アネモネの公理

友人に捧ぐ

 石川公理(こうり)一片(ひとひら)の十七歳だった、第二次世界大戦下を十七歳として生きていたうら若きひとびと、その一人がかれであると云えるのであった。
 一人の生は当人にとり重大なそれである、しかしこの時代において、かれはあまたに在る十七歳の日本男児、常にそれとして何か巨大なものから取り扱われる宿命にあらざるをえなかった。一人の死は悲劇であるけれども、数千人の死は統計である、然り、そういうものだ。
 作者は、この不断のふるえに病める曖昧なゆびさきで、この時代を生きたかずかずの若き兵士のなかでかれだけをえらびとろう、と云うのも、作者にとり石川と云う名はけだし特別なひとの素敵さを投影させた無明の名なのであり、果ては海に睡り溶けるように秘められた純粋な水としての化学物質へ変容した──これは、なによりも清む暗みが夜空に熔けて視えなくなって了うのと、おなじ宿命を云い、亦、そういった想念はかれのようなひとへの夢想者の愛着が強すぎるが故の、誇大な夢想にすぎないであろう──かれの名を呼び起こそうとするのが、この一小説の試みなのだから。
 かれの名前を呼んで。かれ固有の特別性を、追憶から手繰り寄せるように。

  *

 日に日に戦争に熱狂して往くひとびとの集団性の火のなかで、かれはわが身を水中に屹立する孤絶の崖の様に想うことがあった。けだしかれの石膏さながらのざらついたしろい粉薬状の肌は、社会と隔絶された険しき断絶性として実在する、厳しい崖の様な冷然な美をたたえていた、されどかれはかのような自画像への関心からはなかば距離を置いていた、一種戦争に熱狂する不可解な社会とも距離を置いた、それはかれのかれらしい態度だった。ある種身の程を弁えすぎた、注意ぶかく思慮のふかい優しい人間のやりがちなそれだった。
 水晶がさながらに透徹し、いまにも霧消して往く刹那に燦る、ある固有の風景を連想させる綺麗な顔をしていた、されど石川はわが美貌へ関心すら示さないのだった、美と云う優越性、美醜と云う権力構造に対し、ある種無辜の想念を──弓になるラディカリズムも持ちえず、亦アンチテーゼとしての弓を所有することにも関心はなく──所有していたのだった。かれは自らの内側に在るかれに愛好される領域を守護すると云う貞節をもち──作者は其処に睡るなによりも透徹した論理世界、水晶の精緻な骨組の様な、恰も有機性を撥ねかえす様に他人行儀な冷然硬質の美に憧れがある、なぜと云い、かれは美しいものを美しいと感じる心が綺麗だったのだから──そこに一線を引いた。たくさんのひとに好かれる誠実な人柄だったから、微笑しながら他者とお話はよくしていたけれども、一種外界と云うものと明瞭に距離を置いていたから、その淋しさの青い火が熔けることはなかった。生きているだけで悪を為して了う、そんなひとが生きると云うことに伴う宿命と、どうしてもかれは妥協的な調停を結びえなかった。これはやはりかれの重たいinnocenceが問題だったのかもしれない。かれは殆ど妄想で娯ばなかったが、かれのかれらしい夢想は、”ぼくが生れてこなかったら”、と云うはや不可能な希いに基づいていたのだった、畢竟、作者のこの小説はかれのそれを阻む意地のわるいそれだ。石川は忘れられたがっている、生れてこなかったことになりたがっている、そんなことは作者には最早承知なのである。
 夢をみる際のかれの瞳はいつも綺麗だった、意地のわるい暗鬱さとも云うべくなにものも撥ねつづけたその(つよ)い光は、青玻璃のそれの様に澄んでいて、硬く、冷たく、もしそれが空へ昇ったのなら、あんまりな透明さのせいで空の青に侍らせられて了う様な、云うなれば実在感の乏しさを淋しく印象させたのだった。
 かれは徴兵されていたが、戦場へ行ったら、誰一人殺さずに突っ立って死ぬのを俟とうとかんがえていたのだった。これはかれの貞節の理念、云わば石川固有の公理の様な概念から導き出された、かれにとり当然の選択であったのだった。それがかれの倫理、そうとも云えた。石川はそれを誰にも云わなかったし、それを云わない自己の選択肢・意志に一種攻撃的な自尊心すらもちえなかった。はらはらと砂の様に、躰から生きるために必要ななにかが毀れて往く様な心地のなかで、時々、かれは数学へのうら若き夢を挫折せざるをえなかったことを想起したのだった。なぜと云い、戦場で戦うことを拒む人間が戦後生き残る可能性なんて、殆ど無いにひとしいのだから。かれからは夢や欲心が粉状で剥がれて往った、生きたいという気持が石膏から粉が落ちる様に剥かれ砕けて往った。
 かれのphysicalには無個性きわまる他者へのやさしさと、かれ固有の公理だけが硬く残った。
 一度馬に轢かれそうな野良猫を助けるため、無心で躰をうごかしたことがある。馬車は過ぎゆき、走り去る猫、ころげたわが身をみいだして、”ぼくはなにをしようとしたんだろう”と訝った。これは貞節の守護への意志によるうごきではなかった。ことごとく自尊心のすり減り、意志のつよさが報われないかたちで報われ抜いた結果にひとがやりかねない、曰く、一条に屹立して了ったほそく硬い神経のせいであった。

  *

 かれはひとの期待に応えて了うよわさがあったから、周囲から押し迫る柔らかい牢獄めいたatmosphereに折れて了い、特攻隊へ志願した。
 はい、とよろりと腕を挙げるかれの眼差はとてもではないがひとを殺せる人間のそれには見えなかったけれども、周囲の若き兵士たちは、自分が行きたくないと云う気持のために友達へ盛大な拍手をした。かれはそれへ風刺的な見方をしなかった、そんな風に人間を見ることができなかった、それがかれの弱さだった。そう云った、優位に立ち劣位を嗤いたいと云う生物的な闘争心に、甚だ乏しいところがあった。これはかれの神経と、生れもったphysicalの気質に起因していたのかもしれない。かれは悲観的に世界や人間を嘆いていたけれども、いつもいつも、自己のいたみだけが置いてきぼりなところがあった。
 喝采の中、涼しい目元を柔らかく細め、淋しい笑みを浮かべる、さながらに楚々たるましろきアネモネが、かよわき風にふわりと揺られるよう。
「石川の体格だと、陸軍や海軍は厳しいからな」
 と、指導者が云う。周囲が笑う。石川は眉を下げて機械の様に笑う、どことなく苦しげに。
 そんな風に笑うな。
 否、かれの様な素敵なひとに、そんな風に笑わせることをするな。
 作者にはそんな笑顔が、いつも、くるしかった。と云うのも最早、それは条件反射として或るカラクリの様にかれの躰に組み込まれて了ったのだから。恰も神経を裂く様な、悲痛にして鋭利な痛みに伴って。笑いたくないものを笑わなければいけないことを強いるatmosphereは、かれには淋しかった。作者にとりそれは怒りを齎すものだった、そして、かれにはそれが淋しかった。それがわれわれのおおきな違いだった。
「アメリカをぶっ放してやれ」
 眉を下げて苦しげな顔で笑い、毅然とした声で「はい」と云った。

  *

 かれは既にしてわが貞節から一つの義務を導き出していたのだった、それを誰にも、友にも、両親にも姉にも云わず、徹頭徹尾沈黙を貫いて、やり切る決意をし、実行し切った。

  *

 石川、おまえは、人-性と照合させれば、もしやすると、一等誤りの少ない選択をしつづけていた。
 石川。
 石川。
 石川。
 おまえは淋しくなる程に綺麗だった。瑕負うを佳としつづけた故の清楚があった。おまえはけっして強くはなかった、だけれども、誰よりも勁かった。

  *

 石川は過酷な訓練を経て、特攻隊として出撃した。
 敵船に落下する刹那不自然に軌道を変え、当然の様に独りで海へ落ちて往った。
 落ちる際、無線から響く言葉は「天皇陛下万歳」などではなかった、そんなことを雄叫びする気は、さらさらなかった。かれにも亦、硬質な、勁(やさ)しさの強すぎるが故の、むしろ誰よりも強靭な反骨精神があった。「お母さん」、そうですらなかった。エンジン音と飛沫の音とともに、すべてが掻き消えただけだった。

アネモネの公理

アネモネの公理

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-12-11

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