自卑と純潔

  1
 津田はけだし暗みをうろつくやつれた叙情詩人であったが、その精神という肉体器官は、残忍なデカダンを生活するにはまるで向いていなかったのだった。
 元より甘さの残りすぎるナイーヴな美貌を所有していたかれだけれども、強行された鉛を轢くが如くの頽廃生活によってその容貌へ刻まれたものは、けっして勇壮な戦士の面構えではないのだった、不幸な境遇に抵抗をせず曳かれたままに過ちをおかした犯罪者めく、いたましく悲痛で惨たらしい男の残忍な顔付がそれなのだった。
 津田は小説家であった、不幸に佇み幸福を拒むことを自恃とする幼稚性を感じさせる作品を書き綴り、その作風は屡々暗い緑と翳りに照る橙の彩られた甘ったるい感傷に傾いて、俗悪な薫の濃ゆい過剰に美しい文体を穿つように花咲かせた。かれはけだし世俗へ反抗の刃物を投げつけることを宿命とする呪われた種族であったが、その刃に金属の鋭利な切先なぞありはしない。柔い、淋しいほどに肉感の籠る悲願が、その悉くであるのだった。
 かれは妻のほかに数人の愛人を所有ち、バアで引掻けるように誘った女性とゆきずりの一夜を過ごすことも屡々、亦、娼婦ともよく遊んだ。ひとのいたみを感じられない残虐なエゴイストとも評され、欲望を肯定した作品と矛盾しない情痴作家と罵られ、唯、かれの作品を愛読するうら若き読者のみが、その行為ののちの自卑をかれの純潔の証と読んだ。けだしそれはかれによく似て呪われた愛読者たちへ与えて了ったある種の慈悲であったのだが、その解釈をだれよりも軽蔑したのはほかならぬ津田であった、生活に爛れ失いかけている甘い美貌を、それへの冷笑により歪めるように唇をめくりあげたのも亦かれであった。
 きょうは愛人との逢引であった。津田はその女のことをむろん愛してやいない、性欲だってたいしてもてあましているわけでもない。遊ぶ。そのほかに、なにも、ありやしない。
  遊びは、地獄の生の気晴らしなぞではない。
  生の地獄をより神経に打たすための、自虐的な生活方法である。
 かれは先日出版し酷評と賛美を受けた短編に斯く狂おしい叫びを穿ったが、かれの本音を汲む批評家は皆無であった。
 うるわしい長身痩躯に、崩れて粋な洋服を纏い街をあるく、そのあしどりは如何にも後ろめたげ、一挙一動の醸すふんいきが魂の華奢なよわよわしさを連想させ、伏し目になりがちな視線は弱気な印象で地をうろうろと彷徨う。
 或るアパートメントに入り、インターホンを押す。素気ない色香の女の声が幾分の期待に潤ませて返事をし、扉がひらいて中に入る。自卑。嗚、自卑。俺はなにをやっているんだという冷たい感慨が、優越と歓びの気持に彩られた甘ったるい苦痛が、かれの淋しく澄んだ眸を鴉の翼の影が去来するように赫う。
 女は、部屋のドアの傍で俟っていたのだった。
 そののち、男と女はそれ程に時も経ず、傷負った躰が野原にくずおれるような陰惨さで、情事へと落ち窪んでいったのだった。
 …
「先生はわたしを愛してくれている?」
「愛しているよ」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃないさ」
「嘘でもいいの、わたしが先生を愛している気持を、わたしだけは信じているんだから」
 嘲笑。かれは自分と遊ぶ女の悉くを、軽蔑している。我と遊ぶような軽薄な女たちを。或いは、女のなかの「女」というものを。津田は、そんな男であった。
 …
 家に帰り、妻と病弱なわが子は眠っており、我に大切にされないふたりを憐み、滝が湧くような自責がこみあげ、嗚咽を抑えてそろりそろりと書斎へ行って、ごめん、ごめんと呻きつづけた。ベッドに横たわり、乾ききった涙がとめどなく流れ、わが選択によりわが生を台無しにしているわが身への憐憫・切なさに胸は絞めつけられ、声をころし、ふと、枕許に置いてあったわが作品を人生の問題として愛読してくれる少女の手紙を読み、「わたしは死にたいのです」の短い文字に視線を泳がせ、やりきれねえ、やりきれねえ、と、ふるえる声で病人のように呟きつづけていた。

  *

 かれの本性は家庭人であった、自己に閉ざされ舐めるように尖った舌先の視線でおのれを注視させる病的な内気さともいうべく不幸な肉体器官を生れもった人間であったけれども、しかし良心をもち、怯えながらひとを思い遣り、他者を傷つけることに傷つき、他者のいたみを同等かそれ以上に受け、つまりは芸術家として最低劣の弱さと不才をもった、憐れきわまる平凡人が、小説家・津田理であったのだった。

  2
  津田理の手記より

 慈悲。俺は、そいつを拒絶する。
 自卑だ。俺は俺の身にこの世でもっとも卑俗な感情、自卑をのみ、赦す。甲斐なき地獄ののたうちの幾夜を耐えてきたことが、わが自恃のぜんぶである。救いなぞを欲する作家に、読者への救いを与えることはできぬ。
 神よ。我に自卑を与え給え。
 俺には、俺の愚作なぞを読み耽る読者が、憐れであわれでたまらない。たすけてあげたい。たすけてあげたいという俺の意欲が、気味わるくて気味わるくて吐きそうだ。

 芸術は、時代性を宿り背負った人性の孕む、”永遠性”への奉仕である。
 ファンに奉仕するような芸術なぞは、ない。それは、唯、罪である。俺の愚作の数々、オモチャがそれにほかならぬ。

 学校新聞の端に書かれ、気休めとしずかな笑いを与える四コマ漫画が、俺の小説である。そこには、かなしい無償の商品性をしか発見されないが、しかしそれ、自己の穴を埋めるサーヴィスというしかあるまい。

 優しくなってみたかった。

  *

 悪友がいた。安芸山という不良作家であった。ともすれば不良とよばれる人種は古今東西をとわず、おおくの場合周囲への迷惑への鈍感さを所有する様に作者には訝られる。先ずもってこの気質が路上喫煙等や破天荒な行為をしえるある種の勇気を出発点として説明しかねず、それに信念と格闘がともなえばクールにもみえることがあり、亦そういった悪人性というものは外界への勇気ある決断と外界を破壊し再構築する力づよさへすら促すことがある。善人も悪人もけっきょくのところどっちもどっち、好悪つけがたいというほかはない様に作者には想われ、けだし津田理という人間は、悪に踏み込めない弱き善人がその本性であったのではないか。むりに不良を装い皮膚をひっぱり引き千切るように肉を酷使させていたのが津田の生き方であって、翻って安芸山というこの男、そんな鶴の如きナイーヴな優美さなぞ持ち合わせていやしない。
「地獄に堕ちろよ」
 と、安芸山という男は津田を苦痛へそそのかす。冷酷で、残忍で、虚空を孕む隆々とした巨体を乾いた笑いに膨らますような男。津田も亦長身であったが、ほっそりとした優美な躰つきの傍らに安芸山がいると、肩をちぢこませているようで如何にも弱気な印象だ。
「地獄で書くんだ。其処で花を摘んで来い」
「桃の花はあるかしら」
「血の匂いの濃い、どぎつい真赤な肉のような花はあるさ」
「妖婦のような?」
「妖婦のような」
「どぎつい真紅を肉ともども投げだすような女はいるのかね」
「判らない。ただ、俺はいるという推測に賭け、肉を千切っては仮の月へ投げているんだ」
「千切っては投げ、千切っては投げ」
「そうだ」
 そういって、バーボンのきつい薫のする口臭を津田へ吐く。
「つまるところ鬼だ。文学者とは、鬼でなければならぬ」
 安芸山の眼は、冷たい。ジロリと一瞥するときの冷然さは、恰もひとをぞっとさせるようだ。それが海や空に向けられたとき、かれのまなざしは何故かしら透明になる。孤独をすら清ませるように、澄み切る。その時、ふしぎにひとはかれに優しさを見て了うことがある。
「金がないね、津田くん、貸してくれたまえ。飲み屋を訪れよう」
「ひとに金を借りて、その金でいっしょに女と遊ぶひとがいるかね」

  *

 真夜中はバアの女とホテルにいた、その朝はけだるく、知らない女の寝顔に嫌悪を感じた。
 起きぬけにコーヒーを二杯淹れ、机に置いて飲みながら女が起きるのを待つ。砂糖を二つそばに置き、自分のカップには三ついれている。
「あなた、小説家なんでしょう」
 いつのまにか女は起き上っており、”わたし見抜いていたのよ”とでもいいたげに機嫌よさげな表情でいう。
「ああ、そうだ。よくわかったね」
「わかるわ、津田理先生の写真は拝見したことがある。ねえ、わたしのことを小説に書いて。名作に残ってみたい」
「書くさ、書くさ。美しいロマンスにしよう」
 けらけらと笑いだす、あっけらかんとした素直な女。こういうところは、かれには好くうつった。
「そんな柄じゃないわ、わたし。愛人役でいいわよ。遊び人で、軽薄で、だらしなくて、セクシーな愛人」
「君はそんなひとじゃないよ」
「あら、なんでわかるの?」
「丁寧で、ぼくを大切にする様にセックスをするから」
「何いってるの? 先生」
 センセイ。かれは、この言葉を投げられることを、憎んでなどいない。怖れている。自分がだれかになにかを教えるかもしれないという不安に、情緒が波うつ。
「君のうすかわさながらの軽薄さを剥ぎとってあげるよ。ネイルアートのように丁寧にコーティングされた偽りのだらしなさを指で剥いて、真赤で綺麗な君の本性すら抱いてあげよう。ひとはその領域をケダモノというのかもしれないが、しかし、ここを抱かないで、どうやって女を愛しえるだろう」
「変わったことをいうのね。それでどぎまぎするのなんて、わたしくらいよ」
 かれは、女のしろいてくびをつかんだ。やさしく、辷るように。指をいとおしげに絡ませ、しゃなりと音を立てるように、幽かに、ひそやかにすする様に、乾いた指をうごかし合う。首筋へ幾分紅すぎる唇を沿うように重ね、ぽつりと、或ることを低いこえで囁いた。
 うえへ昇るうごきで、ようよう摺り落ちて往ったわが身が、ついに詩の血を塗った爪の割れ下方へ堕ちた音楽を聴いた。それはふしぎに陽気で、駆けるようであった。
 貞節の、破棄。
 その音であった。

  *

 死ぬ気で恋愛しないか、と、かれはいったのだった。
 かれは誠実にも、それを果した。

  4
 自卑と、純潔。
 自卑というものは純潔の為す心のうごきではなく、純潔の証明でもなく、飽くまでわが身の純潔への確認作業であるといえる。が、作者の考えに過ぎないけれども、実際のところ、そんなものありはしないだろう。自卑というのは、疵の疼くかゆみへの愛撫である。亦それと似たものが、性的嗜好とは傷への愛撫であるという言説ではないだろうか。これ等は恰も、肉まで千切れば真紅の湧く様だ。
 真紅をさらす恋とは、最期の豪奢なる爪のひと裂き、いわく死であるのかもしれぬ。恋愛のきわみは、死であるのかもしれぬ。これは夢想であるが、その夢想とはもしや、人のサガに孕む悲痛なそれではないか?
 愛は己を千切るものでなく、なにもかもを剥ぎとった我を、外へ全的に投げだすものであるかもしれぬ。判らない。永遠に。
 自卑とは、愛へ促す注意ぶかき方法ではない。
 自卑は純潔の証であるか──否。
 愛を促す自責は、おのれを卑しめたりなぞはせぬ。憐れむことでもない。同情である筈もない。信じることである。だが、おのれを信じた人間が、津田の如き陰惨な人間研究を報告した負の小説を書ける筈もない。

自卑と純潔

自卑と純潔

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-12-11

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