『パタヤ日本人殺人事件~消えた線路の幽霊~』タイ・トラベルミステリー・シリーズ

『パタヤ日本人殺人事件~消えた線路の幽霊~』タイ・トラベルミステリー・シリーズ

 アジア有数の大歓楽街のタイ・パタヤ。日系企業の駐在員・山岸達也が失踪し、やがてコンテナの中から腐乱死体で発見される。チェンマイで休暇中の坂本刑事は急遽呼び戻され、タイ警察官リサと捜査を開始。歓楽街の女性が容疑者に浮かぶが、事件の背後には「地図にない貨物線」と裏社会の影が潜んでいた。
 やがて坂本の前に、戦時中にタイで鉄道建設に従事し命を落とした日本軍工兵隊伍長・藤堂一馬の幽霊が現れる。冷静な坂本と陽気な幽霊という異色のコンビが、鉄道トリックと裏社会の謎を追い、過去と現在の悲劇が重なり合う中で真相に迫る。
 幽霊の未練と死の真実が解き明かされる瞬間、彼は静かに消え、坂本は敬礼を捧げる。
 ホラー・コミカル・ミステリーが融合した異色の“微笑の国タイランド”が舞台の痛快の一作。

第一話 失踪

第一話 失踪

1.パタヤの熱い風

 未明の歓楽街パタヤは、数時間前の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 淫靡なネオンの消えたビーチロードは、湿った熱気だけを残して束の間の眠りについている。

 遠くで、酔いつぶれた西洋人観光客の男がレディボーイに絡み、怒鳴り合う声がかすかに響いた。  

 海からの風が高層コンドミニアムのベランダを撫で上げていく。

 沖合ではレジャーボートや高級クルーザーが、夜明けの海に浮かぶ妖獣のように波間で揺れていた。

 坂本刑事は警察バッジを首にかけ、日本大使館邦人保護課の職員・小林と共に室内を見渡した。

 失踪した日系企業の駐在員が住んでいた、32階の角部屋。

 一人暮らしには広すぎる部屋の間取りに、ひんやりとした大理石の床。

 開け放たれたベランダから潮の匂いが流れ込み、籐のテーブルセットが常夏の虚無感を静かに演出していた。  

 壁にはタイの風景画、隅には美術館にあるような仏陀の彫刻が、不在の主を見守るように佇んでいる。

 坂本の目は、ウォールナットのテーブルに向けられた。

 飲みかけのシンハビール、数本の吸い殻が残る灰皿、そして一冊のよれたノート。

 坂本はノートを手に取り、ページをめくった。  

 日本語とタイ語が入り混じった走り書き、几帳面に貼られた名刺、そして太い赤線で引かれた地図のような手書きの模様——。

「何かの地図か……? 小林さん、どう思う?」

「地図かどうかも分かりませんが、山岸さんが向かおうとしていた場所かもしれませんね……」  

 小林が困惑したように眉を寄せたその時、背後で部屋のドアが勢いよく開いた。

 海風にカーテンがふわりと舞い、乾いたヒールの音が近づいてくる。

「地元のギャングが関わっている可能性があるわ。日本大使館には連絡済みよね?」  

 聞き覚えのある、少しハイキーで甘えた響きのタイ語。

 振り返ると、そこにはタイ公安警察の日本語通訳官・リサが数人の警官を従えて立っていた。

 赤いバンダナで高く結んだポニーテール、ブルーのスキニージーンズに白いカウボーイブーツ。

 ひと目で彼女だと分かる装いだった。

 「คุณซากาโมโตะ! 坂本さん? なんでここに? 休暇でチェンマイにいるんじゃなかったの?」

 彼女は赤いバンダナを揺らしながら、驚いた顔で言った。

 ベランダから差し込む朝焼けの光が、彼女の褐色の肌を浮かび上がらせる。

 坂本は眉を上げ、肩をすくめた。

「それはこっちの台詞だよ。なんで君がここに?」

「私は仕事ですよ。日本人が消えたっていうから…坂本さんこそどうしてここに?」

「……大使館に呼び戻されてね、せっかくのチェンマイ温泉リゾートは台無しだよ。ああ、こちら、休暇中の僕を引っ張り出した小林さんだ」  

 坂本の皮肉交じりの紹介に、小林は慌ててタイ語で挨拶し、合掌(ワイ)を返した。

 リサは呆れたように息をつく。

「休んでいればいいのに。この事件はタイ警察の管轄よ。邪魔しないでくださいね」

「日本人が絡む事件だ。協力させてくれ。……まあ、君とは腐れ縁だが」

「ほんと、嫌な言い方しますよね。協力してあげないわよ」

「今回はややこしい話になりそうだ。まぁ、仲良くやろうじゃないか」

「だったら最初から“お願いします”って言えばいいのに!」

 軽口で一瞬だけ和らいだ空気を、現場の静寂がすぐに飲み込んだ。

 坂本は手帳を開き、事実を確認する。

「山岸達也、四十二歳。大手商社のパタヤ支店勤務。三日前から連絡が取れなくなり、支店長が通報した。日本に妻子を残した単身赴任。五年の駐在歴があり、仕事ぶりは真面目で評判もいい。典型的な企業戦士だ」  

 坂本は胸ポケットに手帳をしまい、低く言った。

「そんな男が、突然姿を消す理由がない。……普通ならな」

 リサは部屋を見渡す。

「でも、夜は毎晩バーをはしごして酔いつぶれていたそうよ。ロビーの守衛の話だと」

 リサが窓の外を見つめながら補足した。

「昼は模範的駐在員、夜はパタヤの酒場を漂流する酔っ払い日本人。二つの顔を持つ男ね」  

 坂本はノートをリサに差し出した。

「これを見てくれ。タイ語は書けないはずの山岸が、何かを残している。もしかすると、読み書きもできたのかもしれない。で、何が書いてある? 失踪の手がかりになりそうなことは?」  

 リサが文字をなぞる。

「不自然な綴りだけど、なんだか、戦時中の日本兵の鉄道建設について書いてあるわ…。失踪とはあまり関係なさそうだけど…」

 坂本が覗き込み眉を寄せた。

 リサは赤い線が引かれた地図に目を留め、ある一点を指で軽く叩いた。

「地名と時間を急いで書き留めたみたい。“W.H ๒๒.น.”……W.H、午後十時。倉庫(Warehouse)の略かしら。この地図の印、パタヤ郊外のレムチャバン埠頭にある倉庫群のことかしら」

 リサの声が確信めいて響き、坂本は少し興奮気味に息を吐いた。

「倉庫なら、レムチャバン国際港の近くだろう。しかし夜はギャングの溜まり場と聞いているが、山岸がそんな場所に近づく理由が思いつかない」

 リサが首をかしげながら地図を見ていると、部屋の奥を調べていた小林が声を上げた。

「……あれ? これは何ですかね?」  

 小林がベッドの下を指差した。

 リサが命じた捜査員が、白い手袋を嵌めてしゃがみ込み、慎重に引き出す。

 薄く埃をかぶった黒いダッフルバッグだった。

 ずしりと妙に重い。

 ジッパーを開けると、古びた紙の匂いと共に、輪ゴムで束ねられたタイバーツ、日本円、米ドルの高額紙幣が溢れ出した。

「……こんな大金、どこから? 何に使うのかしら?」  

 リサの呟きに、坂本は沈痛な面持ちで札束を透かした。

「うむ、一体なんの金だ……? 給料や貯金じゃ説明できない額だな…」



2.地図と携帯

 坂本はバッグの中を改めて探ると、指先に硬い角が触れる。

「……まだ何か入ってるな」

 取り出したのは、古い型の携帯電話だった。

 黒い樹脂のボディは擦り傷だらけで、画面には細かいひびが入っている。

「こんな古い携帯、今どき使ってる人いないわよ。山岸さん、スマホも持ってたはずなのに……」

 リサが訝しがっていると、坂本が電源スイッチを押すと、驚くことにまだバッテリーは残っていた。

 聞き慣れた起動音が短く鳴り、画面がゆっくり明るくなる。

「懐かしいな、この携帯の画面。今なら骨董品屋に並んでいそうだな…」

 坂本は携帯電話を持ちながら、その手感を懐かしんでいた。

「もう、坂本さんったら! そんなことより通話記録を見てください、早く!」

 ぎこちない指先で通話履歴を開くと、四日前の記録を最後に、通話は途絶えていた。

 しかも——すべて同じ携帯電話からの番号だ。

 リサが画面を覗き込み、眉を寄せる。

 坂本は通話履歴の横にある、小さなアイコンに気づいた。

「録音機能が作動してるな……」

 坂本が再生ボタンを押すと、スピーカーから雑音混じりの声が流れ出す。  

 最初に聞こえてきたのは、男の低く落ち着いた声だった。

《心配するな。全部、俺がやる。ただ……あの場所には近づくな》

 タイ語の発音こそネイティブではないが、内容は明解で淀みがない。  

 リサが隣で小さく息を呑む。

「……嘘でしょ。山岸さん、タイ語はカタコトだって聞いていたけど……。これ、明らかに使い慣れている人の話し方よ」

 驚きを隠せないリサの声をかき消すように、録音から別の音が聞こえてきた。

 速いビートの音楽、男の笑い声、そして女の甲高い叫び。

「……ゴーゴーバーのカウンターかしら。かなりの喧騒ね」

 リサが音に耳を澄ませる中、続いて若い女性の甘えたような声が入る。

《ヤマギシさん、昨日の話……本当に大丈夫なの?》

 その言葉を最後に、通話はぷつりと切れた。  

 再生が終わり、部屋全体を暫しの沈黙が支配した。

 坂本はリサと視線を合わせ、小さく頷く。

「 “山岸さん”と呼んでいたな……。相手の女は、山岸と関係のある人物か…」

「しかも、『昨日の話』って。単なる遊び相手じゃなさそうね。この辺りで山岸さんと深く関わっていた女といえば……。ゴーゴーバーの女性かしら?」  

 リサは腕を組み、何かを思案するように目を閉じた。

 坂本もまた、山岸の裏の顔を思い描いていた。

 真面目な企業戦士の皮を被った男が、流暢なタイ語を操り、危険な香りのする女性と秘密を共有していたとすると――。

 その落差に、言い知れぬ、不吉な予感が坂本の胸をざわつかせる。

「この男の声が山岸だとすると……。山岸達也には、別の顔が隠されているようだな」

 坂本は携帯電話をゆっくりとテーブルに置いた。

 坂本が何か言いかけたそのとき——

 小林のスマホの着信音が、静まり返った部屋を鋭く切り裂いた。

 電話を受けた小林の顔から血の気が引いていく。

「どうしましたか?」

「坂本さん……山岸さんの遺体が見つかりました。レムチャバン埠頭の倉庫です」  

 部屋の空気が一気に凍りついた。

 坂本は低い声でリサに告げた。

「山岸達也の遺体が見つかったようだ。場所は……そのノートにある港の倉庫だ」

 リサの目が大きく見開かれる。

「港…あの倉庫群の?」

「そうだ。 さっき地図で見た、赤い線が集中していたあたりだろう」

 遠くでパトカーのサイレンの音がこだましている。

「じゃあ……この録音の会話の後に事件に巻き込まれたのかしら……」

 坂本は短く頷いた。

「山岸は、何かに巻き込まれたんじゃない。自分から踏み込んでいったんじゃないかな。その結果が……これだ」

 リサは唇を噛み、視線を窓の外へ投げた。

「じゃ、すぐに現場へ行きましょう!」

「よし、急ごう!」

 坂本は警察バッジを握り直し、部屋を後にした。

 ベランダからの潮風が、まるで何かを告げるように二人の背中を押していた。

 ――車のドアが閉まる音。  

 大使館の公用車とリサの警察車両は、パタヤの市街地を抜けて首都バンコクへと続く幹線道路をひた走る。

 二十分ほどで、タイ湾に面した広大な埠頭のコンテナヤードが見えてきた。  

 容赦なく照りつける太陽の下、巨大な貨物船の船体が重苦しい熱気を跳ね返している。

 ()えた潮の香りに、焼けた鉄の匂いが混じって鼻を刺した。

 並び立つコンテナは灼熱を帯び、触れれば火傷しそうなほどだ。

 その一角、錆びたトタン屋根の倉庫から伸びる、雑草に埋もれた線路の上に、見放されたような空のコンテナ車両が静かに停まっていた。  

 周囲にはタイ語で「立入禁止」と記された黄色いテープが張り巡らされ、鑑識課員が放つフラッシュの光が、重苦しい空気を断続的に切り裂いている。

 灼けつく日差しがコンテナの鉄壁を白く照らし出す一方で、開け放たれた倉庫の奥は、昼の光を拒むような深い闇に沈んでいた。 

 その半開きのドアから、潮と鉄と腐敗の匂いが漏れ出している。  

 坂本は首筋の汗を拭い、タイ人の鑑識課員に警察バッジを示し、丁寧にお辞儀をした。

“ผมคือซากาโมโตะ จากสำนักงานตำรวจนครบาลญี่ปุ่น ขอให้ผมดูศพด้วยครับ”《日本警視庁の坂本です。遺体を確認させてください》

 鑑識が道を空けると、薄暗いコンテナに足を踏み入れた。

 坂本は静かに手を合わせ、亡き同胞に頭を下げた。

「ここが、山岸の最期の場所か…」

 天井の小さな破れ目から差し込む光が、残酷にその輪郭を浮き彫りにしている。

 コンテナの中央の壁にもたれかかるようにして、山岸達也の腐乱死体が横たわっていた。
 
 熱気で膨張した遺体は、土気色の皮膚が異様に突っ張り、見開かれた瞳は今も何かを恐れるように闇を凝視している。   

 その時――コンテナの奥、光の届かない闇の中で、白い霧のような人影がゆらりと揺らめいた。  

 坂本は息を呑み、わずかに震える指先を隠すように握りしめた。

「……何だ、今のは」 

 坂本は瞬きをし、もう一度闇を凝視した。

 だが、そこにはただ、山岸の遺体が放つ死臭と、熱気に澱んだ沈黙があるだけだった。

第二話 陽炎の工兵伍長

第二話 陽炎の工兵伍長

1. 藤堂一馬(とうどうかずま)

 坂本は気を取り戻し、小林を呼んで山岸の遺体を調べ始めた。

 小林が怪訝な顔つきで、遺体の傍らに落ちている小さな布片に目を落とした。

 赤地に金の縦線、そして中央に一つの金星。

 旧日本陸軍、伍長の階級を示す肩章だ。

「坂本さん、これは……戦時中の日本兵の肩章じゃないでしょうか?」  

 大使館員の小林が、神妙な顔つきで、なにか嫌な気配を感じ取ったようだった。

「日本兵の…? よくご存じで…。 でもなぜこんなものが……」

 坂本が小林から、その布片を受け取った瞬間、その手をぎゅっと掴まれたような錯覚に陥った。

「坂本さん……?」  

 小林の声が、消え行くエコーのように遠のいていく。  

 なんだ、この感覚は…?

 坂本の吐く息が白く濁り、足元から這い上がってきた冷気が、灼熱のコンテナ内に漂ってくる。

 不意に、鼻を突く火薬の焦げた臭い、泥、そして重油と焼けた鉄が混じった匂いが漂い、坂本は思わずしゃがみこんでしまった。

 その時、コンテナの奥から澱んだ空気が、激しい震えとなって内側の壁を這ってきた。  

 だが、すぐ傍にいるリサも小林も、その異変に全く気づかない。

 彼らは平然と、死体の検分を続けている。

 坂本だけが、現実から切り離された空間に囚われていた。 
 その澱みの向こう側から、ゆっくりと重厚な靴音が響いてきた。

 一歩、また一歩。

 誰もいないはずの床が、ぎしりと沈み、視界が急激にセピア色に染まっていく。

 昼の光が差し込んでいるはずなのに、その一角だけが、墨をこぼしたような真っ黒な闇に沈んでいる。
 
 フウフウと湿り気を帯びた、重苦しい呼吸音が聞こえる。

「……誰だ?」  

 坂本が声を絞り出す。

 白い霧の中から、ゆっくりと影が染み出してきた。

 軍帽の輪郭ー左胸が赤く染まり、泥を被った軍服姿。

 そして、坂本が手にしている肩章に視線を落とすように、一つの顔が浮かび上がった。

 軍帽の(ひさし)の下で、爛々と輝く二つの眼光。  

 男は、欠けた自らの左肩をゆっくりと(さす)り、坂本を射抜くように見据えた。

『……貴様、俺が見えるのか』

 コンテナの壁に反響する低い声が、坂本の脳に直接語りかけてきた。

『わしは藤堂一馬、大日本帝国陸軍工兵隊伍長(だいにほんていこくりくぐんこうへいたいごちょう)だ』  

 藤堂は坂本を見下ろし、ゆっくりと敬礼をした。

 その眼には、時代を超えてきた者の凄まじい圧があった。

 藤堂は腕を下し、山岸の遺体を冷たく指差した。

『愚かな男よ…』

 藤堂は一歩、坂本へ歩を進めた。

 たわむ床が、坂本の平衡感覚を奪う。

「ちょ、ちょっと待ってください。あなたは一体誰ですか? てか、え?」

 坂本は気が動転し、目の前の光景に理屈が追いつかず、ただ唇を震わせるしかなかった。 

『坂本と云ったな、なかなか肝の据わった男だな。普通は、泡を吹いて転がるか、腰を抜かして這いずるものだが……、それとわしを“藤堂伍長”と呼べ』

 藤堂はそう言って不敵な笑みを浮かべ言葉を切った。  

『貴様、この線路が飲み込んだすべての事実、知りたくはないのか?』

 藤堂はゆっくりと歩を進め、坂本の耳元で囁くように続けた。

『この男、わしが教えた「線路の地図」を私利私欲のために利用しおった。かつてわしが地図にない線を刻み、命を賭して敷設したあの道を、ただの欲の道具に変えおったのだ。挙げ句、ようやく辿り着いたというところで無様に殺され、この場所を血で汚しおった……』

「……山岸を殺した犯人を見たのか?」

『ああ、見ておった。だが……』

 藤堂は悔しげに顔を歪め、港のさらに先、遠い水平線を睨みつけた。

『わしの足はこの港の、このコンテナの周辺までしか届かぬ。山岸の命を奪った奴らが、奪い取った「荷」をどこへ運んで消えたのか……そこまではわしにも見えんのだ』

 坂本の背筋に、再び鋭い寒気が走った。

 藤堂は軍帽の庇を指先でクイと上げ話を続けた。

『山岸という男の死も、わしの誇りを踏みにじった者たちの正体も、未だ闇に紛れておる。だが、案ずるな。この一件、わしが協力する。貴様らの手に負える相手ではないからな』

 藤堂は不敵に唇を吊り上げると、今度はコンテナの奥、闇が深くなっている一点を指さした。

『いいか、坂本。まずは、この“消された線路”がどこへ向かっているのか……。貴様の眼で、正しく見届けることだ』

 指し示された先には、蜃気楼のように壁の空気が割れて、線路の影が揺らめいて浮かび上がった。

『すべてが終わった時、わしもようやく祖国日本へ『帰還』できる……。そういうことだ』

「祖国へ帰還…?」

『左様。わしはこのコンテナで八十年、ずっと見ておったのだ。人間の欲というのはいつの時代も同じだったがな…わしが成仏できないのもそれが原因かもしれぬ』

2. 陽炎(かげろう)の伍長

 藤堂はふんぞり返るようにしてコンテナの壁に背を預けると、擦り切れた軍装から古びた紙箱を取り出した。  

 表書きには『興亜』の二文字――戦時中の兵士が喉を鳴らした配給煙草だ。  

 藤堂が慣れた手つきでマッチを擦ると、小さな火花が散った。

 くゆらされた煙は、白く消えるのではなく、セピア色の霧となって天井へねっとりと這い上がっていく。

『ふう……やはり『興亜』は喉にくる。貴様も一本どうだ、坂本。……と言いたいが、現代の軟弱者には皇軍の味は重すぎるか?』

「……結構だ。それよりここは禁煙だぞ、伍長」

 消える気配のない幽霊に、坂本は頭を抱えた。

 藤堂は俄かに無邪気な笑みを浮かべ、坂本の肩を(透けるような感触のまま)叩いた。

『そう硬いことを言うな。まずはあの小娘のところへ戻るか。あやつ、なかなか良い勘をしておる』

 コンテナを這い出してきた坂本の顔は土色だった。

 その後ろを、鼻歌でも歌いそうな足取りで藤堂が続く。

 もちろん、リサにはその姿は見えない。

「坂本さん! 顔色がかなり悪いですよ!」  

 駆け寄るリサに、坂本は震える指で背後を指さした。

「……リサ。そこに、場違いなほど古臭い軍服の男がいないか?」

 リサは目をパチパチさせて、虚空を凝視した。

「変な格好? ……ああ、ソムチャイ警部のことですね! あの人、体型を無視して数号下の制服を無理やり着るから、お(ハラ)が弾けそうで……まるで歩く太鼓ですよ!」

「違う、ソムチャイではない! もっと古い兵隊のような……」

 遮るように、藤堂がリサの目前まで大股で歩み寄った。

『坂本! この女子兵曹、今なんと言った。わしの気高い軍服を、その太鼓野郎と一緒くたにしたのか!』  

 憤慨した藤堂が服をパッパとはたくたび、セピア色の埃が舞う。

「いや、落ち着いて……藤堂さん。彼女はリサ警部補、私の相棒だ」  

 紹介された藤堂は、一つ咳払いをして胸を反らした。

『ほう、今時のタイの女兵か。目力が強いな、わしの好みだ』

「よせ! セクハラだぞ、伍長!」

『セキ・ハラ……? 案ずるな、坂本。わしは至って健勝だ。赤痢(セキり)にもかかっておらんし(ハラ)の具合も快調である!』

 噛み合わない掛け合いに、リサはそっと二歩、後ずさりした。

「坂本さん……さっきから誰と話してるんですか? 暑さで脳がバグっちゃったんじゃ……」

「待て、リサ! こいつが……いや、この藤堂伍長がだな……!」  

 必死に説明しようとするが、あまりの異常事態に言葉が続かず、坂本は金魚のように口をパクパクさせるばかりだった。

 その横で、藤堂はリサのスマートフォンを食い入るように覗き込んだ。

『なんだこの光る板は!文箱(ふみばこ)か、それとも新型の通信機か!』  

 透ける指先がかすめるたび、画面に不気味なノイズが走り、周囲の気温がすうっと下がる。

『おい、坂本! ぼうっとするな。八十年ぶりのパタヤだ。大東亜随一と謳われる大歓楽街をじっくり見物してみたい。案内を頼む!』

「ま、待て……。本気でついてくるつもりか?」

 ようやく絞り出した坂本の声に、藤堂は心外だと言わんばかりに目を見開いた。

『当たり前だ。貴様一人では、この事件は解決できぬだろう。……これもわしに許された、日帰賜暇(にっきしか)と思えばよいのだ』

 藤堂は不敵に笑うと、コンテナの暗がりを離れ、白く焼けつく真昼の光の中へと悠然と踏み出した。

 だが、その背中が強烈な直射日光にさらされた瞬間――。

 激しい陽炎の彼方へ溶け去るように、藤堂の姿はかき消えた。  

 同時に、まとわりついていた冷気が霧散し、せき止められていた倉庫の熱気が、爆発するように戻ってきた。

「……消えた?」  

 坂本は眩暈(めまい)を覚えるほどの白光の中、誰もいないアスファルトの上で、ただ呆然と立ち尽くした。

3. ビーチロードの聖域

 繁華街のど真ん中にある、ビーチロード沿いのパタヤ警察署の正面玄関をくぐると、むせ返るような熱気が坂本を待ち構えていた。

 受付の待合席には、ビーチサンダルにアロハシャツという格好の観光客が溢れかえっている。

 財布を盗まれたと喚く白人男性、連行されてきた派手なドレスの女、そしてそれらを適当にあしらう制服姿の警官たち。

 天井で回る巨大なシーリングファンは、生ぬるい空気をかき回すだけで、何の涼ももたらさない。

 事務室に入れば、今度は使い古されたエアコンが「ガタガタ」と激しい異音を立てながら、冷気というよりは湿った風を吹き出している。

 喧騒極まる事務室の壁、ひときわ高い場所には、現タイ国王の肖像画が厳かに掲げられている。

 金色の重厚な額縁に収められたその御影は、埃っぽく雑然とした署内の混乱を見下ろすかのように、静謐な威厳を放っていた。

 その前を通り過ぎる警官たちは、どんなに忙しくとも一瞬だけ居住まいを正す。

 南国の強烈な陽光を遮るブラインドの隙間から、一筋の光がその肖像を照らし出し、そこだけが周囲の泥臭い現実から切り離された聖域のように見えた。

 坂本はその凛とした眼差しを仰ぎ見ると、どこか落ち着かない心地で、自らの乱れた襟元をそっと直した。

 指名手配犯たちの色褪せたポスターが壁を囲み、デスクの上には、飲みかけの甘いタイティーのカップと、乱雑に積まれたタイ語の書類、そして誰のものか分からないバイクのヘルメットが転がっている。

 窓の外からは、甘ったるい遅い午後のパタヤ特有の喧騒――トゥクトゥクの排気音と、付近のゴーゴーバーから流れる重低音の音楽が、湿気を含んだ風に乗って絶え間なく流れ込んでくる。

 坂本は、リサにデスクを借りて座り、ベタつくシャツの袖を捲った。  

 このあまりにも「現実的すぎる」混沌とした風景の中にいると、つい先ほどコンテナの中で出会った、あの凍てつくような藤堂伍長の存在が、ますます悪い夢だったのではないかと思えてくるのだった。

 坂本は、山岸の部屋から押収された「大金の入ったバッグ」と、現場で回収された「よれたノート」、その他の所持品をデスクに広げた。

 リサは冷えたコーラの缶を首筋に当てながら、山岸のスマホの着信履歴をチェックしている。

 リサが何かを言いかけた時、署内の喧騒をかき分けるようにして、部下の警察官が部屋に飛び込んできた。

「リサ警部補、例の『バーの女』のアタリが付きましたよ! 山岸の携帯の通話記録にある番号の持ち主です、これです」

 リサは、早口で喋る若い警官から報告を受け、タブレットを器用に画面をスワイプし、監視カメラの粗い静止画とSNSのプロフィール画面を並べて表示させた。

「名前はマイ。ウォーキングストリートの裏手にある、古びたゴーゴーバー『ブルー・ラビリンス』のホステスです。店員の話だと、“ヤマギシ”と名乗る男は、ここ数ヶ月、毎日この店に通い詰めては彼女を指名して、店の片隅でイチャついていたらしいですよ…」

 リサは呆れたように肩をすくめ、画面をスワイプした。

「酒を奢り、マイの膝を枕にして、鼻の下を伸ばして。……周囲からは、絵に描いたような『タイの女に骨抜きにされた、カモネギ日本人オヤジ』だと思われていたみたいですね」

「……イチャついていただけか。深刻な話をしていた形跡は?」

「店員に言わせれば『甘ったるい言葉以外、何も聞こえてこなかった』そうで。坂本さん、コンテナで見つかったあの鋭い目つきの死体が、この店でデレデレと鼻の下を伸ばしていた姿……想像できます?」

 坂本は、証拠写真の「死んだ男」の冷酷な顔と、リサが語る「道楽男」の姿を交互に思い浮かべ、激しい違和感に眉をひそめた。

「……あり得んな。どう考えても、あの死体の男がそんな腑抜けた真似をするとは思えない」

「ですよね。でもマイ本人は、電話の相手を確かに『ヤマギシさん』と呼んでいた。……これ、彼女に会って確認した方がよさそうよ」

「よし、夕方のシフトが始まる前に店に行ってみよう。彼女、山岸が死んだことをまだ知らないはずだ。まずはそこから始めよう」

 リサは赤いバンダナをきゅっと結び直すと、さっと立ち上がった。

 その勢いに押されるように、坂本も腰を上げる。

 二人が騒然とした事務室を出ようとした、その時だ。  

 部屋の窓ガラスに映るセピア色の輪郭。  

 消えたはずの藤堂が、ガラス越しに薄笑みを浮かべてこちらを見ている。

「……ッ。まだいたのか…」  

 開け放たれた入り口から、ねっとりとした熱気が流れ込んでくる。  

 坂本は震える肩をリサに悟られぬよう拳を握り、パタヤの喧騒へと踏み出した。

第三話 二人のヤマギシ

第三話 二人のヤマギシ

1. 迷宮の『ブルー・ラビリンス』

 
「……あそこに座っている女です」

 リサが指差した先、『ブルー・ラビリンス』のカウンターの隅に、マイと思われる女と一人の男が肩を寄せ合っていた。

 リサと坂本は無言で歩み寄り、カウンターのスタッフに警察バッジを提示し二人に歩み寄った。

「パタヤ署です。マイさん、あなたに話を聞きたいのですが…。隣の男性はどなたですか?」

 マイは驚いたように顔を上げ、少し怯えたような、それでいて、どこか見せつけるような仕草で男の腕に絡みついた。

「な、何よ急に。……彼は私のボーイフレンドよ。日本人の、ヤマギシさんよ」

 坂本とリサの動きが止まった。

「……ヤマギシ、だと?」

 坂本の脳裏に、コンテナで見つかった死体の、あの青白く痩せこけた頬が浮かぶ。

 あの仏こそが「山岸」であるという確信を持ってここへ来たはずだった。  

 だが、目の前の男は――首元にたっぷりとした脂肪を蓄え、だらしなくボタンを外したアロハシャツから突き出た太鼓腹を揺らしている。

 どこにでもいそうな、脂ぎった小太りの中年男だ。

 死んだ男とは、似ても似つかぬ別人である。

 「……何か? 確かに私は山岸ですが。日本の警察の方が、私に何か御用で?」

 男は不思議そうに、卑屈な笑みを浮かべて会釈した。  

 コンテナで冷たくなっていた「山岸」と、目の前で生きている「ヤマギシ」。

 そのあまりの乖離に、坂本の指先が震えた。

「ヤマギシ…さん。あなたのパスポートは、今どこにありますか?」

 リサが努めて冷静な声で尋ねると、小太りの男は露骨に視線を泳がせた。

「あ、ああ。あれね。……実は数日前、盗まれちゃいまして。ほら、これはバンコクの日本大使館で発行してもらった渡航証明書です。明日にでも日本に帰る予定でしてね」

 男が広げて見せたのは、五七桐(ごしちきり)の紋が記されたベージュの表紙――「帰国のための渡航書」だった。

(……盗まれたんじゃない。こいつ、売ったな)

 坂本は舌打ちをし、マイへの質問をリサに任せて席を外し、急いで大使館の小林に電話をかけた。

「ああ、小林さん、至急調べてください。例の山岸達也の件ですが、大使館にパスポート紛失を届け出た経緯と、外務省へ原本との照合を経伺(けいし)してください。……ええ、恐らく死んだ「山岸」のパスポートは、写真を張り替えた偽造旅券かもしれません…」

 坂本は直感した。この道楽男は、女への遊び金を作るために自身の「身分」を裏社会へ売り払ったのだ。

 買い取った側は、本物の山岸が公的に「存在」している期間を利用し、死ぬ運命にあった「偽の山岸」にその名前を着せた。

 そうすれば、死体が発見されても地元警察は「道楽にふけった日本人がトラブルで死んだ」と処理し、真の死者の正体には辿り着けない。

 だが、誤算があった。  

 身分を売った当の本人が、女への未練から大人しく帰国するどころか、口止めされていたはずの店に、のこのこと顔を出してしまったことだ。

 坂本は、眩暈(めまい)に似た戦慄を覚えた。  

 死んだ「偽・山岸」の正体は、依然として闇の中。

 そして、その名前を死体に被せ、工作した「誰か」が、すぐ近くで自分たちを監視している。

 突如、店内の照明が不規則に明滅し、スピーカーから鼓膜を刺すようなノイズが走った。

2. 日本陸軍工兵部隊

 坂本の背後で、店内の湿った熱気が一瞬にして凍りつき、セピア色の霧が渦巻く。

 その中から、あの不遜な軍人が軍靴の音を響かせて現れた。

 藤堂は、トップレスのダンサーがポールを掴んで踊るステージカウンターの縁に、事も無げにどっかと胡坐(あぐら)をかいて座った。  

 頭上では半裸の女子が舞い、目の前では酒が運ばれる。

『おい、貴様!坂本!……なんだ、そこの豚のような男は。こやつ、女子(おなご)の膝で鼻の下を伸ばしおって。 実に嘆かわしい。皇軍の風紀を乱す不心得者め、往復ビンタでもくれてやらねば気が済まん!』

「よせ、藤堂伍長! あんたが手を出したら店ごと凍りつく!」  

 坂本は慌てて虚空を制止すると、リサが不審げに肩をさすった。

「……坂本さん、さっきから誰と? あと、このお店、クーラーが利き過ぎなのかしら? 急に冷蔵庫の中みたいに冷えてきたんですけど……」  

『坂本、この女子兵曹は相変わらず勘が良いな。それより見ろ、この豚野郎を。あれを放置しては日本の恥だ。わしが直接、軍人勅諭でも読み聞かせてやろうか』

「そんなの必要ない! 今は令和の時代だ。というか伍長、あんた、さっき消えたんじゃなかったのか?」

『馬鹿を申せ。日帰賜暇(にっきしか)と言ったであろうが。門限までは自由行動だ。……それにしても、なんだこの場所は。酒を出す割には、女子が皆、肌着同然の格好ではないか。ここは……野戦病院か?』

「ゴーゴーバーと言うんだ! 日本語では酒場だ、酒場!」

『さかばぁ……? 今どきの酒場では、若い女子が、裸同然の躍りを見せるのか? 貴様、わしを騙しておるな! さてはここが世に言う、“風紀退廃の極致”か!』

 藤堂は、すぐ横で踊るダンサーの脚を、まるで汚物でも見るかのような冷徹な眼光で一瞥した。  

 憤慨した藤堂が、地団駄を踏むように軍靴をカウンターに叩きつける。

 その霊的な衝撃に、並べられたグラスがガタガタと悲鳴を上げた。

「ひ、ひいっ! 地震か!? うわぁ・・・!」  

 本物のヤマギシは椅子から転げ落ち、全身をわなわなと震わせた。

リサは怯えるマイを庇いながら、坂本のすぐ隣――藤堂がふんぞり返っている「何もない空間」を鋭く射抜いている。

「……リサ。そこに、何か見えないか?」  

 坂本が尋ねると、リサは目を細め、不審そうに鼻をひくつかせた。

「……いえ、何も見えませんけど、急に古臭いタンスの奥みたいな匂いと、安物の煙草の匂いが鼻に付くんです。それに……」  

 リサは自分の耳を疑うように首を傾げた。

「さっきから、誰かが耳元で『キサマ!、キサマ!』って、誰かが怒鳴り散らしているような気がして……」

『ほう、わしの声がうっすらと聞こえるのか。なかなか根性のある女子兵曹だ。坂本、貴様にはもったいない相棒だな』  

 藤堂は少し機嫌を直し、リサのスマホを食い入るように覗き込んだ。

『おい、この板は何だ! 光っておるぞ! 中に小人が入って文字を書いておるのか!? 敵性国家アメリカ製の新型通信機だな!(しゃく)に障るわ!』

「触るな伍長! ノイズが走る!」  

「坂本さん……。もう正直に言ってください!その“伍長さん”とお友達になっちゃったんですか?」  

 リサの声は、もはや冗談を言っているトーンではなかった。  

「……いいかリサ、説明は後だ。今はマイとヤマギシを確保するのが先だ、パタヤ署へ連れて行くぞ」  

 坂本が動こうとした瞬間、藤堂が鋭い眼光で空間を射抜いた。

『この男、絶対に帰国させるな。……この“本物”が消えたら、死体の正体を知る術がなくなるぞ』

 藤堂の言葉が終わるより早く、店の前に一台の黒い車が静かに停まった。

『坂本、突喊(とっかん)の覚悟をしろ!遊びは終わりだ。……店の外、重い火薬の匂いだ。それも、アメリカ製のやつだ!』

 言葉と同時に、店の入り口を黒いシャツの集団が無言で塞いだ。  

 リサが腰のホルスターに手をかけるより早く、乾いた破裂音が店の天井を突いた。

『坂本ッ! 敵襲だ! 突撃用意! 貴様のその腰の鉄砲は何のためにある!』

 藤堂伍長が吠え、実体がないはずの身体から戦慄するような殺気が溢れ出す。

「無理言うな! こっちは二人、向こうは何人いると思ってんだ! リサ、裏だ、裏から逃げるぞ!」

「了解! マイ! ヤマギシ! こっちよ!」

 パニックに陥る客の間を縫って、一行は灯りの消えた狭い通路へと駆け込んだ。

 リサが裏口の扉に手をかけるが、海風で錆びつきびくともしない。

「くそっ、この扉、錆びてて開かない! 坂本さん、手伝って!」

 リサが顔を真っ赤にして扉枠を掴むが、無情にも「ギギッ」と嫌な音を立てるだけだ。

 背後のドアには、すでに追手の荒々しい足音が迫っている。

『何をまごまごしておるか! 坂本、わしが奴らの足を止める。その間に脱出しろ!わしは突撃する!』

「いや、待て待て待て! 伍長、あんたが行ったら本当の死人が出るだろ!」

「坂本さん、誰と話してるんですか!? いいから扉を!」

 藤堂が通路に仁王立ちになり、敵の持つ拳銃を見て鼻を鳴らした。

『……ふん、あやつらはアメリカ製の「コルト」を持っておるか。忌々しいが、わが軍の南部十四年式とは訳が違う。あの四五口径は、一発掠めるだけで象をも止める威力がある。泥を噛んでも火を吹く、アメ公の象徴のごとき堅牢な鉄砲よ……』

「能書きはいいから早く扉を! 撃たれたら象どころか俺たちが死ぬんだよ!」

『……分かっておるわ! 貴様、大日本帝国陸軍工兵部隊を何だと思っておる。歩兵のように力任せに壊すのではない、構造の弱点を見抜くのだ。どけ、軟弱者め!』

 藤堂が扉の取手に触れた瞬間、猛烈な冷気が渦巻いた。  

 軍靴で鍵穴の「一点」を叩き、同時に鍵の根元を透ける指先で鋭く弾く。

「パキンッ!」

 乾いた音とともに、錆びついた真鍮がまるで見えない刃で切り落とされたかのように弾け飛んだ。 

「えっ……!? 急に開いた!」  

 呆然とするリサを、坂本が急かす。

「いいから早く! マイとヤマギシを先に!」

 リサが渋るヤマギシを外へと突き飛ばす。

 その横で、藤堂は腕組みをして、満足げに鼻を鳴らした。

『見たか。これが工兵の本領よ。……さて坂本、手間賃に一本、「興亜(こうあ)」を貰いたいところだがな』

「後でいくらでも供えてやるよ! 行くぞ!」

3. 不夜城(パタヤ)に響く軍歌

 一行は店の裏手で客待ちをしていたトゥクトゥクに飛び乗った。

 夜風を切り、派手な電飾のトゥクトゥクがパタヤの街を疾走する。  

 狭い後部座席には、坂本、リサ、マイの三人が肩を寄せ合い、足元の狭い床にはヤマギシが芋虫のように転がっている。

 定員オーバーもいいところだが、さらにもう一人、藤堂伍長が「特等席」を構えていた。

「坂本さん……追っ手はもう来ないけど、さっきから車の屋根、ベコベコ鳴ってますよ?」

 リサが見上げる先で、藤堂が悠然と胡坐をかき、極彩色の光の河を睥睨していた。

 彼は上機嫌な様子で、掠れた声で軍歌を口ずさんでいる。

『♪……守るも攻めるも黒鐵(くろがね)のぉ、浮かべる城ぞ頼みなるぅ……』

「……坂本さん。その『伍長さん』、もしかして屋根の上で歌ってます? さっきから音痴なラジオのノイズみたいなのが頭の上から降ってきて、私のスマホのプレイリスト、日本の軍歌に書き換えられてるんですけど…」

「伍長、頼むから大人しくしててくれ……」

『何を申すか坂本! 凱旋の折には歌は欠かせん。この「とぅくとぅく」なる戦車、見晴らしが良くて気に入ったぞ!』

 藤堂が軍靴でリズムを刻むたびに、トゥクトゥクの屋根が派手にたわむ。

 リサは深くため息をつき、あきらめたように窓の外へ視線を投げた。

「……まあいいです。私には見えないけど、心強い同僚が増えたと思って諦めます。でも坂本さん、『伍長さん』にパタヤの観光警察(ツーリストポリス)に目をつけられないように言ってくださいね」

 リサの呆れ顔をよそに、藤堂伍長はネオンの光の河に身を乗り出し、震える声で歓喜を上げていた。

 海岸通りの派手なゴーゴーバーのDJの爆音と、天井から降り注ぐ時代錯誤な軍歌。  

 喧騒のパタヤの街を駆け抜ける一台のトゥクトゥクが、「三人の男女」と「床に転がる男」、そして「屋根の上の幽霊」という、歪な五人組の影を長く引き延ばしながら、混沌の夜の奥へと消えていった。

第四話 鉄路の断罪

第四話 鉄路の断罪

1.丘の上の豪邸(マンション)

 坂本は沿道のカフェの前でトゥクトゥクを止めさせた。

「マイさん、怖い目に合わせて申し訳ない。ここからは自由です。お気を付けてお帰り下さい」

 驚く山岸を余所に、マイは不敵な笑みを浮かべて喧騒の街へと消えていった。

「彼女、泳がせて大丈夫なんですか?」  

 リサの問いに、坂本はミラー越しに遠ざかる背中を見つめた。

「彼女は直ぐにあの“上客”に情報を売るさ。マイが動けば、姿を消した酒井も利権を奪われまいと必ず姿を現すはずだ」

 一行が向かったのは、パタヤの喧騒を眼下に見下ろす、マププラチャン湖の畔。

 静謐(せいひつ)な森を背負った高級住宅街の一角。

 タイ外務省高官のリサの伯父が所有する豪邸。

 豪華なシャンデリアの下、山岸は先ほどの銃声の恐怖が抜けないのか、ソファの脇で膝を抱えて震えていた。 

「叔父さんは今、日本へ出張中なの…ここだと暫くは安心よ」

 リサはそう言って、玄関脇の警報装置(セキュリティシステム)を慣れた手つきで確認した。

 豪邸の広間には、坂本、リサ、山岸、そして大使館職員の小林の四人が集っていた。

 小林がテーブルの上に、山西の部屋から回収したものを並べていく。

 札束の詰まったダッフルバッグ、よれたノート、通話記録が残された携帯電話、そして山西の顔写真に巧妙にすり替えられた偽造パスポート…。

 リサが、死んだ山西の携帯を手に取り、坂本の前で録音されていた音声を再生した。

「……坂本さん、これを聞いて。マイが呼びかけていたのは『ヤマ“ギシ”』じゃない、『ヤマ“ニシ”』よ!」

 リサが指摘した繊細な音の違いに、坂本は目を見開いた。

「リサ、君の耳は確かだ。我々も気づかなかった。つまり、酒井は最初から山西を『山岸』に仕立て上げ、名前の一文字の違いを利用して、一人の日本人駐在員の失踪、そして変死として、タイ警察に処理させるつもりだったのだろう…」

 小林がネクタイを緩めながら切り出した。

「亡くなった山西隆ですが…。酒井の会社の取引先で、駐在歴8年のベテランの物流部長とのことです。本社からの単身赴任で、タイ語は堪能で、港湾手続きや貨物輸送業務が専門です。実は今朝、無断欠勤を不審に思った会社から連絡がありました。それから例のノートの件ですが…」

 小林が続けようとした時、リサが手を上げて小林を制した。

「ちょっと待って!この通話記録の音声、雑音がひどいですが……“コンテナ”とか“金は渡さない”とか……それと“黄金の道(サパーン・トーン)”という言葉を繰り返していますね」

黄金の道(サパーン・トーン)って……?」  

 坂本の脳裏に、陽炎の中に消えた藤堂伍長の言葉が蘇った。

 “彼が戦時中に敷いたという地図にない「線路」のことか?”

 坂本は、山西のノートをめくり直した。

「この地図のどこかに、その“黄金の道(サパーン・トーン)”が描かれているということなのか…?」

 小林が頷き、地図上の赤い線を指して続けた。

「ここに記されているのは、タイ国鉄の《サタヒープ線》です。バンコクから南東へ延び、終着の軍港までを繋ぐローカル路線です。……ですが、物流のプロである山西が目を付けたのは、この本線ではありません」

 小林の声が一段と低くなる。

「山西が狙ったのは、レムチャバン国際港へ繋がるコンテナ貨物専用の支線です。パタヤの手前に、旅客用の路線図には載らない、巨大なコンテナヤードへの引込線。彼はこの入り組んだ『五線譜』のようなレール、つまり、“黄金の道(サパーン・トーン)”の先に、何かが眠っていると確信していたのでしょう」

 坂本はペン先で机を軽く叩きながら、

「だが、やはり時代が合わない。国際港の完成は1991年……戦後だ」  

 坂本は呟き、拭い去れない違和感に眉をひそめた。

「小林さん、一つ確認だ。サタヒープの本線自体、開通したのはいつだ?」

「1926年、戦前には既に軍港まで通っていますが……。それが、今回の事件と何か関係でも?」

「……やはりな。だとすれば、これは近年の産物じゃない。戦時中から横たわる、我々の想像を超えるほど古い闇かもしれない……」

2. 山岸の地図

「そんな昔のこと、今さらどうだっていいだろっ!」

 坂本の言葉を遮り、ソファで膝を抱えていた山岸が、耐えきれず声を荒らげた。

「その金は、僕が地図を売って受け取るはずだったんだ! 山西がネコババしたせいで……! あの地図さえ売れれば、僕はマイちゃんとモルディブで遊んで暮らせたのに!」

 深刻な推理を切り裂くような、浅ましい叫びだった。

小林が氷のような視線を向ける。

「山岸さん、落ち着いてください。その地図には、それほどの価値があるのですか?」

 核心を突かれ、山岸は急に口を噤んだ。

 視線を泳がせ、クッションを強く抱きしめる。

「……正直に話してください。あなたが持っている地図にこそ、“黄金の道”が記されている。そうですね?」

 坂本の拒絶を許さない声に、山岸は喉を鳴らし、ようやく重い口を開いた。

「山西さんが言ったんだ……『酒井社長には内緒で、地図を売ろう。成功すれば一生遊べるぞ』って。だから僕は、まず港の図面だけを渡して、前払いの金を受け取る約束だったんだ」

「……なるほどね」  

 リサが冷ややかな声を出す。

「山西は最初から酒井を裏切るつもりだった。でも、山岸さんも彼を信用せず、肝心の“黄金の道”の場所は教えなかった。そういうことね」

「そうだよ! なのにあの野郎、全額払う前に酒井に殺されやがって! 僕の取り分はどうなるんだよ!」

 身勝手な怒りに震える山岸を、小林が射抜くような視線で見据えた。

「酒井は、山西を拷問して全てを吐かせたはずです。 “黄金の道”の地図をまだあなたが握っているということも。山西をあなたの身代わりとして消した今、彼らは何の憂いもなく、あなたを狙いに来るでしょう」

 山岸は、幽霊でも見たかのように青ざめ、力なく縮こまった。

「マイちゃん……信用してたのに。愛してたのに。僕、騙されちゃったのかなぁ……」

 そのうわ言のような泣き言に、坂本が最後の一撃を放った。

「山岸さん、さらにマイに唆されてパスポートを売ったんですね?」

 山岸は顔を覆い、泣き声で答えた。

「……はい。マイちゃんとずっと一緒にいたかったし、山西からはいつまで経っても金が支払われないし……。あのパスポートを売れば、その金でまだ、彼女と会えると思ったんです……っ!」

 リサが冷たく言い放つ。

「馬鹿ね……。マイは酒井と通じていたのよ。最初から、あなたのパスポートが目的だったの!」

「少し甘い顔をすれば、自分だけは特別だと勘違いして、身ぐるみ剥がされるまで金を貢ぎ続ける……。タイの夜に沈む、典型的な『カモ』の日本人と同じだったのよ」

「そんな……。マイちゃんのあのキスも、全部、金のためだったのか……っ!」

 顔を覆って泣き崩れる山岸を、坂本が冷徹に一喝した。

「泣き言はそこまでだ、山岸さん。酒井が欲しがっているのは地図だけで、君の生死なんてどうでもいいんだ。生き残りたければ、その地図をこちらに出してください。そうすれば、我々警察もあなたを守ります」

 その時だった。  

3.血脈の共犯者

 豪華なシャンデリアが激しく明滅し、部屋全体に湿った土の匂いと、苦辛い煙草の香りが一気に立ち込めた。

 軍靴が床を叩く硬い音が響き、セピア色の霧を切り裂くようにして藤堂伍長が姿を現した。

『……坂本! 貴様の目は節穴かっ! ぬるい推理で悦に浸りおって、呆れて物も言えんわ!』

 腰の軍刀に左手をかけ、右手をまっすぐに伸ばして坂本を指差す。

 その怒声はロビーの空気を芯から凍らせるが、坂本以外の者には聞こえていない。

 藤堂は次に、クッションにしがみつく山岸を指差し、上方へ跳ね上げた。

 すると、山岸が必死に抱えていたクッションが、目に見えぬ力で剥ぎ取られ、天井近くまで吹き飛んだ。

「ひっ、……あ、ああ……!」

 山岸が超常現象だと悲鳴を上げる。

 藤堂の冷徹な眼光に射すくめられ、彼は逃れるように、首に掛けていた色褪せたお守り袋を慌てて外した。

 震える指で袋を裂くと、中から飴色に焼けた極薄の和紙――

 古びた和紙には、切り立った岩山の洞窟へと消える、真の「黄金の道」が刻まれていた。

「 “黄金の道”……って、結局なんなの?」  

 リサがバンダナを結び直しながら問いかける。

 山岸はうなだれたまま、消え入りそうな声で白状した。

「……戦争に行った僕の祖父が、死ぬ間際まで『金塊の輸送路だ』と信じていた地図なんです。極秘任務で仲間とあの鉄路を敷いた、と。僕はその話をマイに……『いい儲け話がある』と漏らしてしまった。それが、すべての間違いだったんだ……」

「金塊……?」  

 坂本が、手元の図面と山岸を交互に見た。

「まさか、日本軍が南方各地で略奪し隠したという、都市伝説にもなった金塊のことか。当時、莫大な金塊がビルマから運び出され、一部はタイの密林奥地へも埋蔵されたという……その金塊の埋蔵場所なのか?」

『その通りだ、坂本……』  

 藤堂と山岸が同時に頷いた。

『わしら大日本帝国陸軍の工兵は、昭和十八年には既にあの場所に埠頭を築いていた。貴様らの言うサタヒープ線の支線――あれはな、日本軍が隠した金塊を隠密に運び出すための積出港にすぎん。地図にも載らぬ不浄の鉄路だ。だが、金塊が眠る場所はそこではない』

「では、金塊が埋蔵されているのは、この地図の……」

『左様、その地図の中だ』  

 藤堂は遠くを見つめる眼差しで、八十年前の凄惨な記憶を辿った。

『軍規を犯して金塊を運び出そうと企んでいた酒井中尉と山西曹長……わしはそれを師団長へ告発しようとした。そしてあの晩、奴ら卑劣漢どもは躊躇いもなくわしの背中を撃ち抜きやがった』

 藤堂は悔しさのあまり、軍靴で床を踏み揺らした。

『わしが血を流して倒れるのを、陰に隠れて見ていた下っ端がいた。酒井に媚び、山西に脅され、ただ自分の命だけが惜しくて真実を闇に葬った腰抜けがな。それがこの小心者が山岸の祖父というわけか。八十年経っても臆病者の血は争えんものよ』

 藤堂は腕を組み、泥の中を這いつくばる虫を見るかのような眼差しで、山岸を凝視した。

 坂本が息を殺して図面を広げると、小林が手元をライトで照らす。

 そこには、細い筆と墨で引かれた精緻な線が走っていた。

 等高線は等間隔に刻まれ、密林の沢や岩場が「工兵の眼」で克明に捉えられている。

 何より目を引くのは、中央をのたうつ黒い一筋の線――「鉄路」だ。

「死の鉄道」の異名を持つ泰緬鉄道の本線から不自然に分岐したその蛇のような軌道は、密林の果ての断崖で行き止まり、赤い顔料で歪な円が描かれている。

 傍らには、掠れた文字でこう記されていた。

――『昭和十七年十月 極秘路 設営着手』

 小林が息を呑む。

「橋の耐荷重、トンネルの深度……すべてが、重量物を運び出すために計算された“簒奪(さんだつ)”の計画図じゃないですか!?」

『そうだ。それがわしら工兵を殺してまで、酒井や山西らの悪党どもが築き上げた背徳の証だ』

 藤堂の透ける指が、地図上の赤い円をなぞる。

『山西が掴んでいた埠頭の地図は、あくまで金塊の運び出しの「終着点」に過ぎん。……だが、こやつの地図の赤印こそが、密林の奥底に埋めた「始発点」なのだ』

 藤堂の声と共に、和紙に吸い込まれていた八十年前の熱気と硝煙の匂いが、現世のロビーに微かに溢れ出した。

 その時だ。  

 ビーッ、ビーッ、ビーッ!  甲高いアラームの音が広間に響き渡った。

4. 怨念の始発点へ

 静まり返った丘の上の豪邸に、不快なスキール音を立てて数台の黒いベンツが停まった。

「……マイの『上客』さん達が来たようね」

 黒尽くめの男たちが小銃を構え、垣根を越えて庭に侵入してくる。

 リサが腰の銃を引き抜き、鋭い視線で窓の外を睨んだ。

「坂本さん、小林さん、伏せて! 襲撃よ!」

 闇を切り裂いて、正面玄関に数発の銃弾が撃ち込まれた。

 突如、リビングの巨大な強化ガラスが粉々に砕け散る。

「ヒッ、嫌だぁ! 死にたくないぃ!」  

 山岸は文字通り床を這いずり回り、柱の陰に亀のように縮こまった。

 小林は必死にテーブルの下へ潜り込み、坂本も不格好に頭を抱えて這いつくばった。

『坂本ッ! 何だその無様な格好は! 貴様、それでも日本男児か! 七生報国(しちしょうほうこく)の志はどうした!』  

 弾丸が飛び交う中、藤堂伍長は直立不動のまま、坂本の背中を軍靴で蹴り飛ばそうとするが、その足先は虚空を泳ぐ。

大和魂(やまとだましい)だ! 敵の弾丸など恐れるに足らず! 尻を突き出して震えるとは、皇軍の面汚しも甚だしいぞ!』

「う、うるさい! そもそも今は令和の時代なんだ、てか皇軍ってなんだよ!」  

 坂本が床に頬を押し付けながら虚空に言い返すと、リサが怪訝な顔で振り返った。

「坂本さん、今はそれどころじゃないでしょ!」

「……伍長が横でうるさいんだ!」

「知らないわよ! どうでもいいから応戦して!」

『坂本! あの女兵に伝えろ! 敵は庭の中央にある噴水の影を遮蔽物にしている。あそこの彫像の台座を狙って粉砕せよ! 水を噴き出させれば、水煙が即席の|煙幕(スモーク)となる。一気に敵中突破だ!』

「リサ、庭の噴水の台座だ! あそこを撃てば水煙がカーテンになる!」

「噴水!? 壊しちゃっていいのね! 伯父さんごめん!」  

 リサの放った正確な数発が彫像を粉砕した。

 制御を失った水が、ライトを反射させながら巨大な水の壁となって噴き上がり、男たちの怒号が上がる。

「やったわ、完璧なカーテンよ! 坂本さん、たまには役に立つのね!」

「……俺じゃなくて、伍長の戦術だ」

『ふん、教えてやったのはわしだ。礼の一つも言えんのか、この女兵曹は!』

 一行は混乱に乗じて地下ガレージへ滑り込み、リサが四輪駆動車のエンジンを轟かせた。

 門扉を強引に突き破って車が飛び出す。

 バックミラーの中、噴水の水煙から這い出してくるギャングたちが、点となって消えていく。

 パタヤの喧騒を離れた車は、街灯ひとつない暗い一本道を北西へひた走った。

 後部座席では、限界を迎えた山岸が泥のように眠り込んでいる。

 車内に響くのはエンジンの唸りと、切り裂くような風の音だけだ。

 その時、不意に野太く、朗々とした歌声が響き渡った。

「……伍長だ」

 眠る山岸の隣に端座した藤堂が、闇に溶ける車窓を見つめ、陸軍工兵歌を口ずさんでいた。

  道なき方に道をつけ 敵の鐵道(てつどう)うち(こわ)

  雨と散り來る彈丸を 身に浴びながら橋かけて

  我が軍渡す工兵の功勞(こうろう)何にか(たと)うべき

『いい歌だろう、坂本。……だが、あの鉄路が人間の欲に塗れ、不浄に染まったあの日、わしの誇りもまた、あの泥濘(ぬかるみ)の底へと沈んだのだ』

 フロントガラスを叩く夜霧が急激に冷たさを増す。

 タイヤが刻む走行音だけが、深夜のハイウェイに虚しく響く。  

 八十年前の怨念を飲み込んだ、カンチャナブリの密林に眠る泰緬鉄道の軌跡が、静かに坂本たちを引き寄せ始めていた。

 (第五話に続く)

第五話 クウェー河の慟哭

第五話 クウェー河の慟哭

1.混成部隊の朝食
 
 パタヤから北西へ約三百キロ。  

 夜明け前の低い霧が立ち込める中、リサが運転する車は「死の鉄道」と呼ばれた泰緬鉄道の要衝、カンチャナブリへと入った。

 第二次大戦中、日本軍がビルマ(現ミャンマー)への補給路として建設した泰緬鉄道。

 苛烈な環境と飢餓、労役により数万人の捕虜や労働者が命を落とし、枕木一本に一人死んだと言われるその鉄路は、別名「死の鉄道」と呼ばれた。

 窓の外には、深い藍色の闇に浮かび上がるクウェー川の鈍い光が見える。
 
 その上を跨ぐ鉄橋――映画「戦場にかける橋」として知られるその鋼鉄の骨組みは、まるで巨大な怪物の死骸のように、まったりと流れる川面を見下ろしていた。
 
「……着いたわね。ここが、あなたの祖父さんが地獄を見た場所よ」
 
 リサがハンドルを握ったまま、後部座席でようやく目を覚ました山岸に冷たく言い放つ。
 
 山岸は寝ぼけ眼で外を眺めたが、歴史の重みに圧し潰されたのか、すぐに顔を背けた。  

 車内には、いつの間にか強烈な「湿った鉄の匂い」が充満していた。

『……変わらんな。この川の音、まとわりつくような湿気。すべてがあの日のままだ』
 
 助手席の坂本の真後ろから、藤堂伍長が低く呟いた。
 
 その輪郭は、朝もやの光に溶け、今にも消えてしまいそうなほど淡い。

「伍長、例の『黄金の道』の始発点は……ここから近いのか?」

 坂本が囁くように問うと、伍長はゆっくりと首を振った。

『いや、ここからさらに上流、ジャングルの深奥部だ。本線が断崖に突き当たる「地獄の切り通し(ヘル・ファイア・パス)」付近に、奴らが秘密裏に築いた偽装分岐点がある。そこから先は、地図にも、そして日本軍の公式記録にも存在せぬ禁忌の領域だ』

 坂本は、山岸から押収した和紙を広げた。

 墨で書かれた精緻な線の先、赤い円で囲まれた場所を地図アプリと照らし合わせるが、そこは深い密林が広がるだけの空白地帯だった。

簒奪(さんだつ)」の始発点……。そこに、酒井たちが追っている金塊が眠っているんですね」
 
 小林がタブレットを叩きながら眉をひそめる。

「坂本さん、やはりこの地図が示すルートは、この道では到底辿り着けません。夜が明ける前に突破しなければ、酒井の息がかかった地元警察の検問に捕まります」

『案ずるな、奴らはそう簡単には辿り着けん。……それより坂本、わしは腹が減ったぞ』
 
 藤堂が窓の外、開店準備を始めた朝市の明かりを眺めながら言った。
 
 その口調には、不思議と戦を前にした武人のような落ち着きがあった。  
 
 リサが伍長の声に同調したかのように、郊外の川沿いの朝市の駐車場に車を滑り込ませた。

「ここから先は補給もままならないわ。今のうちに何か食べておきましょう。あそこの屋台、美味しそうだわ」

 藤堂は鼻を鳴らした。

『ほほぉ、なかなか気が利く女兵曹よ、ますます気に入ったぞ! 腹が減っては戦ができぬ。さあ、参るぞ!』

「幽霊のくせに腹が減るのかよ……」  

 坂本が呆れたように呟くと、藤堂はムッとして睨みつけた。

『坂本! 貴様はいつも一言多い! 幽霊が腹を減らして何が悪い! わしは「魂」で味わうのだ!』

 藤堂は不機嫌そうに、しかし足取りは軽く、坂本とリサの後を追って車を降りた。


2.ケチャップの絆

 朝市の喧騒の中、リサが注文したのはこの地方の名物料理『ゲーン・パー(森のカレー)』だった。

 ココナッツミルクを使わず、唐辛子とハーブで野生のシカの肉を煮込んだそのスープは、立ち上がる湯気だけで鼻の粘膜を焼くような刺激を放っている。

「うっ……! 何だこの殺人的な辛さは……!」  
 
 坂本が一口食べ、あまりの辛さに悶絶する横で、藤堂伍長もまた、皿を覗き込んだまま石のように固まっていた。

『……坂本。この赤や緑の実(プリック)は、本当に兵器ではないのか? 毒ガス攻撃を受けている気分だぞ』

「伍長……あんた、さっきまで『魂で味わう』とか言ってたじゃないか」

『……うるさい。山形生まれのわしには、この国の「辛み」は高度すぎて理解できん』

「……小林さん、あなたは平気なのか?」  

 坂本が問いかけると、秋田県警から出向中の小林は、真っ赤な顔をして小刻みに震えながら、白飯を口に詰め込んでいた。

「……いえ。秋田の人間も、辛いものには滅法弱いんです。だから、こっそり卵焼きを頼んじゃいました」

 情けなく顔を背ける藤堂の横で、小林が自分専用に注文した『カイ・ジィアオ(タイ風卵焼き)』((注1)に、テーブルのケチャップをこれでもかとかけ始めた。

 じゅわっという油の音と、ケチャップの甘酸っぱい香りが広がる。

『……坂本。その、小林が食べている赤い泥のようなものは何だ。実に美味そうではないか』

 藤堂が身を乗り出した。

 その時、ケチャップの香りに誘われたのか、あるいは東北人同士の食の執念が共鳴したのだろうか。

 小林の眼に、羨ましそうに眺める藤堂の姿がはっきりと見えた。

「……あ、あの。もしかして、藤堂伍長殿……ですか?」

 小林が手に持っていたスプーンとフォークを止めて震える声で尋ねると、藤堂が目を見開いた。

『貴様、わしが見えるのか……!?』

「はい、なんとなくぼんやりと……。伍長殿も、ケチャップ……お好きなんですか?」

『……ケチャップなどという洒落たものは、わしの頃には洋食屋にしか無かった。だが、その卵の焼き加減といい、その赤いソースの照りといい……。小林と言ったな、貴様、なかなかの目利きだ』

 「伍長殿、これ、最高に美味いです。東北の人間にとって、この甘みは救いですから……どうぞ。匂いだけでも……。あぁ、それといつも坂本がお世話になっております!」

 小林が皿を押し出すと、藤堂は満足げに頷きクンクンと鼻を鳴らした。

『うむ、上等だ! 小林、貴様のその「粘り腰」な食いっぷり、気に入ったぞ。……坂本、見ておれ。公安の貴様より、この秋田の男の方が、よほど軍人としての素質があるわ!』

「……はいはい。ケチャップ一つで部隊の結束が固まったなら、安いもんだよ」

 激辛カレーに涙する坂本を余所に、藤堂と小林の間に、ケチャップの赤色よりも濃い「東北人の絆」が芽生えていた。

 リサは呆れたように溜息をついた。

「あぁ、これで小林さんまでも“藤堂伍長”さんが見えるようになっちゃったわけね……」

 このひとときの平穏が、これから向かう「|地獄の切り通し《ヘルファイア・パス》」の厳酷さを、かえって際立たせていた。


3.工兵伍長の逆襲

 四輪駆動車が再び深い山岳地帯へと走り出して数分。  

 バックミラーを注視していたリサが、鋭い声を上げた。

「おかしいわ……。市街地で撒いたはずなのに、あの大型SUV、ずっと後ろに張り付いている」

 後方数百メートル――ヘッドライトの光を消し、月明かりだけを頼りに執拗に追随してくる影がある。
 
 タイ人マフィア「クロコダイル」の車列だ。

「クロコダイル……カンチャナブリからミャンマー国境にかけての密輸ルートを牛耳る武闘派組織ね。酒井は、地元の警察さえ手を出せない連中の『資金力』と『重武装』を、金塊という餌で買い叩いて手駒にしたんだわ」

 リサが|忌々(いまいま)しそうに吐き捨てる。

「坂本さん、車内に何か付けられていない? 磁石式のGPSとか、発信機の類よ!」

 坂本と小林が必死にシートの下やダッシュボードを探るが、それらしいものは見当たらない。

 その時、坂本の目が、後部座席でうずくまる山岸の手元に止まった。
 
 彼は、手垢のついた小さな熊の縫いぐるみをお守りのように握りしめていた。

「山岸さん、それ……どこで手に入れた?」

「え? これ……これですか? パタヤを出る時、マイが『愛の証に』って、僕の鞄に付けてくれたんです……」

 坂本はひったくるようにそれを取り上げると、ナイフで腹を裂いた。

 綿の中から最新型の超小型GPS装置が転げ落ちた。

「愛の証どころか、追跡タグだ。山岸さん、あんたはあの子にしてみれば、タグを打たれた家畜と同じだったんだよ!」

「嘘だ……マイが、そんな……っ!」

 絶望する山岸を嘲笑うかのように、背後のSUVから銃弾が放たれた。
 
 ガガガッ!  後部ウィンドウを貫通し、激しい体当たりが車を揺らす。

 ガラスを貫通した銃弾が、坂本のすぐ耳元をかすめた。

『坂本! この馬鹿者に説教してる暇はないぞ! 敵が左右から回り込んでくる。包囲される前に突き抜けるのだ!』

 藤堂伍長の声が、坂本の脳内に響いた。
 
 坂本は、窓から山岸の熊の縫いぐるを投げ捨てて叫んだ。

「リサ、左の獣道へ突っ込め! 十秒後に道が分岐する。そこを右だ! ぬかるみの下に古い鉄道の路盤が残っている。あそこなら加速できる!」

「坂本さん、どうしてそんなことがわかるの!?」

「俺じゃない! 伍長がそう言ってるんだ、信じろ!」

 四輪駆動車はアスファルトを離れ、深いシダの茂るぬかるみへとダイブした。

 八十年前に戦勝国によって鉄路を剥ぎ取られ、密林に埋もれていた土色の廃道を矢のように加速した。

 藤堂伍長がフロントガラス越しに指を差す。

『わしら工兵が、命を削って石を砕き、枕木を並べた道だ。たとえ草木に覆われようとも、わしには今も鮮明な鉄路が見える。……もう一度この目で確かめてやらねば死んでも死にきれん!』

 深い霧が立ち込めるカンチャナブリの密林。

 背後からは、マフィアのSUVが猛烈な勢いで迫っていた。

 銃声が密林の静寂を切り裂き、リサが操る車のボディに火花を散らす。

『坂本、リサのハンドルに手を添えろ。わしの感覚を流し込むぞ!』

 藤堂の声と共に、坂本の視界が青白く発光し、暗闇に沈んでいた密林の中に、かつての鉄路が浮かび上がる。

「リサ、そのまま直進だ! 茂みの奥に、当時の給水塔の土台がある。その脇をすり抜けろ!」

「そんな、ただの藪よ!? 激突するわ!」

「信じろと言っただろ! 行けッ!」

 リサが覚悟を決めてアクセルを踏み込む。

車は激しく枝を跳ね除け、闇の中へと突っ込んだ。

 直後、ガツンという衝撃と共に、タイヤが確かな硬い地表を捉えた。

『……ふん、追っ手の若造どもめ。坂本、左だ! 切り通しの出口に土留め壁(どどめへき)がある。そこを揺さぶってやれ』

 坂本は藤堂の意志に導かれ、胸のホルスターから銃を取り出した。

「あそこの岩壁の継ぎ目だ!」

 窓から身を乗り出し狙いを定め放った銃弾が、藤堂が指し示した「壁の急所」を射抜いた。

 八十年の風化に耐えていた土留め壁が、轟音を立てて崩落した。

 ズ、ズザザザザッ!!

 大量の土砂と岩石がマフィアの先頭車両を飲み込み、急ブレーキをかけた後続車が次々と衝突していく。

 土煙の向こう側、坂本はミラー越しに、満足げに腕を組む藤堂伍長の姿を見た。

『……工兵を敵に回して、我が皇道を通れると思うなよ』


4.同志の誓い

 ようやく追撃を振り切り、密林の奥で一息ついた車内で坂本が口を開いた。

「……そういえば、伍長。お互い、きちんと名乗っていなかったな…」

 坂本は少し照れたように、居住まいを正した。

「俺は坂本啓介。警視庁公安部、外事第一課だ。普段はスパイを追っている。……この事件で、まさか八十年前の日本兵の幽霊に助けられるとは予想外だったよ」

 藤堂一馬は眉を上げ、ふっと口角を上げた。

『公安か……。わしの時代なら憲兵(けんぺい)といったところか。……よかろう、わしも改めて名乗らせてもらおう』

 藤堂は軍帽に手をかけ、直立不動の姿勢をとった。

『わしは大日本帝国陸軍、南方軍交通部、野戦鉄道隊所属。工兵伍長、藤堂一馬だ。……昭和十八年、黄金の道の特務に従事し、わしが築いた鉄路の底に、酒井中尉らの手で封じられた。わしが守りたかったのは金塊ではない。この道を敷くために散っていった、わしの部下たちの名誉だ』

 坂本は、車外を警戒する二人に目をやった。

「彼女はリサ・スリウォン。タイ公安警察の警部補だ。日本語の通訳も兼ねているが、腕っ節は俺より強い。……そして…」

 坂本が小林に視線を向けると、小林はネクタイを締め直し、見えない藤堂へ向かい背筋を伸ばした。

「秋田県警より出向、大使館警備班、小林大吾です。……伍長殿、先ほどは失礼いたしました!」

 小林が深く頭を下げると、藤堂は力強く右手をこめかみへ掲げた。

『秋田の粘り腰、小林大吾。貴様の「東北魂」、しかと見届けた。日本の憲兵、タイの女兵曹…、坂本、わしらはもはや同じ敵を追う混成部隊だ』

 坂本が後部座席の男を指差そうとしたが、藤堂が遮った。

『―そいつはもうよい! 名を聞く価値もないクソったれ野郎だ! わしの部隊には不要である!』  

 山岸は顔を伏せ、藤堂はきりっと前を向いた。

「藤堂一馬伍長。目的地まで、俺たちに協力してくれ」

 坂本が差し出した手は、当然のように伍長の体を通り抜けた。――その直後だった。

 車が悲鳴のような音を立てて突然停止した。

「……嘘でしょ、こんなところで!?」  

 リサが何度もキーを回すが、計器類は狂ったように針を振らせるばかりで、車は二度と息を吹き返さなかった。

『……ここから先は、車では通れん。いや、通してはくれんのだ』

 藤堂が険しい表情で外へ降り立った。

 視線の先には、垂直に切り立った岩壁――“地獄の切り通し”が、黒い口を開けていた。

『坂本、ここからは同志として頼むぞ。ここから先は、欲に目が眩んだ生者よりも恐ろしい「死者たちの領域」だ』

 一行は車を捨て、懐中電灯の光を頼りに、歴史の傷跡が残る岩の裂け目へと足を踏み入れた。

(第六話に続く)

脚注(注1):カイ・ジィアオはタイの卵焼き(タイ語 ไข่เจียว)
卵をナンプラーで味付けし、多めの油でふわっと揚げ焼きにする屋台定番料理。

第六話 英霊の凱旋

第六話 英霊の凱旋

1.偽りの守護者

「地獄の切り通し―ヘル・ファイアー・パス―」  

 かつて日本軍が、ビルマへの鉄路を急ぐあまり、重機すら使わず人力だけで削り抜いた全長約五百メートルに及ぶ岩壁の裂け目である。  

 すでにレールは取り払われ、薄暗い岩陰にひっそりとバラストだけを敷いただけの遊歩道となっている。

 懐中電灯の細い光が、拷問の痕のようなツルハシの跡をなぞる。

 一歩踏み込むごとに、鉄錆と腐葉土が混じり合った死の臭いが鼻を突いた。

「……坂本さん、本当にこんな場所に金塊なんて隠されているの? 観光客が歩く遊歩道から目と鼻の先よ」
 
 リサが小声で、しかし苛立ちを隠さずに囁いた。

 彼女の指は、グロック19のトリガーに手を掛けたままだ。

「山岸の地図と伍長の記憶が一致している。……それに、何よりあの男が嗅ぎつけている。酒井は必ずここへ現れるはずだ」

「金塊よりも、殺人犯のホシを挙げるのが先決ってわけね。……日本の警察の執念には恐れ入るわ」

「俺の目的は最初から変わっていないさ。歴史の闇に紛れて、私欲のために人を殺めて平気な奴を法の下で裁く。……それだけだ」

 坂本がそう言い切った瞬間だった。

 前方の闇の中から、皮肉と冷気を帯びた声が響いた。

「……ここまでの道案内、ご苦労だったな」  

 闇の奥に、不自然なほど揺らめく篝火(かがりび)が浮かび上がった。

 炎に照らされて佇んでいたのは、仕立ての良いサファリスーツに身を包んだ男――酒井だった。  

 彼の背後には、暗視ゴーグルをつけた黒ずくめの傭兵たちが、獲物を囲い込む猟犬のように、自動小銃を構えている。

「酒井だな……」    

 坂本は拳銃を構えたまま、一歩ずつ間を詰める。

「山西を殺したのはあんただな。金塊を独り占めしようとした彼をパタヤで殺し、レムチャバン港のコンテナに遺棄した。そうだな?」    

 酒井は動じず、杖にした仕込み刀を軽く握り直した。

「……山西は、金塊の価値を履き違えていた。あのような強欲な人間が、一族の聖域を汚すことは許されない。私はただ、不浄なものを排除したに過ぎないのだ」

「自分の独占欲を『聖域』なんて言葉で飾るな。あんたは誇り高き軍人の|末裔(まつえい)じゃない、ただの独善的な殺人犯だ!」

 坂本が吐き捨てると、酒井の瞳に暗い悦楽にも似た狂気が宿った。

「ほう、理解し合えないのは残念だな。なら君たちも歴史の|(ちり)となってもらうしかない。さぁ、地図を渡してもらおうか」  

 酒井が右手を高く上げた。  

 その瞬間、切り通しの頭上から無数の|装填音(そうてんおん)が、乾いた岩の狭間に反響した。

 崖の上に伏せていた傭兵たちも、銃口を一斉に下へと向けた。

『……坂本、代われ。この男の顔、一秒たりとも見ておれんわ』    

 藤堂の怒気が、周囲に冷気を滲ませた。

 坂本は伍長の意識を受け入れ、真っ直ぐに酒井を睨み据えた。

 その瞳には、戦場を潜り抜けた男の峻厳な光が宿っていた。

「酒井……。貴様の祖父も、そうやって仲間の背を撃ち、|皇軍(こうぐん)の重宝を私物化したのか。血は争えんな。貴様が纏っているその香水の匂いの下から、浅ましい盗人の腐臭が漂っているぞ」

 坂本の声は変わらないが、話す口調は藤堂そのものだった。

「……何だと?」

 酒井の眉が不快げに跳ねた。

「幽霊にでも取り憑かれたような妄言はそこまでだ。最後だ、地図を渡せ!」


2.魂の号令

 酒井が指を鳴らすと、闇の中から後ろ手に拘束されたマイが引きずり出された。

「マイちゃん!」

 岩陰に潜んでいた山岸が、小林の制止を振り切って飛び出した。

 酒井は薄笑いを浮かべ、マイの喉元に刀の切っ先をあてる。

「この女が恋しいか、山岸。……ならば、その地図と引き換えだ」

「わかった、渡す! 渡すから彼女を放してくれ!」    

 山岸は、なりふり構わぬ必死さで坂本から地図を奪い取ると、転がるようにして酒井の前へと差し出した。

「坂本さん、ごめんなさい! でも、彼女を見捨てられないんだ!」  

「待ってください、山岸さん、これは罠です!」

 小林が叫ぶが、山岸の耳にはもう届かない。

 震える手で差し出された地図を、酒井は満足げに受け取った。

 地図と引き換えに解放されたマイが、ふらりと酒井の傍らへ歩み寄る。

 山岸は安堵し、両手を広げて彼女を迎え入れようとした。

「さぁ、こっちへ! もう大丈夫だよ、マイちゃん!」

 だが、マイは山岸の方へは一歩も動かなかった。

 彼女は唇を歪めて冷たく笑うと、おもむろに酒井のホルスターからベレッタM9を滑らかに抜き取って、山岸に銃口を向けた。

「え……マイちゃん、なんで?」    

 呆然と立ち尽くす山岸へマイは蔑んだ目を向けた。

「いつまでそんな顔してるの? 暑苦しいのよ、あんたの純愛なんて。私が欲しいのはね、あんたみたいな薄っぺらな男と歩く未来じゃない。一生かかっても使い切れないほどの『金塊』よ」

 かつて彼女から漂っていた、安らぐような石鹸の香りはもう届かない。

 代わりに、酒井と同じ、きつい高級な香水の匂いが山岸の鼻腔にまとわりついた。

 そして、マイは迷いなく銃口をリサへ向けた。

「リサとか言ったわね。私、最初からあんたが大嫌いだったの。あんたが余計な首を突っ込まなければ、もっと簡単に済んだはずなのに……。正義の味方みたいな面(つら)して、いちいち鼻につくのよ。……まずはあんたの愛らしい顔を傷物にしてあげようかしら。フフフ……」

 マイの瞳に宿っているのは、|篝火(かがりび)を反射して飴色にぎらつく、底なしの強欲と歪んだ優越感だった。

「では、地図を頼りに“黄金の道”を歩かせてもらおう…」

 酒井はマイの手を取り、岩壁の小さな裂け口へと歩き出した。

「――片付けろ」    

 酒井が傭兵たちに静かに手を挙げ合図した。

 銃声が響く直前、藤堂(坂本)の|咆哮(ほうこう)が岩肌を震わせた。

『……笑わせるな、酒井、そしてそこの小娘! 貴様のような奴らに、我らが戦友の眠る地を一歩たりとも踏み入れさせぬぞ!』  

 藤堂(坂本)が虚空に向けて気迫鋭く腕を振った。

 『全軍……|迎撃(げいげき)準備!! 奴らの不浄な弾丸を、一発たりとも通すな!』

 その号令が岩壁を伝い反響した瞬間、それまで静まり返っていた密林の闇が揺れ膨らんだ。

 ―その時だ。

 密林の奥から、ザッ、ザッ、ザッと、軍靴が線路のバラストを踏み鳴らす音が近づいてくる。

 数百の軍靴が、一斉に地面を叩く行進の音だった。

「……酒井!貴様は一つ、重大な間違いをしている」  

 坂本の口を借り、藤堂が不敵に笑う。

「この地は貴様の祖父が、裏切り見捨てた“わが戦友たち”の墓場だ。……そして我が戦友は、貴様のような欲に塗れた愚者を、決して生かしては帰さぬぞ!」

 霧の中から、泥にまみれ虚ろな目をした旧日本兵たちの影が、一人、また一人と姿を現し始めた。

 当時の日本軍が用いた、三八式歩兵銃を構えるその姿は、岩肌の裂け目に鮮明な青白い炎として映っていた。

『貴様ら、よく聞けぇ! わしらの「戦争」は、まだ終わっておらぬ!』

 坂本の口を借りた藤堂が不敵な、それでいて晴れやかな笑みを浮かべる。

『第一工兵隊、作業を止めよ。武器を取れっ!! 八十年ぶりの晴れ舞台だ! 溜まりに溜まった鬱憤、一気に晴らすがよし!!』

 その瞬間、死者たちの咆哮が地響きとなって大地を揺らした。

「兵士の亡霊か……!? バカな、そんなものが!」  
 
 酒井が絶叫し、狂ったように仕込み刀を振り回す。

 崖上の狙撃手たちは、暗視ゴーグル越しに迫る、無数の銃剣の幻覚に驚き慌てふためいた。

 洞窟の奥から、別の野太い声が轟いた。  

『遅いぞ、工兵! 敵陣制圧はわしらの仕事だ!』  

 現れたのは、|輜重隊(しちょうたい)の馬に引かれた砲兵団――ビルマ・インパール戦線を戦い抜いた|山砲隊(さんぽうたい)の英霊たちだった。

 彼らは手際よく四一式山砲を組み立て、黒ずくめの傭兵に向けて照準を合わせる。

「砲撃用意! |仰角(ぎょうかく)修正なし、零距離射撃っ! 放てっ!!』

 ―ドォォォォン!!  

 霊的な衝撃波が切り通しを激震させた。

 八十年の沈黙を破る「執念」の光弾が放たれた。

 爆風が崖上の岩壁を容赦なく粉砕し、傭兵たちの最新銃器を鉄屑へと変えていく。

 リサが混乱する敵へ飛び込み、鮮やかな格闘術で次々と残党を制圧していく。

 小林もまた泣き喚く山岸を庇いながら、落ちていたシャベルを手に取って迫る一人の傭兵を殴り倒した。


3.黄金の道

 坂本は、最前列に立つ藤堂の影姿と共に歩を進める。

 圧倒的な「軍勢」の行進に、酒井の傭兵たちは恐怖のあまり腰を抜かし、逃げ場を失って叫び声を上げる。

「坂本さん、早く! 酒井とリサを拘束してください!」  

 リサが正確な射撃で、霊の出現に怯える傭兵たちを釘付けにする。

 坂本は歩を進め、酒井へと肉薄した。

 腰のホルスターから引き抜いたのは、日本の警察官の魂とも言えるニューナンブM60。

 彼は迷わず酒井の脚部へ狙いを定めた。

「動くな、酒井!」  

 だが、その射線を遮るようにマイが割り込んだ。

「来ないで。金塊は私たちのものよ!」  

 マイは坂本を睨みつけ、酒井を庇うように後退りする。

 その瞳にあるのは恐怖ではなく、金塊への病的なまでの執着だった。

 その時、先ほどの山砲による砲撃が、岩壁の奥にある古い岩肌を大きく割った。

 ガラガラと崩落する土砂の向こう側、割けた岩肌の隙間から金色の閃光が漏れ出した。

「ああ……ここだ!ついに見つけたぞ!」  

 酒井の顔が歓喜に歪んだ。

 マイもまた、銃を坂本に向けたまま、吸い寄せられるように背後の亀裂へと近づいていく。

「酒井さん、さぁ、奥へ! 金塊はそこよ!」

 酒井はマイの手を引いて岩壁の裂け目――“黄金の道”の深淵へと踏み込んでいく。

「待て!」  

 坂本は光路の先、最深部の扉の前に立つ酒井とマイに叫んだ。

 そこには、八十年前に裏切られ見捨てられた兵士たちの怨念が、『金塊の臭い』に狂った生者を、永遠の闇へと引きずり込もうとする地獄の扉が開かれていた。


4.欲望の果て

 山砲の爆風が岩壁を裂き、奥から月光に照らされた飴色の煙が滝のように溢れ出した。

 それは闇の中で、まるで溶けた金の奔流が流れ落ちるような幻影だった。

「……おお、これだ。ついに、ついに……!」  
 
 酒井はその「偽りの輝き」に突き動かされ、のめり込むように裂け目へ駆け寄る。

 マイもまた、取り憑かれたようにその光の渦に目を奪われている。

 その瞬間、足元の岩盤が轟音と共に崩落し始めた。

「うおぉぉっ!!??」  

 酒井の身体が宙に浮く。

 彼はとっさに隣のマイの腕を力任せに掴んだ。

 二人の足下に複雑に折れ曲がった巨大な亀裂が口を開け、底の見えない暗黒の亀裂へと引き摺り込もうとする。

 坂本が叫び、必死に手を伸ばし酒井の右腕を掴む。

「酒井っ!しっかり掴まれ!!」  
 
 その時、坂本の背後から無数の泥まみれの“透明な手”が現れた。

 藤堂の仲間の兵士の霊と共に、背後から坂本の腰を、肩を、腕を必死に支える。

 坂本の手が、宙をかく酒井の手首をガシリと掴み取った。

「あんたは死なせはしない! あんたには、生きて罪を償ってもらう!」

 だが、その腕にぶら下がったマイは、坂本の声など聞いていなかった。

 恍惚とした笑みを浮かべ、底から湧き上がる輝きに、呑み込まれる勢いだった。

「金塊よ、ほらそこ!私の、私の金塊……誰にも渡さない……っ!!」  

 マイは酒井の腕を、自ら力任せに振り払った。

「おい、マイ、何をする! 止めろ!」  

 酒井の叫び声をよそに、マイは自ら飴色の霧の中に吸い込まれ闇へと消えていった。

 坂本と藤堂の力が、闇の底を険しい顔で見つめる酒井を地上へ引きずり上げると、息を切らしぐったりと|項垂(うなだ)れた。

「……酒井。あんたの|欲望(ゆめ)は、今ここで終わりだ」 

 背後では、崩落した岩が完全に穴を塞ぎ、不気味な光も、狂った欲望もすべてを闇の中に閉じ込めた。

 リサが駆け付け酒井の前に立った。

「酒井浩二。あなたを山西徹に対する殺人、および死体遺棄の容疑で逮捕します……それだけじゃないわ」

 リサは氷のような視線で、鼻先数センチまで顔を寄せた。

「存在しない『パタヤ支店』を隠れ蓑にした有印私文書偽造。大使館を欺いた虚偽通報。そして、この史跡での軍用兵器不法所持……。あんたがエリート商社員の顔をして積み上げた嘘、タイ警察がすべて剥がしてあげたわ」
 
 震える酒井の腕に、坂本は腰の手錠を取り出した。

 カチャッ― 冷たい金属音が、静まり返った洞窟内に響いた。

 山砲がもたらした崩落の轟音が、長い余韻を残して霧の中に溶けていった。  

 ただ、崩壊した岩壁の奥に、小さな空洞がひっそりと口を開けて残されていた……。 
  
(第七話へ続く)

第七話 鎮魂の汽笛

第七話 鎮魂の汽笛

1.夜明けの静寂(せいじゃく)
 
 ヘルファイア・パス――地獄の切り通しに、再び重苦しい静寂が戻る。

 舞い上がる土煙が月光に透かされて、まるで英霊たちの魂が粒子となって漂っているかのようだった。

 先ほどまでの硝煙と叫喚の地獄が嘘のように、冷たい夜気が肌を刺す。

「……坂本さん!」  

 瓦礫を掻き分ける音と共に、小林が駆け寄ってきた。

「坂本さん、怪我は? ……それから、藤堂伍長は……?」

 小林の問いに、坂本はすぐには答えなかった。

 彼はただ、自分の掌をじっと見つめていた。

 そこには、奈落へ落ちる酒井を引き上げた時の生々しい肉の熱さと、その自分を背後から支えてくれた、あの「泥まみれの掌」の凍えるような感触が、今も消えずに重なっている。
 
 あの時、確かに八十年前の兵士たちが自分と共に戦っていたのだ。

「……終わったよ。伍長も、もういない。金塊なんて最初からなかったんだな」  

 坂本の声は、喉の奥に張り付いた砂を吐き出すように低く掠れていた。

「マイちゃん……。マイッ!! 何処行っちゃんだよ、返事をしてくれ!!」

 背後で、山岸の悲鳴に近い叫びが響いた。  

 彼は血の滲む足を引きずりながら、マイが自ら飛び込んだ漆黒の深淵へと這い寄ろうとする。

 その震える肩を、銃をホルスターに収めたリサが力強く制した。

「だめよ、山岸。あそこはもう、生きてる人間が踏み込める場所じゃないわ」  

 リサの声はいつになく冷静だったが、その瞳にはやりきれない色が混じっていた。

 彼女は奈落の縁に立ち、月光さえも呑み込んでいる虚無の闇を見下ろした。

「……彼女、あんな真っ暗な穴の底に一体何を見たっていうのよ。金塊なんて、どこにもなかったのに…残念だわ」

「リサ、本庁に応援と救急車を。……それから、この場所の完全封鎖を頼む」
 
 坂本の指示に、リサは一度深く息を吐いてから無線機を手に取った。

 坂本は無言で、自分たちが引き上げられた足元のすぐ脇――激しい崩落のさなか、奇跡的に埋もれず口を開けていた小さな空洞に視線を向けた。

 坂本は小林から懐中電灯を受け取ると、その狭い洞の奥へと光を当てた。

 リサと小林、そして涙を拭った山岸も、吸い寄せられるようにその光の先を覗き込む。

 そこにあったのは、酒井が求めた金色の輝きではなかった。  

 湿った土の上に整然と並べられていたのは、錆びついて茶褐色に変色した数百の飯盒(はんごう)と、泥にまみれて固まった軍靴(ぐんか)の山だった。

「これが金塊……?そんなわけないですよね」  

 小林が絶句し、妙に納得した声を出した。

 懐中電灯の光が飯盒の一つを捉えた。
 
 そこには白いペンキで、風化に耐えた力強い筆跡が残されていた。

『泰緬鉄道・特別工区 戦友遺品保管所』


2.因果応報

 坂本は膝をつき、震える手で飯盒を開けた。

 中には厳重に防水された油紙の束――数百枚の兵士の「認識票」と、分厚い「戦没者名簿」が収められていた。

「しっかりと見るんだ、酒井。あんたが八十年、一族を呪縛し続けてきた『黄金』の正体を!」

 引きずり出された酒井が、狂ったように飯盒の中身をぶちまけた。

 だが、そこから溢れ出したのは、乾いた金属音を立てる認識票の把だった。

「……なんだ、これは。なんだっていうんだ!黄金はどこだ! 祖父が遺した莫大な金塊はどこにあるんだ!」  

 酒井の声が裏返り、震える。

 逆上した酒井は名簿を掴み、破り捨てようとした。

 だが、表紙をめくった瞬間、その手が金縛りにあったように止まる。

 最初のページに、彼の祖父である酒井中尉の直筆で、冷酷な命令が記されていたからだ。

《軍機保護ニ鑑ミ、全労務者並ニ戦没者ノ記録一切ヲ此ノ地ニテ焼却処分ニ付スベシ 酒井―蔵》
 (軍機保護のため、全労務者および戦没者の記録をこの地にて焼却処分すべし―酒井一蔵)

 「酒井さん、あんたの祖父、酒井一蔵中尉は、戦時中の混乱に乗じて軍資金を横領していた。だが、正義感の強かった藤堂伍長にその尻尾を掴まれた。焦った中尉は、部下だった山西の祖父、山西曹長たちを共犯に仕立て、口封じのために藤堂伍長を殺害したんだ。犠牲になった山西さんの祖父は、あんたの祖父に無理やり人殺しの片棒を担がされたんだ」

 ―坂本は続けた。

「藤堂伍長は死の間際、自分を殺そうとする男たちの『|欲の(エゴ)』を見抜き、呪いをかけた。この名簿には黄金の隠し場所が記されているという“嘘”をな! あんたの祖父は、自らの罪の証拠を『黄金の地図』として死に物狂いで守り始めた。殺した相手に踊らされているとも知らずにな!」

 小林が冷徹に言い放つ。

「そして現代、山西さんは祖父が犯した罪を調べ上げ、一族の汚れた過去を清算しようとしたんだ。だからあんたは、祖父と同じように口封じで彼を殺したんだ!」

 かつて酒井の祖父が、戦時中に掠め取った軍資金は、戦後、戦犯追及を逃れる工作費と日本での起業資金にすべて転用され、とっくに消えていた。酒井は先祖が食いつぶした幻影のために殺人と破滅を重ねた、救いようのない因果応報の徒労に終わったのである。

 リサは冷笑し、酒井の耳元で氷のような声を浴びせた。

「山西さんの『失踪』もあなたの自演ね。架空の支店長を装い、彼を『山岸』という偽名にすり替え捜索願いを出した。そして山西さんを誘い出し殺害した。遺体が見つかった時の捜査を迷走させるための姑息な時間稼ぎね……」  

 酒井は顔を背け、絶望に壊れた笑い声を上げた。

「はは……ははは! そうだ、その通りだ! だがな、俺がこの『塵芥(がらくた)』のために、裏の組織にどれほどの資金を積み上げたと思っている!」

「裏の組織だと?」

 坂本の鋭い問いに、酒井は隠す気さえ失ったのか、吐き捨てるように自嘲した。

「タイに長く住めば分かる。私は、闇社会の武装組織『クロコダイル』へ多額の工作資金を投じ、物流、汚職官僚、マフィアを一本に繋ぐ『黄金の道』を再建するはずだった……。これさえ完成すれば、国家すら私に跪いたはずだ! 貴様らのような小役人には分からん世界だ!」

 酒井の背後には、エリート駐在員の立場を隠れ蓑にして築き上げた、『クロコダイル《武装組織》』との深い癒着と、政財界の裏社会とのネットワークが張り巡らされていた。

 酒井の狂った独白に、小林はただ絶句し、そのあまりに巨大で独りよがりな悪意に背筋を震わせた。

 リサは一切の揺らぎを見せず冷えた眼差しを向けた。

「国家が跪くって? あんたが作ったのは道なんかじゃない。悪の組織(クロコダイル)に寄生され、不正と汚職に利用されただけじゃないの!」

 坂本は重く、低い声で最後通牒を突きつけた。

「酒井……。あんたは八十年前、私欲のために戦友を裏切った祖父と全く同じだ。

 時代が変わっても、あんたのような男は結局、存在もしない幻影を追いかけて墓穴を掘る…悲しい(さが)だな」


 3.崩落の咆哮(ほうこう)

 その時、大気を震わせる不気味な地鳴りが再び轟いた。

 足元の岩盤が生き物のように|(とどろ)き、切り通しの断崖から拳大の(がれき)が雨のように降り注ぐ。

「坂本さん、岩盤がまた動き出したわ! 崩れるわよ、急いで!」
 
 リサが叫び、小林の腕を掴んで走り出す。

 しかし、坂本は動かなかった。

 崩落の衝撃で、飯盒から投げ出された認識票が足元に散乱している。

「待て……これを、これを置いてはいけない!」  

 坂本は地面に這いつくばり、泥にまみれた鉄の札を無我夢中で掻き集めた。

 一つ、また一つ。それはただの金属片ではない。

 異国に果て、名前さえ忘れ去られようとしていた男たちの「命」そのものだ。

 頭上から巨大な岩塊が剥離し、重力に従って垂直に落下してくる。

「坂本さん!!」  

 小林の悲鳴が響く。

 坂本は死を覚悟し、認識票の把を抱きしめて目を閉じた。  

 轟音が耳の奥で遠くなる中、坂本は聞いた。

 数十、数百の軍靴が、岩盤を支えるために泥を深く踏みしめる。  

「……押せっ! 支えろっ!!こいつを死なせちゃならん!」  

 ―幻聴ではない。

 泥まみれの軍装の無数の男たちが、坂本を覆うように巨大な岩塊を肩で担ぎ上げ、崩落をその千切れんばかりの肉体で食い止めているのが見えた。  
 
 男たちは血走った(まなこ)を剥き、必死の形相で坂本の背中を外へと突き飛ばした。

 同時に坂本は酒井の襟首を掴み、強引に引きずり出した。

「……行けっ!坂本! 貴様は生きて帰れっ!!」

 坂本の鼓膜を叩く幾重もの兵士たちの声。

 一瞬後、先ほどまで彼らがいた空洞は、数千トンの土砂と共に完全に埋没した。
 
 背後で巻き上がる土煙は、まるで巨大な墓標のようにそそり立っていた……。


4.慰霊祭

 ―数日後。  

 現場は、タイ警察によって完全に封鎖され、日本大使館を巻き込んだ、大規模な国際犯罪捜査が始まろうとしていた。

 本格的な現場検証が行われるその一角で、細やかな慰霊祭が行われた。
 
 仮設の祭壇には、坂本が命懸けで持ち出した名簿と、飯盒が並べられ、タイの僧侶による読経が反響して空へと昇っていく。

 山岸は、肩を落としながら、マイが消えた奈落に向かって静かに花を供えた。

 彼女の正体が組織のスパイだったとしても、共に過ごした時間に一欠片(ひとかけら)の真実があったと信じることで、彼はようやく自分の心に区切りをつけようとしていた。

 リサがふと、かつて線路が敷かれていた先を見つめて呟いた。

「……坂本さん。今、聞こえなかった? 蒸気機関車の、汽笛みたいな音…」
 
 小林も頷く。

「はい……僕にも聞こえました。あれは確かに日本軍の蒸気機関車C56《シゴロク》の汽笛の音です」

 坂本の目には、はっきりと見えていた。  

 朝霧の向こう側、軍装を整えた藤堂伍長が、部下たちを率いて整列している。

 彼らはもう、泥にまみれてもいなければ、銃を構えてもいない。

 皆、遠い故郷の家族を想うような、穏やかで晴れやかな顔をしていた。

『坂本……。貴様には世話をかけたな。礼を言う。これでやっと仲間と一緒に帰れる。休暇も終わりだ、あとはお前に託すぞ』

 藤堂が坂本に向かって、満足げにゆっくりと敬礼を送る。

 坂本もまた一人の日本人として、背筋を伸ばし深く頭を下げた。  

 霧が晴れるとともに、兵士たちの姿は光の中に溶けていった。

 後には、穏やかな朝の鳥の声だけが残された。

 小林が、大使館の他の職員たちと遺品を整理していた時、

「あっ、これは?」と驚きの声を上げた。

「坂本さん、これを見てください……!」  

 一つの飯盒の中から、古びた一筋の肩章が見つかったのだ。 

 “赤地に金の縦線、そして中央に一つの金星”

 それは、今回の事件の始まり――あの、レムチャバン埠頭の倉庫でみつかった山西が、死の間際に犯人から毟り取り、その手に固く握りしめていたものと、寸分違わぬ藤堂伍長のもう片方の肩章だった。

「藤堂伍長の、もう片方の肩章だ……」

 八十年の時を経て、引き裂かれていた一対の肩章がついに再会を果たした。

 坂本は天を仰いだ。

「伍長……見てるか。あんたが命懸けで守ったものは、しかと預かりましたよ!」

 霧が完全に晴れ、眩い太陽の光が差し込む。  

 坂本の手の中にある“もう片方の肩章”は、まるで藤堂伍長の魂が宿ったかのように、黄金よりも温かく、力強く輝いていた……。

(第八話に続く)

第八話 英霊たちの黄金(最終話)

第八話 英霊たちの黄金(最終話)

1.黄金の正体と虚飾の最期

 タイ警察の取調室――

 防音壁に囲まれた狭い空間で、酒井浩二はもはやエリート駐在員としての輝きを完全に失っていた。

 無精髭が伸び、充血した目で虚空を睨むその姿は、かつてタイの闇を支配しようとした男の成れの果てとしては、あまりに惨めだった。

「……信じられるか。私がどれだけの私財を組織に注ぎ込んだか!?」  

 酒井は、乾いた笑い声を漏らした。

「私は、このアジアの裏社会を牛耳り、一本の線で繋ぐ『黄金の道』を構築するはずだった……。あの金塊さえ手に入れば、すべての利権を得ることができたのだ!」

 坂本は、机越しに酒井を静かに見据えた。

「酒井さん、あんたは大きな勘違いをしている。あんたの祖父、酒井一蔵中尉が隠したかったのは、黄金の場所じゃない。自分の醜い『罪』そのものだったんだ」

 坂本が突きつけた事実は、酒井にとって死刑宣告よりも残酷なものだった。  

 酒井一蔵中尉が戦時中に横領した軍資金は、終戦直後の混乱期、すでに「工作資金」としてすべて使い果たされていたのだ。

 戦犯追及を逃れるために連合国軍の幹部や国内の官僚を抱き込み、戦後の起業資金として洗浄され、酒井家の富と繁栄へと形を変えていた。

 つまり、酒井が必死に求めていた「黄金」は、自らの欲を満たすために、すでに食い潰された後の「残骸」に過ぎなかったのだ。  

 酒井は絶句した。

「……私は……私は、ただの抜け殻のために、山西を、あの娘を……」  

 酒井は頭を抱え、獣のような哭き声を上げた。

 その声は、どこまでも虚しく、暗い監獄の壁に吸い込まれていった。


2.境界線を越えて

 バンコク、スワンナプーム国際空港の出発ロビー。  

 多国籍な旅行者たちの喧騒と免税店の華やかな照明は、数日前までの出来事がまるで遠い前世のことであるかのように錯覚させる。

 坂本はロビーの隅にある小さなコーヒーショップで、熱い抹茶ラテを啜りながら搭乗の時を待っていた。

 アジア最大の歓楽街パタヤでの失踪事件、藤堂伍長との出会い、そして泰緬鉄道の悪名高き史跡「地獄の切り通し(ヘルファイアー・パス)」で浴びた英霊たちの怒号と硝煙。

 それらすべてが、ロビーを流れる雑踏の音に掻き消されていく。

 坂本は、膝の上に置いたアルミケースの鍵をゆっくりと開けた。  

 無機質な金属の中に収められているのは、八十年の歳月を経てようやく陽の目を見た、重すぎる魂の記録だ。

 泥にまみれて掻き集めた数百枚の認識票。

 藤堂伍長が命と引き換えに守り抜き、酒井が「黄金の地図」と信じ込んでいた戦没者名簿と認識票。

 そして、殺された山西徹がその手に握りしめていた一対の肩章。

「坂本警部、搭乗の時間です」  

 隣に座る小林の声に、坂本は意識を現実へと引き戻した。

 小林の顔には、あの凄絶な奇跡を目の当たりにした者にしか分からない、深い安堵と達成感が滲んでいた。

「ああ……。帰ったら日本で改めて休暇をとって、温泉にでも浸かってくるよ」  

 坂本が少し崩した笑みを見せ、小林の肩を軽く叩いて立ち上がった。

「坂本警部、この度はお疲れさまでした! お元気で!」

 小林は直立不動の姿勢をとり、さっと右手をこめかみに当てて敬礼をした。

「小林さん、礼を言うよ。本当にありがとう」  

 坂本もまた居住まいを正して返礼し、二人は固い握手を交わした。

 小林は坂本が搭乗口の向こうへ消えるまで、ずっと手を振って見送っていた。

 酒井浩二の逮捕劇は、表向きには「大手商社員による遺物密輸および、それに伴う殺人事件」として処理された。

 酒井が武装組織「クロコダイル」へ投じていた資金流用は、リサたちの捜査によって白日の下にさらされ、タイ政財界を揺るがす一大スキャンダルへと発展しつつある。

 だが、あの夜に起きた、重力を無視して岩盤を支えた泥まみれの腕のことや、霧の中に現れたC56蒸気機関車の汽笛については、坂本とリサの報告書には一行も記されていない。  

 それは、公的な書類に書き残すようなことではない。

 あの場所にいた者たちだけが胸に刻んでおくべき、八十年の時を紡いだ本当の意味での「終止符」だったからだ。


3.誇りを取り戻す刻

 成田空港に降り立った坂本警部は、その足で山形県内にある藤堂一馬伍長の生家へと飛んだ。

 つい昨日まで身を置いていたタイの、肌にまとわりつくような熱気とジャングルの湿気が、今は遠い夢のようだ。  

 春先とはいえ、東北の地にはまだ分厚い残雪が至る所に横たわっている。

 山形空港に降り立ち感じた冷気は、酷暑で火照りきっていた坂本の身体に、鋭い痛みにも似た清冽さで染み渡っていった。

 日本の春先の冷たさが、ようやく自分を「地獄の切り通し」から現実へと連れ戻してくれたような気がした。

 奥羽山脈の麓、雪解け水が流れる音だけが響く静かな村。

 そこに、古びているが一本の芯が通ったような佇まいの日本家屋があった。

「……どちらさまでしょうか」  

 呼び鈴を押すと、現れたのは六十代後半と思われる、背筋の伸びた男性だった。

 その眼光の鋭さは、坂本が藤堂伍長と初めて出会った時の面影を強く残していた。

「突然の訪問、失礼いたします。警視庁の坂本と申します。……藤堂一馬伍長のご家族とお見受けし、お伺いしました」

 坂本は仏間に通されると、持参した袱紗(ふくさ)をゆっくりと広げた。

 中から現れたのは、タイの地底で八十年の眠りから覚めた、一対の階級章と認識票だった。

「これは……祖父の?」  

 孫である男性の声が震える。

「はい。タイの泰緬鉄道の史跡、ヘルファイア・パスで見つかりました。藤堂伍長は八十年前、ある重要な書類を命懸けで守り抜き、この認識票と共にその誇りを託されたのです」

 坂本は、伍長の英霊が自分を助けてくれたこと、そして彼が守った「戦没者名簿」と「認識票」が、今まさに多くの遺族を救おうとしていることを伝えた。

「祖父は、逃げずに戦っていたのですね……。軍から届いた通知には『戦病死』としか書かれておらず、私たちは祖父がどのような最期を遂げたのか、ずっと知らずにおりました」  

 男性の目から、一筋の涙が溢れ、畳に落ちた。

「祖母は死ぬまで、タイの方角に向かって手を合わせていました。『あの人は、きっと何かを成し遂げて帰ってくる』と信じて……。これでようやく、祖父を家族の元に迎えることができます。坂本さん、本当に、ありがとうございました」

 坂本が家を去る際、男性は門の前で、かつての伍長がそうしたように、静かに、そして深く頭を下げた。山形の澄んだ空気が、坂本の胸に心地よく染み渡った。


4.潮騒の鎮婚歌(レクイエム)

 山形からの帰り道、坂本は日本海を望む高台に立ち、海を見つめた。  

 冬の午後の太陽が、穏やかな海面に反射して銀色に輝いている。

 坂本は、伍長の認識票の感触を掌に思い出しながら、静かに目を閉じた。  

 肌を刺すような潮風が強く吹き抜け、坂本の頬を掠める。

 その風には、あのタイの湿った土の匂いや硝煙の香りはもうなかった。

 代わりに、故郷の冷たくも清らかな香りが混じり合っている。

 ふと背後に気配を感じて振り返ると、そこには整った軍装に身を包んだ男たちが立っていた。

 先頭には、穏やかな笑みを浮かべた藤堂伍長がいる。

『……坂本、貴様には感謝する。これでようやく、我らも家族の元へ帰れる。工兵小隊、敬礼!』

 その声は、耳で聞いたというより、坂本の魂に直接響くような澄んだ音だった。  

 坂本は背筋を伸ばし、かつての戦友を送り出すように、海に向かって深く敬礼をした。

 目を開けたとき、そこにはただ、穏やかな冬の海が広がっているだけだった。


5.エピローグ

 ―数ヶ月後のタイ。  

 ヘルファイア・パスでは、リサの父による強力な働きかけにより、タイ政府と日本政府共同による本格的な遺骨収集と遺品整理が始まっていた。

 現場からは、坂本が見つけた空洞以外からも多くの遺留品が発見され、その一つひとつが名前を取り戻し、家族の元へと帰り始めていた。

 リサから坂本の元に、一枚の写真が届いた。  

 そこには、再整備された切り通しの入り口で、現地の子供たちと微笑む彼女の姿があった。

 裏面には、彼女らしい簡潔なメッセージが添えられている。

『坂本警部。酒井の夢見た、汚職と不正の「黄金の道」は消え去ったわ。けれどここには今、新しい道ができている。死者たちが守った名簿は、遺族たちを繋ぐ「再会の道」になったの。……またいつか、シンハービールを奢らせて。今度は平和なバンコクの夜にね……』

 坂本は、デスクの引き出しにその写真を大切に収めた。  

 窓の外では、新しい事件の発生を知らせるパトカーのサイレンが鳴り響いている。  

 坂本は重い腰を上げ、愛用のジャケットを羽織った。

「よし、行くか……」

 署の廊下を歩く坂本の背中を、ふと温かい感覚が包んだ。  

 それは、あの崩落のさなか、自分を必死に外へと押し出してくれた、泥まみれの力強い掌の感触。

『……行け、坂本。貴様は、生きて職務を全うしろ!』

 そんな幻聴を微笑みで受け流し、坂本は眩い光の差す警察署の出口へと歩み出した。

 真の黄金とは、地底に埋もれた金塊のことではない。  
 それは、時代が変わっても決して色褪せることのない、人の想いと、誰かのために誇りを守り抜いた魂の輝きなのだ。
 
 春先の澄み渡った空の下、坂本の足取りはどこまでも力強かった……。

(完)

『パタヤ日本人殺人事件~消えた線路の幽霊~』タイ・トラベルミステリー・シリーズ

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。坂本警部のタイでの事件簿はここで一度幕を閉じますが、実はすでに新章『京都・嵯峨野編(仮)』の準備を進めております。次なる舞台は日本の古都、京都。タイから派遣される美しき敏腕刑事リサをパートナーとし、坂本が新たな犯罪の闇に挑みます。近日中に投稿を開始しますので、ぜひこのままお待ちいただければ幸いです!宜しくお願いいたします!

『パタヤ日本人殺人事件~消えた線路の幽霊~』タイ・トラベルミステリー・シリーズ

【刑事×日本兵の幽霊】がタイの裏社会に挑む!? コンテナから出た腐乱死体、消された鉄道、そして陽気な幽霊。 ホラー・コミカル・ミステリーが全部入りの超弩級エンタメ、誕生! ラストの敬礼に、あなたもきっと熱くなる。 #読書垢 #おすすめ本 #パタヤ

  • 小説
  • 中編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-12-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第一話 失踪
  2. 第二話 陽炎の工兵伍長
  3. 第三話 二人のヤマギシ
  4. 第四話 鉄路の断罪
  5. 第五話 クウェー河の慟哭
  6. 第六話 英霊の凱旋
  7. 第七話 鎮魂の汽笛
  8. 第八話 英霊たちの黄金(最終話)