真空の比喩 54
一般的に、詩を書く人が「詩人」と呼ばれたりするが、書く詩人はもちろん、書かなくても詩人はいるだろう。
書かれる前のものは、誰の中にもあるだろう。書くか書かないかは自分で選べる。
なぜぼくは現状「書く詩人」なのか。
それは、ぼくにとっては書いた方が書かないよりも面白いからだ。
だから、書くべきだろうと思う。
面白いのにも関わらず「書かない」を選択するとしたら、それは抑圧であり、嘘になるだろう。
ぼくは本当を生きたい。ぼくの本当に背いた時、それはぼくの生ではないだろう。
もちろん、書くのが面白くないなら、書くのが義務だったり重荷のようなものだったりになるのだとしたら、書かないべきだろう。書くことが嘘になる。
「フエラムネ」を知っていますか。
中が空洞になっていて、真ん中に穴があいていて、吹くとピーとなるおいしいラムネ。
ぼくはフエラムネがずっと好きだ。おいしくて、なんだか面白い。
フエラムネには「おもちゃばこ」というおまけがついている。その小さな箱の中には、おもちゃがひとつ入っている。色んな色の色んなおもちゃがある。「全○種」というような表記もなく、いつまでたっても見たことのないおもちゃがでてきたりする。無限の可能性…
もちろん、同じものがでてきたりもする。
と言っても、「同じ色」なのになんだか色が違ったりする。
おまけというものは、ないよりもあった方が面白いものだと思う。
はじめの頃フエラムネを買っていた動機はやっぱり、おまけの面白さだった。
でも、いつしかぼくは、おまけがなくたってフエラムネを好きになっていた。
…ちょうど「書くこと」というのが、フエラムネとおまけのようであると、ぼくはふと思った。
ぼくの生がフエラムネで、書くことがおまけ。
フエラムネにはおまけがついている。
「おまけだけ」はない。
ぼくの生に書くことがついている。
「書くことだけ」はない。
フエラムネがないと、おまけもなにもない。
ぼくの生がないと、書くこともなにもない。
いつか、フエラムネにおまけがつかなくなることもあるかもしれない。
でも、もしおまけがつかなくなっても、ぼくはフエラムネが好きだ。
いつか、ぼくは書くことをしなくなるかもしれない。
でも、もし書くことをしなくなっても、ぼくは自分の生が好きだ。
その時ぼくは、「書かない詩人」であるだろう。
真空の比喩 54