魔女ウルフズ・ルミと雪花石膏の秘密 1話

ふたりの朝

「……くしゅん」
 
 その小さなくしゃみで日の光によって金色に染まった埃がほんの少しだけ舞い、少女は寒気に目を覚ました。まぶたをこすりながら少女はくあ、とあくびをして、冬用の布団から出る。床に足を付くと、ひやりとした冷たさが少女の足を刺した。昨晩綿の靴下を履いておけばよかったと思いながら、彼女は窓へ向かう。
 絹のカーテンに手をかけ退かせ、窓を開ける。窓の外にはやはり金色の光が差し込んでいた。だが何よりも目を引いたのは、その金色に照らされる、少女の髪と同じ色をした純白の、雪。
 
 雪は、音を失った森をやさしく覆っていた。
 
 夜のあいだに降り積もったそれは、枝という枝に白い息を吐くように寄り添い、葉を落とした木々の骨格を、別の生きもののように変えている。いつもなら深い緑に沈む森は、今朝ばかりは光そのものを抱きしめ、静かな輝きに満ちていた。木立の間を抜ける朝の光は、雪面に触れるたび砕け、きらきらと小さな星を散らす。足跡ひとつない白は、まるで誰にも踏み荒らされる前の物語の頁のようで、息を吸うのもためらわれるほどだった。
 風が吹けば、枝先から粉雪がさらさらと舞い落ちる。その音は鈴にも似て、しかしすぐに雪に吸われて消えてしまう。
 森は眠っているのではない。ただ、深く耳を澄ませているだけだ。
 雪の下では、薬草の根が春を待ち、苔は冷たい水を含み、目に見えぬ精霊や妖精たちは身を寄せ合っている。白に覆われた世界は、何も失ってはいなかった。ただ、すべてを内側にしまい込み、時が来るのを待っているだけなのだ。

 窓辺に立つ少女───リリィは、吐く息が白くなるのを見て、そっと手を胸元に寄せた。
「……きれい」
 その声は、森へ落とした雪のかけらのように、小さく、やさしく溶けていった。
 やがて、遠くで枝を踏む音がする。重く、確かな足取り。雪を恐れず、むしろその中を知っている者の歩き方だった。

 森の朝は、こうして始まる。白に閉ざされながらも、確かに生きている世界の中で───薬屋『ウルフズ・ルミ』の、ふたりの冬が、静かに息をする。
 
 戸口の向こうで、雪を払う大きな音がした。
 ばさり、と重たい雪の塊が落ちる気配。続いて、木がぶつかり合う乾いた響きと、鉄の鈍い重さを伴った音が床に置かれる。斧と薪だ───リリィはベッドの上に座っていても、それが分かって思わず口元を押さえた。

(帰ってきた)

 自室の窓からは見えないが、情景は目に浮かぶ。黒い外套に雪をまとい、肩に薪を担ぎ、息を白くしながら戸を開ける"彼"の姿。森の冷たさをそのまま連れてくるくせに、家の中には必ず温もりを残していく。

 ───ごとん。
 薪が暖炉の前に積まれる音。

 ───かちり。
 火打ち金の、硬く澄んだ音。

 それから、しばらくの静寂ののち。
 ぱち、ぱち、と、小さな爆ぜる音が生まれた。

 火が、灯ったのだ。

 リリィはシャツに腕を通しながら、くすくすと笑った。まだ寝癖のついた髪をまとめようとして、指先が止まる。暖炉の火が息をし始める音は、冬の朝の合図だった。

 ぱち、ぱち。
 ごう、と小さく空気が鳴る。

 次に聞こえてきたのは、鍋を置く音。
 水を注ぐ音。
 包丁がまな板に当たる、こつ、こつ、という不器用で真面目なリズム。

(……切りすぎてる音)

 "彼"はいつもそうだ。薪は正確に割るくせに、野菜を刻むときだけ妙に慎重で、結果として音が多くなる。そのたびに、リリィは胸の奥がむずがゆくなる。

 バターが溶ける匂いが、扉の隙間から忍び込んできた。昨日の夜に仕込んでおいたパンを温める、かすかな焦げの香り。
「……ふふ」
 声を殺して笑いながら、リリィはエプロンドレスのリボンを結んだ。鏡の中の自分は、まだ少し眠たそうで、でも目だけはきらきらしている。
(あの子ったら、朝ごはん作る音、大きいんだもの)
 階下では、きっと彼が眉をひそめながら鍋をかき混ぜている。火が強すぎないか、塩は多くないか、時間は合っているか───
 
 森の古い黒狼が、ひとりの小さな白い魔女のために、真剣に。

 ぱち、ぱち。
 鍋が鳴る。
 木が爆ぜる。

 その音すべてが、リリィにとっては子守歌の続きを聴くようなものだった。
「……もうすぐ行くね」
 誰にともなく呟いて、リリィは靴下を履く。暖炉の火の暖かさは、もう家中を満たしているはずだ。

 雪の朝。斧と薪と、朝食の音がある。それだけで、この冬はきっと、やさしい。

「おはよう、ローウェル」
「ん。おはよう、リリィ」
 雪色の髪にリボンをつけて、リリィは鍋をかき混ぜる、ローウェルと呼ばれた青年に階段を降りながら言った。彼は鍋を火から下ろし、振り返ってその赤い瞳を細めた。鋭い切れ長の、しかし優しい目であった。
「朝食、もうすぐできるぞ。野菜と肉のスープにパン。ああ……チーズも炙ってパンに乗せるか」
「チーズも? やった!」
「さあ、スープの皿を出して」
「うん!」
 リリィはぴょんと跳ねて、食器棚へ向かった。ローウェルはチーズを串に刺し、暖炉の元へ行った。
 暖炉の前で、ローウェルは串に刺したチーズをゆっくりと回した。火に近づけすぎれば溶け落ち、遠ざけすぎれば香りが立たない。その加減を見極める横顔は、狩りのときと同じほど真剣だ。
 じゅ、と小さな音がして、チーズの表面がこんがりと色づく。乳の匂いが、木の煙に溶けて広がった。
「……あ、焦げちゃう?」
「まだだ。もう一息」
 リリィは棚から白い皿を二枚取り出し、テーブルに並べた。皿の縁には小さな花の模様が描かれている。以前、町で安く譲ってもらったものだ。
 その横にスプーンを置き、少し考えてから、ローウェル用には大きめのものを選ぶ。鍋の中では、野菜と肉のスープが静かに揺れていた。湯気は白く、雪の朝に似ている。

「味、見る?」
「いや、もういい。……ほら」
 ローウェルはチーズの串を持ったまま、パンの上にそれをのせた。とろりと溶けたそれが、焼き目のついたパンのくぼみに流れ込む。
 リリィは思わず、ぱちぱちと手を叩いた。
「おいしそう……!」
「落ち着け。火傷するぞ」
 ローウェルはチーズパンを皿に移し、今度は鍋に向き直る。おたまでスープをすくい、慎重に、慎重に皿へ注いだ。具は大きめだが、不思議と雑には見えない。彼なりの誠実さが、そのまま形になっている。
 リリィは背伸びをして、テーブルの中央に小さな瓶を置いた。
 昨夜のうちに仕込んでおいた、ハーブ入りの塩だ。
「それ、使うか?」
「うん。今日はちょっとだけ」
 ぱらり、とリリィが指先で塩を落とすと、湯気がわずかに香りを変えた。森の奥の、雪の下で眠る草の匂い。
 ローウェルはそれを見て、何も言わずに頷いた。
 
 朝食が揃う。
 白いスープ、焼きたてのパン、とろけたチーズ。

 暖炉の火は安定し、ぱち、ぱち、と穏やかな音を立てている。外では、雪がまだ世界を覆っているというのに、この小さな家の中だけは、まるで春のような温度があった。
「いただきます」
「……いただきます」
 スプーンが皿に触れる音が、ひとつ。リリィは一口すくって、ふう、と息を吹いた。
「……あったかい」
「ああ」
 それだけの言葉で、十分だった。
 朝食とは、空腹を満たすものではなく、こうして一日を始める合図なのだと、ふたりは知っている。
 雪の朝。薬屋『ウルフズ・ルミ』の台所には、今日も変わらぬ音と温もりが満ちていた。

「今日はどうするんだ?」
「あのね、スヴェン草を摘んでおきたいな。乾かして薬茶にすると体があたたまるの。わたしたちで飲んでもいいし、町の人たちへの品物にもしたいんだ」
「なんだ、それなら薪を集める時についでに摘んできたのに」
「もうっ。それじゃダメなの」
「なんだよ」
 そう、薬屋『ウルフズ・ルミ』とは、このふたりのことである。ローウェルが不機嫌そうに声を上げると、リリィはふふっと笑いながら外套を羽織った。
「ローウェルはわたしの使い魔だから、一緒がいいの」
「……仕方ないな、俺の魔女」
 防寒の手袋を嵌めて、彼女がローウェルの背中を撫でれば、しゅるりと音を立てて彼の姿が変化していく。大きなその姿は、夜闇のような色の狼だ。赤い瞳は人間の姿の時そのままで、ぐるると小さく唸った。
 ローウェルは、森の古い妖精だ。何百年もの時を森の中で生きている。そして、リリィは、齢八歳の魔女だ。赤子の頃に籠に入れられて森の入り口に捨てられていたのをローウェルが拾い名付けた。それから彼女は乳ではなく花の蜜で育てられ、彼はリリィのために人の姿を取ることが多くなった。魔女としての才能があったようで、ローウェルが基礎を教えたらすぐに魔法薬の作り方を覚えた。
「ほら、乗れよ」
「うん……あっ! ちょっと待ってて」
「どうした?」
「あれ、あれ着けないと」
「ああ……ここで待ってるから。行ってきな」
「うん」
 慌てて自室へと戻っていくリリィを、ローウェルは微笑ましげにため息を吐いた。
 
 リリィは部屋の扉を開け、枕元に置いてあるそれをぱっと手に取る。純白の雪花石膏(アラバスター)でできた、小さな雪の結晶の形をしたペンダントトップの首飾りであった。お守りとして大切にしているそれを首に結わえ、服の中に隠す。ローウェルいわく、赤子のリリィと共に籠の中に入っていたそうで、リリィの出生の唯一の手がかりだと彼は言う。だが、リリィはあまり自分の出生に大きな興味は無かった。無いわけではけして違うのだが───
「お待たせ!」
「ん。乗った乗った」
「はーい!」
 ローウェルはリリィを背に乗せ、小走りで森の中を進む。そう、ローウェルとの薬屋として、魔女としての生活の方が、よっぽど楽しかったのである。

 外の空気は思った以上に澄んでいた。雪はまだ降っていない。だが、森全体が薄い白の息を吐いているように、ひんやりとした気配が漂っている。ローウェルは一歩、森へ足を踏み入れる前に立ち止まった。狼の鼻先が、わずかに動く。
「……リリィ」
「なあに?」
 背中の上で、リリィはきゅっと彼の毛に掴まりながら首を傾げた。ローウェルはすぐには答えず、森の奥を見据える。
 雪に覆われた木々の間に、風はない。鳥の声も、枝のきしむ音もない。

 ───静かすぎる。

「今日は、森がよく黙ってる」
「……うん?」
 リリィは耳を澄ませる。
 確かに、いつもなら聞こえるはずの、妖精たちの小さな囁きがない。雪の下で眠っているのだろうか、と一瞬思い……。
 そのとき。胸元で、微かに、ひんやりとした感触が走った。
「……あれ?」
 リリィは思わず、外套の上から胸元を押さえた。服の中に隠している、雪花石膏の首飾り。それが冷たい。いつもより、ほんの少しだけ。
「どうした?」
「ううん……なんでもない」

 本当は、なんでもなくはなかった。
 けれど、言葉にするほどのことでもないような、淡い違和感だった。

 ローウェルは一度だけ、ちらりとリリィの方を振り返る。赤い瞳が、彼女の胸元に一瞬留まったが、彼は何も言わなかった。
「行くぞ」
「うん」
 雪を踏む音が、きゅ、と小さく鳴る。森はそれを拒まず、静かに受け入れた。
 白い枝の間へと分け入るたび、光は細くなり、空気は深くなる。薬草の眠る場所は、もう少し奥だ。
 けれど───その日、森がリリィに感じさせようとしていたのは、ただの薬草の香りだけではなかった。
 雪の下で眠っていたものが、ゆっくりと、目を覚まし始めていた。
 
 それを、まだ誰も知らない。ただ、雪花石膏の首飾りだけが、かすかに、冬の朝に応えるように冷たく光っていた。

魔女ウルフズ・ルミと雪花石膏の秘密 1話

魔女ウルフズ・ルミと雪花石膏の秘密 1話

1話 ふたりの朝 魔女ウルフズ・ルミの薬屋シリーズ。薬屋を営む魔女の少女リリィと黒狼の使い魔ローウェルの平和な毎日と小さな事件

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-12-29

Copyrighted
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