うすらひのこいうた 3話
守るために、すれ違い
彼が結弦を同席させたという事実が、結弦を同じ男として見ていない何よりの証拠であった。
アリアと結弦は、一人の男と、ある画家の個展を見に来ていた。繊細な色遣いが特徴的な油彩画たちが並ぶ。野に咲く白い鈴蘭の花の絵の前で、男は立ち止まる。アリアと結弦もそれにならった。
「アリアさん。この絵を見てごらん。描かれたのは十四年前、君が生まれた年に生まれた作品だ」
「そう……なのですね」
「ああ。実はあと一年でこの作品は世の人の前に出なくなる」
「え……? 何故ですか? 一敬さん……」
彼は、天花寺一敬てんげいじいちたかはこんなに綺麗な絵なのに……と首を傾げるアリアに微笑む。
「僕はこの絵を買ったんだ。一年後、僕の家へ届き、僕はこの絵を客間に飾る。この絵に君を感じたんだ。だから、君が僕の家に嫁ぐ日の記念。ね」
「う、れしいです……一敬さん」
「はは。アリアさん、緊張してる? なかなか慣れないね」
「は、はい……あっ、い、いいえ! いいえ、じゃなくて、えっと、ううん」
「ふふっ、落ち着いて?」
「……はい。……ごめんなさい……緊張、しています。こういった個展に行くことは、あまりありませんし……い、一敬さんに会うのも、久しぶりでしたから」
「そうかい。アリアさんは可愛らしいね」
「えっ! その……ありがとう、ございます」
結弦は二人のやり取りをじっと見ていた。割って入ることもせず、黙ってアリアのハンドバッグを彼女の代わりに持っていた。そう、透明な存在、空気そのものになっていたのである。
結弦は唇をぎゅっと噛み締める。彼の心の中に黒い炎が湧き上がり、炎は体の内側を舐めた。今アリアに一番距離が近い一敬と、そんな一敬に強張った微笑みを向けるアリアを見ていると、結弦の耳の奥はキンと音が鳴り、何もかもが遠く聞こえるのだ。
天花寺一敬は、桐ヶ谷アリアの婚約者だ。───二人は、一年後に夫婦となる。
ああ、こんな男、何らかの事故で死んでしまえば良いのにな。と、結弦は奇跡に思いを馳せた。結弦は。一敬が大嫌いであった。いずれ必ず、アリアの一番となる男。一年後、そう一年後にはアリアとこの男が結婚して、同じ家に住んで、子どもを作って……その場に、自分はいるのだろうか。結弦は透明になった頭で考える。
(俺はお前よりも、お嬢様を知っているのに。きっとお前よりも、お嬢様を愛しているのに)
贅沢は言わないから、せめて彼女とずっと一緒にいさせてくれないか。早川結弦は独占欲の強い男であったが、同時に分別も弁えている男であった。自分には天花寺家のような地位も財産も無い。幼馴染とはいえ、アリアの結婚相手には相応しくない。そのことを理解していた。一敬が死なないなら、せめてアリアの従者として、彼女と共にいたい。彼女から引き離すことだけは勘弁してほしい。どうかそれだけは。どうか。
「さてと……そろそろ良い時間だ、出ようか。サ店にでも行こう、良い珈琲を出す店を知っているんだ」
「は、はい。わかりました……っ! きゃ!」
お嬢様の好きなものは珈琲ではない、甘いアイスクリームだ。ウエハースのついたバニラアイスだ。お前は何もわかっていない。そう結弦が心の中で憤慨していると、歩き始めたアリアが前から来た人間にぶつかり、足をもつれさせ大きくよろけた。
「アリアさん……!」
「……! お嬢様!」
アリアは転ばなかった。
アリアを支えたのは、一敬ではなく、結弦だった。彼女の肩をぐっと抱く。
「結弦……」
「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」
「だ……大丈夫。ありがとう」
アリアに手を伸ばしたが間に合わなかった一敬は、ほうと息を吐いた。そして、今日初めて彼は結弦を見る。視線に気づいた結弦も、一敬の顔を見た。怪訝そうな目の結弦に、一敬はその表情を出すことに慣れているのだろう、柔らかく微笑んだ。
「早川くん……だったかな?」
「はい、何でしょうか。天花寺様」
「僕だけではきっとアリアさんは転んでしまっていた。君に感謝しないといけないね」
「……いいえ、当たり前のことをしたまでです。俺はお嬢様の側付きですから」
「……。結弦、もう大丈夫。離して」
「……はい、お嬢様」
「……、……」
アリアが口を開け、閉じる。結弦への言葉が見つからなかったのだろう。彼から目を離し少し視線を彷徨わせると、今度は一敬に口を開いた。
「結弦は、私の自慢の従者です。一敬さん」
「ふふっ。そうかい」
「小さい頃から、私をこうして助けてくれるんです」
「なるほど」
素敵な関係だね、と一敬がアリアに言うと、彼女は嬉しそうに笑った。アリアが自分を自慢してくれたことに、結弦の胸は嬉しさにいっぱいになったが、その笑顔をこの男には向けないでほしかったと、ほんの少しの不快感が嬉しさの中に混じっていた。
「さあ行こうか、アリアさん」
「あ、あとですね、一敬さん」
「ん?」
「結弦も、珈琲が好きなのですよ」
「お、お嬢様……」
事実であった。
「きっと、味の違いも私より分かります。一敬さんのおすすめのお店、楽しみです。結弦に美味しい珈琲……飲んでもらいたいです」
「……? どうして、そんなことを言うのかな?」
「え……? どうしてって、一敬さん……?」
微笑んだまま、首を傾げる一敬の問いかけに、アリアは問いかけで返してしまった。
「僕は、君と珈琲が飲みたいのであって、早川くんと飲みたいわけではないよ?」
「あ……でも、結弦は珈琲が好きで……」
「それがどうかした?」
「……。いいえ、何でもありません……」
一敬はうんと頷くと、冷えた目をしたアリアの手を取って歩き出した。アリアは一瞬振り返って結弦を見たが、一敬の歩調についていくために慌てて前を向いた。
(やっぱり今すぐ死んでくれないものか)
結弦はそう思いながら。二人の透明な影になる。一敬おすすめの喫茶店につき、一敬は「二人。奥の席で」と店員に言った。三人、ではなかった。
結弦の存在など、最初から一敬にとってはどうでも良いものだったのである。
一敬が砂糖もミルクも何も入れずに飲むものだから、アリアも合わせてそうした。黒い珈琲の苦味は、アリアにはあまり理解のできないものであったが、彼女はぐっと我慢してちみちみと舐めた。
「気に入ってくれたかな? そうだと嬉しいんだけど」
「あ、はい……良い香り、です」
「そうだろう。この店で使う豆は香りも味も良い」
豆。結弦が珈琲を頼んだ時に、店主がガリガリとアリアにとってよくわからない構造のハンドルを回して挽く黒い粒は、豆だったのか。と、アリアは今さら知るのであった。珈琲が豆でできていることすら知らないほど、アリアは珈琲に興味が無かった。結弦の好きな、良い香りのする飲み物、という認識しかなかったのだ。
結弦は店の外で待っている。一敬の自分への誠実さは、アリアはよく感じていた。だが、彼と会うことは、ひどく緊張する時間であった。それとも、結弦と一緒にいる時の安らぎがおかしいのであって、男女が会う時はこうしてある程度緊張をするものなのだろうか。……自分にとって結弦は、何なのだろうか。アリアはゆっくりと黒い液体を舌にまとわりつかせながら、今ここにいない結弦へ、目の前に婚約者がいながら、思いを馳せた。一敬の話は難しい。相槌をしっかり打ってさえいれば、一敬はアリアに微笑んでくれていた。いつものことである。
「……早川くんのことなのだけれど」
「! は、はい。結弦が何か……?」
一敬が突然結弦の話を振ってきたことに、アリアは驚いた。
「彼、とても良い従者だね。よく気が利く。何より静かだ。素晴らしい」
「そ、そうですか。嬉しいです」
「ああ、そこで、なのだけれど」
「はい、一敬さん」
「早川くん、僕らが結婚したら天花寺家に持ってくるのはどうかな」
「え……」
てっきり、一敬と結婚したら結弦とは離れ離れだと、アリアは思っていた。もし一緒にいることができるのなら、これほど嬉しいことはない。それに、桐ヶ谷家から離れることで、結弦が鞭で打たれる毎日から離れられるかもしれない。
そうだ、そうに違いない。結弦が自分のために傷つくのは、桐ヶ谷家が決めたことだ。天花寺家には適用されないに違いない。アリアはそう喜びかけたが、一敬の言葉の使い方が気になった。───持ってくる。そう彼は言ったのだ。
「持ってくる……って……」
「ああ、嫁入り道具の一つとして。良い話だと思うけれど」
「嫁入り道具……えっと、一敬さん、結弦は……道具、ではないです……」
「ん? 君の従者だろう? 従者というのは、主人が美しく見えるために存在するものだよ。君と早川くんは、主従関係ではないのかい?」
「……はい。私と結弦は主従関係です」
この人が怖い。アリアは一敬に初めて恐怖心を抱いた。言っていることは間違ってはいないはず、なのにどうしてこんなにまで薄ら寒く感じるのだろうか。
アリアが震える声で言えば、うんと一敬は納得したように頷き、珈琲を飲んだ。それ以上、特に話は進まなかった。
「お嬢様。今日の天花寺様との時間は楽しかったですか?」
夕刻。一敬と別れ、カタカタと揺れる人力車の上に共に座って、結弦はアリアにそう問いかけた。楽しくなかったとは言わないだろうと結弦は思っていたが、とりあえずアリアの声を聞くために言った。だが、アリアは黙り込んでいた。
「……お嬢様?」
「結弦……もし私が一敬さんに嫁ぐ時、あなたも一緒に天花寺家に行くことになったら、どう思う?」
「それは……喜ばしいことですね。俺はお嬢様の従者ですから」
「そう……じゃあ、絶対来ないで」
「……は?」
お互いに冷え切った声が出て、お互いにそれに驚いた。続けたのは、アリアだった。
「私といたら、どこにいてもあなたは幸せになれないわ」
「何を、何を仰るのです」
「言葉の通りよ」
「意味が分かりません!」
「わからなくて良いの!」
互いに共鳴するように語気が荒くなっていく。アリアの目に涙が滲んでいたのを、結弦は見逃さなかった。
「……天花寺様に、何を言われたのですか」
「……あと一年で、私とあなたの主従関係は終わりです」
「俺の質問に答えてください!」
「……嫌!」
桐ヶ谷家の屋敷の前に車がたどり着く。アリアは逃げるように車から飛び降り、屋敷へ入っていった。
「お嬢様! ……ああもう!」
結弦は焦りで震える手で代金を御者に払うと、アリアの後を追いかけた。
アリアは、廊下の隅で佇んでいた。結弦が近づいても、氷のように固まっている。
「お嬢様……?」
アリアの視線の先を辿ると、老いた女中二人が隠れるように会話をしていた。アリアは、何かを聞いてしまっていたのだ。結弦はそう思うと、耳をそば立てる。
「早川は良いものね。お嬢様についていけば、美味いものが食べられるのだから」
「まったくそうよ」
ああ、俺の悪口か。いつも鞭で叩くのはお前たち他の使用人の役目なのに、まだ足りないか。と結弦はため息をついた。
……そして、耳を疑うことを、二人は聞いた。
「あの女の血を引いた息子ですもの。人に取り入るのが上手いのでしょう。あの女が旦那様と楽しんでいたように、あの小僧もお嬢様に上手いことやっているに決まっているわ」
「まあ不潔! うふふ」
「それにしても、ご自身と鞭打たれの早川が腹違いのきょうだいだなんて、お嬢様が知ったらどうなるかしら」
「倒れて死んでしまうのではないかしら? あのか弱い奥様の娘ですもの」
あらあら、くすくす。そう笑い合いながら女中たちは仕事に戻っていく。二人が帰ってきたことに、息を止めていることに気づかずに。
「ゆ、づる……結弦……」
アリアがゆっくりと振り向き、結弦の顔を見る。その顔は、まさしく蒼白と言って良いほどであった。そして、結弦が口を開く前に、彼女は走り、階段を上がっていった。自室に、戻ったのだろう。
「俺と、お嬢様が……きょうだい……?」
結弦の耳の奥が、またもキンと鳴った。全ての音が遠くなっていく。事実を受け止めきれない結弦を、夕陽が照らしていた。
うすらひのこいうた 3話