うすらひのこいうた 7話
絶望の扉を開けて
「……それじゃ、貴音さん。また今度」
「はい。一敬さん。また今度」
抱き合い、離れ、手を振って別れる。ああ、離れるのが惜しいなあ。愛おしいなあ。と一敬は思った。
───天花寺一敬には、恋人がいる。
それは、桐ヶ谷アリアではない。けしてないのだ。
彼女は儚く、美しく、品のある令嬢だった。異国の血を引いたその姿は、まるで硝子細工のように繊細で、丁寧に扱わなければすぐに壊れてしまいそうだった。
けれど、一敬はそうした『壊れそうな美しさ』に、心を動かされたことなど一度もなかった。
アリアを愛していると、言ったことはある。だがそれは、婚約者として当然の言葉。社交辞令のようなものだった。
本当に愛しているのは、貴音───そう、十九歳の誕生日を迎えたばかりの、行きつけの喫茶店で働く女性。
明るく、朗らかで、どこか抜けていて、それでいて芯のある子だった。誰にでも分け隔てなく接するが、その笑顔の中心にいるのは、いつも一敬だけだった。
一敬にとって、貴音といるときだけが「本当の自分」でいられる時間だった。
(アリアさんは、いつも正しくあろうとする。完璧でいようとする。息が詰まる)
───「貴女は、僕のことをどう思っているんだい?」
かつて投げかけた問いに、貴音はほんの少し頬を赤らめながら笑って、「大好きです」と言った。
その言葉だけで、一敬の世界は一瞬で色を変えた。
(アリアさんが妻になる日。俺はあの子と、他人になる)
そんな未来を思い描くたび、胸の奥で静かに冷たいものが波打った。怒りではない。絶望でもない。ただ、淡々とした拒絶だった。
アリアと結ばれる未来を、どうしても『幸福』と呼ぶことができなかった。
───彼女は、僕を見ていない。
そのことにも、一敬はとうに気づいていた。
アリアの視線の先には、いつだって早川という従者がいる。誤魔化していることも分かる。
あの少年の立ち居振る舞い、アリアを見るときの目。そのすべてが、ただの道具のそれではなかった。
(……ああ、くだらない)
一敬は、天を仰ぐように空を見上げた。秋の空は澄んでいて、遠い。貴音の笑顔も、アリアの存在も、すべてがこの空の下にあるのに、こんなにも別の世界に思える。
───だったら、どうしてアリアと結婚するのか?
その問いに答える言葉は、たった一つ。
「家のため、だよ」
ぽつりと独りごちた声は、まるで自嘲のようだった。
誰も、誰のことも、ほんとうには愛せない。そんな世界を選んだのは、自分自身だ。
(でも、せめて……貴音だけは、最後まで愛していたい)
貴音だけは、嘘のない愛で包みたかった。
───そしてアリアは、永遠に、一敬の心の扉の外側にいる。
すっかり暗くなった道を歩く。あまり遅くなると家の者が心配するだろう。だが、帰ってしまったら自分はただの恋する一敬ではなく、天花寺家の一敬になってしまう。再び空を見上げる。昇り始めた月を見て、一敬はため息を吐いた。今日は、照らす光としては心許ない三日月だ。
せめてもの家への反抗に、人気の無い道をゆっくりと歩く。一歩歩くごとに、貴音との今日の思い出が蘇る。ああ、楽しかったなあ。一敬の胸は、切ない幸せでいっぱいだった。
その時だった。
とす、と軽い音を立てて、人が自分にぶつかった。と、一敬が思うと同時に、冷たい何かが腹に響くのを感じた。そして、遅れてやってくる、熱。
痛み。
大切なものが流れ出る音。
残酷なほどすんなりと身体から抜けていく冷たい、刃。
「……あ……?」
体がどんどん痺れていく。一敬は立っていられなくなり、その場に崩れ落ちた。それを、一敬を刺した者は見ていた。外套で顔を隠しており、そして三日月の夜、誰だか顔は伺えない。
「あ……なん、だ。誰、だ」
一敬はそれでも、目の前の人物を見上げる。その者の目だけが、一敬の震える目と合う。冷たい、目をしていた。
そして、一敬を刺した者は、それ以上何もせず走り去っていった。
何だ? 誰だ? どこの者だ? 金品を取っていかなかった。単なる通り魔ではない。痛い。天花寺に恨みのある者の手の者だろうか。息が上手くできない。僕を尾けていたのか。痛い、痛い、痛い!
「たか、ねさん……」
天花寺家の者として思考を必死に巡らせた後、一敬は意識を手放す。口にしたのは、ただの人を愛する男としての言葉。愛する人の名前だった。
深夜、アリアは何となく眠れなくて、自室でネグリジェ姿のままベッドから起き上がり、窓の外を見ていた。窓の外のすぐ近くにある桜の木は、秋の頃である今、そろそろ葉のない寂しげな姿を見せつつあった。
(昔は、ここから結弦が登ってきて、私に手を差し伸べてくれたこともあったっけ)
まだ互いに無邪気であった幼い頃を思い出し、アリアは寂しげに微笑んだ。それでも、あの時は結弦といれば窓から外に出ることも、怖くはなかったのだ。
アリアはカーテンを閉じ、眠ろうとベッドに戻ろうとした。すると、コツコツと窓を叩く音が微かに聞こえた。
「……?」
鳥だろうか? それにしては、もう遅い。鳥は眠っている時間だ。ならば野良猫? アリアはふわふわと考えながら、カーテンを開ける。
そこには、結弦がいた。外套を片手で持ち、三日月の微かな光に照らされて、窓越しにアリアを見ていた!
「……えっ! どうして……結弦!」
アリアはすぐに窓を開け放つ。すると、結弦はそこからゆっくりとアリアの部屋に降り立った。
「どうしたの、結弦。こんな時間に……。もうお休みの時間でしょう」
「お嬢様、起きていたのですね。……よかった、俺、お嬢様に会いたくて……」
「会いたくても外から来るなんて、……あっ」
結弦は、アリアの言葉を遮るように彼女を抱きしめた。
「……結弦……?」
アリアの小さな呟きが、薄闇の中に溶けていった。
結弦の身体は冷えていた。抱き寄せられた瞬間、ネグリジェ越しでも分かるほどに、彼の腕は冷たく湿っていた。まるで、冷たい夜露を全身に纏ったように。けれど、それ以上に、
血の匂いがした。
甘く、鉄のように錆びた匂いが、彼の衣服から微かに立ち昇っていた。
「……どこか、怪我したの?」
アリアは思わず問いかけた。けれど、結弦は首を横に振る。
「大丈夫です。俺じゃない……」
そう言ったきり、彼はそれ以上何も言わなかった。アリアは戸惑いながらも、それ以上追及することができなかった。結弦の抱擁には、ひどく切実なものがあったからだ。
まるで、何かを必死に抱きしめていなければ、自分が壊れてしまいそうだとでもいうように。
「……会いたくて仕方なかったんです。お嬢様の顔が、声が、全部、全部欲しくて……」
結弦の声が震えていた。けれど、涙は見せなかった。ただ、頬を寄せてきた彼の髪の奥から、あの血の匂いだけが強くなっていく。
アリアの指先が、そっと結弦の外套の裾を掴んだ。
「……誰かと、会っていたの?」
問いかけたのは、恐れではない。むしろ、確かめたかったのだ。結弦が自分を求めてくれるその気持ちに、嘘がないことを。
「ええ。でも、もう終わりました。話すことなんて、無かったんです」
その言葉に、アリアは何か不穏なものを感じた。だが、結弦はそれ以上語ろうとはしなかった。語るつもりもないのだと、静かな眼差しが物語っていた。
その目に浮かぶものは、狂気ではなかった。怒りでも、憎しみでもない。
ただ、愛。
深く、深く沈んだ、誰にも見せられない愛だけが、そこにはあった。
結弦はアリアの頬に、そっと手を伸ばした。その指先にも、わずかに赤い色が残っていることに、アリアは気づかない。
「結弦……」
「お嬢様」
その声は優しかった。息を呑むような、深い夜の底に落ちるような優しさ。
そして───彼は、アリアの唇に、そっと口づけた。
触れるか触れないかの、微かなキスだった。
けれど、アリアは身体の奥から震えるような感覚を覚えた。結弦の唇からは、血の匂いがした。けれどそれ以上に、彼の想いが、深く、確かに伝わってくる。罪深いほどに純粋な想いが。
「……ねえ、結弦……」
何かを尋ねようとして、けれどアリアは言葉を飲み込んだ。
訊いてはいけない気がした。
今夜の彼は、どこか遠くから戻ってきたようだった。もう二度と戻れない場所から。何かを終わらせて、その代償を引きずって、それでもなおアリアの元へ帰ってきたようだった。
だから、アリアは、結弦を受け入れた。
「……結弦、こっちに来て」
「お嬢様……」
結弦の手を引き、ベッドへ導く。アリアは結弦をベッドに座らせると、今度は自分から抱きしめた。
「結弦はきっと、今まで悪い夢を見ていたのだわ」
「……」
「だから……ほら、震えてる。ねえ、私に触れてくれる? 震えがおさまるまで、私に……触れて」
「……あ……、……お嬢様。俺、お嬢様のことが好きだから、だから……」
「ええ、だから……その手で、私に触れて」
結弦の震える唇に、アリアは口付ける。そして、どちらともなくベッドへ倒れ込む。
結弦はまるで赦しを乞うかのように、アリアの唇に舌で吸い付いた。
三日月の光は、なおも薄く、頼りなかった。
うすらひのこいうた 7話