犬のあの世
キッチンで朝食をすませ居間に行くと、窓ガラス越しに白い犬が家の前の道を歩いてきた。見ていると立ち止まり、こちらを見る。半月ほど前から毎日のことである。
はじめに犬を認めたのは、新聞に目を通しているとき、猫のふーっ、うーーーと怒った声が外から聞こえ、窓を目に向けたときだ。
塀は石の基礎の上に鉄の格子が取り付けてあるもので、道を通る人が庭木の隙間からちらちら見える。そのとき窓から見えたのは、鉄の格子の上に座っていた猫が道路を見下げており、その先に白い犬がいて、猫ではなく窓を通して僕のほうを見ていた。
犬は猫など気にしている様子がまったくない。僕が犬を見ると犬はくるりと向きを変え、すたすたと大通りの方に行ってしまった。犬は家の中の何を見ていたのだろう。
そのときはそれでおしまいだったのだが、次の日も、朝、居間でテレビニュースを見ていると、窓から僕を見ている白い犬に気がついた。たちどまってつぶらな黒い目でこちらを見ている。僕が見るとすぐに大通りの方に歩いていってしまう。
その日はテレビのニュースでかなり大きな地震が外国で起きたことを報道しており、それに見いっていて、ふと窓を見ると、犬がずーっと僕の方を向いていることにきがついた。だが、僕と目が合うと犬は歩きだして行ったしまった。目が合うまで窓からのぞいているようだ。
近頃は野良犬などまずいない。あの犬ははぐれ犬で自分の家を探しているのかもしれない。とすれば保護してやらないとかわいそうである。
日曜日、いつもより遅く起きて、居間にいったのもかなり遅いのに、窓を見ると、犬が僕を見ていた。僕がおきるまで一時間以上そこにいた可能性がある。
急いで玄関からでて、門の扉を開けると、白い犬はまだそこにいた。
犬に向かって、おいで、と言うと、尾をちぎれんばかりにふって、門のほうにやってきた。ミルクをやろうと思い、門と玄関を開けたままにして、キッチンに牛乳をとりにいき、ボウルをもって玄関にもどった。
外を見ると犬はもういなかった。
腹が減っているわけではなさそうだ。門と玄関を閉め家に入った。
飼い主が犬を放し、勝手に散歩をさせているのかもしれないと思いながら、ニュースを見るために居間に戻った。
居間の戸をあけるとびっくりした。絨毯の上に白い犬が座っている。
その前で、つけた覚えのないテレビがニュースを流している。
「どうやってはいったんだい」と声をかけると、犬が一瞬振り向いた。だがすぐにテレビの方を向いて、ニュースをくいいるようにみつめている。
テレビではペルーのアンデス山脈で大きな地震があったことを報道していて、原因は大きな隕石が山の中に落ちたためだと言っていた。
僕はソファーにこしかけた。隕石で地震がおきるとは珍しい。
犬にミルク飲むかいと声をかけたら、犬は首を横に振って立ち上がり、じゅうたんの上に二本足で立った。
あっと、声を上げてしまった。二本足で立ったからではない。前にたらした二本の前足の先がない。後ろ足の先もなく、宙に浮いている。四肢の先がなかった。
犬が空中を歩いて僕の腰掛けている椅子の近くに寄ってきて僕を見つめた。
そして、「あれが俺を迎えにきたんだ」、と言った。
僕は犬がしゃべったことに気づかず、
「あれってなに」と聞き返した。
犬は先のない片手をあげるとテレビを差した。
テレビの画面ではペルーのアンデス山脈に落ちた隕石の巨大な孔を映し出している。
「迎えに来た船が落ちてしまった」
犬はそう言った。
どういう意味だろう。
「大昔、まだほ乳類が出現していない恐竜時代に地球に不時着した。それは大きな船で、数千人の小学生を乗せていた自然科学観察観光船だった。宇宙の中で一番大きな生き物が生じた時期の地球は、子どもたちが観察するのに適していた。ところが減速に失敗して地球に激突した。
地球では大昔、大きな隕石が落ちて気候変動が生じて寒くなったので大恐竜が絶滅したと説明しているが、本当のところは我々の宇宙船が大破して、有害な放射線を撒いたのだ。一瞬だったのだが恐竜たちにはすごい毒だった。我々小学生もほとんど死んだ。それでも数十人は生きていた。
我々に寿命がない。生き残っていたのは我々男子生徒しかおらず、地球の植物や茸、それに昆虫類を食べて生きていた。
やがてほ乳類が出てきて、性的に熟していた我々は、地球のほ乳類と交わった。そこで生まれたほ乳類の脳に格段の進化が生じて、最後には人間になったのだ。
あんたの遺伝子の半分はわれわれの遺伝子だ」
白い犬がこんなことを言った。
アンデスに落ちた隕石のニュースを食い入るように見ている。
犬がふりむいた。
「我々の星では我々が地球で生きていることを最近知ったのだ。それで宇宙船をよこした。我々は世界に散らばっていたのだが、すべて日本に集まっている。
あの宇宙船は富士山に降りる予定だった。ところがアンデスにおちてしまった」
いくら寿命がないといっても、何億年も生きることできないはず。犬のいっていることは時間があわない。それに、そんなに大昔に宇宙船で地球に来たのなら、おいそれと墜落するような宇宙船を作るはずがない。
「おかしいじゃないか」
とうとう僕は犬に向かってそう言ってしまったのだ。すると、白い犬の顔が笑ったように見えた。そしてこう言った。
「いや、うそですよ、ほんとは、あんたの車で轢かれたんだ」
「俺の車で轢かれたなんて、犬なんて轢いてない」
「ガレージにある車が俺をひいた車に似ている」
「いつのことだ」
「一週間前の日曜日で」
「俺は日曜日に車を動かしていない」
「おや、そうでしたか、そりゃすいません、幽霊になったら、足の先は消えまして、人間と同じなのですが、犬のもっとも優秀な鼻の中もトンネルになっちまって」
おやおや、毎日来ていた白い犬は幽霊だったのか。
犬の幽霊が鼻を近づけてきた。
鼻の中をのぞくとがらんどうだ。
「それで、鼻が利きませんでな、目だけを頼りに、ひき逃げを探したらお宅の自動車を見つけまして、どんなやつが俺を轢いたのかと思ってかよっていたわけで、違ったとはすんません」
「それはそうと、どうして宇宙からきたなんていったんだ」
「はあ、主人がSFの物書きでして、空想癖がうつったんでしょう」
「家は近いのか」
「いえ、人間が歩いて三十分ほどで」
「電話番号は知ってるか」
教えてもらった電話番号を携帯にいれると男の人がでた。
「そちらに、白い犬を飼っていらっしゃいますか」
そうきくと、
「はい、だけど、轢き逃げにあいまして、犯人もつかまったんですが」
「そうでしたか」
「ひき逃げ探しのポスターを張りましたので、ひき逃げの車を見た人ですか」
「いえ違いますが、でもつかまったのならよかったです」
「ありがとうございました」
電話を切った。
「ひき逃げが捕まったそうだよ」
「そうですか、そりゃあ、知りませんでした、俺は轢かれたらすぐに宙に迷い、すんでいた主人の家には行かず、こうして街中を歩き回っていたんです」
「なぜ、主人のところに現れなかったんだ」
「へえ、SFを書いているのは夜でして、昼間は寝ていらっしゃる、寝ているのを邪魔したくない」
「幽霊は夜出るものだ、都合がよいじゃないか」
「いや、売れない作家だから、邪魔しちゃ悪いと思っておりました、それに、鼻がきかなくなって、目が頼りなので、昼間の犯人探しの方がやりやすかったんで」
「そんなもんか」
「だけれど、これであの世にいけます」
「犬のあの世って、どういうとこだい」
「人間のいない、犬だけの世界で、奴隷解放されますんで」
はて、ここでなんと言おう、犬や猫や動物たちは大好きなので、かわいがっているつもりなんだが。奴隷とは。
幽霊の犬は人の思っていることが読めるようだ。
「へえ、存じてます、かわいがるっていうのはありがたいのですが、お手、とか、おあずけ、とか服従させられておりまして、それが犬の甲斐性だから仕方がないのですが、それがなくなるのは気持ちのよいもので、あの世では、チワワもグレートデンも、秋田犬も狆もみな自由に暮らしております」
「そんなもんか、人っていうのは犬のみなさんには悪いことをしてるな」
「いえいえ、それが地球に生まれた生き物だからしかたないのです、それで、宇宙を作った、と言うか生命を作り出した地球の無生物である「神」というものが、命がなくなってから自由に暮らせるよう、それぞれの動物たちにあの世を作ってくれたわけです」
「そうなのか、それで、宇宙を作った神ってどこにいるんだ」
「ほれ、おたくさまのすぐ後ろにある穴の中ですよ」
振り向いてみた。
テレビのブラウン管が真っ黒になって星のような光の点をすいこんでいる。
「ブラックホールか」
「いや違うんです、ブラックホールは宇宙のはてにあるもの、神というのは「歪み」に住んでいるのです、宇宙の外にいるのです」
「宇宙の外ってなんだい」
「宇宙です」
「なんだい、また宇宙ってのは、いれこになっているのかい」
「無限です」
「では歪みはどこにあるんだい」
「目の前です」
家の柱の一本がゆがんでいる。
「それじゃ、歪みはどこにでもあるじゃないか」
「へい、神もいたるところにおりまして」
そういわれると日本では何でも神だ。
「我々のいる宇宙と、神の歪みはわかったが、あの世はどこだい」
「われわれの宇宙を入れている宇宙の間、隙間があの世です」
「我々の住んでいる宇宙はあの世に囲まれているわけか」
「はい、それぞれのあの世に行った死んだ生命は、その外側の宇宙にもどって生き返り、また犬も人も一緒になって生活し、一生を終えると、その外側の宇宙の間のあの世に行って暮らします」
「あの世に行った後に、その外側の宇宙に行ったら、犬はまた人に飼われるのじゃつまらないね」
「いえいえ、その宇宙ではどうなっているか分からない、犬が人間にお手しなさいって言っているかもしれませんからね」
「なるほど、宇宙は入れ子になっていて、生き物の輪廻の仕組みをつくりだしているわけか」
「そうですよ、要するに生き物には死がない、三つ先にかぶさっている宇宙では、お宅さんがアメリカの大統領かもしれない、マリリンモンローが奥さんかもしれない」
「そういう世界なら行ってみたいものだな、会社じゃあ部長に怒られてばっかりだ」
「一緒にいってみますかい」
「そうだな」
「それじゃいこう」
足の先がない犬が、居間を出て玄関にむかった。僕はついて行った。
犬と一緒に玄関をでると夜になっていた。星空が一面に広がっている。こんなに星があるものなのだ。人間は光を発明した。それにより星の数を減らしたどころか、なくしてしまったようだ。回りを見ると、星空の下に明かりが消えて真っ黒な建物がぎっしり建っていた。
白い犬の幽霊は尾っぽをふって空中に飛び出した、どうしたらいいのかと、まごまごしていたら、体が浮いて犬の後を追いかけた。
星の中を漂って動いていたと思ったら目にまぶしい輝きがはいってきた。
太陽だ。その脇を抜けると太陽系の外だ。そから宇宙の縁に向かって猛スピードで動いていった。
犬がふりかえった。
「ほら、あれがブラックホールだ、吸い込まれないように気をつけな」
しばらく行くと、青い光の筋がどこまでも伸びているのが見えてきた。
「あの筋が歪みだよ、あそこに神がいて、歩いていくと、行き着いたところがあの世で、扉を開けてくれる」
「おれは死んでいるから、ただ歩いていけば犬のあの世に行きつくことができる、だけどあんたは、生きているんだから人のあの世に行くことができるのかな」
「それじゃどうしよう」
「おれも初めてのことでわからないが、光の筋に神がいたら聞いたらいい」
青い光の筋のはじまりに来た犬と俺はそこで浮遊した。
「犬のあの世にはいったら、もうでてこれないから一緒に探してあげられない、神がいたら早いところ聞いたほうがいいね」
犬は光の筋の上にのった。回りに見えていた星が消え、青い光の筋の上を歩くことになった。トンネルの中の光る道の上を歩いている気分だ。
しばらく歩くと、真っ暗闇に、光の点点のある黒な大きな玉が浮いているのが見えた。その回りに色々な色の玉がくっついている。
「ほら、茶色いのが犬のあの世だ、俺はそこにはいるよ、後は自分でさがしてもらっていいかい」
「ヒトのあの世を探すよ、何色なんだろう」
「死んだときに閻魔様に教わったんだ、茶色だからねとね、あんたは死んでいないし、玉をのきながら人間のあの世を探しなよ、間違ってもこの茶色の犬の玉にはいったらいけないよ」
「うん、気をつけるよ」
茶色の玉が近づくと、犬の幽霊は光の筋から飛び降りた。そのまま茶色いあの世の玉に吸い込まれていった。縁まで行ってのぞくと、どこまでも平らな土地がひろがっていて、犬たちが犬小屋にすんでいるのが見えた。
茶色の玉から離れると光の筋を歩いた。色々な色の玉の脇を通り過ぎた。生き物の種類の数だけあるようだ。
ヒトのあの世に出会わない。何色なのだろうか。赤だろうか、白だろうか。
死んでいないのに、食べ物もほしくならないし、空気もいらないのだが、疲れだけはやってくるようだ。
どのくらい、光の筋、歪みの上をあるいただろう。歪みには神がすんでいるはずじゃないか。神に会えばどこにヒトのあの世があるか教えてもらえるはずなのだが。それにしても神というのはどんな形をしているのだ。透明だったらすでにすれ違っているのかもしれない。透明じゃ聞くことができないじゃなな。
そろそろあの世の玉に降りて休みたい。
もう一度、宇宙の歪みにはいったところに戻ろう、そこであきらめて地球に帰るのもいいかもしれない。そう思って青い光の筋の上を引き返すことにした。
ふたたび茶色の玉が見えてきた。犬のあの世だ。ちょっとのぞいて、あの白い犬の様子でもみてみるか。立ち止まって、茶色の玉の縁から中を覗いた。
お、いた、何だ、幽霊の白い犬は犬小屋で白い雌犬と一緒に住んでいるじゃないか。
あの世でもう彼女をつくったのか、幸せそうじゃないか。
おや、雌はおなかが大きそうだ。もうすぐ子どもが生まれそうだ。
「誰だ、のぞいているのは」
白い犬の声が聞こえた。
驚いた俺は茶色の玉におっこちた。
犬のあの世にはいってしまったんだ。
どうなるんだ、と思って、つぶっていた目を開けると、白い犬が目の前にいた。
「どうして、犬のあの世にやってきたんだ」
「人間のあの世が探せなかった」
「俺たちのあの世にはいるなと言っただろ」
「わざとじゃないんだ、おっこちたんだ」
「おまえの足を見て見ろ」
俺の足がない。幽霊じゃないか。
「そうだよ、ここでは幽霊になるしかないんだ」
「ぬけだせないのだろうか」
「閻魔さんは宇宙のなかにいるからあの世にはこない」
「あんた、子どもが六匹生まれたよ」
犬小屋の中で犬の奥さんが呼んだ。
「今いく」
白い犬が犬小屋には行ったので俺もついていった。
雌の犬が子どもをなめている。顔を上げると言った。
「子守をつれてきたのかい」
「そういうわけじゃないが、きっとそうなるだろう」
白い犬は訳の分からない言い方をした。
彼は振り向いて、
「犬のあの世じゃ、人間は召使いなんだ、地球のある宇宙とは違うんだよ、だから、くるなといったじゃないか」
それからずーっと犬のあの世で、子犬の世話をしている。あの世では死ぬことがない。いつまでもいつまでも犬の召使いをしているのである。
白い幽霊犬の夫婦は子供を産むこと産むこと、毎年何匹も生まれる。
丁寧に一匹一匹育ててやっている。とても感謝されて、時々お母さん犬のおっぱいを吸わせてもらっている。お乳の褒美があることはとても幸せだと、回りも自分も思ってただ存在しているのである。
彼らはいずれ違う宇宙にいくことになるという。
だが、本当に死んでいない僕はどこに行くことができるのだろう。
元に戻るにはどうしたらいいのだろう。宇宙の迷子である。
死ぬとうことはとてもありがたいことなのである。
犬のあの世