うすらひのこいうた 11話
はやく闇へ
屋敷のすべてが静寂に沈んだ頃、結弦はアリアの部屋の扉を、そっとノックした。
「お嬢様。……俺です」
「入って」
微かな声が返る。
鍵がそっと開かれ、結弦は音を立てないように中に滑り込んだ。アリアはベッドに腰掛け、薄いナイトドレスにショールを羽織った姿で、結弦を待っていた。
窓の外には、まだ青白い三日月。
この夜を超えれば、もう後戻りはできない。
「これを……」
結弦は、外套の下から布袋を取り出した。
中には、小さな財布と、慎重に盗み見た地図の切れ端。着替え用の控えめな衣服。最低限の薬。
アリアはそれらを一つ一つ確かめると、真剣な顔で結弦を見た。
「本当に、いいの?」
「はい。……これが、俺の願いです」
ふたりは無言でうなずき合う。
荷物をまとめながら、アリアの指が、そっと結弦の手に触れた。結弦は驚いたように瞬きをして、けれどその手をすぐに包み込んだ。
「……お嬢様の手は、俺がずっと、離しません」
その言葉に、アリアの胸がじんわりと温かくなる。
「……こわい?」アリアが囁く。
結弦は、アリアの手を強く握り直した。
「怖いです。……でも」
視線をそらさず、結弦は静かに言った。
「あなたと一緒なら、怖くても……進みたい」
アリアは、胸がいっぱいになった。
涙が出そうになったが、必死に飲み込んだ。
駆け落ちなんて、きっと無謀だ。
この屋敷の外に出たら、彼らを待っているのは、飢えかもしれない。寒さかもしれない。
けれど、ここに留まっていたら、もっと緩慢に死んでしまう。心を殺して、生きるしかないのだ。
「私も……あなたがいなかったら、きっと、ただ泣いていたわ」
アリアはそっと、結弦の肩に額を預けた。
どちらともなく、自然に近づく。
夜の帳の中、ふたりの温もりだけが確かなものだった。
結弦は、ポケットから小さなものを取り出した。
それは、銀色に光る、細い鎖のペンダント。
「これを」
「……?」
「覚えていませんか? 初めて出会った時、お嬢様が俺にくれたものです。お母様の形見の一つだって」
「そんなこと、あったかしら……ごめんなさい」
「あはは、いいんです。あの時は……俺たち、二人とも何も知らない幼子でしたから。……、」
結弦は、息を吸った。
「逃げる時、名前も、すべて変わるかもしれません。……でも、これだけは……」
震える指で、アリアの首にそっとかける。アリアの白い肌に、銀の光が落ちた。
「たとえ名前を変えても、俺は絶対に、お嬢様を見失わない」
「……結弦……なら、これは、私から」
アリアも、胸元から小さな布袋を取り出した。
中には、細い指輪。
ある日の外出の日に、手に入れた、ささやかなものだった。
「これ、あなたに」
アリアは、そっと結弦の指にその指輪を滑らせた。
ぎゅっと、結弦はその指を握る。
「私とあなた、どんなになっても……あなたは私だけの人よ、結弦」
「嬉しい……。……ずっと、大切にします」
二人だけの、誰にも知られない誓い。
この屋敷のどこかで、誰かが目覚めれば、すべては終わるかもしれない。それでも、アリアも、結弦も、もう目を逸らさなかった。
「……ねえ、結弦」
アリアが、耳元で囁く。
「これから先、どんなに辛くても……私を、呼んでね。名前を」
「ええ。……何度でも呼びます。たとえ、誰にも許されなくても」
名前を変えたとしても。
国を変えたとしても。
心だけは、変わらない。
アリアは、結弦の手をもう一度、ぎゅっと握った。結弦も、何も言わずに、その手を握り返した。
外では、冷たい風が吹きすさんでいる。
でもこの小さな部屋の中には、温かな灯がともっていた。
それは、誰にも奪えないものだった。
ふいに、遠くで時を告げる鐘の音が鳴った。小さな音だった。けれど、それはふたりにとって、最後の合図のように響いた。
「……行かなくちゃ」
アリアがぽつりと呟く。
けれど身体は動かない。冷たい夜気に包まれるのが惜しくて、結弦の温もりから離れたくなかった。
結弦もまた、アリアの頬に指を添え、そっと見つめた。
「お嬢様」
「……もう、呼び方、変えて」
「……アリアさん」
「うん……その声、すき」
息が触れるほどに顔が近づく。けれど、どちらもまだ目を閉じられなかった。この口付けの意味を、ふたりとも知っていた。
それは「別れ」ではない。
けれど「終わり」だった。
誰かの娘であること。
誰かの従者であること。
過去すべてを、この口付けで終わらせて、新しくふたりだけの世界へ飛び出す。
アリアが、先に目を閉じた。
結弦の唇がそっと触れた。
それは優しく、まるで誓いのようなキスだった。浅くて、静かで、けれど心の奥まで届くような。
「……ん……」
短く、息を呑むアリアの声。けれど結弦はすぐに引かなかった。重ねた唇の隙間に、彼の指先がそっとアリアの頬を撫でる。
次第に深くなるキスの温度。
恐れも、戸惑いも、震えもすべてを溶かしていくような、柔らかな熱。
アリアは、そっと結弦の背に腕を回した。
夜の冷たさのなかで、彼の体温だけが確かなものだった。
どれほどそうしていたのか、わからない。
やがて結弦が名残惜しそうに唇を離し、アリアの額にそっと口づける。
「……もうすぐ夜が明けます」
「……ええ」
二人の影が、淡い月光に重なる。
手を取り合い、もう誰にも戻れない場所へと、静かに一歩を踏み出した。
それは、愛と罪と自由を抱えた、逃避行の始まりだった。
───夜明けは、すぐそこにある。
うすらひのこいうた 11話