うすらひのこいうた 10話
決意の刻
「早川、最近叩かれていないそうじゃない」
「そうよ。良かったわねえ。お嬢様がマシになって」
年上の使用人にそう言われ、結弦は「はあ」と気のない返事をした。結弦は、アリアが使用人にも馬鹿にされているのも知っている。
「結弦はきっとそうは思ってないだろうけれど、私は結弦を傷つけたくないの」
「だから……頑張る。結弦と一緒にいるために」
ある日アリアに言われたことを思い出していた。アリアは必死に気を張っている。そして、その日の勉強や食事が終わった後……人に見られている時が終わった後は、自室のベッドにため息を吐いて倒れこんでしまうのだ。その度に、「よく頑張りました」と結弦はアリアの額にキスをする。すると、アリアは照れくさそうに笑うのだ。
もっと自分を頼ってほしい。自分はあなたの代わりに折檻されるためにここにいる。という気持ちは変わらなかったが、それでも、アリアの頑張りを否定したくないのも事実であった。だから、結弦は、アリアの努力を信じることにした。自分のためだけに努力をするアリアが、愛おしかった。
だから、使用人たちの言葉が、煩わしくてたまらなかった。
「ちょっと早川、何よその反応」
「あ、まさかあんた、叩かれなくて物足りないとか?」
「やだあ、あのお嬢様の側付きとなると被虐的になるのね」
きゃはは、と使用人の女たちは笑う。うるさいと叫んでしまうのは簡単だったが、お嬢様───アリアの側付きとして、誇り高く努めようと、結弦は思っていた。
だから、にこりと笑って、彼女たちに返す。
「お嬢様は、とても立派なお方ですよ」
その言葉に、使用人たちは一瞬きょとんとした。
立派だ、などと素直に褒める返答が返ってくるとは思わなかったのだろう。だが、すぐにまた顔を見合わせてくすくすと笑い出す。
「……へえ。立派、ねえ」
「確かに、どんなにドジでも諦めないって意味では、ね」
「立派な……滑稽さ、ってやつ?」
笑い声は、石畳を転がる小石のように乾いていた。だが、結弦は微笑みを崩さない。否定も怒りもしない。ただ、静かに、落ち着き払ってそこに立っている。
───だって、知っているからだ。
彼女は、本当に立派なのだ。
誰のためでもない、自分のためでもない、たったひとり───結弦自身のために、あのひとは毎日、歯を食いしばって生きている。
そんな彼女を、誰が嗤えるだろう。
彼女の背中を見ているのは、この屋敷でただひとり、自分だけだ。
ふと、結弦の胸の奥に、ひそやかな熱が灯った。
(あと少しだ)
彼らの声も、冷笑も、もうどうでもよかった。
すべては、もうすぐ終わるのだから。
この屋敷で、アリアが苦しむ日々も。
誰かに品定めされる夜も。
結弦自身が、何のために生きているのかわからなくなる日々も。
(必ず……お嬢様を連れていく)
雪が降る前に。
まだ二人の手が、凍えきってしまう前に。
「……あら、いい笑顔ねえ。さすが忠犬」
「忠犬早川、って呼ぼうかしら」
からかう声に、結弦は「どうぞ」と柔らかく微笑んだ。その笑顔が、かえって周囲に奇妙な寒気をもたらした。使用人たちは、ざわりと互いに顔を見合わせる。
(……この子、なんだか、おかしい)
───そんなふうに、誰かが思った。
からかいが、妙に喉につかえるような感覚が、場を支配する。
結弦は、そんな周囲の空気にも気づいていた。けれど、気にしなかった。
もうすぐ、自分はここにはいなくなる。アリアとともに。
自由のために。愛のために。命を懸けても。
結弦は、手の中に見えない鍵を握りしめるような思いで、遠い未来を思い描いた。まだ誰にも知られていない、たった二人の未来を。そして、ふと胸の内に浮かんだのは……。彼女が髪を切り、自由を望んだ、あの夜の記憶だった。
(あの日、俺は誓ったんだ)
(お嬢様を、必ず自由にしてみせるって)
だから、今、どんなに嗤われてもいい。
どんなに見下されてもいい。
ただ、あの人の手を取り、この世界から連れ出すために。
結弦の笑顔は、誰よりも静かに、そして誰よりも冷たく、美しく凍っていた。
翌朝。
アリアは使用人に呼ばれて、父の待つ居間へと赴いた。
室内には、薄く香る線香の香り───昨夜、誰かが焚いたものだろう。
父は、深い肘掛け椅子に腰掛けており、アリアの姿を見ると眉根を寄せた。
「アリア、お前……髪を、切ったのか」
当然のように向けられる、驚きと、心配と、そしてわずかな苛立ち。
アリアは一歩だけ前に出て、淡々と会釈する。
「はい」
父は、しばし娘の顔を見つめ、それから硬い声で言った。
「……やはり、一敬くんの件が、相当応えたのだな」
アリアは、目を伏せた。
……違う。
一敬さんのために、私は何一つ心を痛めてなどいない。と、アリアは思った。
でも、説明する気にもなれなかった。
「……あれは、運命のいたずらだ。誰も悪くない」
父は続ける。「いずれ、時が癒してくれるさ」と。
その言葉を聞きながら、アリアは心の中で静かに思った。
(───お父様は、何もわかっていない)
婚約者を失ったショックで髪を切った。そんな、世間の規範に当てはめたような憐憫。誰も、アリアの本当の痛みも、願いも、知らない。
ちらりと横を見る。控えめに立つ結弦と、目が合った。
結弦もまた、何も言わずに微笑を湛えていたが、その奥に秘めた思いは、アリアと同じだった。
(何も、わかっていない)
───私たちの、願いも、罪も、愛も。
「……アリア。無理をするなよ。お前には、まだ未来がある」
父の声に、アリアは静かに「はい」とだけ答えた。けれど、その未来を、私は自分で選び取ると決意をする。父の差し出す未来ではなく、結弦と……。
部屋に戻ると、結弦はそっと扉を閉め、気遣うように言った。
「……お疲れでしょう。お嬢様」
アリアは、ふうっと息を吐き、ベッドの端に腰を下ろした。
「結弦……少し、髪を梳いてくれる?」
彼女の小さな願いに、結弦は嬉しそうに頷いた。
「はい。喜んで」
櫛を手に取ると、結弦は丁寧に、ゆっくりとアリアの短くなった髪に櫛を通した。さらさらと小さな音を立てて、雪のような髪が櫛に従う。
「……短い髪も、可愛いですね」
「……ほんとう?」
「ええ。とても、綺麗です。どんなお嬢様も、俺は好きです」
アリアは、うつむいたまま、小さく笑った。結弦の指先が、あまりにも優しくて、涙が出そうになる。
ざくざくと切り落とした髪も、後悔していない。
けれど、こうして誰かに優しく撫でられると、失ったものの寂しさが、ふと胸に差し込む。
「……結弦」
「はい」
「ねえ、これから、どんな髪型にしようかしら」
「……どんな髪型でも、お嬢様はお嬢様です。でも……」
「でも?」
結弦は、はにかみながら言った。
「また、少しずつ……伸ばしてみませんか?」
「……どうして?」
「俺が、また……お嬢様の髪を、たくさん梳かせていただきたいからです」
アリアは、くすりと笑った。
「いいわ。……結弦のために、伸ばすわ」
それを聞いた結弦の手が、ほんの少しだけ震えた。
アリアはその震えに気づいて、そっと後ろ手に、結弦の手を包み込んだ。
二人だけの、静かな誓い。
短くなった髪の下、変わらないものがそこにあった。
愛するということ。
信じるということ。
窓の外、秋の空に、かすかな光が差し込んでいた。二人は、とっくに心を決めていた。
うすらひのこいうた 10話