うすらひのこいうた 9話
自由への鍵
長く家を空けていたアリアの父が、仕事を中断して帰ってきたのは昨日の夜のことだった。
───天花寺一敬の訃報を聞いたのが理由だ。
一敬は、帰り道に通り魔に襲われ深い刺し傷を負い、その傷から病が入り込み、数日の間苦しんだ後に死んだという。アリアは、何度か天花寺家の門を叩いたが、一敬はアリアに会おうとはしなかった。
朦朧とした意識の中で、彼は言っていたという。「僕が会いたいのは、アリアさんではない」……と。
本当は誰に会いたいのかは、彼は言わなかった。
「アリア、いつまでそうしている。一敬くんの葬儀だ、準備をしてきなさい」
「……。……」
「アリア」
久々に娘と会ったアリアの父は、優しい声音でアリアに話しかけるものの、その優しさの中には幾分かの冷たさが混じっていた。相変わらず、動きの遅い不出来な娘だと、思っているのだろう。だがアリアは、唇をきゅっと噛み締めた後、口を開いて小さく息を吸った。
「……アリア?」
「お父さま、体調が悪いです。行きたくありません」
「彼は亡くなったが、お前は一敬くんの婚約者だ。行かなくてはならない」
「……いやです」
「何だって?」
「いやです……! お父さまは、また私を誰かの婚約者にするのだわ、一敬さんが亡くなったら、次は一敬さんの弟さん? それとも別の家の人? 私、いやです、いやです……!」
「……そんなに一敬くんを愛していたのかい。アリア」
父の言葉は、アリアにとっては頓珍漢の極みであった。彼女は、一敬のことなど欠片も愛していない。そして一敬も───きっと、自分のことなど愛していないのだ。アリアは、そう察していた。
「……部屋に戻ります」
「こら、待ちなさい! アリア!」
アリアは逃げるように走ってその場を後にする。そして自室に閉じ籠り、鍵をかけてしまった。
父親はため息を吐き、手を叩いて使用人を呼んだ。その中には、結弦がいた。
「……結弦、か」
「はい、旦那さま」
結弦の声は震えていた。アリアと関係を持った今の結弦にとって、アリアの父は何よりも恐ろしい存在であった。
「お前はアリアの側付きだろう。アリアの部屋の鍵は持っているな?」
「……はい」
「あの子を説得してきなさい。お前にしか話さないこともあるだろう、きっとアリアは今、一敬くんの死に混乱しているんだ」
「……承知、いたしました」
ああ。と結弦は思う。
あの男は、死んだのか。と。
そう、結弦が三日月の夜、一敬を刺したのだ。結弦はその事実にいっぱいいっぱいで、一敬のその後は知らなかったが、そうか、死んでくれたのか。と、どこかほっとした気持ちでいた。こうして咎められていないということは、一敬は自身を刺した者が誰か分からなかったのだろう。結弦の中に、あの夜と同じように人を刺したという意識から込み上げる吐き気と、アリアはもうあの男のものにはならないという達成感が湧いてきていた。
結弦はアリアの部屋に向かい、扉を三度ノックした。
「お嬢様。俺です、結弦です。入ってもよろしいですか?」
優しく声をかける。鍵は持っている。だが、使わない。結弦はアリアが自ら扉を開けてくれるのを待った。
………そして、小さな声が聞こえた。
「……そこに結弦しかいない?」
「ええ」
「……入って」
扉が開かれる。アリアが、扉を開けてくれた。結弦は一瞬その事実に嬉しくなり、そして、目を驚愕に見開いた。
アリアの髪が、腰のあたりまで伸びていたはずの雪色の髪が、いつも整えられていた美しい髪が、ざんばらに首元まで切られていたのだ。
「お、嬢様……?」
「結弦、入って」
彼女は冷えた声を出し、固まる結弦の手を引く。扉が閉まり、アリアは再び鍵を閉めた。
「なん、で……? 何故ですか、お嬢様、こんなこと……!」
鍵をかけた瞬間、結弦の声は激情を帯びる。床に散らばる量の多い雪色を見て、結弦は悲鳴すら上げそうになった。
「……似合わない?」
アリアは、結弦の問いかけに答える代わりに、静かにそう言った。
鏡台の前にぽつねんと立つその姿は、まるで自分を罰しているかのようだった。
白い頬、薄青の瞳、その奥に、かすかな熱が灯っている。けれど結弦は、その言葉にすぐに答えることができなかった。
散らばった髪。
何度も梳かしてきた、まるで絹のような髪。
夜の闇にも月の光にも映える、それは彼女の象徴のようだった。
一敬の好みに沿って伸ばしていた───そんなこと、結弦は知らなかった。ただ、あの髪が好きだった。
風に揺れるのも。
結弦の指にからまるのも。
膝枕をされるとき、頬をくすぐるのも。
全部、好きだったのに。
「……俺は」
ようやく、喉の奥で絞り出すように声を出す。
「その……お嬢様の、長い髪が、好きでした」
アリアの肩が、ぴくりと震えた。
「……でも、それは、俺の勝手な話で。お嬢様が決めたなら、それで、いいんです」
「結弦……」
「それに……こんなふうに短くなっても、綺麗です。綺麗ですけど、でも、俺は──」
言葉がつかえる。
これ以上言えば、アリアを縛ることになる。好きという気持ちが、彼女を閉じ込める檻になる。
でも、結弦は言わずにはいられなかった。
「でも、俺は……お嬢様が、自分を切り落とすような、そんなふうに変わっていくのを見るのは、いやなんです」
アリアは黙っていた。その沈黙の中で、空気が震えるような気がした。
やがて、アリアはぽつりと口を開く。
「……自由になりたかったの」
その声は、羽のようにか細くて、それでも強かった。
「私は、ずっと……『こうあらねばならない』って言われてきたの。誰かに好かれるように、誰かにふさわしいように、完璧な娘でいなさいって。……でも、違うの。私は、誰のものにもなりたくない。誰にも、私の生き方を決められたくないの」
「……」
「この髪も、一敬さんの好みに合わせて伸ばしたの。でも、彼は私を見なかった。私がどれだけ尽くしても、あの人が会いたかったのは、私じゃなかった。……それなら、もう、こんな髪、いらないわ」
そう言って、アリアは落ちた髪の一房を手にとり、ぎゅっと握りしめた。
「私が、私になるには……これを切るしかなかったの」
その瞳に浮かぶのは、涙ではなかった。
痛みと、誇りと、決意と……それでも拭いきれない孤独。
結弦は、胸が軋むのを感じた。彼女の痛みが、まるで自分の皮膚の内側に食い込んでくるようだった。
「お嬢様」
そっと彼女の前に歩み、結弦は短くなったその髪に指を触れた。
もうあの柔らかく揺れる長さはないけれど、それでも彼女は彼女だった。
「……自由になりたいと思ったその気持ちは、きっと、正しいんです」
だから、どうか。
「……俺に、その自由を守らせてください」
アリアが、目を見開いた。結弦の手が、彼女の髪に触れている。震えている。けれど、温かかった。
「あなたは……私の味方でいてくれるの?」
「もちろん。何があっても。どこに行っても。……たとえ、誰かに憎まれても。俺は、ずっと、お嬢様の側にいます」
言葉が、染み渡る。
冷たい冬の夜に、囲炉裏にくべられた小さな火のように。
アリアの唇が、かすかに震えた。
そして、
「……ありがとう、結弦」
彼女は結弦の首に腕を回し、そっと額を預けた。
それは、恋人のようでもあり、幼い姉弟のようでもあり、どんな言葉でも形容しがたい、ただひたむきな絆だった。
その瞬間、短くなった髪が、ようやく彼女のものになった気がした。
部屋の中は、しんと静まり返っていた。ただ二人の呼吸だけが、近くて、遠い。
「ねえ、結弦」
アリアが、結弦の胸元に額を預けたまま、ぽつりと囁いた。
「私、どうしたら自由になれるのか、わからない」
「……」
「家を出ればいいの? どこか知らない場所に逃げれば、自由になれるの?」
結弦は、答えられなかった。
「でも、そうしたら……きっと追ってくるわ、父も。教養ある誰かが言うでしょう。『あの子は発作的に家を飛び出したのです、冷静になれば戻ってきます』って」
アリアの声に、自嘲が混じっていた。
「そして、わたしの代わりに、結弦が罰を受ける」
結弦の肩がわずかに震えた。彼女の言葉が、刃のように胸に刺さる。
「でも……」と、アリアはつぶやいた。
「……あなたとなら、逃げられるかもしれない、って……思ってしまうの。どこか遠く、誰も知らないところで……二人で、新しい名前を持って、生きるの」
「……駆け落ち……ですか」
結弦は、かすれた声で問い返す。
「……ええ」
ひとつの言葉が、部屋の空気を変えた。
アリアが口にした駆け落ちという響きは、夢のように遠く、けれど確かな現実味を帯びて、二人のあいだにそっと置かれた。
「……出来るでしょうか」
結弦は自分でも気づかぬほど、かすかに震えていた。
自分が罪を犯したという現実。
彼女を連れ出せば、罰せられるのは自分だけではなくなる。
でも───
彼女の髪に触れたときの感触が、まだ指に残っていた。
冷たく、でも、確かに温かい。
「……今のままじゃ、わたし、いつか壊れるわ」
アリアはそっと目を閉じた。
「この家で、桐ヶ谷アリアとして生きていく限り……私はきっと、誰かの望む姿になろうとして、自分をなくしていってしまう」
「……わかります」
結弦も、そっと目を伏せた。
「俺だって、同じです。……この家で、使用人の子として生きていく限り、きっと一生、お嬢様を守ることしかできない。……変わらず、罰を受けるのは俺で、守るって何なのか……わからなくなる」
二人の言葉が、重なった。
「だったら……」
思いが、言葉の端に滲む。
逃げよう。
この世界から。
二人でなら、どこかに辿り着けるかもしれない。
けれど、あと一歩が踏み出せない。
「……でも、本当に逃げられるのかしら」
アリアは、ふと肩に手を当てた。
「一敬さんを失って、父はきっと……次は、もっと強くわたしを縛ろうとする」
「……お嬢様が、この部屋から一歩出ただけで、鍵をかけられるかもしれません」
結弦も、目を伏せた。
「俺だけじゃ、守りきれないかもしれない」
「それでも……」
アリアは、顔を上げた。
「わたし、考えてしまうの。……駆け落ちという言葉が、こんなにも甘く、熱を持っているなんて、知らなかったわ」
部屋の空気が、ほんの少し揺れた。二人の瞳が、そっと重なる。
まだ決意にはなっていない。
でも、たしかに芽吹いた。
自由という名の鍵を、今、二人が同時に手にしようとしている。
「……結弦、あなたが一緒にいてくれるなら、私……」
「俺も、もしお嬢様が本気で望むなら……俺の全てを賭けてでも、連れていきます」
───だけど、二人はまだ、口を閉ざした。この先にあるのは、もう戻れない道だ。
逃げることが、すべてを失うことだと、二人とも、よく知っていた。
それでも、視線は逸れない。
沈黙の中にあるのは、確かに同じ未来を見つめようとする意思だった。
「旦那さまには、お嬢様は本当に体調が悪いと伝えてきます。……俺はまだ、この家の使用人ですから」
「ありがとう。でもね、あなたは私の結弦よ」
「……嬉しいです」
結弦は、はにかんだように笑った。救われたかのように、笑った。
その夜、二人は、同じ夢を見た。
雪の降る遠い遠い町で、名前を変えて歩く自分たちの姿を……。
うすらひのこいうた 9話