うすらひのこいうた 2話

その手を離さない

 早川結弦は桐ヶ谷アリアを愛している。

 それは、誰にも言えぬ祈りのようなものだった。
 彼女が瞬きをするたびに、その瞳の奥に映る景色が、自分以外の何者かへと移ろうことが怖い。
 彼女が誰かの名を呼ぶたびに、その声が自分以外の誰かのために紡がれることが許せない。

 愛とは、こんなにも苦しいものだったか。

 それでも彼は、彼女の従者として振る舞う。彼女に尽くし、彼女の影となり、彼女の痛みを引き受けることが自分の役目なのだと、自らに言い聞かせる。
 けれど、本当は知っている。それだけでは満たされない、この胸の奥に巣くう飢えを。
 
 アリアは、彼の光だ。
 だが同時に、彼の闇そのものでもあった。


「及第点、ですね」
「……! ありがとう、ございます……」
 家庭教師にそう言われたアリアは、安心したように息をゆっくりと吐いた。その感謝の言葉は、きっとほんの少し褒められたことへの礼などではなく、結弦が今日の授業では折檻されなかったことへの安堵の礼なのだろうと、そう思うと結弦は複雑な気持ちになるのであった。アリアの身代わりに痛めつけられることは、結弦にとっては苦痛でもなんでもなかったからだ。むしろ、アリアが涙を堪えて自分を見る時、事が終わった後に自分を労ってくれる時、結弦はこれ以上ないほど幸福になることができた。
 体がひどく痛いのは事実である。アリアの不出来のせいで生傷がいつまで経っても絶えないのも事実である。だが、アリアのそばにいることができるなら、彼の心はまるで砂糖菓子のように甘く蕩けるのである。
 
「今日は特別に、街まで遊びに行くことを許しましょう。門限は十六時。早川、お嬢様について行きなさい。目を離さないように」
「分かりました」
「……あ、あの」
 結弦が頷いた時、アリアが焦ったような声を上げた。
「他の方にしてくれませんか……? 結弦は、きっとひどく疲れています」
 何を仰るのです! と大きな声で言いたい気持ちを抑えて、結弦はアリアを見つめた。家庭教師はというと、呆れたようにため息をつき、アリアに冷たい声でこう言った。
「良いですか、お嬢様。この家の使用人にはそれぞれの役割があります。早川は貴女様の側付き。他の者に仕事を押し付け、早川の仕事を奪う気ですか?」
「い、いえ、そういうわけでは……!」
「分かっているのならば、早川を連れて行きなさい」
「……はい」
 結弦は、アリアに厳しいことを言うこの家庭教師の女が嫌いである。だが、今回はこの女に感謝をした。彼女のそばにいることができる機会を、一秒たりとも失いたくなかったのである。
「お嬢様、準備をしましょう。大丈夫、俺がついていますから。思う存分息抜きをしてください」
「……。ええ、ありがとう結弦……」
 家庭教師が形式的なお辞儀をして部屋を出ていく。アリアのことを、本当は見下しているくせに。と、結弦の心の中は嫌悪感で溢れた。だが、それも一瞬。アリアと遊びに行けることに、結弦は嬉しさで舞い上がりそうであった。

「結弦、準備ができました」
「お嬢様。入ってもよろしいでしょうか?」
「ええ」
 部屋の外でしばし待ち、アリアの許可が出た。結弦が部屋に入ると、アリアはよそゆきの服へ着替え終えていた。袖口にフリルの付いた愛らしい白いブラウス。胸元には、彼女の瞳と同じ色のブローチの付いた赤いリボンがふわりと主張している。令嬢にしてはシックな色合いの黒いフレアスカートは、それでも生地の上等さで分かる者には分かる上品さを醸し出していた。
 なんて愛らしいのだろう、と結弦はアリアをうっとりと見つめた。すると、彼女の失敗を見つけてしまった。ブラウスのボタンを一つかけ違えている。自分以外に誰もいなくて良かったと安堵し、結弦はアリアに近づいた。
「新しい服なの……似合ってる?」
「ええ、とても素敵です。ですが、少しだけ……失礼します」
「……? あっ、私、ボタンを……」
「ふふ。そうです」
「恥ずかしい……」
「ここにいるのは俺だけなんですから、恥ずかしがることはないですよ」
 結弦はアリアのブラウスに手を伸ばす。そして、ずれたボタンを一度外し、直していく。彼の指が、わずかにアリアの喉元をなぞる。ぞくりとした感触に、彼女は思わず息を止めた。
「……わ、たし」
「ん?」
「私、結弦に頼ってばかりね」
 その言葉に、結弦はふっと笑った。
「そうかもしれませんね? はい、直りましたよ」
「そうよ。……行きましょう?」
「はい。靴も新しいものがあるでしょう。それにしましょうか」
「ええ」
 玄関で結弦に靴を履かせてもらうたびに、彼の手がそっと足首を撫でるのをアリアは知っている。でも彼女は、それを咎めたことがない。
 アリアはなるべくなら、結弦に頼りたくはなかった。頼っているから、結弦は鞭で打ち据えられるのだと、そう考えていたのだ。けれど、今の不出来な自分は結弦に頼るしかない事実も分かっていた。だから、自分を変えたかった。結弦に、自分と一緒にいて楽しいと思ってほしかった。───結弦の心の内を、アリアは知らない。
「お手をどうぞ、お嬢様」
「はい、結弦」
 二人は手を繋いで、昼下がりの空の下へ歩き出した。

「サイダーとアイスクリームにしようかしら。結弦は何を頼むの?」
「俺は珈琲で」
「それだけ? ダ、ダメよ」
「ダメって……?」
「結弦も美味しいものを食べなきゃ、ダメよ……」
「……。はは、分かりました。では、お嬢様と同じアイスクリームも。それでよろしいですか?」
「そう、それで良いの……」
 そんなやり取りをして、二人は注文をする。街の小さな喫茶店の奥の席に、二人は座っていた。
 やがて、水色のサイダーが一つ、黒々とした珈琲が一つ、ウエハースとさくらんぼが乗った真っ白のアイスクリームが二つ、二人の元へ運ばれる。
 いただきます。と二人は小さく言い、アイスクリームを口に運ぶ。冷たいが優しい甘さのそれは、口の中でやさしくほどけていった。
「こんなにたくさんの人がいるのに、みんながそれぞれ違うことをしているのね」
 アイスクリームのスプーンを咥えながら、アリアがぽつりと呟く。店の窓から見えるのは、思い思いに歩く人々。笑い合う子どもたち、急ぎ足の商人、新聞を片手に一息つく紳士たち。誰もがそれぞれの目的を持ち、この街の一部として息づいている。
 アリアはそんな風景を、まるで初めて目にするもののように見つめていた。

「……お嬢様は、街が好きなのですか?」
「ええ。でも……不思議ね。ここにいると、私がどこにいても、誰も気に留めないのね」
 スプーンを口から外し、アリアは小さく笑った。
「家では、何をするにも誰かの目があって、いつも正しくいなきゃならないのに。ここでは、私が何をしても、誰も私を咎めたりしない」
 結弦は、その言葉を聞いた瞬間、息が詰まるような感覚に襲われた。
 まるでアリアが、この街に溶け込み、どこかへ消えてしまうような気がして。
 彼女が自由を求めるたびに、自分の手の中からするりと抜け落ちてしまうようで。

 ダメだ。
 彼女は、俺だけの───

「お嬢様」
 自然に笑顔を作りながら、結弦はアリアの手の上に、自分の手を重ねた。
「俺は、どこにいてもお嬢様を見ていますよ」
 誰も見ていなくても、自分だけは彼女を見ている。彼女がどこへ行こうと、何をしようと、決して目を離さない。
「……ありがとう、結弦」
 アリアはそう言って、手を引っ込めることはなかった。
 それが、彼女の優しさなのか、それとも、自分と同じように、愛してくれているからなのか、結弦には分からなかった。
 ただひとつ確かなのは、この手を離せば、彼女はどこか遠くへ行ってしまうということ。
 
 だから彼は、どんなに指が震えても、その手を離さなかった。

うすらひのこいうた 2話

うすらひのこいうた 2話

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2025-11-26

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