うすらひのこいうた 1話
完璧で幸福な少女
桐ヶ谷アリアは、完璧でなければならない。
そうしないと、罰を受ける者がいる。
けれど、アリアはお世辞にも完璧な淑女とは言い難かった。
自室で、アリアは震えていた。
目の前には、今まさに罰を受けようとしている少年がいる。
艶の無い煤けたような黒色の髪、痩せた体、服で隠れたその体に無数にあるであろう傷跡。
床に片膝をつき、静かにその時を待つその姿は、まるで処刑を待つ囚人のようだった。
「……ごめん、なさい」
アリアは声を振り絞った。だが、その謝罪が誰に向けたものなのか、自分でも分からなかった。
少年の前に立つ女にか、それとも───これから鞭を受ける少年にか。
「アリアお嬢様、何度間違えれば気が済むのです」
女……アリアの家庭教師が片手で己の眼鏡を押し上げ、低い声で彼女を叱責する。厳格な眼差しがアリアを射抜いた。
「貴女様は桐ヶ谷家の娘です。一切の失敗を許されません。なぜ、こんな簡単な問いすら解けないのですか? 予習は? 復習は? 今からすることは、全て貴女様の怠慢のせいです」
「あ、の……先生ごめんなさい、ごめんなさい……もっと頑張りますから、だから……」
喉が強張る。つい先ほどの失態が、鮮明に蘇った。
つい先ほどまで受けていた科目は外国語、その発音を一音だけ間違えたのだ。
それだけのことだった。
けれど、この家において『それだけのこと』は存在しない。たとえ些細な振る舞いであろうと、完璧でなければならなかった。
「先生、罰を」
少年が静かに言った。それを合図に、鞭が振り上げられる。
アリアは咄嗟に目をぎゅっと閉じた。
お願い、やめて!
その言葉を口にする前に、音が響いた。
肉を裂く音、うめき声が聞こえる。アリアの体に走る鋭い痛みは、ただの錯覚であった。
叫んで逃げ出したかった。だが、それは許されない。
少女はただ、冷え切った手でスカートを握りしめ、喉に込み上げる酸っぱいものを、何とか堪えるしかなかった。
彼を守るために、完璧でなければならない。決して、間違えてはならない。そう、決して。
発音を間違えた。一回。
予習が足りなかった。一回。
復習が足りなかった。一回。
合計三回、少年は鞭で強く打ち据えられた。アリアは今立っているそこから一歩も動けなかった。スカートを握りしめた手も離せない。少年が今どんな顔をしているか、顔を上げて見ることもできない。そんな勇気は彼女には無かった。
「ゆ、づる」
震えた声で少年───早川結弦の名を呼ぶのが、アリアの精一杯であった。俯いていた結弦がはっと顔を上げる。彼の琥珀色の瞳が、俯くアリアの顔を覗き込む形になる。アリアの淡青色の瞳は、分厚い水の膜に覆われていて、アリアはそれを雫として落とさないために必死で、視線は交わらなかった。
「お嬢様、着席してください。三十五ページ、五行目の和訳からやり直しです」
「はい……」
まるで何事も無かったかのように、家庭教師は授業を再開する。重い体を引きずるようにアリアは席につく。
「お嬢様。俺のことはお気になさらず」
結弦はアリアのその小さな背中に声をかける。集中が途切れます、静かにしてください。と家庭教師はそれをきつい声音でたしなめた。
今日の授業が終わるまで、あと三十分。時計の針がチクタクと進む、時間が止まることはない、必ず解放される時は来る。だが、アリアにとっては一時間に満たない残り時間も、地獄にいるかのような心持ちであった。
その夜、アリアは夕食と湯浴みの後、自室で日課の、勉強の予習と復習に励んでいた。食事の時間も彼女にとってはいつ失敗してしまうかわからず、味がよくわからないほど緊張するものだ。ナイフとフォークの角度ですら一度でも失敗したら、また目の前で鞭を構えた使用人が、同じ使用人である結弦を叩く。湯浴みの時間と、ベッドに潜る時、部屋で一人で物語を読む時くらいが、アリアにとっての安らぎの時間であった。
アリアは、雪色の腰のあたりまで伸ばした髪に、静かな光を湛える淡青色の瞳、透き通るような白い肌、それに澄んだ高い声を持つ、美しい少女だ。そう、見た目だけは完璧な美少女であった。
千九百××年、今年で十四歳になった。
その見た目は、異国の生まれの母親に生き写しだと老いた使用人は囁いていたが、アリアを産んですぐに産後の肥え立ちが悪く亡くなった母親のことは、アリアは正直特別思い入れはなかったし、貿易会社を営む父親は世界中を飛び回っており家に帰る時の方が少なく、アリアと最後に会ったのは一年も前だ。彼女は父親に思い入れも、特になかった。
だが、その会う機会の少ない父親は、アリアに『国内でも国外でも通用する完璧な淑女』であることを求めた。その結果、毎日様々な勉強漬けの日々だ。学校には通っておらず、父親が選んだ家庭教師たちがアリアの教育を担っている。
(明日こそ、失敗しないようにしなければ。……でないと、また結弦が私の代わりに傷つく)
アリアと結弦は、幼い頃からの主従関係だ。同い年であり、幼馴染。本当に幼い頃こそ、一緒に庭でかくれんぼや追いかけっこをしたりと、友人のような関係であったが、アリアの淑女としての教育が始まってから、結弦の本当の立場をアリアは知った。二人を親しくさせることで、結弦が折檻を受けた時にアリアの反省心を強める。そういう仕組みだったのだ。
問題集に書かれた問いの答えを書くのを一区切りするまで書いた後、自己採点に移る。……半分ほど間違えていた。どんなに頑張っても不出来な自分を変えられないことに、アリアは悔しくて涙が出そうになった。
その時、扉を静かにノックする音がした。
「アリアお嬢様。結弦です。お休み前のハーブティーをお持ちしました」
「……結弦……。どうぞ、入って」
扉が開く。手に持った銀の盆の上に柔らかな薄緑色の液体が入ったガラスのティーポットと、上品な柄のティーカップを乗せて、結弦が入ってくる。
「いつもありがとう」
「いいえ、どういたしまして。お嬢様」
親しげに結弦は言う。長年の付き合いで培ってきた親しい関係から来るやわらかなやり取りが、今のアリアの胸をチクチクと刺した。
結弦の慣れた手つきでカップに注がれたハーブティーを受け取り、アリアは一口飲む。
「カモミールね」
「ええ……お勉強中でしたか。もう夜も遅いです、これを飲んだら眠らないと」
その声音が、何よりも痛かった。
「ねえ、結弦」
「はい、何でしょう」
たまらず、アリアは問いかける。
「……傷、痛む?」
「何のことです?」
「隠さなくていいわ」
結弦は少し目を細めたあと、ゆっくりと笑う。その笑顔は、どこまでも穏やかで、優しくて……それが、たまらなく、苦しいのだ。
「痛くないですよ」
嘘だ。そんなはずがない。
アリアは、そっと結弦の手に触れる。彼は少し驚いたように目を見開いたが、拒まなかった。アリアの白い指は、氷のように冷たかった。
「……ごめんなさい」
アリアのその言葉に、結弦は形の良い眉をひそめた。
「なぜ謝るんです?」
「私が……完璧でないせいで、あなたが……」
言いかけた瞬間、結弦の指がアリアの唇に触れた。
「それ以上言わないでください、お嬢様」
結弦の声がほんの少しだけ震え、瞳の奥に影が落ちたことに、アリアは気づいた。
「俺がこうしてここにいるのは、俺が望んだからです。お嬢様が悪いわけじゃない」
「……でも」
「それに、」
結弦は、ふっと微笑んだ。そして、深い琥珀色の瞳でアリアを見つめる。
「お嬢様が俺のことを考えてくれるのが、俺、すごく嬉しいですよ。だから、その心だけでじゅうぶんです」
その言葉に、アリアの胸はひどくざわめいた。胸が痛いはずなのに、幸福を感じていた。彼の微笑みが、目にしみるのだ。
嬉しい、だなんて。こんな関係が、許されるはずがないのに。
───この心の奥底で疼くものの正体を、アリアはまだ知らない。
ただ、夜の静寂の中で、二人はそっと手を重ねた。氷を、解かすように。
うすらひのこいうた 1話