百合の君(89)
神酒尋拡張で伐った山の斜面は、ちょうどいい観覧席になっていた。視界を遮るものはない。秋の収穫を終え、冬備えもあらかた済ませた近隣の百姓たちが所せましと切り株に腰をかけている。
がやがやと喋りながらも、顔も着物もみんな汚れていて、それが先の火災でわずかに焼け残った木々を囲んでいる様は、生駒屋から見ると、戦で散った者達の屍が土中から湧いて出て、恨みを晴らそうとしているかのような不気味さがあった。実際、彼らのなかには身内を兵に取られ亡くした者や、自身が死にかけた者も多くいただろう。
障楽二年十一月一日、とうとう出海浪親と喜林義郎は正巻川を挟んで向かい合っていた。その緊張感は観覧席にも伝わって来ていて、兵隊が隊列を組みなおしたり、伝令が馬を走らせただけでどよめきが起こる。中には騒いでいる連中とは無関係に鼻をほじり、出て来た鼻糞を満足げに眺めている者もいる。何が起こるのか知らず、村の仲間が行くというので、仕事をサボる口実にするためだけにここにいるのかもしれない。生駒屋は、人の間を縫って、兵糧から横流しした弁当や酒を売りつけていた。
「酒は要らんかね、酒は」
古い樫の木のようにしわくちゃな顔をした爺が、ちょっと手を挙げて懐から銭を取り出した。普段貨幣を使うことのない百姓たちは、今日のために市場に出て銭を手に入れて来たのだ。
なみなみと酒が注がれるのを見て満足そうに笑う爺の顔を見ると、生駒屋まで嬉しくなる。侍はコロコロ主の代わる忠義や正義など胡散臭いもののために戦っているが、商人は違う。日々の充足感、世の人が必要とするものを届けるという満足感のために生きる。もちろん儲けさせてもらってはいるが、武士の取る年貢に比べればずっとましだ。年貢はそれに見合った品物をくれるわけでもない。侍蟻という蟻は、他の蟻から奪うだけで一切働かないという。
生駒屋は思う。いっその事この戦を最後に武士が全滅してくれればいい。しかし、そんなことはあり得ないのも分かっている。たとえ今の侍がいなくなっても、新しい誰かが武士になるのだろう。
「おい、なにぼーっとしてやがる、こっちにも酒だ、酒持ってこい」
はいただいま、と生駒屋が大徳利を動かしたとき、
ドン・・・! ドン・・・・!
陣太鼓が鳴り出した。
喜林の軍が動く前に、浪親は後方に叫び声を聞いた。
「何事だ!」
「百姓です、一揆です」
老兵が進み出た。今まで喜林を襲ってきた百姓達が、とうとう出海にまで手を出した。浪親は喜林の調略を疑ったが、山の観客共を見て、そうではないことを知った。
出海に襲い掛かる百姓達を指さして、彼らは大喜びだ。出海は今まで民衆を味方につけることによって軍事力の不利を補ってきた。が、九年は長すぎた。人はまだ、義によって腹がふくれるほど進化してはいないのだ。
「将軍、どうなさいますか将軍」
縋り付いてくる老臣を、浪親は蹴り飛ばした。目やにを涙が潤して醜かった。ふと、最初の晩を思い出した。喜林義郎がまだ蟻螂と名乗り、その山小屋を襲撃した夜のことだ。繰り返し妻の名を叫ぶ声には、涙が混じっていた。不条理に対する悔しさと絶望が人の形を成し、暗闇で這いつくばっていた。
これは、俺の始めた憎しみだ。まるで誰かに囁かれたように、浪親は初めて気が付いた。しかし、それゆえ生まれた穂乃や子供への愛情は、どうすればいいのだ?
浪親は、静かな真っ白い所にいた。周りを見回しても何もない。声を出しても響かない。走っても、馬で駆けても、どこにも行けない。弓を射てもただ遠ざかっていくだけだ。
戦場に戻って来た浪親は、心の奥底から憎しみを引きずり出してきた。そして、どうしようもない感情を、とにかく背負わせた。
「皆の者、喜林義郎の首を取りに行く! 後ろなど気にするでないぞ!」
そうだ、喜林義郎。あいつさえいなければ、こんな事にはならなかった。
「久しいのう、九年ぶりか」
乾いた風が、煤又原城の前庭に吹きつけていた。後ろ手に縛られ白装束姿の元将軍が震えているのは、どうやら寒さのためではないらしい。割れた唇から血が滲み、瞳を真っ赤に燃やしている。
「盗賊と狩人、同盟相手、大名と将軍、そして謀反人と将軍となって今度は逆か。そちと私の運命の糸は、よっぽど強く結ばれておるようだな。絡まってしまって解けそうもない」
「なら力づくで引きちぎればいい。私はそうするつもりだった」
「むろんそうする。最期に言い残すことはないか?」
「私の家族を返せ」
「それはこっちの台詞だ」
そして出海浪親は白浜と共に斬首された。障楽二年十一月三日のことである。
百合の君(89)