ゆーえんみー 2話後編
この小さな久遠町にて 後編
昼食は持ってこなくていいよ! と釘を刺したのは、少し明け透けだったかもしれない。と、あたしは二人分のBLTサンドを保冷バッグに詰めて鞄に入れながら思った。
宿題にノートに筆記具、飲み物用に財布も忘れずに。服は飾らない(あざとくないとも言う!)感じで。髪型はいつも通りに。
……うん、完璧。
誰に見せるでもないくせに、鏡の前でバッグを肩にかけるシミュレーションを何度もしてしまう。こんなこと、普段なら絶対にしないのに。
でも、今日の相手はユウだ。銀の髪に碧い目の、ちょっと不思議な───でも、世界でいちばん安心できる、あの男の子だ。
早く行きたいような、まだ行きたくないような。
階段を駆け下りながらも、どこか胸の奥がふわふわとしていた。急いでるはずなのに、足取りが踊ってる。気づかれたら恥ずかしいくらい、あたしは今、とっても浮かれてる。
「……これって、やっぱり、恋……?」
呟いた言葉が、自分の耳に刺さって慌てて首を振った。
ちがうちがう! たぶんちがう。まだ知り合って間もないし。夏が始まったばかりだし。たまたま話が合って、気が合って、少し一緒にいた時間が特別だっただけ。
……でも、それにしては、心臓の音がうるさすぎる。
玄関のドアを開けると、陽射しの中にセミの声が一斉に降りかかってきた。うだるような暑さ。けれど今日は、それすらどこかやわらかく感じた。
ユウと、図書館で会えるから。そう思うだけで、あたしの中に小さな風が吹く。
この気持ちは、まだ名前をつけるには早すぎるのかもしれない。
でも、好きかもしれない。
それだけは、もう隠せなかった。
久遠町の古い街並みは、昼間になると蝉の声で埋め尽くされる。陽射しの粒が、アスファルトを照り返して眩しい。
だけど、今日はなぜか───音が変だった。
ミンミンミン、と鳴いていたはずの蝉が、突然プツリと音を失った。耳に残るのは、遠くで流れる水の音。いや、水じゃない。金属のような、乾いたこすれる音。
足が止まる。
目の前の景色が、わずかに歪んでいる気がした。
古びた電柱が、溶けたアイスみたいに揺らめく。道端の地蔵が、ひとりでにこちらを向いたような……そんな気がして。
カラン。
風もないのに、どこかで風鈴が鳴った。空っぽの、見えない音だった。ぞくりと背筋が冷えた。
息を飲む。
逃げなきゃ、と頭のどこかが言っていた。
走り出した。鞄がバウンドして、保冷バッグの中のBLTサンドが揺れる。
(やだ、怖い。やだ、やだ)
そんなもの、見たくなかった。今日くらい、ただの夏休みの一日でいてほしかったのに。
図書館のレンガの壁が見えたとき、あたしは半分泣きそうだった。
でも───
「ミー」
木陰から、ユウの声がした。
涼しい日陰に佇む彼は、いつも通りだった。真っ白なシャツ。銀の髪。そして、不思議なくらい、揺れていない。
「……あ」
声にならない息が漏れた瞬間、膝がぐらりと揺らいで、あたしはその場に座り込んでしまった。何が怖かったのか、うまく言葉にできない。でも、手のひらが汗でじっとりしている。
ユウは近づいてきて、しゃがんで、ただ一言だけ言った。
「……怖かったね」
それだけだった。大丈夫、なんて軽くは言わない。ただ、肯定してくれた。
その言葉だけで、少しだけ呼吸が戻ってきた。
「……なんか、よくわかんないけど……道が、変だった……」
「うん。そういうこともある」
ユウは、あたしの言葉に驚きもしない。まるで、前にもそんなことがあったと知っているかのように。
「中、涼しいよ。……図書館、入ろっか」
言って、彼は自然に、あたしの手を取った。その手は、少しだけ冷たくて、でもやさしい体温があった。
ふわりと心がほどける。怖かったはずの世界が、少しだけ遠くなった。
「……うん」
こくりと頷くと、ユウはそれ以上何も言わず、あたしの歩幅に合わせて歩き出す。
差し込む木漏れ日。風が一瞬だけ、通り抜けていった。
……あ、そうだ。
保冷バッグが揺れる感触に、あたしはふと思い出してしまった。
(……お昼、BLTサンド……作ってきちゃった……)
あたしの分と、ユウの分。
さりげなく食べるつもりだったけど、冷静になってみるとちょっと恥ずかしい。一方的すぎる? 重いって思われないかな?
言おうか、黙っておこうか、迷ったけれど、ちらりとユウを見ると、彼は変わらず前を見ていた。
(……ま、いっか)
なんとなく、彼なら大丈夫な気がした。
受け取ってくれるかどうかじゃない。ただ、今は一緒にいられることが、うれしかった。
図書館の閲覧スペースは、午後の静けさに満ちていた。クーラーの微かな唸り声と、ページをめくる音だけが響く空間。
天井近くの古い丸時計が、ゆっくりと針を進めている。
二人で向かい合って座るテーブルには、宿題のノートとプリントが広がっていた。
今日の国語の課題は、「愛情を描いた短編を読み、感じたことを書きましょう」というもの。
夏の定番で配られる、文庫本スタイルの読書課題。
あたしはその中のひとつ、『八月の影送り』を選んで、読後感をまとめていた。内容は、一方的な愛情を好きな相手にぶつける男の話。……これ、中学生にやらせる内容なのかな。
「なんか、切ないよね。勝手に好きで、勝手に待って、でも相手はそれを知らないままーって」
シャープペンシルの先をくるくる回しながら、あたしはぽつりと呟いた。
「こういうのってさ、もしかしたら……すごく人を傷つけちゃうかもしれないよね。相手にとっては、愛じゃなくて、呪いみたいなものかも、っていうか……」
ふと顔を上げると、ユウが手を止めているのが見えた。
ノートの上でペンが中空に浮いたまま、彼は静かにうつむいていた。
何か言いたげだけど、言葉にはしない。けれど、何かが確実に止まっている───そんな感じ。
「……あ、ごめん、変なこと言っちゃった?」
思わず声をかけたけど、ユウは首を横に振るだけだった。
「ううん。……ただ、ちょっと考えてた」
それだけを言って、またペン先を動かしはじめる。けれど、その手は少しだけ重たく見えた。
どうしたんだろう? と首を傾げつつ、でもそれ以上は聞かなかった。ユウには、そういう『触れちゃいけない時間』みたいなものがある気がして。
そのあと、いつも通りのユウに戻ったように見えたけど、あたしにはわかった。
さっきのあの一瞬、彼の中で何かがぐらついた。
(……ユウって、時々、すごく遠いところにいるみたい)
まるで、あたしが知らないどこかの景色をずっと見ていた人みたいに。寂しいような、でも綺麗なような、そんな眼差しをして。
ねえ、ユウ。
もしかして、あたしの知らない時間を、すごくたくさん持ってる?
時計の針が十二を指した頃、閲覧スペースの窓から差し込む光が少しだけ色を変えた。
「……そろそろ、お昼にしよっか」
あたしは筆箱を片づけながら、カバンの中から保冷バッグを取り出した。
中には今朝、こっそり準備したBLTサンドが二人分。
やっぱりいらないって思われたらどうしよう……なんて、内心ぐるぐるしながら、手早く紙ナプキンに包んで机の上に置いた。
「ユウ、これ……食べる?」
「うん。ありがとう」
ユウはいつもの調子で、それを受け取った。まるで、あたしが昼食を用意してくるのが最初から決まってたみたいに、自然に。
あたしの方はというと、なんだか急に緊張して、サンドイッチを持つ手に少し力が入る。
一口かじると、トマトの酸味とベーコンの塩気、レタスのシャキシャキが、口いっぱいに広がった。
暑い夏にはぴったりの、冷たいサンド。
「……美味しい」
向かいのユウがぽつりと呟いた。
「こんなの、初めてかも。優しい味」
「え、なにそれ、大袈裟すぎない?」
思わず笑って返しながらも、あたしの心臓は今朝サンドのためにトーストしたパンよりずっと熱かった。
(そんな言い方、ずるいよ)
くすぐったい。うれしい。でも、ちょっと困る。これはただのBLTサンド。愛情とか、そういうのは、込めたつもりは……いや、ほんの少しだけはあったかも。
「ミーのごはん、また食べたいな」
ユウはそう言って、にこっと笑った。その笑顔は、夏の木漏れ日のようだった。
───一方的すぎるかな? 重すぎるかな?
今さらそんな不安を思い出しても、遅かった。
でも、それでも。
この昼下がりのやわらかな時間ごと、胸の奥にそっとしまっておこうと思った。
日が傾き始めた頃、図書館の自動ドアが静かに開いた。熱気がほんのりと戻ってくる。けれど、それも朝とは違う。
蝉の声が遠くから聞こえる。空の色も、少しだけやさしくなっていた。
「あたし、こっち」
歩道の分かれ道。あたしは指先で帰り道を指し示す。
「じゃあ……また、会おうね」
自分で言ったその言葉が、思ったよりずっと響いてしまって、胸の奥がくすぐったいような、少し切ないような気持ちになる。
ユウは相変わらず不思議なほど落ち着いていて、でも口元だけ少しやわらかくなって、
「うん。また」
そう言って、あたしに背を向けた。
歩き出した背中は、どこか夢みたいで。なのに、確かにそこにいた。
あたしは、立ち止まることなく自分の道を歩き出す。
朝とは違う。
空の色も、風のにおいも、そして、あたしの気持ちも。
さっきまでの不安や怖さなんて、まるで嘘みたいに消えていた。
空を見上げると、ちょうど雲の切れ間からひとすじの光が差し込んでいた。
嬉しい。今日のあたしは、ちゃんと笑えてる。
そして、あたしはまだ知らない。
ユウが、なぜあの図書館の前で怖がるあたしを待っていたのかも。
あの「また」が、彼にとってどんな意味を持っていたのかも───
でも今はそれでいい。今日は、そう思える。
小さなこの町の、ちいさな一日。でもきっと、あたしにとっては特別な一日。
ゆーえんみー 2話後編