いつもの時間
いつもの時間
目覚ましは、六時五十分に鳴る。
健二は反射的にスヌーズボタンを押し、天井を見つめたまま息を吐いた。白い天井には、小さなシミがいくつも浮いている。数える気力も、もうなかった。
スーツに袖を通す。ネクタイを結ぶ手つきは、昨日と同じ、いや、何年も前からずっと同じだ。
妻は台所にいた。
「いってらっしゃい。コーヒー、淹れてあるよ」
「……ありがとう」
会社を“辞めさせられた”のは、ちょうど二週間前だった。
業績不振による人員整理。書類にはそう書いてあった。だが実際には、ミスを重ねた末の静かな追放だったと、健二は分かっていた。
それでも、言えなかった。
玄関で靴を履き、ドアを開ける。外の空気は冷たく、妙に澄んでいる。
電車には、今日も乗らない。
健二は駅のベンチに座り、スマートフォンの画面をただ眺めているふりをした。ニュースアプリを開いては閉じ、意味もなく時計を見る。
九時。十時。十一時。
同じようなサラリーマンたちが、改札を行き交う。自分だけが、透明人間になってしまったような気がした。
昼は、いつもの公園でコンビニのおにぎりを食べる。ベンチの冷たさが背中に染みてくる。
「……俺、何やってるんだろうな」
誰に聞かせるでもなく、健二はつぶやいた。
携帯が震える。
<今日も残業?>
妻からのメッセージだった。
指が止まる。
しばらく画面を見つめてから、彼は短く打った。
<少しだけ>
少しだけ、嘘を重ねる。
夕方、駅前のカフェに入るのが日課になっていた。ブラックコーヒー一杯で、二時間粘る。ガラス越しに、帰宅ラッシュの人波を見つめる。
家に帰る時間を、引き延ばすために。
夜八時。
「おかえり」
「……ただいま」
ネクタイを緩めながら、健二は笑った。会社であった出来事を「創作」しながら、夕飯を食べる。
誰にもバレないように。
誰も傷つかないように。
そう信じていた。
だがある日。
妻は、彼のスーツのポケットから、一枚の紙を見つける。
それは会社の封筒に入った、退職通知書のコピーだった。
健二は、その夜初めて、何も言い訳できなくなった。
「……ごめん」
そう言うと、声が震えた。
妻は、しばらく黙ったあと、静かに言った。
「ひとりで、苦しかったんだね」
その言葉で、健二の中でずっと張り詰めていた何かが、音を立てて崩れた。
泣いた。
声を上げて泣いた。
次の日、目覚ましは鳴らなかった。
でも、朝日は、昨日と同じようにカーテンの隙間から差し込んでいた。
――終わりではなく、新しい始まりのように。
いつもの時間