大樹の下に生きるよすがを見つける

17才。傷ついた彼女が見つけた生きる理由

 父が亡くなった時の一番の記憶、親戚の男の人たちが何事かもめている。それをぼんやり眺める母の姿。自分の夫のことでもめているのに、他人事のようだ。愛する夫を失い、放心状態ともとれるが、この時の母の心模様は今でも分からない。
 喪主は故人の妻である桜子だが、桜子は憔悴している。誰が喪主を支え、葬儀を取り仕切るかで、喪服姿の男たちはもめているのだ。
 父が特別遺産を多く残すような資産家だったわけではない。お金ではない。美しい未亡人の桜子から頼りにされて、その後も信頼を勝ち得て、桜子によりかかってほしい。そんな不純な思いの下、男たちは既婚者も独身者も自分こそが桜子の一番の支えになろうと、人が亡くなったというのに、葬儀と言う厳粛な場で牽制しあっていた。
 葬儀会社のスタッフが早く打ち合わせをしたくておろおろしている中で故人との生前の付き合いの深さをあげては自分こそが、と堂々めぐりを続けていた。
 大好きな父が亡くなったというだけでも信じがたいのに、目の前で繰り広げられる奇妙なやり取りに、りんどうは、父が一瞬生き返って、自分も連れて行ってくれないかと思った。
 父が行った世界にはこんな滑稽で不毛な光景はないはず。控室には父が眠る棺、父の遺影が安置されていた。 
 本来なら控室には父方や母方の親族が集まっているのだが、皆、男たちの話し合いにあきれ、外出してしまっていた。
 結局、気を取り直した母が気丈に喪主としてつつがなくつとめた。男たちの信じられないようなばからしい話し合いは、のちのちまで恥ずかしい話として語られることになる。
 男たちが我を失うほどに喪服の桜子は麗しかったのである。同時に、夫を失ったかわいそうな妻であるはずの桜子は、死者を送る場であってもなお、特に女性たちからは同情されず、冷たい型通りのお悔やみの言葉しかもらえなかった。
 祖母のあやめ、母の桜子、曾祖母のことはよく知らないが、宇野家の女たちは、この町の多くの男性にとっては初恋の人、女性にとっては自分の夫や恋人の心に居座り続ける憎い存在だった。
 特にそういう思わせぶりな行動をするわけではないが、守りたくなる雰囲気をがある。人には好みがあるので、だれもが夢中になっているわけではないが、りんどうの覚えている限り、祖母や母といるとずいぶん優遇され、得をしているように思えた。
 祖父や父など、この人と決めた相手には一途なところもかえって対抗心をあおるらしい。父の葬儀でのひと悶着もそれが現れた結果で、りんどうは父の死ももちろんまわりの母への執心ぶりも忘れがたく心にのこった。
 そんな家に生まれたが、りんどうは何ひとつ得をしたことがない。むしろ生まれた家や親を間違えたと恨みたくなる。宇野家の娘ということで、近所の女性たちの目は優しくなかった。憎悪も感じる。
 あたかも自分の夫が今でも桜子を好きで、いつかそちらへ行ってしまうのではないかという疑心暗鬼がいつもある。
 幼いりんどうと姉のだりあが近所の子供たちの輪に入れてもらえなかったのも母親たちの小さな意趣返しだったと、りんどうは割と早くに理解した。この人たちはじぶんたちが嫌いなのだ。邪魔なのだ。
 宇野家の女たちの存在に耐えきれず引っ越していった極端な例もある。結局誰の家庭も壊してはいないが、その類まれな美しさで様々な家庭に疑いと嫉妬のさざ波を起こし、できれば出て行ってくれないかと懇願されたこともある。
 りんどうは、心底宇野家に生まれたことを恨んだ。たとえば担任の先生も母への関心を隠さない。家庭訪問や授業参観後の面談などで、とても立ち入ったことを聞いてくる。
 りんどうは学校で起きることを母には話さなくなった。それで心配した母が学校に相談する。
 実際、りんどうは学校で孤立していた。「誰のせいだ」と言いたくなるが、りんどうは母を守らなければならないと思っている。母は何もしていない。再婚もせず、子供たちを一生懸命育てている。
 加えて、りんどうが中学生になるころ、すでに魅力を開花させていた姉のだりあが、りんどうの孤立に拍車をかけた。りんどうは父に似ていた。だが、母やだりあのせいで、「女性」であることが嫌だった。かといって母やだりあを欲まみれの目で見る「男性」になることはもっと嫌だった。
 性別など何のためにあるのか。女とは男とは何のために分かれているのか。皆が同じ性であればよいのに。
 人間が性もなく欲もなく恋愛もなければとうに滅びている。だが、こんな世界は滅びてもよい。りんどうは極端なことを考える。
 りんどうの生まれ育った地域は小さく閉鎖的で一度ついた印象が何世代も続くようなところだった。流動人口が少なく、新しい出会いは皆無な地域だった。誰々の嫁、親、子ども・・お互いを監視し、息苦しくまとわりつく夏の暑さのように不快だった。相手は「あの家の娘」としてみようとする。りんどうは、無口で愛想がなく、人と交わることを避けるようになった。それがせめてもの抵抗だった。
 「あの家の娘」のわりに・・と少し失望したような顔をされると、ないはずの劣等感を感じ、それでやはり自分も母や姉のように美しければと思っているのかと自分に嫌気がさした。父に似ていてよかったと思う。それなのに相手の対応に傷つく。この複雑な感情はどう説明したらよいのだろう。
 友人はいなかった。この人はどういう気持ちで自分に話しかけるのか。母や姉を知っているのか。そんなことばかりを考えていると、人と接することが苦痛になり、ついに限界がきた。
 りんどうは中学生最後の一年間、登校できなくなった。姉のだりあのせいで。
 だりあはその名のとおり華やかで女王のようだった。花に群がる虫のように男性は選び放題。なのに誰の手も触れていないかのような清楚さもある。恋の傷による膿も感じさせない。一人一人をまるで初恋のようにうるんだ清らかな瞳で見上げてくる。のちにそれは「あざとい」行為だと知った。
 りんどうは嫉妬に狂っただりあの知人たちに取り囲まれ、姉にかわって責任をとれと糾弾された挙句、興奮した一人から、墨汁を頭からかけられた。中学生にはあまりにも酷なことだった。
 真っ黒に染まったまま、とぼとぼと歩く。「あの家の娘がまた何かやらかした」と誰も声をかけてくれず、でもじろじろを見られながら家を目指した。家には帰りたくない。
 だが、早くこの真っ黒な汚れを洗い落としたい。だから帰る。重い足取りで。髪が水分をすって重たい。
 制服の白いブラウスはもう修復不可能なほどに黒く染まっている。この黒い水はきれいになるだろうか。体から出てくだろうか。
 玄関にへたりこんだりんどうを見たときの母の悲鳴は忘れられない。なんでお母さんは泣いているの?
 全部この家のせいで私は黒い水をかぶって汚れているというのに。お母さんやお姉ちゃんは、きれいな水だけを浴びて育った枯れない美しい花のままなのに。私だけどうして?りんどうはその翌日から学校に行かなくなった。
 その後、何度か担当が家庭訪問し、学校に来るようにと説得しに来た。しぶしぶと言った風に同級生が「一緒に学校へ行こう」と誘いに来た。
 たいていは母が追い返していたが、一度坊主頭になったりんどうが出てきたとき、おびえた目で二度と誘いに来なくなった。洗っても洗っても汚れが落ちず、しかたなく髪を剃り落とした。制服も着られなくなった。
 加害者はすぐに見つかり、それ相応の処分をされた。しかし、加害者は「こちらこそだりあによっていろいろ狂わされた」と開き直り、周りも「そうなって当然だ」という雰囲気だった。
 謝罪に訪れた家族の男性たちも、この期に及んで母に見惚れ、それを隠そうともしない。
(クズどもめ。誰もかれも、母も姉もこの町のみんな死ねばいいのに)
 中学校の卒業証書は送られてきた。りんどうは形だけは中学校を卒業となった。
 今は何者でもない。家からほとんど外出せず、家事をして祖母が遺した店をたまに手伝う毎日。
 荷物の上げ下ろしなど、表には出ない。変わったことは何も起こらない。だりあがいないこと以外は。
 だりあはりんどうの一件のあと、町から出て行った。許しも請わず、言い訳も、出ていく理由も何も告げなかった。
 りんどうは17歳になった。母は40歳をこえたが、それでもなお美しく人目をひいた。それだけ魅力的なのによく今まで、恨みや執着をかいながらもさして危険な目に遭わなかったものだとりんどうは不思議だった。知らないだけだろうか。
 何かに守られているとしか説明がつかない。力ずくでわがものにしようとする輩がいてもいいはずだが、男たちは互いに協定を結んでいるかのように、母に恋し、崇め奉る熱のある視線を送ってくる。小さな町では、そんなことしようものならあっという間に噂が広がる。
 それが、なおさら、まわりの女たちをいらだたせる。努力して、よき伴侶として選ばれる女性とならなければとがんじがらめになっているこの町の女性たちにとって、もって生まれた何かによってありのままでいてもじゅうぶんに魅力的な宇野家の女たちに自分たちの努力を否定される気になるのだ。
(勝手にやってろ)
 りんどうは、何かを楽しみにして、その日を心待ちにして過ごしたのはいつもことか思い出せなくなっていた。
 友達なんていらない。まして恋人などもっといらない。どこか遠くへ、ほんの隣町でもいい。ここから出て行きたい。
(お姉ちゃん、ひどい。自分だけ)
「あの家の娘」「母親そっくりだ」。自分と母親は全然似ていない。母親に似て美しいとしてそれが何になる。嫌なものを引き寄せるだけだ。生まれたくて生まれたのではない。
 りんどうは誰も好きにはなれないし、誰かに好きになってほしいと思わない。そっとしておいてほしい。
 広い世界へ、この家のことを誰も知らないところ。お互いに関心を持たないくらい広いところ。そんな場所は日本中、世界中にある。ただ、ここしか知らないだけ。
 でも、体が動かない。私はずっとこのままなのだろうか。家を嫌いながらそこに隠れているしかない人生を送るのだろうか。季節は平等に流れていった。
 だりあ、この姉のせいでりんどうは苦しんだ。最初は嫌いではなかった。たった一人の姉だから。いつもいっしょにいてくれた。近所の子どもたちからは仲間外れにされていたから遊ぶ相手はいつも姉だった。年下の子どもの遊びに付き合ってくれた。
 お姉ちゃんがだいすきだった。憧れのきれいなお姉ちゃん。細い顎、すっとした首、ふっくらと甘そうな唇の隙間から白い前歯がのぞく。いい匂いがして細い絹糸のような髪の毛が風に揺れ、くいっと片方の眉毛をあげるいたずらな表情が可愛くて。瞳の輝きは星空でさえもかすんでしまう。
「離れて歩いて。」「もう明日から遊ばない」
 そういわれた時、悲しくてはじめてだだをこねた。急になんでそんなこと言うの。私と歩くの恥ずかしい?なにか怒っているならごめんなさい。お姉ちゃん、怒らないで。
 だりあは一瞬泣きそうな顔をして、ぱっとりんどうの手を放した。それきりきょうだいの会話は途絶えた。小学五年生か六年生のことだ。
 だが、そのだりあがこの町を出る糸口を与えてくれた。だりあを見た、という人がいた。
 りんどうとだりあの母、桜子は、周りが思う以上に、賢く冷静で、自分に寄せられる好意や欲望を感じとり利用し、うまくかわしてきた。
 だりあの行方も、自分にいまだに好意を寄せる信望者の一人から聞き出した。一緒にコーヒーを飲む時間とひきかえに。
「僕も心配しているんだ。君もだりあちゃんも大切な存在だから」と野暮ったい渾身の口説き文句のお返しは桜子の曖昧な魅惑の微笑みと感謝の言葉。それ以上は滑稽なまでに何もなし。
 だりあはある日駆け落ちをした。相手は若い公務員で一年間の雇用契約の臨時職員として町役場に出ていたころに出会った。
 古い価値観、前例踏襲が根強い町役場の中で、淡々と日々を過ごしていた青年にとって、だりあとの出会いは一生に一度あるかないかの熱病のような恋の始まりだった。一目ぼれだった。大反対され、安定した仕事、約束された将来、何も起こらない代わりに平和な生活、気立ても育ちも良い婚約者、すべてを手放した。
 だりあは将来ある青年、その婚約者の未来を台無しにしたとして、今まで以上に敵視された。
 りんどうはだりあを憎む人たちからの仕打ちのため、家からでられなくなった。その気になれば、この町を出ることもできるはずなのに、りんどうはそこから動くことができない。行動を起こし呼吸をするだけで石が飛んでくるのではないかのように。
 人々の視線、ささやき声が突き刺さる。傷が広がり黒い水が体内で腐っていくようだ。
 年上の人たちに取り囲まれ、「だりあに会わせろ」「あんなふうに育てたあんたの母も同罪だ」「あんたがあの人とだりあの手引きをしたことは知っているんだ、中学生のくせに」と罵倒された時のことが頭をよぎり続ける。
 人の嫉妬とはなんと恐ろしいのだろう。いくらでも罪をねつ造できる。家族と言うだけで同罪だと言い切れる妄想の力。さげすみながらも性的な興味は隠さず、「あの家の娘」として値踏みされるような目で見られる。
 この町は嫌い。大嫌い。良い思い出はない。りんどうは学校も買い物も一人ではできなくなっていた。
 子供の頃は姉と一緒だったからまだ行動できていた。姉がすべての視線を吸収していた。
 だが、だりあがいなくなると、人々の視線がすべて自分に向いているように感じて怖かった。大多数の人にとって、人から好きになってもらうにはそれなりの努力がいる。意識しないのに男性の心をとらえてしまうのは多くの女性にとって羨望の的である。
 色香と言うのは、あるか、ないかで、ないものは努力で少しは身につくが生まれつきある者のようにはいかない。誰もが持てる者をうらやむが持てる者にも悩みや苦労があるが、お互いにそれを理解するのは難しい。

「いっしょにだりあに会いに行こう」
 ある日、母は買い物に行こうというような気安さでもちかけた。
「お母さんが行ってきて。私は行かない」
「この町から少し離れるいい機会だと思うの。本当は旅行とか学校で出て行くのがいいけど、今はその時ではないし、少しだけでも・・。りんどうはだりあと会わなくてもいいよ。その間ぶらぶらしていたらいいわ」
「おねえちゃんは、私ともういっしょにいたくないって言っていた。行ったってどうせ」
「ごめんね。ずっと。この家、お母さんやだりあのせいでりんどうは苦しかったね。だりあは自分のせいでりんどうが嫌な目に遭ったことに強いショックを受けていてずっとひきずっていた。そんなとき優しくしてくれた人を信じてここを出て行った。りんどうはお父さんにそっくり。周囲はみんな私との結婚を反対した。でもお父さんは私を一人の人間として好きになってくれた。素敵な人だった。誰よりもかっこよくて。信じてくれないかもしれないけどお母さんにはお父さんだけだった。他の人を好きになったことない。これからもない」
 初めて聞いた。親の恋愛話を聞くのは気恥ずかしい。愛嬌を振りまいているように見えたのは生きていくためだと言い切った。持てるものは使う、ともさらりと言った。
「生きていくところはいくらでも選べる。足枷なんて自分がつくったものよ。りんどうは本当は一人で生きられるくらい強いし賢い。学校に行かなくてもお勉強はできていた。勝手に理想化して勝手に敵視する人たちから離れなさい。こんな簡単なこともっと早く言ってあげたかった。ごめんね、りんどう。一緒にだりあに会いに行こう。家から一歩出よう」
 町の外に出るのは数える程度しか記憶がない。最後はいつのことか。まだ父はいただろうか。覚えていないくらい前のような気もする。
 母が携帯電話を買ってくれた。りんどうはおそるおそる母の番号を登録した。母以外の連絡先は入っていない。家の中で家事と花の世話、時々花々を写生して、料理を作って・・テレビもラジオも本も、およそ人間が出てくる者は極力見ないようにしていた。テレビに自分を取り囲んだ人と似た人が出て息苦しくなったことから見なくなった。はじめてみるスマホには情報があふれていた。はじめて検索したのは花言葉。あやめ、りんどう、だりあ、桜、カスミソウ・・・
 母の思いを聞き、ひさしぶりの旅行気分でその日を待っていた。初めて母からの着信がある。
「だりあが亡くなったって。」
 一言だけ。母の声がやけに遠かった。携帯電話を持つ力もなく口元においてかろうじて話しているようなほど小さく遠い声だった。
「だりあを迎えに行かなくてはね。予定より早くなったけど」
 だりあに会いに行く。りんどうと母は出発した。
 無口になった母にかわって、戸惑いながら切符を買い、バスや電車に揺られた。もっと効率のいい行き方もあったかもしれないが、母は何も指示してくれなかった。
 情報の洪水が押し寄せてくる。情報と人の波に押し流されないようにりんどうは久しぶりに母と手をつないだ。車窓から町が遠ざかって行って、見たことのない景色が次から次へぐんぐん流れ去っていく。
 きらきら光る海をみて、滔々と流れ続ける川を見た。山はくっきりとした緑色で青空に映える。風までもがきらきらしている。
 悲しくてもうれしくても泣いていても怒っていても、人が生まれても死んでも、人が自然に一喜一憂することがあっても、自然はあるがままだ。人の動きになど左右されない。
 ごちゃごちゃと家どうしが近く、空は低いように見えた町、本当は違う景色もあったかもしれない。
 しかし、りんどうを取り巻く世界は風通しの悪い、額縁に押し込まれた狭い世界で、りんどうにはほかの景色を見る心の余裕はなかった。下を向いて「あの家の娘」だと気づかれないように急いて歩いていたから。
 亡くなったたった一人の姉を迎えに行く旅路なのにりんどうは初めて目にうつる風景を美しいと思った。
 優しい人はいない。他人からは欲望かさげすみか憎悪かそれ以外の視線を向けられたことはない。
 思い込みかもしれない。思い出せば心の底にひとつくらい眠っているかもしれない。優しい思いやりのある視線。ほんとうはそれがほしかった。友達もたくさんいたらよかった。りんどうはみじめな気持をふりきるように母の手をしっかり握って目的地を目指した。
 だりあの住所にたどりつくのにだいぶ迷って遠回りした。違う路線に乗って引き換えしまごまごしているうちに乗り遅れたり。
 沈んでいたが、母はひとつも愚痴を言わずついてきてくれた。やっとたどり着いたときははじめて何かを成し遂げた気持ちになった。しかし、そんな達成感は瞬時に消え去ってしまった。
「あの人たちは誰だ?親族席にすわっているが・・」
「なんでも故人の母親と妹とか・・」
 ひそひそ声と視線を感じる。直前についたりんどうと母にだりあの夫の親族は驚き不審な目を向けながらも親族席に案内していくれた。
 桜子は戸籍と免許証をみせて自分がだりあの母親だと証明した。だりあは母親似で疑いの余地はなかった。
 だりあは結婚するときも「結婚しました」」と後で連絡を寄越しただけで、だりあの夫とは今日が初対面だった。
 はじめて着る喪服で参列するのが姉のお葬式。母が若いころ仕立てた喪服は少しりんどうには大きかった。
 葬儀場で、りんどうは一人の幼児と出会った。親族控え室の隅にいた。葬儀の間、幼児の声は聞こえなかったがずっとここにいたのだろうか。
 誰も、その子がいないかのように振る舞っている。適当に与えられたキャラクター入りの紙パックのジュースを飲みほし、それをおもちゃがわりにいじっている。
 この中で、その子に関心をもっているのはりんどうと桜子だけである。りんどうは幼い子どもに接したことがない。しかし、その子の周りの空気があまりに寒そうで、にじりよって声をかけた。
「こんにちは。ジュースおいしかった?」
 子どもは大きな目をりんどうに向けた。話しかけられたことが信じられないようにきょろきょろしている。
 りんどうは子どもの手をとった。
「きみにおはなししているの。」
そこではじめて自分に話しかけられたと理解した子どもは、だりあの遺影を指さす。
「ママ」
 話しかけてくれた相手に教えてくれようとしているのだろう。小さな指の先にはだりあがいた。
 だりあは親になっていた。人形のように愛らしいが幼児しては動きが小さく感情の表現が乏しい。
 でも、大きなたれ目、弧を描く形のよい眉、ふっくらした作り物のような唇、髪質までだりあを受け継いでいた。着ているものからして男の子のようだ。子どもの方もだりあによく似た桜子に気づいた。
しかし、それも一時で、りんどうをじっと見つめている。確かめるようにりんどうの手をなでている。その目の強さにりんどうは緊張してしまう。同時に胸の中には温かいものが広がる。
(だりあの子ども?なんてかわいいの。かわいそうに。ひとりでこんなところに。)
「お名前教えてくれる?私はりんどう、この人は桜子」
 りんどうは、どうにか優しく聞こえるようにゆっくりと話しかける。
「いつな・・」
「いつな?何歳?」
いつなは不器用に指を3本折って見せた。
「いつなくん、3歳。会いたかったよ」
 何がおかしかったのかいつなは、笑った。いつなくんさんさい、いつなくんさんさいと歌うように繰り返している。誰かに関心をもってもらったことがないのかと思うと胸の奥が苦しい。
 母も口に手を当ててこみあげるものをこらえているようだった。
「おねえちゃんはだれ?」
「いつなのママのいもうとだよ」
「いもうとって?」
「りんちゃんでいいよ。いつなのママは私のことりんちゃんって呼んでたんだよ」
「りんちゃん、りんちゃん!」
「あんたが、よめさんの母親と妹か」
 のどに何かがからんだような濁った声が降ってきた。いつの間にかそばに中年の男性が立膝をしてりんどうたちをのぞきこんでいる。
 とっさにいつなを引き寄せる。桜子もりんどうとはさむようにいつなの傍に寄ってきた。
 男性は無遠慮にりんどうと桜子を交互にねめつける。息がかかりそうなほど近くで見られりんどうの体はこわばった。
「よめさんは気の毒なことだった。もったいない。いい女だったからな。」
 男性はりんどうと桜子を下から上、上から下へと眺める。りんどうは男性とまわりの視線でだりあの置かれた立場を想像した。
(だりあはここでも同じ目でみられていたんだ)
 だりあが自分で選んだこととはいえ、あの町から出た後も同じような好色な視線に晒され、その死でさえも興味本位でしか見てもらえていない。父親の葬儀の時にも感じた。
「この子は息子だな。母親に似て可愛い顔をしているなあ。これは将来心配だ」
 そう言って男性は、いつなの頭をなで手荒に髪の毛をわしゃわしゃとする。そして柔らかそうな頬をなでようとする。
「おじさんが抱っこしてやろう。おいで」
 だりあがその男性に髪や頬に触れられているようにみえて、りんどうはぞっとした。了解も得ずにまるできれいなおもちゃを品定めするように触ってくる。
「手をどけてください。こわがっています。」
 りんどうはいつなを引き寄せた。男性の顔がひきつる。皺の刻まれ染みのめだつ年相応の肌、鼻の頭には汗が浮き、分厚い乾いた唇がひきつる。すうっとさっきよりさらに冷たい目つきになる。まわりの温度が下がった。 
 りんどうは体が冷たくなる。怖い。何かされる。桜子が割って入り、男性をひたとみすえた。
「ちょっとかわいいからって汚いものをみるような目で・・あの女にそっくりだな。この子だって今は小さいが、大人になったらどれだけの女を泣かすか分からんぞ」
「こっちに来なさい!」
 鋭い声がした。桜子より少し年上の女性と背が高い若い男性。
 いつなの父親のようだった。母親と思しき女性のやや後ろにつき従っている。
 女性に促され、父親が気怠そうにいつなに近づいて抱き上げようとする。
 途端にいつなは激しく抵抗した。母親以外に懐いていないのは明らかだ。
 大声で泣くのではなく苦しそうに「やだ」「やだ」と呻くように、泣くのを堪えるようにりんどうの手をつよく握る。小さな子どもはまわりを考えず泣くものなのではないだろうか。だだをこねて泣き叫ぶ子はうるさいかもしれないが、子どもとはそうしたものではないだろうか。
 少ない経験からもいつなが小さいのにどれだけ感情をおさえているかが伝わってくる。りんどうは小さな手を握り返した。だいじょうぶと言ってあげたい。大声で泣いていいんだよ。
 父親は少しいらいらしたようにいつなの体を抱き上げようとする。いつなが急に先ほどの呻くような泣き声とは別人のような大きな声をあげて泣き出した。
 この子がこんな大きな声で泣き叫んだことはなかったのだろう。皆あっけにとられている。
 りんどうはいつなを、抱きかかえてそこにいる全員を見渡す。
「こんな小さな子を一人でほったらかしにして恥ずかしくないのですか」
 お葬式なのに悼む雰囲気が感じられない。空々しい雰囲気。
 家族葬と言う形で参列者は親族しかいなかった。親族も本当に近い人達しかきていないようだった。
 顔の部分が見えるようにしている棺の前に人が群がり触れ合うほどに近づけてだりあの死に顔を時間をかけてみていた。だりあは死後もきれいだった。顔は真っ白なのに、唇は触れたら柔らかく温かいのではないかと思わせるほんのりと桜色だった。
(お姉ちゃんに近づかないで)
 病気ではなく、突然亡くなったそうだ。朝起きてこないと見に行ったら子どもを抱いたまますでに冷たくなっていた。
 冷たくなっていく母親に抱かれていつものように目覚めるいつな、母親は一向に目覚めない。
 しばらくして父親がやってきてあたりは突然どたばたと騒がしくなる。いつなは母親の腕から無理矢理引き離される。
 母親にもう一度触ることもできないまま、誰かの手によって着替えさせられ黒い服を着た大人が大勢いる場所に連れてこられる。
 お母さんは亡くなったんだよと教えてくれる人もいなければ、食事はとったのか、はみがきはしたのか、トイレはいかなくていいのか、気にしてくれる大人はいない。
 いつなは夜はまだおむつをしているようで、おむつはかえてもらっていなのか今にも水分で破れそうだった。
 火葬場から帰ってきて、りんどうと桜子は改めてだりあの夫と姑と対峙した。
 いつなはあれからずっとりんどうと桜子のそばから離れなかった。おむつをかえて、食事をさせると気分がよくなったのか今は静かに眠っていた。
 結局のところ、ここでもりんどうは桜子といっしょにだりあのせいで恨み言を聞かされることになった。
 だりあの夫はなにもかもなげうってだりあを手に入れたと思っていたが、ひとときとして心が休まる暇がなかった。
 常にありもしないだりあの浮気を妄想して嫉妬に苦しんだ。だりあとしては、親切にしてくれるから笑顔を返すくらいで、それが夫を傷つけているなど思いもよらなかった。だりあの笑顔は相手に期待をもたせることに本人が無意識だったからである。
 夫の母、だりあの姑は最初から結婚に否定的だった。もとの婚約者を気に入っていたこともあるが、身元が分かり、出奔するまで住んでいた町での評判を人づてに聞き、猛反対に拍車がかかった。親族や近所の男性たちが、だりあの味方をするのも気に入らない。
 しかし、その時点ではだりあに夢中で有頂天になっていた息子の涙ながらの説得にしぶしぶ折れ、結婚を承諾した。
 しかし、夫の猜疑心は日増しに強まり、それでも日々は穏やかさを装って流れ、だりあは妊娠した。夫は当然の権利とばかりに自分の子かと疑った。疑いの気持ちが強すぎて、だりあにそっくりなかわいらしい我が子にさえも一片の情もわかなかった。
 しかし、認知しなければ世間体が悪い。それだけの理由でとりあえず人の親となった。樹凪(いつな)、その名はだりあが一人で考え、一人で出生届けを出した
 奔放でそれでいて一途、人の痛みに鈍感なようで、情が濃い。だりあに恋して報われない男、その男に恋をして振り向いてもらえない女。男も女も傷つけてなおも美しいだりあという花に引き寄せられ執心がやがて恨みになり嫉妬が憎しみになりその思い思いが集まってだりあは呪い殺されたのかもしれない。
 平然と家庭を手に入れ、その上さらに人の心をかき乱そうとする魔性の女をこれ以上生かしておくことはできないと運命が判断した。
 二人とも、今後、だりあの子どもを育てるつもりはないようだった。跡取りは兄弟の子どもなど他にもいるし、今度はもっとまともな女性と結婚させたい。だりあの姑はそう言い放った。
 かといって、施設に預けるのは世間体が悪い。理性の部分はそう言っている。
 しかし、感情の部分では、だりあにそっくりで、自分たちには泣きも笑いもしない樹凪には少しも愛着がわかなかった。話すのは主に姑の方で、夫の方は読み取れない表情であまり言葉を発しない。
「もういい」、「母さんのいうとおりだ」「俺がまちがっていた」
 そんなことをこともなげに言う二人に、りんどうは、今までためこんでいたすべての怒りと悲しみがはじけた。自分をとりまく人たちのいわれのない敵意や無関心、好奇に満ちた目。怒っていい。私も樹凪もうじゅうぶんに我慢した。
「だりあの遺骨も樹凪も私が引き取ります。他はなにもいりません。お母さん、いいよね?お母さんがダメと言っても私もう決めたから」
 桜子もうなずいた。最初からそのつもりだった。りんどうがいわなければ自分が言っていた。樹凪の気持ちは聞いていないがこんな二人のところに幼い子どもを置いていけない。
 どんなに自分やだりあが責められても何も言いかえすまいと思っていた。何をいったところでこの人たちは聞く耳をもたない。だが、幼い孫がいるとなれば別だ。
「お母さんも同じ気持ちよ。たったいま連れて帰ります。母親の実家が引き取るんだから世間様も何も言わないでしょう。お言葉通りこんな子はお宅様にはふさわしくありません。こどもには安心とぬくもりが必要です。さっきから“俺が間違っていた”っておっしゃっているけど、本当にあなたがたが自分たちの間違いに気づくにはずいぶん時間がかかりそうね。だって本当はそう思っていないでしょ?この先も決して理解できない。すべてだりあが悪いって思っているでしょう?でも、もういいです。これまで娘と孫が大変お世話になりました。今後は何一つ求めません。うちでしっかり育てますのでご安心を。この子の成長もかわいらしさも全部見届けてやります。一切の連絡は無用に願います」
 桜子は一気に言い切った。どんなに嫌味を言われても摩擦を避け、微笑んでだまっていた桜子の一世一代の啖呵だった。
 あとになって考えると、けっこう無理なことをしていると思ったが、父親と祖父母に樹凪を育てる意思がまったくなかったこともあり話は恙なくすすんだ。
 りんどうは時々不安になる。樹凪は養子縁組をした母の子という扱いで、りんどうは姉と言うことになる。
 だが、母だけに樹凪を育てさせるつもりはない。そう思っているのに少し怖くなる。何もない自分が子どもを育てるなんでできるのか。母に何かあったら?二人で飢え死にしてしまうかもしれない。
 生きるって子育てってきっとものすごく大変だ。きっと苦労する。もうすでにりんどうは振り回され毎日寝不足だった。
 だが、樹凪の小さな手がそんなりんどうを冷静にさせる。すごく迷惑をかけられた姉、だりあ。だりあの夫と姑の迷惑そうな顔が浮かぶ。
 でも、樹凪にまで自分が迷惑な存在と思って大きくなってほしくない。りんどうも樹凪も、この世界すべての人は生まれるところを選べない。いい人も悪い人も同じ。みんなスタート地点は選べない。その後の人生は自分の努力でどうにでもなるだろうが自分の人生の最初だけは自分では選べない。
 樹凪には最初はこんなだったけどあとで生きていてよかったと思ってほしい。りんどうもずっと人のせいにしてきたが、これからは樹凪のためにもその考えはやめようと思う。
(樹凪といっしょにいたらきっと私も生きていてよかったと思えるよ)
 りんどうは前ほど周りを気にしなくなった。母と養子縁組をしているのに、「あの家の娘が父親のわからない子どもを産んだ」と言われても平気だった。本当のことは自分たちが知っていればいい。
 いつか自分がほんとうに樹凪の母になってもいいとさえ思っている。そのためには何か手に職をもたなくては。学校にもう一度いかなくては。あの人たちは陰口しか言えないのなら何も怖くない。
 樹凪は最初があまり感情を表現しない子だったが、少しずつ慣れてわがままもいうし、元気いっぱいに過ごしている。特徴は強い目力、冷やかしの目もさぐるような目も意地悪な目も、その目力で返り討ちにする。
 小さいながらもひと睨みすると大人でもひるんだ。自分の思惑を暴かれるようで居心地が悪くなるようだ。
 幼いのに恐ろしいまでの目力だった。だりあが残したものは樹凪の目力に宿っている。何も恥じない、何も恐れない。世間の評判も先入観もその強い目の端にもいれない。
 りんどうは樹凪の目を見てだりあを思い出す。この上なく美しく自分の気持ちに正直な大好きな姉。
 突き放されたけど、優しい姉ばかり思い出される。姉妹として過ごした時間が短いが、その時間を樹凪ともう一度過ごしているようだった。
「樹凪の目はきれいだね」
「ぼくはりんちゃんの目が大好き。りんちゃんのような目になりたい」
 樹凪はどんな大人になるだろう。どんな恋をするだろう。りんどうは19歳になる。相変わらず同じ町に住み、まわりの声も変わらない。
 人々は相変わらず「やっぱりあの家の娘だ、誰の子か分からない子どもを連れている。恥知らず」とささやきあう。
 この人たちは何も変わらないだろう。ひとつも進歩しないだろう。
 りんどうは樹凪の手をひいてそんな視線を浴びながら今日も狭い町の中を歩く。あれほど出られなかった家から出て樹凪の送り迎えをする。
「いつかりんちゃんと桜ママを連れて行くよ」
「どこに連れて行ってくれるの?」
 樹凪はどことは答えない。でもりんどうは今まで世間の冷たい風に吹かれているだけだった自分が大樹の下で守られている安心感があった。樹凪は小さな体の中に大樹がある。
 何一つ変えようとしない、変わらないよどんだ暮らし、ままならない人生の中でも、自分はこの小さな存在を守り、それ以上に守られて生きていく。りんどうは小さな樹凪に申し訳ないなと思いながら樹凪の手を握りなおした。

大樹の下に生きるよすがを見つける

大樹の下に生きるよすがを見つける

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-12-29

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