うすらひのこいうた 6話

閉ざされた扉の内側で

 アリアはあと数ヶ月で十五歳となる。アリアと一敬が結ばれる日が近づいている。
 アリアと一敬は、会う日が多くなった。一敬はアリアに、君の物なのだからと結弦も連れ立たせる。それがアリアはたまらなく苦しかった。一敬にとって、結弦は物なのだ。人間ではない。

 それでも、アリアが愛してしまったのは一敬ではなく結弦であった。誰にも言えない事実だ。

 一敬に会う日は、アリアは一段と緊張する。今日は和装を着て、街を歩く。アリアの雪色の髪と淡青色の瞳───異国の色は、和服と合わせると美しいが奇妙なコントラストを描いていた。
 
 秋の終わり、空は薄曇り。湿った風が長い髪をそっと揺らす。
 アリアは一敬と並んで歩いていた。結弦は少し後ろを歩いている。三人の影が石畳に長く伸びていた。

 一敬が話す。アリアは静かに相槌を打つ。上の空のまま、うっかり足をもつれさせた瞬間───ふいに、足元で布が裂けるような音がした。

「あっ……」
 下駄の鼻緒が切れていた。アリアは立ち止まり、足を引きずるようにして石畳の端に寄る。
「アリアさん?」
 何かを言いかけた一敬より早く、結弦が動いた。音もなく膝をつき、アリアの足元にかがむ。その手つきは慣れたもので、手早く鼻緒を指先に巻き付ける。
「すぐ直しますから、少し足を上げてください」
 結弦の声は淡々としていたが、どこか優しさを孕んでいた。アリアは小さく頷き、彼の指示に従う。結弦は器用に鼻緒を結び直し、しっかりと締める。まるで、それが当然のことのように。

 一敬は、それをじっと見ていた。
 彼の視線には、嫉妬も苛立ちもなかった。ただ、何か気味の悪いものでも見るような、冷めた色があった。
「……君は、それで満足なのか?」
 ぽつりと、一敬が呟いた。その言葉の意味を測りかねて、アリアは顔を上げる。
 一敬の目は、どこか遠くを見ているようだった。
「君のために、膝をついて、手を汚して。それが当然のように」
 呆れたような、あるいは理解できないものを見るような目だった。……結弦に言っているのだと気づき、アリアは息を詰める。
 結弦は何も言わず、静かに手を引いた。
「直りました」
 そう言って、いつものように伏し目がちに立ち上がる。アリアの視線と、一敬の視線の交差する間で、彼はただ静かに佇んでいた。
 
 アリアがようやく口を開きかけたとき、一敬がさらに言葉を重ねる。
「君は、早川くんがいないと何もできないんだね」
 柔らかい声だったが、確かに嘲笑が滲んでいた。
「あ……」
「履物ひとつ満足に直せず、誰かに助けてもらわなければならない。君はそれでいいの? いつまでも道具に頼って、君は……僕の妻になるのに」
 その言葉が胸に鋭く刺さる。アリアは唇を噛んだ。何も言えなかった。
 一敬は微笑を浮かべ、何事もなかったかのように歩き出す。沈黙のまま、三人は再び歩き出した。

 だが、アリアの心の中で、一敬の言葉はいつまでも冷たく響いていた。

(一敬さんは、きっと完璧な淑女を求めているのだわ)

 そう、道具に頼らない、完璧な妻を───アリアの頭の中で、思考がぐるぐると回る。
 
(結弦はきっと、私にそれを求めない)

 後ろを歩く結弦が、どんな顔をしているか、アリアにはわからない。婚約者といるのに従者を見るなんて良くないから、振り返るわけにはいかない。
 早くこの時間が終わってほしい……そう、アリアは思うしかなかった。

 デパートで一敬に「君に似合うと思うよ」と服を贈られ、レストランで食事をし、家に帰ってきたのは夕刻も終わり、夜に傾きかけた時間であった。一敬といる時は、この時間まで外にいても許されるのだ。

 アリアは部屋へ戻り、ベッドへ勢いよく突っ伏す。令嬢としてはしたない行動であったが、見ているのは結弦しかいなかった。
 結弦は服の入った紙袋を手に、疲れ切ったアリアの後ろ姿に声をかける。
「これ、アイロンかけておきますね」
「……ええ」
「夕食のお時間になったら、またお呼びします。お嬢様。失礼します」
 淡々とした、結弦の声。
 ああ、出ていってしまう。アリアは衝動のままに、半身を起こし結弦に声を投げかけた。
「……結弦。行かないで、こっちに来て」
「? はい」
 振り返り素直に歩み寄ってくる結弦に、アリアは胸が痛む感覚がした。こうして何もかもに従ってくれるのは、何故なのだろうか。彼女はそれが、知りたかった。
 
 アリアはベッドに近づいてきた結弦の胸に顔を埋めた。ひく、という息を呑む音が聞こえる。結弦のものだ。早鐘をうつ心臓の音が聞こえる。結弦のものだ。
「……お嬢、様……?」
「結弦、あなたが私に何でもしてくれるのは、あなたが私の側付きだから?」
「……それは、」
「……それとも、私のことが……、……好きだから……?」
「お嬢様……」
「私はね……あなたが、すきよ。結弦。あなたが本当は私のきょうだいでも、一敬さんが言うように……私の持ち物、でも」
「……俺も、貴女が好きです。お嬢様。好きだから、何でもするんですよ」
「……そう……」
 それ以上は何も言わず、すっとすり寄るアリアの頬を、結弦は指でなぞった。
「ねえお嬢様、抱きしめてもいいですか?」
「えっ、そんな、急ね……?」
「ふふ、急ではありませんよ。俺はお嬢様と天花寺様が一緒にいる間、お嬢様と過ごした夜のことを思い出していました」
「あ……なんてこと、ひどいわ、結弦」
「思い出すだけなら良いじゃないですか」
「そうだけど……」
「……。お嬢様はずっと、俺だけの人ですよ」
 結弦はベッドに腰掛け、アリアの背に腕を回し、引き寄せる。
 ぎゅう、と二人は密着する。あたたかくやわらかい感覚に、二人は同時にふうと息を漏らした。このまま時間が止まってしまえば、難しいことを何も考えなくて済むのに。アリアはそう思い、結弦を見上げた。
 
「結弦」
「はい」
 ほら、名前を呼ぶだけで、彼は分かってしまうのだ。
 
 結弦はアリアの顎に触れ、顔を近づけた。黒と雪色のまつ毛が触れ合う。ふわりと、結弦が感じたのは、すみれの香り。アリアが耳たぶに付けた、練り香水の香りだった。
「……ん……」
「……」
 結弦はこの香りが好きだった。アリアがいつも、外出する時に身に纏う香り。けして華美ではないが、上品な香り。野に咲く花の香り。まるでお嬢様そのものだと、結弦は思っていた。
 そして、一敬と会う時にもこの香りを纏うことが、結弦は許せなかった。くに、と結弦はアリアの耳たぶをつまむ。
「……? やだ、結弦……なあに?」
 唇を離し、彼女は彼に問いかける。結弦はそれに答えず、再び口付けた。
 今度は、舌でその薄桃色をこじ開けるように、べろりと舐める。
「っ! ……んん、んぅ……っ」
 アリアはほんの少しだけ驚いたように呻いたが、すぐに受け入れ、口をほんの少し開ける。ひたり、と音を立てて、舌と舌が交わった。
 あの夜の口付けは、強引だったけれど触れるだけのものだった。けれど、これは違う。結弦の……この男の、舌の熱さ、唾液の味。全てが甘美で、ぞくぞくと背に快楽が走って、アリアは乳を吸う赤子のように結弦の舌に夢中で吸いついた。
 やがて、唇が離れる。名残惜しげにつうと繋がる銀の糸が、ふつりと切れた。
「や、結弦……もっと……」
 再び結弦にくっつくアリアの髪を、結弦は優しく撫でた。
「もうすぐ夕食の時間ですよ。一日はまだ終わっていません」
「……一日が終わったら、またしてくれる……?」
「……はい」
「……好きな人と、するのよね。こんな口付け」
「はい、きっとそうです」
「……結弦、好きよ……大好き」
「俺も、お嬢様が大好きです」
 愛しています。そう言って結弦はアリアの額に口付けた。

 ああ、これはいけないことだ。
 アリアの胸に、靄のように罪の意識がかかる。結弦を愛するのは、いけないことだ。分かっていても、止められない。飴を見つけた子どものように、この恋に齧り付いてしまうのだ。
 
 そして深夜、結弦とアリアは再び互いに触れ合った。互いを知った。いっそ誰かが咎めてくれたら良いのに。いや、咎められて離れ離れになるのは、絶対に嫌だ。そう考えるアリアの脳裏に、結弦の言葉が浮かぶ。

『好き同士で、してはいけないことなんてあるんですか?』

(私も、あなたくらい真っ直ぐに、あなたを想えたら)

 アリアは憂いに耽らないように、結弦を抱きしめ、結弦に溺れた。

うすらひのこいうた 6話

うすらひのこいうた 6話

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2025-11-26

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