百合の君(88)

百合の君(88)

 最初に気付いた砂煙を、(のぞむ)は焼き払った村の煙だろうと眺めた。しかし、いくらなんでも遠すぎる。すぐに出海(いずみ)の本軍が来たのだと分かった。と同時、背筋に悪寒が走った。望も走って態勢を整えると、その数はこちらの数倍、いや十倍以上かと思われた。退却を考えたが、刃も交えぬまま退いたら義郎(よしろう)に首をはねられる。
 望は初陣よりもずっと強い恐怖を感じた。体が動かなかった。それは自分だけでなく息子の死も感じたからだということはすぐに分かった。
 両軍ともに被害を最小限にしなくてはならない。少なくとも、息子は守らねばならない。そのためには、その顔を知っている自分が一番先を進まなくてはならない。
 望は自分の頬を殴って気合いを入れると、
「突撃!」
 叫んで走り出した。意外だったのは、出海の軍が戦だけでなく民の救済にもあたったため、本陣近くまで切り込めたことだった。
 将軍も自ら刀を取って突撃してきた。出海浪親(なみちか)と相まみえるのは初めてだったが、その顔を見た瞬間、勝てないと悟った。大きな戦局は喜林(きばやし)有利ではあるが、一人の人間の一つの戦闘においては、そんなことは関係ない。
「出海さま!」
 恐れを吹き飛ばすため、望は叫んだ。
「そちが百鳥(ももとり)か! 珊瑚(さんご)に矢を射たという」
 猪のような浪親の刀を、かろうじて受けた。勢いがあまって、浪親は望に覆いかぶさろうとしている。
「降伏してください! この戦、出海はもう勝てません」
「ならばこの首取ってみよ」
 その吊り上がった瞳は熱く燃え、声は黒雲から響く雷のようだった。望は自分の恐怖の正体が分かった。目の前の男は、君主である喜林義郎にそっくりだった。
「残念ですが、それは難しいようです」
 実際、浪親の刀は望の首元にまで迫っていた。一足早く、望は首筋に冷たい物を感じた。
「なら降伏など勧めるでない」
「出海に私の子がいるのです」
 ふいに浪親の力が緩んだ。
「ともに上嚙島(かみがみしま)城に行った者が申しておりました。珊瑚様を逃がした出海さまならお分かりになるはずです。この戦、もうこれ以上続けるべきではないと」
 緩んだと思った力は、すぐに倍加された。
「将軍が子を逃がすわけがなかろう!」
 鍔迫り合いをする望の力をものともせず、浪親は刀を振り下ろした。
 失くしたと思った首はつながっていた。見ると、振り下ろしたままの姿勢で、浪親は肩で息をしている。怨霊、という言葉が頭をよぎった。
「そんな面子が何だと言うのです」
 自分が語りかけている相手がここにいないかのような、奇妙な感覚があった。浪親の目だけが望を射た。
「面子ではない、私は喜林にだけは負けるわけにはいかんのだ! あやつに頭を下げるくらいなら、この場で腹を切った方がましだ!」
 飛びかかって来るかと思った浪親がそのまま動かなかったので、望はここが好機、というか潮時だと捉えた。
「みなの者、もう十分だ!」
 叫んで望は退却した。幸い、追撃はなかった。古実鳴(こみなり)に戻る道中、望は敵の将軍から受けた印象を反芻し、どちらが勝っても同じような天下になるのかもしれないと思った。

百合の君(88)

百合の君(88)

あらすじ:喜林は出海に対し、本国である八津代と都の二方面からの攻撃をしかけています。今回は、前々回につづいて八津代での戦いです。 その場に登場しない人物の名前が出てきてよく分からないという方は、(45)と(46)の間に相関図がありますので、そちらを参照するといいかもしれません。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-12-20

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