真空の比喩 45
世界は世界そのものであるとともに、
世界は自己の投影でもある。
世界は記号でもある。
枯れ木がもの悲しく見える時、
その人は自己を見ている。
枯れ木が意味をもっている時、
その人は記号を見ている。
――その時、その人は映像を見ている。
スクリーンそのものを見ていない。
枯れ木には、一切の意味もない。
世界には、一切の意味もない。
スクリーンには、一切の意味もない。
すべてはただ、実在しているのみだ。
思考は映像ばかりを見る。
まるで映像だけが目に見えているというように。
スクリーンの存在は忘れられる。
<実在の私>と、
<思考の私>が、
分離している。
常に私は、同時に二つを見ている。
目が映像を見ている時、
目はスクリーンをも見ている。
意識しようとしまいと。
――生まれたばかりの赤ちゃんには、世界そのものが見えているんだろう。
原初の私も、世界そのものを見ていたんだろう。
多重露光。
重なってしまうから、どれも鮮明に見えはしない。
私は乱視のまま生きている。
…
そんな日々の中で、「詩」は発生する。
それは、どうやら<思考の私>が薄れている時に起こるようだ。
しかしそれは、あくまで思考の領域に現れる。
そして、詩は<思考の私>によって表される。
言葉は<思考の私>によって選ばれる。
「詩」が現れること、
それは、<思考の私>が<実在の私>へと向かっている、
ひとつの「兆候」ではないか。
そしてそれを捉え留めようとすることこそが、
詩を書く動機ではないか。
「詩を書く」
という行為は、私の『思考から実在への希求』のひとつの形だった。
私による私のための形だった。
純粋に
スクリーンを
世界を見るための。
私が
原初の私そのものへと
立ち返るための。
真空の比喩 45