うすらひのこいうた 最終話

ふたりだけのこいうた

「……ん……」
 明け方、アリアは目を覚ます。浅い眠りだった。ここは寝台列車の一番安い部屋、一つしかない狭い寝台を、アリアと結弦は二人で寄り添いあって眠っていた。
 間近には結弦の寝顔があった。彼は眉間に皺を少しだけ寄せながら寝息を立てている。
「結弦……?」
「……」
 彼が時折、ぐっと歯を食いしばる。その様子に、アリアはどうしようもなく不安になった。怖い夢を見ているのだろうか。アリアは結弦の頬に手を添えた。
「……結弦、起きて」
「……っあ……」
 結弦の目がゆるゆると開かれた。琥珀色の瞳がゆるりとアリアを捉えると、彼ははっとしたようにアリアを抱きすくめた。
「……アリアさん」
「結弦、大丈夫? 怖い夢を見ていたの?」
「大丈夫、大丈夫です。……、……好きです、アリアさん」
「まあ」
 私も好きよ、と、アリアは結弦の額に口付けを落とす。そう、アリアは結弦を、結弦はアリアを、愛していた。最初は主従であった、きょうだいであった。しかし今は、何者でもない。ただの、こいびと同士。
「……結弦。これから遠くへ行くのよね」
「ええ……できる限り遠くへ。俺たちのことを、誰も知らない場所へ」
「そんな場所、あるかしら」
「……わかりません」
 寝台に寝転んだまま、二人は会話を続ける。手を繋ぎ、額をこつりと合わせ。
「そんな顔しないで。冗談よ。……あなたと一緒なら、何も怖くないわ。あなたが、いなくなるのが、一番怖い」
「……もし、俺の罪が明るみになって、アリアさんと離れ離れになったら、アリアさんはどうしますか」
「結弦の、罪?」
 知っている。察している。だがアリアは、結弦の言葉を待った。
 
「俺が……天花寺一敬を殺したんです」
「……そう……」
「嫌だったんです。これ以上、アリアさんを奪われたくなかった。……俺を、おかしいと思いますか」
 結弦の声と手は震えていた。結弦のその震えは、殺人を犯したことよりも、アリアに拒まれることへの恐れから来ていた。
「……人殺しなんて、おかしいわ」
「……っ」
「でも……私も、おかしいわ。だって、結弦がいてくれるなら、それでいいもの。他には、もう何もいらないもの……」
「アリアさん……」
「ねえ、結弦。新しい土地についたら、何がしたい? 私はね、畑仕事とお料理がしてみたいの。小さな、二人分の畑で、ほんのちょっとだけ日々の糧になるような食べものを作って、お料理をして……結弦が帰ってくるのを待つのだわ」
「……じゃあ俺は、あなたと堂々と手を繋いで歩きたいです。それだけで良い」
「まあ! それは私もよ。ずるいわ、結弦」
「ふふ……」
 結弦はようやく、いたずらっぽく笑った。
 
 列車はゆっくりと、冬の明け方の街を走っていた。
 車窓の向こうに、夜の帳がほぐれていく。鈍い鉄の線路の上を、朝焼けが這うように広がってゆく。茜と灰色が混ざった、あたたかくも冷たい光。その景色に、アリアは小さく息を呑んだ。
「……結弦、見て。朝よ」
 そう言ってカーテンを少し開けると、淡い光が差し込み、結弦の頬に落ちた。
「……ほんとうだ」
 結弦も身を起こし、並んで座るアリアの肩にそっと頭を預ける。朝焼けは静かで、けれど確かに新しい時間を連れてきていた。

「どこだろう、今」
「……わからないけれど、もう、あの家じゃないってだけで、嬉しいわ」
「ええ、俺もです。……もう、誰にも名前を呼ばれずに済む」
「ねえ結弦、名前……新しくしましょうか」
「はい。ふたりだけの、秘密の名前にしましょう」
「ふふ、まるで子供の遊びみたい」
「でも、俺にとってはずっと憧れでした」

 朝焼けの中で交わされる言葉たちは、どこまでもささやかで、かけがえのない約束のようだった。
 ガタン、と車輪が音を立てる。やがて列車は、徐々に速度を落としていった。
「……もうすぐ、駅ね」
「はい。……アリアさん、これを」
 結弦は、ひとつの古びた外套を取り出した。同僚から借りたままになっていたものだ。少し大きすぎるが、ふたりで中に隠れるにはちょうどいい。
 アリアは笑いながら、結弦の腕に潜り込む。
「ふたりで一着なんて、まるでお話の中みたい」
「お姫様と、逃げた従者の物語ですね」
「それじゃあ、私があなたをさらったのよ」

「……ええ、それでいいです。どうか、どこまでも連れて行かせてください」
 ふたりは身を寄せ合い、外套の中に肩を並べて包まりながら、扉の前へと向かう。車内放送のようなものは無い。聞こえるのは、人々が身支度を整える微かなざわめきと、遠くに響く車輪の軋みだけだった。

 列車が駅に滑り込む。
 白く濁った窓ガラスの向こうに、まだ見ぬ街の輪郭が現れる。看板の文字は読み取れない。見知らぬ建物、見知らぬ人々、見知らぬ空気───でも、それでいい。
 列車が完全に止まると、結弦がそっと扉を開けた。吐き出されるように冷たい外気が流れ込み、アリアは小さく身を震わせる。結弦の手がすぐにそれを包み込む。
「……行きましょう、アリアさん」
「ええ」
 まだ薄暗く、霧の残る駅のホーム。誰もがコートの襟を立て、足早に歩く中、ふたりは静かに、ひとつの影として人混みに溶け込んでいく。

 もう、誰にも呼ばれることのない名前を胸に。
 誰にも知られない恋を、ふたりだけで抱きしめながら。
 
 人混みの中を歩くふたりの足音は、やがて人気の少ない路地裏へと消えていった。
 ひとけのない通りの片隅に、ひとつだけ残された水たまりがあった。冬の夜の冷たさで張った薄氷が、朝の光にかすかにきらめいている。

 ふたりの靴が、それを踏みしめる。

 ───ぱりん。

 透明な音が、朝の霧の中に、淡く、確かに響いた。

 その後のふたりの行方は、誰も知らない。

うすらひのこいうた 最終話

うすらひのこいうた 最終話

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
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  • 青年向け
更新日
登録日
2025-11-26

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