悪魔のささやき
薄汚れたオンボロの家に、一人の男が住んでいた。
ある日、男はこんな独り言を呟く。
「ああ、僕は人間が憎い。人間なんて、みんないなくなればいいんだ」
すると、家のドアがトントンと叩かれた。男がドアを開けるとそこにいたのは、全身が真っ黒で、二本の角を生やした生き物だった。
「こんにちは。私は悪魔です」
悪魔が言った。当然のように、男はびっくり仰天する。返す言葉もなくただ詰まっていると、悪魔は続けて、
「お望みなら、あなた以外の人間を全て消し去ってあげすよ」
そう淡々と述べた。
「まさか。そんなこと、できるわけないだろう」
「ほんとうです。一瞬で消し去って見せましょう」
悪魔は何やらよくわからない呪文を念じた。
「さて、これであなた以外の人間は全て消え去りました」
悪魔がそう言うと、男は半信半疑だったが、とりあえず町を見てみることにした。
すると悪魔の言った通り、町はがらんとしていて、人っ子一人いなかった。
「やはりあの悪魔は本物だったのだ。自分はなんて愚かなことをしでかしたのだろう」
男は取り返しのつかないことをしてしまったと、後悔した。悪魔はそんな心境の男に近づいて、あざけ笑う。
「自分以外の人間を消し去るなんて、あなたは本当に馬鹿な人間ですね。これから、どう生きていくのですか?」
「俺がわかるわけないだろう。やはりお前は、とんでもない悪魔だ」
「それは私にとって、褒め言葉にしかなりませんよ」
「うるさい、黙れ、二度と来るな」
男は怒鳴り返したが、悪魔は相変わらず嘲笑するだけだった。
それから数日経つと、男は次第に、誰もいないひっそりとした町での生活に慣れていった。
男は、ずっと隣について来て離れない悪魔に話しかける。
「ところでお前はとてもみすぼらしい風体だが、一応知性はあるし、元は人間だったのか?」
「いいえ。私は恨みや憎しみといった概念が、積もりに積もって具現化したものです」
「ふーん。それで、これからもずっと俺のそばにいるつもりか?」
「はい。あなたを追い詰めて、徹底的に不幸にさせます」
「なら、俺が死んだらどうする? 俺の死体のそばで、肉が腐り落ちて、骨が風化して無くなっても、ずっとそうやって笑っているつもりか?」
それを聞いた悪魔は、ハッと我に返り、
「それは考えていませんでした。あなたが死んでしまったら、次に誰を不幸にすればよいのでしょうか?」
「そんなもん知るか。元はと言えばお前のせいだろう。自分で考えろ」
すがりつく悪魔を、男は冷たく突き放した。
「あなたが死んでしまったら、私は存在する意味のないものになってしまう。ああ、私はなんて愚かなことをしでかしてしまったのでしょう」
悪魔は取り返しのつかないことをしてしまったと、後悔した。男は冷静に言う。
「今更後悔しても、もう遅い。自業自得だ」
さらに数十年が経った。男は年老いてヨボヨボのおじいさんになり、もう死ぬ間近だった。
「今までありがとう。お前は悪魔だが、いい友人だったよ」
「死んではいけません。お願いですから、私を一人にしないでください」
「俺も悪魔だったら、いつまでも生きられたのにな。残念だ、さようなら」
男はその言葉を最後に、もうそれっきり動かなくなった。
そして、悪魔はひときしり泣いた。しかし泣いたところで、どうにもならない。悪魔は死ぬこともできず、ただずっとそこにいるだけだった。
男が死んでから、いくつもの歳月が経った。
屋根は崩れ落ち、地面からもうもうと草が生い茂って、辺りは草原と化していた。
男の亡骸はほとんど風化して粉々になっていたが、それでも悪魔はずっと、うつむいた表情でそばに居続けた。
ふと、何かの鳴き声が響く。それは今まで聞いたこともない鳴き声で、悪魔はその声の元を探し続けた。
やがて悪魔がたどり着いたその先には、一匹のシカがうずくまっていた。
「どうしました?」
悪魔がシカに話しかけると、シカはこう答える。
「私の大事なメスを、他のシカに取られてしまったんです。ああ、他のやつらなんて、みんないなくなればいいのに」
すると悪魔は、先ほどの調子はどこへいったのか、パッと明るくなり生気が戻った。そして悪魔は言う。
「ならばその願い、私が叶えてさしあげましょう」
悪魔のささやき