捨てるであろう正直さ、残酷さ、自分の恋が何より大切。不純なようで純粋。そういう子は嫌いではない。今、充音に足りないぬくもりを与えてくれる。
りんどうが出て行って空いてしまった心の中の部屋のドアを開けてみてもいいのではないだろうか。もともとすきまだらけの心だ。
瞳の色がわかるくらいに近づいて、そのさらさらした髪に自分の指をまきつけてみる。りんどうの髪とは違う触り心地の良さ。簡単に誘惑にのることはないと思っていた。女性の手練手管は知っているつもりだった。
彩莉はいっそ潔いほどにそれを使う。私の髪にふれていいのは充音さんだけですよ、と臆面もなく耳元でささやいて、それに対して充音がかすかに微笑んだとき、彩莉は勝利を確信した。
充音と彩莉が交際していることはすぐに知れ渡った。彩莉は申し分ない彼女で、思ったより情に厚い性格で、尽くしてくれる。
充音の体の傷を見てもそっとなでてくれた。何も聞かない。でも話してくれるなら一晩中だって聞くよ、と、幼さの残る素顔で微笑んだ。たぶんいっときは好きだったと思う。両想いの方がいいに決まっている。
自分以外の大切な者のために生きている相手に、いつ届くか分からない片思いをするのは、空しい。
三人の友情は見事にバラバラになった。りんどうとは、校内でばったりと鉢合わせすることは避けられない。
あの夢をみているような目を伏せて道を譲ってくれる。
たまたま同じ建物の中にいる一生徒という姿勢をお互い崩さない。りんどうはSNSの類を一切やらないので、彼女の最近の動向を知ることはできない。あの花は咲いただろうか。樹凪は何年生になっただろうか。あれから花公園に行っただろうか。
思い淀んだまま、卒業の日を迎えた。20才になっていた。
さらにそのあと二年専門学校に進み、電機メーカーに就職した。日々さまざまなものを修理する毎日。充音の過去を知る人はいない職場で、与えられた仕事をこなす毎日は退屈で平和で、悪くなかった。
同じように一年あとに高校を卒業し、短大にすすんだ彩莉との付き合いも続いていた。よくある学生と社会人の擦れ違いからさびしくなった彩莉は、優しい大学生と近づいていった。
どの程度の深さの付きあいかは不明だが、もともとは父親に似て独占欲の強い部分がある充音の抑え込んでいた激情が噴出して、はじめて彩莉と言い合いになった。
二人で選んだコップを床に投げて割れて、我に帰った時は遅かった。彩莉の怯えた顔、次は自分があのコップのようになると思っている顔。
その場で別れてくれたらよかったのに、彩莉は、きちんと別れ話をしようと提案し、あろうことか、一人では怖いからと、かつての友人たちを同席させた。
いつの間に仲直りしたのか、ファミレスで、静稀とりんどうは少し離れたボックス席に座っている。いつでも加勢できるような距離だ。
かつてふられた女の子が見守る前で、今から彼女と別れようとしている。こんな残酷で屈辱的な別れ話したことがない。別にもめるつもりはない。コップが割れる音を聞いた時点で、覚悟はできている。
彩莉は何を考えているのか。それほどまでに自分のことが怖いのか。何かなじるような言葉を投げつけられたが、思考が停止して何も言い返すことなく彩莉との関係は終わった。
それよりこたえたのは、りんどうの何も映していない目だった。彩莉と付き合っていたこと、その別れ話に同席させられていることに何の感想もないように見えた。
りんどうは、冴え冴えとした冬の夜の月だ。冷たく青白く、時に太陽よりも目を射抜くような眩さを放ち、その光は冷たく目に刺さる。
さげすむような表情の静稀など目に入らない。だが、りんどうは整いすぎて冷たく見えて実は暖かいことを知っている。充音より二歳年上だから25才になったりんどうは、大人の女性になっていた。子どもを育てているからか雰囲気もろうたけて前よりしっかりしている。
別れ話の途中なのに他の女性に見惚れるなど、軽薄で酷いと言われても、仕方ない。
結局、好きだという気持ちを捨てきれなかった。その代わりにされた彩莉、どれだけ罵られても足りないくらい最低のことをしている。
自分はいったい何に傷ついているのか。彩莉との別れか、りんどうの知らない人を見るような目か。
冷酷な狐と例えられた自分がたったひとつの恋の終わりに傷つくほどにもろくなっていることが情けない。
三人が先に席を立ち、タイミングを逸した充音は取り残された。精算は彩莉が済ませてしまっていた。気まずいまま店を出る。
せっかくの休日なのに、別れ話で一日が消費された。とても最悪な気分だ。その気持ちのまま一人の部屋に戻り、彩莉の残り香がかすかにするベッドに倒れこんだ。
今日は天気がいいのにシーツを洗って、布団を干せばよかった。目に浮かぶのは、彩莉ではなく、久しぶりに見たりんどう。彩莉といるとき何度りんどうと比べて彼女と置き換えて想像したか分からない。そうすると一度も彼女に触れたことがないのに近くにいるように思えた。
違う、と気づいたとき彩莉に対してとても申し訳なく思った。自分はコップを割るより前から彩莉を傷つけていたのかもしれない。
「充音、お父さんが帰ってくる。片付けないと!」
子どものころの夢をみた。子どもがいる家は散らかっていて当然だが、父親は自分が帰った時にくつろげる状態でないとひどく機嫌が悪かった。家を快適な状態にしていない、片づけもできない上に子どもをきちんと躾けられないことなどいつまでも小言を言った。
ある日、一人暮らしをしている部屋へ母親が訪ねてきた。よほどのことだと思った。父親から連絡があったという。やりなおそうと、言ってきたと。
何日か前に、誰かが訪ねてきたと会社の受付から言われたのを思いだした。仕事上の相手かと思ったが、どんな用事で来たのかと要件や身元確認を求めると立ち去ったらしい。昔の仲間かと思っていた。
父親が自分の勤め先を知っているというのもだが、それよりもっといやだったのは母が揺れていたことだった。何を迷うことがあるのか。あんな男をまだ好きと思えるのか。
彩莉も母もりんどうも、女の心の深遠さがまったく分からない。
母の女の部分とその業の深さと、共に自分の父親との血のつながりを再び身近に感じ慄いた。体のすべての血をいれかえてほしい。
母がほだされて再び父と暮らし始めたら、きっと同じことの繰り返しだ。もしくはどちらかが死ぬという最悪なことになるかもしれない。
父は変わっていない。自分はもう大人で、体も父より大きく、力でも負けないはずだ。
しかし、弱った心の中で、自分の中の小さな子どもが怖いと訴える。死ぬ気で対抗していたが、あっけなく押さえつけられ暴力を受けているときは怖くて痛くてたまらなかった。手当たり次第に物を投げても最後には大きな手でつかまえられて殴られるのだ。自分の小さな拳は痛くもなんともないし、かすりもしない。
母のすすり泣きが聞こえる。母も自分も守れない無力さに毎回うちのめされていた。負けるものか、泣くものか。お前なんか怖くない。必ず仕返しする。傷の上に憎悪が積み重なる。
同じように大人に傷つけられ信じることを放棄した仲間たち、彼らは形の上だけだったとしても自分は一人ではないと思わせてくれた。裏切られたとしても家にいるよりはよかった。
そしてトコさん、信じられた唯一の大人だったが、その縁は短かった。そばにいてくれたのはいつも家族ではなかった。泣くばかりの母によそよそしい祖父母。家族とはなんだろう。血のつながりだろうか。形だろうか。目に見えない絆だろうか。
父親はそれから家に戻ることはなく、偽りの儲け話を扇動したことで逮捕された。
「仕事はうまくいきつつある。前のように一緒に暮らそう。もう一度信じてくれないか」
父はそう母に言った。偶然つけたテレビのニュースでひさしぶりに顔を見た。もともと似ていたがテレビに反射する自分の顔が、なれの果ての父に重なるようで慄然とする。
母の旧姓を名乗っている自分がこの男の息子であると分かる人は少ないはずだが、トコさんが今の自分を見たら何と言うだろう。誰かの特別な存在だったということを忘れないで、とトコさんの奥さんは言っていた。
(トコさんの特別な存在であるはずの俺は最低な人間になってしまったよ)
心細くて辛くてもお腹がすく。生きている体だ。今日か明日には台風が来るらしい。雨風が強くなる前に食料を買いに行かなくてはと無理矢理外へ出た。
雨風が強くなり始めていたので、すぐ近くだが車で行くことにする。店から出ると小学生が急いで自転車をこいでいた。こんな雨の中、友達と遊んでいてあわてて帰るところだろうか。
そう思っていると、ぶわっしゃーん!と水音がして目の前に波が起こった。視界が一瞬水浸しになったかと思うと、その小学生が自転車ごと倒れていた。
車が通り過ぎる際に、水たまりをはねられたのに驚いてタイヤがすべったはずみで倒れたようだ。充音は思わずかけよっていた。
「だいじょうぶ?」
ずぶぬれでヘルメットをかぶっているので顔がよくわからないが男の子だった。
「だいじょうぶです。あれ?お兄さん、コンちゃん・・?」
樹凪だった。ずいぶん大きくなった。だがしっかり充音を覚えていた。
「いっちゃんか?俺のこと分かるか?」
「分かるよ!でもコンちゃん、なんだかおじさんになったねえ」
樹凪は率直に言った。無精ひげで髪もぐしゃぐしゃの充音は、樹凪から見たら十分におじさんに見えるかもしれない。変わらない話し方にこんな状況なのに笑いがこみあげる。
「なんでこんな雨の中、一人で自転車こいでるんだ。危ないだろう」
「友達の家で遊んでいて気がついたら・・」
「その子の親は?送ってもらえなかったのか?」
「仕事でいないよ。帰るまではだいじょうぶと思ったんだ」
のんきな樹凪にもその友達の親にも怒りたくなるのを必死でおさえた。樹凪は自転車をおこしてまた跨ろうとする。
「待て待て。行くつもりか?」
「あたりまえじゃん。ここにいてどうするのさ。帰らなきゃ。りんちゃんとじいちゃんたちが心配している」
「こんな雨の中・・」
「平気だよ。ずっとここにいるわけにはいかないだろ。立ち上がって行かなきゃ。コンちゃんも行くところあるんだろ」
樹凪は今の状況のことを言っているが、充音は今の自分のことを言われている気がした。立ち止まって固まってしまっている自分。
「こんなところで話すのは時間の無駄だよ。コンちゃん、ありがとね。ばいばい」
このまま樹凪を一人で帰すことはできない。
「いっちゃん、車で送るよ」
びしょ濡れの自転車を車の後部座席を倒して積み込み、樹凪を助手席に乗せて車を走らせる。ワイパーを最大で動かしても雨の方が強く前が見にくい。
「コンちゃん、車かっこいいなあ。うちはおじいちゃんの車しかないんだ。りんちゃんも免許は持っているけど車までは持てないって。だからたまに運転するりんちゃんは危なっかしくてさ。」
樹凪はきょろきょろと車内を見回している。車の芳香剤の香りも流れている音楽もおじいちゃんのとは違うなあと楽しそうにしている。
「りんちゃんは元気にしているか?」
りんちゃん、なんて初めて口にした。樹凪は気にも留めずに話しつづける。
「うん。今もおじいちゃんの店でコックさんしてる。他の仕事も探しているみたいだけど・・。ていうかコンちゃん、りんちゃんと会ってないの?」
「卒業してからずいぶん話してないよ」
「ふーん。りんちゃんのダリアは毎年咲いているよ。あのとき見たダリア、きれいだったね。俺、図工の宿題でダリアを描いて賞をもらったんだよ」
たった一度出かけた花公園のことを樹凪は忘れていなかった。
「細かいところまでよく描けているって誉められたんだぜ」
「すごいな、いっちゃん」
「だろ?りんちゃんもみんなも大喜びで額に入れて飾ってくれた。あ、ここだよ」
見覚えのある店の外観、その前で人影がうろうろしている。大きな男物のレインコートを着ている。
「りんちゃんだ!車停めて!」
樹凪は車から飛び降りた。開けた拍子に雨が降りこんでくる。りんどうが傘をもって走り寄ってきた。レインコートのフードに隠れて顔が見えない。雨が強くて聞こえないが、りんどうは傘を片手に樹凪を抱きとめる。
樹凪がこちらを指さすと、フードを持ちあげたりんどうと目が合う。樹凪を追い立てるように中へ入れると、りんどうが近づいてきて、運転席の窓を軽く叩く。唇が動いた。
「中へはいって」
樹凪は祖母によってそのまま風呂へ連行された。祖母の叱りつける声が聞こえてくる。叱りつけながらも安堵している。
ほかほかになって出てきた樹凪にはあたたかいココア、充音には大きなバスタオルと熱いお茶が出された。
「いろいろ後回しになったけど、大変お世話になりました。おじいちゃん、おばあちゃん、こちらは高校の先輩の白石さんです」
りんどうの祖父母に会うのはほぼ初めてだ。生来のもてなし好きなのか商売柄なのか、次々とおやつを運んでくる。
「コンちゃん、まんぷくか?」
樹凪が面白そうに言う。ずいぶん昔にしたような2人の会話を思い出す。
「そうだな。家に帰っても夕食いらないくらいだ」
本当にお腹がいっぱいになり雨も小康状態なのでそろそろお暇しようとする。
「ごちそうさまでした。」
「本当にありがとうございました。すみません、完全ではないかもしれませんが、車の中きれいにしておきましたから」
充音がもてなされている間に車の中を拭きあげてくれていたらしい。
「コンちゃん、ありがとう。またね」
樹凪と手を合わせる。手も幼児のようでなく少年の手になっていた。りんどうは「中に入って」と「ありがとうございました」以外はあまり直接会話できなかった。
その夜、沈黙していたりんどうの電話番号が携帯電話の画面に映し出された。やわらかく落ちついた声にこわばりがとけていく。鼻と胸の奥が痛い。
「今日はありがとう」
「わざわざどうしたの?」
どうして、こんな返し方しかできないのだろう。本当は耳をくすぐるその声に落ちつかなくて電話を手にしてうろうろとしているくせに、この期に及んでも素直な言葉が出てこない。
「ちゃんと言えなかったから・・」
「そうか。大したことしてないからお気遣いなく」
「本当にお世話になりました。あの、白石君、ちゃんと食べてる?前よりやせたね。雨にも濡れたし、体調崩さないでね」
「だいじょうぶ。少し前にかぜひいてそれで少し体重がおちた。それだけだよ」
「ならよかった。変な形で途切れてしまったから気になっていたよ。顔見れて安心した」
「どの口が言うんだ。白々しい。あの場にいて、何もかも知っているくせに何も知らない顔をして心配するふりか。」
電話などきってしまえばいい。たまたま助けたのが樹凪で、昔の知り合いに再会したが、それ以上であるべきではないし、望んではいけない。
りんどうが樹凪を優先させるのは当然なのに、嫉妬さえした。
そして今、また彼女の底なしの慈愛に甘えて彼女を試すかのような言葉を投げつけている。
りんどうはちゃんと自分を心配して、気遣ってくれているというのに、もっと欲しいと無茶を言っている。
「・・そうだね。正直しばらく白石君のこと忘れていたよ。心配なんてしてなかった。あんまりかわいそうな感じだったから、そういえばそんな人いたなって思い出した。ぜんぶその場限りのでまかせだよ」
りんどうの声の温度が下がる。冷たく遠ざかる。
「そういえばいいかな。どう言えば満足ですか?樹凪を連れて来てくれた時、ちゃんと卒業して自分の車に乗ってる、がんばって仕事しているなあってうれしかったよ。でも、あらためて電話なんてしなければよかった。入学式の時、歩幅をあわせてくれた親切な白石君との記憶の方を大切にしておけばよかった。」
電話の向こうで、りんどうが自嘲気味に薄笑いを浮かべている。知らない人のようだ。誰かの妻であり、母であり、好きになってはいけない相手だったのかもしれないという錯覚が起きる。
しかし、次の言葉は再び思いやりに満ちたものにかわった。
「白石君、自分を大切にしてね。それだけ言いたかった。もう電話しないから」
「・・待って。きらないで。嫌な言い方してごめん。ほんとうはずっと声が聞きたかった。会いたかった。」
自分でも驚くほど情けなく追いすがる。この通話が終われば、二度と会えない。
悪童の神様が、使いの狐に命じて恋の千里を走らせる。すっかり臆病になってしまったこの悪童の行く末を照らすのは野に咲く花のような彼女への気持ちだけしかない。
どうしようもないようにみえて、片手だけで崖にしがみつくように、沈みそうになって必死に顔だけでも水面にだすようにしながら、もう離すまいともがいている。
悪童の神様は自らはいあがろうとする者にしか慈悲を与えない。
狐は花を一輪託されて頼りない一本の通話でつながる線の上を走る。りんどうは古くは薬として重用された。
漢字では竜胆と書く。同じ名前をもったりんどうも様々な苦しみや思いを抱えて心は竜のように強くなっていた。
守るべき者のためなら知り初めた思いを断ち切るという苦いものも飲み込もうとする。臆病そうにみえて豪胆になれるのはいつの間にか備わった母性の力だ。産んでいなくても育つ小さき者への愛。
りんどうは、駆けてきた狐から花を受け取る。その花は華やかなダリア、思い出の花。
「分かってる。きらないからもう泣かないで。」
「泣いてないし。」
充音はそう言われて自分が涙声なのに気づく。
りんどうはふらふらの狐を抱きしめた。そしてがんばったねとなでてやる。
充音は、この先、他の人を好きになることはできないと思っていた。遊びでも無理だ。
一番でなくていい。一人占めできなくても構わない。甘そうでとびきり苦い恋の花。良薬は口に苦し、ではないが、苦くても自分にはこの思いが必要なのだ。
身勝手でくだらない自分だが、りんどうがいてくれればこの先も生きていける気がした。
自分の過去や、まだどこかで生きている父親の血とも向き合える気概がわいてくる。
りんどうは小さな体に大きな愛情を宿して、そんな充音を受け入れてくれる。
悪童の神様はすべてお見通しで、次は充音にさらに何年か待つという試練を与える。お前の思いが本物なら待ってみよ、と。必ず思いは届くから、大いに待て、そして大いに愛せ、と2人の上に目に見えない祝福の花びらの雪をふらせるのだった。
狐の恋路