モノクロームの恩寵/地獄
1
色彩学で云うと、白と黒は色(有彩色)であるとは見做されず、亦、無彩色として双方は同じものであるらしい。それ等は云わば色の不在と云えるのであり、それぞれが光の100%、そして0%を示す。
これは、けだし詩ではないだろうか?
この推察は、宇宙と云う全体の暗みに侍る、我々の眼を背けさせる様な或る悲痛なものを、あくまで詩的推論として示すのかもしれない、と云うのも、”純粋な黒”とはありとある色彩を、堕落した吸血鬼さながらの残酷さで一身に吸ったが故に、完全な暗みを”光の無(不在)”として我々に視覚させ、亦、”純粋な白(真白)”とは悉くの色彩を、天上をみすえる潔癖な少女さながらの拒絶性で撥ねかえしたが故に、完全な光を”暗みの無(不在)”として視覚させるからである。
先ずもって、ぼくはこれ等が同じものであるという色彩学の前提に従い、“白と黒”と云う問題を、”無化”と云う概念を念頭におきながら詩的言語によって語ろうとする、されば、その観念を”上昇”と”下降”という観念と対応させる心算である。されば”『重力と恩寵』と『悪の華』の類似性”という今村純子氏等の知性によっても指摘されている主題を、ぼく固有の詩的言語により、あくまで詩的推論と云う方法で論じてみよう。
2
“純粋な白(真白・ましろ)”とは、”孤独の守護”、くわえて”拒絶の意志”の志向が貫かれ、それ等が透徹し切り享受者の眸に乱反射をまねいた結果である、換言すれば、或る種の悲劇の孕むそれであり、その内包性が一刹那で表面に浮び煌いた際の、もっとも単調素朴にして複雑怪奇に乱れた反射の印象でもある。その結果はおおく美しい印象を与えるけれども、ともすればわれわれの神経に直結して恐怖を与えることがある。美と恐怖の重なる領域──この観念こそがひとの”我”を瞬時に剥ぎ落し、その対象に跪かせるという一種宗教的な命令を与える存在の一つではないかと訝られる。
あらゆる色彩を撥ねかえしたが故に、”暗みの無(不在)”として出現された純潔にして透徹した風景、”ましろ”──時にそれは、美と恐怖が一致した印象をわれわれに与えはしないだろうか? ぼくはこのような”美と恐怖の重なった印象”と冷然硬質な”ましろ”の一致を、殊に基督教思想・基督教芸術のかずかずに多く受ける。ジョットの描いた磔刑図なぞはその一つであり、このようなもの等が与える美的恐怖の感情は、例えば”汚れなき悪戯”という映画にある、少年が神に命を奪われたのちの、肌を粟立たせる様なかのまっしろなシーンも伝えてくれるかもしれない。或いはオスカア・ワイルドの著作、”幸福の王子”に於ける燕の骸、”ナイチンゲールと赤いばら”に於ける恋に殉じた小鳥、そして轢かれて了った赤いばら、それ等の風景が色彩(そのひと固有の個性)を剥奪された際に照りかがやく、ひとの情緒を一種危険な方向へ導く絶世の風景。…
基督教の教えによると、アガペーとは神の愛である。無償の愛とは、神の所有するそれである。それをひとが自らの(人間の)実力だけで発現・行使させられ得るという現代にも時々発見されうる考えは、ぼくには如何にも危うく感じられる。
*
美と善に貫かれた倫理の物語が、一定の”人間らしさ”を超えて了った時、恰も恐怖小説の様な印象を与えることがある。
戦時中、ヤミ米を売る人間を裁いていた或る裁判官は、自らがそれを食していると云うその行為を、”道徳的に悪であるため、してはならない”とついに決定した。むろん当時はそれを食べなければ餓えること必至であるために、かれは栄養失調の躰で仕事をしつづけるも、その果ては餓死であった。
以上の挿話は、実話である。
亦、これが倫理性の物語であるかの判断は要検討であるけれども、校内暴力と家庭内暴力の往復状態にあった学生の姉妹が、双方の腕を紅いリボンで結び、「せーの」の合図で鉄道自殺を果したという実話が昭和にあるというのを読んだことがある(真偽不明、記憶も曖昧)。彼女等は、恰も世界・生を拒絶し、”紅いリボンに結ばれて心中する”と云う、少女趣味的な美的感覚と結びついた孤絶的なロマンティシズムを守護し切った様に想われかねない。これは俗に云う”メリバ”と呼ばれる物語の与える神経作用(おそらくや、わが孤独への自己憐憫が、美しいストーリー、登場人物やその宿命と結びつき、極端な悲劇を享受しカタルシスをえることによって、その自己憐憫の欲する自己愛が満たされる、そんなものであるように訝られる)を、過剰なかたちで与えかねない、怖ろしい物語ではないだろうか。
この二つの挿話が与える色彩の印象は、ぼくにとり”ましろ”である。
薫りで云うと、人間の体臭が欠落しているように想われる、云うなれば金属質で御伽話めいた、ひとを陶然とさせる高価な香水のそれである。まっさらな死と云う観念に祈りとして降りそそがれた、極めて人工的な美の産物へと近づけて開発されたと想像される、コム・デ・ギャルソンの香水の蠱惑である。畢竟、そう云った観念は一面的に云えば”人間らしさ”を超越している印象があるために、どこかfictionの孕む美を連想させる。それは人間によって人間を作為し、美麗に武装させたが故に内に秘めた人間の性質を剥いで往き、肉の外側のみになった美しき神経(肉に食い入り境界線を失った倫理)を、天上の美と綾織らせようと云う、むしろ一種人間的な(有機的な)意欲によって志向された幻想世界であるような想像が、ぼくにある。
ましろ、
ひらがなで、書く
怖ろしさに、あしがふるえる
*
シモーヌ・ヴェイユの性格や生き方は、屡々”思春期の少女的だ”、”女性のなかの女性”だと評されている。ぼくはこの観方に”注意力”を働かせた経験がまだないのでそう想わせる心理を詳らかに推察できないけれども、おそらくや、彼女の潔癖な倫理性、逆転して”愛情への渇望”を想像させる”孤独の守護”という目的によって為された自罰的態度が、恰もヒロイックな少女らしく映るのかもしれない。
たとえこの躰が泥の塊と成り果てても、なにひとつ穢さずにいたい。
彼女のこの言葉は、確かに思春期にありがちで当人をくるしめる”憧れと嫌悪”を連想させないこともないけれども、美と善の厳守に追従い彼女の冷然硬質に締まった背骨に課せられた、劇しい拒絶性・孤絶性に、ぼくは美と恐怖を感覚することがある。それは恰も倫理へ肉体のすべてを緊縛させ、月の陰翳に魂のすべてを翳とし侍らせようとしたが故に発現・行使された、生の一欠片として毀し落される”血の匂い無き鮮血の言葉”である。換言すれば、聖性なきが故に血肉に奔る聖性であり、畢竟、それはけっして聖性ではない。ぼくの考えではあくまで”kitsch”、命の孕む”俗悪-美”だ。
『重力と恩寵』は、ぼくに真白の印象を与える。仄かに、しゃなりしゃなりと銀と硝子の薫りが立つ、それはぼく等の神経へ直結し恰も瑕を与える様だ。無機の香水が、physicalを削いだ様な薫りのそれが、さながらに”祈り”と同化した形式で、一条だけ落されている。それ、或いは当人の意志によって純化させたおのが鮮血の一条であるような感覚を受けるのだけれども、しかし、この著作にはphysicalの匂いが恰も当人の意志によって剥ぎ落されている様にぼくにはみうけられる、そして、この書物に暗示として浮びあがる人間の”魂”と云う観念、そして天上の”恩寵”という地上へ降るであろう神秘の観念──或いはこの書物の概念へのそれを云うならば、”地上の言葉”と”天上の言葉”──、これ等双方が、一面から云うと絶世のかたちで綾織られている様にも感じさせるし、或る一面から云うと、見るも無残な美しさで射しちがっているようにもみうけられる。
さむけがする、これ以上、この余りに美しい深みに引き摺りこまれてはいけない、そんな気がする。
この著作が与える印象は、前述した”真白の孕む色彩の無(不在)”に、神経的効果がかなり似ているように考えられるのである。
自己無化。すべてを跳ね返したが故の、悲痛な結末。それは真白。即ち、黒へ身投した果て、結末。剥がれ落ちる一刹那は永遠。其処に浮ぶは、それは風景。そが風景はましろ。余りに純粋なそれ。…
自己無化とは、その言葉どおりの完全なかたちでの体現は、人間には不可能ではないだろうか? 要検討。
3
『悪の華』を云い変えれば、『地獄の美』ではないだろうか?
シャルル・ボオドレールとは、或る理想をもって生きている人間へ現実が与えた苦しみに捻じ曲がり、歪んで了った身体・心に映る、或るやつれた美を歌おうとし、亦、人工的な形でそれを詩として再構築しようとしたのではないかとぼくによって推察されている。つまりは、かれ固有の病める個性、デカダン、ダンディと云う選民性・貴族性を衒った。
環境要因の苦痛にも、先天的な当人の気質にも多様性があるから、そういった心の状態はけだし個性的、それを当人固有の表現で示す表現はおおくキャッチ―な効果を与え、似た美的感覚・選民意識をもつ芸術愛好家たちに魅力を感じさせるとぼくによって推測される、そして、そういった世界を愛好する人間はけっして少なくはないから、或る種ファンを獲得しやすい。
シモーヌ・ヴェイユは、”悪”は個性的で、これを表現すればひとを面白がらせるが深みはない、”善”は無個性だが退屈、その表現は単調で面白みがないが、これ程に深みがあるものはないと書いた。
どちらの立場に立つとか、そういう種の詩人でありたいとおもわない。
ぼくの感覚であるけれども、悪はいつそうなり兼ねないと云う意味において人間の心と連続性を有しており、善は、人間の心とは不連続と云う関係性にある様な気がする。であるから、ひとは悪をそれぞれの裡に識る(発見する)筈であり、亦善を発見するのは恰も月を掴むようなもの、きわめて難しく、輪郭を幻視するだけであっても、かなりの知的努力・道徳的努力を必要とするのではないだろうか?
ここで云う地獄とは、世界の所有するそれでなく、各々の眸にうすらいとして張られたそれである。この世を地獄としか視られない人間の眸には、地獄の玻璃が恰も外から張りついているのではないだろうか? ”ぼくは此処を地獄だとおもっている、従ってぼくは地獄にいる”と歌ったのは、かれに影響を受けたアルチュール・ランボオである。これは或いは閉鎖的に過ぎる世界観の賜物であるかもしれないけれども、かれ等がそのように考えている限り、その世界の観方は軽蔑に値するそれではない。と云うのも、かれは世界を語っているのではないから。自意識と云う鏡、それを語っているのだから。
自己をみつめる自己。切なくも、当人を死へ誘いかねない自責、自己破壊衝動。その意識から、のがれたい。自分のことばかり考える状態から、その状態への嫌悪、それを俯瞰し安心する狡さ、そういうものから、一瞬でもいいので抜け出したい。
そのような時、美は一つの手段となりえる。美しいものに”美しい”と感じる時、ひとは、眸から自意識のうごきを放棄しえる。
されど、美を手段とするのは果して善いことであろうか?
美と善こそが、目的とするに相応しいものではないだろうか?
O(おお)、美と善の落す月影の重なる、仄青い領域、其処で為される、光と音楽の共同舞踊(舞踏)。それこそが、あまたに在るであろう理想の詩の内の一であれ。希わくば、其処へ往かうのが無名性・匿名性を志向する詩人のうごきであれ。
されど広範なものを語れば、詩とは単に”憧れ”、”当人にとっての美しい夢”を云うにすぎぬ。そんな気もする。
美しい夢、云うなれば”希望”。シモーヌ・ヴェイユの、”労働者に必要なものは、パンでもバターでもなく詩である”という有名な言葉は、微笑させるほどにあたたかく純粋な気持を与え、さらには、詩と云う世界への”根から湧く憧れ”を感じさせる。
労働の結果にえられる、美しい夢。過酷な労働の裡で夢みられる、その先の希望。それを労働者に与えよ。そんな言葉は、彼女に深い良心があったからこそ生れたものではないだろうか? 嗚。
*
ボオドレールとは、基督と母という観念に無関心ではいられなかった人間である。劇しい愛着心、親に愛されたいから反抗する不良少年の様な気持で、これ等と向き合ってきた人間である。かれに歌われる女神は冷酷で、血の匂いをたっぷりと薫らせるが、かれ、それに惹きつけられるわが身の意欲を抑えることはできなかったのだろう。フランソワ・ヴィヨンは例えれば生れもっての野良犬、基督教との妥協的な精神的調停を拒みつづけ、独りで立った。が、ボオドレールは飽くまで挫折者、中退者、そして退廃への失墜者であった様な気がする。
かれは”悪”の”花”を歌ったが、それは地獄の眸がかれに視覚させた”美”を歌ったとも換言できるとするならば、ぼくは、ここで一つの推測をえられうる。ボオドレールとは、美(醜)と善(悪)の区別を、厳密にはつけていない人間だったのではないのか。
美しいのは善だけではない、悪のそれだってある。
そういう意識がかれの詩や散文、赤裸の心などの手記から感じられるけれども、”善いものは美しく、美しいものは善い”という固定観念から完全に逃れられている様な印象を、かれには受けないのである。生涯、それに反抗している。それは執着の裏返しであるかもしれない。あくまで、かれは、憐れなくらいに良識を弁えた反逆者だった。
即ち、”シモーヌ・ヴェイユの『美と善』と云う論考から一部を拝借すれば、道徳的な善を美しいと感じる人間が、”美”と”善”の概念双方の整理と云う思索から、怠慢というかたちで問題を置いたままにしていると云う、至極良識的で平凡な人間だったのではないか(文学をする人間に多い様に感じるけれども、この平凡さこそ、多くの場合詩や小説に文芸的な魅力を与えるようにおもう)。ヴェイユは、この状態は哲学的には怠慢であるけれども、この状態に在る人間にはあるものが内在している筈だと書いた。
善いものを美しいと感じる心。
このような良心とは、無名性・匿名性を有するとぼくには考えられる。これ程に平凡で、面白みのない善心は、人間にはないように考えられる。
わたしを愛してくれたのは、軽蔑されているひとたちだった。否。軽蔑されるべきひとたちだった。それ故に、わたしはかれ等を愛した。
ボオドレールの言葉である。かれらしい、天邪鬼で荒んだ云い方である。かれ固有の道徳的善悪に照合されたこの言葉に、果して、平凡素朴な良心をみいだされるかどうか、それは各々の感覚にお任せするしかない。
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この世界が悪に満ちているから、この世界に価値がないと見做すのは誤りである、もし本当にこの世界に価値がないのなら、悪はそこからなにを奪うのか。
この、勇壮にして劇しい良心の宿るヴェイユの言葉は、美しく善い真ではないかと、ぼくには感じられることがある。要検討。
“悪”とは、”他者・社会・世界の良い(善い)ものを損なわせるもの”であると広範に定義づけてみると、それは、生きることそのものでないだろうか?
それは当人が主体性をもち、能動的に生き、現実や社会、他者と関わってゆく程に増えてゆくものである。このように生きたい、このような人間になりたい、その意欲に従って現実に参入し、その夢(詩、と或いは換言してもいい)を実現しようとする人間は、当人には不可視であったとしても、皆どこかで悪を為しているようにぼくには考えられる。悪を発生させることを拒むのならば、幾ら閉じ籠っても仕様がない、生れてこないのが最善ではないだろうか。
自他の発する悪に対し”在ってはならない”と潔癖な感情を向けるのではなく、人間は悪を為して了うという前提をおくということ。わが身のそれと向き合う努力をするのなら、悪をコントロールし、眼を瞑り、眸をひらいて、不可視の領域に迄注意力を働かせようとし、減少させるという意識の努力をすると云うこと。悪の連鎖を、暴力の連鎖を、自己でとどめる努力をすると云うこと。
悪を、ある種半分だけ肯定すると云うこと。
それは、”純白性”に憧れる少年少女的で潔癖な人間が、現実に自己を参入させる勇気をもつと云うことではないだろうか?
ボオドレールは一種平凡な、一種良識的な善悪の道徳観念をもっていた。そうであるが故に、わが詩編を”悪”であると歌った。これは、ぼくの推測だ。
そのために目付がエドガア・ポオよろしく荒んだ、されど退廃・快楽に興じながらも、目元と口元には歯を食いしばって生きてきた人間の凄味が表出している。かれの人相にそれがくわわってしまったのは、もしや元はかれに平凡な良心があって、現実と良心の格闘、憧れと現実の葛藤に捻じ曲がる良心があって、それが歪み苦しむ迄に、悪と向き合い、善へ弓を投げつづけてきたからなのかもしれない。”人間は本来善く生きるべきである”と云う、基督と親の与えたメッセージから逃れる(堕ち切る)ことはできず、みずからわが身を”悪”という個性に沈めつづけた。俺は悪だ、と見做す時の切なさは、耐え難い。恰も、心臓が破れそうなそれだ。かれは自己を悪と見做し、堕ちよう、墜ちようという意欲で堕落しつづけたのではないだろうか?
されどかれの詩には、いつも”天上への視線”がありはしないだろうか? それを憎み、呪い、引き摺り下ろそうとし、“俺はカインの末裔だ”と云う自意識から、弓を投げつけ続けたのがかれの詩人としての生き方ではなかっただろうか? 亦、かれの選民意識、貴族意識には、”俺は普通の人間ではない(普通の人間になりたかった)”と云う劣等感の裏がえしがあるようにぼくに想像されている(この要素こそ、かれの詩に解りやすく人気の出やすい、云わばポップな魅力を与えている)。
かれの詩には、悪をすらも暗みに包含させ、すべてを等価と見做そうとする、云わば”色無き濃度100%”と云う暗闇の風景への志向がぼくに連想されている、それは個性的な精神性を表現する個性的な詩的表現によって──当時では頗る前衛的・実験的な”暗示性”、”自己韜晦性”という形であった──、宇宙の暗み(無)にまでわが世界観を上塗りさせようとする努力であるようにも想われ、逆説的に、すべてを闇に塗潰すことによって自己(我)を暗みに埋没させようとするという、ある種”自己無化”的な神経作用を読者に与えていることが、時々ではあるけれどもあるように訝られる。
漆黒、と云う言葉がある。
如何にもかれの詩編は艶やかで蠱惑があり、美しい。
されど、悉くを吸ったが故に黒々と暗みを反映する、蠱惑(グラマ)過剰(ラス)な”悪の華的風景”に、”美しい”という感情が湧きあがり、そのほかの感情を放棄させられたように失い、唯、その風景こそが自分のすべてであるかのような心の状態になった時──その悪にやつれ果てた頽廃的風景は、一刹那で天使の”ましろ”へと剥がされかねないのである。それはもしや、倫理が抜け落ちた美的風景へ殉うことへも導かねない、一種おそろしい瞬間である。
その瞬間の感動は、もっとも純粋な詩、ひとの素朴素直な叫びに伴う──”A(嗚)”。これだ。
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アルチュール・ランボオ曰く、Aと云う母音は”黒”だ。されどおのずと感嘆符としての”A(嗚)”が込みあがるとき、ぼく等は感じることがないだろうか? 自己から我が引き剥がされる風景を。わが身から我が離されるような音楽を。否。それすらをも意識しえぬ、無化へ引き離される心を。そのような状態の神経は、ともすれば人間を絶対的なものに跪かせえる、そんな気がする。だからこんな美に惹かれる美的感覚の人間には、普段の(不断の)道徳的善への尊敬の守護、それへの憧れに伴ううごきの日々、それが必要である様にも感じる。
シモーヌ・ヴェイユは無神論者であったけれども、工場での労働に心身ともに疵だらけになり、ふと通りかかった教会に入ったのだった、そして、その建築の内装とそこから透けてみえる青空を、美しいと想った。全我が吹っ飛んだ。せつな、彼女はおのずと基督へ跪いたのだった、劇しく炎ゆる信仰心が、一刹那で生れたのだった。その後の外面的な意味においてはしずかにして、内面的な意味においては激動の人生は、凄まじいものであった。
ぼくはバッハのオルガンを聴いていて陶然としている時、自意識に悩まない。自己嫌悪しない。自己を破壊したいと希わない。その音楽は、”たとい、幾たび斃れても、わたしは絶対手折られぬ”と歌いつづけたぼくをして、想わず跪き手折られたいと云う心情を与えせしめる。無限性に。美に。絶対的な天上に。
バッハの音楽は恰も黒のように凝る蔓延を無限めいて畝らせるけれども、そのバロック的表現の与える神経作用は、”A”の一音に伴うと果ては何故かしら白、くわえて一面の絵画だ。
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“昇るうごきでずり落ちて往く”のがシモーヌ・ヴェイユのうごきであるならば、”降るうごきで昇って往く”のがシャルル・ボオドレールのうごきであるように印象されるけれども、これは、おそらくや、同じものだ。と云うのも、これ等のうごきと名前を逆転させても、ぼくには意味が通るように想えるのだから。
上昇と下降は、一面的に云うとシノニムではないだろうか?
ぼくの詩的推論によれば、ふたりがみすえていたものは何か?──自己無化。
自己無化とは、色彩(個性)がない状態への自己の変貌を云う。世界に自己が侍ることを云う。人間が自己無化という一面的に云えば”不可能”へむかおうとするのなら、個性という色彩を自分自身によって剥がし落しつづけなければいけないように考えている(現実の悪に参入し、悲惨を引き受け、疵を負うことによって)。そして、恰も存在の一義性めいた世界観──ましろのアネモネの花畑の様な──に、その孤絶に瑕負うを佳としつづけた金属質の頬を、果てはふっくらと埋めたかったのが、かれ等だったのではないか。
シモーヌ・ヴェイユとシャルル・ボオドレールと云うたぐいまれない知性によって綴られた難解な言葉は、時々だけれども、”人間は、みな、同じものだ。わたしもまた、同じものだ。どうか、どうかそうであれ”という無個性な希いを、ぼくに暗示させる時がある(ボオドレールにとっては、それへの執着から湧く反逆心による、逆行という形で)。ぼくにはその平凡な気持が、もしや人-性、或いはヴェイユの云う”魂”のこぼす素直な歌が、なんだかいとおしい。
その気持を抱いて美と善へ向かい、さいごまで人間を信じようとしたシモーヌ・ヴェイユの零した言葉が、彼女の生それ自体が、切なく、どこまでも人間(生命)らしく美しいと、そんな観念は、どちらかと云えば黒へ近づくような、俗悪-美にも似た印象をぼくに与える。そして彼女の言葉を再び読む、時々だけ起こる、さながらに、美をみすえ善くうごこうと意欲するも酔いどれの如く歪な、病める悪党のぼくの脚遣いが躓いて転び、ふと一面の青空を仰いだ時の様なそれを。”嗚”、これを。
モノクロームの恩寵/地獄