暁に咲く薔薇 6話
誓いの夜
ダンスを終え、ラザロとエリーゼは食事を楽しんでいた。皿を持って立ちながら食べるという形式は、エリーゼにとって初めてだったため彼女はほんの少し戸惑ったが、ラザロに教えられながら料理をよそい、楽しんでいた。
その間にもたびたび、ラザロとエリーゼの元へはラザロの顔見知りが訪れていた。先ほどのダンスを見たのだろう、皆感嘆の声を彼らにかけていく。
「エリーゼ、疲れてはいないかい?」
「いいえ、ラザロ様。わたし、とっても楽しいです」
「そう。それはよかった」
「わたし、ちゃんとラザロ様の妻としてみなさんに見られていますか?」
「ああ、もちろん。貴女は私のわむ自慢の妻だ」
「……ふふ。よかった……」
ラザロはそう言うが、エリーゼは内心、ほんの少しだけ曇り空の日のような気持ちだった。
たまにエリーゼの頭を撫でようと手を伸ばす者もいるのだ。それをラザロがやんわり手で制すのが、エリーゼは嬉しかった。男の人に頭を撫でられるなら、ラザロだけが良いと思っていたからである。そして、自分が気楽に頭を撫でても良いと思われているかもしれないのが、悔しいのであった。
ラザロが言葉をかけてくれたおかげで、エリーゼの中に焦る気持ちは無かった。ただ、自分はまだ色々と足りないのだと、思い知らされるのが悔しかった。
「……いつになったら、何をどうしたら、わたしはラザロ様の本当の妻になれるかしら」
「……エリーゼ?」
「あ……な、何でもないです! お料理、美味しいですね」
「? そうだね。でも私は、食べた気がしないな……帰ったらちょっとした料理でも作ってもらおうと思うよ」
「ラザロ様、体調が悪いのですか……?」
「いいや、こういった華やかな場所には慣れていなくてね……何度来ても、少し緊張してしまうんだ」
「まあ!」
エリーゼは悩みがほんの少しだけ吹き飛んでしまうような心地がした。目の前の夫を、可愛らしいと思ったからである。彼女は、ラザロはいつだって落ち着いた大人の男性であって、緊張とは無縁の者だと思っていた。もしかしたら、自分を気遣うための冗談かもしれないが、それでも、照れたように頬をかくラザロに、彼女の心が安らいだのは事実であった。
「ならわたしもこのくらいにして、ラザロ様と帰ったら一緒に食べます」
「おや、いっぱい食べてもいいんだよ?」
「そ、そんなに食いしん坊ではありません……」
「はは、冗談さ」
「もう、ラザロ様ったら」
二人が笑い合っていた、その時だった。
「ラザロ卿」
聞き慣れた声に、エリーゼはびくりと身を震わせた。振り向くと、そこには、エリーゼの両親がいた。華美な服を見に纏い、誰よりも派手に輝いている。
「……どうも。良い夜ですね」
「ええ、こんばんは」
「お父さま、お母さま……こんばんは」
「まあエリーゼ。元気そうで何より」
「ラザロ卿、エリーゼに話があるんです。お借りしても?」
ラザロが口を開ける前に、父親はエリーゼの手首を掴んだ。ぎちり、とその万力のような力に、エリーゼは思わず顔を顰めた。
「お父さま、どうしたの……?」
「何、少し向こうで……な?」
「あっ!」
エリーゼは会場の隅、誰もいない薄暗がりに連れて行かれた。何を言われるのだろうか、と彼女は思案を巡らせる。しばしの間手紙を出さなかったことも、子作りに励んでいないことも、何もかも咎められる気がしていたが、自然と恐れは湧かなかった。胸を張っていなさいと、ラザロの言葉が心に刻まれていたからだ。
「エリーゼ。お前は私たちの大切な可愛い娘だ。可愛い娘が手紙を寄越さなくなって、心配したんだぞ」
父親が言う。その目には言葉とは裏腹に娘への愛情は無く、冷え切っていた。
「エリーゼ。あなたまさか、妻としての務めを果たさず、いつまでも子どもでいるのではないでしょうね?」
母親が言う。その声には侮蔑が混じっていた。
「……」
エリーゼは押し黙ったまま、両親を見上げた。エリーゼは二人のことを愛している。だが、二人が想っているのは自分のことではないと、気づいていた。
「お前はラザロ卿の妻として、子どもを作り、善く務め、このルミエール家の誇りとなるんだ。そうすれば、あの男の全てはお前の物になる、地位も財産も、ルミエール家のお前が手に入れるんだ」
「……ルミエール家……」
ああ、この人たちは、自分のことしか考えていない。
ラザロの元へ嫁いで月日が経ち、少しばかり物事を考えられるようになったエリーゼは、真実を察してしまった。自分がラザロの妻となったのも、この二人が巡らせた陰謀のせい。エリーゼは唇をやわく噛んだ。そして、口を開く。
「……ラザロ様の物は、ラザロ様の物よ。お父さま、お母さま」
「……何だって?」
「ラザロ様が積み上げた、地位も、あのお屋敷も、土地も、全てラザロ様の物です!」
エリーゼは再び息を吸い、吐き、続ける。
「そして、わたしもラザロ様の物です! わたしは、ラザロ・ロゼ・ヴァレフォールの妻です!あなたたちの、道具ではない!」
啖呵を切る。そして、彼女は両親を必死に睨みつけた。二人は、口をあんぐりと開け、エリーゼを見ていた。父親がつかつかとエリーゼの目の前に音を立てて歩み寄り、片手を振り上げる。
「この、親不孝者が……!」
叩かれる! と、エリーゼはぎゅっと目を閉じた。ぱしん、と乾いた音が響く。しかし、エリーゼの体のどこにも痛みは無かった。恐る恐る目を開けると、目の前には、エリーゼの愛しい人。
「……っ。ラザロ卿……!」
ラザロが二人の間に入っていた。後を尾け、そして駆け出したのだろう。エリーゼの代わりに平手打ちを喰らったラザロは、それでも一歩も動じていなかった。
「……この結婚の意味は、よく理解していた」
ラザロが低い声で言う。エリーゼからは、その背中しか見えない。どんな顔をしているか、エリーゼにはわからない。
「しかし今は、この結婚に感謝している。エリーゼという善き妻を迎えられたのだから……」
「ラザロ様……きゃ!」
くるりとエリーゼの方に向き直ったラザロは、そのままエリーゼを抱き上げる。
まるで、姫君を抱く騎士のようなその姿に、エリーゼの父親は悔しげにラザロを睨みつけ、母親は失望したようにエリーゼを睨みつけた。
「エリーゼ。今この時からお前はルミエール家の者ではなくなった。安穏と帰る家があると思うな。お前とこの男は、永遠に真の夫婦にはなれない! お前は必ず独りになる! どこにも帰る場所なんて無いぞ!」
父親が大声を上げる。エリーゼが口を開く前に、ラザロは踵を返し、エリーゼを抱き上げたまま二人の前から去って行った。
エリーゼは何も言えないまま、早足で歩くラザロの腕の中で思案をしていた。父親……だった男の、言葉が頭から離れないのだ。
(真の夫婦とは、なにかしら)
結婚式を挙げた。
同じ屋敷で暮らしている。
同じベッドで眠っている。
ダンスを踊った。
……それだけでは、まだ足りないような気がしていた。
「ラザロ様」
「……何だい、エリーゼ」
「わたしは、どうすれば良かったのでしょうか」
何が、最善だったのでしょうか。そう続ける。ラザロはしばらく黙ったまま、パーティー会場を後にする。喧騒が遠くに消えていき、そしてヴァレフォール家の馬車の前に辿り着いた。
そこで、ラザロはようやく口を開いた。
「貴女の道は、貴女が決めなさい」
夜の闇に溶けて、ラザロの表情はエリーゼにはわからない。先ほどから、ラザロの顔が見えないことに、エリーゼの胸には寂しい思いがよぎった。
馬車に乗り、向かい合う。ようやくラザロの顔を見たエリーゼは、彼が悲しげな微笑みを湛えていることをようやく知った。
「わたしの、道……ですか。ラザロ様」
「ああ、そうとも。こんな形だが……貴女は自由になった。貴女の進みたい道を、貴女自身が考え、決めなさい。エリーゼ、私の考えを……周りの考えを読み取ろうとするのではなく、貴女自身が、だよ」
「……。……はい」
「……貴女が、叩かれなくて良かった」
「あ……! ラザロ様、痛かったでしょう……」
「これくらい何てことないよ。私は戦場育ちだからね」
「そ、うですか……よかった」
それから屋敷に戻るまで、二人の間に会話は無かった。
帰った後、二人で用意されたとろみのあるもろこしのポタージュを飲む。あたたかなそれは、ゆっくりと二人の体を満たしていった。
「……今日は、少し疲れた」
ラザロが小さな声で言う。それを聞き逃さなかったエリーゼはスプーンを置き、彼に問いかけた。
「わたしとのダンスは、楽しかったですか?」
「……ああ、楽しかったよ」
「……また、わたしと踊ってくれますか?」
「貴女となら、喜んで」
その言葉を耳にしたエリーゼはようやく、コルセットが自分を締め付けていることへの疲れを自覚した。ふう、と息を吐き、しかし晴々とした顔で、彼女はラザロに微笑む。
「わたしの道、ちゃんと考えますね」
「ああ」
「そうしたら、わたしとまた踊ってください。ラザロ様」
「もちろん。エリーゼは踊るのが好きかい?」
「はい!」
(あなたと踊るから、好き。と言ったら、困らせてしまうかしら)
エリーゼは、二人で踊った時のことを思い出す。今はまだ小さく幼い自分。だけれど、いつか、彼と頬を寄せて踊りたい。
夜は、ゆっくりと更けていった。
暁に咲く薔薇 6話