うすらひのこいうた 5話
犠牲
あの日、衝動的に体を重ねた夜から、結弦はおかしくなった。───と、アリアは思っていた。
アリアはミスを犯し、結弦はアリアの代わりに鞭で打ち据えられる。その関係は、何一つ変わらなかった。どう頑張っても失敗してしまう自分の出来の悪さに、アリアは唇を噛み締める。だが、結弦は違っていた。
彼はうめき声すら、上げなくなっていた。それどころか、その深い琥珀色の瞳で、アリアをじっと見上げるようになっていた。結弦が痛がることが、アリアへの罰になる。だから、そんなことをしていたらますます鞭に込められる力は大きくなるというのに。結弦は、アリアを見つめるばかりだ。
今日のアリアのミスは一回だけだったのに、結弦が一声も上げないものだから、アリアは三回も結弦が痛めつけられるのを見る羽目になった。
勉強の時間が終わり、自由時間が与えられる。家庭教師が部屋を出ていき、部屋はアリアと結弦の二人きりになった。
「……結弦」
「はい。お嬢様。何でしょう」
「……最近の結弦は、おかしいわ」
「そうでしょうか……?」
とぼけたような声。この人はいったい何を言っているのだろう。そう言われているような気がして、アリアは結弦にどうしようもなく腹が立った。思わず、ばっと彼のシャツの襟を掴み、顔を近づけた。
「痛いのはあなたなのよ。結弦。痛くないわけがないでしょう」
「いいえ? 痛くないですよ」
「嘘つき! おかしいわ。ねえ、どうしちゃったの……?」
「……痛くないですよ。むしろ、幸せです」
結弦は、うっとりとした様子でアリアの傷ひとつない白い手を、そのかさついた手で取った。ひく、とアリアの身が震える。そしてそのまま、結弦はアリアの手の甲に口付けをした。
「お嬢様の痛みを引き受ける。お嬢様の代わりに罰を受ける。……俺の立場って、すごく幸せなんだなって、そう思えるようになったんです」
「な、んで」
「俺が受ける痛みは、本来お嬢様が受ける痛み。だから、俺が鞭で打たれる時、俺とお嬢様はひとつになっているんですよ」
「……なにを言っているの」
アリアの指がわずかに震えた。結弦の手のぬくもりが、皮膚の上に焼き付くように残っている。彼は何の疑いもなく、幸福そうに微笑んでいた。
「私と、ひとつ……?」
「ええ。俺が傷つけば、お嬢様は罰を免れる。その分、お嬢様はきれいなままでいられる。それが、俺の幸せなんです」
「そんなの……おかしいわ……」
アリアは息を詰まらせた。結弦は狂ってしまったのだ。本当にそうとしか思えない。
「ねえ、結弦。あなたは、私があなたの傷を見るたびに、どれだけ苦しくなるか分かっているの?」
「……苦しい、ですか?」
結弦の琥珀色の瞳が、ゆっくりと瞬いた。まるでその考えが理解できないと言わんばかりの顔だった。
「当たり前でしょう! 私のせいであなたが傷ついて、血を流して……それが、苦しくないわけがないじゃない!」
「でも、それはお嬢様が傷つくより、ずっといいでしょう?」
あまりにも穏やかな声で、結弦はそう言った。
アリアは言葉を失った。
結弦は、心の底からそれを信じているのだ。
アリアの代わりに傷つくことが、彼にとっての幸福。自分の苦しみはどうでもよくて、アリアがきれいなままでいることだけが、彼の唯一の願い。
「……本当に、そう思ってるの?」
「ええ。本当に」
結弦は迷いなく頷いた。そして、にっこりと笑った。
「だから、どうか、そんな顔をしないでください」
その笑みは、優しくて、ひどく穏やかで、そして、どうしようもなく哀しかった。アリアの胸に、言葉にできない痛みが広がる。
「結弦……」
このままでは、いけない。
けれど、どうすればいいのか分からない。
彼の歪んだ愛情を、どうすれば解きほぐせるのか、アリアには分からなかった。
「……出ていって」
「お嬢様……?」
「出ていって!」
分からないまま、声を荒げる。結弦は目を見開き、数度口を開け、閉じると、何も言わずに部屋を出ていった。
「結弦は……おかしいわ……」
アリアは絨毯の敷かれた床に倒れ込む。涙がぽろぽろと溢れ、絨毯にしみこむ。結弦は、おかしい。けれど、結弦がいないと、生きていけない自分がいる。それが、アリアを苦しめた。
「私も、おかしいわ……」
(お嬢様に、拒絶された)
結弦の胸の中は痛みでいっぱいだった。
すたすたと俯いて、誰に声をかけられようとも無視をして、彼は屋敷の裏口から外に出て、物陰に隠れるように座り込んだ。そして、思い出すのはアリアの白くやわらかな肌。
アリアというあの美しい存在は、どこも傷ついてはならないのだ。結弦は、そう思っていた。けれど、自分を見るアリアの目は、痛みに傷ついた者の目そのものだった。怯え、恐怖、怒り、悲しみ。あの淡青色の瞳に、それら全てが滲んでいた。
そうだ、自分が罰せられることでアリアの反省を促す。命じられたのはそういう関係だったじゃないか。アリアの心が傷つかなければ、この関係に意味はない。アリアの心が繊細で優しいから、この関係に意味がある。だが、結弦はそれさえも許せなかった。アリアには、痛みも悲しみも、負の感情を何も感じないでいてほしかった。
そしてそれは、許されない想いであった。
「……笑っていてほしいだけなのに」
幸せでいてほしいだけなのに。結弦は呟く。自分は、彼女を幸せにできないのだろうか? こんなにも、彼女を愛しているのに。自分の愛は間違っているのだろうか? けれど、これ以外の愛し方が、結弦には分からなかった。
ふと、思い浮かぶのは忌々しいあの顔。アリアの婚約者、天花寺一敬。彼は、アリアに正しい愛を伝えるのだろうか? 彼なら、アリアを幸せにできるのだろうか? アリアを幸せに……してしまうのだろうか?
「……っ!」
結弦は湧き上がった感情のままに、ちょうど手元にあった小石を拾って投げた。小石は地面に叩きつけられて、跳ねてどこかへ行った。湧き上がった感情の名前を、結弦は名付けることができなかった。怒りにしても、悲しみにしても、嫉妬心にしても、愛情にしても、あまりにも胸が痛かった。
「俺はあなたを、愛しています……」
「私はあなたを、愛しているわ……」
傷に呻くように漏れた二人の言葉は、互いには届かなかった。
二人は、人並みの愛し方がわからなかった。成長すれば、わかるものだと思っていた。だが、成長したら、この関係も終わり、離れ離れになってしまう。だから、そう、今、愛したかった。
静寂に包まれた部屋の中で、アリアは独り、膝を抱えていた。
「……私は、どうすればよかったの?」
自分の心がわからない。結弦の心もわからない。
彼は私を愛していると言った。それはきっと本心なのだろう。けれど、その愛し方が、どうしようもなく間違っている気がしてならない。
(私のために傷ついて、痛みに耐えることが、彼の愛なの?)
それを否定するのは簡単だった。間違っていると、叫びたかった。
でも、それを否定したら、結弦はどうなってしまうのだろう?
結弦は、きっと───
(私が必要としなければ、いられない人……)
彼を拒絶すればするほど、私の中に残る痛みが深くなる。結弦が苦しむたび、私の心も壊れていく。
なら、いっそこのままでいいと、思ってしまえば楽なのに。
けれど、それはできなかった。
結弦の笑顔を思い出す。
あの、穏やかで、満ち足りたような微笑み。
でも、どこか哀しくて、儚くて……
(あの笑顔は、本当に幸せな人のものだったの?)
アリアは、胸の奥にうずく痛みを抱えたまま、じっと床を見つめた。何も変えられないまま、時だけが過ぎていく気がした。
結弦は、もうずっと屋敷の裏庭の隅に腰を下ろし、膝を抱えている。
手元に残る、小石の感触が消えない。感情を持て余し、どこにもぶつけられないまま、ただ考えていた。
(俺は、お嬢様を愛している)
それだけは、確かだった。
でも───
(お嬢様は、俺の愛を受け入れてくれない)
アリアは拒絶した。
それはつまり、俺の愛し方が間違っているということなのか?けれど、どうすればいい?
(俺は、どうやって愛せばいい?)
結弦にはわからなかった。
自分を犠牲にすることしか、彼女を愛する方法を知らなかった。
もし、それを否定されたら───
(俺には、もう何もない)
結弦は、ぎゅっと拳を握りしめる。
指の間から、微かな震えが伝わってきた。
───お嬢様が、俺を必要としなくなったら?
───お嬢様が、俺を愛していないと言ったら?
(それでも、俺は……)
思考の隙間に、ふと浮かんだのは、やはりアリアの婚約者のことだった。彼女に相応しいのは、天花寺一敬なのだろうか。そんな嫌なことばかり、頭に浮かぶ。
「そんなこと……あるはずがない」
結弦は、無意識にそう呟いていた。
たとえ彼がどれほど立派で、ふさわしい相手だったとしても、アリアが、彼のものでいいはずがない。アリアは、自分が守る。
それが、何よりも正しい愛し方のはずだった。
(……そうだろ?)
けれど、胸の奥の痛みは消えなかった。
この愛し方が正しいのかどうか。
結弦はそれを知る術を持たなかった。
互いに、相手を思いながら、それでも二人は、ただ無為に時を過ごした。
互いの愛が、どこへ向かうのかも知らないままに。
うすらひのこいうた 5話