女を海とよぶな

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 わたしのゆびさきはスマートフォンの冷然硬質な硝子面を介し、うす燈のように仄かにめざめるわが意識に従って、SNSという、鮮明なる表面を晒しながらもくぐもる泡を立てる海のなかをかきまわすように揺らめき、恰もあてもなく彷徨っていたのだった。
 色とりどりの欲求をあっけらかんと或いは周到に秘められて照りかえす画像の一群は、スクロールされる度尾をひるがえすように上方へゆき過ぎ、虚栄にしたたる波紋に美しく歪んだ画像ともども、まるで銀鱗魚が泳ぐような迅速さで過ぎてゆく。そうして、なかば酔生無死で前後にしならせていたわたしのゆびさきをふと静止させたのは、かのひと。というのはかの憧れ。いわゆる、わが推し。
 わたしの推しは、嘗ては、AV女優ではなかった。
 色の黒い数人の男性に囲まれてピースサインをする水原藍(現芸名:心音ねる)は露出の過度な下着姿、ゆびで圧せばきんと硬質なオルガンを散らすであろう陶器めいて綺麗な肌を、不特定多数の閲覧者等に惜しげもなくさらしていたのだった。この肌の質感に対するわたしの印象は、けっしてスマートフォンの硝子ごしにみているが故の想像によるそれのみではない、というのも、このきついほどにまっしろな光を反射するある種硬い腰を、わたしは一度だけ抱いたことがあるのだから。
 水原藍は十八歳まで、所謂地下アイドルとして活動していたのだった、わたしは彼女のライブに通い、一度チェキを撮ってもらったときはハグまでしてもらったというのが先程の不穏きわまる伏線のはやすぎる回収である。デビュー当初は十六歳、わたしは彼女と同学年であり、同性であり、恰も太陽を愛するようにして水原を崇拝し、月へ憧れるように水原的-生に身を擲ってみたいと悲願した。
 わたしのこつぜんと止まったゆびに反し、わたしの脳裏にはさまざまな追懐、想い、情愛、そして、「どうして?」という訝りと憐れなにくしみが駆け巡る。転身直後のショックと比較して、わたしはそれほどに推しがポルノに出演していることに拒絶反応はない──と、想っている。
 唯一の問題は、貞節というそれである。
 彼女は、「結婚するまでセックスをしない」という透明にしてひりつくように神経的な少女的戒めをファンに公言し、わたしはその言葉を、そのままに信じていたのだ。水原の決意を信じ、尊敬し、そして愛した。彼女が少女特有の毀れやすい倫理を破り、それでも尚メディアにわが身を露出させていること、これに対する訝りと憎しみと、そしてそれでも残り火花の撥ねるような愛おしさと嘗ての崇拝という複雑な感情に、それでも尚しぶとく芸能の世界に身を置ける俗悪美に対する印象が交ることを、わたしには禁じえないのだった。
 
 彼女の、今日の書き込み。
  私は今の道というか
  生き方を自分で選んだのにさ、
  部外者がガタガタ言って私のこと貶めて。
  私は私の人生を生きるから、
  アンチもお前らの人生を生きな。
 
 わたしのコメント。
  藍ちゃんが選んだ道をわたしは応援するよ!
  同性ファンとして、
  藍ちゃんの生き方を規範としたいし、
  今日の写真もお美しくて大好き!
  藍ちゃんのこと一生推すねー!
 
 わたしはその日彼女からの「いいね」がないか数十分に一回はそのSNSにログインしていたのだった、返信機能を使って彼女に話しかけたのは久方ぶりで、忙しいから、いちいち一つひとつに反応できないからというのがあるのはわかっていても、わたしは推しから「いいね」が付かないという状況に不安を感じる体質、夜に推しを推すアカウントの通知がついて飛びつくようにひらくと「いいね」ばかりか藍ちゃんからの返信まであり、わたしは文字通り部屋で小躍りした(水原藍がアイドル時代に所属していたグループの曲の振りつけ『歓べ!』)
 
 水原藍からの返信。
  ありがとう涙
 
 ただこれだけに過ぎないのに、わたしは水原藍がわたしのためにゆびをうごかしてくれたという事実が嬉しくて咽び泣き、けれどもその涙は何故かしらはじめとは異なる感情による操作によるそれへと変わる、操縦者の代わったわたしの感情の体液は唯垂れるように枕へ撒かれ、その液体はあらゆる搾取によりどうしようもなく疲れ切った花さながらに項垂れる。

  *

 その頃わたしは年上のバンドマンに遊ばれていて、都合のいいときに呼び出され煙草や酒を買いに行かされたり、相手の欲しいときに躰を差しだすことを強いられていて、けれども実質わたしには、遊ばれているという感覚はそれ程にはなかったのだった。
 というのは「かれに夢中で盲目になっていたから」というごくごく見られやすい簡単な感覚が理由ではない、抑々わたしは、かれを特に好きではなかった。かっこよくもなかったしバンドも売れていず、やりたくもないアルバイトをやったりやらなかったりする男、かれは誘惑の言葉を時々ささやいたがわたしにはなんだか羞恥のような不快なくすぐったさのような感覚を与えるばかり、女のひとをどぎまぎさせるのが巧いというわけでもなかったように想う。けれどもその際に「こいつ、わたしのこと遊んでるつもりなんだろうな」といううらがえしの軽蔑と冷笑の感情が生まれるのはわたしにはなんだか愉悦であったのだった、いわばかれの「わたしを遊んでいると想っている愚かさ」がわたしにとり玩具にすぎなかったのであり、いうなれば互いが互いを損なわせない一種よい関係であったのだろう。その意味において、全くもって道徳的であったといってもよいと想われる。軽蔑と軽蔑、双方の利用と消費の綾織った低劣な関係。玩具と玩具。遊びのやりとり。搾取? 嗚。その概念だって、くだらない。
 ひとえにわたしはかれに遊ばれている自己を遊んでいたといって誤りはないかもしれない、わたしにはわたしという領域のどこに自己があるのかをみいだすことができなかったのだけれども、或いは水原的-生への崇拝をさせるわが一領域がある種わたしの「わたし」であったのだろうか。わたしは”魂”というものがもしあるとすれば、それはもしや人体においてコンマ何%かの物質ではない領域、或いはなんらかの物質が光ないし電気信号として宿っているのではないかと訝っている。わたしはその領域こそがなんらかの対象に跪き、あるときは真善美のようなものを尊敬しえるのだという幾分古風な人間観を所有しているのである。
 わたしはけだし水原的-生に対し訝りと憎悪に転じたむしろアンチテーゼにも似た感情を感じており、まるでその重たい心をもてあましていたのだった。うら若き頃にかぶれていたものから気持が離れたとき、往々にしてひとはむしろそれに過剰な嫌悪をいだくようになる。ニーチェにとってのキリスト教。エミール・シオラン、ジョルジュ・バタイユにとってのニーチェ。例は枚挙にいとまがないであろう。
 然るにわたしはいまにも残る水原的-生への憧れをもっているが、現在の水原藍にそれは屹度発見されえず、かの生は翳のような幻影のような芸能人のパブリックイメージに鍍金の張られた虚構のそれであるに相違ないだろう。わたしはいうなれば有るかも判別できぬ「わたし」という概念の重みをもてあましていて、肉の領域のわたしで戯れの如く児をあやすように男に遊ばれてもみたし、いったい恋愛によって人間はなにを悦ぶのかをいわば実験していたのである。換言するならばなにか自己の本心と離れた行為によってわたしの一領域を他者に利用されてみたかった、その最中のわが心象の推移を注視してみたかった、それこそが当時のわたしのしたいことであったのかもしれない。
 わたしは「自己無化」という壮絶な争いの生を闘おうとしていたが、じっさい行為していたのは甘ったれ爛れた男との徒なる遊びであり、その行為をさせる心は破れかぶれに投げだされた前述の一領域とはべつの一領域のそれであり、冷め果てた視線で男にさらされたわが躰へ研究者の眼でまじまじと見つめていたのも亦、わたしであったに相違ないのだった。
「葵、煙草買ってきてよ」
 男にそう言われたのでわざとタールの量が多いものを購入してきた、男は屹度わたしを莫迦だといい、そういうところが可愛いと嘯き、指をからめ、そして、わたしという躰を繋ぎ留めようとするだろう。
 はい、とタール12のアメリカンスピリットを置くと、
「色違うじゃん、なんで間違えるの?」
「店員がこれ持ってきたから」
 ふっと軽く笑ったが、わたしの眼は唇の端の捲りあがったような表情を見逃すことはない。優越の笑みであった、支配の満たされた、高圧的な嗤いであった。わたしはその感情を向けられていることを逆転的に悦ぶのだった、そして、そのうらがえった虚栄心によってまるめこむように侮蔑の小復讐をするのを恰もたのしむのだった。
 軽蔑を不可視の軽蔑でくるみ直すようなわたしの感情が珍しいものだとはわたしには想えない、それは社会において、仕方なしに弱い立場の者のよくする復讐に相違ないのである。男性優位の世界のなかで弓のように飛んでくる男の愚かさ、高圧的な欲望に対する、いわく脱力という復讐である。わたしの心の根には男性への不信と軽蔑が蟠り、深く、深く沈殿しているようだ。ありとあらゆるそれ等への風刺的な攻撃への欲望に、わたしは当時まるで支配されていた。ありとあるものを優越の立場から嘲ってやろうという、ニヒルをきどる若者のよくする生き抜く方法論を、それの無駄と有害を知っていると錯覚しながら、自覚的におなじことをやってのけようとしていた。わたしはただ一度きりの人生の長さを、再現不可能なせつな的実験の時間とどうように捉えているところがあるのだった。
 十八。
 わたしは、十八歳だった。
 女の十八というのは男性たちから恋愛対象として最も求められ、亦羨まれる年齢の一つであるといえるけれども、女が十八歳として生きているこの抑圧、怒り、憂い、わが身が自然と放つ性の兆と折合をつけられないというこの戦慄すべき不安、果してこれ等を包含して真に愛し抜き大切にできる男が、いったいいずこにいるだろうか。
 わたしはほんとうの意味で愛されてみたいと悲願しているが、愛のない愛され方をするのはけだし危険というほかはなく、だが、交際のまえにそれを期待することの愚劣さ、寄りかかった期待の醜さもややくらいは理解しているつもりだ、そしてそれがろくでもない男としか関係をもったことのないわたしにも原因があるという意見も一蹴してはならぬと考えている。
 恋愛とはなんぞや。
 いわく、一条件としては信頼と重なる領域。理念としての責任をわが身に負わせた、法的な意味における非契約にして、魂のそれにおける絶対の契約。わたしと「わたし」、そして愛する他者との三重構造、それを本能或いは本能よりも深みから昇る原初の衝動に出発し倫理と優しさに軌道を修正された、共同の建築作業。其処での、原初的舞踊。或いは、倫理的舞踏にすることもできるだろうか?
 嗚。穢れた醜いものを剥がそうとするわたしの感情がけだし穢れて醜いと識るわたしを、ほかならぬわたしじしんが一途に、ひたむきに憎む。憎みとおす、決意である。そしてそれを識るわが身への優越の意識こそわたしは剥ぎ落したいのだ。剥ぎ落すというのはまさしく暴力の行為であり、わたしに剥ぎ落したいとのぞまれている欲望は既にしてわたしの醜い四肢の肉欲にどっと蝕まれている。すべては、蝕まれている。
 いずこへ?
 わたしには「わたし」という一領域がいずこへゆくべきなのか、それすらもわからなくなっている。
「はあ」
 とかれはやわらかげに言い、
「まあ、丁度ニコチン切れしてたし、いいよ」
 そしてわたしの肩を抱いた、わたしは肉体を許すたびに魂を蔽う背骨の銀の筋力を引き締めている、それはわたしの、精神を守護する貞操帯。わたしが、わたしとして絶対に守護しなければならないと、それに懐疑と虚無を感じながらも、投げやりに守りつづけている貞節。水原も亦、これを守護しているのなら、わたしは彼女を信じる気持ちを信じつづけることができる。
 貞節すらないのなら、わたしたちはいったいなにを生きることができよう?
「最近、詩を読んでるんだ。芸の肥やしってやつ? あかりは文学とか読まないでしょ」
「うん、全然わかんない」
「ジム・モリソンやマーク・ボランがさ、アルチュール・ランボオって詩人の詩が好きだから俺も読んでるんだけど、『永遠』って詩がすげえいいよ。エロい」
 アルチュール・ランボオは十二歳から愛読している。
「エロいの?」
「太陽的な男性が、海のように生命の始原であり往きつく領域である女性を貫いて、融け合い引き伴れるのが永遠なんだってさ。海はただ横たわり、連れこまれるのを待っていて、太陽は上を走り昇りつづける。一晩射し貫いて、融け合い消えて、あらたに産れて、そして日々がくりかえされる。それの連鎖が人類の営みであり、男と女という永遠の主題なんだ」
 
  *
 
 わたしはかのような解釈を、けっして是認しない。
 女を、海と呼ぶな。
 
  *
 
 推しが炎上した。
 この炎上事件はわたしの水原への信頼を崩し落し、何故わたしはたかが一人間を信じていたのかと自責・悔恨し、わたしはわたしと結ぶなにものも失った状態で貞節だけを残してこの地上に立っていたといってもいい過ぎではなかった。わたしはけだし跪く対象を喪失したのだった。わたしは何だってできると思った。如何なる背徳の行為であろうと、ひとを傷つけ損なわせる巨大な暴力であろうと、自己にそれを許しえるという意味では為せるのではないかとなかば本気で想っていた。しかしわたしには何もしなかった、何もしないということをするほかはなかった。わたしには何も気力がなかった。唯、ヤケであった。
 推しは当時流行していた男性アイドルと恋愛関係にあり、その男性アイドルは三人の女性と恋愛していて、水原藍は妊娠しているというのが報道であった。
 わたしの信頼は裏切られた。わたしの信仰は破られた。わたしの一領域は跪く対象を失った。わたしはニイチェ思想を何一つ読解できないままに、かれのキリスト教への憎悪のみを悉く理解し、文面では不可視の領域にみずからのいたみを肉付けしていった。
 アンチ水原。わたしはネットに書き込みこそしなかったけれども、さながら重力のようなものに従い其処まで堕ちえたのだった。
 つぎなるわたしの思考をひとえにいえば、わたしの孤独という一領域がなにを”跪く対象”にしようかという、愚かなる峻別作業であったのだった。わたしはそれをするために恰も精神に意味における背骨を折り曲げてうずくまり、肉から浮くような背骨の凹凸を抱きすくめるようなうごきで前からうでで覆うも、平均的日本人の体形でそんなうでの長さがあるわけはない。わたしはいかにも痩せすぎていて、その少女を負うにはあまりに醜くいびつな背骨はなにか病的な廃墟さながらの不穏な陰翳を落しボコと脹れていた。
 わたしはこの世界に在るというのがけだし違和感であった、なぜこの世界はこんなにも不気味で、わたしはそのなかでSNSのいるかもわからぬ美しい女を模しうろうろと彷徨っていた、それは美しくあるということだけがこの世界である種存在していいという一条件をわたしに与えていたからであり、その条件がなぜ有るかという問題は他者たちから優越していなければわたしはわたしの存在を認められないという病に原因していた。わたしはけだしわたしが此処に在ってよい条件を満たすために美しく着飾り、最新のメイクをし、くるしい体験管理にいそしんだが、なぜそれが男性の欲情を煽ることに直結するのかもわからないし、なぜ男たちはけがらわしい欲望を覆い隠してわたしへ欲望のうでを伸ばすのか、わたしにはそれを回避しえないし、先ずもって女が十八として在るというその状態が不可視の暴力的な視線を受けることをまるで禁じえないのではないかという一種被害者意識による感覚は、果して妄想といえるほそ幻想的であるのか。それは現実という柔らかく粘着質の重みをもってわたしに垂れる体液のような世界の観方であるけれども、わたしがそれに違和感をもつというのがそんなにもおかしいことなのか。復讐したい。復讐したいという気持すらもわたしたち被暴力者には赦されないのか。
 水原というロールモデルを失ったわたしには、もはやこの世で生きる理不尽と違和感、この世にある気持の悪さをしか感受できぬ、一条の神経であった。
 嗚、わたしは──人間は善いこころでわたしに接するというのが、当然であるような気持をもっている。
 
  *
 
「でもそれってさ」
 と、女友だちに相談すると、こう返ってきた。
「女性は男性の気持や状況を配慮せず、攻撃性の高い欲望で暴力しているっていうのは、男性と女性をべつにすれば、いまの葵じゃん。男性だってくるしさや事情があるんだし、そこまで見る努力をしてから批判したほうがいいんじゃない? そしたら、さっきみたいな言い方にはならないとおもうよ」
「は?」
「葵はたしかに悪い男性にくるしめられてきたけど、それは葵がその男性たちを選んできたからだよね。それが葵のこのみなんじゃないの? 気遣いとかスマートさってさ、技術だし、心とは離れた領域の優しさだから、経験によるんじゃない? 葵がいままで対象外だった男性も、なかにはいいひともいるし」
「うるせえんだよ!おまえわたしの気持なにも知らないで適当なこといってんじゃねえよ。そんなこと誰でもいえるだろうが!」
 正論。それなのかもしれなかった。
 わたしがもしいまの状況に立っていなかったとしたら、わたしだっておなじような言葉を云ったかもしれない、だが、いまのわたしはこんな言説に救われる筈もないほどに暴力的で、荒んだ心をもっていたのだった。
「もう、帰る」
「うん、わかった」
 
  *
 
 水原藍のアイドル時代の動画をみる。可憐で、素直で、メンバーへの気遣いもあって、へたな歌すらもいとおしく、わたしは、これが人間の在るべき姿であったとおもっていた。わたしはこうではない人間を認められなかったし、だから自分なんて憎悪の対象でしかなかった。
 いたみの裡でしか、生きていることを実感できなかったから。
 わたしのやや多い性経験を説明するのはこんな言葉であったけれども、しかしこの言葉には何処かに欺瞞がある。たしかにわたしは事後の後ろめたく罪悪の意識の伴った自責に生きているという実感をえていたが、最中に快楽がまったくもってなかったと云うことを、わたしにはできまい。その後ろめたい自責に裡にこそ快楽があったのではないかというう訝りを、わたしに否定することはできまい。
 歓べ。歓べ。歓べ。それだけが、跪く対象を失った死にたい人間を、生きる断続を重ねつづけられうるのなら──されどわたしは、そのような生き方を、わたしに是認することはできない。
 
 *
 
 わたしは数週間家にひきこもって親にも連絡しなかったから、自分を世話してくれるひとなんているわけもなく、精神と肉体の健康はようよう堕ちぶれて往き、しかし、これがわたしという違和感を鳴らせる背骨の凹凸と嵌る、真にダークな領域だというような気もしていたのだった。わたしはそれを嘲ってみたのだけれども、それも金属の穴から吐かれる乾いた音を立てるばかりなのだった。
 デカダン。
 はッ。嗤っちゃう。
 恰も落葉のように世界という不気味な観念的で曖昧模糊とやわっこい破片が落ち、わたしはそれが頬を辷るのにまかせていたのだった。わたしの眼前はくらぐらと靄のようなグレーの陰翳が降りかさなり、「世界、マジキモい」とだけ囁いて、唯生存のために水だけを飲んだ。それでも吐くことはあった。わたしはわたしに介入するありとある汚らわしいものを吐き散らしたかっし、それによってできあがった空白に純潔な水を注いでほしいと悲願した。
 インターホンを鳴らす音があり、バンドマンが来たことがわかった。セックスがしたいんだな、とおもったけれども、いまの入浴すらしていない痩せこけたわたしに性的魅力などあるわけがない。敢えて入れた。すればわたしの見た目を確認し、せせら笑うように「堕ちたな」、と一言だけをいうと、扉を閉めた。わたしの乾いた笑いがからからと掠れた音を立ったが、やはりそれは頬を辷る涙への風刺的精神によるものであった。
 水原。水原。あなたは、なぜファンを裏切ったの? 否。なぜ裏切る自己を、あなたは赦しえたの?
 腹痛が酷い、数日なにも胃に入れていないからだろうか。海がみたい。海が。女という客体を投影された海ではなく、地上を襲う理不尽の主体としての海が。
 窓を開ける。町並み。
 わたしは喉から込みあがる吐き気にえずき、どっと床に全肉体を倒れ込ませ、嘔吐した。わたしは白いてのひらでそれを掬った。これがわたしの海だった。これがわたしの主体としての暴力の溜りだった。それが窓枠に垂れ、外へつと落ちた。そう。暴力は暴力と綾織っている。この世は暴力に満ち、わたしはいうまでもない一種の暴力者であった。加害と被害の関係性は可逆的で、すべてグレーなのだった。どす黒いダスティな色彩がわたしには気味が悪かった。それが無数の蛇のようにうごめくのが人間社会のように想えた。わたしはわたしの感受性をここまでみすえたとき、或るふしぎな勇気がうまれるのを訝った。
 閃光。暗み。雷鳴。轟音。砕ける音──あ。
 青空。
 わたしはうずくまっていた躰をひるがえし、揺れるレエスカーテンに吐瀉物が触れるのも気にせず、青空の清む光をみていた。わたしは跪いたのではなかった、けっして、そうではないのだった。唯、青空という美にうっとりとし、揺蕩うばかりなのだった。その風景へわたしの伸ばしされたうでは垢と汚物によごれていた。男がとくべつ醜く暴力的なのではなく、わたしを蔽いわたしへ食い入る世界という景色がぞっとするほどに醜いのだと思った。そこへ被さる青空とはなんて共感性のない無垢な王子なのだろうと夢想し、わたしはなんだかわらえてきたのだった。
 わたしはゆびさきを青空へ指して暫しスマホを操るように彷徨わせた、わたしはこの無為のうごきを、こころから歓んだ。無為な歓びというのはどこか素直で可憐な感じがした。わたしは青空が美しいから生きようとかんがえ、その論理性の不在に微笑した。
 バンドマンにラインをし、のちにかれをブロックする。
 文面はこれ。

  女は海じゃないし、男は太陽じゃない
  あなたの永遠は永遠じゃない
  わたしは、海を燦爛と照りかえす破片
  永遠から剥がれて、また侍る宿命にある破片
  それは流れるままに揺蕩ってもいいけれど、
  わたしは、それを原っぱへ落してみせるよ
  さようなら
  アメリカン・スピリット、
動物園みたいな匂いしてキライじゃなかった

女を海とよぶな

女を海とよぶな

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-12-16

Copyrighted
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