悪童の神様

人は人に傷つけられる。しかし、それを救うのもまた、人、なのです

 生まれついての悪人はいないと信じる人もいる。充音(みつね)は自分はどちらだろうかと考える。
 人は自分を悪童だという。悪童がいつか本物の悪党になるという。
 大人たちはささやき合った。「あいつはいつか人を殺めるぞ」と。
 だが、充音に言わせれば相手の方が先に仕掛けてきたのだ。やりすぎたと思うこともあるが、自分に手を出したことを後悔させるくらいにしなければ、次もあるだろうから仕方がなかったのだ。
 自分の育つ環境が他と比べてどうであるか当人には分からない。そこしか知らないのだから。
 どこどうからみても崩壊している家庭。傍目には正常に機能しているようで家の中は荒涼とした家庭。充音の育った家庭は後者だ。
 音楽が好きで、『人生が幸せの音に充つるように』男の子でも女の子でもこの名前だと決めていた。母はそう思い出を語った。
 古の和歌の名手にみつね、という名前の人がいて、その響きが好きだったというのも理由のひとつだということも教えてくれた。母はそんな雅なことが好きな人だった。父と結婚するまでは。
 充音は小さいころから、こんな悪童はいないと言われてきた。家は裕福で、仕事上の成功者となった父親と、美しいもの、雅なものが好きなお嬢様育ちの母。その両親の元でなぜこんな粗暴な子が育つのかと不思議がられた。
 粗暴なだけでなく狡猾だった。賢いではなく恐れをこめてずる賢いと言われた。名前がみつね、なのでいつしかずる賢い動物の印象がある、きつね、とあだ名された。怒った時の充音の容赦なさを知っているものは、さすがに面と向かっては言わない。
 だが、充音の方にもそうなる理由がある。どういう環境で育っても優しさを失わない人もいるのだから、言い訳と言われれば否定はできない。
 充音の父親は表裏のある人物だった。充音以上に狡猾だった。有能で容姿に恵まれ、人当たりのよさもあり「まさかあの人が・・」と言われる典型だった。
 しかし家庭内では、支配欲と吝嗇さを隠さない。裕福で羽振りがいいのも、成功者としての明るい側面も表向きのもので、それらを保つためにか、ストレスのはけ口はすべて家の中に向けられた。
 母も結婚当初はその表向きしか知らなかった。お嬢様を手に入れることなど、この男には簡単なことだった。親に反対されて結婚したから、その手前、すぐには両親に泣きつけないことも分かっていた。
 かわいらしいもの、きれいなものが好きなお嬢様の母は、いつしか夫の支配に何もいえなくなりおどおどした女性に変わってしまった。何でも否定され無能扱いされ本当に自分は何もできない人間だと簡単に思い込まされてしまった。
 それでも父の事業がうまくいっている間はまだよかった。表面上は穏やかな毎日を送る。何かで父の機嫌が悪くなり、ひどい扱いをした後、父は必ず母をお姫様のように扱うのだ。それの繰り返し。
 それでも母は父を愛して信じていた。母の努力と我慢で成り立つ薄氷の上のもろい幸福。
 充音が悪童と呼ばれるようになったのは、母親を守るためだった。賢さは父親に屈しない強い武器となるはずだった。
 自分が悪く振る舞えば、体面を気にする父親の注意を母親からそらせると考えた。しかし、幼い目論見はうまくいかなかった。激しく怒られはするものの結局は「お前の育て方が悪い。子育ても満足にできない愚か者」と母に矛先が向かう。
 悪ぶることしかできなくなっていた充音は事あるごとに父に歯向かった。どれだけもう死ぬかもと思うほど打擲されたか分からない。それも服の下に隠れて目立たない部分を狙う。自分が叩かれている間は、少しの間でも母は叩かれない。
 しかし、大抵の母親にとって、我が子が夫に叩かれる様子を目の前でみることは自分にされることと同じだ。 
 母は少しも楽そうではなかった。充音はそんな母の思いには気づかない。
 あの男に、一矢でも報いてみせる。 事実、時々、父の手足には子どもの歯形がつくことがあった。
 攻撃的で勝気な狐だった。その姿に怯んだ父親からさらに激しい暴力を受けても、充音は、自分が悪いからと耐えるような性格ではない。
 プライドの高さ、気性の激しさは、憎むべき父親譲りだ。小さな狐が強い動物に立ち向かうように、物でも何でも使い、抵抗した。
 そんな激しい息子に、父はだんだんと不気味さを覚えるようになる。子どもならここは泣くところなのにこの子は憎しみに燃えた目で、挑発してくる。あと少ししたら、力で対等になり、自分が押さえつけられる側になるかもしれない。
 父の目にその恐れを見たとき、充音は一瞬でも勝機をみた。しかし、すぐに形勢は逆転し、翌日まで起き上がれないほどに打ち据えられるのだった。 
 永遠に続くかと思われた父の支配は、突然終わる。父が出奔した。最後は情けない逃げ方だった。事業が失敗し、返済等に行き詰っていた。弁護士と名乗る人や会社の人、税務署、債権者と名乗る人たちが次々やってきた。
 家の中のものがどんどんなくなっていった。そこに居続けることはできず、母と充音は母の実家に身を寄せた。離婚手続きもあっけなくすすみ、母は突如として父の支配から解放された。
 母を虐げながら、一蓮托生を求めなかったのは父のひとかけらの愛情だろうか。
 祖父母は母の両親らしく典雅静謐な老人たちだったが、父に似ている充音にどこか遠慮があった。その萎縮した態度をみていらいらする時、体内の父親の血の濃さを感じて、さらにいらだちが募る。
 一度身についた悪癖は、穏やかな生活の中で、治るどころか、中学校でも仲間とつるんで問題を起こしていた。自分でも分からない。なんでこうなってしまうのか。望んでいないのにいさかいや問題を引き寄せる。
 やはり、荒んだ目をした仲間たちが悪事や火種を持ち込んでくることもあった。
 好色な大人を誘いだし、金銭を脅し取る。誘い出す役割をすすんで引き受ける少女たちが一定数いた。
 誘い出し、何かされる前に、仲間たちが大人を取り囲むのだから、彼女たちの体には何も傷がつかない。何かされたとしても想定内だし少しくらいなら構わないとさえ思っていた。お金がもらえるなら、居場所をくれるなら。
 充音も、仲間たちも、大人たちにいいように扱われ、その心には細かい傷がいくつもつけられていた。だけど、その傷をつけた大人たちに対しては何もできない。そのやるせなさを徒党をくんで、弱そうな大人を見つけて発散した。
 充音は、自分の無駄に回転のいい頭が、悪事に使われることに疑問を感じ始めていた。確かに自分たちは犠牲者だ。今はどうにかうまくいっているが、そのうち取り返しのつかないところに行きつくのではないか。充音の賢さで、まわっているだけで、しょせん志のない烏合の衆だ。
 だが、行き場所のない彼らを見捨てることはできない。こいつらは自分だ。そして自分は彼らと同じだ。
 仲間内で、少女たちと付き合うことが何度かあった。だが、彼女たちを支配したい、他の少年たちと仲良くしないでほしいという気持ちに気づくと、父親を思い出し、急速に気持ちが冷めていった。

 悪事で倦み疲れたこの体、このまま野たれ死ぬかもしれないと思っていた高校生の頃、充音は人生で一度目の忘れられない出会いをする。
 ある日、何気なく、暑さ除けで立ち寄った市の大きな建物、市民の集う場で公民館というらしい。ロビーにたむろして、声高に話していると、異質な集団をものともせず、注意してくる大人がいた。公民館の職員だった。
「これこれ、少年たち。ここはみんなの場所だよ。いてもいいけど、もう少し静かにしてください」
 十代の明らかにガラの悪い少年たちに臆せずに一人で話しかける小さな男の人。
 充音が、面倒事はごめんだと、あごをしゃくり、行こうと促すと文句を言いながらも仲間たちが出て行く。その職員は充音を呼び止める。
「出て行くんだからいいだろ。邪魔したな。もう来ないから」
「君がリーダー?君が一言いえばみんなすぐ言うことを聞いてくれた。君、すごいね。人をまとめる力があるようだ。静かにしていたって楽しく過ごすことはできるよ。また来てくれるかな?ここは誰が来たって歓迎される場所なんだよ」
 その小柄な男性は、充音の奇抜な髪の色、きつい目つきにも動じなかった。彼は人の顔と名前を覚えることが、大得意であった。
 仲間たちがよんでいるのを覚えていて、その次会ったときは、充音くん、と呼びかけてくれた。一人で、所在なさげに訪れた充音を見て、心底うれしそうにしていた。
「約束守れるいい子だね、充音くんは。来てくれてうれしいよ」
 一人になりたいとき、充音は公民館へ行き、昼寝して、スマホをいじったり、休憩スペースで新聞や雑誌を読むようになっていた。
「スマホだけでは、自分に興味のあることにしか目が行かない。新聞はいろんな記事が目に入るようにできている。最初は疲れるだけかもしれないけど、読む習慣がつくと明日が楽しみになるよ」
 その男性職員は、新聞の読み方を教えてくれた。そして新しいスマホを手にしてほくほくしている充音の背後に忍び寄り、「スマホってどうして動くんだろうねえ。」と謎かけをしてくる。充音は自分で調べろよと言い返す。
「僕、忙しいんだよねえ。でも知りたいな。暇そうな充音くんが調べてくれると助かるのだけど。あ、どうしてスマホが動くのかをスマホで調べるのはなしだよ。図書館で調べて僕に教えてくれないか。」
 無視すればいいのに、退屈していた充音は子ども向けの百科事典から、成人向けの技術工学の本がそろっているコーナーをまわり、初めてスマートフォンなるものを世に出した人の伝記を読み、スマホに使われている部品がどこでつくられているか、スマホが健康や心理状態に及ぼす影響に書かれた本も読みこんでレポートを書き上げた。
 一回出しても彼は説明不十分な個所やアラを見つけては、もう少し詳しく、と突き返してきた。そして何回目かについに合格が出た。
「充音君。僕が見た中で一番わかりやすいスマホの説明書だ。すばらしい」
 そう言って、夏休み自由研究のお手本として、館内に展示してくれた。充音は、名前は出さないでくれと懇願した。
 なぜ、そこまでできたのか、にやにやされながら突き返されることへの悔しさと知りたいことがどんどんでてきて、始めはしぶしぶやっていたのが、もっと知りたいに変化していった。
 それと並行して、悪事に知恵を授けてくれなくなり、付き合いが悪くなった充音は、仲間から少しずつ孤立するようになる。
 いくら多少腕がたち、頭がよく、見た目がいいといっても、そこまでのカリスマ性はない。多勢に無勢でクラスで仲間外れにされ、今までの悪事すべてが充音のせいにされて、いじめを受けるようになる。
 もともと飽きが来ていたし、もうこの仲間にも、高校生活にも何の未練もない。充音は深く考えることなく高校を中退した。先が見えなくなり、そしてやはり耐え難かったのだ。お互い利用しているだけとは分かっていたはずなのに、彼らの裏切りと白眼視に傷ついた。
 家庭内にも居場所がなく、初めて何もかもから逃げ出すことを選んだ。優しい人ばかりではなかったが、まわりには常に人がいた。孤独は想像以上につらいものだった。
 縋るように公民館へ足を向ける。あの男性職員が、変わらず迎えてくれた。
「僕は兎湖島 信幸といいます。トコさんってよんでください」
 この公民館の職員は親しみをもってもらうためにニックネームで呼んでもらっている。矢野智子さんという職員はヤットさんと呼ばれていた。ヤットさんも口うるさいが充音に、いつも話しかけてくれる人だった。
 トコさんは、名前のとおりトコトコと館内を歩き回っている。トコさんは青少年対象の事業の担当ということもあって、少年少女たちの心をつかむのに長けていた。
 トコさんは子どもたちと話したり、注意をしたり、忙しい。小さな体で騒ぐ子どもたちに全力で当たっている姿は見ていて微笑ましい。
 注意しているうちにだんだん追いかけっこになって、きゃあきゃあと走り回り、ついにはヤットさんに子どもたちもろとも、もっと怒られてしまいしゅんとする姿に、充音は陰で大笑いした。
 親でも先生でもない立場の大人、トコさんは、不思議な妖精のような大人だった。充音が機嫌が悪く、ぶっきらぼうになっても、トコさんはやっぱりトコトコ歩いてきてニコニコと話しかけてくれてくれるのだった。
「高校やめた」
 トコさんは、何かの作業を手を止めずに、しかしうなずいているので、耳だけはこちらを向いている。
 見るからに悪童の充音と、柔和なトコさん、トコさんは今まで充音がどんなに悪いことをしてきたかを知らない。
 ただうなずくだけで、やめてどうするの?とは聞かない。理由も聞かない。トコさんに聞いてほしい。何か言ってほしい。
 どんな悪い自分でもトコさんは変わらないだろうか。充音はたまらず子どもの頃から今までのことをトコさんに話していた。
 トコさんは、口をはさまず合いの手も入れず、ただ傾聴している。時折、充音が口をつぐむと待ってくれた。
「俺をどう思う?見た目と同じで軽蔑するか?」
「そうだなあ・・。軽蔑なんてしないよ。でも、ずいぶん暴れたね。もちろん悪いところがたくさんある。君たちによって傷ついた人がいる。でも、そうやって話しながら充音君はぜんぜん得意げには見えない。それは君にとって、武勇伝じゃないよね。きっといつも楽しくはなかっただろう?どうかな?」
 トコさんはじっと充音の反応を見ている。
「僕は人の話を聞くとき“一方を聞いて沙汰するな”って言葉を信条としている。昔の偉い人の言葉の受け売りだけどね。一方の言い分ばかり聞くのはよくないと思う。時代劇でヒーローに切り倒される浪人集団がいるけど、僕はいつも思っていた。彼らにだって人生があって、彼らを待っている家族がいるんじゃないかって。武士なのに職を失って、生活のために用心棒をやっている人もいたはずだ。充音君、今までのことすごく大変だったと思う。よくここまで生きてきたね。でも、充音くんのまわりの人、ご両親、祖父母の方、友達、かかわった大人たち、みんなにも言いたいことがたくさんあったんだよ。」
「俺、とんでもないクズだよ。大嫌いな父親にそっくりなんだ。死にたいくらい嫌だ」
「充音君のお父さんのことは知らないけど、似ていることはどうしようもない。変えられない。でも、環境や生き方は変えられる。変えていいんだよ。充音君が変わったら喜ぶ人がたくさんいる。僕もうれしい。確かにやったことは消えない。そして忘れてはいけない。でも、一生それにとらわれて自分は幸せになったらいけないと思わなくていい。充音君、君は自分が思う以上に、本当は素晴らしい子だよ」
 トコさんはいい子だね、と充音の頭を自然なしぐさで撫でた。
 悪童、充音の神様みたいなトコさんは、その会話から少しして、姿を見なくなった。体が小さく、持病もあったトコさんは家族に見守られて、闘病の末亡くなった。
 ヤットさんが、一緒にお悔やみに行こうと言ってくれた。生まれて初めてお悔やみに言った。制服は着られないので祖父の喪服を借りた。母にお参りの作法や香典の渡し方を教わった。
「そんな人がいたんだね。ありがたいこと。ちゃんとお別れしてきなさい」
 ネクタイを結びながら、母は感慨深げに呟いた。
「このたびはご愁傷様です。」
 お悔やみの言葉を初めて口にした。お参りの作法はトコさんの遺影をみたとたん頭から飛んでしまって、香典もきちんと渡せたか覚えていない。
「ご丁寧にありがとうございます。大変お世話になりました」
 トコさんより背の高い奥さんは、大人に返すように、充音にもあいさつを返してくれる。
 遺影のトコさんは満面の笑みだ。健康的ではじけるような笑顔。公民館主催の小中学生向けのキャンプにいった時の一枚らしい。
 どんな子どもにも大人にも公平に接する。特別扱いはしない人だった。家では仕事の話はあまりしないトコさんが珍しく充音のことを奥さんに話したそうだ。
「見た目はやんちゃだけど、とてもいい子だよって。特別扱いはしたくないけどあの子には何かしてあげたくなると言っていました。たくさん学んでほしいと。主人は世の中に最初から悪い人なんていない。どんな人にもその人なりの理由があるが口癖でした。」
 それきり、充音は公民館への足が遠のいた。トコさんはもういないのに行ったって仕方がない。トコさんがまたおいで、ともう言ってくれない。トコさんがいたから、自分はあそこにいてもいいと思えた。それらはトコさんが亡くなったことであっけなく途切れてしまった。しかし、抜け殻の生活に戻りそうだった充音を引き戻したのもトコさんだった。
 香典袋の内袋に書いていた住所に、トコさんの奥さんから手紙が届いた。トコさんはひそかに充音が今からでも取れそうないろいろな資格や学校のことを調べていた。充音が相談をしてきたらすぐにでも渡せるようにと。必要なければそれでもいい、と。トコさんからのメッセージも入っていた。

 『白石 充音 様  
君ならできる。君はこれからたくさんのいい出会いをする。君を信じてくれる人がいる。自分の過去に目をそむけず、でも前を向いて大きくなってほしい。責められることもあるかもしれない。つまずいたって、落ち込んだっていい、でもそこでくじけちゃいけないよ。どうか実りある人生を。君のこれからの人生が幸せの音で充つるように祈っています』
 奥さんの短い手紙も添えられていた。

 『この世界に生きる人はみんな誰かの特別な存在です。どうか、誰かの特別な存在であったことを忘れないでください。あなたのこれからに期待しています。お元気で』

 涙とはこんなにも出るものだろうか。涙がとまらない。トコさんに会いたい。もっと話したいことがあった。これからがんばるからもっといい子になるから、いつもの場所にいてほしい。
 子どもの頃、痛くて怖くて泣きたかった。でも泣かなかった。絶対泣くものか、とその時の涙をためていて今、トコさんのために滂沱の涙を流しているのだ。
  

悪童の神様

悪童の神様

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-12-30

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