精なる森のリュフリス
第一章 サクノの季
「––––こうして、私たちの祖先であるエル様は、エルドリクスから精なる森を取り戻したのでした。めでたしめでたし」
精なる森の集会所。木々の上に木の板など加工したものを組み合わせ道を作り、足場を作り。そうして生み出された足場に住む場所を作る。陸空の家々で出来た精なる森の集落には、リュフリスの子どもたちが定期的に集まって森の族長であるエリーエルの話を聞く集会所がある。その時も子どもたちは集まって、集落で恒例の『精なる森のエル』の物語を聞いていた。
昔々に聞いた物語。何度も聞いた物語。精なる森で生まれたリュフリスたちは、何度もこの話を聞かされて育つ。そして、何度も聞かせてほしいと強請るものだ。
「でも、皆はエルドリクスと戦ってはいけませんよ。エルドリクスはリュフリスの言葉で『エルに敵対するもの』。とーっても怖い生き物たちなんですからね」
皆に話を聞かせていたエリーエルは、話の最後にたっぷりの脅しをかけてから終わらせる。これは『精なる森のエル』聞かせる上でエリーエルが欠かさない、恒例の流れであった。
「怖いねー」「わたし、エルドリクス見たことないー」「僕は見たことあるよ!」など、リュフリスの子どもたちは、エルドリクスに対する恐れや興味を思い思いに口にする。そしてそれをエリーエルが微笑ましく見守るというのもまた、いつもの流れだった。
「はいはいはーい!」
その中で、大して怖がりもせず、いつもはすぐに寝てしまうが今回は初めて物語を全て聞くことができた、興味津々な顔をして手を挙げる子どもがいる。
「エリーエル様! 質問!」
「はい、なんでしょう」
エリーエルはその子どもが最後まで起きていたこと、そして起きていた上で質問をしてきたこと。それらに驚きの表情を一瞬浮べるものの、優しい微笑みに切り替えた。
手を挙げた子ども、ナナパラフはそんなことを気にする様子もなく、勢いよく立ち上がってエリーエルに質問を投げかける。
「––––––––?」
あの時、ナナパラフはなんと質問したのか。
♢ ♢ ♢
「––––––––なんて聞いたんだっけ……?」
窓から差し込んでくる光が目にかかり、ナナパラフは目を覚ました。
随分と懐かしい夢を見ていた。ナナパラフがエリーエルの話を聞きに行かなくなってから、17ほど季は流れている。それでもナナパラフはいまだに『精なる森のエル』の話をあらかた覚えていた。この話を全て覚えているリュフリスは決して珍しくない。最後まで寝ずに聞くことができた機会が少なかったナナパラフでさえ、そうなのだから。
ナナパラフは大きく伸びをしてベッドから起き上がり、光を差し込んできた窓から外を覗く。一本の大きな木がそびえ立ち、それを囲むように木々が森を形成している。それらの木々に寄り添ったり支えられたりしながら多くの家が立ち、森と共存する形で集落は出来上がっている。
その集落に立つ家の中でも、ナナパラフの家は特に見晴らしが良く、窓からの景色としては申し分ない。なにより他の家よりも高いところにあることで優越を感じることができるという点でも、ナナパラフは自分の家を気に入っていた。
ナナパラフは精なる森で生まれたリュフリスである。そもそも精なる森以外で生まれたリュフリスをナナパラフは知らない。この精なる森にいるリュフリスは細い四肢を持ち、背中に薄い羽根があり、空を飛ぶことができるが、他のところで生まれたリュフリスもそういったことができるのだろうか。と考えることがある。
リュフリスは精なる森を生息地として暮らす、精霊や妖精のようなものだとナナパラフの友達は言っていた。かつて存在した「ニンゲン」という生き物はリュフリスのような生き物を描き、それを精霊や妖精と呼んでいたのだそうだ。大昔の英雄とされるリュフリス、『精なる森のエル』のモデルであるエルですらニンゲンが滅んだ後に生まれたのだから、ニンゲンはリュフリスの姿を見たこともなかっただろうに。空想だけでよく未来の生き物を当てることができたものだと、その話を聞いた時に感心したことをよく覚えている。もっとも、リュフリスにも姿形は個性があるのだから、ニンゲンが完璧に姿を当てていたというものでもなく、近いものとして当たっている、くらいなのだろうということも、その友達の受け売りである。
例としてナナパラフは肩にかかるくらいの黒髪にあどけない顔つき、リュフリスの中でも高くない背丈から、「ニンゲンの基準で言うところの」美少女にあたると言われたことがある。そして、男や女の区別のないリュフリスにおいてはあまり意味のない区分ではある、ということも。
「今日もいい天気だなぁ」
森の上から差す葉漏れ日が、ナナパラフの瞼を再び重くしていく。こんないい天気の時には、心ゆくまで寝るに限る。心ゆくまで寝て過ごして、目が覚めたらクランツと遊ぼう、そうしよう。
そんなことを考えながら、ワンルームしかないにもかかわらず物が散乱した部屋の掃除からは目を逸らす。それもいつものことなので。と思いながら、ナナパラフは再び寝床に就こうと、ベッドに身体を預けた。
「ナナ、ナナ!」
そんな眠ろうとするナナパラフの身体を引き止める声が、家の外から聞こえてきた。どうせ扉を開けなくても合鍵で開けて入ってくるだろう。噂をすればなんとやらのクランツだ。
ナナパラフとクランツは長い付き合いだ。ニンゲンについて教えてくれた友達で、昔、集会所でエリーエルの話を聞いていたときも、いつもお互い隣同士であった。もっとも、勉強好きでエリーエルの話をちゃんと聞いていたクランツと比べ、ナナパラフは眠りながら聞いていた、という違いはあるが。
ナナパラフの予想通り、クランツはガチャガチャと開錠すると、扉を勝手に開けて入ってくる。お見事、私! とナナパラフは内心で自画自賛した。ベッドの中から少しの笑みを浮かべて申し訳程度に体を起こし、クランツに話しかける。
「クランツ、ちょうどいいところに。私これから適当に寝るから、適当に起こして。起きたら遊ぼう」
クランツはナナパラフの家に不定期で遊びに来ていた。そんな時にもナナパラフは自分のしたいことをしていたが、クランツは文句も言わず本を読んだりして時間を過ごしていた。そんな時間をナナパラフもクランツも結構好きでいたのだ。これを一緒に遊んだと言って良いのかということはさておき。
そんな気ままな言動をするナナパラフに対して、クランツは基本的には文句を言わない。クランツもその状況を気に入っているからである。だが、今回は焦った顔で首を横に振った。長く艶々した栗色の髪が、左右に揺れる。
「そんなこと言ってる場合じゃないよ! 出撃命令、出てるよ!」
クランツの言葉に、ナナパラフは一気に眠気が吹き飛び、一気に体を飛び起こして、そして一気に青ざめる。
「うっそぉ! ぜんっぜん気づかなかった!」
出撃命令は集落全体にサイレンと共に放送される。普通なら気がつく放送にナナパラフが気が付かなかったのは、さっきまで眠りこけていたからに他ならない。
「嘘ならこんな大急ぎで呼びに来ないよ! 隊服着て! ほら早く!」
大慌てで急かすクランツの言葉など、ナナパラフの耳に入らなくなっていた。大急ぎで散らかった部屋から着替えを取り出し、すぐに出動できるように準備をし、飛び回り跳ね回り身体を動かす。
そんなナナパラフの横で、クランツは身振り手振りで急げ急げと伝えてくる。ナナパラフの家の構造や何がどこにあるかはクランツもわかっていたが、下手に横から準備を手伝うと邪魔になりかねない。以前手伝おうとしてナナパラフと頭をぶつけ合った時に喧嘩になったことから、お互いに学んだ経験則である。
準備が完了したところで、ナナパラフは鏡の前で一度仁王立ちし、目視で自分の姿におかしいところがないか確認する。緑の隊服がよく似合うと我ながら感心する。さらに自分の身体を順々に指差しでも確認していく。
「隊服よし! 軽量化リングよし! 羽根の輝きよし! 素敵な見た目よし! 今日も美少女? とかいうやつ! のはず!」
「そういうのいいから! ふざけてないで、早く行こう! 隊長に怒られちゃう!」
ナナパラフのおふざけにクランツは少し苛立ちながら言う。これは私が悪いな。と思いながらも、焦っている時こそ冷静でなくてはいけないという言い訳をナナパラフは持っている。それを正直に伝えたところで、クランツをさらに苛立たせるだけとわかっているから、心の中で持っているだけだが。そして、先ほどまで自分でもびっくりするくらい慌てながら準備していたのだが。
ナナパラフは勢いよく扉を開けた。やはり天気は快晴、今日も視界は良好。一気に現場まで駆け抜けることができそうだ。
「それじゃ、私先に行くから! お先!」
ナナパラフは起こしに来て準備ができるまで待っていてくれたクランツを置いて、勢いよく家を飛び出した。ナナパラフは動きが速く、最初の加速も他のリュフリスよりも速い。あっという間にクランツを置いてけぼりにする。
「え!? 待ってよ、ナナ!」
置いていかれると思っていなかったクランツは、それでも丁寧にナナパラフの家の扉を閉め、合鍵を使って鍵を閉める。
呼びに来て準備で待たされて置いていかれて自分の家でもないのに戸締りして。こんなに踏んだり蹴ったりなら呼びになんか来るんじゃなかったと思うクランツだった。
♢ ♢ ♢
精なる森の外れ。ナナパラフはクランツを置いて、先に現場に到着する。現場ではエルドリクスの周りを飛び回る討伐隊員であるリュフリスたち数名と、それを離れて見ているリュフリスがいる。ナナパラフは、真っ先に離れて見ているリュフリスに近付いて声をかけた。
「ジュノー隊長! エルドリクスは!?」
そのリュフリスの名はジュノー。エルドリクスを倒すための「エルドリクス討伐隊」の隊長を務めるリュフリスである。他のリュフリスよりも高い背と鋭い顔つきは他者に威圧感を与え、短く整えられた白銀の髪と色白の肌は他者に凛々しさを感じさせる。
エルドリクス討伐隊は精なる森を守るため、そしてエルドリクスを倒し回収するために組織された部隊である。かつてエルが精なる森を取り返した際に、エルドリクスが反旗を翻したために結成したことが興りと言われている。
それからいくつもの季を越えているため結成当時の隊員はもういないが、現在も隊員を変え隊長を変え組織は生きている。ナナパラフやクランツは討伐隊に仮入隊している隊員であり、そして現在の隊長こそが、隊で最も歴が長いジュノーであった。
ジュノーはその威圧感と凛々しさを感じさせる顔でナナパラフをチラリと見たかと思うと、敢えてナナパラフに聞こえるくらいの音量で溜息を吐いた。
「遅いぞ、ナナパラフ」
「私だけ!? クランツの方が到着遅かったじゃん!」
「えぇ!?」
ようやくナナパラフに追いついたクランツは、しれっと行われた裏切りに息を切らしながら哀しげな表情を見せる。ナナパラフは言った後に、これはもう寝てても迎えには来てもらえないな、と自分の失言に気がついた。
ジュノーはクランツを一瞥した後に、ナナパラフの頭を軽く叩いた。
「どうせクランツが呼びに行ってから起きたんだろ。クランツに感謝しろ」
「そんなの隊長にはわからないでしょ! 本当にクランツが遅れただけかもしれないのに!」
「日頃の行いの差だ」
「ぬぐぐ……」
日頃の行い、と言われるとナナパラフにはもう何も言えることがない。今まで散々遅刻だけでなく、命令無視や独断行動を繰り返してきた。除隊とまではいかずとも、かなりの数の贖いを熟している。
もう何も言えないナナパラフの後頭部をクランツも一度小突き、一緒に頭を下げる。
「……ごめんなさい」
ナナパラフの謝罪を聞いたジュノーは、エルドリクスと戦っているリュフリスたちを指差した。現在、エルドリクスの周りを飛び回っているリュフリスたちも、ナナパラフと同じ討伐隊の隊員である。
「早くいけ。他の隊員はもう戦っているぞ」
ナナパラフは隊員たちが戦っているエルドリクスを見る。現在、エルドリクスは3種類見つかっており、今いるエルドリクスはその中で最もオーソドックスな種類である。
背中に丸みを帯びた半球型の体を持ち、背中にあたる部分はつるんとしていながらも、他のエルドリクスとは違う圧倒的な硬さを誇っている。脚側は、多くの脚が慌ただしく蠢いている。脚側の肉体が柔らかく弱点となっているが、そのサイズは2階建ての家くらいであり、ひっくり返すのは容易ではない。
そして、このエルドリクスの最大の特徴は、口と思わしき器官から熱線を放つことである。
現在も、直線的な熱線を放ちながら、リュフリスを狙っている。だが、体の構造上あまり上は向けないため、高いところから攻撃するのがセオリーだ。そのため、余計にエルドリクスの脚元、弱点を狙いにくい。
リュフリスたちはエルドリクスに対し熱線に似たような、しかしエルドリクスが放っているものよりも線の細い熱線を指から放つ。あれがリュフリスの攻撃手段である"マギマ"である。エルドリクスの腹部くらいなら簡単に貫くことができる威力はあるが、現在戦闘に出ているリュフリスたちのマギマでは硬い背中の殻をやぶるだけの威力が出せず、苦戦しているようであった。
「上からできるだけ同じところを狙って!」
「避けて避けて!」
それを見たナナパラフは「なーんだ」と漏らした。
「急いで来たのに、イ型じゃん。なら、私たちいなくても良かったんじゃない? いつか殻も破れるでしょ」
イ型はエルドリクスの中では最も個体数が多いとされている。熱線は当たれば怪我で済まない上に背中は硬いが、数が多い分隊員たちも討伐経験値がある。皆が何度も戦っているため、他のリュフリスたちだけでも倒すことは十分に可能だ。
ナナパラフは、こりゃ必要ないかな。と内心思うものの、ジュノーはナナパラフの背中を押した。
「お前がいた方が早く済む。ほら、行け」
うーん、残念。サボれなかったか。
「はーい。クランツ、いつものよろしく」
「うん!」
ナナパラフとクランツはエルドリクスに向かって飛び立つ。ナナパラフとクランツに気がついたリュフリス、ピッチラが高速で手招きを繰り返す。
「ナナ! 遅い! はやくはやく!」
「ごめーん、やっぱりサクノの季は眠くってさ」
ナナパラフはエヘッと舌を出す。だが、ピッチラはそれを冷めた目で見る。今日はなんだか、誰も笑ってくれないなぁ。明らか言うタイミングを間違えているんだろうけど。
ナナパラフがそんなことを考えていると、クランツがナナパラフに声をかけてきた。
「無駄話してないで! 来たよ!」
エルドリクスが勢いよく突進してくる。それをナナパラフとピッチラは間一髪のところで回避した。そのままエルドリクスは熱線を放つも、それもリュフリスたちは各々回避する。
回避したままナナパラフは高所を位置取りって状況を確認し、攻撃をしても周囲の環境に最も被害の少なそうなところを探す。マギマは熱量が多い為、下手に放つと自然を傷つけてしまう。それを避けることも討伐隊の務めである。
そして、特に遮蔽物が少ない場所を一箇所決め移動し、地上付近で回避に徹しているクランツに声をかけた。
「クランツ。ここ、ここ」
「了解!」
「よろしくー」
上空にいるナナパラフの位置を把握したクランツは次の攻撃の為にエルドリクスの正面へと移動する。そしてエルドリクスの目の前をヒラヒラと飛び回りながら、エルドリクスの視線を誘導する。
「さぁ、こっちだよ! ダンゴムシくん!」
クランツはそのまま左方向へ回避していく。それを追うようにエルドリクスは方向を転換し、ナナパラフが上空で待つ場所へと導かれていった。
「なーんでクランツはあいつのことダンゴムシって呼ぶんだろ。ま、いつものことだけど」
エルドリクスのイ型は、古代生物史に名を残す「ダンゴムシ」という生き物に見た目が酷似しているらしい。ナナパラフは何度古代生物史を見ても気持ち悪い生き物がいっぱい載っているなぁ。としか思えなかったが、クランツはその本を好んで読んでいた。その中にダンゴムシという生物がいたのだろうと、うっすらとした記憶に触れてはいた。それでもナナパラフは、皆がイ型と呼称するその生物をクランツがわざわざダンゴムシと呼び続けることに違和感を感じていた。
ダンゴムシことエルドリクスのイ型がナナパラフの近くまで熱線を放ちながら移動してくる。熱線により周囲の木々は折られ、薙ぎ倒され、ダメージを受ける。早く倒さないと、またジュノーに怒られてしまう。
「さぁ。それじゃ、いっきますか!」
ナナパラフは右の握り拳から人差し指だけ立てて、その指先に力を込める。マギマが人差し指の先に溜まり、今にも発射されそうなほどの熱量を持ち始める。左手で右の手首を押さえながら、その人差し指の先は真下に向けた。
「ナナ! 頭を狙って!」
エルドリクスの熱線を躱しながらナナパラフの真下を通り過ぎたクランツが叫ぶ。
「どこが頭かなんてわかんないよ、こいつ」
エルドリクスがクランツを追いかけてナナパラフの真下に差し掛かる。指先で力を蓄えていたマギマが、その熱を一点に収縮する。
「そこらへん、かな!」
そして、光を放ったかと思うと、一筋の大きな熱線となってナナパラフの指から放たれた。その勢いは他のリュフリスと違い、エルドリクスのそれと遜色ないほどの威力、そして放たれたと思った瞬間には着弾しているほどのスピードだった。
身体をマギマに貫かれたエルドリクスから出ていた熱線は徐々に力を失っていき、蠢いていた脚も少しずつ動きを緩め、そして完全に力を失いその巨体は沈んだ。
「すご……さすが“シュナ”……」
討伐隊の誰かが思わず口から漏らす。それを地獄耳で聞き取ったナナパラフは、得意げな笑みを浮かべた。
シュナは討伐隊の最も優秀なリュフリスに与えられる称号である。ナナパラフが好き勝手できる理由として、他のリュフリスを寄せ付けないほど圧倒的な実力があるからであり、実績もその分挙げているから、ということがある。
基本的な討伐隊の動きとしては、シュナを中心に周りが陽動をかけ、シュナがトドメをさすというものである。シュナが中心になるからこそ、ナナパラフの遅刻癖は討伐隊を纏めるジュノーにとって大きな悩みの種でもあった。
そのジュノーはエルドリクスに近付き、身体を観察し触れ、その命が完全に絶たれていることを確認する。その間、空で警戒態勢を解いていなかったリュフリスたちは、ジュノーの指示を待った。
確認が終わると、ジュノーは討伐隊員たちに指示を出す。
「よし! それでは、各自解体作業に入れ!」
エルドリクスを倒した後は死骸をマギマで細かく切り刻み、解体する。そして解体した身体の部位の内、使わない分はそのまま放置しておけば土に還り、使う分は持ち帰る。解体作業の間に討伐隊の中の一部のリュフリスが、精なる森で待機している回収隊を呼びに行き、討伐隊と回収隊で一気に運びきるというところまでが解体全体の流れである。
ナナパラフはこの解体作業が苦手だった。エルドリクスの身体を解体すれば体液が出てくる。その体液を浴びたくないという理由もあるし、なにより力加減が苦手なため必要以上に傷つけてしまいかねない。いくら死骸とは言え、無闇矢鱈に傷をつけるのは、そのエルドリクスに申し訳ないと感じてしまう。
他のリュフリスたちが解体作業をする中、どうにか少しでもサボれないかと考えるナナパラフは、なるべくゆっくり空中から降り立つ。辺りを見回し、他と同じく解体作業に取り掛かろうとするクランツに近付いていった。
「お疲れー、クランツ。ナイス陽動」
ひょこひょこと歩きながら近付くナナパラフに気がついたクランツは、溜息を吐きがならナナパラフに詰め寄る。
「ナナ! 頭を狙ってって言ったじゃん!」
「とりあえず動きは止まったんだからいいじゃん」
あそこは頭じゃなかったんだ。ということをナナパラフは今知った。色々な生き物を知っているクランツとあまり知らないナナパラフでは、エルドリクスの身体の構造の認知に差がある。ナナパラフが頭だと思って攻撃した部位は、リュフリスでいうと肩と肩の間だとクランツは説明した。
「でも、あそこでも動きが止まるってわかったのは、ある意味良い成果なのかも……でもナナのは威力が強すぎるし、他のリュフリスでも同じになるかは……」
と、クランツは小難しく考え出す。クランツは将来研究者にでもなるのだろうか。ならなかったとしても、研究者と似たようなことは趣味でするだろうな。と、この姿を見ているとナナパラフはいつも思う。
ブツブツと呪文のように独り言を唱えるクランツをナナパラフが眺めていると、近くから呼びかける声が響いた。
「ナナ先輩! クランツ先輩! お疲れ様です!」
「おー、ルルミル。おつー」
「お疲れ様、ルルミル」
ナナパラフとクランツのことを先輩と呼び近付いてきたのは、ルルミルというリュフリスだ。ルルミルは討伐隊の中で最も若い。60季が過ぎたリュフリスは希望すれば討伐隊に仮入隊できるのだが、ルルミルは62季目に入ったところで、討伐隊に仮入隊して2季しか経っていない。ちなみに、ナナパラフは77季、クランツは78季で、仮入隊は80季まで。その後は、正式に入隊するかどうかを選択することになる。
ルルミルは興奮冷めやらぬ様子でナナパラフに歩み寄った。
「ナナ先輩のマギマ、ドーンって感じですごいです! 私なんてまだビビーって感じなのに! なんであんなにチューンギュン! ってなるんですか!?」
ルルミルの言うことは擬音が多すぎる。だが、感覚派のナナパラフはルルミルの言いたいことがなんとなくわかっていた。要は、ルルミルは全力で褒めてくれているのだと。
誇らしい気持ちになるナナパラフの隣で、ナナパラフ以上に言いたいことをわかっているクランツはルルミルの頭を優しく撫でた。
「いやいや、充分だよ。ルルミルもまだ入って季が2つしか過ぎてないのに、優秀すぎるくらい」
実際、ルルミルはかなり優秀なリュフリスであった。仮入隊期間はしばらく前線に立つことはないのが基本であるが、ルルミルはかなり早い時期からエルドリクスと戦っている。それが目立たないのは、仮入隊期間にも関わらず正式入隊の他隊員を差し置いてシュナに選ばれたナナパラフがいるからに他ならない。
クランツの励ましも、ルルミルには少し気に食わなかったようで、ムッとした表情を浮かべる。
「でも、ナナ先輩とクランツ先輩が来るまで、私はこいつに大したダメージを与えられなかったんですよ。悔しいじゃないですか」
「そりゃあ、修行が足りないねぇ」
「ナナ先輩は一撃だったのに」
「そりゃあ、天才だからねぇ」
クランツから鋭く睨まれる。五月蝿い、黙ってて。といったところか。ナナパラフはクランツの目が言った通り、唇を口の中に仕舞い込む。
ナナパラフが口を噤んだことを確認したクランツはルルミルに向き直り、安心させるように微笑した。
「少しずつ弱らせるのは確実な討伐方法のひとつだよ。ルルミルのやり方は理に適っている。ナナのマギマがやりすぎなんだ」
クランツの今日一日迷惑をかけられっぱなしだったことに対する口撃に、先ほど閉じたばかりのナナパラフの口が開き直す。
「そんなことないですー。いやーあのエルドリクスは、ちょっとやそっとじゃ倒れなかったなぁ。私だから倒せたなー」
明らかな見栄っ張りにクランツは呆れるが、ルルミルはナナパラフの言うことを完全に信じ切り、目を輝かせながらナナパラフにグイっと近寄る。
「うわぁ、やっぱり流石です! ナナ先輩! 尊敬します!」
「え、えへへ。そう?」
わかりやすく調子に乗ろうとするナナパラフに対し、クランツは呆れ顔をさらに深めた。
「ルルミル。あまり、ナナを褒めすぎないでね。調子に乗るから」
「クランツはもうちょっと褒めてくれていいんだよ!」
「日頃の行いでしょ!」
ナナパラフはクランツの肩に掴みかかる。それをクランツは両頬を片手で掴みながら迎え撃ち、ルルミルはその様を見てクスクスと笑う。そこへ、ジュノーの声が飛び込んできた。
「お前たち、いつまで喋ってるんだ。早く解体作業に入れ。特にナナパラフ」
「なんで! 私! だけ!」
「日頃の行いだ」
「それ言えばいいと思ってない!?」
キーッと睨みつけるナナパラフを無視し、ジュノーはクランツとルルミルを見る。
「クランツ、ルルミル。そいつがサボらないかちゃんと見ておけ」
解体作業はクランツとルルミルもしていなかったのだが、ジュノーからの信頼度がこうも違うのかとナナパラフは下唇を噛む。実際に目の前で信用されてないことが判明すると、いくら問題児寄りとはいえショックなものである。
ジュノーの指示に、ルルミルは両手を腰に当てて、ふふんと鼻を鳴らした。
「ナナ先輩はサボらないですよ! 今も意見交換をしていただけです! ね、ナナ先輩!」
「あぁ! 後輩の無垢な信頼の目が痛い!」
キラキラと輝いた目で見るルルミルに対して居た堪れなくなり、ナナパラフはようやくとぼとぼと解体作業に移る。そしてそれを見届けたクランツとルルミルも、満足そうに自分の作業を始めた。
「やれやれ」
実力のある問題児を抱えると苦労する。そう痛感したジュノーは、かつて隊にいた自分の親友を思い出し、当時の隊長に想いを馳せるのであった。
ここは、精なる森。
森の守人たるリュフリスたちが住む、どこかにある聖域である。
♢ ♢ ♢
ナナパラフの目覚めは遅い。
精なる森に住むリュフリスたちは、生まれてから60季が過ぎるまでは、族長のエリーエルの話を聞いて、リュフリスの歴史について知識を得る。
60季以降はリュフリスの学校で授業を受けることで知識を深め、討伐隊に入るものは仮入隊し、討伐隊に入らないものは80季のタイミングで進路を決める。討伐隊に仮入隊しようが80季まで待とうが、それまでにエルドリクスの生態、古代生物史、人類史など、多様な授業を受けることにより知識を深め、その後の進路を考えることとなる。
討伐隊なら授業を受ける必要はないと考えるリュフリスもいるが、知識を深める必要性に例外はない。むしろ討伐隊たるもの当然の知識は持っているべきとして、積極的な受講を推進されている。色々なことを知ったその後正式に入隊するか別の進路をとるか選択することができる。つまり、仮入隊したからと言って、必ずしも討伐隊に入隊しなければいけないというわけではない。
ナナパラフは生まれてから77季のため、現在のサクノの季、次のアヒナの季、さらに次のコカシの季、四季の最後のシロツメの季と、季を一周迎える頃に80季となる。そこまでいくと、嫌でも進路を決めなければいけない。そして、次のサクノの季にはその進路で新たな自分になっている予定である。
60季を迎えた際、ナナパラフは迷わずに討伐隊に仮入隊した。仮入隊した理由は、仲の良いクランツが先に仮入隊していたから。そして、そんな動機にも関わらず今まで続いているのは、自身にエルドリクス討伐の才能があったからだ。
ついでに言えば、ナナパラフの座学の成績は他と比べて遜色があった。比較対象が学ぶことをこの上ない喜びとしているようなクランツとなるため、余計に不出来が際立つ形となった。討伐隊に入ればあまり勉強ができなくても良いかもしれないという考えが(結果としてその予想は外れたのだが)、仮入隊を決める理由のひとつになった。
成績が良くないことの一因には「目を覚ます」という行いが下手ということがあった。ナナパラフは一度寝るとなかなか起きない。というより、授業が始まるまでに目を覚ます方法をナナパラフは知らなかった。
最初の頃はクランツが目覚ましとしてナナパラフの家を訪れていたが、主にナナパラフの怠惰のせいでその足も遠のき、以前の討伐での杜撰な態度から遂に見離すことを宣言された。そして、ナナパラフを起こす者がいなくなってしまったのである。ナナパラフも全てが悪気のあった行いだったわけではないが、それを説明したとしてクランツが我慢できなくても仕方のないことであった。
エルドリクスを討伐し、解体し、森まで運び、ジュノーから説教を喰らい、日が降りナナパラフが眠った後。再び昇った日の光が目に差し込み眠りから覚めたナナパラフは「また遅刻か」と我ながら辟易とした。
日の傾き方からして、既に授業は始まっている。今から急いだところで間に合う余地もない。間に合わないことがわかると、元々焦ってはいなかったナナパラフの中に、殊更少しの余裕が生まれた。
「どーせ遅れるなら、朝ごはんしっかり食べてから行こっと」
ベッドから降りたナナパラフは食料保存庫を開け、中身を確認した。保存庫の中には、数種類の果物が幾つかある。寝起きからガッツリ肉という気分でもないナナパラフは、選りすぐりの名前もよく分からない、いつ買ったかも覚えていない果物を取り出した。
果物を鍋にいれ、これまたいつどこで買ったかわからない瓶に入った甘い汁を注ぎ込み、水を足し、火にかける。コンロというものを発明したニンゲンは恐らく偉大なるニンゲンとして伝わっていたのだろうとナナパラフは心の中で敬意を表した。
甘い汁が今回使ったもので無くなってしまったので、買いに行かなきゃなと思いながら空の瓶をゴミ箱に放り入れる。精なる森の環境のために分別を! と言われているが、ナナパラフは煩わしさを感じていた。どうせマギマで溶かすのだから一緒だろと。
しばらく待つと、鍋がグツグツと音を立て始める。甘い匂いがしてきたので火を止め、適当な洗ってあった箸を取り出し、立ったまま食べ始める。
この料理といえるかもわからない食べ物は、ナナパラフにとっては簡単にできるライフラインであった。しかし、クランツからは「僕には甘すぎるかな」とやんわり断られ、ルルミルからは「これは強くなるため……」とよくわからない決意を秘めた目をされ、ピッチラからは「バカじゃないの?」と直球で罵倒された。
甘い果物を頬張り汁を鍋のまま啜り、食べ終わる頃には底に糖の塊が残ってしまった。一度鍋に水を入れ流そうとするが、こびり付いて剥がれそうにない。
「めんどくさいから、こいつは帰ってからにしよ」
そうやって流しに溜まった洗い物が残っていることには目もくれず、ナナパラフは鍋もそれらの仲間入りをさせた。
さて、食べ終わったからには授業に行かなければいけない。ナナパラフはエルドリクス討伐の出動で遅刻した時とは打って変わってゆっくりと支度をし、身なりを整えた後、鏡で全身を見渡した。
「隊服よし、軽量化リングよし、羽根の輝きよし、素敵な見た目よし、今日も美少女? とかいうやつ、のはず」
自身の姿をチェックし、おかしいところがないことを確認すると、口元に手を当てて考え込んだ。
「この口上、誰もいない時にやっても面白くないな」
クランツがいて逐一反応してくれることがいかに有り難かったかがわかる。これからはクランツを呼び出してからこれを言うことにしようと心に決め、ナナパラフは小さな鞄を肩から提げて家を出た。
サクノの季は暖かい。シロコナが降り一気に冷え込むシロツメの季や、灼熱のように暑くなるアヒナの季と比べかなり過ごしやすい気候のため、サクノの季が好きだというリュフリスはナナパラフ以外にも多い。唯一の問題は、エルドリクスもサクノの季が好きなのか活動が活発になるということくらいである。
家の鍵をかけて、花々を眺めながら目的地へ向かう。目指すは大樹。精なる森の中心にある、一際大きな大木である。
精なる森はその名に反せず、多くの木々で構成されている。それらの木々に身を預けるように、支えられるように家が高低色々な場所に建てられている。その中で一際目を引くのが、真下から眺めると首が痛くなってしまうほど大きな、とても背丈の大きな大樹であった。
大樹は中にリュフリスが100名以上余裕で入ることができる程に大きい。それゆえに、中に部屋や廊下を作り、そのうちの一画で授業が行われていたり、訓練が行われていたり、とにかく数多の用途で活用されている。
大樹はナナパラフの家から軽く飛んで行ってもすぐにつく程度の距離である。この距離感が、ナナパラフから余計に急がなければいけないという危機感を奪っている。今回も少し飛んでいき、すぐに大樹に辿り着いた。いくつかある入り口の中で教室に一番近いところから入り、のんびり歩きながら廊下を進む。
教室は大樹の中でも比較的高い位置にある。その部屋は気持ちがいいからという理由で外が見える窓が備え付けられており、何か外で動きがあった時にすぐわかるようにと廊下が見える窓も備え付けられている。ナナパラフは廊下からこっそりと教室の様子を伺った。
教室は半分ほどが階段のようになっており、後ろへ行くほど高い位置から授業を聞くことになる。扇形のように広がっており、どの席からでも授業が見やすくなるような作りとなっている。これはかつてニンゲンの一部が通っていた大学という場所を参考にしているというのは、ナナパラフが授業を受け始めるよりも前にクランツから学んだことであった。
そして教室の一番前。教室の最も低いところで全員からの視線を集め授業をしているのが、リュフリスたち全員に教育を施す教長、カンジェーンである。
銀髪のジュノーとはまた違う年齢を感じさせる白髪と細い手足でありながら、顔つきからはジュノーにも負けず劣らずの圧を発するリュフリスである。昔からカンジェーンを知っているリュフリスによると年齢は260季は越えているとのことで、リュフリスたちの中では一、二を争う年長の部類に入る。
リュフリスたちは60季から80季の間、このカンジェーンの授業を受けることになる。授業は全員合同で行われるため、60季を迎えたタイミングによって授業のスタートが変わる。カンジェーンは1季ごとにテーマを変え、10個のテーマで授業をする。そのため、どこから受けても最初の10季で新しいことを学び、11季目からは復習に入るというシステムとなっている。
ナナパラフも授業を受け始めて17季経っているためすでに復習に入って長いのだが、どれもこれもあまり頭には入ってきていなかったため新しいこと尽くしになってしまっている。その度に、クランツに「何を聞いていたの」と呆れられるという光景をクラスメイトたちはよく目にしていた。
そして呆れたような顔をするのはカンジェーンも同様であった。そのためナナパラフにとって、この授業の時間は面倒で乗り気ではないものとなってしまっていた。授業をまともに聞かずに呆れさせているのはナナパラフに他ならないため、それを理由にやる気が削がれるというのも筋が違うのだとクランツに諭されている光景も、クラスメイトたちは目にしていた。
ナナパラフはこっそりと扉を開けて、一か八かカンジェーンに見つからないように姿勢を低くして教室に入る。3歩ほど歩いたところで、なんだ意外といけるじゃん。と心が一瞬軽くなった。
「ナナパラフさん」
瞬間に声をかけられて、ギクリとナナパラフは足を止める。ナナパラフのことをフルネームで、そしてさん付けで呼ぶのはカンジェーンしかいない。
ナナパラフはこっそりと入ろうとしたことを無かったことにするかのように、笑顔でカンジェーンに向き直った。
「どもども、カンジェーン教長! 良い天気ですね!」
「はい、とても良い天気ですね」
ナナパラフの笑顔の挨拶に、カンジェーンは気品を保ちながらにこやかに挨拶した。他の生徒たちは「俺たちは知らないぞ」とでも言わんばかりに下を向いているのがナナパラフの視界の端に入った。
カンジェーンは黒板に振り返り、何かを書き始める。授業を再開したのかな? と思い自身も席に着こうとしたナナパラフに、再びカンジェーンは呼びかけた。
「随分と遅い出席ですね」
「いやー、実は寝過ごしちゃいまして」
自分の席にゆっくりと向かっていた足を止め、頭をポリポリと掻きながらナナパラフは言葉を選ぶ。以前に適当なことを言いすぎてカンジェーンに静かに、しかし長時間に渡って説教をされたことがあった。ナナパラフはその時の苦痛をいつまで経っても忘れることができていない。
そんなナナパラフの心情を知ってか知らずか、カンジェーンは何かを書き終えると振り返って微笑みを崩さずにナナパラフに語りかける。
「ええ、それはそうでしょう。寝過ごしていないのに遅刻をされては堪ったものではありません。それで寝過ごした理由はなんですか?」
「えーと……」
もうこっそり自分の席へ向かうことなどできなくなってしまったナナパラフは、少し考える。寝過ごした理由なんてない。ただ眠かったから寝ていたのだ。それを正直に言ってどうにかなるとも思っていなかったが、何も言わなかったところでどうにかなるとはもっと思っていない。
しばらく考えた後、言い訳をして乗り切ることに決めたナナパラフは、言い訳用の笑顔を作ってみせた。
「実は、そう! 私も少しは勉強をしようとおもっ」
「それは結構。では、この問題を解いてみなさい」
ナナパラフの言い訳など聞き飽きたと言わんばかりに先回りして黒板に問題を書いていたカンジェーンに、ナナパラフは百面相の如く苦渋の顔を作る。先に言い訳をしたことを悔やみながら、ナナパラフは一応黒板に向かってみる。
問題はマギマの出力の計算だった。マギマの出力にはリュフリスの体内エネルギーが関与しており、その計算式が確立されている。その計算をしっかりと把握することで、リュフリスたちは自分の使っている力がどういうものなのかを把握することができるという重要な授業である。
そこまでは誰もが知っている基礎知識であり、もちろんナナパラフも理解していた。だが何故やるかを理解しているからといって、計算式まで理解しているとは限らない。つまり、全く分からない。
授業を受けている他のリュフリスたちを見てみる。ほとんどのリュフリスたちが下を向いている中、下を向いていないのはこちらに好奇の目を向けるルルミルと、一番前の席で自分の勉強に意識を向けてこちらに興味など一切示さないクランツだけであった。もっともクランツはある意味下を向いてはいるのだが、他のリュフリスたちからは「こっちに頼るなよ」という無言の拒否メッセージを感じる。クランツからもある意味頼るなよと言われているようなものではあるが。ナナパラフはなんと薄情なと言わんばかりの視線を一応送りつけておく。
諦めたナナパラフはチョークを手に取り、過去に授業で習った時の記憶を辿りながら計算をしていく。小気味良くチョークで書く音が響きながら少し計算式が進む頃には、筆が乗り出したかのように書き進めるスピードも上がっていった。
「ここがこうで、こうなって、こうなるから……こうだ! どうだ、カンジェーン教長!」
全て書き終えたナナパラフは満足気にカンジェーンの方を向く。黒板をじっと見ていたカンジェーンは改めてナナパラフが書き記した計算式を確認した。そして頷き、嫣然と微笑んだ。
「なるほど。大変結構です」
「ほんと!?」
カンジェーンから受けた感触の良さに、ナナパラフも笑顔になる。まさか、過去の記憶を辿って解いたが、自分の記憶力と理解力がそんなにも良かったとは。
カンジェーンは優雅なゆっくりさでナナパラフに近づき、先ほどまでナナパラフが使っていたチョークを手に取り、黒板の一部を埋めた計算式の上から下まで届くように、大きなバッテンを描いた。
「貴方にはこの授業の後、特別講義を受けていただきます」
「そんな殺生な!」
笑顔が消えたカンジェーンにナナパラフは縋り付く。それをみていた周りのリュフリスたちは、遂に声をあげて笑い出した。これもナナパラフが授業を受け始めてから一種の様式美となってしまっており、他のリュフリスにしてみれば、疲労の溜まる授業中のある種気晴らしではあった。
笑いに包まれる教室の中で、クランツだけが嘆息したことをナナパラフは見逃さなかった。
♢ ♢ ♢
「はー、食事だ食事だ」
授業が終わった後、大樹の中にある食堂で食事が振る舞われる。メニューは利用者で選ぶことができず各回毎に決められている。好きなものを選べないということに対する不満の声も多少なりとも存在はするが、品質は確かなものなので好んで利用するリュフリスの方が母数は多い。ナナパラフやクランツもよく利用している常連であった。
食事の時間に大きくずれ込んだカンジェーンの特別講義を終えたナナパラフは、先に食堂に来ているはずのクランツを探した。
食堂を利用しているリュフリスは多い。自分で弁当を作ってきているリュフリスも中にはいるが、そういった者も場合によっては食堂の机を使って食べるため、この辺りで食事をしようというリュフリスはほとんどこの食堂に集まっていることとなる。その中でクランツを見つけることはなかなか難しくもあったが、ナナパラフはリュフリスを見分けることにかけては他に負けない程度には自信があった。
そして4名がけのテーブルに着いて先に食事を始めていたクランツを見つけると、ナナパラフはすぐに駆け寄ってクランツの後ろから声をかけた。
「クランツ、今日のメニュー何?」
「ナナ、お疲れ様。先に食事もらってくればいいのに」
「テンション上げてから行きたいじゃん」
ナナパラフは横からクランツが食べていたメニューを見る。だが、ナナパラフはある程度今回の料理が何かの予想はついていた。そのメニューを見るや否や、両手をテーブルについたまま飛び跳ねた。
「やっぱり! イ型の脚だ!」
先般、討伐隊が狩ったエルドリクスのイ型。かなりの大物だったイ型は持ち運びしやすいように解体され、この食堂にある大型保管庫に搬送された。
イ型に関わらず、討伐されたエルドリクスは基本的には食堂で料理として振る舞われる。食べることができる部位は優先して食用となり、食べることのできない部位は服や武器などに使う素材として別のところに回される。そして現状では何にも利用できないとされている部位については討伐したその場に置いておき、やがて土となって還るのを待つのみである。
食堂で振る舞われる食材として、イ型の脚は人気の食材である。多くのリュフリスはこれを好んで食べる。余った際には争奪戦が起こるほどであり、ナナパラフは争奪戦を煽る筆頭であった。
好きなものを後で食べる派のクランツの皿には、イ型の脚が2本残っていた。他のメニューはわからないが、脚があるだけでナナパラフの気分を上げるには充分であった。
クランツの前の席に並んで座っていたのは、ルルミルとピッチラ。ナナパラフはイ型の脚に夢中で気がつくのに遅くなったが、手を軽く上げて挨拶する。
「お、ルルミルにピッチラじゃん。おつー」
「お疲れ様です、ナナ先輩」
「ナナ、おつーじゃないよ。ちゃんと授業受けないと、卒業させてもらえないよ。只でさえバカなんだからさ」
ピッチラは言葉が鋭いことがある。もちろん、誰にでもそうという訳ではないが、ナナパラフにかけられる言葉は多々にしてそういうことがあった。
「ピッチラ。私をみくびってもらっちゃ困るね。私は討伐隊員としてこんなに優秀なんだよ。卒業できなきゃ困るのは討伐隊だよ」
ナナパラフは胸を張って答える。それに真っ先に反応したのは、ルルミルであった。
「さすが、ナナ先輩ですね! ナナ先輩が卒業できないなんてこと、あるわけないです!」
「ルルミル、盲信的なのも大概にしておかないと、あなたまでバカになるよ」
ピッチラは呆れた顔でルルミルに忠告する。最近あの顔を色々な場面でよく見るなぁとナナパラフが考えていると、その顔を作る代表格であるクランツはクスクスと笑った。
「まぁ確かにナナは優秀だね。討伐隊員として、というより、マギマを撃つことができるリュフリスの中でって感じだけど」
クランツはそう言いながらイ型の脚に齧りつく。それに合わせて、ピッチラとルルミルもそれぞれの食事を進める。
頭を使ったことでお腹が空いていたナナパラフは食事をしている各々を見て、腹が空いていたことを思い出す。食堂のカウンターに急いで向かい、食事を作っているリュフリスに声をかけた。
「キサラさん! ナナパラフ食事貰いにきました!」
「はいよー」
キサラと呼ばれたリュフリスは、仕事を終えて既に栄養ドリンクのようなものを飲んでいた。特別講義を受けていたナナパラフの事情はクランツから聞いていたのか、ナナパラフの為に準備してあったのだろう皿をすぐに配膳し、持ってくる。
「はい、どうぞ。まだ冷めちゃいないけど、すぐに食べちゃいな」
「ありがと、キサラさん!」
キサラはこの食堂がオープンした時には既にいたリュフリスである。カンジェーンほど季は過ごしていないが、それでも歴でいうとかなり長い。顔に刻まれたシワがそれを物語っている、ポニーテールで括られた髪がよく似合うリュフリスだ。
食事を受け取ったナナパラフは、再びクランツたちの元へと向かう。そして、既に食べ終わっている3名と同じ卓に腰掛けた。
「いやー、食事はやっぱりいいねぇ。頑張った身体が癒されるよ」
「ナナは他の皆より頑張ってない方だと思うよ」
クランツからの真っ当なツッコミは無視して、ナナパラフは手を合わせる。
「さてと……あれ?」
好きな物は先に食べる派のナナパラフは、自身の皿の違和感に気がつく。
本日のメニューはエルドリクスのロ型の肉を使ったスープに木の実と野草を使ったサラダ、煮出し汁に好物のエルドリクスのイ型の脚。その脚に齧り付こうかと思ったところ、脚が1本しかない。クランツの皿には確かに2本あったはずなのに。
「あれ、クランツ? なんで私のお皿に脚が1本しかないの? クランツのとこ2本あったじゃん」
「ジュノー隊長からのお達しだよ。あと伝言。好きなものを好きなだけ食べたければ、やるべきことをちゃんとやれ。だってさ」
そういってクランツたち3名は食器を片付け始める。見ると周りで食事をしていた他のリュフリスたちも片付けを始めていた。そろそろ食事休みが終わるのだ。
「あれ? 皆もう行っちゃうの? 私を置いて?」
「ごめんなさい、ナナ先輩。訓練には遅れたくないので」
「そういうこと。ナナも急いで来なさいよ」
そう告げて先に行ってしまうルルミルとピッチラ、そして手を振り「置いていくからね」と改めて宣告するクランツ。ナナパラフはあっという間にポツンと食事をとることになってしまった。
食事休みの後は、討伐隊のリュフリスは訓練がある。正式に入隊しているリュフリスは授業がないため食事休み前から訓練をしているが、仮入隊中のナナパラフたちは授業を受ける必要性から食事休み後のみ訓練となる。ナナパラフよりも5季上で82季のピッチラは、訓練をしてから食堂に来ていたことになる。
討伐隊に仮入隊していないリュフリスたちは昼食事み後自由時間となり、進路に向けて仕事をする者や自習をする者、遊びに興じる者などに分かれる。そのような自由時間を失ったとしても、花形である討伐隊に入りたいというリュフリスは多く存在する。
ナナパラフもかつてはそのような志をもっていたが、いつの間にやら食事すら置いていかれるようになってしまった。こんな自分を当時から思い描いていたわけではなかったはずだが、いつおかしくなったのかナナパラフ自身にもわからなかった。
「ま、いいか。それじゃ、食べましょっか。エルエーラ」
ナナパラフは手を擦り合わせて食事を始める。
キサラは冷めてないと言っていたが、食事はすっかり微温くなってしまっていた。冷めた食事を口にして、次は遅刻しないようにしようと心の片隅で決意を秘めるのであった。
♢ ♢ ♢
食事休み後。ナナパラフもシュナであるとはいえ、当然訓練は受けなければいけない。
訓練は教室よりもさらに高い場所、大樹の天辺の広場で行われる。万が一マギマが暴発した時に影響の少ないように、そして精なる森のどこかで問題が起こった際、すぐに見渡し駆けつけることができるようにという理由がある。
ナナパラフが訓練場に着いた時には、既に他の隊員たちは訓練を始めていた。
訓練内容は2通りある。1つ目は倒れている状態から勢いよく立ち上がる的を正確に10個、マギマで素早く射抜くというもの。これはマギマの正確性と速さを鍛えるものであり、主にこの訓練を行いながら他の隊員同士で進言をし合うというものである。
もう1つの訓練はマギマを強くする訓練である。どれだけ強いマギマを放っても壊れない、“神秘の枝”と呼ばれる太い枝がある。その枝はマギマを吸収しているとされ、マギマを放つと赤く発光するという特徴があり、マギマが強ければ強いほど光り輝く。これに向かって全力のマギマを放ち、出力を高めていくというものである。より強いマギマを使えば使うほど、慣れていくという訓練である。
ナナパラフはこれらの訓練が得意であった。頭は良くないが、感覚でシュナにまで上り詰めたナナパラフにとって非常に楽しく、やりがいのあるものであった。他のリュフリスたちよりも上手で優越感を得ることができる辺りが素晴らしい。
鼻歌まじりに訓練場を闊歩するナナパラフは、自身の食事の量を減らした上官であるジュノーと、更に見慣れたリュフリスに気が付いた。パッと自然と笑顔が溢れ、そのままの勢いで声をかけにいく。
「エリーエル様!」
ナナパラフが声をかけたそのリュフリスは、精なる森の族長であるエリーエルであった。最も歳上のはずであるエリーエルは艶のある長い金髪を揺らし、年齢を一切感じさせない瑞々しい肌で、誰もが惹きつけられる笑顔を浮かべながらナナパラフに応じた。
「久しいですね、ナナ。元気にしていましたか」
エリーエルは生まれたてのリュフリスから60季までのリュフリス全員に、精なる森の昔話、伝承、逸話を聞かせて育てる。森にいるほぼ全てのリュフリスはエリーエルの話を聞いて育っている。そして、この森にいるリュフリスの顔と名前をエリーエルは全て完璧に記憶している。だからこそエリーエルという族長は皆から好かれ、精なる森のトップに居続けている。
ナナパラフはエリーエルの側まで行くと、勢いをつけて敬礼した。
「はい! ナナパラフ、いつでも元気です!」
「それは良かった。ちょうどあなたの話をしていたのですよ」
エリーエル様が私の話を……! とナナパラフが浮かれたのも束の間、ジュノーが会話に割って入った。
「ナナパラフの生活習慣はどうにかならないものかと、相談に乗っていただいていたんだ」
「うげ……」
どうしてこの隊長は私を褒めるという気が利かないものか。と心の中で悪態をつく。エリーエル様が私のことをだらしないやつだと勘違いしたらどうしてくれる。
露骨に嫌な顔をするナナパラフを見て、エリーエルはクスクス笑う。
「どうやらナナも反論はないみたいですね。いけませんよ、そんなことでは」
真っ当なエリーエルの指摘に、ナナパラフはグギギと歯を食いしばった後「気をつけます……」と言わざるを得なかった。ジュノーやカンジェーンには軽口を叩くナナパラフであっても、族長であり憧れの存在でもあるエリーエルに対して同じような態度を取ることは流石にできなかった。
それを見たジュノーはしてやったりと言わんばかりに、満足そうな顔をした。
「ほら、早く訓練に入れ」
「はーい……」
これ以上エリーエルからの印象を悪くしたくないナナパラフは、素直に訓練に向かう。その後ろから「今だと、ルルミルが良い感じに伸びてきていて……」というジュノーの声が聞こえてきた。ナナパラフはもっと私の話をしろよと言おうとしたが、これ以上突っかかるとまたいらぬ悪評を伝えられそうなので仕方なく訓練に混ざりにいく。
真面目に訓練している隊員たちを見ながら、ナナパラフは声をかけることができそうなリュフリスを探す。クランツやルルミルは訓練を真面目に受けているため、基本的には真面目にとりあってくれない。それどころか、無視されることもあるくらいだった。もっとも真面目にやっていない隊員はナナパラフくらいであるのだが。
探しているうちに、的撃ち訓練を真面目に取り組む、赤く長い髪が特徴的なリュフリスを見つける。ナナパラフは遠慮なく声をかけた。
「へいへい、リマナ。早撃ちで勝負でもどうかな?」
リマナと呼ばれたリュフリスは、訓練の手を止めると笑顔でナナパラフへと向き直った。
「いいね。あんたが負けたら、シュナの座はあたしに譲るってことで」
リマナはかつてナナパラフが入隊するまでは次期シュナ候補といわれたほどの実力者だった。しかしナナパラフが入るとすぐにシュナ候補はナナパラフへと移り、前シュナが抜けた際にはまだ仮入隊であったナナパラフにシュナの座が与えられた。そのことに納得がいっていない訳ではないが自身がシュナでもおかしくないと考えているリュフリスが数名おり、リマナはその一員だった。
リマナの提案にナナパラフも笑って応えた。
「いいともさ。その時はジュノー隊長に土下座でお願いして譲ってあげよう」
「あんたが勝ったら?」
ナナパラフは少し考えてニヤリと笑う。
「イ型の脚3本分。3回の食事でそれぞれ1本ずつってのはどう?」
今回食べることができなかった食事の分もこれで取り返せるとなるとナナパラフの気分も上がる。ピッチラは考える間もなく高らかに笑った。
「よっし、乗った。それでいこう」
「それじゃピッチラ。判定よろしくー」
リマナの気が変わらない内にと、ナナパラフは隣で訓練していたピッチラに声をかける。ちょうど休憩をしようとしていたピッチラは露骨に嫌そうな顔をした。
「えー、また私?」
「ピッチラの判定が一番信用できるんだよ。正確で」
表情も変えずに、しかし本心からそう言うナナパラフの言葉に、ピッチラの嫌そうな顔は少し和らいだ。
「また調子のいいこと言って。まぁ、いいけどね」
ピッチラは共用の器具置き場から時計機を取り出す。時計機はこの訓練のためにニンゲンたちがかつて遺した部品を集めて開発された道具であり、短い時間を計りやすいように調整された精度が非常に高い機械である。かつてニンゲンはこの機械をストップウォッチと呼んでいたとナナパラフはクランツから聞いたことがあるが、皆が時計機と呼ぶのでナナパラフも時計機と呼んでいた。
「それじゃ、“始め”の合図で起動するからな」
「よしこい」
的の起動機は訓練をするリュフリスの手元に置いてある。起動のスイッチを押すと、一定のタイミングの後に的が一気に立ち上がる。訓練において勝負する際には同時に的を立ち上がらせどちらが先に全て倒せるかを競うというやり方が一般的だ。倒したタイミングがどちらが先かわからない場合には時計機の時間を確認するという判定が行われる。
リマナは深呼吸をすると、合図を出すぞと言わんばかりにナナパラフをチラリと見る。
「始め」
ナナパラフとリマナは起動機を押すとマギマを撃つ構えをとり、指先に力を込めて的が立ち上がるのを待ち構える。マギマの出力をあらかじめ高めておくかどうかで、早撃ちの結果は大きく変わる。それはエルドリクス討伐隊では当然の知識である。
そして待ち構えていた的が勢いよく立ち上がった。立ち上がると同時にピッチラは時計機のスイッチを押し「ピコ」という可愛らしい音を立てた。しかしその音はナナパラフとリマナがマギマを放つ音によって掻き消された。
立ち上がった各10個ずつの的が全て力なく倒れる。それを見たリマナは、悔しそうに膝を叩いた。
「………くそ!」
「へへん、私の勝ち。脚だ脚ー」
見るからに自分の的の方が早く倒れたとわかったナナパラフは、満面の笑みで小躍りをする。それを無視したリマナは時計機を持つピッチラに駆け寄った。
「ピッチラ、タイムは?」
「リマナは、4.06。ナナは、2.88」
その記録を聞いたリマナは、小躍りをしているナナパラフから見てもわかるくらいにがっくりと肩を落とした。
「ナナ、遂に2.9の壁超えてんじゃん。レベルたけー」
リマナは自分の負けを素直に認めることができるリュフリスである。そして、凄いと思ったものには素直に凄いと口に出すこともできる。それが、ナナパラフをさらに増長させることになっているとは気がつかずに。
誰が見てもわかるくらいにふんぞり返ったナナパラフは、リマナの肩をトントンと叩いた。
「いやいや、シュナの座を寄越せとかいうだけあって、リマナもなかなかよく頑張っとるよ。私がいなければもっと良い線いっとるね、これは。隊員中、2位?」
ふんぞり返ったナナパラフに若干引き気味になるリマナ。肩に置かれたナナパラフの手を払いながら、分からないくらいに溜息を吐く。
「いや、前までは確かにそうだったけど、最近ルルミルが3.79を出したからな。あたしは今3位だ」
「げ、マジ? ルルミルそんなに上がってきてんの?」
ナナパラフは記憶を呼び起こす。この前ルルミルに勝負をふっかけた時には、ルルミルの記録は4.27で、隊員の中では4位に当たる位置だった。
そもそもこの記録は4前半が出れば好成績で、4を切ることができる隊員は滅多にいない。リマナの記録でさえ、歴代シュナと比べても遜色ないほどである。
「あいつは凄いよ。どんどん腕を上げてる。あんたもうかうかしてられないよ」
自分以外が褒められた。それも自分が得意としていることで。これはナナパラフにとって面白いことではない。記憶を呼び起こして、ニヤリとする。
「私がルルミルと同じ季の頃には、3.11とかだったかな?」
ナナパラフのそのセリフに、リマナは呆れたような顔を作った。
「前言撤回。やっぱり化け物だわ、あんた」
やはりリマナは素直に褒めてくれる。ピッチラが「まーた良い気になってる」と言っているし、周りも「はいはい」って感じになっているが、それでもナナパラフにとって大切なのは、目の前で褒められたという事実である。
「もっと言いたまえ。褒めたまえ。敬いたまえ! はーっはっは、はっはっは!」
♢ ♢ ♢
「つまんなーい」
その日の夜。ナナパラフは自宅のベッドでうつ伏せのまま横になっていた。
ぼやきながら足をバタバタさせているナナパラフに、自分の家に本を置けなくなってきたという理由で親友の家に本を山積みにしてそれを毎晩読みにきているクランツが、鼻で笑いながら声をかける。
「訓練中あんなに高笑いしてたのに?」
「できないってわかってることができないとか、できるってわかってることができるほどつまらないことはないんだよ。結果が分かりきってる勝負も」
ナナパラフの言い分に、クランツは頷きはしなかった。本を読みながら返答する。
「なら、勝負なんて仕掛けなければいいじゃん。リマナだって乗れる場所がない勝負には乗ってこないよ」
そしてクランツの言い分に、同じくナナパラフは頷きはしなかった。足をバタバタさせながら返答する。
「できることをするだけの訓練に意味なんてないでしょ。せめて楽しくないと」
ナナパラフのこの言い分には、クランツも「ふむ」と少し考えた。偶にではあるがナナパラフの言い分はクランツの何かに引っ掛かり、クランツもそれを真剣に考えることがある。ナナパラフはそのタイミングと発現条件をわかっていないため、本当に偶にではあるが。
そして、クランツは本を閉じてナナパラフに向き直ってから返答する。
「できることに意味を求めて、新しいことに気付く。追究だよ、それは。必ずしも意味がないとは限らない」
クランツから出たナナパラフに対する返答に、ついていけていないのはナナパラフ本人であった。
「ふーん、よくわかんないや」
そういう時には、ナナパラフは理解するのを諦めて投げ出すのがいつもの流れであった。ただクランツもナナパラフの性格はよくわかっているため、何も言うことはなかった。クランツの中では、自分の考えが出せた時点で満足なのである。
その代わりとして、クランツはナナパラフでもわかる提案をする。
「退屈なら、勉強でもしたら?」
しかしこの提案はクランツの中でもとりあえずしただけという側面が大きい。実際、クランツが提案した後直ぐにナナパラフの顔は、苦虫を擦り潰したような顔になっていた。
「もっと退屈じゃん」
「勉強はいいものだよ。何が本当で何が嘘か見極める力になる」
「そういうもの?」
「そういうもの」
クランツの楽しそうな物言いに、しかしナナパラフは納得することはできなかった。どこまでいってもナナパラフにとって勉強は苦痛なものであるから。
ずっと足をバタバタさせていたナナパラフは、足を動かすのを止めてベッドの上で胡座をかき、クランツに向き直った。
「ところでクランツ」
「ん?」
クランツは既に本を捲る動作に戻っていたが、構わずにその後ろ姿に話しかける。
「いつもみたいに、何か面白い話ない?」
適当にも見える話のフリに、クランツは露骨に溜息を吐く。ナナパラフを一瞥もせずに返事をした。
「僕のことをなんだと思ってるのさ」
ナナパラフはクランツがこちらを見ていないと分かっていながら、満面の笑みで答える。
「私の暇を癒してくれる、一番の親友って思ってるよ」
「そりゃどうも。その期待にお応えして『泉に隠された秘宝』の話をしてあげよう」
クランツはこの話のフラれ方にも関わらず、毎度何かしらの話を持ってくる。それらはナナパラフの興味を大いに惹きつけるものであったが、今回も例に漏れることはなかった。ナナパラフは身を乗り出す。
「なにそれ、面白そう」
ナナパラフの興味深く尋ねた声に、クランツはナナパラフへと向き直る。クランツとナナパラフはお互いに向き合い、お互いに自分も同じような顔で笑っているのだろうなと考え、お互いに同じタイミングで笑い声が漏れた。
その状況に満足したクランツは「はぁ」と一度息を吐き出して話し始めた。
「この森のちょっと外れにある泉は知ってる?」
ナナパラフはうんうんと頷く。
「もちろん。立ち入り禁止の“静寂の泉”って言われてるところだよね?」
静寂の泉はリュフリスたちなら誰でも知っている名称である。だが、その実態を知っている者となると、その数は一気に減る場所でもある。
「そう。その泉、ダンゴムシとかが偶に出るらしくて、立ち入り禁止区域になってるんだ。もっとも、生活圏からは少し離れているからあまり精なる森には影響はないのだけれど」
ナナパラフは目を丸くした。静寂の泉が立ち入り禁止であることくらいは先ほどナナパラフ自身が言った通りであり、ナナパラフ自身も知っていたことではあるが、その理由までは知らなかった。
そうなるとクランツはどこかでこの情報を収集してきたということになる。そこまで積極的にこの話をクランツが調べようとしているとは思ってもみなかった。
「どこで調べたの、そういうの?」
恐る恐る聞くナナパラフに、クランツは考えるまでもなく返答した。
「普通に授業で教えてもらったよ」
「おっと、こりゃ失礼」
ナナパラフは自身の無知を恥じた。授業を真面目に聞いていない弊害がこのようなところで恥となって出てくるとは。
そんなナナパラフには慣れきっていたクランツは、なんてことないように話を続ける。
「で、ここからがほんの少しだけ不思議なんだけど、立ち入り禁止区域な訳だから基本的に誰も立ち入らないんだ。これは当然。でもこの立ち入り禁止区域、夜の見回りでジュノー隊長とカンジェーン教長が日替わりで見て回ってるらしいんだよ」
クランツの声のトーンは段々と落ちていく。まるで恐怖でも演出するかのように。エリーエル様が怖めの話をする時はあんな感じのトーンで話していたな。と思い出しながら、ナナパラフは素直に考えたことを口にした。
「そりゃ、誰か勝手に入ってないか見張るためなんじゃないの?」
立ち入り禁止と言われると入りたくなるのがリュフリスの常というもの。ナナパラフもこっそりとバレないように立ち入り禁止区画に入ったことはある。子どもなら誰でも入ろうとしたことはあるし、実際に入ることができたのもナナパラフに限らない。見回りが強化されるのも当然だと感じた。
しかし、クランツもその程度のことは当然考えていたらしい。
「もちろん、僕もそう思った。でも聞くところによると、カンジェーン教長を追いかけてついて回ったら、泉の周辺で不審な者がいないか探るかのように辺りを警戒していたらしくてね。先生たちしか知らない秘宝があって、それが盗まれていないか警戒してる……って与太話だね。まぁ正直、ナナが言った理由が本当のところは有力だと思うけど」
なるほど。と少し納得する。ナナパラフが泉の周辺に行った際には、当然見回りがいない時間帯を狙って行った。何かないかと探そうともしたが、それよりも見回りに見つかることを恐れてあまり詳しくは調べることができなかった。この情報を聞いた上で、ある程度成長した今向かえば何かが見つかるかもしれない。というところまでがクランツが用意した面白い話であった。
そしてナナパラフは、この面白い話に非常に興味を唆られた。
「ふむふむ。面白そうな与太話だ。私が調査してしんぜよう」
ナナパラフに向かって話していたクランツはその言葉を聞くと、満足したように先ほどまで読んでいた本に向き直った。
「お気に召したようで何より。僕のことを売らなければ、お好きにどうぞ」
クランツは以前に出撃命令が出た時にナナパラフがジュノーに対して犠牲に捧げようとしたことを正当に根に持っていた。
「ねちっこ〜……」
「ナナが僕を売らなければいいだけの話だよ。難しいことじゃないでしょ」
ぐうの音も出ない反論に、ナナパラフは文字通り黙るしかない。出撃命令の件の他にもナナパラフがクランツにしてきた仕打ちの数は少なくない。未だに友達として関係を築いたままでいられること自体、クランツの器の大きさによるものである。
旗色が悪くなったナナパラフは、話題を逸らしにかかる。
「ところで。クランツってどこでこういう情報を手に入れてるの?」
ナナパラフの無茶振りにクランツが応えることができなかったことは未だ嘗て一度もない。クランツが勉強好きとはいえ、「何か面白い話がないか」という話の振り方への対応まで学んでいるとはナナパラフも流石に思っていない。
クランツは「そんなの」と言ってから二の句を継いだ。
「ナナがそういう話を求めてくるから、皆に話を聞いてネタを集めているだけだよ」
「嘘くさ」
クランツは面白い話をしろと言われた時の勉強はしていないだろうし、嘘の吐き方も勉強していないらしい。クランツが勉強していたら、もっと上手な嘘吐きになっているはずだ。
クランツは「失礼な」と呟き、読んでいた本から目を離さずに仄かに笑った。
「僕はナナに嘘を吐いたことなんてないよ」
「併せて嘘くさ」
クランツにはこのまま嘘の勉強はしないでいてもらおう。クランツの嘘が上手になったら手がつけられなくなるが、嘘が下手な間は見抜くことができる。
クランツは溜息を吐きながら、本から目を離してナナパラフに悲しみを込めた目を向けた。
「本当だってのに。疑うなんて失礼だなぁ」
♢ ♢ ♢
「うわ、今日の見回りジュノー隊長じゃん。最悪」
クランツから情報を得たナナパラフは早速静寂の泉へ行ってみようと、通じる道を茂みに隠れて見ていた。
静寂の泉へ行くには、精なる森から外へ出るための脇道に沿って行かなければいけない。脇道は茂みに覆われているためパッと見てもそこに道があるとは気付きにくく、気付いたところでそこを通って泉に行こうとは思い難い。だからこそ、この道をわざわざ通ってまで見回りをするということに違和感を持つリュフリスがいたのだろう。過度な警戒が逆に不審を抱かれるきっかけになってしまった。
見回りは夜遅くまで行われるため、静寂の泉を何度も見回りにくるだろうと考えたナナパラフは、とりあえず今回の見回りがジュノーなのかカンジェーンなのかを確認することにした。
理由は単純。カンジェーンの方がやり過ごしやすいと考えたからだ。ジュノーは討伐隊の隊長を務めていることもあり、物音や気配というものに敏感である。一方でカンジェーンは教長である。気配を感じるということに関しては、ジュノーと比較するとやはり劣る。結果として、この夜はナナパラフにとってはハズレの夜ということになる。
「ま、どうとでもなるけどね」
脇道の近くには幾らでも茂みがある。また茂みに隠れる生き物も数多くいるため、物音なんてものは夜でも鳴り響いている。その中でジュノーに見つからないようにやり過ごし静寂の泉に行くことは、骨こそ折れど不可能ではないという判断だった。
ジュノーは脇道に入る直前に、辺りをキョロキョロと見回す。そして当然のルートであると言わんほどに静寂の泉へと向かう脇道に入って行った。
ナナパラフはジュノーが脇道に入っていった後、少し時間を空けてから後をつけるように脇道に入っていく。少し先に進むと、先を歩くジュノーが目についた。ナナパラフは慌てることなく茂みに隠れ、ジュノーの動向を追う。
ジュノーは一度脇道に入ってしまうと、後ろをほとんど確認せずに先へと進んで行った。普段から見回りのコースに静寂の泉が入っており、誰かが立ち入ったこともほとんどないのだろう。慣れにより警戒度が下がっているということは、今回のナナパラフにとっては大変な好都合であった。
しばらく歩いた後、ジュノーの動きが止まる。遠目に見ていたナナパラフは木の影に隠れ、ジュノーの次の動きを観察した。
ジュノーは一頻りキョロキョロした後、溜息をついてから元来た脇道を逆に進んで行った。
ジュノーの視界に入らない位置を陣取っていたナナパラフは存外呆気なくやり過ごすことができたことに拍子抜けしていた。ジュノーがしっかりと警戒状態であれば、ナナパラフを見つけることも出来ただろう。今回それが叶わなかったのは「既に何度も徒労に終わっている、誰も通らない脇道を通って誰も来ない場所へ行く徒労に終わる見回り」というジュノーにとっても楽しいものではない作業がそうさせたに違いない。
可哀想なジュノー隊長。と心の中で労いながら、今後さらにその見回りを強化しなくてはいけなくなる原因となっていることなど気にしないナナパラフは木の影に隠れるのを止め、脇道を抜けた先の、先ほどまでジュノーが立っていた開けた場所に立ち、辺りを見回してみた。
「ここが、静寂の泉……」
静寂の泉はその名の通り音が少ない、静寂の場所であった。一切の波打ちもなく、そこに来たリュフリスが音を立てた瞬間、見回りが飛んでくるのではないかというほど他の音は存在しなかった。
だが他に何かがあるというわけでもなく、本当にただの泉とそれを取り囲むような雑草が生えた開けた空間、そしてさらにそれを取り囲むような鬱蒼とした森の木々と点在する小高い崖。景観としては悪いものではなかったが、有り難がってくるような場所でもない。
「大したことないね」
自然と漏れた言葉は、溜息と失望が混じっていた。
立ち入ることを禁止されていた泉にかつて入った際には、禁止された行為をしているという背徳感と、今よりも体が小さかったこともあり全てが大きく見えた高揚でもっと魅力的な場所に見えていた。だが今ナナパラフが立ち入ったところで、何もない、景色が綺麗とはいえ精なる森の原風景と大差ない程度でしかないように感じてしまう。それは泉が変わったという訳ではなくナナパラフが大きく成長したことの証左ではあるが、あの時心踊っていた期待をそのまま持っていたナナパラフにとっては寂しさを感じることであった。
「さてと、それじゃ宝探しといきますか」
ナナパラフは気を取り直して泉を右回りに歩き出す。見落としがないようにじっくりと目を凝らす。
宝が何か、大きいものなのか小さいものなのかもわからないが、隠しているというからにはパッと見てわかるほど大きいものではないのだろうということは予測できる。だが形があるものなのかどうかもわからなければ、この夜に見つけることができるほどわかりやすいものなのかもわからない。その状況で探すのはなかなか神経をすり減らす作業であった。
じっくりと時間をかけて泉を回っていく。その途中一度物音がしたため隠れ、見回りにきたジュノーをやり過ごす時間があった。だがジュノーは最初の見回りの時と同じくある程度簡単に周囲を見渡して去っていったため、さしたる影響もなく宝探しをすることはできた。そしてナナパラフにもたらした結果は『なにもない』だった。
目を凝らして探した。夜目が効かないわけではない。ある程度のサイズのものは隅から隅まで見たつもりであった。それでも見つからず、自分が見逃すほど小さいものであるならば、そもそもこんなところに隠すのが不適当である。という考えが正しいと、ナナパラフは諦め始めていた。
「なーんにもないじゃん。こりゃハズレかな、クランツめ」
与太話であるというクランツの言はナナパラフの中ですっかりと忘れ去られていた。まぁ、暇つぶしにはなったかな。と考えながらナナパラフが帰ろうとしたところで、ガサガサと物音がなった。
ナナパラフは咄嗟に身を茂みに隠した。またジュノーが来たのだと思ったからである。だが身を隠したすぐ後に違和感に気がついた。
物音がなった方角はナナパラフがきた小道とは反対の方角であった。つまりジュノーが見回りで行き来をしている方角とも反対ということになる。そして先ほど宝探しをしていた時に聞こえたジュノーの足音はもっと聞こえにくく、小さかった。今聞こえた音は、明らかにリュフリスとは思えないほどの大きさと質量を感じさせるものであった。
いつでもマギマを撃つことができるようにナナパラフは片膝立ちになり右手の人差し指だけを伸ばし構える。物音は近づいてくる。そしてその音はナナパラフの中でエルドリクスだろうという予想は既に立っていた。
「ん? あれは……」
姿を見せたのは、ナナパラフの予想通りエルドリクスであった。だが予想通りでなかったのは、エルドリクスのイ型ではなかったという点である。
現在見つかっている3種のエルドリクスのうちの1種。エルドリクスのロ型と言われる生き物である。身体は頭から身体まで半球型になっているイ型とは大きく異なり、頭と身体パーツに分かれている。イ型には劣るもののナナパラフの身長をゆうに超える巨躯からは4本の細い脚と、それらよりも後ろから2本の太く大きな脚が生えており、眼はギョロギョロと周囲を見渡している。身体の色は黄土色であり、静寂の泉に馴染んでいるとは言い難い風貌であった。
ナナパラフは記憶の中のクランツを召喚する。クランツはイ型を『ダンゴムシ』と称したように、このロ型も別の名前で呼んでいたはずだ。その見た目からはあまりその名前に結び付かず、何故その名がついたのかも聞いたはずで。確か、竈というものの近くによく出て、古代生物の馬という生き物のようによく跳ねるからという理由を聞いた。そうだ。クランツはそう呼んでいたのだ。
「カマドウマ……」
ナナパラフの呟きを聞いたのか否か、ロ型は勢いよくナナパラフの方を振り向いた。
「っ!」
「しまった」と思ったナナパラフは、次の一瞬でマギマを放っていた。十分な威力を誇ったマギマは、しかしロ型の一蹴りのジャンプでかわされてしまう。そしてロ型は大きく飛び上がったまま、空中で動きを制御してナナパラフから眼を離さないまま地上に降り立った。
ロ型はイ型と違い、動きが非常に俊敏である。現在見つかっているエルドリクスの中ではその能力は飛び抜けており、イ型ほどの大きさはないものの討伐難易度はイ型を大きく上回る。そのため討伐の際には必ず隊を組んで討伐するようにと伝えられていた。
さらに討伐難易度を上げているのは、大きく発達した後ろ脚である。その脚で地面を後方に蹴り飛ばすことによって、超速の突進を繰り出すことができるのがロ型の特徴である。イ型のように熱線を放つことはできないが、それでもリュフリスが隊を離れることになったり死亡する原因としてはロ型がもっとも多い。ナナパラフも単独での討伐などやったことがない。
ナナパラフが「しまった」と思ったのは、倒す隙を逃してしまったこと。そして隙を逃したにも関わらず自分の居場所を相手に教えてしまったことに対してであった。こうなっては茂みに隠れていても仕方ないと、ナナパラフはロ型から距離を離すように移動する。
ナナパラフの動きを眼で追いかけるロ型は、後ろ脚に力を込めた。それを瞬時に察知したナナパラフは空中に逃げる。
次の瞬間、ナナパラフがさっきまでいた場所を高速でロ型が通過した。まともに喰らえば怪我をしたでは済まない。なによりこれ以上騒ぎを大きくすればジュノーに勘付かれる恐れがある。ナナパラフはそれを最も恐れていた。
「この!」
ナナパラフが自身の後ろで方向転換をしていたロ型にマギマを放つ。ジュノーにバレないように威力もスピードも抑えられたその一撃は敢えなくジャンプによってかわされる。
着地したロ型は身を翻して、ナナパラフに狙いをつけて勢いよく突進を繰り返す。ナナパラフも回避はできるが、早く対処しなくてはジュノーに見つかってしまうという焦りがあった。
「どうにかして隙を……」
見つけて倒すか逃げるか。そのようなことを考えながら移動していると、背中にドン。という感触があった。逃げることに夢中になって、自身の背中に崖があることに気が付かなかった。
「やっば!」
崖はそり返るようにナナパラフの頭上を覆っており、飛ぼうにもそれができなかった。
それを幸いと思う知能があるかどうか、ロ型はナナパラフを見つめたまま、後ろ脚に力を込める。
「ちょ、まってまてまてまてまて!」
このままじゃ、ペチャンコにされる! 危機を感じたナナパラフは大慌てで周囲を見渡した。
横に逃げようにもこちらが飛ぶよりも向こうが速いだろう。かといって後ろも上も逃げれない。マギマをロ型に放てば倒せるだろうが、こちらに向かってくる勢いまで殺せるかはわからない。
刹那にそれらを直感し、ナナパラフは自身の体を仰向けに少し宙に浮かせ、真上にマギマを放った。
頭上で自分の放ったマギマが音をたてて崖の一部を砕く。マギマを放った衝撃で地面に背中から叩きつけられたナナパラフの頭上では、それだけでなく巨体が崖に突っ込む衝突音も響いた。流石に、目の前をロ型が横切る瞬間は目に映すことができなかった。
「ぶゅ!」
情けない悲鳴をあげたナナパラフに、砕けた岩の破片が落ちてくる。だが崖から崩れた大きな破片はロ型が崖に衝突した際に巻き込まれ細かく砕けたようで、砂混じりのような細かい破片が顔に落ちてくるだけだった。
「げほ、げほ! い、生きてる……いったー……」
今までエルドリクスを討伐する際に、死ぬかと思ったことは何度かあった。油断していてイ型が目の前で熱線を放とうとしていたことや、ロ型が目の前を勢いよく通過したこともあった。他に味方がいたそれらの時と違い、今回は周りに誰もいないことがよりナナパラフの絶望感を煽っていた。
まだロ型を倒した訳ではないと思い出したナナパラフは、反撃に備えて勢いよく立ち上がり、ロ型が突っ込んだ崖に目をやる。
「ん?」
だがロ型の反撃は来なかった。崖に減り込みでもしたかと思っていたロ型の姿はなく、その代わりに崖には大きな穴が空いていた。
ナナパラフが恐る恐る穴の中をのぞいてみると、まず目に入ったのは、ひっくり返った巨大な身体を起こせずにジタバタと踠くロ型の姿。そして……。
「なに……これ……」
壁面というべきであろうか、材質から言って樹面というべきか。大樹の幹や根はどこまでも続くほど長いという。その一部であろうか。ともかく、ナナパラフの眼前には巨大な壁と壁を削ることで描かれている何かを指し示す画があった、
ナナパラフはとりあえず踠き苦しむロ型の頭にマギマを放つ。ロ型の頭は食べれなくはないが苦くて不味い。そのため、食料として連れ帰るには、頭を刈り取って動きを止めるのが定石であった。ロ型は頭を消滅された後、しばらく痙攣したように動くとやがてその生命活動を停止させた。
これで落ち着いて観察することができる。そう思って一歩歩いたナナパラフの足元には、骨が転がっていた。「ひゃっ」と息を呑むと同時に悲鳴をあげ、骨からは少し距離をとる。
「画。と、骨……。この骨の主が描いたってこと……だよね」
骨の形は、リュフリスと少し似ていた。ナナパラフも骨の形に詳しいということは決してなかったが、それでもカンジェーンの授業の中で見たことはあった。不気味だと感じたためナナパラフの記憶にはその形がよく残っていた。
だがこの骨は頭蓋の形、そして体のパーツで見たことのない骨が混じっていた。またリュフリスならば羽の部分も多少節などが残るはずであるがそれすらもなかったことから、リュフリスとは別物であると考えられる。
だがそれが今見つかっている3種のエルドリクスのものではないということも、一目瞭然であった。骨の形をしっかりと脳に焼き付けた後、目線を樹画に移す。
描かれていたのは、巨大な木。そして、その木の周囲には燃えているような情景と、どこかへ去っていくエルドリクスのイ型と思わしき生物、リュフリスと似ているがどこか違う見たことのない姿の生き物。そして去っていくそれらにマギマらしき線を放ちながら凶悪な顔をする、空を飛ぶ生き物。その空を飛ぶ生き物がリュフリスであることは学の少ないナナパラフでも理解できた。
それらの画を見たナナパラフは、咄嗟に『精なる森のエル』で聞いたシーンと同じだ。と思った。
精なる森のエルは、エリーエルが森の子どもたちに何度も聞かせる話。それは、かつて精なる森をエルドリクスに奪われ、エルをはじめとした精鋭によって森は取り返された。それが、現在の討伐隊の先駆けであると。
だがその後すぐに、ナナパラフは違和感を覚えた。まるでその画が、森を取り返すために戦うリュフリスではなく、逃げるエルドリクスを追い詰めるリュフリスに見えたからである。それに物語には、エルドリクスイ型とリュフリスしか登場しない。ならば、このリュフリスに似た生き物は?
「これは……」
「そこで何をしている!」
ナナパラフが画に触れようとした時、背後から鋭い声を浴びせられた。振り返らなくともその声の主はわかったが、振り返らざるを得ない圧力を声から感じ、つい振り返ってしまう。
「げっ!」
そこにいたリュフリスはナナパラフの想像に反せず、ジュノーであった。先ほどのエルドリクスのロ型が崖へ衝突した音は、流石に誤魔化すことができなかったらしい。
ジュノーはナナパラフの顔を見て、目を見開く。そして、漏れ出すように。
「ナナパラフ……」
と名前を呼んだ。顔まで見られてしまってはもうどうしようもない。
「あちゃー……」
と肩を落とす。怒鳴られる覚悟を決めなければいけない。
ジュノーは訓練中や討伐中に、ナナパラフがどれだけミスを犯したり規約違反をしたとしても見せなかった怒気を孕ませながら、声を荒げた。
「お前、ここで何をしている。何をしていた!」
その怒り様に、ナナパラフはほんの些細な、喉に引っかかるような違和感を覚えた。
何をしているかと言われれば、勝手に立入禁止区域に立ち入った、となる。自分で言うのもなんだが、そういった勝手をすることは初めてでは決してないし、その度に呆れられてきた。そんなことはジュノーだってわかっているはずであり、そんなことを聞きたい訳ではないはずである。ジュノーにとっての問題は、ただ立ち入り禁止区域に立ち入ったということに留まらず、ここで立ち入る以上の何かをしようがあるということであり、それをしていなかったかどうか。ということを示唆しているようにナナパラフは感じた。
さりとて、この場でナナパラフが何かをしていた、ということは事実として存在しない。敢えて答えるならエルドリクスを勝手に討伐したことくらいであるが、そんなことも見ればわかる。何を答えればいいのかよくわからず、むしろジュノーの方が何かを知っているような、そんな違和感であった。
しかし、それらは勝手な思い込みの可能性だって大いにある。あくまで平静を装いつつ、ナナパラフは首を左右に振ってみせた。
「隠しても仕方ないから言うけど、静寂の泉にお宝があるって聞いたんで来たんだよ」
「お前……ここが立ち入り禁止だと知っているはずだ! 勝手なことはするな!」
やはり、ジュノーは怒っているというのもあるが、それ以上に何かに焦っているように見える。ナナパラフは相手がそのような状態だからこそ、冷静に観察することができていた。
もっとも、この場に立ち入ってはいけなかったというルールを破ったのはナナパラフであり、それは当人も理解している。ジュノーを怒らせたい訳でも敵に回したい訳でもない。素直に謝意を見せる。
「危ないってのは身に染みてわかりました。ごめんなさい。もうしません」
ナナパラフが珍しく素直に頭を下げたことで、ジュノーの溜飲は下がらざるを得なかった。普段なら自分が悪いということを認めないナナパラフだと認識していたため、謝罪をするとは思っていなかったのである。
そして、ジュノーはそこからようやくナナパラフの横に転がる巨大な死骸に目をやった。
「こいつは、お前が……?」
とっくに気づいているとナナパラフは思っていたが、ジュノーの反応はまさに今気が付いたというものであった。それくらい、ジュノーに余裕がなかったともとれる。
余裕がないとはこれ幸いと、ナナパラフはジュノーの質問には適当に答える。
「まぁ、たまたまだけどね。それよりジュノー隊長」
「とりあえず命があって良かったが、二度とここには立ち入るな。次に同じことをしたら、いくらシュナのお前とはいえ許してやることはできない」
ナナパラフの「それより」を遮るように、ジュノーはナナパラフから顔を逸らしてそう言う。後に引く気もないナナパラフは、さらに呼びかける。
「ジュノー隊長、私の質問に答えて」
「もう帰れ。処分は追って連絡する」
「隊長!」
3度目の声かけに、ようやくジュノーは動きを止めた。話を聞いてくれる気になったと判断したナナパラフは、樹壁の画を指差した。
「これは、なんなの? この画は。隊長は、この画についてなにか知っているの?」
「答えることはできない」
ナナパラフの問いかけに、ジュノーは振り返らずに素っ気なく返した。負けじと、ナナパラフは質問を繰り返す。
「この泉を見回ってたのも、この画を見つけられないようにするため?」
「答えることはできない」
「この骨はなんなの? 誰なの? なんでこんなところに」
「ナナパラフ」
立て続けの質問に、ジュノーは諌めるわけでも怒るわけでもなく、諭すように名を呼んだ。まるで、聞き分けのない子どもに怒鳴る前の最後の通告をするように。
「答えることはできないんだ」
振り返ってそう答えたジュノーの目は、「わかってくれ」と言っているように感じた。これ以上は聞いても仕方ないと判断したナナパラフは、少し口を尖らせる。
「……そうですか、わかりました。今日のことはすみませんでした。私が悪いです」
そして、改めて静寂の泉へ立ち入ったことを謝罪した。ジュノーは安心したように、小さく吸った息を大きく吐き出した。
「素直でよろしい。普段からそうであればなお、な」
♢ ♢ ♢
「あれは絶対に何かを隠してる」
静寂の泉での一件から、日が昇り、改めて沈み出した頃。ナナパラフは本を読みにきたクランツから本を取り上げて、一連のことを一方的に話して聞かせた。
ナナパラフに言い渡された処分は、訓練後の清掃作業であった。大樹を埃ひとつないほどまで綺麗にすることを言い渡されたナナパラフは、「今は訓練休みですよね? 次の訓練の後からやります」とジュノーに掛け合い、溜息を吐かれながらも了解を得た。次に日が昇り天高くある頃には、汗水を垂らしながら掃除に励んでいることであろう。
そして、今の時間を有効に活用しなくてはいけないと考えたナナパラフは、休みであることを利用してエリーエルとカンジェーンに話を聞きに行くことにした。あの樹壁に描かれた画は何なのか。あの骨は何なのか。わかるとすれば三役だろうと考えてのことだった。
返ってきた答えは、エリーエルからは冷たい視線と「忘れなさい」という一言。カンジェーンからは「エリーエル様とジュノーにも聞いたのでしょう? 答えは同じです。他のリュフリスに聞いても、知らないと言われるだけですよ」と前もって釘を刺すような言葉であった。つまり、簡単にあしらわれたのである。
だが、どうしても忘れることができないナナパラフは、クランツが家に来て本を読もうとしていたところにこの話を聞かせた。本を取り上げられたクランツは露骨に不機嫌になったが、話を聞くうちに知識欲が唆られたようで、すっかりとナナパラフの話を聞き入っていた。
「ふむ……なるほど……」
クランツは顎に右手をやって考えこむ。
「クランツも思うでしょ? 何か隠しているって。どう考えても怪しいよ」
ジュノーは答えられないと言った。エリーエルは答えなかったが、忘れろと言った。カンジェーンも答えは同じといった。回答として共通していることは、“知らない”ではない。“答えない”である。特にジュノーは隠していることを隠そうともしなかった。
「…………」
「ねえ、クランツも思うよね? 何か隠してるんだよ、三役は。ねぇ」
ナナパラフはクランツの後ろに回り込み、両手で頭を掴む。それでも、クランツはポーズを変えなかった。
「…………」
「クランツー? ねぇ、ねぇってば」
「うるさいなぁ!」
掴んだクランツの頭を揺らしだすとようやくポーズを変えた。というより、純粋に怒った。ナナパラフは掴んでいた手をパッと離す。
クランツは先ほどの顎に右手を当てるポーズに戻した。違いは、意識がナナパラフに向いていること。
「とりあえずナナの話はわかった。その上で僕の見解を話させてもらうけど」
ナナパラフはごくりと唾を飲み込む。クランツは浮かない表情を浮かべ、ナナパラフの方をチラリと見た。
「何かを隠しているっていうナナの意見に僕も賛同だね」
「本当に!?」
自分の意見がクランツの考えた意見と一緒になることが少なかったナナパラフは声を大にして驚いた。クランツは何度か頷きながら、頭の中でナナパラフの話を整理する。
「崖の中にあった空間、そこに描かれたリュフリスが悪者に見える画、リュフリスのものとは違う骨、何かを隠す三役。うん、どう考えても怪しいし、なによりカンジェーン教長の言葉も気になる」
「カンジェーン教長?」
ナナパラフは首を傾げた。クランツは視線を下にしながら、ナナパラフに話すような独り言のような言葉を呟く。
「他のリュフリスは知らないと答える。でも、ジュノー隊長は知らないではなく答えられないと言った。ジュノー隊長とエリーエルと答えは一緒。つまりこの三役が鍵を握っていると考えて間違いない。これが『精なる森のエル』を指しているなら、英雄譚を示しているだけの画を忘れろなんて言わない……いや、でも確証が……」
クランツの言葉をナナパラフは聞きながら、声をかけるタイミングを窺う。折角向いた意識がまた離れてしまった。下手に声をかけて再び怒られたくもない。しばらく待つことにする。
そんなナナパラフを尻目になかなか自分の世界から帰ってこないクランツだったが、ようやく顎から手が離れた。
「ナナ。これはもしかしたら、与太話では済まない案件かもしれないね」
「なにか重大な秘密があるってこと?」
ナナパラフとクランツの考える重大に差はあるかもしれない。しかし只事と切り捨てるにしては大事すぎるかもしれないという考えは一致していた。
「重大な秘密かどうかは、正直わからない。これから色々な文献とかを調べて、検証しないと確実なことは言えないね。僕の方で調べてみるよ」
「あのさ、クランツ」
クランツなら言うだろうとナナパラフが思った言葉が出たタイミングで、トーンを落として声をかけた。
「お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
「いいよ。なに?」
ナナパラフの言葉に一切の迷いなく返答したクランツに、ナナパラフは意を決して考えていたことを話す。
「私は、ジュノー隊長やカンジェーン教長、そして何よりエリーエル様が何を隠しているのか知りたい。他でもない、私自身が、調べて知りたい」
「興味があるから?」
クランツの質問に、ナナパラフは首を振った。そうではないとは言えない。興味本位だと言われれば、間違いではないだろう。しかしナナパラフの頭はもっと単純であった。
「あんな感じであしらえると思われたのが、すっごくムカつくから」
「ムカ……ははは、そっかそっか!」
ナナパラフの言い分に、クランツは笑った。ひとしきり笑い、そして苦しそうに涙を拭った。
「はー、いいね。それはいいよ、ナナ。実に僕好みの回答だ」
別にクランツのお気に召そうと思ったわけではなかったが、なんだかウケたらしい。これで次の頼み事がしやすくなる。
「そこで、クランツ。私に勉強を教えて」
「……本気? 勉強嫌いのナナが?」
ナナパラフのお願いを、クランツはバカにはしなかった。だがそれが本気かどうかを見極めるには、今までのナナパラフを見てきたクランツにとって難しいのも無理はなかった。それはもちろんナナパラフも承知の上であった。
「本気かどうかは今後を見て判断して。本気じゃないと思ったら、教えるのを打ち切ってくれていい。勉強は何が本当で何が嘘か見極める力になるんでしょ。私には、今、その力がない。なさすぎる」
「僕が見極めて、ナナに教えることだってできるよ?」
クランツの提案に、ナナパラフは再び首を振った。
「それじゃ、意味がない。ギャフンと言わせるのに、誰かの答えを持ってきました、じゃあ格好がつかない。私が見極めて、私が考える。クランツにはその手助けをしてほしい」
「ムカつくからって理由だけで続けるのは、結構キツいと思うよ。それでもやるの?」
「だめ?」
ナナパラフの渾身の上目遣いを見るまでもなく、クランツの返答は決まりきっていた。クランツは、ナナパラフを真似るように首を振る。
「だめなものか。了解。それじゃ、さっそく始めようか」
クランツは取り上げられた本をナナパラフから取り返すと、それを本棚に閉まって別の棚から勉強のための道具や本を取り出す。それはかつて家に来て、ナナパラフに勉強を教えようとして上手くいかず、ずっと封印してきたものだった。
だが、以前とは違う。ナナパラフは、ムカつくからと言ったが、本当はそれだけじゃない。
あの樹壁の画を嘘だと断じることは簡単にできるだろう。だが、もしあの骨の持ち主が描いたものだとすれば。命をかけてまで描いたのだとしたら。ナナパラフはあんなところで骨になってまで描かれたあの画が嘘だと断じることは、したくはなかった。
あの画を見たのは自分だ。そして嘘が描かれたのではないと直感した。この直感が正しいのか、この精なる森の常識が正しいのか。それを確かめたいのだ。誰でもない、自分の力で。
つまらない日々に、光が差したような気がしてならないのだ。
「よろしくね。クランツ」
そして、ナナパラフの物語はここから動き出す。精なる森の、真実に向けて。
外の気温は、ナナパラフの想いに呼応するかのように、少しずつ暑くなってきていた。
二章 アヒナの季
「は〜。あっつ〜」
暑くて暑くてたまらなくなるようなアヒナの季。長身のリュフリス、オガボタは、額を、首を、服の内側まで伝う汗を持っていた汗拭布で拭い取った。
精なる森に住むリュフリスたちにとって天敵とも言える気候は2つある。ひとつはシロツメの季に空から降る冷たき「白粉」、そしてもうひとつがこのアヒナの季には当たり前のように襲いくる「日酷」であった。今回のアヒナの季も通例に漏れないどころかそれ以上の日酷であり、暑さに強い種族であるリュフリスとはいえ、流石に限度というものがあった。外に出ることを躊躇うほどの日酷を、天敵と言わずなんと言おう。
そんな日酷の中、授業を受けに大樹の教室まで来たオガボタは教室の空気が冷えていることに安心する。この暑い中だと勉強なんてできないが、教室が冷えていればなんら問題はない。移動にさえ耐えてしまえば後は外の暑さを忘れてしまっても構わない。
オガボダは教室内を見渡す。教室の中にいるメンバーが少ないことに気がつき、近くにいた別のリュフリス、ウララに声をかけた。
「おいーす。なんか少ないけど、討伐隊って来てない?」
「さっき、飛び出して行ったよ〜。聞いてなかったの? 出撃命令」
オガボダは記憶を巡らせる。外の唸るような暑さに気が遠くなりながら、だが耳には出撃命令のようなものが入ってきていた気がした。討伐隊に入っていないオガボダにしてみれば、出撃命令など「また討伐か。大変だな」と他人事のようにいつも聞き流す生活音となっているため、聞き逃していたとして何ら不思議はなかった。
「この暑いのに、大変なことで」
「ね〜」
どことなく他人事なオガボダに、どことなく他人事なウララが返す。ウララの隣の席に座りながら、オガボダは前の方の席にノートやペン等の筆記具が散乱しているのを見つけた。
「ウララ。あれは? 授業まだ始まってないよな?」
その問いにウララは「あ〜」と眉を下げながら笑う。
「あれはナナとクランツだよ〜。授業が始まる前に自習してたんだけど、そのタイミングで出撃命令出ちゃったから、置いたまま出て行ったの〜」
「ナナパラフか……」
オガボダは苦い顔をする。
オガボダは勉強が得意な方ではなかった。他のリュフリスたちと比べると平均より少し下くらい。致命的にできないわけではないが、成績優秀なクランツやルルミルと比べると明らかに見劣りする程度であった。
そんなオガボダが勉強において唯一安心できた時間が、ナナパラフがバカなことをしている時だった。下をみて安心をしている自分をカッコ悪いとは思ったが、それでもナナパラフがいる以上、自分が多少勉強ができなくても「あいつよりは」と思うことができた。
だが、最近のナナパラフは違った。
「あいつ、何で急に勉強するようになったんだろうな」
「さてね〜。オガボダも、鞄屋に就職が決まっているからって手を抜かずに、勉強したほうが良いんじゃない?」
「うっせ」
オガボダは現実から目を背けるかのように、目を逸らした。涼しい教室内からでもわかるほどの陽炎が、窓の外で揺れていた。
気温は、50度を軽く超えている。
♢ ♢ ♢
精なる森の外れが騒つく。
季節は変わり、世間はすっかりと暑くなったが、討伐隊はエルドリクスが出てくる以上暑かろうが寒かろうが関係なく、討伐に出なければいけない。
精なる森は直射の日が入りにくいことや緑と水が多いことから涼しくはあるが、それでも抑えることができる熱気には限界がある。リュフリスは暑さには強い種族であるが、エルドリクスも同様に暑さに強い種族である。そして暑さへの強さはエルドリクスの方が上。サクノの季ほどではないにせよアヒナの季であってもエルドリクスは活発に活動する。その一方でリュフリスの動きは散漫となってしまっていた。
「雑に動くな! 相手をよく見ろ!」
ジュノーの叫ぶような指示が飛ぶ。相手はエルドリクスのイ型。いつも討伐している型であるため被害は出ていないが、あらゆる理由でなかなか討伐しきれていない。
「暑さを言い訳にするなよ! 死ぬことになるぞ!」
ジュノーの指示がさらに飛ぶ。討伐隊のリュフリスたちも指示内容をわかってはいるが、暑さでサクノの季ほど気持ちよく動くことができない。ジュノーもまた、隊員たちの辛さはわかってはいるが、言わない訳にはいかない。お互いにもどかしさを感じる討伐となっていた。
「クランツ!」
「はい!」
ジュノーに名前を呼ばれたクランツは、エルドリクスにまとわりつくように低めに飛んだ。そして、向かって右側の脚元にマギマを狙い撃つ。
脚元を打たれたイ型は巨体を支えることができず、崩れるように倒れ込む。それを確認したジュノーはさらに叫んだ。
「ナナパラフ!」
「あーい」
空中で他のリュフリスたちと同様に陽動をしていたナナパラフは、地面近くまで降り、軽く唇を舌で舐めると、か細いマギマを放ってエルドリクスの顔に跡をつける。それは今までナナパラフが一撃でエルドリクスを葬り去っていたものとは違い、ほんの少し傷をつける程度のものだった。
「ほい、それじゃあとはよろしくー」
ナナパラフはマギマを収めると、更に上を見上げた。エルドリクスの正面で、特大のマギマを溜め、エルドリクスに人差し指を向けて狙いを澄ますリュフリス、ルルミルがそこにはいた。
「はい! いきます!」
ルルミルの放ったマギマは、勢いよくイ型に向かって一本の線を成し、イ型の身体を頭から後ろまで貫通した。
体勢を立て直そうとしていたイ型の眼からは光が失われ、その巨体は沈み、やがて轟音と共にぴくりとも動かなくなった。
ジュノーが生きているかを確認するために近づく。それを待つ間、ナナパラフはルルミルに話しかけた。
「ルルミル、良い感じだったじゃん。ナイスナイス」
「ナナ先輩! ありがとうございます! でも、まだまだナナ先輩には及びません。もっと鍛錬しないと」
「そりゃ、私は類を見ない天才だからね。そんな簡単に追いつかれても困るってもんよ」
ナナパラフはルルミルの肩をポンポンと叩く。それでも、ルルミルは悔しそうに表情を歪めた。
「でも、早く追いつきたいんです。私は、ナナ先輩に。シュナとして」
樹壁の画の一件があった以降、ナナパラフはシュナの座をルルミルに譲っていた。もっとも、すんなりとシュナの座を譲ることができたわけではなく、ジュノーから交代にあたって条件を提示された。
その条件とは、①ナナパラフとルルミルの2名でシュナを担うこと。②ルルミルをシュナとした体制が整うまでナナパラフがサポートに回ること。③手を抜かないことの3つであった。
今回のイ型の討伐は“ルルミルを中心として隊列を組み、ナナパラフの力に極力頼らず戦い抜く”というテーマで行われた。その結果ナナパラフが行った討伐中の行動は、イ型の弱点となる場所に印をつける程度のことであった。
結果にある程度納得がいっていたナナパラフに対して、ルルミルは言葉を口の中に持ってくる。
「あの、ナナ先輩。実は相談が……」
「よし! 解体作業に移れ!」
しかしルルミルの発されかけた言葉は、ジュノーの声量に完全に消されてしまった。
ジュノーの指示を聞いたナナパラフは、ルルミルに対して軽く手を振った。
「まぁ、私に敵うかはさておき。歴代シュナには十分敵うほどにはなってるんだから、焦らず頑張りすぎないよーにね。んじゃ、お疲れい」
「あ、ありがとうございます! 頑張ります!」
頑張るなと言ったのに、聞いていなかったのだろうか。いや、聞いていてもルルミルなら言うだろうなぁ。とナナパラフは頭の中の勝手なルルミル像を頭の中に描く。
ルルミルと別れたナナパラフは、イ型に向かって右側真ん中より少し頭寄りのところにいたフレックに声をかけた。
「フレックパイセン。場所かーわって」
「お? いいけど、ここの解体はちょい難しいぞ。縁臓があるから傷つけないようにな」
「あーい、了解」
フレックから場所を譲ってもらったナナパラフは、イ型の身体を撫でる。
「うーん、やっぱりこの辺りは前に解体したところより硬いような……。となると、縁臓が急所のひとつでそれを守ってるっていうのは本当かな」
ナナパラフは撫でた感触と自分の所感を脳内のメモに書き残した。
最近のナナパラフは、討伐時の楽しみとしてエルドリクスの身体を積極的に調べていた。
サクノの季にクランツに勉強を教えてもらうお願いをして以来、ナナパラフは欠かすことなく勉強に励んでいた。その中でも、エルドリクス生態学と古代生物学は特に重点的に勉強し、討伐のたびにエルドリクスの実際の生態を確認していた。
ルルミルにシュナを譲ろうと考えたのも、その一環であった。シュナであれば討伐の際にトドメを刺すため動きに制限がかかることが多いが、そうでなければある程度自由に動き、エルドリクスの細かい動きを確認できるという利点を考えた。自由に動くことができるようになってからというもの、ナナパラフはイ型をはじめとしたエルドリクスの動き方や生態にさらに詳しくなり、以前よりも弱点などについて広く観ることができるようになった。サクノの季にはできなかったイ型の頭を撃ち抜くということも、今ならば容易にできるようになっている。
ナナパラフはエルドリクスの身体に、傷をつけすぎない程度にマギマを当てる。苦手とは言っていられなくなった解体作業を集中して行い、慎重にイ型の身体に穴を開け、そして体内から縁臓という器官を取り出した。
この器官は名の通りイ型の身体の縁に存在する部位である。普通に焼いて食べると臭みがあるが、コッペ草とプルルカという木の実で匂いを消しながら焼くと、食べやすいシンプルな味になる。
イ型の身体としては何に使われているかハッキリとわかっていない器官であり、大きな身体に血液を送り出すための第二の心臓や、リュフリスにはない老廃物をここで分解しているなどの説が議論されている。クランツの見立てでは後者の方が可能性として高いらしい。
ナナパラフは取り出した縁臓をマジマジと眺めた。イ型の血液は少し透明な青色をしているが、縁臓は少し赤っぽく感じる。つまり、血液だけではない何かがここに溜まっているという考えは、クランツの見解だった。
ナナパラフも初めて実物の縁臓を見て、なるほどと思った。それと同時に、クランツはイ型が生み出す老廃物のようなものが縁臓に溜まっていると考えていたが、ナナパラフはイ型が老廃物をここで吸収して何か別のものを排出しているのではないかと思い付いた。その排出しているものが、今見えている赤い成分ではないだろうか。
これはクランツと話す価値があるぞ。と考えていた時。
「ナナパラフ、縁臓は取れたのか」
後ろからジュノーに声をかけられた。ナナパラフは笑顔で振り返り、掲げるように見せびらかした。
「ふふーん、どうよ。上出来でしょ」
「よし。では、それは回収する」
ナナパラフの手から縁臓を取り上げたジュノーは、イ型の部位を回収していた別のリュフリスに放り投げた。それを上手にキャッチしたリュフリスは、何食わぬ顔で去っていく。
「あー! 何するのさ!」
ナナパラフの抗議に、ジュノーはきょとんとした顔をする。
「何って、イ型の部位の回収だろう。逆に何をしていると思っているんだ。まさか、この場で食べようとでも思ったのか? 美味くないぞ」
ジュノーの小馬鹿にしたような物言いに、ナナパラフは手足をバタバタさせながら反論する。
「そういうことじゃないよ! まだ見てたのに! 資料集じゃない縁臓なんてそうそう見れないんだよ!」
そこまで言って、ジュノーはやっと意味がわかったと言わんばかりに溜息を吐いた。
「勉強熱心なのは大したものだ。が、眺めていないで早く解体の続きをしろ。そのペースでやっていたら、日が落ちるぞ」
ジュノーの真っ当な指摘に閉口したナナパラフは、悔しさと共にイ型に向きなおる。そして、イ型の身体を一撫でした。
「君の身体は、ちゃんと綺麗に解体して、ちゃんと美味しく食べてあげるからね。安心してね」
ナナパラフは、イ型に向かって両の掌を擦り合わせた。
♢ ♢ ♢
ナナパラフの目覚めは早い。
最近のルーティンとして、ナナパラフは早く起きて、授業に出る前に勉強をしていた。これは勉強を教えてもらうにあたり、クランツから出された条件であった。今までの遅れを取り戻すには、使える時間は積極的に使っていかなければいけないと。
とはいえ、最初からこのように早起きができていたわけではない。最初のうちは、まったくと言っていいほど早く起きることができなかった。
クランツが起こしに何度も家を訪れた。早起きがとにかく苦手で心が折れそうになるナナパラフだったが、なんとか無理矢理体をベッドから引き剥がしてしまえば、かろうじて起きることができた。そのような起き方が数回続き、両手の指で足りなくなるくらいに日が昇った頃に、ようやくクランツが起こしにきた時に文句を言うことなく起きることができた。さらに両足の指をすべて足した数くらい日が昇ったときに、ナナパラフは初めて自分で起きることができた。
これには、クランツが感動のあまり涙を流した。ナナパラフはそれが面白かった。調子に乗って次も早起きをしてみたが、クランツはもう泣かなかった。ナナパラフはそれが面白くなかった。
それにしても習慣とは変えることができるもので、ナナパラフは目覚めてまず少し勉強し、その後ちゃんとした食事を摂っていた。今回はエルドリクスの腹肉と新鮮な木の実、体に良いとされている雑穀を食べた。以前よく食べていた木の実を甘い汁で煮た料理は、カンジェーンとクランツが体に悪いと口を揃えて言ってきたので、大量に作り置きして、偶に少しずつ食べるに留めた。
食事を済ませたナナパラフは再び少しだけ勉強をして、早めに家を出た。
外に出てみると、やはりアヒナの季は暑い。いくら森が空から降り注ぐ熱を防ぎ、森の中に涼しい空気を生み出しているとはいえ、それで全ての暑さを解消してくれるわけではない。強い日酷に対して襲いくると表現した初めての者は、多分に感受性が豊かであったのだろう。
かつてニンゲンがいたころは、今よりももっと涼しかったという説と、もっと暑かったという説がある。間をとった今と変わらないという説が最近では有力らしいが、ナナパラフが勉強した限りではどうもニンゲンはこの暑さに耐えることができない気がしてならない。過去に戻って調べることもできないため、推測でしかないが。一方でちょっと勉強したナナパラフでも行き着くことのできるニンゲンの耐久性を知ってか知らずか、もっと暑かったと主張する愚か者がいるらしい。もっと暑かった説の論者は誰か調べたところ、サーディンという昔のリュフリスだった。過去に戻って調べることもできないため、暇なやつの戯言と断定した。今でさえこんなに暑いのに、これ以上暑いなんてことがあって良いはずがない。
過去が暑いか涼しいかはさておき、今が苦痛なほど暑いことに変わりはない。日酷に耐えながら大樹へと辿り着く。教室から一番近い入り口に入り、そのまま教室へと直行する。大樹の中は中にいるリュフリスが暑さで倒れないように外よりも涼しくなっていた。誰かが前もって冷やしておいてくれたのだろう。
教室の扉を開ける。以前は遅刻を隠すために慎重に開けていた扉を、最近は隠すものもないため勢いよく開けている。今回もできるだけ元気に扉を開け、中にいたリュフリスに挨拶をする。
「おはよーざいます! カンジェーン教長!」
「はい、おはようございます。ナナパラフさん」
ナナパラフの挨拶に、カンジェーンは優雅に返す。ナナパラフは自習のために教室に早く、それこそクランツよりも早く来ているが、カンジェーンよりも早く教室に到着できた試しがない。それ故に、カンジェーンはこの教室で寝泊まりをしているのではないかという疑念をナナパラフは持っていた。その疑念は、今回もカンジェーンより遅く到着したことでさらに深まることとなった。
ナナパラフは一番前の席に座り、自習用の教材を広げる。そして、朝に勉強していたページを広げてカンジェーンへと駆け寄った。
「ねぇねぇ、カンジェーン教長。ここ教えて」
「ええ、いいですよ。ここはですね……」
クランツに勉強を教えてもらい始めてからというもの、ナナパラフは誰かに質問をすることが圧倒的に増えた。存外ナナパラフにとっては楽しいことであり、楽しいという気持ちが、よりナナパラフを勉強にのめり込ませた。
ナナパラフは勉強ができなかった時に散々目をつけられていたことから、カンジェーンに少し苦手意識を持っていた。そのため基本的にわからないことはクランツに質問をしていたが、クランツがいない時やクランツでもわからない時に、意を決してカンジェーンに質問をしに行った。
これには、カンジェーンが感動のあまり涙を流した。ナナパラフはそれが面白かった。翌日も質問をしに行ってみたが、カンジェーンはもう泣かなかった。ナナパラフはそれが面白くなかった。
「と、いうことです。わかりましたか?」
カンジェーンの解説を余すところなくメモしたナナパラフは、ペンを口元に当てて二度ほど頷いた。
「なるほど。だから前の計算の時は上手くいかなかったのか。ありがと、カンジェーン教長!」
ナナパラフが質問したのはサクノの季にカンジェーンに答えるように言われ、見事に不正解した内容であった。特別補習まで受けたが、当時のナナパラフは結局理解できずにいた。それを改めて復習したところ、他の知識が深まっていたことも相まって、ようやく正解を導く術がわかった。
ナナパラフの言葉を聞いたカンジェーンは安堵か喜びか、はたまたその両方を込めた表情を浮かべた。
「いいんですよ。わからなければ、何度でも聞きに来てください」
こうして話すことも増え、カンジェーンへの苦手意識がすっかりと薄れたナナパラフは、ついでに気になっていたことを質問する。
「カンジェーン教長って、私が急に勉強しだしてどう思ってるの? なんでこいつ急にって思わないの?」
以前までのナナパラフはお世辞にも良い生徒であるとは言えなかった。勉強への態度が不真面目そのものであるナナパラフが、急に理由も言わずに目の色を変えて勉強し出したのだ。不審に思われても仕方ないと考えていた。
カンジェーンは微笑みながら返す。
「そうですね。以前までのナナパラフさんは本当にダメな子で、今後もずっとダメなんだろうなと思っていましたが」
「教え子にそんな酷いこと思っていたんだ」
まぁ、私が悪いんだけど。とナナパラフは心の中でだけカンジェーンを庇う。実際、以前までのナナパラフはカンジェーンの視点からすると良いところはなかっただろう。
「ですが、今のあなたは何か目的を見つけたように思います。目的があると、生きることが有意義になります。そのような充実があるように思うのですが、どうですか?」
返された質問に、ナナパラフは少し考える。
「どうなんだろ。充実してるかはあんまりわからないけど、勉強も悪くないって思えてきたかも」
ナナパラフは素直に答える。勉強が苦痛でなくなってきたのは確かだが、まだクランツほど楽しんでできているとは思えない。その結果ナナパラフから出た答えは、『悪くない』だった。
勉強を教える側のカンジェーンに失礼かとも思ったが、ナナパラフの意に反してカンジェーンは満足そうに頷いた。
「それで充分です。まだまだ他のリュフリスには及ばずとも、あなたが勉強をして、そのことに対して私が悪く思うことはありませんよ」
カンジェーンの言葉に、ナナパラフは嬉しさから少しニヤけた。勉強を始めたのはカンジェーンをはじめ、三役が何かを隠していると思ったから。そして、その何かを暴くためには、知識が、勉強が必要だと考えたから。
ナナパラフはこれから、カンジェーンにとって喜ばしくないであろうことをするつもりで勉強している。カンジェーンにとってそれは知らないことであり、これからナナパラフが勉強していた理由を知り頭を抱えるかもしれない。それでも、カンジェーンに認められた気がしてナナパラフに嬉しさが訪れたのは紛れもない事実であった。
「えへへぃ、そっかそっか。それならこれからもちょっと頑張ろうかな」
「ええ、期待していますよ。ナナパラフさん」
今ならなんでもできる気がする。ナナパラフの中にそんな想いが馳せる。我ながら単純だとは思いながらも、苦手なことを努力して認められることがこんなに心躍ることだと、ナナパラフは知らなかった。
ナナパラフはその後の授業中、カンジェーンに問題を解くように指名された。そして、カンジェーンから初めての丸印をもらうことができたのだった。
♢ ♢ ♢
「それじゃ、今のところわかったことをまとめていこうか」
日が落ちた頃。すっかり恒例となったナナパラフの家での勉強会。クランツがナナパラフの家を訪れ、お互いに勉強道具を広げ、ナナパラフがわからないことがあればクランツに聞くというのがいつもの流れだった。
しかし、今回は勉強をするために集まったわけではない。という点でいつもと違った。
「ナナが見つけたあの樹壁の画、あれについてどこまでわかった?」
クランツの問いに対して、「待ってました」と言わんばかりに、ナナパラフは机の上に資料を広げる。
以前ナナパラフが見つけた樹壁の画について調べるのは、ナナパラフとクランツが別々に同時並行で行っていた。お互いが同じことを調べるよりも、各々で調べて擦り合わせた方が効率がいいだろうという判断であった。
広げた資料に改めて目を通し、ナナパラフはこほんと咳払いする。
「とりあえず、わかったことと言えば大したことがわかっていないってことかな」
ナナパラフはテヘッと舌を出す。これがチャーミングというもの、と思っていたのだが、クランツは冷めた目でナナパラフを睨む。ふざけていられないと感じ取り、大急ぎでナナパラフは「いやいや」と手を横に振った。
「ちゃんと調べてはいるんだよ! というか、資料がほとんどないことを調べるんだから、大したことがすぐにわかるわけないじゃん!」
実際、ナナパラフは暇な時間には常に何かしらの資料を調べていた。しかし、秘匿された樹壁の画について書かれた資料などあるはずもなく、徒労に終わることの方が多かった。
そのような事情は、同じく資料を調べていたクランツも把握している。
「それもそうだね。別に調べてないんじゃないかって疑ったわけじゃないよ」
クランツの表情が戻るのを見て、ナナパラフはホッと胸を撫で下ろす。こんなしょうもない冗談で評価を落とすのはごめん被る。
改めて、資料のひとつを手に、ナナパラフは調べたことを話し始めた。
「樹壁の画そのものについては資料がなかったから、画に描いてあったリュフリスに似た生き物を探ってみたけど、やっぱり姿形からしてニンゲンに近い何か、だと思う。他にもゴリラ、チンパンジー、オランウータン、アイアイ……。いろいろな名前のニンゲンに近い生き物が古代生物にはいたらしいから、そういったやつの可能性もあるけど、ニンゲンが一番可能性として高いと思ってる」
「その理由は?」
クランツは真剣な表情でナナパラフに聞く。ナナパラフは資料を机の上にパサっと置いた。
「あの画を描けるだけの知能のある生き物ってなると、私が知る中ではニンゲンがリュフリスかどっちかしか知らないから。私の知識量の問題だから、断定はできないけどね」
調べる上で、ナナパラフは古代生物学を今までにないほど勉強した。授業で取り扱っているものだけでなく、図書館などでも調べ、可能な限り調べ漏れがないかを確認した。しかしこの時までに全てを調べることは当然できず、昔から常に勉強をしているようなクランツと比べると、知識量が劣っていることはよくわかっていた。
そのため今回はひとまずの仮定として報告したが、クランツの反応は悪くなかった。
「なるほど。いや、確かに僕の知りうる限りでも古代生物でそれだけの画を描けるのはニンゲンくらいだよ。ナナから聞いた画の規模の正確性にもよるけどね」
クランツの言葉に思わず笑顔になる。自分が調べたことが誰かに肯定されると、嬉しいものがある。カンジェーンに丸をもらった授業を思い出し、ナナパラフは満悦した。
「もっとも、マギマを放つことができる古代生物はいないけどね」
そしてクランツが続けた言葉を聞き、気分は少し落ちてしまった。それは否定されたことではなく、自分でそこに思い至らなかった落ち度に対してである。
「確かに、そう考えるとどんな生き物が別の進化をしてるかわからないか……。昔は描くことができなかったとしても、今になって画を描けるように進化していてもおかしくないね」
言われると、ダンゴムシだって熱線を放っていないし、カマドウマだって目にも見えない速さで跳んできたりしないはずであり、あんなに大きくもなかったはずである。古代生物が何らかの進化をしていることは現代生物が示しており、進化の結果、ニンゲンのような知能を持つこともニンゲンのような姿形になることも考えうることではあった。
「そういうこと」
「ちぇ。ニンゲンがいる証拠として良い線いってると思ったのに。まぁ、リュフリスじゃない他の生き物がいる可能性はかなり高いし、それがニンゲンみたいな形で樹壁の画に描かれていたってなると、こりゃ別の生き物に期待しちゃうよねってことで」
ナナパラフの考えとしては、別にそこにいたのがニンゲンでなくてもよかった。ただこの世界にリュフリスとは異なる高度な知能を持った生き物がいればそれで良い。それがもしニンゲンでないなら、それはそれで心が躍るというものだ。
「そこは否定しないよ。むしろ別の生き物なんていて然るべきだ。この世の中にリュフリスと見つかっているエルドリクス3種だけしか生き物がいないなんて、そんな夢のない話はない」
クランツの言う夢のある話は、根拠があるわけではない。必ずしも他の生き物がいるというわけでもないが、それでも知識を多く持っているクランツから発せられる「いて然るべき」という考えは、ナナパラフに希望を持たせるのに十分すぎる言葉だった。
「とりあえず、私はこれから別の生き物がいる証拠とか、どっかに文献なり目撃証言がないかなり、探してみることにするよ。短いけど私の調査結果は終わり。クランツは?」
ナナパラフは自分がポーズのために出した、使わなかった資料を片付けながら、クランツに促した。
クランツが調べた内容は、三役の秘密を探ることであった。樹壁の画はナナパラフしか見ていない以上、クランツが調べるには限界がある。そのため、画はナナパラフ、三役の隠し事はクランツという役割分担をすることに決めたのである。
クランツは大袈裟に資料を広げていたナナパラフと違い、紙切れを一枚だけ取り出した。
「僕はリュフリス史を遡ってみた」
リュフリス史はその名の通りリュフリスたちがこれまで歩んできた歴史が載っている歴史書である。その歴史は今は亡きエルにまで遡り、現在の族長であるエリーエルの現在まで進行形で記されているものである。しかし。
「リュフリス史って、結構薄い書物じゃないっけ」
ナナパラフの記憶に、クランツは頷いた。
「そう、エルが族長としてエルドリクスから森を取り戻した時、歴史書には“精なる森の大戦”って記載されているんだけど。その時から今に至るまでの歴史書。エリーエルはエルが族長の頃から生きてて大戦も経験しているから、森を取り戻した時から時間としてもそこまで経っていないしそんなに大したことは書いていないんだけど、その中で気になるところを見つけたんだ」
「気になるって?」
クランツは手に持っていた紙切れに目を落とす。ナナパラフの側からは書かれている文字は見えないが、ナナパラフもなんとなくその紙に目を向けた。
「エルが亡くなった時。亡くなったのは大戦の後すぐなんだけど。エリーエルが二代目族長になったっていうのが歴史書の記載なんだけど、実はエルの死亡からエリーエルが族長になるのは5季ほど経ってからなんだ」
5季というと、かなり長い期間。綺麗な花が咲き、茹だるほどの暑さが襲い、涼しくなって草木が赤く色づき、凍えるほどの寒さが訪れ、再び花が咲く。その一周で4季なのだから、ひとつのサイクルを族長なしで越えているということになる。
だがナナパラフは素直にそれをおかしいとは言わなかった。
「エルが初代族長なんでしょ? 族長が亡くなるのなんて初めてだろうし、なにかの手続きとかで手間取ったとか? 例えば、族長の決め方そのものが決まらなかったとか」
「そうかもしれない。でも他にも気になるところはある。エリーエルが族長になる直前、エルが族長の時にエルに継ぐ権力を持っていたカロンってリュフリスが亡くなっているんだ。エルが隊長として挑んだ大戦の時に副隊長で、本来次の族長になるはずだった、カロンが」
「エルが死んで、カロンが族長になるはずだったけど体調が悪くて保留になって、亡くなってからエリーエル様が族長になったとかは? それか、カロンが族長になるのを嫌がったとか」
「だとしたら、カロンが死ぬまで待つ必要はないし、嫌がるならとりあえず他のリュフリスを族長に置けばいい。族長にするのも憚られるほどなら最初からエリーエルにすれば良いんだ。族長が亡くなるのは初めてのことなんだから、族長がいない状況を長く続けて良しとするとは思えない。それすらしないなら、エリーエルに何か問題があると考えても違和感はない」
「それは、そうかもしれないけど」
クランツの言う説には、エリーエルへの嫌悪感情が含まれているように感じた。しかしそれを抜きにしてもクランツの主張が間違っていると言い切ることもできない。当時の状況次第では、本当にエリーエルが族長になるということが望まれなかった可能性を肯定する材料も否定する材料もない。
クランツは続ける。
「さらに言うと、エルの時代に生きていたリュフリスたちは老齢だろうと若齢だろうと軒並み死んでいるんだ。今エリーエルを除いたリュフリスの中で最年長はカンジェーン教長だけど、教長ですら生まれたのは討伐隊や授業が今の体制になってから。その中でエリーエルだけが生き残っていて、何か都合が悪いことが過去にあったとしても、それを知るリュフリスはいない。多少、歴史を改竄したとしてもね」
カンジェーンは260季ほど生きている。それに対し、聖なる森の大戦は320季ほど昔の話。当然カンジェーンは生まれていない。エリーエルが少なくとも320季前には大戦に参加する年齢であり、現在でも老いを感じさせず平然としている怪物になることはさておき。
「それは、エリーエル様に都合の悪いように考えすぎじゃない?」
クランツの考え方には私情が挟まっているとナナパラフは思い続けていたが、この意見についてはエリーエルが本当に直接関係があるかはわからない。それをエリーエルが怪しい根拠とするには、クランツにしては乱暴に感じる。
そのように伝えると、クランツは悪びれる様子もなく。
「そうかもね。僕、エリーエル嫌いだし」
と口にした。これにはナナパラフも目を丸くする。
「そうだったの? 『精なる森のエル』聞きに行くの好きだったじゃん」
『精なる森のエル』を聞いていたクランツは、うたた寝をするナナパラフの横でいつも興味深そうにしていた。同世代の中でも、クランツが物語を覚えるのは一番早かった。
「語り部が誰であれ、物語に罪はないからね。エリーエルは自分が一番賢いと思ってそうなのと、全部が自分を中心に回ってると思ってそうなところが嫌い」
クランツの口から次々と怨言が飛び出してくる。エリーエルは精なる森の族長として信頼を得ている。その中で大手を振るって文句を言うことは、クランツにとって憚られることであった。だからこそ、ナナパラフに話すことができて、箍が外れたのであろう。
放っておいたら、いつまでも文句を言いそうだなと感じたナナパラフは、話を切り替える。
「ま、まぁクランツの思想はともかく。クランツが調べたところによると、やっぱりエリーエル様は何か隠してる。でも、あの画が大戦の後いつ描かれたかわからないにしても、大戦の時にエル様の時代のリュフリスたちが亡くなってるってことは、隊長や教長はあの画が何か知らないってことになる?」
ジュノーはカンジェーンから授業を教わったことがあるほど三役の中では若い。カンジェーンが大戦時に生まれていない。となると、大戦のことを表しているであろう画について詳細を知っているとは思えなかった。
クランツは手を口元にあてる。
「その可能性もあるね。理由もわからずに見回りをしてエリーエルの秘密を守っていたか、それとも秘密は共有されていてわかった上で守っていたか。どちらにせよ、その画が知られちゃまずいってことは、『精なる森のエル』の物語は単純な“めでたしめでたし”って訳じゃないのかもね」
子ども向けに直された物語が元は残酷な物語であるかのように。『精なる森のエル』の元の物語も決して綺麗なものではなったかもしれない。それが何故、今の形になったのか。エリーエルは何を隠したかったのか。
「元の物語がどう都合が悪いのかを探るのがこれからの課題かな」
「そうなるね」
エリーエルが族長として『精なる森のエル』を都合の悪い真実から都合の良い法螺話に変えたとして。その変えた都合の良い物語をリュフリスの子どもたちに聞かせ、頭に叩き込ませる。そうすることで、リュフリスたちの中での大戦に出ていたエルやエリーエルへの信仰を深める。もしこれらが本当だとすると、大がかりな洗脳といっても過言ではないのかもしれない。と過ったところで、クランツに毒されてしまっただろうかとナナパラフは頭を左右に振る。
「なんか、とんでもないことに首を突っ込んでる気がしてきた」
ナナパラフは思わず頭を抱えた。三役の隠し事を暴くという時点で、元々わかりきっていたことではあるが、調べるにつれて、ことの重大さをより実感してきた。
「僕は三役が隠そうとしている時点でとっくに思ってたよ。止める?」
クランツの問いに、ナナパラフは頭を抱えたまま再び横に振る。
「止めない。ここまで来たら余計にね」
ここまで色々なことを調べてきて新たな知識を身につけてきた。その上でわかることが増えてきて、完全に謎だった樹壁の画も、真相はわからずとも「こうではないか」という予想もついてきた。ナナパラフとしてはそれだけでも大きな成果である。ここで止めるという選択肢はなかった。
「それでこそ、協力しがいがあるってものだよ」
下手なことを言うと協力しがいがないといって協力を打ち切られそうだなと、ナナパラフはため息まじりに笑った。
♢ ♢ ♢
授業と訓練が終わってからナナパラフが向かったのは、森の中でも数少ない、というより一軒しかない氷を専門に販売している店であった。
すぐに潰れるだろうなというナナパラフの予想は外れ、13季ほど続いているすっかりお馴染みの珍店である。アヒナの季はともかく、シロツメの季の間は何をしているのだろうと常々思っているのだが、それはそれで需要があるのだそうだ。次のシロツメの季に本当に需要があるのか聞いてみることにしよう。
氷が溶けないようにと、二重になった扉を開く。中はアヒナの季の暑さを凌ぐにしては冷えすぎており、身体に障る恐れすらあるレベルである。客ではないリュフリスたちが涼みにくるということもないそうだ。今回もまた同様に、ナナパラフが目当てとしていた店主だけが店内で椅子に座っていた。ナナパラフは寒さを堪えながら片手を挙げて呼びかける。
「メルカドさん、おつー」
「おう、ナナちゃんじゃねえか! 久しぶりだな!」
ナナパラフに気づいた店主、メルカドは片手を挙げ返して応える。
オールバックにした黒髪に顎に蓄えられた髭。筋骨隆々な肉体を持ちながらも、その笑顔はどこか接する者に安心感を与える。この寒い空間にも関わらず、袖のない服を着ており、こちらまでさらに寒くなってくる。きっと袖は家に忘れてきたのだろうが、それにしてもナナパラフから見ても変なリュフリスである。
ナナパラフはメルカドに近付いていく。途中で、ふと思い出し立ち止まった。メルカドは首を傾げる。
「なんだ、どうしたんだ?」
「メルカドさん、頭をわしゃわしゃ撫でてくるでしょ。あれ止めてね」
メルカドはかつて討伐隊に所属していた。今は引退したが、ナナパラフが仮入隊してからしばらくは共に戦った仲である。メルカドはナナパラフが近くにいると、頭を撫でくりまわした。ナナパラフにとっても特別に悪い気はしなかったが、良い気でもなく、止めろと散々告げてきていた。
メルカドは苦笑しながら、両手を後ろに回した。
「ほら、これでいいだろ」
ナナパラフはなおも警戒しながら、メルカドに近づく。手をナナパラフに向けようものなら、すぐに飛び退ける距離をとったまま、ニコッと笑った。
「本当に流行ってるの? この店」
「生意気言うじゃねーか。もちろん大流行りだ」
ナナパラフはメルカドが討伐隊を引退した後に開いたこの店に来るのは初めてだった。店内には誰もいないし、氷を買いに行ったと言うリュフリスにも出会った記憶がない。なにせ、店の外に出れば茹だるような日酷。氷は確かに欲しくなるが、外へ出ればすぐに溶けてしまう。
「そんなことより、話があって来たんだろ?」
店に陳列されている氷を眺めているナナパラフに、メルカドは声をかける。どの氷も一緒に見えるなぁと考えていたナナパラフは少し含羞んだ。
「わかる?」
メルカドに会ったのは、メルカドが討伐隊を引退して以来であった。頻繁に会いにくる仲でもなければ、何気ない時に出会ったとしても軽い挨拶で済ましていたであろう仲のため、何かあったということはすぐにわかるだろうとナナパラフも承知していた。
それをわかってかわからずか、メルカドは大袈裟に胸を張ってみせた。
「一回も店に来なかったナナちゃんが、今更試しに来てみました、なんて言わないことくらいお見通しよ」
「さっすが元シュナ。敵いませんなぁ」
メルカドはナナパラフがシュナになる前のシュナであった。実力は討伐隊の中でも頭ひとつ抜けており、ナナパラフが仮入隊するまでは最強の名を欲しいがままにしていた。
ナナパラフのお世辞に、メルカドは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「煽てんなよ。俺が譲ったシュナの座を直ぐに他のやつに渡しやがって」
メルカドが討伐隊を辞めた理由としては、この氷店をやりたかったからということもあるが、ナナパラフが仮入隊したことによりシュナの座を譲ってもいいと思ったからだとナナパラフは聞いていた。まだ正式に入隊していないナナパラフにシュナを譲ることについて批判もあがったが、それでもメルカドが押し切ったということも。その地位をすぐに他のリュフリスに渡すことについて抵抗がなかったと言えば嘘になる。もっとも、ナナパラフからすれば勝手に譲られたという気持ちを抱えていることも事実であった。
「譲ってもらったんだから、私のものをどうしようと勝手でしょ」
手を後ろで組んでどこ吹く風と言わんばかりにメルカドの言葉を躱すナナパラフに、当のメルカドは溜息を吐いた。
「先輩に対する礼儀ってもんが足りねーな」
それは昔からナナパラフがメルカドに言われ続けたことであり、現在もジュノーに言われ続けていることである。メルカドとジュノーは同期であり仲も良かったため、言うことが似てくるのであろうと、ナナパラフは微笑ましいような気持ちになった。
「ルルミルを見たらそうしたと思うよ。メルカドさんが私にしたみたいに」
ナナパラフのその言葉に、メルカドは何かを言おうとして口を二度開いた後、言葉にならなかったことを誤魔化すように視線を左に逸らした。
「脱線したな。で、何の話だ?」
わざわざメルカドと世間話をするために来たのではないことは、ナナパラフも少し頭から抜け落ちてきていた。それを引き戻されたナナパラフは、メルカドに問いかける。
「率直に聞くけど、メルカドさんは討伐中に3種のエルドリクス以外に別の生き物って見たことある?」
メルカドは討伐隊員としてかなり長い期間を生きた。ジュノーに聞いてもはぐらかされるとわかったナナパラフは、もっと口が軽い方に聞こうと考えた。メルカドもジュノーと同期なら、握っている情報量は遜色ないはずである。
逸らされたメルカドの視線は、再びナナパラフへと戻された。
「おう、あるぞ」
「ほんと!?」
見たことがないと言われれば、本当か隠されているか、見分ける術はないと考えていた。その心配は拍子抜けするほどに杞憂に終わり、急に道が拓けたことに声が上擦った。
そんなことを気にせず、メルカドは思い出すように語り始めた。
「あぁ。あれは、ナナちゃんやクランツが入るよりも前のことだ。討伐に出てた俺はいつも通りイ型を討伐し、解体をしていた」
ナナパラフの仮入隊は18季前、クランツは19季前である。あと2季経ちシロツメの季になると進路を考えなくてはいけないのかと、今は関係のないことでナナパラフは少し憂鬱になる。
「すると、近くでガサガサって音がした。最初は他のリュフリスがいるんだろうと思ったが、何か違う嫌な予感がした。それでだ。俺は他の隊員を待機させ、空中から様子を伺った」
「どうだったの?」
先を急かすようにナナパラフは聞く。急かされたメルカドはすっかり話すことに気分が良くなって、ニヤリとして話した。
「そこにいたのは、この店よりも広く妙にテカテカした身体、忙しなく動く頭から生えた触覚に、毛のようなものが生えた6本の脚。そんな黒い生き物が眠りから目覚めたかのようにそこにはいた」
メルカドのいう生き物に、ナナパラフは少し覚えがあった。古代生物学では、ゴキブリやゴミムシ、カミキリムシという生き物たちがメルカドの述べる特徴に当てはまる。テカテカした身体ということは、脂質層があるというゴキブリが最も近いかもしれない。
「最初に見たときは、生き物だってわからなかったがな。触覚が動いているのを見た瞬間に、こいつは知らない生き物だって思ったさ。で、他のやつを呼びに行ってる間に地響きがして、気がついたらそいつはいなくなっていた。おそらく、ロ型みてーにとんでもなく素早く動けるやつだったんだろうよ」
「それって誰にも言わなかったの?」
もしメルカドがその生き物のことを誰かに言っていたら、おそらく新種の生物として名がつけられていただろう。そうでなくても、捜索隊のようなものが臨時で組まれていたかもしれない。だがナナパラフの記憶にはそのような歴史は存在しなかった。
メルカドはナナパラフの疑問に苦い顔をした。
「もちろん言ったさ。新種であろう生き物を見つけて、報告しないわけがない。当時その生き物を見たのは俺だけだったが、隊長だったジュノーに報告して、ジュノーを含めた他の隊員たちと一緒にエリーエル様に、事細かに報告した。だがエリーエル様の判断は、俺しか見ていない生き物を新種として報告することはできない。他のリュフリスが同様の生き物を発見したときに、改めて検討するって話だった。それまでは、混乱をきたす可能性があるってことで禁句となった。そしてそのまま、この話はなかったかのように触れられることはなかった。だからほんの数名しかその存在は知らないし、姿を見たことがあるのは俺だけってわけだ。終わり」
最後の方は、メルカドは吐き捨てるように話したようにナナパラフは感じた。新種の生き物を見つけたにも関わらず、それをなかったことにされたということに対して、少なからず憤りを覚えているのだろうということは感じ取れた。
「それって、私に話してもよかったの? 禁句なんでしょ?」
メルカドは「ハッ」と笑った。
「構わねえよ。どうせナナちゃんに話したところで、話すとしたらクランツくらいだろ。で、クランツは他のやつには言わない。それくらいなら大した影響じゃない」
信頼されている、というよりは、よくわかっている、とナナパラフは思った。自分は確実にこの話をクランツにするであろうし、クランツはやはり誰かに話したりしないだろう。元討伐隊の仲間として、いかに自分たちにも目を向けてくれていたかがこんなところでわかるとは。
「すっごく参考になったよ。ありがと、メルカドさん」
「いいってことよ」
メルカドは乾いた喉を潤そうと水の入ったコップを手に取る。ここはやけに乾燥している。話をさせるばかりで申し訳なかったと感じたナナパラフは、氷のひとつでも買って帰ろうかと目配せをする。
その時、遠くからサイレンの音が鳴り響いた。どことなく視線を上に向けたナナパラフの視界の端では、同じくメルカドが反応していた。
「おい、今の出撃指令じゃないか?」
さすが元隊員は反応が速い。気づかないフリができなくなってしまった。と、ナナパラフは肩を落とす。
「めんどくさいなぁ。せっかくここからはメルカドさんと雑談しようと思ったのに」
「なぁに。また来りゃいい。いつでも暇してるからな」
メルカドはナナパラフに近づき、頭に手を置いて撫でくりまわす。ナナパラフは頭を撫でない顰面をして、その手を振り払った。
「やっぱり大流行りっての嘘なんじゃん」
メルカドは「しまった」と言わんばかりに、手で顔を覆う。そして少し考えた後に、苦い顔で笑った。
「今の時期が暇なだけだ。もっと良い時期には繁盛するんだよ」
この暑いアヒナの季に冷たい氷が売れなければいつ売れるのか。という言葉は、先輩の尊厳のためにも飲み込むナナパラフであった。
♢ ♢ ♢
その日の討伐は、いつもと大差ない内容だった。
討伐対象はエルドリクスのハ型。堅固な殻を背負った四肢のない細長い身体からは粘液を出し、頭からはツノのような眼が2本飛び出しており、うねうねと動くその姿は、かつてカタツムリと呼ばれた古代生物と瓜二つであった。数少ない違いは、這いずれば家を巻き込み倒すほどの大きさであること、再生能力が異常に高いこと、這いずった後からすぐに草木が腐りながら溶けていくこと、そして、リュフリスたちを近づけまいとする音波を放つことである。
ハ型の討伐方法としては今までは実に簡単で、ナナパラフが遠くからマギマを連発して息の根を止めるというものであった。しかしこれは平均以上の出力を平均以上のスピードで放ち平均以上の弾数を撃たなければならず、さらにそこまでして殻を破った上で身体を再生もできないくらいに滅多撃ちにしなければいけない。ナナパラフ以外の者がマギマを放つと、ハ型の殻の硬さと再生能力を上回ることができなかった。そのため、現在はルルミルを中心として音波の被害が少ない位置からマギマを放ち、ハ型の殻に傷をつけつつ、体力を削るという別のオーソドックスな戦法を試みているところである。
今回はルルミルたちだけでどこまでできるのか見るということを討伐前に勝手に決めていたため離れたところで座りながら戦いを見ていたナナパラフは、隣にいるジュノーに声をかけた。
「隊長、私はいつもすぐに終わらせていたから知らなかったんだけど、ハ型って結構うるさいね」
「そう思うならお前が行って黙らせて来い」
ジュノーはナナパラフがシュナを譲ることを快く思っているわけではない。今後発生したであろう、圧倒的な実力を持つナナパラフの後釜をどうするのかという問題や、ルルミルが他を寄せ付けないスピードで実力が伸びてきていることを踏まえると今の采配は妥当と言えなくもないが、ナナパラフ自身がシュナを譲ると言ってきたことに対し、シュナであることを楽しんでいるとさえ思っていたジュノーは上手く飲み込むことができていなかった。
ナナパラフもジュノーの気持ちはよくわかっており、だが考え方の違いで折り合いが悪くなったままにする気もなく、暇があれば話しかけるようにしていた。
ハ型は現在、殻に篭りながら絶賛音波を発している。リュフリスたちはハ型の音波を聴くと、脳が揺れるような感覚になり、マギマを放ったり正常に空を飛ぶことができなくなる。そのため現在はそれぞれ距離をとっている。遠距離から高火力を出すことができるナナパラフがいない以上、音波の隙を狙ってマギマを撃つしかない。事故で死ぬことはほとんどないが倒すのが面倒というのがハ型討伐の特徴であった。
ナナパラフが目を向けると、ルルミルやクランツも攻めあぐねている顔をしていた。音波が止むのを待ち、その後一気に攻撃を仕掛けるつもりをしているであろうことは、遠くからでもナナパラフにはわかった。だが、そこで倒し損ねるとまた長い時間を待たなければいけなくなる。
ナナパラフは重い腰を上げ、パンパンと服の汚れを払いながら俄かに笑みを作った。
「仕方ないなぁ。私もシュナは譲るとは言ったけど、頼りにされるとやっぱり嬉しいからね。この音波が止んだらちょびっとだけ増援に行くとしようかな」
ハ型の音波はまだ鳴り止まない。ハ型と戦うことは多くはないが、行動パターンはわかりやすい上に事故も少ない。ハ型に直接的にダメージを与えなかったとしても、ルルミルたちと協同して戦えばそれほど時間をかけずに倒せるだろうとナナパラフは考えた。
ハ型の音波はまだ鳴り止まない。ルルミルも経験を積み、かなり強くなった。シュナとして文句は周りから出ないレベルになってきているが、討伐隊全体がナナパラフやナナパラフの前のシュナであるメルカドに頼り切っていたこともあり、討伐隊そのもののレベルとしては低下傾向にあった。そういった経緯もあり、ナナパラフをいきなり外すことにジュノーは不安を覚えていたのだ。メルカドがシュナになる前であってもハ型などそこまで苦戦しなかったのにと、ジュノーはヤキモキとする。
ハ型の音波はまだ鳴り止まない。ハ型の生態をクランツはよく把握していた。ナナパラフと改めて勉強を重ねる上で、イ型、ロ型に併せてハ型の生態も改めて深く知ることとなった。しかし、それが必ずしも討伐に即繋がるというわけではない。急所や戦い方がわかっていても、それを実現するだけの実力が必要となる。クランツがナナパラフやルルミル以上になるためには、その単純な実力が足りないということは理解していたし、それを妬んだりしたことはなかった。だが、今回のように討伐がなかなか進まない時にはどうしても歯痒い思いをすることになる。
ハ型の音波はまだ鳴り止まない。自分の実力がナナパラフに遠く及ばないことはルルミル自身が一番痛感していた。周りは苦言など言わないが、「もしナナパラフがシュナなら、もっと討伐も簡単なのに」と自分が自分を許さない。討伐中はそんなことを考える余裕もなくなるが、時間ができるたびに考えてしまう。早く、音波よ鳴り止め。ルルミルはそう祈り始めてすらいた。
ハ型の音波はまだ鳴り止まない。
「……ねぇ、隊長」
ナナパラフは横に並び立つジュノーに声をかけた。ジュノーはナナパラフに返事をせず、じっとハ型を見つめていた。
ハ型の音波はまだ鳴り止まない。普段ならばもっと早くに止むはずの音波を放ち続けるハ型は、声帯もないのに声が枯れるのではないかと感じるほどの大音を出していた。ハ型の周りを飛んでいたリュフリスたちも次第に様子がおかしいことに気がつき始め、各々近くのリュフリスに相談するため寄っていったり、ジュノーやルルミルの様子を伺っていた。
ハ型の音波は
グシャリ、パンッ。といった潰れて爆ける音と共にようやく止んだ。
リュフリスたちは状況を理解できず、音の鳴った方に目をやった。そこは、先ほどまでハ型が陣取り音波を放っていた場所。その巨大な身体は見る影もなく、硬い殻と柔らかい身体は別の生き物に踏み潰されていた。
踏み潰したハ型に、別の生き物はガツガツと喰らいつく。胴体と思われる丸い部分から尻と思われる部位と、8本の長い脚が伸びている。顔には8つの眼があり、それらはギョロギョロと独立して動いている。眼の下には、まさに生き物を喰らうための凶暴な口と歯を拵えていた。
あらかたハ型を喰い尽くしたその生き物は、頭をゆっくりとあげ、眼玉はギョロギョロと周囲を見廻し、口から「ブッ」という音と共にハ型の殻の欠片を吐き出す。静寂の中「カラン」と欠片が転がる音が響くと、まるで笑うかのように「キシャァ」と声を挙げた。
その姿に、ナナパラフは見覚えがあった。あれは確か古代生物史に出てきた生き物で、ニンゲンたちの中でも恐怖の対象とされていた生き物であったはずだ。そう、確か名前は。
「クモ、だ」
ナナパラフの呟きとほぼ同時に、ジュノーが身を乗り出して叫んだ。
「逃げろぉ!」
そして、ジュノーの叫びとほぼ同時に、クモは背中から真っ白な霧のようなものを噴出した。その霧は一気に周囲を包み込み、空中で呆然とするしかできなかったリュフリスたちを呑み込んでいった。なんとか回避できたのは、離れたところにいたナナパラフとジュノーを除けば、ルルミルとクランツ、リマナだけであった。
霧はみるみる広がり、クモを包み込んだ。霧の中からは、困惑するかのようなリュフリスたちの声と、ドスドスと深い音を立てながら移動するクモの足音が聞こえてくる。クモの迷いない脚音を聞くに、この霧が獲物の目眩しとなり、中で戸惑うリュフリスたちがクモの餌食になるということは、いうまでもないのだろう。
「くっ!」
霧に飲まれた隊員たちを助けるため飛び立とうとしたナナパラフの手を、ジュノーが掴んで止める。ナナパラフはなぜ止めるのかとジュノーに抗議しようと振り返ったが、ジュノーの余裕のない表情を見て、思い留まった。これは、ジュノーほどの経験者でも想定外の、異常な事態が起こっていると、咄嗟に理解した。
ナナパラフが飛び立つのをやめると、ジュノーは手を離して遠くにいたルルミルたちに呼びかけた。
「ルルミル、クランツ、リマナ! 今からそちらへ行く! 霧の中の様子を警戒しておけ! 危険があれば回避、それ以外は下手に動くな!」
「了解!」
クランツとリマナはルルミルに近寄りつつ、霧を警戒する。ルルミルも同様に、いつでもマギマを撃つことができるように構える。ナナパラフはジュノーがルルミルの方に向かって飛ぶのを確認してから、その後ろについて行くように飛んだ。
「いやあああああ!」
霧の中から、リュフリスの悲鳴が聞こえる。下を見ると、何名かのリュフリスはすでに霧の範囲外に出ていたが、涙を流しながら咳き込んでいた。おそらく、催涙効果のようなものがあるのだろう。下手に突っ込んで行かなくて正解だったと、ナナパラフはジュノーに感謝した。
ルルミルたちのところについたジュノーは、開口一番に指示を出す。
「作戦を指示する。あいつの討伐は、俺とルルミル、ナナパラフの3名で行う。クランツとリマナは今すぐ退避した隊員の救助にあたれ。警戒は怠るなよ」
「了解!」
指示を聞いたクランツとリマナは早速下に向かって飛んでいく。それを見送るまでもなく、ジュノーはルルミルに目を向けた。
「ルルミル、まずは霧をどうにかしたい。爆散弾はできるか?」
「で、できますけど、あの霧の中のリュフリスたちに……」
仲間に手をかけることはリュフリスにとって重罪。もちろんどのような状況下であるかによるが、リュフリスにとって仲間を危険に晒す行動は躊躇われるものがある。
「他のリュフリスに被害が出た時の責任は俺がとる。お前にしかできないんだ、頼めるな?」
「……! はい!」
ナナパラフは爆散弾という言葉に聞き覚えがなかった。だが、それがどういったもので、どういった効果があるのかということはすぐに理解できた。ナナパラフの理解に誤りがなければ、この状況にこれほど適したものはない。
ジュノーはナナパラフをチラリと見る。
「ナナパラフ。ルルミルが隙を作る。トドメは任せれるか」
「了解」
ジュノーの言葉に、ナナパラフはこくりと頷く。今メインのシュナはルルミルだからルルミルが美味しいところを持っていくべきだとか、そういうことを言っている場合ではないことは、流石にわかっていた。なにせ今も霧の中ではリュフリスたちの悲鳴があがっている。早く助けなければ、犠牲を増やすだけだ。
「では、隊員たちを救いに行く。お前たちならできる。自信持って討伐しろよ、自慢のシュナたち」
『了解!』
この異常な事態に対しての不安は、単純なことに隊長が普段言わない力強い言葉で全て吹き飛んだ。
♢ ♢ ♢
「こちらナナパラフ。準備完了」
「こちらルルミル。準備完了です」
ナナパラフとルルミルはそれぞれ霧から少し離れた、先ほどより高度を下げた低い位置に待機する。それに対してジュノーは全体が見えるように高いところを陣取った。
ナナパラフとルルミルの準備完了の合図を見たジュノーはコクリと頷き、右手を挙げた。それと同時にルルミルは右手を目線と真っ直ぐになる位置にまで挙げ、人差し指をたて、霧の中心に向かって指す。その数瞬後、指の先が光り出した。
ルルミルのマギマは、普段放っているものとは違っていた。ナナパラフやクランツをはじめとしたリュフリスたちが放つマギマは、指先で球体に力を蓄え、蓄えるほどに大きくなっていき、片手で握れるほどのサイズになった後、線となって放たれる。
しかし今ルルミルが溜めている爆散弾と呼ばれたマギマは、綺麗な球体ではなくどこか波打つように歪み、あちこちが跳ねるように、脈打つように大きくなっていく。しかしなかなか膨れあがらず、いまだ指でつまむことができる程度の大きさだ。ルルミルが事前にナナパラフに話していた爆散弾の大きさは、普段のマギマと変わらない程度であるとのことだった。このペースだと、放つまでに少し時間がかかるだろう。
ナナパラフも構えをとり、マギマを放つために力を溜め始める。そうしている間に、頭の中で先ほど見たクモの姿を反芻した。
大きさとしては、背の高さは平均的なリュフリスの身長2.5名分程度、全長ではかなり広く長い身体であったという認識がある。しかし、霧に巻き込まれたリュフリスが催涙効果などで空を飛ぶことができていないと考えると、低い体勢でリュフリスを襲っている可能性もある。どのような体勢でも冷静に撃ち抜かなければいけない。
現在、救出されているリュフリスは概算で6割程度。まだあの霧の中で恐怖に震えるリュフリスも少なくないだろう。
ルルミルの爆散弾はどの程度の威力か。隙を作るというからには、霧を吹き飛ばす程度の威力はあるのだろう。発光はしたりするのか、こちらのマギマに影響はあるのか。ナナパラフの頭の中には、サクノの季のナナパラフではありえなかったほどの思考が巡らされていた。
だがしかし、ジュノーが判断を下し、ルルミルができると言った。ナナパラフにとってそれは、実行可能な条件として十分であった。
マギマに力を込めていたルルミルが、大きく息を吸う。爆散弾は既にルルミルの指先で大きく、今にも弾けようと波打っていた。ナナパラフは、思考を一度リセットし、目の前に集中する。
それを見たジュノーは、挙げていた手を一気に振り下ろす。
「放て!」
ジュノーの一声と共に、ルルミルの目の前で蓄えられていたマギマは解き放たれた。先が丸い球体になった線は、普段のマギマよりもゆっくりと進み、霧の中へと消えていった。周囲のリュフリスたちが見守る中、一瞬霧の中で小さく光ったかと思うと、轟音と共にマギマは弾け飛んだ。
その衝撃は爆風となり、一面を覆っていた霧を散り散りに吹き飛ばす。霧が覆っていた未知の空間は一気に姿を表し、クモの巨体が姿を見せた。
次の瞬間、ナナパラフの指先からマギマが放たれた。大きな光の線となって一直線にクモへと向かったマギマは、クモの左側を一部抉り、その役目を終え徐々に消えていった。ルルミルの爆散弾の威力が想定以上であったため、ナナパラフの照準がずれ、クモを完全に仕留めるには至らない威力となってしまった。クモは「ギギ!」と鋭く苦しそうな声を挙げ、その場を離れようと蠢く。
「鈍ってる! 私の腕!」
サクノの季の頃なら外しようがなかったのに! と舌打ちをしながらナナパラフは再びマギマを放つために力を溜める。1発でナナパラフが仕留めてくれると思っていたルルミル、現在救助できるリュフリスを概ね救助したクランツも急いで攻撃体勢に入る。
最悪なのはここでクモを逃すことだ。クモを討伐しきって連れて帰るかどうかで、新種の生き物の情報量は大きく変わる。逃したところでこれだけの被害と目撃者がいる以上、メルカドの時のような情報規制は敷かれないとしても、謎の生き物程度の認識で終わってしまうだろう。世界にはもっと多くの生き物がいるのだと、そのことを証明するには、そして何より被害に遭ったリュフリスたちに報いるためには、クモをここで逃すわけにはいかない。
ナナパラフのマギマが溜まる前に、クモは足に力を入れる。今にも跳んで逃げようという体勢だということは、ロ型が似たようなポーズをとるのですぐにわかった。一か八か、跳んだところを撃ち落とすか。
と、ナナパラフが考えていたところ。クモの上から1発のマギマが降り注いだ。それは大した威力ではなかったが、跳ぼうとしたクモの気を逸らすには十分なタイミングだった。
クモとナナパラフが同時に上を見る。いくつものマギマが空中に漂い、今か今かと放たれようとしていた。それらの中心にいるのは、上から全体を見ていたジュノーであった。
マギマは指先から放つのが一般的だ。その方が、照準も合わせやすいし、力の込めやすさも違ってくる。だが、ジュノーのそれはそんなセオリーを完全に無視したもので、指先から完全に独立して宙を待っていた。
「堕ちろ、化物」
ジュノーのその一言で、ジュノーの周りにあったマギマは一気にクモに向かって飛んでいく。クモは急いで退避しようと脚に力を込める。だが、ロ型ほどのスピードもないクモは、ジュノーが放った幾重ものマギマを躱すことはできなかった。頭に、脚に、身体に、何発ものマギマに押し潰されるように地に伏した。逃げようと力を込めた脚はもがくように苦しんでいたが、次第にその力を失っていき、重力に負けたかのように身体から外れて地面に落ち、鈍い地響きをあげた。
一瞬の静寂。ピクリとも動かないクモを誰もが見つめ、そのうちの誰かが大きく息を呑んだ。
「総員、その場にて待機! 警戒は緩めるな!」
勝利を確信し雄叫びをあげようとしたリュフリスたちをジュノーが制す。討伐隊の基本として、討伐対象が活動停止したとしても隊長が次の指示を出すまでは戦闘体勢であり続けなければいけない。かつて、ロ型の討伐の際に勝手な判断で解体作業に入ろうとして、虫の息であったロ型の起死回生の一撃を受けて命を落としたリュフリスがいる。それ以来、安全の保証は隊長の仕事であった。
ジュノーはクモにゆっくりと近づいてその身体を見回す。時に手で触れ、軽くマギマを当て、顔を覗き込む。ふと、クランツが不謹慎ながらもウズウズしているのが遠目にでもわかった。おそらく、新種の生き物を一刻も早く触って確かめたいのだろう。そして、ナナパラフは自分も今となってはそういう顔をしているということがわかっていた。
ジュノーはさらにしばらく慎重にクモの身体を見た後に。
「よし! 警戒体制を解け! 負傷者、死傷者の確認を急げ!」
こうして、大きな歓声と共に討伐隊の最大のピンチは幕を引いたのであった。
♢ ♢ ♢
「死者が7名、重症者が4名、軽傷者多数。被害としては過去最大らしいですね」
クモの討伐からしばらく経った後、精なる森には正式にあの一件が公表された。
クモは「エルドリクス ニ型」と名付けられ、討伐自体は「ニ型襲撃」と呼称される討伐になった。未だ「クモ」と呼んでいるのはナナパラフとクランツだけになり、リュフリスたちの間では「ニ型」が正式名称として浸透することとなった。
ニ型襲撃は討伐隊に大きなダメージを与え、これまで交代で休みを与えられていた隊員たちの多くは休みを削られた。特にサクノの季以降ルルミルを中心とした隊編成に切り替えていたため出撃しないことが増えていたナナパラフの出撃回数はサクノの季以前よりも増えることになってしまった。
今も授業が終わった後、食事前に指示が出た出撃を終え、ようやく帰ってきたところである。ナナパラフと共に食堂で食事をしながらルルミルが呟いた。
「私がもっと早くハ型を倒せていたら、変わっていたのかな……」
討伐からしばらく経っても、ルルミルは一貫してこの悩みを抱えている。自分がナナパラフのようにハ型をすぐに倒せていれば、ニ型が現れることもなく、今回の被害は出なかったのではないか、と。
ルルミルの呟きに真っ先に反応したのは、同じく討伐から帰ってきて共に食事をしていたクランツであった。
「それは違うよ、ルルミル。あれは完全にイレギュラーだった。勝手な行動をして二次被害を出さなかっただけ、上出来だったと思うよ」
クランツの言い分に、ナナパラフはイ型の肉を使ったスープを啜りながら口には出さず同意した。
ニ型襲撃の詳細は隊長のジュノー、討伐の中心を担ったルルミル、隊員を救助したクランツによって、それぞれの立場でエリーエルに報告された。ナナパラフは報告の場にはいなかったが、クモが現れた原因としては、ハ型の長時間にわたる音波がクモを引き寄せたのではないか。あれはクモを呼び寄せるためのハ型の戦略だったのではないかということで纏められた。そのため一部ではナナパラフがシュナのままでハ型を討伐していれば、このようなことは起こらなかったのではないかという声が上がっていることも事実である。
しかし、一部を除く残りの大半の反応は、異なるものであることはルルミルもわかっている。何故なら、その反応はルルミルを常に取り纏っていたからである。
「あ、ルルミル。ニ型の時はありがとう。本当に助かったよ!」
「あ、いえ……」
昼食を食べ終えルルミルの隣を通りすがった、ニ型の霧に飲み込まれ何もできずに踞ったまま気がついたら討伐が終わっていたでお馴染みの隊員、カマンダはルルミルの肩をポンと叩いた。ルルミルはそれに申し訳なさそうな顔で応える。
ニ型襲来後の大半の反応は、ルルミルを英雄のように扱うものであった。もっとも、この流れはエリーエルの図らいによるものであった。
ニ型襲来を公表した後、エリーエルによってクモの討伐に大きく貢献したルルミルを讃える言葉があった。公表は聖なる森の集会所前で行われ、その時に来ていたリュフリスたちはルルミルを英雄のように扱い、来ていなかったリュフリスたちには英雄ルルミルの活躍談が語られることになった。
ルルミルは「ニ型を倒せたのは大きな傷を負わせたナナ先輩と想定外の事態に対してすぐ対応したジュノー隊長、皆を救助したクランツ先輩とリマナ先輩のおかげです。私は大したことはできていません」と自己分析したが、ナナパラフは「確かにそうだな」と思った。
もっとも、本人が言うほどルルミルは大したことをしていないわけではない。ニ型を倒せたのはルルミルの爆散弾のおかげでもあるし、あの爆風を起こすマギマの使い方はナナパラフにはできないことであった。精々できるとすれば、霧に向かってマギマを縦横無尽に撃ちまくり、クモに当たることをお祈りすることであるが、それをすれば被害はそれこそ遥かに大きかったであろう。ルルミルの爆散弾は1名しか軽傷者を出していない。つまり、力加減も完璧であったのだ。仲間を傷つけることを重罪とするリュフリスの掟を踏まえると、大したことをしていないは流石に控えめが過ぎる。
だがしかし、ルルミルだけが活躍したかと言えば、それもまた違う。ルルミルの言った通り、迅速にクモの討伐を指示し、ナナパラフが外したあとのトドメに移ったジュノーや献身的に救助にあたったクランツとリマナ。その3名も十分ルルミルに引けを取らないほど賞賛されるに値する活躍だったはずである。この場合の悲しい点は、トドメを任されたにもかかわらずマギマを外したナナパラフ自身はお褒めに預かる対象となり得ないことくらいだ。
しかしエリーエルは不自然なほどにルルミルだけを賞賛した。「ルルミルがいなければこの戦況は乗り切れなかった」ということから始まり、「ルルミルはシュナとして大きく成長した」と続き、終いには「まるでエルを見ているかのようである」とかつての英雄を持ちだす始末であった。
これにリュフリスたちは歓呼の声をあげた。死傷者が出ているにも関わらず、いや、死傷者が出ているからこそ、これからの時代を担う新たな才能、英雄の存在がリュフリスたちには眩しく映った。それに対し、ルルミルはただただ困ったように苦笑するしかできなかった。実際に、困ったであろう。
自分が思っていた以上の賞賛を受けることにルルミルは戸惑い、それに反して周りはさらに盛り上がっていった。その結果、先ほどのようにルルミルは声をかけられることが圧倒的に増えた。
「皆さんが声をかけてくださるのは嬉しいですし、何よりエリーエル様が直接褒めてくださったのが、本当に嬉しかったんです。ですが、なんというか、謙遜する意味ではなく、私には過ぎた栄誉な気がしてしまって」
ルルミルの口元は微笑みながらも、表情全体は困惑の色を浮かべていた。それまでルルミルにはあくまでも仮のシュナという気持ちがどこかにあったし、討伐隊の中でもナナパラフの代わりという見方をされることもあったが、今回の一件で一躍討伐隊の顔のような存在になってしまった。急な展開に戸惑うのも無理はない話である。しかも、ナナパラフのように圧倒的な実力で得た名声ならまだしも、自身ですら改善の余地があると考える討伐でなら、尚更であった。
「何度も言うけど、あれはイレギュラーだったんだから、ルルミルはよく動けていたよ。せっかくの栄誉なんだし、気にせず受けるくらいでちょうど良いんじゃないかな」
クランツの言葉にルルミルは「ありがとうございます」とこれまた微笑みながら返した。クランツの言葉は決して励ましではなく本心から言っていることであろう。だが、ルルミルが英雄として囃し立てられることに対しては、違和感があるということは事前にナナパラフと話していたことである。それを、敢えて当人に言う必要はないので黙っていたが。
「それじゃ、私は先に行きますね。愚痴ばかり聞いてもらってしまって、すみませんでした」
ルルミルは食事を終えナナパラフとクランツに軽く頭を下げると、食器を持って立ち去っていった。この後の訓練は討伐直後ということで中止がアナウンスされているが、ルルミルは現状に報いるために自主的に訓練をするのだろう。そういうところは英雄の心構えをしているとナナパラフは感心すると同時に、ふとした時に壊れてしまいそうで心配にもなる。
「で、クモについてはどう思う?」
そんなことを考えていたナナパラフに、クランツは問いかけた。ナナパラフは立ち去っていくルルミルの背中から視線を逸らすことなく、その問いかけに応える。
「いやー、偶々でしょ。あれをエルドリクスと名付けて他のダンゴムシとかと同類に扱うのが憚られるくらいには、別物の偶々だと私は思うけどね」
「僕もそう思う」
クランツと意見が一致するとは、勉強をしてきた成果が出てきたなとナナパラフは鼻にかける。
「異常性を挙げるなら、カタツムリの方じゃないかと思う。あれだけの奇声を長時間発していたら、今回みたいに捕食者に見つかりやすい。つまり、あの長時間にわたる音波は、ナナやメルカドさんの実力のせいで今まで知らなかったけど何か理由があるんじゃないかと思うんだ。例えば、捕食者に敢えて見つかるとかね」
そのクランツの発言にナナパラフは意図を理解し損ねた。視線を去ったルルミルのいた方向からクランツへと向け直す。
「敢えて見つかるって、どういうこと?」
「敢えて見つかって今回みたいに捕食者に食べられることで、卵を相手の身体に入れ込ませるんだよ。実際、クモの解剖に僕も参加させてもらったんだけど」
新種の解剖に参加したとは、なんと贅沢な。どんなツテを使ったのかはわからないが、知的好奇心の塊であるクランツには堪らない経験だったであろう。ナナパラフは解剖に誘ってもらえなかったことにほんの少し憤りを感じる。まだそのレベルではないということか。
「身体には、ナメクジの卵が消化されずに残っていたよ。孵化する前だったから研究用にいくつか残して他は処分したけど。あの時食べたはずの他のモノがなかったから消化していたことは間違いない。消化できない卵を体内で孵化させて身体の中で育って食い破って出てくる、みたいな生存戦略なのかな」
前言撤回。解剖に参加しなくて良かったと思う言葉が多々出てきた。ナナパラフは目を細めて嫌な顔を作る。解剖までに孵化していた可能性を考えるとゾッとするし、あの時クモが食べていたモノを考えると、冷静には解剖できなかったであろう。そして何より、今後カタツムリを食べる時は卵が混入していないかよく調べなくてはいけなくなりそうだ。
「そう考えると、カタツムリもエルドリクスという枠とは別に考えた方が、生物分類的には正しそう」
「そういうことだね。もっとも、エルドリクスという分類が正しくないとはカマドウマの時から思っていたけど」
確かに冷静に考えると、ダンゴムシとカマドウマ、カタツムリに共通点などほとんどない。敢えて言うならば、古代に生きていたころと比べとてつもなく大きく、リュフリスを襲うということくらいである。いや、ダンゴムシは襲われるから反撃しているという説もあるため一概にリュフリスを襲うとすら言い切れない。とにかく大きいことだけは間違いない。
「じゃあ、本題。エリーエルの動きはどう思う?」
クランツの問いかけに、ナナパラフは一度周囲を見渡し、声のトーンを落とした。
「笑っちゃうくらいあからさまに、何かに誘導しようとしてるね。それが何かまではわからないし、皆がノリノリで英雄譚を語ってるのは笑えないことだけど」
「僕もそう思う」
クランツと意見が一致しても鼻にかけないくらいには、エリーエルが何かを企んでいるということはナナパラフから見ても明白であった。もっとも、何かを隠しているという前提で動いているナナパラフと、エリーエルが元から嫌いであるクランツだからこそ疑うのであり、それを疑わなかったからといって、他の者を責める気にもなれないが。
「クランツはルルミルを英雄に仕立て上げる理由なんだと思う?」
ナナパラフはクランツに聞く。クランツは手を口元に当てて考え込む。
「そうだね。ルルミルをシュナとして完璧な逸材にすることで、ナナを処分した後の代わりにするとか」
「ひぇー、こわ。私が処分される前提なのが特に」
ナナパラフは戯けたように半笑いを見せるが、内心真っ先にそれが出てくるクランツに引いた。エリーエルはそんなことを考えていませんようにと願いながらも、クランツの真剣な表情を見るに冗談じゃないなこれはと身震いする。
「あと、シンプルに考えるなら、クモという新しい脅威に対して、皆の不安を和らげるとかね。討伐隊員も一部死んじゃったし、本当にこれから先大丈夫なのかって不安で潰されそうになるリュフリスは多いでしょ」
実際、今回の件で不安を覚えたリュフリスは多い。他のエルドリクスが初めて発見された時のことは昔なので知らないが、今回ほど脅威とは思われていなかっただろう。カマドウマにせよナメクジにせよ、大きな被害は出にくい討伐である。
だが、今回のクモはリュフリスが飛べないように霧で視界を塞ぎつつ催涙で怯ませ、脚が身体の構成の大部分を占めているにも関わらず脚自体は細くマギマを当てにくい。今後頻繁に討伐しなければいけないなら、天敵となることは火を見るより明らかであった。だからこそ、ルルミルという若き英雄を作ることで、精なる森を覆う不安を和らげた、というのが、クランツの2つ目の見解であった。
「なるほど。それなら確かにリュフリスたちのことを考えての行動だろうね。ルルミルが重圧に潰されそうになっていることを除けば」
ナナパラフの嫌味のような言い方に、クランツは返事をしなかった代わりに溜息で同意を示した。先ほどのルルミルの様子を見ていれば、自己評価と周囲の評価が釣り合っていないことに悩んでいるのは明白だというのに。そして、それがわからないエリーエルやジュノーではないとナナパラフは考えていた。
エリーエルはともかくとして、ジュノーがルルミルが悩んでいる現状を良しとするとは思えなかった。何かしらの対策を打つなりルルミルに助言するなりエリーエルに進言するなりして、ルルミルのケアをするものだとナナパラフは思っていた。それが現状ないということは、やはりジュノーもエリーエルと繋がって、何かを企んでいる可能性は高い。
どこかで探りをいれてみるか……。
「ナナパラフ」
と、そんな企みをしていたナナパラフの背中に、当の本人であるジュノーが声をかけた。ナナパラフの背筋は自然と伸び、勢いよく振り返りニッコリと笑顔を作った。
「これはジュノー隊長じゃないですか! どうしてこんなところに!」
「隊長が食堂で食事していたらおかしいか?」
「そんなそんな、曲解ですよ」
ジュノーは普段、食堂に訪れない。それどころか、食事をしているところですらナナパラフは見たことがなかった。食事を摂取する必要がない体質なのかと思っていたが、どうやらそういうわけでもないらしい。
ナナパラフとクランツが座っている席から少し離れたところに、背を向けるようにしてジュノーは着席する。そして手に持っていた食事の乗ったプレートを置き、丁寧に手を擦り合わせ食べ始めた。
すぐに席を立っては、そういう意図がなくともジュノーが来たから立ったように見えてしまう。若干の気まずさを覚えたナナパラフだったが、クランツは一切そんな様子もなく席を立とうとした。置いて行かれては余計に気まずくなると考えたナナパラフは、後を追うように席を立った。
「ナナパラフ」
「はい! なんでしょ!」
ジュノーの呼びかけに、元気よく返事をする。ジュノーはナナパラフに背を向けたまま。
「エリーエル様がこの後来るようにと仰られていた。俺もこれを食べ終えたらすぐに行く。先に向かっていてくれ」
と伝えた。
ジュノーと共にということは、討伐隊に関することだろう。だが、クモに関する情報は既にルルミルやクランツを含めたメンバーで報告している。わざわざナナパラフを呼ぶということは、さらに詳細の情報を求めているか、別の要件か。
クランツをチラリと見ると「先に帰ってる」と口をぱくぱくさせながら伝えてきた。クランツを呼ばないということは、知識に関することではないのだろうが。
とりあえず、処分されそうになった時のために、少しだけ自主訓練してから向かおうと、ナナパラフは先に屋上へと向かった。
♢ ♢ ♢
結論から言うと、処分されるのではないかというナナパラフの予想は外れた。
エリーエルに呼ばれたのはナナパラフとジュノーだけではなく、ルルミルとカンジェーンも同様であった。カンジェーンが呼ばれたということは、討伐隊に関することでもなかったということを暗に示している。
ナナパラフが呼び出しを食らったエリーエルの部屋に入った時、ルルミルとカンジェーンは既に来ていた。部屋の中心にある長机の両横に置かれたソファに、入って左にカンジェーン、その向かいにルルミルが座っていた。奥にはエリーエルが普段腰掛けている机と椅子が窓から入る斜光に照らされながら置かれているが、肝心のエリーエルはいなかった。ナナパラフはひとまずルルミルの横に腰掛ける。
その後ジュノーがやってきて、カンジェーンの横に黙って腰掛ける。少し経ってからエリーエルが入ってきた。
カンジェーンとジュノーが素早く立ち上がり、遅れてルルミルとナナパラフも立ち上がる。エリーエルは手で座るように促し、各自大人しく従った。
「皆さん、突然の呼び出しで申し訳ありません」
開口一番、エリーエルは変わらぬ穏やかな口調でそう言った。ゆっくりと部屋の中を歩き、奥の椅子に腰掛ける。そのひとつの所作でさえ、優雅さが滲み出ていた。
「アヒナの季といえど、暑さもかなり過ぎましたね。もう、コカシの季に入ったのかもしれません。これから、食べ物がもっと美味しくなっていくでしょうね」
エリーエルはまるで世間話のように、事実世間話を始めた。話してはいるが誰かの返事を求めているというよりも、自分の中だけで完結してもいいと言わんばかりの呟きだった。視線も、誰もいない壁の方を向いている。
ジュノーは手を組み目を瞑り、何も言葉を発そうとしない。カンジェーンはエリーエルに劣らぬ優雅さでソファに座ったまま前、つまりルルミルの方を見つめ、ルルミルは元気のない様子で俯いている。言葉を発そうとしないのは、ジュノーに同じくであった。
ナナパラフは仕方ないと溜息を吐き、エリーエルに向かって問うた。
「あのー、それで話ってなんでしょう?」
まさかこれだけのメンバーを集めて世間話を聞かせようというわけではないことくらいは、聞かなくてもわかる。聞かなければわからないことは、エリーエルが何を話そうとしているかということであった。その話がないのであれば、ここにいる必要はない。
だがエリーエルにはちゃんと話があったようで「これは失礼しました」と視線を戻す。ルルミルが顔をあげ、カンジェーンもエリーエルに視線を向けた。ジュノーだけは目を瞑ったままである。
「今回、皆さんをお呼びたてしたのは他でもありません。今後の作戦についてです」
「作戦って?」
疑問の声はルルミルからあがった。出そうとした声はナナパラフも一緒であった。
そして、エリーエルは優雅に、笑みを崩さぬまま次の言葉を続けた。
「えぇ。『エルドリクス掃討作戦』と名付けましょうか。討伐隊、いえ、戦うことのできるリュフリス総出で、エルドリクスの棲家を攻め落とします。皆さんには、その中心を担っていただきます」
部屋から、しん。と音が消える。
なるほど。確かに、暑さはもう過ぎ去っていたようだ。
ナナパラフは背筋に、冷めたものが通ったのを感じた。
三章 コカシの季
あぁ、今日はなんと最悪な1日なのだろう。
もし神が降り立って、今日という1日に名前をつけるなら、悪夢とつけるかもしれない。いや、夢ならばマシな方だから、悪現実と言うべきか。
深く木々に埋もれた森を駆け回りながら、シオンはそんなことを考えていた。
シオンが逃げ回っていたのは、巨大な生物に追われているからである。その生物は緑の細長い身体を持ち、三角の頭にギョロリとした眼がシオンを睨みつけ、脚には多数の棘がある。かつてカマキリと呼ばれたはずのその生き物は、5つも眼を持ち、6本もの鎌を携えて、シオンを逃すまいと壁際に追い込んでいた。
戦闘能力に乏しいシオンは、追い詰められたにも関わらず、追い詰められたからこそかもしれないが、渇いた笑いでカマキリのことを見つめていた。
色々な生き物と仲良くなることに関して、シオンは長けていた。しかし、中には相手をエサとしか思わない生き物もおり、このカマキリにとってシオンはそういう存在であった。そんな相手とは、仲良くしようがないというものである。
「さて、わたしの命運も尽きたかな……」
最期にあれがしたかったとかこれがしたかったとか、そういうものが浮かぶものだと聞いていたが、実に何も思い浮かばない。案外、命尽きることに対して未練がないのかもしれないな。
シオンはそんなことを考えながら、カマキリがニヤリとしながら鎌を振り上げたのを確認し、早々に諦めたことの後悔と共に静かに目を閉じた。
しかし、カマキリの鎌はいつまで経っても振り下ろされることはなかった。その代わりに、シオンの目の前を鋭い音と共に熱が走る。なんとか目を開けて見ることができたのは、熱線がカマキリの頭を撃ち抜いていた瞬間であった。
自身の命を奪おうとしたカマキリが、一瞬で命を失った。その巨大は鎌を振り上げたまま固まり、ゆっくり横に倒れた。
何が起こったかと問われると何かが起こった。そこまでしかわからないシオンはただ座り込むしかできなかった。
「あんた、大丈夫か? 怪我は?」
そして、座り込んだシオンに近付いてくる影があった。
それは、シオンの人生を変える出会いであった。
♢ ♢ ♢
「えぇ。『エルドリクス掃討作戦』と名付けましょうか。討伐隊、いえ、戦うことのできるリュフリス総出で、エルドリクスの棲家を攻め落とします。皆さんには、その中心を担っていただきます」
エリーエルの宣言は、ナナパラフから言葉を奪った。そして、言葉を無くしたのはルルミルも、カンジェーンも同様であった。ただ唯一ジュノーの反応だけが異なったのは、流石に隊長はあらかじめ聞いていたということであろうとまでは、考えることができなかった。
「本当にそんなことが……?」
ルルミルの半開きの口から、感嘆とも疑問とも言い難い呟きが漏れる。それに対して、ナナパラフは真っ先に反応する。
「できるわけない!」
「できます」
ナナパラフの反応をエリーエルは一言で蹴散らした。その姿は凛としており、思わず口籠もる。
エリーエルはナナパラフを一瞥すると、即座にルルミルへと視線を移した。
「ルルミル。何かを成し遂げる時、必要なものはなんだと思いますか?」
エリーエルの問いにルルミルは固まった。視線が彷徨い、ゆっくりと口を開いた。
「何か……。必要なことへの準備とか、あとは……えっと……」
「ええ、ええ。それも大切なことでしょう。しかし、もっと大切なことがあります」
まだ言葉を探していたルルミルを遮り、エリーエルは椅子から立ち上がった。しっかりとした答えが見つけられなかった吃りを遮られて、ルルミルの顔に少しの安堵が見られた。
そんなルルミルの様子などもう見ていないエリーエルは、奥の窓から外を眺める。
「それは、絶対的な先導者です。かつての精なる森の大戦の時のエルのように、皆を導く存在。その先導者がいるだけで、仲間は活気づき、身を粉にして、命を投げ捨てる覚悟で戦う。そんな先導者がいなければ、戦い抜くことなどできないでしょう」
ルルミルはポカンという擬音が似合うような、間の抜けた顔をする。ナナパラフはその気持ちが痛いほどわかった。
エリーエルの言う先導者は、確かに必要な存在だろう。導くものがいなければ、組織というものは成り立たない。だから討伐隊にもジュノーという隊長が存在しており、精なる森にはエリーエルという族長が存在する。
組織に先導者が必要。そんなことはわかりきった上で、ナナパラフは無理だと断定したのである。
「じゃあ、ジュノー隊長が先導者を……?」
「それもひとつでしょう。ですが、ジュノーだけでは足りません。今回の作戦のキモは、貴方たちですよ、ルルミル。そしてナナ」
その言葉に、ルルミルはビクリと震える。
「ルルミルはシュナとしてニ型討伐に大きく貢献してくれました。森では今、貴方を英雄として讃える声が多く挙がっています。ナナについても、あのメルカドに認められてシュナになり、それを実力で周囲に認めさせた、異例の存在。先導者として上に立つのに、これ以上ない選出だと思いませんか?」
「私が……」
気持ちの整理ができていないルルミルとは対照的に、既に作戦に反対という意思が固まっているナナパラフは立ち上がって反論する。
「エリーエル様にこんなこと言うのもあれだけど、それだけで作戦が成功するとは思えないです。ジュノー隊長を差し置いて仮入隊の私たちが先導者になっても周りがついてくるとは思えないし、エルドリクスの棲家だってわからない、数もわからない。それになにより、クモ……ニ型の討伐で討伐隊のメンバーも怪我だったり亡くなっていたりで、減っているんですよ! そんな状況でなんでこんな……」
「ナナパラフ」
ジュノーが声でナナパラフを制す。挫かれたナナパラフはジュノーを睨むが、ジュノーはひとつ嘆息し、黙り込んでしまう。
エリーエルはジュノーに微笑みかけると、ナナパラフに視線を移した。
「ナナの言いたいこともわかります。えぇ、わかりますよ。ですが、こちらとて無策で言っているのではありません」
「納得できるだけの理由があると?」
「まずジュノーを差し置いて、とナナは言いましたが、もちろん、ジュノーにも責務は果たしてもらいます。私が総指揮をとり、部隊を3つに分けます。ジュノー隊、ナナパラフ隊、ルルミル隊……といった具合ですね。ナナとルルミルには、一部の隊員を連れて作戦にあたってもらいたいのです」
ジュノーが隊長ならば、というだけの話ではない。仮入隊である自分たちが上に立って、納得されるかという話である。シュナはあくまで隊の中心というだけで、隊員を指揮する立場にはない。だからこそ、ナナパラフやルルミルがシュナになったとて、文句を言うリュフリスもある程度居ても決して多くはなかった。だが、今回の隊長としての権限を与えるということに、面白くないと感じない者は少なくないだろう。
しかしそれらの考えを口から発されるより先に、エリーエルは二の句を継いだ。
「次に、エルドリクスの棲家ですが、これはある程度目星はついています」
「え?」
エルドリクスの棲家がどこにあるかなんて話は、ナナパラフはまったく聞いたことがなかった。それはルルミルも同様で、半開きに口を開く。
「ど、どこに……」
「確定ではありませんが、精なる森を日が昇る方角に進むと、エルドリクスの棲家と思わしき場所があります。分析隊に過去のデータを調べてもらいましたが、可能性としては高いでしょう」
リュフリスたちの部隊には、討伐隊の他に分析隊や回収隊、保安隊がある。エルドリクスが危険区域にまで侵入した時に討伐隊が討伐に向かい、討伐したエルドリクスを回収隊が回収し、回収されたエルドリクスを分析隊が新たな情報がないか分析し、エルドリクスに関連した事にとどまらず、保安隊が森の安全を保つ。
ナナパラフも分析隊の連中とは面識がある。分析隊は「討伐隊が命をかけた結果を命をかけて次に繋げる」を信条にしている、クランツのような研究が大好きな連中である。つまりエリーエルが分析隊から得た結果は疑いようもないだろう。
「エルドリクスの数についても、討伐隊の数についても、こちらは問題ではありません」
「問題ではない?」
鸚鵡返しをするナナパラフを一瞥すると、エリーエルは不気味にも見える笑顔で両手を広げた。
「英雄ルルミル。最強ナナパラフ。天才たちを育て上げたジュノー、カンジェーン。そしてそれを支える優秀な隊員たちと、かつて大戦を経験して頂点に立つ私、エリーエル。これだけの逸材が揃っていれば、エルドリクスがどれだけいようと、関係ないではありませんか」
ナナパラフは、エリーエルが何を言っているのか理解ができなかった。クランツに教えてもらったどんな勉強よりも、ジュノーに出されたどんな指示よりも、カンジェーンに問われたどんな問題よりも、理解ができなかった。
「討伐隊の数についても、引退した元隊員や仮入隊、他にも希望者を積極的に起用し、確保します。戦闘勘のないものはできるだけ後衛にしますが、このコカシの季の間に鍛えあげれば、どうとでもなるでしょう」
「仮入隊まで? エリーエル様、本気で言っているのですか?」
初めてカンジェーンが口を挟む。満足気に返事をしないエリーエルを見て、本気だと悟ったのだろう。顔色が蒼くなる。
カンジェーンの代わりに、ナナパラフは口を挟む。
「そんなの、無謀な特攻だよ! そりゃ、何体かは倒せるかもしれないけど、その分たくさん犠牲も出るし、クモみたいにどんな見たことがないやつがいるか、想像もできないのに!」
「ナナパラフ」
エリーエルは声のトーンを少し落とした。さっきまで荘厳とすら感じていたエリーエルが、急に茫洋としてしまったように感じた。
「クモではありません。エルドリクスのニ型です」
エリーエルの冷静極まりない指摘に対し、ナナパラフは頭に血が上るのを感じた。
「今はそんな話をしているんじゃ……!」
「とにかく、ジュノー、ルルミル、ナナパラフへの正式な隊長就任通知は、次に日が昇った後、公布します。カンジェーンは順次仮入隊を希望する者や過去隊員に通知を行ってください」
「エリーエル様!」
「解散です。より細かな詳細は今後詰めていきましょう」
「話を……!」
「解散です」
そう言ったきり、エリーエルがナナパラフを見ることはなかった。
♢ ♢ ♢
「ジュノー隊長!」
エリーエルの部屋から出たナナパラフは、真っ先にジュノーのところへ駆け寄った。どうしてもジュノーにというわけではなかったが、ルルミルは何かを呟きながら顔面蒼白で立ち去り、カンジェーンがその後を追ったため、駆け寄る先がジュノーしかいなかった。
ジュノーは、疲れた様子の顔でナナパラフに振り返る。
「どうした」
「どうしたもこうしたもないですよ! なんですか、あの話は!」
エリーエルが話をしていた時、ジュノーは結局ナナパラフを諫めただけだった。その後は口を挟まず、リアクションをとるわけでもなくただ話を黙って聞いていた。その反応を見て、ジュノーは先にこの話を知っていたのではないかと、遅れながらも思い至っていた。
ジュノーは無感情に視線を逸らす。
「なんですかも何も、エリーエル様が言った通りだ。俺たちは、族長の言うことに従う立場にある」
「はい、そうですか。っていくわけないでしょ! 無茶苦茶ですよ、あんな話!」
結局、ナナパラフが言った犠牲が出るということについて、エリーエルはなんら言及しなかった。エリーエルの思惑がわからないが、多少犠牲が出ても仕方がないと考えている可能性は高い。
そしてそれをジュノーが前もって知っていたということは、この話をナナパラフたちにしたということは、ジュノーもそれに同意したとなり得る。
「ジュノー隊長は、納得できるんですか! あんなのに、納得したんですか!?」
ナナパラフはジュノーの肩に掴み掛かる。ジュノーは勢いよくその手を振り払った。
「討伐隊の方針の最終決定は、族長だ。納得できるかどうかなんて関係ない。俺たちはそれに従うだけだ」
「どんなことでもなんですか!」
「どんなことでもだ!」
ジュノーは、自分が激情を露わにしたことに気づき、少し驚き、自らを落ち着かせるためにひとつ息を吐いた。
「俺は隊長だ。討伐隊を率いる立場だ。俺が勝手をすれば、討伐隊の指揮権を外され、討伐隊からも追い出され、族長であるエリーエル様に渡る。そうなれば、誰にも止めることはできない」
視線を逸らしながら「どちらにしても既に指揮権は剥奪されてしまったんだがな」と苦笑した後、ジュノーはナナパラフをまっすぐ見つめ直した。
「お前も、もうすぐ隊長になるんだ。自分が問題を起こした時に、誰に迷惑がかかるか、誰が後始末をするか、誰を守らなければいけないのか。よく考えるんだ」
ジュノーの言いつけを、ナナパラフはしっかりと飲み込んだ。自分が問題を起こした時に、誰が責任を取るのか。それを考えろと。責任だの役割だの、形の見えないものを考えることが苦手なナナパラフでも、ジュノーの言いたいことはなんとなくわかった。
「エリーエル様が言っていた通り、日が昇ったらお前も隊長だ。わかってるな」
「うん。わかってる」
ジュノーはナナパラフに少し視線を残しながらも、振り返ることはなく立ち去った。
♢ ♢ ♢
「で、その話を聞いた上で何をしてるの?」
日が沈む直前。ナナパラフの家を訪れエルドリクス掃討作戦を含む事情を聞いたクランツは、慌ただしく物を鞄に詰め込むナナパラフに問いかけた。
ナナパラフはクランツには目をくれず、食料を鞄の底に押し込む。
「何って、見たらわか……らないかも。エルドリクスの棲家に行くの」
ナナパラフの言葉に、クランツは一瞬言葉を失った。
「それは……あー。なんというか、性急だね」
クランツの言いたいことはナナパラフにもよくわかる。もう少し考えてから動いたほうがいいのではないか、衝動に駆られてるだけじゃないのか。もしナナパラフが逆の立場であれば、同じように思ったかもしれない。
「クランツはエリーエル様の作戦を聞いた時、どう思った?」
ナナパラフのいきなりの問いに、クランツは手を口元に当てて考える。
「そうだね。まず思ったのは、それこそ性急すぎる。討伐隊が欠けてる今の段階で動けば、ナナがしたみたいな反発が出るのはわかりきっている。でも逆にエルドリクスに討伐隊が数名やられたタイミングだからこそ、仇討ちっていう大義名分をとれるとも言えるね」
「つまり、死んだり怪我をした皆は、良いように利用されたってこと?」
「そうともとれる。こんな作戦、大義名分でもなんでも理由がなければ誰もついてこない。でも今は戦う理由とそれに伴う熱があり、そのタイミングでリーダーに相応しい逸材……扱いされてる、ルルミルとナナがいる。エリーエルの口上次第によっては、むしろ熱狂的な信者が後押しになるかもね」
ナナパラフも概ね同意であった。ルルミルをわざとらしく英雄に仕立て上げたのは、この作戦に賛同する者を増やすため。クモという未知の敵が現れたことで、エルドリクス掃討作戦を実行に移そうとここまでのストーリーを考えたのかもしれない。
「それで、今ナナがエルドリクスの棲家に行こうって理由は?」
今度はクランツから出された問いに、ナナパラフはすぐに答える。
「まず、どうして今かってことに関しては、時間がないから」
クランツは口を挟まずに、ナナパラフに次を促す。
「日が昇る頃には、私は隊長にされる。今の指揮権はエリーエル様にあるってジュノー隊長は言ってた。隊長になったら仮入隊扱いはされないだろうし、私が逆らうわけにはいかなくなる。隊長になって逆らったら、私の下につく隊員にも責任がのしかかりかねないし、討伐隊全体に責任がいく可能性はある。討伐隊においては扱いにくい私を隊長なんて役職に就かせるのは、それが理由だと思う」
クランツは「確かに」と頷いた。
「ナナが隊長をするくらいなら、もっとふさわしいリュフリスはたくさんいるね。悪い意味じゃなく、ナナもルルミルも隊長というより兵隊向きだ」
「でも、隊長になる前の今なら。隊員の問題は、それを取りまとめる上のリュフリスの責任になると思う」
だからこそジュノーはあの時「もうすぐ隊長になる」や「日が昇ったら隊長だ」とタイミングの話を繰り返したのだと、ナナパラフは解釈した。そして、「誰が後始末をするか」と言ったのも、隊長になったら責任の所在がややこしくなり、自由が効かなくなると言っていたのだと。
「でも、その場合だとジュノー隊長に迷惑がかかるんじゃ?」
「今の私の隊長は、ジュノー隊長じゃない。エリーエル様だよ。なにせ、指揮権は既に渡っているってジュノー隊長が言ってたんだから」
だからこそ「誰に迷惑がかかるか」を考えると、今動くしかない。ジュノー隊長の時には指示を無視してエルドリクスの棲家に行くなんて暴挙までは働かなかったのに、エリーエルに指揮権が移ってからこのような行動をとったのだと。自分がいなくなった時にそこまでの言い訳をジュノーがするかはわからないが、この言い筋なら通らなくもないのではないだろうか。
クランツは「無茶苦茶言うね……」と苦笑する。あまり荷物は多くなりすぎない方がいいだろうか。余分に入れた食料を少し抜き取る。
「で? 今って理由はまぁ理解はしたけど、エルドリクスの棲家に行くことの理由の方は?」
クランツのその質問には、ナナパラフは笑顔で振り返った。
「なにが起こるかわからないから」
「……なに?」
「今のままじゃ、樹壁の画の謎やエリーエル様の企みを暴くには時間も情報もすべてが足りない。かと言って、何もせずにエルドリクス掃討作戦が始まってしまったら、何もかもがダメになっちゃう気がする。棲家に行って何かがあるかはわからない。途中で他の生き物に殺されるかもしれない。棲家に辿り着けないかもしれない。行っても成果も何もないかもしれない。でも、何かがあるかもしれない」
これに関しては、先ほどクランツが口にしたように、無茶苦茶を言っているという自覚はあった。これが衝動に駆られた結果だと言われても、言い返しようもないし言い返す気もなかった。しかし、このままでは何も進まないと考えているのも本気の思いだった。
クランツは頭を右手で数回掻き、口元にその右手を当てようとして、眉間に持っていき摘んだ。
「……本気?」
「本気も本気。少なくとも行動する気は本気だし、多くとも今言った理由も本気」
クランツに説明していない理由もあるとはいえ、嘘はついていない。外の世界を一度見てみたいという根底にある理由を説明すると、遊び感覚と言われかねないからだ。
クランツは天を仰ぐように顔を上にあげると、大きく溜息をついた。
「僕はナナのすることは極力手伝いたいと思ってる」
「ありがとう、よくわかってるよ」
だからこそ、あの樹壁の画を見つけることができたし、ここまで考えて動くことができた。
「それに、僕は誰よりもナナの味方のつもりだ」
「それもよくわかってる」
だからこそ、誰からも信頼されていたエリーエルよりも、自分について来てくれた。一緒に、三役の隠し事を暴こうとしてくれた。
「だからこそ言うよ。エルドリクスの棲家に行くことに、僕は賛成できない」
「……そうだよね」
だからこそ、一緒に行こうとは言えなかった。誰よりも自分の味方をしてくれるこの親友なら、そんな危険な橋を渡らせてくれるはずがないから。
「だから、クランツに相談することなく準備を始めたんだよ」
「外がどれだけ危険かわからないんだ。この前のクモみたいに危険な生き物だって多くいるはず。そんなところに単身で行って、それもエルドリクスの棲家に行って、生きて帰って来れる保証なんてどこにもない」
それもまた、当然の話である。最近、未知の生物と相対する危険は目の当たりにした。それは決して、自分なら大丈夫と根拠なく言えるものではないと、そんな言葉を飲みこませるには十分すぎると、ナナパラフにもわかっていた。
「そうかもね。生きて帰って来れないかもしれないね」
「ナナが隊長になったって、掃討作戦までには時間もある。その間に冷静になって対策を立てるのが一番安全で確実だ」
「それでも、私は行くんだよ」
「どうして!」
クランツが大きな声を出す。それだけ真剣に勘案してくれたのだろうと、よくわかってる。クランツのことをナナパラフはよくわかっている。だからこそ、クランツもナナパラフのことはよくわかっている。ここで止めようとしても無駄だということも。大きな声を出したのも、止めようとしたからではない。ただ、どうしようもなくとも言及するしかなかったからである。
「どうしてかって言われると、さっき言ったことが全部だよ」
「……そう。なら、ナナは自分の好きなように動くと良い。僕も、自分の動きたいように動く」
「元よりそのつもりだよ」
着々と準備を進めるナナパラフを説得することを諦め、クランツはナナパラフの家から出て行こうと扉に手をかけようとする。ナナパラフは、その背中に声をかけた。
「ありがとね、クランツ。私のことわかってくれて」
扉にかかりかけた手は一瞬止まり、行き場を失った後、本来向かっていた先に辿り着いた。
「まったく。理解したって納得できないこともあるんだよ」
クランツのいなくなった部屋はまた少し寒くなった気がして、ナナパラフは毛布を荷物に詰め込んだ。
♢ ♢ ♢
「すごい! すごいすごいすごい!」
日がすっかり落ちた後。見回りをしていたカンジェーンを難なくやり過ごし、ナナパラフは外の世界へと飛び出した。
精なる森を抜けるまでは、荷物を詰めすぎたから鞄が重いだとか、昼のうちに寝ておきたかったなだとかを考えていたが、日が昇り始めようかという頃にようやく見慣れない景色に辿り着いた。そして、そこに辿り着いた時には、鞄の重さや眠さなどはどこかへと捨ててきてしまったかのようにナナパラフの心は軽やかになっていた。
外の世界に出てまず目についたのは知らない赤い木の実だった。指先でつまめるほどの大きさの木の実を一つ摘んで、少し実を毟って舌の上に乗せてみる。すると、仄かな甘みが口の中に広がった。
「美味しい! なにこれわかんない!」
ナナパラフはポケットに入れていたメモとペンを取り出すと、簡単にスケッチして「アカノミ」と名付けた。
次に目についたのは、地面から棒が生えており上の部分が広がっているキノコと図鑑で見たことがあるものだった。しかしナナパラフは実物を見たことがなく、それが自分の背丈ほどもあることに驚いた。見た目は赤と黄色で彩られており、流石に食べる気にはなれなかった。
しかし移動の途中で見たことのない大きな鼻の生き物、古代生物史ではブタと習った生き物が自分の背丈を遥かに超えるそのキノコを食べていた時には、ご一緒させていただこうか悩んだものだった。
「あれ、美味しいのかな。毒だったりして。食べたブタ死んでないといいな。可愛かったし」
ナナパラフは、キノコとブタの絵を並べて描き、キノコには「思ったより大きい」「セタケキノコ」と書き、ブタには「思ったより小さい」「コブタ」と書いた。それぞれのネーミングセンスは、帰ることができた時にクランツに評価してもらうこととしよう。
他にも見たことのない植物、生き物は数多くあった。精なる森などまるでなにもない小さな空箱であるかのようで、そして外の世界はまるで全てが揃っている宝箱のようで、ナナパラフは目を輝かせっぱなしであった。
そしてしばらく燥いだ後、自身が空腹であることを思い出した。鞄の中に詰めてきた食べ物を無駄にしないように、少しだけ取り出し、少しずつ食べる。
「はー楽しい。クランツも来てたらもっと……楽しいだろうけど、ここまでの半分も来れなかっただろうなぁ」
今のペースだと、エルドリクスの棲家にたどり着くのがいつになるかわからない。クランツと共に来ていれば、燥ぎ回る数が増えさらにペースは遅くなっていただろう。そう考えると、申し訳ないがクランツを連れて来なくて良かったと安堵する。
「さて、これから……どうしたらいいんだろ」
そして、落ち着いてくると今度は先行きの不安がナナパラフの胸を占める。
本当にこの選択をして良かったのか。今からでも帰ったほうが良いのではないか。もう隊長の就任通知は出されている頃だろう。ということは、今頃自分がいないことに森中が騒ぎになっているのだろうか。ジュノーやクランツの立場は大丈夫だろうか。本当に、辿り着いた先に何かあるのだろうか。
そんな考えばかりが、頭の外に追い出しては再び押し寄せてくる。大体のことは、何となく適当に、で生きてきたナナパラフであるが、流石に今回のことも同じようには流すことができなかった。
そんな思考を繰り返して何度か経った頃、日が高く昇ったことにふと気がつき、悩んでばかりもいられないことに気がつく。
「そうだ! 寝床準備しなきゃ!」
このまま暗くなってしまえば、野晒しで眠ることになる。いくら無鉄砲で飛び出したとはいえ、どんな生き物がいるかわからないまま身を隠すことなく眠るという自殺行為をする気にはなれなかった。
どこか洞窟のようなところはないだろうか。空を飛びながら移動して探すことができれば楽なのだが、姿を晒しながら飛ぶという行為も危険な気がしてできずにいた。
「早いうちに動かないと……。灯りも点けていいのかわからないし……」
現在の状況を探るために、周囲を見回す。日はまだ高いが、周囲は木々がほとんどで、目印になるようなものはなく方向感覚がなくなり、自分がどこにいるかわからなくなりそうになる。木々に囲まれているため周囲からナナパラフの位置は見えにくいが、逆もまた言えることである。もし今この瞬間、何かに狙われてたとしても気付くことはできないだろう。
なにか周囲に動きはないかと耳を澄ます。するとどこからか、羽音のようなものが聞こえてきた。それは近くで聞こえてきたものではなく、そして小さいものでもない。どこか遠くから、大きな音で近づいて来る。
「とりあえず隠れとこ」
ナナパラフは草深に入り、しゃがみ込んだ。草の隙間から周りは見渡せるし、斜め前方の空も少しだが確認できる。逆にそれらの位置からナナパラフのことを視認するのは、余程意識しなければ難しいだろう。我ながら隠れるのが上手いとナナパラフは自画自賛する。
しばらく隠れ、様子を窺う。先ほどから続く羽音がさらに近づいてきたかと思うと、辺り一面が陰に覆われた。日が隠れたのか。とナナパラフが上を見上げると、確かに日は隠れていた。
ナナパラフが目にしたのは、ダンゴムシをさらに大きくした生き物が空を飛ぶ姿。6本の脚からは夥しいほどに血眼が生えており、地面や空中をキョロキョロと警戒している。下から見える限りは黒い体だが微かに見える羽は橙色で、周囲に見つかることを何とも思っていないかのような姿であった。
ナナパラフは、遥か遠くを飛んでいるその生き物の眼が、自分を見ているような気がして体が固まった。警戒する眼のひとつは、ナナパラフの方をチラリと見て固まった後、再び忙しなく動き出した。
しばらく無心で息を潜めた。見つかれば死ぬと、直感した。必死の思いでやりすごし、見えなくなってから大きく息を吐き出した。自分が息を潜めるどころか呼吸も忘れていたことには、この時に気がついた。
あんなのに見つかったらただでは済まなそうだ。クランツが言っていた、生きて帰って来れる保証なんてどこにもないという真っ当な指摘が、自分でも死ぬかもしれないとわかっていたのに今更胸にのしかかる。
「でも、来ちゃったからにはやるしかない」
ナナパラフは大急ぎでメモに先ほどの生き物を書き記す。凝視していたとはいえ細部は覚えきれなかった為、記憶を何とか呼び起こしてできる限りを描く。名前は「ヒャクメ」だ。
描き終わると再び歩き出す。見たことのない植物や生き物に心躍りながらも、ひとまず拠点となる寝床の確保に動く。日はどんどん降りていっている。このままでは、辺りが暗くなるのも時間の問題である。踊る心は、焦りと不安でどんどん落ち込んでいく。その度に立ち止まって深呼吸をするが、深呼吸のペースも早くなっていく。
「こうなったら、空を飛んででも探さないと……ん?」
諦めから半分投げやりな考えが過ぎる中、ナナパラフは僅かに音を察知した。僅かな情報も逃さないようにと、先ほどは耳に掠った程度だった音を、今度は耳を澄まして慎重に拾いとる。
何かが走る音。それも、ひとつだけではない。ふたつ以上、追いかけているような、一緒に走るような、そんな音が聞こえて来る。
まさか、こんなところで仲良く並走しているとも考え難く、しかしこんなところだからこそ、何が起こるかわからない。ナナパラフは慎重に音のする方へと向かい、木に隠れながら覗き見た。
ナナパラフが覗いた時には、足音は既に止んでいた。音の代わりに目に入ったのは、既に諦めたように天を仰ぎ見る者と、6本の巨大な鎌を持った生き物だった。そしてその鎌は、その諦めている者に振り下ろされようとしているまさにその時であった。
「うぉぉ!?」
ナナパラフは「助けなければ」や「どういう状況か」等と思うよりも早く、マギマを放つ。放ちながら「あれカマキリだ!」と図鑑で見た生き物に気がつくが、次の瞬間にはカマキリの頭を撃ち抜いており、その顔をよく見ることはできなかった。できなかったが、眼が必要以上に多かった気がする。ヒャクメといい、外の生き物は眼が多くなる傾向にでもあるのだろうか。
カマキリは鎌を振り上げたまま、頭が吹っ飛んだ方と同じ向きに身体を倒した。おそらく(というより頭を撃ち抜いたのだからそうでないと困るが)既に息絶えているだろう。ナナパラフはジュノーのように安全を確認することはせず、諦めて天を仰いでいた生き物に近づいた。
「大丈夫!? 怪我はない!? ですか!?」
敬語で話しかけるべきかどうかわからなくなり、中途半端な声かけになる。そもそも言葉が通じるかわからない上に、今まで目上の相手にすら敬語を使ったことがないのだから、そんなことを気にしなくてもよかっただろうに、と頭の中でごちゃっと考える。とにかく確実なのは、自分が冷静さを欠いているということだけであった。
ナナパラフが声をかけた生き物は、姿形がリュフリスに相似していた。違いは空を飛ぶための羽がないことくらいで、思わず助けに入ったのもリュフリスがいる勘違いしたからであった。
羽が生えておらず、リュフリスと姿形が似ている。その生き物に、ナナパラフは当然のように、心当たりがあった。
「まさか、ニンゲン……?」
その生き物、ニンゲンは、自分が生きていることに気がついてようやくゆっくりと目を開いた。
空に向かっていたその瞳は細い隙間から光を多分に取り込み、状況を理解するために横にそっと動いた。そしてナナパラフを捉えたかと思うと、顔ごと注目し、最大限であろうほどに大きく見開いた。
「……エル?」
とりあえず、伝説の英雄と間違えられるとは光栄極まりない、ということにしておこう。
♢ ♢ ♢
「いやはや、すまない。ちょっと散歩をしていたら、カマキリに見つかってしまってね。あいつにああして追いかけ回されるのは何度かあるけど、今回は逃げきれなくてこれはもうだめかなと思っていたところに貴方だ。本当に助かったよ。感謝感謝だね」
どこで息継ぎをしているのだろう、と思うほどに一気に捲し立てられる。ポカンとするナナパラフを他所に、ニンゲンは手を差し出してきた。この手にはどういう意味があるのだろうと思うよりも先に、ニンゲンは自己紹介をする。
「わたしの名前はシオンだ、よろしく。君はリュフリスだね。名前は? どうしてこんなところに?」
ナナパラフは一瞬迷った後、差し出された手を握り、笑顔で答えた。
「私はナナパラフ。私はエルドリクス……ダンゴムシとかカマドウマとか、その辺の生き物の棲家を探しているの」
ナナパラフの言葉に、今度はシオンが困惑の表情を浮かべる。警戒心すら抱かれたかもしれないと、空気を感じ取る。
「ダンゴムシの棲家? それはまた、どうして。貴方ひとりで探しているのかい?」
「ひとり? ええと、探しているのは私だけ。でも、これからこの辺りにはもっと多くのリュフリスが来るかもしれない」
ナナパラフは掃討作戦のことを話してしまって良かったものかと一瞬考えたが、隠し事をしながら話をして、得られるはずの情報を逃す方を恐れた。本当のことを包み隠さず話すことに決め、これで情報を得ることができなかったとしても、それはそれで潔く諦めるしかないと腹を括る。
「もっと多くの? それもまた不思議な話だ。リュフリスは基本的にあの森からは出て来ないじゃないか。それがどうしてまた、急に出てくるなんて話になったんだい。そもそも貴方と出会ったこと自体、わたしにとってはリュフリスと出会うという久しいことなんだ。それが今後また起こるっていうのかい?」
一回での質問が多いな。ニンゲンとはこういうものなのか、それともこのシオンというニンゲンがお喋りなのか。ナナパラフもお喋りな方ではあるが、ここまで間髪を入れずに話し続けるというわけではない。
「その辺りの説明は後でさせてもらうとして、私も色々聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「ああ、いいとも。わたしばかり質問してすまなかったね。なんでも聞くといい。命の恩人なのだから」
話が長い。というより、くどいな。
「それじゃあ、遠慮なく。まず最初に、シオンはニンゲンなの?」
「ああ、そうとも」
やはりニンゲンはいたんだ。ということは樹壁の画に描かれていた生き物は、ニンゲンとしてほぼ間違いないだろう。姿形も、あの画に瓜二つ。ニンゲンはあの樹壁の画に描かれ、存在を示唆されていたのだ。
「それじゃ、次。これはすごく大事なことなんだけど」
「ほう、大事なことか。リュフリスにとって大事なことというのも興味があるね。なんだい?」
リュフリスを代表した大事なこととして良いのだろうか。他のリュフリスも同じ状況だと同じことを言うだろうか。そんなことはわからないが、ナナパラフは意を決して頭を下げる。
「寝床がないから、場所を提供してくれませんか!? というか、してください!」
勢いよく下げられたナナパラフの頭をみて、シオンは一度頭で考えて、失笑した。
「ふふっ、それは大事だね。あぁ、大事だ。まったく、リュフリスと接するのが久しぶりすぎて、無駄なレッテルを貼りすぎていたようだね。さて、命の恩人の頼みだ。もちろん応えよう。わたしの住んでいるところに、招待させていただくよ」
あぁ、よかった。これで寝床は一旦確保できた。今後のことはまだわからないが、ひとまず日が落ちて焦ることもなくなるだろう。
「それで、ダンゴムシたちの棲家を見つけるまでの拠点……って言ったら贅沢な我儘だけど、私が目的を達成するまで居させてもらえるとこの上なく助かるんだけど、いいかな」
ナナパラフの頼みに、シオンは首を横に振る。
「悪いけど、それは頼む意味がないお願いだよ。そんなお願いをする必要はないと言っても良い」
婉曲な言い方を理解できず、ナナパラフは首を横に傾げた。
「それってどういう……」
「なにせ、貴方の探している棲家に、これから招待しようというのだから」
♢ ♢ ♢
「着いたよ、ナナパラフ。ここがわたしの……わたしたちの棲家の入り口だ」
シオンに招待されて訪れたのは、一見では見つけることが出来ないような、木々に囲まれて見つけ辛い場所にある横穴であった。穴はシオンの身長に対して必要あるかというほどの大きなものであり、見つけ辛いというのが不思議なほどであった。
「ダンゴムシたちも出入りするからね。木々で隠れているから見つけ辛くなっているとはいえ、これだけの大きさがないと彼らが生活できない」
ナナパラフの考えていることがわかったのか、先回りしてシオンが答える。それに対し、ナナパラフは別の質問を投げかけた。
「ダンゴムシと暮らしているって言ったよね。違う種族なのにどうやって……」
「それはこれから見てもらおう」
シオンは先に横穴に入っていく。ナナパラフは置いていかれないように、その後に続いた。
「同じ種族でなければ一緒に暮らすことが出来ないというのは、思い違いだよ。甚だしいと言って良いほどのね」
一瞬何を言われているのかわからなかったが、すぐに先ほどの質問への回答だと気がつく。シオンは振り返らないまま、そしてナナパラフの返事を待たないまま、再び話し始めた。
「わたしたちはダンゴムシとずっと一緒に暮らしてきたんだ。どうやって、と聞かれれば難しいね。わたしが気づいた時にはそうなっていたと言っていい。わたしより歳が上という人間もあまり多くはいないから、おそらくダンゴムシと一緒に暮らしてきた人しかいないと思うよ。そもそもの話、わたしたち人間がどのように、ということは共生には関係ないね。貴方たちリュフリスも、昔はそうだったのだから」
「私たちも? どういうこと?」
「知らないのかい。リュフリスは昔、わたしたち人間とダンゴムシと三種族間で共生していたんだよ」
「リュフリスが、ニンゲンとダンゴムシと!?」
また知らない情報が出てきた。樹壁の画にニンゲンやダンゴムシが描かれていたことから、何かしらの関係があるとは思っていたが、共生していたとは。だが、そうなるとわからない部分も出てくる。
「なら、なんでリュフリスは今ダンゴムシを敵として討伐しているの? それに、あの樹壁の画も……」
「貴方は質問が多いな。後でちゃんと説明するから。それよりも聞かせてくれ、その樹壁の画とやらのことを。どこでそれを見たんだい?」
シオンはナナパラフに問う。前を向いて歩いているため、その顔を窺い知ることはできないが、声色は今までで一番真剣なものであった。ナナパラフは同じく真剣な声で答える。
「静寂の泉っていう、森の近くの泉で。その時はたまたま崖が崩れて、壁の中に入ることができる空間があったんだ。その中に、樹壁の画があった。あとは、多分ニンゲンのだと思うんだけど、骨も」
骨の話はするべきか迷う間も無く口にしてしまっていた。シオンは一瞬歩くペースを緩め、何事もなかったかのように再び歩き始めた。
「そうか……そうか。貴方の言った通りだったな……ナルミ」
「ナルミ?」
「すまない、その骨は?」
ナルミとやらについての説明はなかったが、今聞く必要のないことということだろう。必要以上を無理に問いただすこともない。素直に聞かれたことに答える。
「骨は、わからない。画を見つけた後、泉は立ち入り禁止になったから。けど、私が見つけてから随分経っているし、ニンゲンに繋がると判断されたならどこかへ移されてるかも」
実際、骨がどうなったかは知らない。だがジュノーも骨を見ているし、あの樹壁の画や骨のことを隠したいのなら、ニンゲンに繋がる証拠は残してはおかないだろう。
シオンは「そうか……」と呟くと、ひとつ嘆息した。
そこから、シオンは喋らなかった。何か話しかけようかと思っているうちに、シオンは立ち止まった。ナナパラフもそれに合わせて立ち止まる。
「さぁ、今度こそ本当に着いたよ。ここが、わたしたちの棲家だ」
辿り着いたそこには、数多のニンゲンとダンゴムシが共に闊歩している集落だった。
♢ ♢ ♢
ナナパラフは愕然とした。
横穴を進むにつれ、どんどん道は洞窟然としていったため、そういった岩肌の多い場所で生活しているのだろうと考えていた。しかし実態としては、洞窟の中で生活をしているという所見はなく、天井は穴が空いていて日の光も入ってくるし、精なる森ほどではないが、多くの自然に囲まれている。
なにより、ニンゲン用と思われる家の近くを、平然とダンゴムシが通っている。家と同じくらいの大きさのため、巻き込まれたら中のニンゲンはただでは済まないだろう。
そんなナナパラフの心中を察してか、シオンはわかっていますよと言わんばかりに微笑みながら話す。
「驚いただろう。でも、心配はいらないよ。彼らは自分の身に危険が迫らないと、熱線は放たない。貴方がダンゴムシを攻撃しない限りは、彼らも友好的だ」
「あ、うん。いや、まぁ熱線についてはなんとなくそうなんじゃないかとは思ってたけど」
心中は察されていなかったが、それはそれで、やはりそうなのかと内心思う。ルルミルにシュナを譲って観察するようになった時に知り本当かどうか考えていたことではあったが、一緒に暮らしている者から実際にそう聞くと確信になる。
ニンゲンたちは当たり前のようにダンゴムシの前を歩いているし、ダンゴムシもそれを襲う気配もなければ、避けて動いているようにすら見える。コミュニケーションを取る方法はないはずだが、それでもお互いがわかり合っているということは一目で見てとれた。
「それじゃ、ちょっとだけ集落の中を見て回るかい?」
シオンに誘われ、返事をするまでもなく後をついていく。先導するシオンを見失わないよう気を配り、しかし意識は完全に周囲の環境に向かっていた。
土壌は少し硬いが、農業をしているようだ。地面から野菜のようなもの生えており、自分たちで食べ物を育てている様子が見てとれる。また4本の脚で立つなんらかの生き物を飼育しているようでもある。ニンゲンはウシやブタといった家畜と呼ばれる生き物を育て食べると見たことがある。ウシやブタとは異なる見た目をしているものの、あの生き物たちもそういった理由で育てられているのであろう。
家は各所に建っているが道などはあまり舗装されておらず、とりあえず住むところを先に建てた、というような急拵えさを感じる。だが家の造りについては、精なる森に建つ家と同じ建てられ方をしており、どことなく精なる森と似た空気感がある気がした。
シオンは何かを説明するわけでも詳細を案内するわけでもなく、ただ先々と歩いていく。ナナパラフはその後ろをついて歩いているが、ニンゲンたちから遠巻きに囁かれていることを感じていた。余所者が珍しいのか、リュフリスはやはり受け入れられないのか、はたまたその両方か。知る由は今はないが、好意的に見ているというニンゲンは多くないだろう。
「ねぇ、シオン!」
なんとなく居心地の悪さを感じていたナナパラフの右側から、子どもと思わしき背の高さのニンゲンが3名駆け寄ってきた。シオンは膝を曲げて視線を合わせた。
「どうかしたかい、ユマ」
ユマと呼ばれた、3名の中で一番先頭にいる短髪の子が笑顔で問いかける。
「一緒にいるの、リュフリス!?」
「あぁ、そうとも」
「すげぇ! 初めて見た!」
どうやら、この子達は肯定的に会いに来てくれたらしい。そう悟ったナナパラフは、完全に敵視されてる訳ではないことに安堵しながら、少し得意げになる。
「ほっほっほ。聞きたいことがあったらなんでも聞きなさい」
「じゃあ聞いていい!?」
すぐに質問が思い浮かぶ好奇心の旺盛さに驚きながらも、破顔したまま頷く。
「いいともいいとも。なんでも聞いていいとも」
「リュフリスが、人間を食べるって本当!?」
ナナパラフの笑顔がピタッと固まる。ニンゲンを食べるどころか、ナナパラフはニンゲンと出逢ったのも初めてである。なにより、初対面の相手に対してこの質問とは、この集落の教育はどうなっているのか。と考えたところで、今何も騒ぎ立てず大人しくしているダンゴムシという大きな生き物を、別の名前で危険な生物だと代々伝えている自分の集落の教育思い出し、表に出さずに仕舞い込む。
ナナパラフが出したのは一瞬の動揺であったが、それを敏感に察知したシオンが口を挟む。
「こら、初対面の方に失礼だよ」
「だって、リュフリスなんて初めて会ったんだもん!」
膨れっ面を見せるユマを見て、ナナパラフは子どもの頃から好奇心旺盛であった親友を思い出す。
そうだよね、気になるよね。折角の機会なんだから、聞いてみたいよね、わかるわかる。勉強をして知識が増えた今ならその気持ちは、よくわかるよ。
ナナパラフはフッと笑って口を開く。
「そうだよ〜。私たちリュフリスは、なんでも食べちゃう種族なんだ。ニンゲンも、その気になればペロリとたべちゃうよ〜。たぶん」
「ナナパラフ」
何を言うんだ、といった顔でシオンが窘める。子どもたちは「こえー!」と言って、しかしその顔は笑顔で話している。
「でも、私はニンゲンを食べたりしないよ。私もニンゲンに会うのは初めてだし、仲良くしたい。それに、私は調理ができないからね」
ナナパラフが舌を出して戯けて見せると、子どもたちは「えー、料理できないのー」「僕も友達になりたーい」などと口々に続ける。
その様子を見ていたシオンは、ひとつ溜息を吐いた。
「いつも言っているけど、憎むべきはリュフリスではない。わたしたちから森を奪ったのはリュフリスだとしても、種族ごと憎むのは過ぎたることだよ。それを忘れなければ、貴方達も立派な人間になれる」
ユマたちは、「わかってまーす」と言ってナナパラフ達から離れる。シオンはこの集落でかなり発言力のあるニンゲンなのだろう。今の子どもたちの反応からだけでもそれがわかる。
「ナナパラフ、子どもたちにいい加減なことを教えるのはやめてくれないかな。いや、いい加減なことを話すのをやめろとは言わないけどね。わたしだってそういう話をすることは多いし。でも、真実かどうか分かりにくいことを教えて、貴方たちの立場が悪くなってしまっては喜ばしいことではない」
シオンは普段よりも少し早口で話す。それが苦言であり、ナナパラフのことを案じているということはよくわかった。ナナパラフは素直に謝意を見せる。
「ごめんごめん。でも、なんだか嬉しくて」
「嬉しい?」
「そう。私、ニンゲンに会ってみたかったんだ。会ったら聞きたいことがいっぱいあった。でも、それはニンゲンも一緒なんだなって。私たちは分かり合えるかもしれないって思うと、すごく嬉しい」
ナナパラフは、去っていった子どもたちの背中を見送りながらしみじみと言う。それに対してシオンは苦い顔をしながら、ナナパラフから視線を逸らした
「分かり合えるかも……か」
ナナパラフに直接向かなかったその言葉を、ナナパラフは聞かなかったフリをした。
♢ ♢ ♢
「ここがわたしの家だ」
集落を隅々まで案内され最後に連れてこられたのは、シオンの住家であった。他の家と比較しても特別大きいということはなく、ナナパラフが住んでいる家よりも一回り小さいかという程度の大きさであった。さらに、他の家から離れた場所に建てられており、日当たりも良くないため、湿っぽさを感じる。
「小さな家だろう。他の者たちの家を優先して建てていたら、わたしの家を建てる資材の余裕がなくなってしまってね。もっとも、わたしにとってはこれでも広いくらいだよ。立地は良くないけどね。日当たりも悪いし、地面が泥濘んでいることが多い。仕方のないことだけどね」
ナナパラフの目線から考えていることがわかったのか、シオンはそのように話す。相手の家をどうこう思うつもりはないが、言い訳っぽいなという気持ちと、本当に他のニンゲンを優先したんだろうなという両方の気持ちが湧いてくる。
外からの物色もほどほどに、シオンは家の扉を開ける。やや建て付けが悪いのか、ギィという音とともに扉は開き、物が少ない室内を見せつけた。
「物はあまり置いていなくてね。面白い家じゃなくて申し訳ない」
「いやいや。私も大して変わらないし」
ナナパラフの家は本が大量に置いてあるが、それは置き場に困ったクランツが置いていっただけのものであり、ナナパラフ自身はあまり物を置いていない。むしろ、ベッドと机くらいしか置いていないシオンの方が割り切っていてカッコよくすら見えた。
シオンがベッドに腰掛けたので、ナナパラフは適当なところで横座りをする。床はふかふかした素材が敷き詰められており、痛いとは思わなかった。
「さて、それじゃあ腰を据えて話そうか。まず、わたしの質問からでいいかな?」
「どーぞどーぞ」
ナナパラフは両手をシオンに突き出し先を促す。
「わたしからの質問は、先程も聞いたけれども、多くのリュフリスがこの辺りに来るということだったね。そのことについて聞かせてもらいたい。どういうことで、何が起こっているんだい?」
ずっとその質問の回答を考えていたナナパラフであったが、思わず「うーん」と唸る。どこから説明したらいいのか、整理して話すことができるだろうか。
「まず、私たちがダンゴムシやカマドウマを食べているのは知ってる?」
「もちろん。それを悪く言うつもりはないけどね。食物連鎖は自然の常だ」
エルドリクスを食べていることに対して不満を言われない、というだけでかなりありがたい。正直、ニンゲンとダンゴムシが一緒に暮らしているところを見たことによって、罪悪感で今後食べる気がなくなっていた程には、食糧として見ることができなくなっていた。
「じゃあクモを大きくしたような生き物は?」
「あぁ、いるね。あれはかなり凶暴だし、罠を仕掛けるのが好きな種族だから、近付きもしないけど。まさか、リュフリスはあれも食べるのかい? 随分な食いしん坊だね」
「まぁ、ゆくゆくは食べるのかな……」
以前に討伐したクモは、研究に回された。クランツをはじめとしたメンバーに解剖された後も、後続の研究用や保管用に大半が回され、食べることは全く想定されなかった。しかし、他の生き物たちも最初は研究に回され、後々可食部の研究に移ったと聞いたことがあった。そのため、今後クモを何度も討伐することがあれば、食べることも検討していくのだろうとは予測できる。
リュフリスがクモまで食べるとは思いもしなかったのか、シオンは嫌な顔を隠そうとしなかった。
「で? そのクモがどうかしたのかい?」
「私たちが別の生き物……カタツムリを討伐していた時のことなんだけど、その時に初めてクモと出会ったんだ。で、討伐隊のメンバーが一部やられちゃって」
「それはお気の毒に」
思ってもいないことはこんなにも感情が乗らないのかと、ナナパラフは少しイラっとするものの、シオンにとっては実際関係のないことだし無理もないと切り替える。話の根幹はそこではない。
「それがキッカケで、エルドリクス……私たちがそう呼んでる生き物たちを一掃する作戦を、族長のエリーエルが立てたんだ」
「エリーエル……」
シオンの顔がさらに暗くなる。
「それで? 貴方はどうしてここに? 今の話だと、貴方は我々の棲家を襲い、命を奪おうとしている側だということになるかと思うのだけど? そういうことなら、ここから帰すわけにはいかなくなるね。招待しておいてなんだけども」
言い分は尤もである。精なる森がこのような状況で、しかも棲家を探しているリュフリスがいるとなると、探りを入れにきたと言われてもなんらおかしくない。しかし事実として違うので首を横に振る。
「私がここにきたのは、最低でもエルドリクスの棲家を見るため。これはエリーエルに話すとかじゃなくて、どんな生き物で、本当に掃討しないといけないか、実態を見ないとわからなかったから。最高は、対話をして危険がないって判断してエリーエルに掃討作戦を辞めてもらうことかな」
ナナパラフは「信じてもらえるかわからないけど」と付け足した。このことを証明するものは何もない。都合のいいことを言っておいて、帰ってからエリーエルにありのままを話すつもりだ! と言われても、否定することはできてもその否定を裏付けるものは何もない。だからこそ、対話してわかってもらうしかない。
「なるほど。それなら聞くけど、もしわたしたちが対話に値しない種族だったらどうする? もし、掃討作戦をするに相応しいような凶悪な種族だったら、貴方はこれからどう動く?」
シオンの問いに、ナナパラフはキッパリと答える。
「その時は、私は精なる森に帰ってエリーエルに素直に謝る。そして、ニンゲンを含めて掃討する作戦に全力を持って協力するよ」
ナナパラフのこの答えに対して、シオンは顔を顰めた。それに伴い、声のトーンも少し落ちる。
「よく、わたしの前でそんなことが言えるね」
「勘違いしてもらったら困るけど、私はニンゲンに協力をしにきたわけじゃない。私は本当のことが知りたいだけ。その結果、ニンゲンが凶悪な種族でエルドリクスという纏まりとして掃討するのが私たちにとっての正解だっていうなら、私はそれを選ぶことも辞さない。それが私の通すべき筋だと思ってる」
この回答にシオンは良い顔をしないであろうことはナナパラフにもわかっていた。それでもナナパラフは至って真剣に答える。
想いを誤魔化しては、真剣な対話にならない。折角話ができる種族に会うことができたのだ。ここで中途半端をやるくらいなら、全力の自分を伝えたほうが圧倒的に良いだろうという判断だった。この判断がどう転ぶにせよ、半端で後悔するよりは余程良い。
シオンはしばらく俯いたまま、動かなくなる。その間、ナナパラフはじっとシオンがどのような動きをするかを見ていた。いざという時には、すぐに逃げることができるように。
だが、その必要はなかったとすぐにわかった。顔を挙げたシオンが、笑顔に包まれていたからである。
「ふふっ、すまない。意地悪を言ったね。いや、貴方と話していて、わたしたちに敵意がないことはわかっていた。それだけ素直に正直に話をされると、エルを思い出すよ。そうなるとこちらも腹を割って話さないわけにはいかないね。気に入ったよ、ナナパラフ。貴方のことを本気で、本心から歓迎しよう。だから、そう警戒しないでくれ」
シオンのその言葉に、ナナパラフは無意識にあげていた腰を落とす。どうやら気がつかない間に力が入っていたようで、警戒心を剥き出しにしていたようであった。自分に染みついた戦闘意識に蓋をする。
「では、貴方の質問にも答えようか。わたしに聞きたいことが山ほどあるのだろう? なんでも答えよう。わたしの趣味からで良いかい? それとも、体を洗う順番かい?」
これは流石に冗談だな、とわかったナナパラフは、乾いた笑いで流す。そして、頭の中で質問をまとめると、一気に吐き出した。
「私が聞きたいことは、4つ。まず、最初に会った時に私をエルと間違えていたし、今もエルを思い出すって言ってくれたけど、シオンとエルの関係はなんなの? 次に、私たちリュフリスが元々一緒に暮らしていたっていうのはどういうこと? 私が見た樹壁の画について何か知っているの? 最後に、エリーエルはニンゲンに何か関係しているの?」
本当はニンゲンの生態などについても聞きたいところではあったが、今回は関係のない話であるためスルーとした。この4つの質問で何かがわかるかはわからないが、ナナパラフの中で咄嗟に思いついた質問がそれくらいであった。もっと事前に考えておければよかったが、こんなにあっさりニンゲンに会うことができると思っていなかったため、油断していたというのが正直なところであった。
シオンはナナパラフが問うた質問を頭の中で反芻する。そして、「ふむ」と口にした。
「その問いに回答するのであれば、そうだな。わたしとエルの出会いから話すのがいいだろうね。少し長い話になるけど、いいかな?」
「え」
ただでさえ話が長いシオンの、少し長い話がどれくらいのものか想像もつかなかった。今、日が沈もうとしているこのタイミングから話し始めたら、日が昇ってしまっているのではないだろうか。眠ることはできるだろうか。
だが、それでも聞きたい。ニンゲンとリュフリスのことを。そして、シオンとエルのことを。
「お願いします。……覚悟はできてる」
「覚悟はいらないよ、別に……。でも、そうだね。夜は長い、眠れないこの時間を、付き合ってもらおうか」
そうして、シオンは話し始めた。
伝説のリュフリスとの邂逅の話を。
♢ ♢ ♢
あれはそう。何十年、いや、百年も前のことになるかな。なに? 貴方たちは四季を単位としているのか。なら400季くらいと思ってくれていい。ちょうど今と同じように暑さが過ぎ去り、これから寒くなって行こうかと言うような秋の気候だった。あぁ、貴方たちの間ではコカシの季というのか。覚えておこう。しかし面倒だね、貴方たちのわたしたちと違う概念は。説明が全然進まないよ。
わたしは今日みたいに森を機嫌良く散歩していたんだ。それはもう機嫌が良かった。なにせ天気が最高に良かったからね。だが天気が良いということは、他の生き物たちにとっても良い気分を与えていたのだろうね。わたしが良い気分なのだから間違いない。わたしの目の前には、それはそれは大きな生き物が現れた。あれは、緑色で両手が鎌になっていて……。そう、カマキリだったかな。カマキリにしてはとても大きかった気がするし、目も5つくらいあった気がするし、鎌は6本くらいあったけど、確かに他の見た目はカマキリだった。あぁ、貴方もさっき見たね。あれは元々カマキリだと思うのだけれど、どうだろう? 貴方もそう思うかい? ならそうなのだろうね。どう進化したらあんなことになるのだろうか。
話を戻そう。貴方が助けてくれたみたいに、わたしは戦闘力というものがない。その分頭が良かったりするのだけれども。この話はいらないかい? そうか、なら再び話を戻そう。わたしは戦闘力というものがないので、カマキリにとっては恰好の餌に見えただろうね。追いかけ回されたよ。それはもう全力で逃げ回ったさ。右に左に、フェイントをかましながら逃げ回ったけれども、やつは目が5つもあるものだから、わたしの動きにピッタリとついてきた。だからあんな進化をしたんだね、今気付いたよ。
わたしがなかなか食べられなかったのは、運が良かったのか、奴の腹が満腹だった故に腹拵えをしていたのか、弄んで疲れたところを食べようとしていたのか。おそらくそのどれもが、奴の思惑だったのだろう。逃げ切れることもあるのだけれど、今回とあの時は全然逃げ切れる気配がなかった。
わたしが疲れ果てて諦めようかと考えだした時に、奴の口元に笑みが浮かんだ気がしたんだ。口というのが本当にわたしが見た部位だったのかは甚だ怪しいものではあるのだけれどね。
その口元と思わしきところに笑みが浮かんだ時、こんなやつに食べられるのは嫌だ! とそう思ったんだ。諦めるの早かったかも! とね。そう思ったのも束の間、気がつくと奴はわたしから見て左側にすっ飛んでいた。
何が起こったのか理解できなかった。わたしの秘められた力が解放されたのか、はたまた奴の秘められた力が暴走したのか。その判断は下らなかったが、わたしは助かったのだということだけはすぐにわかった。
そして、そいつは現れたのだ。
「あんた、大丈夫か? 怪我は?」
そう、黒く長い髪に、キリッとした瞳、端正な顔立ちをした、我々でいうところの美青年。我が生涯の友となるリュフリス、エルとの出会いだ。
わたしは貴方にしたように、助けてもらったお礼にエルを集落に招き入れた。もっとも、その時の集落はここではなく、貴方たちが精なる森と呼んでいるあの場所だ。
当時からわたしたち人間はダンゴムシたちとは共に暮らしていた。ダンゴムシたちは非常に穏やかな性格で、リュフリスという生き物を知る前に出会ったダンゴムシたちが熱線で攻撃をしているところを見たことがないほどであった。
エルは集落にきた時、ダンゴムシたちの大きさにまず驚いていた。しかしすぐに彼らに触れ、
「このような生き物がいたのか。君たちは共生して生きているのだな。素晴らしいことだ」と言った。
その言葉を聞いた時、わたしはなんと性格の良い好青年なんだと思った。目つきは見方によっては睨んでいるように見えるし、声も低く声量も小さめだ。怖いと感じる者もいたかもしれない。だがわたしはエルを大歓迎した。悪意のない存在だとハッキリわかったからだ。そして他の人間たちも同様に、彼を迎え入れることに賛同した。
その日の夜はわたしたちなりの歓迎をエルにした。わたしたちの食事を振る舞い、わたしたちの踊りを披露し、わたしたちの演劇も見せた。貴方には見せていなかったね。後で見せてあげよう。超大作の大傑作……なに、いらない? そうか、それは残念だ。それではまたの機会にしよう。
貴方はいらないと言ったが、エルはわたしたちの歓迎をにこやかに微笑んで見守ってくれた。もしかすると、あれは苦笑だったのかもしれないが、だが嫌がっている風には見えなかった。それも隠していただけかもしれないが。今となっては確かめる術もないから喜んでいたことにしよう。
わたしたちの歓迎が一通り済むと、エルは大きく息を吸って申し訳なさそうに言った。
「君たちに頼みがあるんだ。聞いてくれないか」
わたしは直ぐに「いいよ」と言った。何故なら別に聞いても良かったからだ。もっと言うと、どんな頼みだったとしても助けてもらった恩がある以上、エルに報いたいと考えたからだ。他の人間たちもわたしの考えに賛同してくれた。
エルの頼みというのはリュフリスたちの集落への受け入れと共生だった。エルはひとりで来たが、実際には種族での大移動をしていた。そして偶々わたしを見かけたから助け、共生している集落があると知り、そこで一緒に暮らしたいと、つまりはそういうことだった。
これにはわたしもびっくりした。なにせ出会ってそんなに経っていないどころか、さっき出会ったばかりの者にこんな頼みをするのだ。どれだけ切羽詰まっているんだとすら思った。リュフリスという種族がどういったものかわからない。何を主に食べ、どのような性格で、どのような生活習慣を送るのか。それがわからないのに、いきなり一緒に暮らさせてくれと言ってきたのだ。わたしの応えは「いいよ」だった。
なに? 今の流れで了承するのか、だって? そりゃあするとも。何せエルにはわたしたちの演劇まで見せたのだ。これはもう友達と言っても過言ではないだろう。まぁ確かに、エルもあの時貴方と同じ顔をしていたが。
だがその後すぐにエルはホッとしたような顔になり、わたしたちに深く頭を下げた。よろしく頼む、ということと、こんな頼みをして申し訳ないということだったのだろう。わたしはエルの期待に応えることができたことが嬉しかった。それだけで、恩義を少し返せた気分になった。
それからエルは少しの間集落を離れ、丸一日が経つ頃に帰ってきた。えーと、日が沈んでいたから、日が昇ってもう一度日が沈む頃に帰ってきたんだ。本当に君たちの言い回しは面倒だね。とにかく、火の灯りを持ってエルは大勢のリュフリスたちを連れてきたんだ。
日が昇ってから、わたしたちはリュフリスたちの住む場所を作り始めた。と言っても地上には建てるところがなかった。わたしたちの家が既にあるからね。そりゃ新しく建てる余裕はそんなにないさ。多少はあったけどね。先程見ていただいたようにダンゴムシたちの家、というより寝床はかなり大きい。そんなところに今更大勢の家は建てることができないと伝えた。
するとリュフリスたちは木の上に家を作り始めた。空を飛ぶことができるということは、こんなにも夢のあることなのだと驚いた。人間の中にも木の上に家を作る者はいただろうけど、わたしたちには衝撃だった。
そんな中で、わたしたちが実質的にした仕事は資材を集めたり下から危ないところがないか見て指示を出すくらいだった。だが、リュフリスたちは集落に入らせてもらえるならと積極的に働いてくれた。
リュフリスたちの住む場所が完備されるまで、住む場所が完成していないリュフリスたちはそれぞれわたしたちの家に招いた。その中で、エルはわたしの家に来た。他の者たちがまだ住む場所がないのに、自分だけ先に家をもらうわけにはいかないと言っていたので、それなら是非とわたしの家に招いたのだ。
エルとの暮らしは楽しかった。エルが話すこの集落に至るまでの冒険譚は、凄く魅力的だった。わたしもエルにこの森での暮らしを話して聞かせた。エルはそれを優しく微笑みながら聞いてくれたよ。お互い、どちらかが眠るまで語り続けたものだ。本当に、本当に楽しかったよ。
そうこうしているうちに時が経ち、どんどんリュフリスとの共生は進んでいった。貴方がクモもそのうち食べると言ったようにリュフリスはなんでも食べるので、食生活は特に困らなかった。生活リズムも大差なく、言語能力には多少違いがあったものの、エルと話ができている時点で問題はなかった。
リュフリスが住む家も概ね完成していった。残り建てられていない家は、エルの家くらいだった。そして、その建てられていないエルの家も、もうすぐ完成というところまで来ていた。
その前の夜……日が昇る前。わたしはエルと話をした。
「これで、本格的な共生が始まるね。これから一緒に暮らしていくことになるけれど、不安はあるかい?」
わたしの問いに、エルは顔の前で両手の指を組んで溜息を吐いた。
「不安なことだらけだ。ニンゲンの中には、まだ我々のことを危険視する者もいる。そして我々の中にもニンゲンを下に見ているような者がいる。俺は歓迎してもらったことで、シオンと話すことでニンゲンと仲良くなれたつもりでいるし、そんな気持ちは元より持ち合わせなかった。だが、全員がそうだというわけではない」
精なる森はリュフリスが来てから、どことなく気まずくはあった。それも全員がそうというわけではない。子どもたちなんかは大人よりもずっと早く順応していた。いつだって、時代にすぐに対応するのは子どもということだ。
そこでわたしは、ある提案をした。
「例えば、リュフリスと人間を引っくるめてトップとなる存在を作るとかはどうかな? その役を貴方がしてくれるなら、尚のことだ」
結局、人間が恐れるのは相手をよく知らないから。リュフリスが見下すのは自分たちが上だと考えているから。それらを解消するためには、誰かが上に立ち、その流れを断ち切るために先導しなくてはいけなかった。
そしてわたしはその役はエルにしか務まらないと考えていた。リュフリスたちは皆エルを信頼しており、人間もエルとなら話せるという者は少なくなかった。最も調和に相応しい存在だと考えた。
だがエルは首を縦に振らなかった。
「トップに立つなら、俺は相応しくない。俺がトップになれば、リュフリスが人間よりも優れていると考える者たちは増長するだろう。もちろん見つけ次第正してはいくが、すべてを止めることはできないかもしれない。それならば、シオンがトップに立った方が、リュフリスたちも諍いを起こそうという気はなくなるかもしれない」
「でもそれは、逆も言えることだよ。わたしがトップだったとて、人間がリュフリス相手に睥睨しないとは限らない」
話は平行線になった。それもそうだろうね。わたしたちは本気でお互いがトップに立つのが相応しいと考えていたんだ。押し付け合いなどではなく、精なる森の今後を考えた結果の、白熱した舌戦だったよ。
そしてエルの家が完成するとほぼ同時に、わたしたちは答えを出した。
「それなら、俺たちでトップ……族長をする。それでいいな?」
「あぁ、異論ない」
貴方たちの歴史では、精なる森の初代族長はエルとなっているのだろう? それは半分正解で半分足りない。正しくは、初代族長はエルとわたし、シオンなんだ。歴史とは一面的すぎる。誰が語るかによって、その姿をガラリと変えることがある。歴史の編纂者に悪意があれば尚更だ。
そんなこんなで、族長はエルとわたしに決まった。それを皆の前で宣言し、反応としては概ね悪かった。
本当にこれからずっと共生するのか。これから反りが合わないことがわかったらどうするのか。種族が違うのに共生できるとは限らないのではないか。問題が起こった時に公正な判断ができるのか。
正直、五月蝿いなと思ったね。共生するつもりで家を建てていたのに、今更何を言うのかと、苛立った。正直に言うとね。
だが、エルは違った。冷静に彼らの意見を聞き入れ、適切に捌き、納得させていった。誰もが、エルならば族長に相応しいと考えた。
しかし、わたしが族長となることに対しては不満に感じる者もいただろう。そこで、どこかの誰かが提案した。
「族長だけでは手が回らないこともあるだろう。族長を中心とした『上役』を組織してはどうか」
その提案をわたしたちは受け入れた。確かに、三人寄れば文殊の知恵の知恵とも言う。……うーん、説明は難しいけど、文殊菩薩っていう知恵を司る菩薩がいたんだ。その文殊だよ。それ以上の説明は今はいらないから割愛する。
上役をつくる際に、わたしたちは『三役』というものを設定した。わたしとエルが就いた族長、人間ではミヨ、リュフリスではカロンが治安維持を務める治安維持部隊の隊長。そして、人間ではナルミ、リュフリスではフィロメナが子どもたちに教育を施す教長になった。それらの三役と族長が定めた人間とリュフリス1名ずつを、上役として定めた。
思えば、あれが終わりの始まりだったのかもしれない。
上役会議は定期的に開催された。まだ共生を始めたばかりということもあり、トラブルも多かったからね。
その中で、意見をいつも衝突させていたのは、ナルミとフィロメナだった。
お互いに自身の教育方針、考え方に誇りというものを持っていたのだろう。いつもいつも、こっちが正しい、それは間違いだと口争をしていた。仲良くしてもらいたくはあったが、そのこと自体を非議するつもりはなかった。エルはどういう心持ちだったかはわからないが。
そんなある日、ナルミに呼び出された。内容は、やはりフィロメナのことだった。
「シオン、フィロメナは何かを企んでいる」
そう言われた時、わたしの心中は穏やかではなかった。こういう話がついに出てきてしまったか、という失意の気持ち。そして、やはりフィロメナか、という果然とした気持ちであった。ナルミは続けた。
「何を企んでいるかはわからないが、フィロメナは仲間を集めている。もしかすると、エルすら裏切るような計画かもしれない。奴を上役に入れておかない方がいい」
ナルミの言いたいことはわかった。わたしは疑いまではしていなかったが、フィロメナの言動に違和感を覚える部分は確かにあった。だが、ここでそれを出してしまうのは族長としてあってはならないことだとも考えた。
「言いたいことはわかったよ、ナルミ。でも、わたしがここでどうこう言うことはできない。上役からフィロメナを外すということは、フィロメナのことを否定するということだよ。エルたちの意思を無視することも、その決断を簡単に下すこともできはしない」
わたしの言葉にナルミは納得こそしなかったが、反論もしなかった。わたしがそのように回答することはわかっていたのだろう。なんとわたしは単純なのかと笑ってしまったよ。ナルミは「エルには伝えてくれ」と言い残したので、わたしはその夜に早速エルに話をした。
エルは黙って聞いた後「シオンはどう思う」と尋ねた。わたしの答えは「フィロメナを疑いたくないが、ナルミの気持ちも無視したくない」だった。
エルは大きく息を吸った後、しばらく肺にその空気を溜め込み、一気に吐き出した。まるで、胸の中に膿でも溜まっていたかのようだった。
「ナルミとミヨを呼んでくれ」
シオンに言われるがまま、わたしは2人に声をかけた。ナルミもミヨも、わたしのことは信頼してくれていたし、エルのことも族長の器だと評価していた。そんな2人をわたしも大切な仲間だと思っていた。もしこの2人に何か不都合が起こることを言うなら、相手がエルであろうと説き伏せようと思いながら呼んだんだ。
エルの前に3人で並んだ。まるで族長にお伺いをたてるかのようだった。わたしも族長なのにね。器の違いに笑ってしまうよ。
「呼んだ理由は、ナルミはわかるな」
「あぁ。フィロメナのことだろ」
「そうだ。俺はあいつらとは長く一緒に暮らしてきた。ここへ来るまで、様々な危機も乗り越えてきた。正直、疑っていいのかどうかもわからない」
ナルミは少し表情を尖らせ、前のめりになった。わたしは横目に彼を制した。
「だが、お前たちの言うことも疑うつもりはない。俺はお前たちを信じている。だからこそ、フィロメナたちの動きは注意深く観察しよう」
尖ったナルミの表情は、さっきまでの尖り方が嘘のように柔らかくなっていった。エルが自分と同じ種族の仲間より、自分たちの意見を優先したのが意外だったのだろう。実際、ナルミは確か連れて行く際に「言い争いになっても引く気はない」と言っていたかな。ミヨもナルミほどではないが、似たようなものだった。
拍子抜けする2人とその間に挟まれたわたしを他所に、エルは続けた。
「フィロメナを上役から外すということはしない。フィロメナがどこまで手を回しているかわからないし、フィロメナが何かを企んでいるとしたらその動きを加速させる恐れがある。しかし、だからこそ、俺たちは裏で結束しておく必要がある。あいつらを操るためじゃない。あくまで目標は和平だが、俺たちが別の方角を向いていると上手くいくものもいかなくなる」
2人はエルの言葉の裏を考えたかもしれない。少しの沈黙があったが、その沈黙もわたしの「もちろん、最初からそのつもりだよ」という言葉にかき消されたようだった。
エルは満足そうに頷いた。
「俺はお前たちを信頼する。だからこそ、お前たちには呼び名を与えたい。俺からの信頼の証だ」
リュフリスは特別な者には特別な呼び名を与えるらしい。今もその文化があるかはわからないが、エルは最大限の敬意を込めてわたしたちをこう呼んでくれたんだ。
「他の種族の集落に立ち寄った時『大切なもの』という意味をもつ『ドリクス』という言葉を学んだ。その種族と共生は叶わなかったが、素敵な文化をいくつも教えられた。……お前たちは『エルにとって大切なもの』という意味を込めて『エルドリクス』だ」
♢ ♢ ♢
「エルドリクスが……エルにとって大切なもの……」
ナナパラフは消え入りそうな声を絞り出す。シオンは流石に話疲れてきたのか、飲み物をどこからか持ってきて口に含む。
「驚いたかい? 貴方たちに言い伝えられているエルドリクスは、全く逆の意味なのだろう?」
ナナパラフは子どもの頃からずっと聞かされてきた『精なる森のエル』の話、その話を聞かされ終わった後にエリーエルがいつもしていた後口上を思い出す。
「私たちは『エルに敵対するもの』って……」
「そうだろうね。この後、わたしたち人間はフィロメナをはじめとしたリュフリスたちに追い出されることになるんだけど、フィロメナはわたしたちを森から追い出してから、わたしたちの文化の否定から始めただろう。奴はわたしたちの文化が自分たちに入ってくることをとにかく嫌がったからね。リュフリスの言葉というものを作っているのも、フィロメナらしい」
確かに、シオンはコカシの季を秋と言ったし、時間の経過の数え方も違うようだった。ナナパラフたちリュフリスが4季という数え方をしているのに対し、ニンゲンは年という単位を使用している。何よりエルドリクスの意味が大きく異なるのは、フィロメナが異なる文化を森全体に教え、それを引き継いできたから、と言えば納得はできる。
「この後の話をスムーズにするために先に言うけど、もっと色々な言葉も教わったよ。『カファローリア』は『愛する者』、『エリィ』は『上回る』、『レヴォー』は『反射』……。語順はどちらでも良かったみたいだから、『ドリクスエル』になっていたかもしれないね。当時教わった言葉で貴方たちにも伝わってそうなのは、『シュナ』かな? 意味は『犠牲』。これも、正しい伝わり方はしていないだろうけど。それが、フィロメナなりの自分の文化を作ることで相手を否定するという手段だったのだろうね」
元の言葉を言い伝えなかったのは、その言葉の意味を知らなかったのか、別の意図があるのか。少なくとも、ニンゲンの文化をできるだけ排して、ということから、リュフリスに伝わる言葉として意味を再構築し、専用の集落とした……。そのことにどれだけの意味があるかはわからないが、フィロメナがニンゲンを恐ろしく切り離そうとしていたことはわかる。
「それで? フィロメナを見張るってなって、その後どうなったの? 上手くはいかなかったんだよね?」
先程シオンは、ニンゲンは追い出されることになると言った。実際、精なる森の大戦は行われたかどうかはさておき、事実としてニンゲンが今精なる森にいないことを思うと、フィロメナの企みは成功したのだろう。
シオンの応えは想像したとおりであった。首を縦に振る。
「その後のことは、エリーエルのことも含めてちゃんと話した方が良いだろうね。ここまでは、上手くやっているつもりだった。エルも、わたしもね。だけどわたしたちは侮っていたんだ。フィロメナのことを」
「侮っていた?」
シオンは目をつぶって、少し上を向く。そして思い出すかのように、いや、消えない記憶が舞い戻ってきたかのように、小さな声で、口から自然と漏れるかのような細い声で呟いた。
「最初に殺されたのは、ミヨだった」
♢ ♢ ♢
エルに呼び出された日からわずか三日ほど。家で今後の方針を考えていたときに、異変は起こった。
これまで大人しく生きていたダンゴムシたちが、夜に急に騒がしくなり始めた。ダンゴムシたちは発声はしない代わりに、音を出すことで意思疎通をしているらしい。そしてその時の音は、わたしが聞いても異常事態だった。
すぐに家を飛び出し、周囲を確認した。辺りは暗くてなかなか状況を確認できなかったけど、しばらくすると目が慣れてきた。そして、目に入ってきたのは、人間とダンゴムシの事切れた姿だった。
「これは……」
真っ白になった頭で、ひとりのうつ伏せで倒れていた人間をひっくり返した。無惨だったよ。頭を撃ち抜かれていた。リュフリスの放つマギマだと、すぐに理解できた。
額から流れ落ちる汗を拭って、気がつくとわたしはエルの家へと駆けていた。道中、誰がどれだけ倒れているかなど数えもせず、ひたすら走り続けた。途方にも感じる時間の後、エルの家に辿り着いて、その扉を縋り付くように開いた。
「エル! 返事をしてくれ、エル!」
しかし、エルはどこにもいなかった。部屋はもぬけの殻。額からどころか、全身から流れる嫌な汗が止まらなかったことは覚えている。
「くっ……!」
エルの家を飛び出したわたしは、集落を探し回った。エルがいそうなところを中心に祈りながら走ったが、道端に転がるように倒れる亡骸たちがその祈りを圧し折るかのように絶望感を増強させていった。
エルを見つけるよりも先に遭遇したのはナルミだった。ナルミも、汗を流しながら走り回っていた。
「ナルミ! エルは!?」
「エルはまだ見ていない。ミヨもだ。ミヨに関しては昨日から見ていないんだ。くそっ! もっと早く気にしておけば……!」
「懺悔は後だ。今は状況を整理しよう」
わたしはナルミと別の場所を探していたようで、お互いの情報を擦り合わせる。出てくる情報は、どこで誰が死んでいたというようなものばかりだった。
「そうなると、集会所の方がまだだね。あそこは広くて人も多いから、いざ何かあっても頼れる人間も多いと思って後回しにしてたけど、何かあったのかもしれない」
「何かあったのは、一目瞭然だけどな」
ナルミの言葉で、わたしは如何にエルのことしか考えることができていなかったかを思い知らされた。ここまで人間やダンゴムシが死んでいて、何かあったかもしれない。とは失礼な物言いだ。今ならそれもよくわかるけど、あの時はとにかく必死で仕方がなかった。
ここまで見過ごしてきた者たちに哀悼の意を込めて黙祷し、ナルミに声をかける。
「亡くなった皆を弔うのは後にしよう。今はエルやミヨ、それにフィロメナたちのことも気になる。ひとまず集会所へ向かおうか」
わたしの言葉にナルミは頷いた。
ふたりで足早に集会所へと向かい、幾つもの死体を目にした。改めて現実を目の当たりにすると、心が締め付けられた。
そして集会所の近くへと来た時。わたしたちは見慣れた姿が横たわっていることに気がついた。
「ミヨ……!?」
ナルミが急いでミヨに駆け寄ったことは覚えている。しかし、わたしはその瞬間どうしていたのかを思い出せないんだ。ただ確実なのは、ミヨは胸から血を流し終えていて、既に息をしていなかったことだ。体は既にボロボロで、他の人間たちよりも早く、いなくなったあの日の前日には命を落としていたのだろう。あの時の絶望といったら言葉に尽くせないほどだよ。
そして、絶望はわたしたちを放っておいてはくれなかった。
「聴きなさい、同胞諸君!」
劈くような猛き声が森に響き渡った。その声の主は目で見るまでもなく明らかだった。
「フィロメナ……!」
ナルミの睨みは集会所へと向けられた。わたしたちのいた位置からだと木々に隠れて見えにくくなっていたが、リュフリスたちが木の上に建てた集会所に、確かにその姿は存在した。そして、集会所の下には多くのリュフリスが集まっていた。
フィロメナは仰々しくリュフリスたちを煽った。
「私たちは今この瞬間、ひとつの悲願を失います。私たちは、ニンゲンやダンゴムシとは共生などできない。エルの掲げた、三種族間共生はこの時を持って終わりを迎えます」
フィロメナは哀しげな表情を作った。まさに“表情を作る”という言葉がピッタリだと今でも思うね。そうしてフィロメナは、他のリュフリスたちを引き込んだのだろう。まさに宗教のようだったよ。フィロメナが、あの場では神のような扱いだった。
「ですが今この瞬間、もうひとつ新たな悲願を得て、そして叶えましょう。それはこの森を私たち、リュフリスのものとすることです」
そんなことができるわけない、とわたしは素直に思った。エルが、あの誰よりも共存を望んだエルがそんなことを認めるわけがないと。既に何人も死んでいて、共生など不可能になっても、それはエルが認めないと思っていた。
「そのためならば、私はエルの意志を継ぎ、皆を導きましょう! エルは良い言葉を他の種族から聞き、記していました。『大切なもの』。それは別の種族の言葉で『エリィ』と言うそうです。私は『エリィエル』を成し遂げる……。新たな存在、『エリーエル』として、この森の族長となる!」
違う。エリィは『上回る』という意味で。それはエルを上回るという、非常に傲慢な名前でしかない。そんなの、許されるわけがない。わたしが赦さない。そう思えたのは一瞬だった。
問題は既にそんな段階を飛び越えていた。
「それこそが、やつら、ニンゲンやダンゴムシ……『エルと敵対するもの』である『エルドリクス』に殺されたエルの、最後の悲願なのです!」
♢ ♢ ♢
フィロメナのその言葉が耳に届いた後からしばらく、わたしの記憶はない。
ただ、気がついた時にはナルミと共に集会所を離れ、泉の近くを駆けていた。おそらくではあるが、放心してしまったわたしをナルミが引っ張っていてくれたのだろう。
意識がはっきりと戻ったのは、ナルミが立ち止まった時だった。それまでわたしの前を走っていたナルミを追い越して、思考が蘇った気がする。
「ナルミ、どうしたんだい? 早く、ここから……」
それまでわたしの先を走っていたナルミは、俯いたまま首を横に振った。
「俺がここまで来たのは、ここら辺がちょうど良いと思ってたからだ」
「なんの……」
何の話だ? と切り出そうとしたわたしを、ナルミは返答で遮った。
「俺はここに残る」
ナルミの言っていることは、まったくわからなかった。この夜は、わからないことだらけだったね。それでも、彼がそこに残るということについては格別だった。そのことに意味があるとは到底思えなかった。
何も理解できずにいたわたしに対して、ナルミは真っ直ぐな瞳で見つめてきた。
「この崖の裏に、空間がある。普通なら見つからないような茂みに入り口があったんだ。俺はそこで、今回のリュフリスたちの裏切りを描き残す」
「そのことに何の意味が……」
「いつか、フィロメナのことをぶん殴ってやるチャンスが来るかもしれない。だが、そのためにはリュフリスを味方につけることが必要だと俺は思う」
リュフリスたちはマギマというダンゴムシたちと同じような熱線を放つことができるとは、エルから聞いていた。ダンゴムシたちが熱線を放つところを見たことはその時にはなかったけれど、それもエルから同様に聞いていたから、事実としては知っていた。そして、その上でリュフリスたちと戦うことになった時、人間は太刀打ちなどできないだろうということも、事前にこういう反乱が起こった時のためにナルミとミヨとは話をしていた。実際、フィロメナの裏切りによってリュフリスの大半が敵に回ったとはいえ、ほぼ何もできずわたしたちは絶滅寸前にまで追いやられたのだから。
「でも、ナルミがここに残ることと、リュフリスを味方につけることにどう関係が……」
「俺がこのリュフリスの裏切りを描いて、後世の、今回のことを知らないリュフリスが画を見たら、フィロメナの在り方に疑問をもつかもしれない。何か、何かを感じて人間たちに味方をしてくれるかもしれない。話をするだけじゃ、信じてもらえるかわからない。味方にはなってくれないかもしれないし、誰も人間と出会うことすらないかもしれない。俺が事実を描いたところで見つけられることなくフィロメナは天命を全うするかもしれない。それでも、何も起きない可能性の方が高いとしても。何かが起こるかもしれない可能性は多く持っておきたい」
「何を馬鹿なことを……今はとりあえず様子を見て、後で何ができるか考えた方が良いに決まっている! 生きて、体制を整えることの方が大切だ!」
わたしは、今でもそうだったのではないかと思う。あの時、ナルミが一緒に逃げてくれていれば、また違った結末があっただろうと。何か起こるかわからないことに賭けるのは、無謀だと。自棄になっているだけだと。
だが、ナルミは頑固な男だった。
「そうかもしれないな。だが、何かが起こるかもしれない。先のことはわからない。なら俺は、自分のしたいことをしたい」
それを聞いた時に、こいつには何を言ってもダメだと改めて思った。何が起こるかわからない、なんてことを言ってくるやつに、何かを言うだけ無駄だとは思わないかい? 引っ張ってでも、なんて思うだけ無駄だとすぐに判断できたのは、付き合いの長さがあったからだろう。
まあ、そんなわけで、わたしは最後の別れを足早に済ませて、精なる森を離れた。
その後、無事に逃げた他の人間やダンゴムシと合流し、改めてこの場所に棲家を作った。それが、あの時のわたしたちにできる精一杯だった。
わたしはあの夜、一気に多くのものを失った。住む場所も、古くからの友も、これから共に歩んでいくはずだった友も。
あの日以来、わたしは夜に眠ることができなくなってしまった。
♢ ♢ ♢
「さて、わたしの回想はこんなところかな。ご清聴いただきありがとう。何か質問があれば、承るよ」
シオンの話が終わり、口を挟むことがなくなったナナパラフは、どこから問うたものかと逡巡する。見かねたシオンは、ふぅと吐息混じりに、微笑んでみせた。
「なに、もうずっと昔のことだ。遠慮することはない。わたしは寧ろ嬉しいのだよ。ナルミが何が起こるかわからないと言ってした、意味がないと思っていたことで貴方が来た。それだけで彼のしたことは、生きた証は無駄にならなかった。そんな、好奇心旺盛な貴方だ。気になることは何でも聞きたまえ」
シオンの気遣いに感謝しつつ、ナナパラフは「えーと、それじゃ」と切り出した。
「3つほど。いい?」
「どうぞ」
「まず、エルがニンゲンに殺されたっていうのは、本当?」
ナナパラフはそんなわけはないと思いながら尋ねた。ニンゲンがエルを殺したのだとしたら、フィロメナ……エリーエルの行動は正当な防衛であり、自分たちの長を死に追いやった他種族を許せないと考えても無理はない。シオンがそんな話の流れに持っていくとは到底思えなかった。
即時に否定がくると考えていたナナパラフだったが、シオンの応えは否定ではなかった。
「それはわからない。なにせわたしはエルの死体を見ていないからね。だからエルがどこかで生きている可能性も少ないにせよ存在はするし、本当にニンゲンが殺した可能性も否定はできない。ただわたしたち人間の中に、エルを殺すことやリュフリスとの共生を望まぬことを口にしたものは、わたしの知る限り、あの時はほとんどいなかったと思う。共生当初はそこそこいたけどね」
あくまで自分の見ていないことは分からないという気だな。とナナパラフは察した。しかし客観的事実と主観的事実を分けて話すシオンに、ナナパラフは好感を抱いた。主観的観測だけで決めつけるようなら信頼は一切できなかったであろう。
「それじゃ、シオンの個人的な考えとしては、リュフリスがやったということでいい?」
「リュフリスが、というよりは、フィロメナが主犯だと思っているね」
この集落に訪れ、子どもたちと話をしていたときに、シオンは「種族ごと憎むのは過ぎたことだ」と話していた。その考えは、シオン自身の中にまでちゃんと浸透しているらしい。
「ふたつめの質問。リュフリスの中にカロンってリュフリスがいたんだよね。カロンは長にはなろうとしなかったのか、その辺りはどう思う?」
先程の話を全て鵜呑みにするのであれば、リュフリスたちを扇動したエリーエルがそのまま族長になったということは間違いないと考えて差し支えないだろう。しかし本来裏切らなくとも順当にいけば族長になれたであろうリュフリスが、別の者に追い抜かれたとして納得できたのかは甚だ疑問であった。
シオンは腕を組んで考える。
「そうだね。カロンは治安維持部隊を務めていて、共生するまではリュフリスたちの2番手のような立ち位置だったように思う。それこそフィロメナを上から目線で窘めたりする立場でもあったし、フィロメナより強い権力を持っているようでもあった。だからといって長になる器かと言われれば、首を傾げる程度だとわたしは思うね。フィロメナの方が余程向いているとは思うから、長になっていなくても、フィロメナに丸め込まれていたとしても不思議ではない」
「私たちの歴史書では、精なる森の大戦、シオンたち人間を追い出したすぐ後にエルが死んで、その後しばらく間があってエリーエルが長になっていたんだ。だからカロンが長になった期間があって、その歴史をなかったことにしたとかがあるのかなと思ったんだけど、どうかな?」
この辺りは以前クランツが調べていたことであった。あの時には、エリーエルに都合の悪いようにクランツが考え過ぎていると思っていたが、今の話を聞くとエリーエルなら自分が族長としてやりやすいように周りに細工をしたということがあってもおかしくはないと感じるようになった。
例えば、カロンを族長にして満足させてからじっくり殺害して、その時には2番手であったであろう自分が堂々と族長になれる。なんてことをしていたとしても、そこまで驚かないだろう。
シオンは、その質問にもしばらく考えて応える。
「フィロメナならそのくらいの改変はするだろうとは思う。でも決めつける材料もないね。敢えて言うなら、エルの後に族長に選ばれて何かしらの偉業を達成してエルを超える英雄になろうとしている、とかはやりそうだけど。それもわたしからすれば、確証はないし言いがかりにしかならない。けれどとりあえずわたしの所感で言えるのは、カロンが族長になったとて上手くいくとは思わないね。真っ当に好かれる長ではなかったのだろうと思うよ」
まぁ、クランツの言い分も言いがかりのようなものだったし、この辺りは考えても仕方がないのかもしれない。その時を生きていたリュフリスはもうエリーエルしか残っていないのだから、確かめる術もない。
「ごめん、今のは私たちの問題だったね。気にしないで」
「気になど最初からしないさ。もっとも、歴史というのは誰が語るかで大きく変わるものだ。フィロメナはさぞ立派な、自分にとって都合の良い歴史家になれるだろうね」
シオンもクランツに負けず劣らず、エリーエルのことが嫌いなのだなとナナパラフは感じた。自分の住んでいた集落を追い出されて、周りのニンゲンもそれが原因で死んでいるのだから、忌み嫌ったとして当然ではあるのだが。
「それでは、次が最後の質問かな?」
シオンの言葉にナナパラフは頷く。そして、最初から聞こうと決めていたその質問を口に出した。
「どうして、私にこの話をしてくれたの?」
ナナパラフの問いに、シオンは口角を少し上げる。
「何でだと思う?」
妙に魅入られるその表情が頭を侵食しそうになるのを振り払い、ナナパラフは考えていた可能性をあげた。
「3つ言うね。まず、私がシオンを助けたから。そのお礼としてこの集落に呼んでもらっているんだし、まぁ可能性としては高いかな。次に、私を帰さないようにして味方に引き込むため。この話をして、精なる森には帰せないとか言って、次の瞬間には私はグルグル巻きで捕まっている。味方をすると言わなければ解放しない。なんてことがあり得るかなぁとは思ってる」
シオンは愉快そうに笑いを堪える。結構本気で言っているつもりなんだけどな。
「ごめんごめん。それで? 3つ目は?」
「なんとなく。それか、別に話したって話さなくたってどっちでもいいから」
「ふふっ、そうきたか」
シオンは堪えていた笑いを口から出す。こんなに笑ってもらえるなら、もっと別の可能性も考えて笑い転がしておけば良かったとナナパラフは少し後悔した。
「いやぁ、お見事だよ、ナナパラフ。正解は、2つ目だ」
「ありゃ、そっちか」
できれば当たって欲しくなかったんだけどなぁ、と呑気に考える。シオンはゆっくりと立ち上がり、物の数の少ない部屋の奥の棚からナイフを取り出した。
「さて。リュフリスが攻めてくるとなると、わたしたちにも余裕はない。貴方には、人質……と言って良いのかな、リュフリス相手にも。とにかく、対リュフリスの駒として使わせてもらおう」
シオンのナイフの先はまっすぐナナパラフへと向く。ナナパラフは恐れるでもなく平然とした顔でシオンの顔を見た。
「とりあえず私は一回精なる森に戻って、クランツっていう親友に今の話をしてみようと思う。クランツはエリーエルに批難的だし、味方になってくれるかも」
シオンはつまらないと今にも口から出そうな顔になりながら、ナイフを下ろした。
「もっと驚いてくれないと、脅かしがいがないね」
「だって私はいざとなればシオンには負けないし、そもそもシオンにそんなつもりがなさすぎるから」
シオンの目からは、ナナパラフを脅そうという気が感じられなかった。シオンは今度こそ「つまらないね」と口から出し、元あった場所にナイフを戻す。
「それなら日が昇ったら帰り道を案内しよう。是非とも、クランツとやらを味方に引き入れ、この集落への進軍を止めていただきたいものだね」
「任せてよ。あぁ、でも……」
そういえば、先程のシオンの話を聞いていて、出会ったこともないナルミに共感する部分があった。ナナパラフは困ったように笑う。
「もしかしたら、クランツからは『こいつは何を言ってもダメだ』って、呆れられてるかもしれないや」
♢ ♢ ♢
シオンの家で夢路を辿った後、日が昇るとシオンは言っていたとおりナナパラフに帰り道を教えた。それは、集落に来た時にやたらと歩いた洞穴の道とは異なり、一本道をまっすぐ歩けば帰れるという順路であった。
「この道を最初から紹介してくれれば良かったのに」
苦言を呈すナナパラフに対し、シオンの回答としてはシンプルであった。
「そこまでの信頼が、貴方にはまだなかったというだけのことだよ」
これにはナナパラフも口を噤むしかなかった。その様子をみたシオンは笑いながら、「ちゃんと教えたということも、覚えておいてもらいたいものだね」と続けた。
シオンに別れを告げ、ナナパラフは真っ直ぐ精なる森へと帰った。途中気になるものがあっても極力気にせず、行きを遥かに上回るペースで進んでいく。
その結果、見慣れた道へと入り精なる森の敷地内だと気づいた時には、まだ日は真上にあるほどであった。シオンがナナパラフに教えた、ひたすら真っ直ぐ行けば精なる森に帰れるというルートには、一切の嘘はなかった。
ナナパラフは勝手に森の外へ出た引け目を感じながら、大樹に向かう。静寂の泉を越え集落が近づいてきた頃に、見知った顔を見かけた。
「リマナ!」
ナナパラフの声かけに、リマナは振り返る。焦ったような表情で振り返った後一瞬喜びの感情を浮かべ、すぐに焦りに戻る。
「ナナ! どこに行ってたんだ!」
リマナはナナパラフの両肩を手で上から叩く。思った以上の威力で、ナナパラフは背が縮むのではないかと心配になった。リマナの手を払い除ける。
「リマナ、教えて。エリーエル様はどこ?」
「エリーエル様? エリーエル様なら、部屋に隊長と教長を呼んで話をしているが……。それよりも、お前……!」
「ごめん、後で話す」
ナナパラフはなおも呼び止めようとするリマナを置いて、大樹へと向かう。途中、何度か見知った顔に声をかけられたが、それらを適当にあしらいつつ大樹へと辿り着いた。
近くの窓から入り、精なる森を出る前に入った、ナナパラフが外へ出るきっかけの話をしたエリーエルの部屋を目指す。まだそんなに経っていないのに、久しぶりに訪れたような不思議な感覚を覚えながら、目的の部屋の前に立った。
一度深呼吸をしてから、ドアノブに手をかける。以前より、ヒンヤリとしているような気がした。
頬を伝う汗を拭って「失礼します」と口にすると同時に扉を開けた。部屋の奥にはエリーエル、そしてその前に並び立つジュノーとカンジェーンは驚いたように振り返ってナナパラフを見つめていた。
「……よく戻りましたね、ナナパラフ」
エリーエルはジュノーに目配せしながらナナパラフにそう言う。ジュノーはナナパラフと目を合わせずに横を通り、部屋から出た。
ナナパラフはもう一度深呼吸をして、唾を呑み込んだ。
「エリーエル様。お話があります。良いでしょうか」
「ダメです」
エリーエルは即座に否定する。ナナパラフは思わず面食らった。
「本来、ナナパラフは隊長に任命されるはずだったのですよ。私はちゃんと伝えたはずです。そして、それを台無しにした。日が昇る前にジュノーやカンジェーンと話をして、貴方を討伐隊から除名することに決定しました」
除名。それくらいは覚悟していたが、随分と早い決断だこと。
「エリーエル様。私はニンゲンに会ってきました」
ナナパラフの包み隠さない言葉に、エリーエルは目を少し見開く。大きく息を吸った後、冷たい目でナナパラフを睨みつけた。
「それで?」
「シオンというニンゲンに会い、エル様のことも聞きました。かつて、共生を志していたことも、精なる森の大戦が、ニンゲンとダンゴムシを森から追い出すための反旗であったことも。私は、それが本当なのかどうなのか、確かめたい」
カンジェーンは何も言わずに、ただ行く末を見守っている。エリーエルは口の中で小さく「シオン……奴がまだ……」といつもより低い声で咀嚼するように呟いた。
「やっぱり、知ってるんだね。エリーエル様……いや、フィロメナ」
シオンのことを知っているということは、ニンゲンと関わりがあるということ。エルドリクスから精なる森を取り戻したという『精なる森のエル』にニンゲンが出てこないことを考えても、フィロメナは嘘をついていたということになる。ダンゴムシは言葉を話さないから問題がなかった。話が出来て、真実を知るニンゲンに興味を持たれると困るのだ。
「どうして、黙っていたの。外の世界は、あんなに多くのものがあったのに。ニンゲンのことは理由があって黙っていたとしても。それでも、外の世界はあんなに、あんなにも広かったのに」
ナナパラフの言葉にフィロメナは何も返さない。その様子を見たカンジェーンが口を開こうとしたその時。
「そこまでだ。ナナパラフ」
背後の扉が開かれる。そこから大勢のリュフリスが雪崩れ込み、ナナパラフを取り囲んだ。討伐隊の、いつも共に戦っていたリュフリスたちだった。
ナナパラフは、フィロメナを睨む。フィロメナの表情は、恐ろしく変わらなかった。
「どういうこと? フィロメナ」
「フィロメナ? 誰のことですか?」
表情は見たこともないほど氷のように冷たい。しかしその声はまさにエリーエルの、ナナパラフが信じてきた族長のものであった。
「ナナパラフ。貴方のことを何度も見逃してきました。静寂の泉への無断立入、作戦、上官への口答え。それらも討伐隊でシュナとして活躍してくれていたからです。ですが貴方はその立場を捨て、精なる森の外へと出た。自ら、意図的に。規律違反者として、貴方をこれ以上放置することはできません」
ナナパラフは取り囲んでいる討伐隊の隊員たちを見る。皆、なぜこんなことにとでも言いたげな顔であった。その表情で、皆の心境はこれでもかと伝わる。今回のことに理解し、納得することができている隊員はいないのだろう。
ただ、一名を除いて。
「外に待機させてたんですか、ジュノー隊長」
ナナパラフを真っ直ぐ見つめる目は、揺るぎなく頷いた。
「そうだ。それが、俺に下された命令だ。そして、これも」
ジュノーはナナパラフに近づき、その手に縄をかけて縛る。そして、重そうに口を開いた。
「ナナパラフ、お前を牢で拘禁する」
ナナパラフは抵抗しなかった。できなかったと言い換えることもできる。隊員たちに取り囲まれているだけでなく、ジュノーの言葉の重みに、逆らおうという気持ちが憚られたからでもある。
チラリとフィロメナに視線をやる。フィロメナは、ナナパラフへの興味などなくしていた。その姿に、視線に、表情に。ナナパラフの憧れていたあの族長の影は、もう見えなかった。
そしてナナパラフは、幽囚の身となった。
♢ ♢ ♢
牢での生活は、何一つ満足のいくものではなかった。
飯は出るものの、味はしない。本はあるものの『精なる森のエル』しかなく今更読み尽くしている。ベッドはあるものの、固くてまともに寝れたものではない。
日が昇り、沈み。日が昇り、沈む。そんなことを何度も窓から眺めて繰り返すうちに、徐々にシロツメの季が近づいてきて、牢の中も寒くなってきた。
牢を見張るリュフリス、ノックスに言ったら防寒対策を持ってきてくれるだろうか。と思いながら話しかけたものの、ノックスは全く会話に応じなかった。あまり話したことのないリュフリスだと思っていたが、話しかけても話してくれないリュフリスだっただけか。とナナパラフは納得した。
そこから更に、何度か日が昇ったある時、ナナパラフの牢に訪問者が現れた。
「やっほ。面会が遅いよ、クランツ」
牢の前に、クランツが立つ。固まった体と落ち込んできた心を悟られないよう、できるだけ軽く捉えてもらえるようにナナパラフは明るく話しかけたが、クランツはクスリともしなかった。
「だから言ったんだ。辞めておいた方がいいって」
クランツの冷たい言い草に、ナナパラフは「有意義だったよ」と返す。
「私は森の外に出たことを後悔してない。それだけの価値があったと思ってる。クランツにも、その話をしたかったんだ」
「それはよかった。これから、いくらでも聞いてあげるよ」
ナナパラフは、そこでようやくクランツの服装がいつもと違うことに気がついた。ノックスと、同じ服を着ている。
「僕はあの時、ナナには何を言ってもダメなんだなって思ったよ。もう、ついていくことはできないんだって。だから、助言したんだ。エリーエルに」
「助言? どういうこと?」
ナナパラフは話の流れが掴めずにいる。クランツの言うことが、まったく噛み砕けない。
「ナナが帰ってきた時、エリーエルの初動が早いと思わなかった? そりゃあそうだよ。僕が情報をエリーエルに流したんだ。例え嫌いだとしても、僕は自分の中で自分を曲げることはできない。ナナが間違っていると思ったから、エリーエルに二度とこんなことが起こらないようにしてもらおうと思ってね。だから、簡単に言えば告げ口したんだ。ナナの動きをね。あそこまで早く帰ってくるとは思ってなかったけど。そして僕は今のコカシの季が60季目だ。仕事を決めないといけない。言いたいことはわかるね?」
ぜんっぜんわからない。クランツがこの短期間に、どうしてしまったのか。精なる森を抜ける時、確かにクランツと意見は合わなかった。だが、それがクランツをそこまで動かすことだとは、ナナパラフはまったく思ってもいなかった。
クランツの口角は、ようやく上がった。
「僕は、牢の監視員になったんだよ。これから君の牢は、僕とノックスさんで見張ることになる」
「そりゃまた……退屈しなさそうだね」
脳の回転が全く追いつかないナナパラフは、その言葉だけようやくの思いで絞り出した。
今までで一番、牢が寒い気がした。
四章 シロツメの季
ナナパラフさんはどうしているだろうか。
ナナパラフが牢に閉じ込められてから、カンジェーンはそのことばかりを考えていた。
確かにナナパラフが勝手に森の外へ出たことは褒められたことではない。クランツとジュノーはいくらか察していたようではあったが、森の外は危険な領域であり、命の保証はない。そんな場所へ行ったこと自体は、叱られて然るべきである。
しかし、そのことが即座に牢への投獄に繋がるかと言われれば、そうは思わない。エリーエルは過去に見逃してきたことも含めてナナパラフを追求したが、そもそもナナパラフが過去にしてきたことでさえ、生意気な生徒の反抗くらいに思っていた。今回の、外の世界を見たいという動機も、至極真っ当なものであるように思う。
ナナパラフは生意気ではあれど、悪いリュフリスでは決してない。叱られるべきではあれど、罰せられるべきではないと考えていた。それはナナパラフを教えているカンジェーンは元より、ナナパラフの拘束を指示したジュノーもわかっているはずだと思っている。そしてそれは、エリーエルも同様にわかっていることだとカンジェーンは信じていた。
最近のエリーエルはどう考えてもおかしい。エルドリクス掃討作戦は納得こそできなくとも理解はできなくもない。ナナパラフが指摘したことの数々も尤もではあるが、リュフリスに危険が及ばないようにということを考えると、いずれは決断しなくてはいけない問題だという考えはまったく否定できるものではない。
カンジェーンが特に納得できなかったのは、仮入隊のリュフリスを戦力として扱うと言われた時であった。
エリーエルはカンジェーンが教長になる前々の教長である。その立場にあったリュフリスが、この森の未来である子どもたちを戦闘に駆り出させるということは、カンジェーンにとっては到底看過できる問題ではなかった。
作戦を聞かされ、ナナパラフが森を出たという話を聞き、戻ってきたナナパラフがニンゲンに会ったという話を部屋で聞いた時、ジッとはしていられなかった。ナナパラフの拘禁を解くことも考えたが、現実的にすぐにどうにかできる問題ではなかった。そのため、カンジェーンは仮入隊のリュフリスを使うことだけは止めようと考え、エリーエルに進言した。そしてそのカンジェーンの要望に、エリーエルは拍子抜けするほどあっさり同意した。
「それは構いません。では、仮入隊のリュフリスは警備が手薄になる精なる森の警護に当たってもらうことにしましょう」
それはカンジェーンにとっても許容できる範囲であった。少なくとも、特攻のようなことをさせるわけないは絶対にいかない。それを止めることは教長としての絶対の条件であった。
安堵するカンジェーンを尻目に、エリーエルはその後を続けた。
「ただし、ルルミルだけは連れて行きます。ルルミルはこの作戦の核を担う存在です。今すぐに仮入隊という立場を外してもいいくらいに、ルルミルは必要な存在なのですから」
カンジェーンは悩んだ。ルルミルは英雄として扱われるようになってから、変わってしまったように思う。以前までの快活さは鳴りを潜め、常に追い詰められたような顔をするようになった。ナナパラフもサクノの季以降快活さは減ったが、その時はようやく落ち着きを持って行動できるようになったと感じたが、ルルミルに対して同様の感情を持つことはできなかった。
しかしここでルルミルを行かせることにも反対した場合、エリーエルが仮入隊のリュフリスたちを駆り出すことは目に見えていた。ナナパラフがおらず、ルルミルもいない。それなら数でカバーするしかないと。そして、そうなってしまった場合、カンジェーンの意見は今度は聞き入れてもらえないのだろうということもわかっていた。
そして、カンジェーンは頷いてしまった。ルルミルという若き才能が潰れないことを祈りながら、教長としてあるまじきことと解っていながら。
ナナパラフが拘禁される時、止めることができなかった。
ルルミルが戦地に駆り出される時、止めることができなかった。
自分にできたことはなんと少ないのだろうか。教え子たちを自由にしてやることもできず、教長として何ができていると言うのだろうか。
そして、そんなカンジェーンに対して更に決断を悩ませることが起こる。それはクランツのことであった。
「カンジェーン教長。僕は牢の見張り番になります」
クランツは60季。進路を決めなくてはいけない時季であった。そのことは頭にあったが、この回答がクランツの口から放たれたことが理解できず、カンジェーンは固まってしまった。
「……どうしてですか」
ようやく絞り出した、他の教え子にあまりしたことがなかった質問に、クランツは堂々とした顔で答える。
「ナナを見ていて思ったんです。あれほどまでに才能があり、討伐隊員としての未来を約束されたようなナナですら、何がきっかけでおかしくなるかわからない。そんなおかしくなったリュフリスが牢の中で反省できるように、更生できるように、見張り番として役に立てたらなと」
なんと立派な、作られたような理由だろうかと思った。これを言うのがクランツでなければ、カンジェーンは素直に応援できただろう。そう、クランツでなければ。
頭が痛くなるような錯覚に耐えながら、息を大きく吸い込む。
「クランツ。ナナパラフが森を出たことをエリーエル様に話したのは、あなただそうですね」
「はい」
あっさりと認める。
「それはなぜですか?」
「前にも言ったでしょう。僕の中の思いと、ナナの思いに相違があった。僕の思うように動かないなら、まったく動かないでいてもらったほうが良いからです」
あまりにも自己中心的。これまでクランツに抱いたことのない感想が頭を過ぎる。
「クランツの思いを叶えた結果が、その進路ですか?」
「はい」
あっさりと肯定する。クランツがどういうリュフリスかずっと見てきたつもりではあったが、馬鹿な子ほど可愛いという想いが働いてしまっていたのだろうか。ナナパラフの方が余程簡潔でわかりやすい。
「そうですか。わかりました」
クランツの決定に対してこれ以上どうこう言うことはできず、カンジェーンは納得がいかないながらも頷いた。このような歯痒い思いばかりだと顔を顰める。
「すみません。ありがとうございます」
クランツは爽やかな顔で頭を下げる。お礼を言われることなど、何もできてないのに。
立ち去ろうとするクランツの後ろ姿に、カンジェーンは声をかける。
「クランツ」
「はい?」
何を言おうかと考え、そして、やはりこれだけはとカンジェーンは想いを込めた。
「あなたを、信じますよ」
クランツは初めてポカンとしたような顔をして、そして失笑した。
「尊敬するリュフリスからそう言われるなんて、僕は幸せ者ですね」
心から、ただ信じるしかない。それしかカンジェーンにはできないのだ。
あとは信じるしかない。ルルミルも、クランツも、そして、ナナパラフも。
聡明なあの子たちなら、きっと大丈夫だと自分に言い聞かせるように、カンジェーンは前を向いた。
♢ ♢ ♢
ナナパラフの目覚めは、もう時もわからない。
牢に入れられてからというもの、外の状況を知る術がほとんどなくなってしまった。
窓はあるものの見える景色は末枝くらい。娯楽もないこの空間は、頭がおかしくなりそうなほど退屈であった。それでもナナパラフが正気を保っていられたのは、クランツがいたからである。
「ねーぇ、クランツ」
今日も今日とて退屈になったナナパラフは、間延びした声でクランツに話しかける。クランツはナナパラフを見張っているとは思えないほどいつも通りの返事をした。
「なに? ナナ」
「私がここに入って、どれくらい経ったの?」
「90回くらい日が昇ったかな」
そうなると、そろそろエルドリクス掃討作戦が決行されるくらいのタイミングか。とナナパラフは考える。フィロメナはナナパラフを独房に入れた後「100回日が昇るシロツメの季に決行」と言っていたとは、クランツから聞いた。ナナパラフが独房に入った時はまだコカシの季だったが、随分と時間が経ってしまったものだとしみじみする。
ナナパラフは続けて質問する。
「ねぇ、クランツ。討伐隊の皆は、どうしてる?」
「どうしてるも何も、皆エルドリクス掃討作戦の準備に必死だよ。特に大変そうなのは、急に戦線に復帰する上に隊長にさせられたメルカドさんかな」
そうか。私が隊長にならなかった代役は、メルカドさんが務めているのか。と、ナナパラフは気づいた。ナナパラフの前にシュナをしていて、経験も豊富なのだから当然の選定かと、初めて思い至る。
「ルルミルは? どうしてる?」
ナナパラフは一番の心配どころを尋ねる。ルルミルが最も責任のある立場であり、以前掃討作戦を聞いた時の様子を見ている限り、まともな状態であるとは思えなかった。
クランツは少し表情を暗くする。
「ルルミルは……今は無我夢中で訓練をしているね。凄い成長速度だよ。今では、ナナを超えていると思う」
どうもまともではないらしい。我ながら、努力で自分を超えるなんてやつがまともな訳がないとナナパラフは自負していた。
「ナナの投獄に一番ショックを受けていたのはルルミルだったからね。あの子にとって、ナナは憧れだったから、裏切られたと思ってるみたい」
「まぁ……そうなるのかもね」
実際、掃討作戦を初めて聞いた時にはナナパラフとルルミルは共に隊長になるはずで、ルルミルがそのことに期待していた部分はあったのだろうとナナパラフは思う。プレッシャーは重くのしかかったが、ナナパラフと一緒ならなんとかなるかもしれないと、そのような慕い方をする可愛いやつだと認識していた。だからこそ、ナナパラフが好き勝手に動き投獄されたことに、憤りを感じていても仕方ないと考えてはいた。しかし、実際にそう思っていると聞くと、なかなか堪えるものはある。
「それじゃあ……」
次に聞くことを考えていると、ガチャリと扉が開く音が聞こえてきた。この空間は牢屋がいくつも連なっており、出入り口はナナパラフの位置から見えない廊下の先にある。ただ、牢屋に入っているリュフリスはナナパラフ以外にはおらず、ナナパラフとクランツ以外には見張り番の職に就いているノックスしか来ない。実際、今入ってきたのもノックスであった。
「飯だ」
左手に乗せていたトレイが配食用の隙間から押し込まれる。
ノックスは最低限のことしか話さない。クランツもノックスがいると、先程までのようにベラベラと情報を話すことはなくなる。仕方なく、ノックスが持ってきた食事に目を落とす。
今回の食事は、ダンゴムシの脚と野草のスープだけ。食事の栄養などは気にしたことがないナナパラフであったが、こうも牢でやることがないと、栄養の偏りも気になってくる。
「ねぇ、エルドリクスの討伐って、掃討作戦間近になった今もしているの?」
ダンゴムシの脚に齧り付きながら、ナナパラフはクランツに問いかける。クランツはチラリとノックスを見やる。ノックスがいる時は、ノックスが何も言わないかを確認してから回答が返ってくる。一度「この牢屋の鍵ってどっちが持っているの?」と聞いたところ、ノックスから一言「答えられない」と返ってきた。答えることができない場合は、ノックスから返答があるということだ。
そして今回はノックスの反応がない。そのことを確認し、クランツは答えた。
「エルドリクスの討伐は今も行われている、というより、掃討作戦を見越した討伐をしているね」
「フィロメナが戦闘指揮を執ってるってこと?」
「エリーエル様だ」
ノックスが口をどうでもいいことで挟んでくる。ノックスの視線が牢に向いていないことを確認したナナパラフは、舌を出して僅かな抵抗をする。
「エリーエル様は総指揮ではあるけれど、戦闘指揮自体はジュノー隊長がやってるよ。隊長率いる本隊は他の部隊が欠けた時のサポート、ルルミル隊は遠くからエルドリクスの狙撃、ナナが率いるはずだったメルカド隊は基本囮役だね。メルカドさんは勝手にエルドリクスに攻撃して怒られていたけど」
こうして改めて話を聞くと、いかにメルカド隊、元々ナナパラフが率いる予定であった隊が捨て駒であるかがわかる。囮は元々ある役割ではあるが、ダンゴムシ一体に対してするのと、大多数を相手にするのでは訳が違う。ルルミルの部隊を狙撃にしているのも、危険が少なく貴重な戦力を失う危険が低いからだろう。
「カンジェーン教長は?」
「教長は討伐には出ていないよ。授業をなくすわけにはいかないし、作戦の時もエリーエル様に同行するだけみたいだから」
討伐には出るのか。同行するだけなら、普段討伐をしていない教長は役に立たないと思うのだが。何のために連れて行くのだろうか。
「今、役に立たないと思ったでしょ」
「いやいや。そんなことは」
クランツにズバリ見透かされ、苦笑しながらスープを口に運ぶ。味が薄い上に野草が苦い。あの甘ったるい汁が今は恋しい。
ナナパラフはスープの入った器を鉄格子の隙間からノックスに差し出す。
「ねぇ、このスープ味が薄いから、何か足してきてよ。私こんなの飲めない」
ノックスはチラリと目をやると、溜息を吐きながら器を受け取り、外へと出ていった。意外と優しいな。と感銘を受けながら、ここぞとばかりにクランツに話しかける。
「ねぇ、クランツ。今なら誰もいないから聞くんだけど、実は何かフィロメナの裏をかけるような作戦を考えているんでしょう?」
ナナパラフにはあれだけフィロメナを嫌っていたクランツが裏切るとは思えなかった。何より、教長になるという選択を捨てて牢の見張りなど、あの好奇心で生きてきたようなクランツがするはずがない。そう思えるだけの付き合いをしてきたつもりであった。
クランツは堪えることができなかった笑いを吐いた。ナナパラフはあまり聞いたことのない笑いだった。
「残念だけど、特に作戦はないね。言ったでしょ? ナナの行動は僕の中の譲れない部分を越えただけのことだよ。それに、ナナならよくわかっていると思うけど、僕は友情よりも規則を優先するリュフリスなんだ」
全然わかっていなかった。てっきりクランツは友情を取るリュフリスであると思っていたのに。もし牢獄を出ることができたなら、今後の付き合い方を考え直さないといけないかもしれない。
「でも、私が話した森の外のことや、ニンゲンの話、三種族共生の話は面白かったでしょ?」
ナナパラフのこの問いに、クランツは相変わらず、しかしよく聞く声で笑いながら答えた。
「とびきりね」
よかった。クランツのとこを全くわかっていないわけではなかった。ナナパラフは寒さで白くなった息と共に安堵した。
♢ ♢ ♢
そして、本当にクランツの策は何もないまま、エルドリクス掃討作戦はやってきた。
ナナパラフは変わらず牢の中で暇を持て余して、冷たい床で仰向けに寝転がりながら手にかけられた錠を眺めている。そして暇を持て余しているのは牢をいつも見張りにくるクランツとノックスも同様であろう。両名ともどこか遠くを見るような顔をしていた。
エルドリクス掃討作戦は日が昇ると同時に侵攻を始め、棲家が見つかり次第総攻撃を始めるらしい。ナナパラフは棲家を発見するまで時間を要したが、フィロメナはナナパラフが閉じ込められている間にさらに調査を進めているに違いなく、棲家が見つけられるのに時間はかからないだろうと思っていた。だからこそ、早く牢から出なければいけないのだが、出してもらえる気配は微塵もない。
「ナナ、聞いても良い?」
クランツが声をかけてくる。ナナパラフは返事をしなかったが、それを肯定と受け取ったのかクランツはそのまま話す。
「今、エリーエル様をはじめとした討伐隊は、エルドリクスの棲家に向かってる。このままだと、リュフリス側の被害はわからないけれど、エルドリクス側には確実に被害が出る」
「リュフリスにも被害は出ると思うけど」
「ナナはルルミルのことを見てないからね。ルルミルは凄いよ、あの子がいれば、本当にリュフリスに被害なく掃討作戦は上手くいくかもしれない」
クランツは世辞こそ言えど、嘘はあまり言わない。そのクランツが上手くいくかもと言うのなら、本当に上手くいく蓋然性は高いのだろう。
クランツはナナパラフを真っ直ぐ見つめる。ナナパラフもそれに対し、胡座ながらも姿勢を正し、クランツに目をやった。
「それでも。リュフリスには害が出ないとしても。ナナは掃討作戦を止めに行く? それとも……」
「止めに行くよ」
その後はナナパラフにとって聞くまでもなかった。クランツは面食らう。
「どこの誰にどれだけの被害が出るかなんて関係ない。私は、あの作戦自体必要ないものだと思ってる。だから、止めに行く」
シオンの話を聞いて多少影響された部分がない訳ではない。実際にダンゴムシと生活しているのを見て、分かり合えるかもしれないと思った。だがもし、シオンと話していなかったとしたら。ニンゲンたちのことを知らずに、掃討作戦が上手くいきそうとなったとしたら。
それでもナナパラフは行っただろうと思う。もしエルドリクスを掃討したとして、それが何になるのか。それがわからないまま、納得できないまま、この作戦に力添えすることはできない。
クランツは目を細め、ゆっくりと閉じる。そして、ポケットから鍵を取り出したかと思うと、鍵穴に差し込み牢の扉を開けた。
「クランツ……?」
「ナナ。真っ直ぐなのは君の良いところだよ。本当にそう思う。だからこそ、エリーエルからすれば君は邪魔でしかない。君の真っ直ぐさが、エリーエルの思惑に光を差すんだ」
クランツはナナパラフに右手の人差し指を向ける。そして、指先に力を込め、マギマを溜めた。
「クランツ!」
クランツの後ろから、ノックスが叫ぶ。ナナパラフは、クランツの指先を見つめた。マギマを他のリュフリスに向けるなとはよく教わったが、なるほど。向けられると確かに怖い。特にナナパラフは今手首に手錠をかけられているため、反撃することもできない。それもあって怖さは倍増である。
「クランツ。もし私を殺すなら、ルルミルのことをよろしくね。あの子はきっと、もう限界だから」
それでも、あくまでも余裕を気取る。クランツは顔を顰めた。
「まったく。そんなんだから、エリーエルに始末しろって言われるんだ」
クランツの指先がさらに輝いた。ナナパラフは目を瞑る。
そして、手首が軽くなる感覚と共に目を開けた。手首を拘束していた手錠が、ゴトリと音を立てて床に落ちる。見ると、手錠は熱線で溶かされてその役割を果たせなくなっていた。
「そして、そんなんだから、僕はナナの味方をしたくなるんだよ」
顰めていた顔を穏やかな笑顔にしたクランツは、ナナパラフに手を差し出す。その手を、ナナパラフは迷うことなくとった。
「ちょうど、閉じ込められるのにも暇していたところだったんだ」
「僕も、意味のない見張りには飽々していたところだよ」
やはりクランツは、気が合う一番の親友だ。牢にいる間に考えていたクランツとの付き合い方変更プランは全て必要なさそうだと、ナナパラフは頭の中から消去した。
♢ ♢ ♢
「さて、それじゃ、時間がもったいないけど聞こうかな。どうして私を裏切ったふりなんてしたの?」
手がすっかり自由になったナナパラフは、クランツを問い詰める。悪びれる様子すらないクランツは、どこからか持ってきたいつもの私服に着替え出した。
「とりあえず、ナナが出て行った後、帰ってきたらエリーエル……フィロメナだっけ? あいつのところへ向かうだろうなって思った。で、まぁ返り討ちに遭うだろうなぁとも」
確かに、真っ先に向かったが。そして、返り討ちに遭ったが。
「どうせ同じ結果なら、僕がナナを裏切っておいてフィロメナに信頼されて、この仕事に就いて見張っておいた方が、ナナも心が少しはマシかなと思ってね。ノックスさんとずっと一緒もキツいでしょ」
酷い言われようのノックスさんそこに居るんだけど。と思いチラリと目をやったが、当のノックスはクランツがナナパラフにマギマを向けていた時には慌てた表情をしていたにもかかわらず、今は何事もなかったかのような顔をしている。
「よく信頼されたね」
「優等生でいたことには自信があるからね」
いつか裏切る時に楽でしょ。というクランツの目は笑っていた。むしろ笑っていなかった方が良かったかもしれないと思うくらい、フィロメナに対する敵意の凄まじさにナナパラフは引き攣った笑いしかできなかった。
「ずっとナナを牢から出さなかったのは、これから掃討作戦が始まるっていう、誰もが冷静ではいられないこの時なら、現場を混沌に陥れることができるかなって思ってね。あとちょっとで悲願を達成できるって時の方が、フィロメナの口も滑りやすくなるでしょ」
「教えてくれたって良かったのに」
「表情に出るでしょ、ナナは」
ナナパラフの様子を伺いにか、フィロメナが牢を訪れたことが何度かあった。その度に、余裕のなさそうなナナパラフを見ては満足そうに去っていくフィロメナを見たが、確かに教えられていたらもっとナナパラフに余裕が生じ、クランツに要らぬ疑いがかけられていたかもしれない。
「それじゃ、最後の確認。味方で良いんだよね、クランツ?」
「もちろん。森を出てニンゲンに会って外の知識を吸収してきた。そんな面白い経験している親友と敵対する理由がないね」
どこまでもブレない。クランツならそう言うだろうなということを、恥ずかしげもなく、遠慮なく言ってくる。だからこそ、クランツが牢の見張り番をやりたいなど、言うはずがないと思っていた。初めて聞いた時のカンジェーンはどのような気持ちだったのだろうか。顎が外れそうなほど驚いたに違いない。
「で、行っても良いの?」
ナナパラフは会話から置いてけぼりにしていたノックスに尋ねる。ノックスはナナパラフとクランツの会話など心の底から興味なさそうな顔をしながら、気怠げに答えた。
「俺は、暇をしていたいだけだ。お前たちには暇で退屈な場所でも、俺にとっては暇で最高な場所だ。早く出ていってくれるならこちらとしても願ったり叶ったりだ」
なるほど、とナナパラフは納得する。話したことがないと思っていたが、当然であった。これは話が合うとは到底思えない。こんな場所が最高というのなら、今度もっとジメジメしたシオンの家でも紹介してあげよう。
「短い間、お世話になりました」
クランツはノックスに頭を下げる。本当に短い期間であったが、ノックスはクランツの上司に当たったのだ。ナナパラフの知らないところでも少しはお世話になったのだろう。それにしても律儀だ、とナナパラフは感心する。
クランツの礼を、ナナパラフの時とは異なりある程度優しい表情で見つめる。
「クランツ。お前にはもっと向いている仕事がある。お前自身わかっているはずだ。やるべきことをやったら、次はやりたいことをやれ」
「……はい。ありがとうございます」
それでも、見る目は確かにあるようだ。少なくとも、クランツが牢の監視員をすると言った時にそのまま通した大人たちよりは。ナナパラフはノックスの評価を少しだけ上げた。
「さぁ、行こうか。ナナ、案内して」
「もちろん」
顔を上げたクランツの表情は、晴々としていた。
♢ ♢ ♢
「すごい、図鑑でしか見たことがない木の実だ! すごい、見たこともない生き物がいる! すごい、あんな遠くで何かが飛んでる! ナナ、止まってもいい!? じっくり見てもいい!?」
「ダメ! じっくり見るのは全部終わってから!」
ニンゲンたちの棲家に向かう途中、クランツはやはり喧しかった。道中で何かを見つけるたびに騒ぎ立て、止まろうとする。それをナナパラフは何とか引っ張って来た。
ナナパラフの後を懸命についてきながらも、クランツの視線は右に左に飛び交っていた。
「どうしてこんな素敵なところ、誘ってくれなかったのさ!」
「賛成できない言ったのはクランツでしょ!」
「あぁ、こんなに素敵な世界があるなら、もっと早くに言いつけなんて破って外の世界に出ておくんだった! 今までの時間が勿体無い!」
やはり、外の世界に出た時にクランツを連れて来なくて正解だったとナナパラフは溜息を吐く。ナナパラフだけでさえ、リュフリスの棲家にたどり着くまで日が暮れかけるほどの時間を要した。仮にクランツが一緒であれば、日が落ちても半分も進めていなかったであろう。
「フィロメナたちが全然見当たらないんだけど、もう着いてるのかな?」
「日が昇ってからすぐに出たからね。ナナから聞いていた距離感覚が正しければ、もう着いててもおかしく……あぁ、あれは噂に聞くイチゴ! あんなに大きいなんて! 持って帰ってもいいかな!?」
「後にして!」
既に日は天辺にまで昇っている。ナナパラフが棲家から森へ帰った時には、日が昇り始めてから出発し、今くらいの時間には捕えられて牢へと連れ込まれていた。もし探索がスムーズに進んでいれば、既に作戦が始まっていてもおかしくはない。
ナナパラフは一直線に棲家へと向かう。クランツも次第に口数少なになっていった。もしかすると、ナナパラフの緊張が伝わったのかもしれない。ナナパラフもクランツに声をかける回数が減っていた為、自分で自分が緊張していることはよくわかる。
棲家を出るまでは、フィロメナと話をすれば作戦を止めることができると思っていた。ニンゲンの話を持ち出し、問い正せば皆で止めることができると。
しかし、実際は一切聞く耳を持たず、話し合いの機会さえ与えられなかった。もし止めることができるとすれば、フィロメナ以外を先に陥落するか、力尽くで止めるしかないかもしれない。そんな考えが、ナナパラフの頭を巡っては消えていった。
力尽くで止めるのは根本的な解決にはならない。力尽くでの解決は必ず不満を伴うからである。双方納得で終わらせることができれば、それが一番良いことには違いない。問題はそれをできるだけの力が自分にあるかどうかということ。ナナパラフの一番大きな気掛かりはそこであった。
考えていても仕方がないとは思いながらも、考えることを止めることができない。そうして無我夢中で駆けつけた先で、ようやく討伐隊を発見することができた。まず最初に目についたのは隊の最後列にいる、入隊して間もないクランツと同じ季生まれのリュフリス、コーネルだった。
「コーネル!」
ナナパラフの叫びに、コーネルは惚けた顔をしながら振り返る。ナナパラフが目の前に降り立ったと同時に誰の声かを認識し、それと同時にあんぐりと口を開いた。
「ナナパラフ!? どうしてここに……!」
「フィロ……エリーエルはどこ!?」
何だかこんなやり取りを以前にもリマナ辺りとした気がする。勢いで押し切れると思っているのは悪い癖だな、とナナパラフは自省する。しかし、今は反省を活かすときではない。
勢いにまんまと飲まれたコーネルは、開いた口が塞がらないまま指を隊の前の方に指した。
「あっち……あ! ナナパラフが来たら、止めるようにエリーエル様から……!」
「ごめん、その話はその辺の雑草とでもしておいて! 私は行くから!」
勢いのままナナパラフは木に飛び移り、隊の前方を目指す。後ろから「ざ、雑草? どういうこと?」と聞こえてきたが、コーネルは大した意味がないことに悩む癖がある。もし討伐隊に復帰することが出来る日が来たら、くだらないことであまり悩むなと教えてあげよう。
ナナパラフとクランツは、隊員たちの合間を縫いながら、どんどん前方を目指していく。その間、何名か知っているリュフリスがいた気がしたが、目に入らなければ声も届かなかった。実際、声をかけられていたかどうかもわからないが、それくらい、必死に前へと向かった。
そして、ようやく最前線に出た時には、森すら抜けて広い高原であった。討伐隊の最前を飛び越えていたようで、前方には大きな穴の前にシオンが立っている。あの穴は、棲家の上方に見えた、日の光が差し込んでいた穴であろう。討伐隊のメンバーを追い抜いていく中で、いつの間にか棲家の洞窟の上に出ていたらしい。
「ナナパラフ……」
シオンの表情は、ナナパラフが突然現れた驚きであったか再開できた喜びであったか。実際は、フィロメナを止めることができなかったお前が今更何の用か、といったところであろう。シオンは二の句を継がなかったが、胸中はナナパラフにも痛いほどわかった。
「あれが、ニンゲン……」
ナナパラフに追いついたクランツが呟く。流石にこの場面で、無闇に燥いだりはしなかった。
「やはり来ましたね、ナナパラフ。それにクランツ」
背後からかけられた声に、ナナパラフとクランツは指し示したかのように同時に振り返る。フィロメナとジュノー、カンジェーンにメルカド、そしてルルミル。作戦の肝となるメンバーが勢揃いしていた。
ナナパラフは額から流れる汗を拭い、緊張を隠すように余裕の笑みを浮かべる。
「もう作戦開始してるかと思ったけど、随分遅かったね。間に合ってよかった」
「エルドリクスが出てくれば、直ぐにでも始めますよ。もっとも、その内の一体は既にあそこにいるようですが」
フィロメナが指しているのはシオンのことであろう。フィロメナにとってエルドリクスの定義は自分に逆らう者であり、その個々などは視野に入れていない。そんな分類などは大切ではなくて、自分の過去を喋る可能性のあるニンゲンを排したいのであろうということが、今ならばよくわかる。
「見損なったよ、フィロメナ」
「ナナパラフ、エリーエル様になんて口を……」
フィロメナの前に、ジュノーが出てくる。ナナパラフが一瞥すると、ジュノーは立ち止まった。が、その表情にはナナパラフに対する気後れなどはなかった。
「立場はわかるよ、ジュノー隊長。隊長はやらなくちゃいけないことをしているだけだって。自分の心を殺しているだけだって、わかっている。でも、だからといってこれは本当にやらなくちゃいけないことなの?」
「当たり前だ。族長がやると言ったことに従う。それが、組織というものだ。討伐隊の隊長という職務だ」
何と立派な隊長であろうか。族長の言うことに従い、部下たちに適切な指示を出す。これほど優秀な隊長は、今のリュフリスにはそうそういないであろう。少なくとも、ナナパラフにはジュノー以上の隊長になれるという驕りや、なろうという気概は一切なかった。
その上で、ずっとこれだけは言いたかったという胸の中に溜め込んでいた想いを、大きく息を吸ったナナパラフは、届かなかったと言い訳などさせないほど、喉を潰す勢いで叫ぶ。
「そんなもん、知るかぁ!」
「なっ……!」
ジュノーの表情が、ようやく驚愕へと変わる。ナナパラフはしてやったりという気持ちになり、思わずニヤけ、顔を引き攣らせたジュノーにさらに追撃する。
「族長がどうとか、組織がどうとか、五月蝿いんだよ! 煩わしいんだよ、めんどくさい! そんなことより、隊長がどうしたいかじゃないの!? 隊長になったら、全部自分を殺して指示に従わないといけないの!?」
「そうだ。それが、討伐隊の隊長になるということだと、前にも……」
「だったら、族長が隊員を殺すような作戦を命令しても、それに従うっていうの!? それも仕方がないことだって言うの!?」
「そんな極端な話はしていない!」
「私はしてるんだよ! 今がそうなんだよ!」
「この作戦は、ちゃんと勝てる見込みのある作戦だ! だからこそ、今こうしてここに大勢のリュフリスが……!」
「その勝てる見込みは、その大勢のリュフリスに犠牲を出さないものなの!? この棲家には、今までにないほど多くのダンゴムシやニンゲンがいるのに!」
「犠牲の可能性のない作戦などない!」
「それを限りなくゼロにするのが隊長の仕事でしょ! 何をホイホイと「族長が言ったから〜」って、そんなのが言い訳になるか!」
「こいつ……!」
ナナパラフとジュノーは、互いに息を切らす。エルドリクスの討伐の時にもこんなに疲れたことはないのに、自分の想いを伝えるということは何と体力のいることなのか。
顔を顰めるフィロメナの前に、今度はカンジェーンが歩み出る。怪訝な顔をするジュノーの横に立ち、授業をするかのような優雅な立ち姿で、カンジェーンは大きく息を吸った。
「私は、この作戦を良しとは思っていません!」
「カンジェーン教長!」
ジュノーがカンジェーンを睨みつける。その視線に対し、カンジェーンがより鋭い視線で返すと、ジュノーはバツが悪そうに視線を逸らした。
カンジェーンは続ける。
「食事としていただいているエルドリクスを掃討することに、大した意味はないと私は考えています。さらにこの作戦に仮入隊のリュフリスまで駆り出そうとするなど、言語道断。私がこの作戦に同行したのは、意味のない指示があった際には止めるためです」
あまりにも堂々とした面構えで、カンジェーンは口述する。その後ろでフィロメナがどのような表情をしているかなど、一切気にせずに。
「ナナパラフさん。あなたは、あそこにいるニンゲンと話をしたのでしょう? その上で、この作戦は意味がないと言うのですね」
「そうだよ!」
「ならば、私はあなたの考えを支持します」
カンジェーンの宣言に、討伐隊のメンバーが騒つく。精なる森のナンバー2といって良いカンジェーンが、長い期間をかけてきた作戦を否定したのだ。各々思うところは出てくるだろう。それでも全く動じないカンジェーンは、ナナパラフに微笑みかけた。
「自分で考え、自分で行動し、自分の意見を言葉にする。あなたがそこまでしたのに、同じ意見の私が黙っている訳にはいきません。本当に、成長しましたね。ナナパラフ」
「カンジェーン教長……!」
ナナパラフがカンジェーンに一歩近づこうとした瞬間。
「はいはい、良かったですね」
ジュッという音が、ナナパラフの足元から聞こえてくる。見ると、一歩先の草は焦げ、地面は細く抉れていた。全く、見えないうちに。
「何勝手に赦されようとしてるんですか、ナナ先輩」
ジュノーとカンジェーンの前に立ち、指先をナナパラフの足元に向けるリュフリス。ルルミルが冷めた視線をナナパラフへと送っている。
「ルルミル……?」
ルルミルの見た目は、あまりにも変わっていた。目の下には深いクマができ、唇は荒れ、かなり痩せていた。綺麗で美しかった羽はボロボロになり、髪の毛もボサボサで声は掠れていた。一目で、ルルミルかどうか悩むくらいに、記憶の中と同じ見た目をしていなかった。
ナナパラフの呟きはルルミルの耳に届かず、見下すような視線をしたまま鼻で笑った後、軽快に振り返った。
「隊長も教長も、ダメじゃないですか。隊長、討伐隊の隊長がどうとか、作戦の犠牲がどうとか、そんなことはどうでもいいんですよ。教長、何をヌルいこと言ってるんですか。ダメじゃないですか、あんな適当な、売り言葉に買い言葉みたいな言葉に絆されてちゃあ」
ジュノーとカンジェーンの表情が凍っていく。それとは対照的に、フィロメナの口角だけがゆっくりと上がっていく。それに呼応するかのように、ルルミルの表情は狂気的な笑みに変わっていく。
「信じるのは、エリーエル様だけ。それでいいんですよ。変な理屈とか自分の考えとかそんなの要ります? 要りますか? 要らないですよねぇ。そうです、要らないんですよ。エリーエル様の為だけに最善を尽くせばいいんです。それだけなんですよ、必要なことは」
ナナパラフの知っているルルミルではなかった。愛くるしい笑みを浮かべ、天真爛漫な声で話しかけてくれたルルミルはそこにはいなかった。代わりにそこにいたのは、ただ、狂信的といっていいほどの、信奉者であった。
ナナパラフは自分の顔がカッと熱くなったのを感じ、気がついた時には叫び声をあげていた。
「フィロメナ! ルルミルに、あの子に何をした!」
叫ぶナナパラフの足元の地面を、ルルミルのマギマが貫く。
「エリーエル様、でしょ。ナナ先輩。バカは死ななきゃ治らないんですか?」
歯を食いしばってフィロメナを睨みつけるナナパラフと、そんなナナパラフを睨みつけるルルミル。そんな両名を愉悦の表情で眺めながら、フィロメナは口を開く。
「私は何もしていませんよ。ただ、ルルミルに英雄のなんたるかを時間をかけて教え、この作戦におけるルルミルの重要性を時間をかけて説き、心が壊れそうになったルルミルに時間をかけて寄り添っただけです」
「要は、壊して治して、自分が絶対だと思い込ませて……ルルミルは玩具じゃないんだよ、マッチポンプくそ野郎め」
「失礼な。ルルミルがそのことに不満を漏らしましたか? どうしてルルミルがこうなったのか、あなたにわかるのですか? ルルミルがどんな思いでいるのか、あなたにわかりますか? 何もわかっていないあなたに、ルルミルのことをどうこう言う資格はありませんよ」
どれだけ話しても、無駄な相手だとはわかっていた。こちらの言い分を聞くことができるようなリュフリスなら、こんな作戦は最初から始まってすらいないはずであった。そんなことはわかりきっていたナナパラフでも、まさかルルミルをここまで自分の駒として仕上げてくるは考えもしていなかった。
「討伐隊の皆さん、一度下がってください。これからここは、大きな戦場になりうる。出番が来れば指示します」
フィロメナは後ろで構えていたメルカドを始めとする討伐隊員たちに指示を出す。メルカドは訝しげな表情を浮かべながらも、隊列を大きく後ろへと下げた。
隊員たちが声も届かないほどに下がったことを確認したフィロメナは、ルルミルに微笑みかける。
「ルルミル。ナナパラフとあそこにいるエルドリクス……ホ型と名付けましょう。奴らは、私の大願を妨げる邪魔者です。あなたの力で、奴らを始末してください」
「エリーエル様!」
フィロメナの言葉に、ジュノーとカンジェーンは同時に反応する。仲間殺しは重罪。その罪は、実際に手を下したものが負うことになるだろう。今、ルルミルがナナパラフに手をかけて、最後に切り捨てられ泣きを見るのは、やはりルルミルとなる。この命令はそういうことだと、その場にいる誰もが、ルルミルを含めた誰もが一瞬で理解した。
しかしフィロメナは、当たり前のような顔で、当たり前のような声色で、当たり前のような冷めた眼で、ルルミルにその指示を下した。そして、ルルミルの覚悟はその瞬間が来る前には既に決まっていた。
「はい、エリーエル様」
ルルミルは一歩を、ナナパラフへと向ける。かつて共に戦った仲間を、忘れる為に。
♢ ♢ ♢
「エリーエル様! 何を考えているのですか!」
ジュノーがフィロメナに詰め寄る。カンジェーンもジュノーほど声を荒げなかったものの、その心情はジュノーと同等以上のものがあった。
何を熱くなっているのかとでも言いたげな顔で、フィロメナは答える。
「私はただ、この作戦の総司令として、作戦を邪魔する存在を排除する指示を出しただけです。現在の指揮権は私にあります」
「指揮権が誰かなど、どうでもいい! なぜ、ルルミルにナナパラフを始末するような命令を下したのかと訊いているのです! ナナパラフは、私たちの仲間だ!」
討伐隊を除隊になったとは言え、同じリュフリスであり、これまで共に生きてきた仲間であることに何ら変わりはない。牢から出れば今までと同じように生活ができたし、討伐隊への復帰もありえない話ではなかった。クランツが牢の扉を開け、ナナパラフをここへ連れてきたと言うことはわかっているが、それも良くないことだとしても、再び牢へ連れ戻せば良いだけの話である。そもそも理不尽な投獄であったのだ。殺されなければいけないほどのことではない。
熱くなるジュノーに対し、なおも冷めた顔で、さもそれが当然のようにフィロメナは口を開く。
「ナナパラフはエルドリクスの味方をしています。つまり、私たちの敵ということになる。そんな裏切り者を、どうして生かしておく必要がありますか?」
「ナナパラフは戦闘の意思は見せていなかった! あいつは、あくまで話し合いで解決しようとしていたでしょう! 裏切り者なんかでは……」
反論していたジュノーの言葉が、急に止まる。フィロメナの視線が、ルルミルへと向いており、ジュノーのことなど眼中にもなかったからであった。この族長には、何を言っても意味がないのだと。これが本気で正しくて、今目の前にいる者の言っていることは間違っている。そんな者の話を聞く必要など全くないと、そのように思っている眼であると、気付いてしまったから。
こんな者のために、自分は、自分を無理やり納得させてここまできたのか。自分を慕ってくれていた者たち、共に戦ってくれた、戦ってくれている者たちを、生きるか死ぬかの場所にまで連れてきてしまったのか。こんな、自分を慕ってくれた者たちの話を全く聞き入れないリュフリスのために。ジュノーの中に、今更ながら後悔が押し寄せる。
俺は、俺はなんてことを。こんなことになると、わかっていたはずなのに。だから、ナナパラフだけでも逃がそうと思ったはずなのに……。
「フィロメナ。いや、エリーエルと呼んでおこうか」
立ち尽くすジュノーの背後から、声が聞こえる。その声でジュノーは悔恨から引き戻された。それは、命令ではなく自らの意思でここにきた数少ないリュフリスの一名、クランツの声であった。
「なんですか、クランツ。私のことを裏切っておきながら、何か言いたいことでも?」
フィロメナはルルミルから視線を外さずにクランツの声に応じる。それに対しクランツはフィロメナを見ながらも、感情は何ら含まれていない視線を向けた。
「別に、あんたに言いたいことはあまりないんだけどね。好き勝手やって、ナナを牢に入れるなんて愚行をしたことに対する文句と、ようやく化けの皮が剥がれて面白いものを見せてくれたお礼を言いたいくらいなもので」
クランツの安い挑発を、フィロメナは鼻で笑い飛ばす。
「それでは、ありがたく受け取っておきましょう。それだけなら、どうぞあなたのお好きなナナパラフの手助けでもしてきてください。ナナパラフでは、ルルミルには勝てませんよ。あなたがいたとしても、ですが」
「いやいや、僕があんたに話しかけた本題は別だよ。そうでもなければ、あんたみたいなのに話しかける道理はないからね」
これまでクランツの真面目な部分しか見て来なかったジュノーとカンジェーンは驚く。クランツが族長と仲良し、なんてことを思ってはいなかったが、露骨な嫌悪を見たのは初めてであった。
唯一驚きの表情を浮かべないフィロメナの視線は動かない。
「本題とは? 早く終わらせてください」
「単刀直入に聞くけど、カロンをはじめとした、『聖なる森の大戦』であんた側についたリュフリスたちを殺した理由は何?」
フィロメナの視線が、ようやくクランツへと向く。まだ、余裕は消えない。
「なんのことでしょうか?」
「精なる森の大戦で、エルは死んだ。それはニンゲンたちの言い分や歴史書を見ても間違いないんだろう。問題は、エルドリクスのせいで死んだのか、ニンゲンたちが言っていたようにあんたがその首を取ったのか。とりあえず後者ってことで話を進めるけど、エルを殺した後に、族長になるはずだったカロンが死んで、結果的にあんたが2代目の族長になった」
「えぇ。後者ではなく前者ではありますが、カロンが死んで私が族長になったということに間違いはありません。タイミングの問題ではありますが」
「問題は、この死因が何なのかってことだよ。カロンだけじゃなく、この辺りの世代は全員早死にしている。あんたがやたら長生きなのとは対照的にね。今、あんたの次に長く生きているカンジェーン教長ですら、大戦の時代にはまだ生まれてない」
「不運が続いただけですよ。それに、私が手を下す理由がありません」
「ここからは僕の推測だけど」
「それまでもあなたの推測にすぎません」
お互いに、相手の話を聞こうとしているものではない。会話ではない、相手をただ言い伏せるためだけのやり取り。相手がどう否定しようが関係ない。ジュノーたちが口を挟むことはできなかった。
「あんたは、エルに英雄であって欲しいんじゃないか。精なる森を取り戻した英雄。だけど、エルドリクスを殲滅まではできずエルドリクスの手によって命を落とした英雄。そう、不完全な英雄だ」
よく回るフィロメナの口が閉じられる。
「エルは森では知らない者のいない英雄だよ。あんたがせっせと広めたからね。精なる森を取り戻したという話も、何度も聞いた。だけど、エルドリクスを倒し切ることができなかった。英雄からの宿題という程で、あんたがエルドリクスを殲滅する作戦を先導できたら。もしこの作戦でエルドリクスを本当に全て倒すことができれば。エルを超える英雄になれる。そんなところかな?」
クランツの言うことには、根拠はない。フィロメナには、どうとでも逃げる道はある。精なる森の大戦でエルが死んだのはエルドリクスの攻撃を受けて致命傷を負ったから。カロンや他の共に戦ったリュフリスたちが死んでいったのは、病や戦いの中で天命を全うする瞬間が訪れたから。自分は、偶々そのタイミングに出会わなかったからここまで生きて来れたのだと。何とでも言うことはでき、ジュノーやカンジェーンもそう言ったことを言うのだろうと思っていた。
「そう考えると、なぜカロンたちを殺さなければいけなかったのかも見えてくるよね。エルが死んだ理由を知っているリュフリスがいてはいけない。カロンたちもエル殺しには協力をしていたのだろうけど、それを知るものがうっかり口を滑らせないとは限らない。そうなれば、エルは精なる森を取り戻した英雄ではなくなり、自分はエル殺しの裏切り者になる。そうなったら、自分が英雄になることができない。だから始末しなければいけなかったんじゃない? それを知るカロンたちも、ニンゲンの生き残りも、ニンゲンに会って話を聞いてしまったナナも。歴史書からカロンが族長だった時期を消した理由はわからないから、エルの次の族長を決めるために争っていて、その時にカロンを殺した。でも争っていたなんて書いたらカロン殺しを疑われるから、カロンが族長だった期間を空白にしたとか、そんなところでいいかな。別に大事じゃないしね」
普段なら「バカなことを言うもんじゃない」と叱るジュノーも、普段なら「私は授業でそのようなことを教えた覚えはありません」と呆れるカンジェーンも、今回ばかりは口に出さなかった。そんなバカなと思いながらも、もしかするとがどうしても頭の中から消えなかった。
「そう、大事なのは、伝説の英雄ができなかったことをするということなんだ。そのためには共生なんてされる訳にはいかない。共生ができてしまったら、和平なんて達成してしまったら。あんたがやることがなくなってしまうからね。それならエルはエルドリクスにやられたことにしてエルドリクスを掃討する。それが一番手っ取り早い英雄になる方法だ。実行は隊員に任せればいいからね。あとは逸材が揃うのを待つだけ。それが今だった。この推測はどう? どれだけ合ってる?」
フィロメナは黙ってクランツを見つめ、目を細めたかと思うと、笑い声を喉の奥からクツクツと漏らし始めた。
「お見事ですね、クランツ。弱いあなたを放っておいたところで、何もできないと思っていましたが、とんだ思い違いでした」
悪役のように、高らかに笑いなどはしなかった。しかし、どこかネジが外れたかのように、フィロメナは声を殺しながら笑い続けた。クランツは全く笑みなど見せずに問いかける。
「認めるってことだね?」
「良いでしょう。すっとぼけることもできますが、ここまで見てきたかのように言われるのであれば、それも無粋というものです」
フィロメナの言葉に、ジュノーとカンジェーンは信じられないものを見る目を向ける。クランツの言うことを認めるということが、どういうことか自分は理解できていないのだろうかと熟慮し直した。その結果としてやはり、目の前の族長が怪物にしか見えなくなってしまった。
「ですが、だからと言って何が変わりますか?」
「何が変わるかって? あんたは英雄になれないし、エルだって英雄じゃ……」
「違います。それは違いますよ、クランツ」
フィロメナは右の手を広げる。左の手は胸の前に持っていき、まるで演説をするかのように。
「英雄とは、書物に名を残したから英雄なのではありません。誰かの心に残り、その存在を讃え、伝え続ける。そうして伝え続けれられる存在こそ、英雄と呼ばれるのです」
フィロメナは話すのが気持ちいいと言わんばかりの、笑みを作り。
「精なる森をエルドリクスから取り戻したエルの存在は全てのリュフリスに伝わり、その功績を讃えられ続けている。ルルミルも、未知のエルドリクスに襲われながらも、その実力を遺憾なく発揮し、今では皆が信頼を置く存在となった。これからも、その功績は消えることなく伝え続けられるでしょう。エルもルルミルも、まさに理想とする英雄。そして、英雄エルが殲滅することができなかったエルドリクスを、英雄ルルミルを率いて全て滅ぼす。これをできるリュフリスが、どうして英雄と呼ばれないことがありましょうか」
結局、ルルミルを英雄として仕立て上げたのは、自分の功績に箔をつけるため。ただ、それだけのためにルルミルは苦しみ悩みながら、今、仲間に牙を向けている。
クランツは、素直に思った。
「なんて、憐れな」
「なに?」
クランツの言葉にフィロメナの眉がピクリと反応する。
「憐れだって言ったんだよ。それだけのために多くの仲間に手をかけて、自分で必死こいてバカみたいな承認欲求のためだけに種を色々蒔いて。しかも、その種は実らないよ。これだけやったあんたの作戦は、上手くはいかない。これを憐れって言わないでなんて言うんだ、フィロメナ」
クランツの目には、憤りや不満はなかった。ただ、自分たちの族長が、もっとも長く生きてきたリュフリスの頂点にまでなった者の成れの果てがこれかと思うと、その存在の虚しさに悲しみ憐れむことしかできなかった。もう、この存在を皆が憧れる族長、エリーエルの名で呼ぶことはできない。
フィロメナは、初めて苛立った表情をする。
「憐れ、憐れですか。なるほど。確かに、あなたごときに全て明かされたことについては、憐れと言われても仕方がないかもしれませんね。ですが、種は実ります」
「いいや、実らないね。断言しても良いよ。何よりあんたの言っていたことには、まだ間違いがある」
「間違い?」
クランツは、それはさぞ嫌味な笑顔だっただろうと自分でも思うほどに、これまで溜め込んだ嫌悪の感情を全て乗せることが出来たかと思うほどに、バカにするように笑った。
「ナナは、ルルミルには負けないよ」
♢ ♢ ♢
ルルミルは一歩を、ナナパラフへと向ける。かつて共に戦った仲間を、忘れる為に。
その一歩は、ルルミルにとってどれだけ重い一歩であっただろうか。いくらルルミルがフィロメナを信奉し、その命令に従うとはいえ、かつての仲間に手をかけることに抵抗がないわけではない。というのは、ナナパラフの考えすぎであろうか。少なくとも、ナナパラフがそうであって欲しいと願っていることだけは確かである。
「ナナ先輩。そこをどけば、後から消してあげますよ」
ルルミルの掠れ声を聞き、そう願うのはこちらだけかもしれない。そんな悲しさが胸に押し寄せる。
ナナパラフは後ろにいるシオンに振り返って声をかけた。
「シオン! 手は出さないでね!」
「もちろん。わたしに手を出せるほどの実力があるならば、あの日貴方に助けられたりなどはしなかっただろうからね」
ニンゲンは何と弱い生き物だろうか。しかし、戦う強さがなかったからこそ、危険が迫れば逃げることが出来たからこそ、ここまで生き延びることができたのだと思うと、ある意味それで良かったと、それがニンゲンの強さだと言えるのかもしれない。
ニンゲン側から仕掛けることはない。そしてルルミルさえ止めれば、この作戦のリュフリス側の核はなくなり、無益な争いが生まれることはない。
だが、ルルミルを止めることも容易ではない。既に戦う覚悟の出来ている者を、全く対照的な戦うつもりのない立場で止める為には、何かしらルルミルを止めるための答えを用意しなくてはいけない。
ルルミルに、今の道ではない別の道を指し示さなくてはいけない。
ナナパラフは改めてルルミルへと向かう。ルルミルはマギマをナナパラフへと放った。向き直ったナナパラフの頬を掠める。
「余所見できるなんて余裕ですね、ナナ先輩。それとも、私もしかして舐められてます?」
後少し、ほんの少し逸れていたら、頭を貫かれていたかもしれない。血が流れ出る右頬を左手の親指で拭い、ひとつ息を吐いた。
「ルルミル! 私は、ルルミルと戦うつもりはない!」
ナナパラフの言葉に、ルルミルは怒りの感情を露わにする。乾いた唇から血が出るほどに噛み締める。
「そうやって……! そうやってこっちを悪者にして、話だけでも聞いてもらおうなんて考えてるなら無駄ですよ! エリーエル様はナナ先輩を始末しろと言ったんです! エリーエル様が! だから、私は……!」
「やりなよ」
叫び狂うルルミルを宥めようとは考えず、ただ 真っ直ぐに今のルルミルと向き合う。それが、ナナパラフの答えであった。ルルミルは戸惑う。
急ぎすぎてはいけない。ルルミルをパニックにさせてはいけない。だが、まどろっこしいことをしても効果はない。真っ直ぐ、ただ真っ直ぐに。本気の気持ちで向き合う。
「ルルミルが本当にエルドリクスを殲滅したくてフィロメナに力を貸しているなら、何も言わない。ルルミルが本当にエルドリクスを殲滅した方がいいと思ってここにいるなら、何も言わないよ。だけど、違うでしょ? ルルミルは、本当はそんなことがしたいんじゃない。何をわかったようなことをって思うかもしれないけれど、わかるんだよ」
「勝手なことを……! 言うなぁ!」
ルルミルがマギマを放つ。マギマはルルミルの左肩を掠めた。一瞬熱を感じるが、何とか痛みに耐えてルルミルから視線を離さない。
「ほら、当てなよ。当たらないのは、迷っているからじゃないの? フィロメナに従うだけでいいのかって。当たらないのは、怖いからじゃないの? このままフィロメナに従っていたら、自由になれないんじゃないかって」
今の一撃が外れたことでナナパラフは確信をした。確かに、ルルミルのマギマは躱すことができる速さじゃない。ルルミルに実力で超えられたと言うのは本当だろう。実際、戦っていたら大負けしていたに違いない。
だからこそ、わかる。
ルルミルが本気で狙っていれば、動かない的であるナナパラフに当たらないわけがない。
ルルミルは止めて欲しいのではないか。本当はこんなことやりたくないのではないか。それらはナナパラフの勝手な想像ではあったが、そんな都合のいい考えに自信を持てるくらいに、付き合いは長いつもりであった。
ナナパラフはルルミルに向かって、歩み始める。
「ルルミル。辛かったのは私のせいだよね。私が、ルルミルだけ置いて勝手に出て行ったから。この作戦を嫌がりながらも隊長として一緒にやっていたら、ルルミルの支えになれたかもしれない。でも、私はそうはしなかった」
「違う! ナナ先輩がいなくても私は、英雄として……!」
ルルミルはマギマを放つ。ナナパラフの右の脇腹を掠める。まだ、動ける。
「英雄なんて、本当は呼ばれたくなかったよね。ルルミルは、皆と仲良くやりたかっただけなんだよね」
「違う! 英雄が戦うのに仲間なんて……」
ルルミルはマギマを放つ。ナナパラフの左腿を掠める。まだ、動ける。
「辛い時にフィロメナが声をかけてくれて。気にかけてくれて。自分のことを思ってくれているのはフィロメナだけだと思ったんだよね。だから、フィロメナのために頑張らないとって思ったんだよね」
「違う! 私は、英雄として最初からエリーエル様を……!」
ルルミルはマギマを放つ。ナナパラフの右側に外れる。まだ、動ける。
「私が話してるのは、英雄なんかじゃない! ルルミル! ルルミルに話してるんだよ!」
ルルミルの身体がビクリ、と跳ねる。ナナパラフはあちこちから血が流れる体でルルミルの目の前に立つ。
「ヌルいこと言ったって良いじゃん。絆されたって良いじゃん。ルルミルも隊長に言ったでしょ。隊長がどうとかどうでも良いって。もちろん、ルルミルの言いたかった意味が違うってのはわかってる。でも、奇しくも同じことを言うよ。英雄がどうとか、そんなことどーだっていいんだよ」
ルルミルは俯く。だが、ナナパラフは言葉を止めない。
「ルルミルはどうしたいの? 他の誰かの為じゃなくていい。ううん、それがルルミルの理想なら誰かの為でも構わない。ただ、ルルミルの言葉で教えて欲しい」
ナナパラフの真っ直ぐな、正直な言葉に、ルルミルは直ぐには答えない。しかし、ナナパラフはルルミルから視線を外さないし、次の言葉を投げかけない。ルルミルは応えてくれると、信じているから。
そして長くはない沈黙を破ったのは、地面に雫が落ちる音であった。
「どうして……」
ルルミルは呟く。
「どうして、もっと早く来てくれなかったんですか」
声は力弱く、しかし、伝えることに迷いはない。そんな、真っ直ぐな声でルルミルは思いを吐き出す。
「ナナ先輩が、そうやって私に声をかけてくれていたら。私のことを心配してくれていたら! どうして、画を見つけたことを教えてくれなかったんですか。どうして、私が英雄なんて呼ばれている時に気にするなって言ってくれなかったんですか。どうして、勝手に外の世界へ行っちゃうんですか! 私を置いて、どこかへ行っちゃうんですか!」
ルルミルは感情を激しくぶつける。それを、ナナパラフは真っ直ぐに受け止めた。これは、フィロメナに言われたことでも、言うように命令されたことでもない、ルルミルの言葉であったから。自分に向けられた、受け止めなければいけない言葉であったから。
「今更そんなことを言うくらいなら、最初から言ってくれれば良かったのに! それなら、私はナナ先輩について行ったのに! ついて行くことも、させてくれなかったくせに!」
ルルミルの目から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちる。その涙に、感情全てが含まれるようであった。
「ごめんね、ルルミル。私は、ルルミルを置いて行ったわけじゃない。ただ、巻き込みたくなかっただけなんだ。クランツは巻き込んじゃったけど、でも、大切な討伐隊の後輩で、一緒に戦った仲間で、大好きな友達だからこそ、危ないかもしれない橋を一緒に渡るわけにはいかなかったんだよ」
ナナパラフは正直に答える。ルルミルだけではない。他の誰であっても、ナナパラフは誘わなかったであろう。全て、自分の勝手な行いだったからこそ。
「でも、でもね、ルルミル。私は、外の世界を知って、もっと知りたくなって、誰かと、分かち合いたいと思った。クランツとか、ジュノー隊長とか、カンジェーン教長とか、メルカドさんやリマナ、ピッチラたちとも。その中には、ルルミルもいるんだよ」
ルルミルは顔を上げる。なんとも、涙で崩れて酷い顔をしている。それだけの想いを、本気でぶつけてくれたことに、ナナパラフは嬉しくなった。
「ほら、ルルミル。私の手をとって。私を信じなくても良い、好きなものを信じて良い。でも、この手をとってくれるなら、私はルルミルをどこへだって連れて行ける。こんなところだけじゃない。どこへだって」
ナナパラフは、真っ直ぐにルルミルへと手を伸ばす。
涙と汗でぐしゃぐしゃになったルルミルは、ナナパラフの手を見て、顔を見て、もう一度手を見つめた。
「私は、私は。ナナ先輩に……」
ルルミルは虚ろだった目に少しの光を宿す。フィロメナを信じるしかなかった、好きだったものに裏切られたと思い、踠き、辛かったあの日々が必要だったかはわからない。だが、今ここでナナパラフの手をとることができるなら。一緒に行くことができるなら。
そのことに、後悔なんか、しない。
「ナナ先輩、私を……!」
ルルミルの手が、ナナパラフへと伸びる。ナナパラフはルルミルにわからない程度にホッと息を吐き、高速で動いていたかのように溢れ出している血液を落ち着けようと大きく息を吸った。
ルルミルの手をナナパラフの手が掴もうとする。これで、ようやく。ようやく、わかりあう第一歩が。
「ルルミル撃ちなさい」
歩めると、ナナパラフは信じていた。
冷酷なまでの、その一言が耳に届くまでは。
♦︎ ♦︎ ♦︎
ナナパラフの目の前で涙と汗に濡れていたルルミルが、真っ赤な血で濡れ直す。
ナナパラフの手へと伸びていたはずの指先は、人差し指だけを立ててナナパラフの体、左胸へと向き直していた。
何が起こったのかわからないという表情をしているルルミルを中心に、視界の端にはフィロメナを取り押さえるジュノーとクランツ、取り押さえられながらも高らかに笑うフィロメナ、こちらへと駆け寄るカンジェーンと何名かのリュフリス。それらを目に映しながら、ルルミル以上に何が起こったかわからぬまま、ナナパラフは地に伏した。
痛みというより、熱さとでもいうべきものを胸に感じながら、一気に重くなる瞼に耐えられず、一瞬の思考の後、その意識は途絶えた。
あれ、シロツメの季って、こんなに寒かったっけ。と、そんなどうでもいい思考をしたことを後悔する間もなく。
あの時もっと考えることあったなぁと後悔することになるのは、暖かくなり花々と共に眼を覚ました、そんな陽気な気候のとある時であった。
終章 サクノの季
ナナパラフの目覚めは、花が咲き誇り始めるサクノの季であった。
寒さに震えながらも、降り積もるシロコナで一面銀世界になる森を見ることも好きであったナナパラフにとって、シロツメの季を全く楽しむことなく牢と治療ベッドで過ごしたことは、受け入れ難いことであった。
しかしナナパラフが過ごした治療ベッド、もとい医療隊の活動部屋は大樹の中にあることもあり、訓練のついで等でリュフリス達が寄ってくれるのは嬉しくもあった。
その訪れたリュフリスの中でも、特段早く来たクランツから、ナナパラフは今回の顛末を聞いた。
ルルミルが最後に放ったマギマは、ナナパラフの左胸に穴を開けたらしい。傷は縫われているが、傷をつなぎ合わせ塞いだであろう痕が痛々しくもあった。マギマを受けたのが正面からで、リュフリスの心臓と言える背中にマギマを受けなかったのは、不幸中の幸いであったという。
自分の話はそこそこに、ナナパラフは他のリュフリスたちの経過もクランツに聞いた。
まずは、フィロメナ。フィロメナは今回の作戦の主犯として、そして精なる森の大戦の主犯としてシオン達に引き渡されることになった。ナナパラフを撃つようにルルミルに指示したこと、エルをはじめとした多くのリュフリスを手にかけたこと、歴史を捻じ曲げ都合の良いように集落に伝えていたこともあり、フィロメナを庇うものはいなかった。シオンからも、精なる森から追いやられ今回掃討までされかけたということで、フィロメナだけは許しておけないとカンジェーンたちに伝えられたらしい。誰もが慕う英雄になりたかった怪物は、誰からも嘆かれることなく消えていく。それはフィロメナにとっては何よりの報いであろう。その後、どのような処遇を受けたのかは、リュフリスたちは誰も知る由はない。
そんなフィロメナに対する処遇に意を唱えたのは、ジュノーだけであった。それはフィロメナを守るためのものではなく、掃討作戦を知った上で止めなかった自分の落ち度、討伐に赴いた隊を代表する者として、フィロメナだけではなく自分にも処罰を下すように嘆願したのだ。それをもって、今後リュフリスたちには責任を追及しないようにという考えであったが、これはシオンが棄却した。曰く、怨みがあるのは森から追いやり友の志を蔑ろにしたことに対してであり、種族に対するものではない。現在の居場所も居心地が良いため森の返還も必要なく、リュフリスには今後何ら要求しないということであった。ジュノーはこれに対して条件が良すぎると不信感を抱いたが、それだけエルがニンゲンに与えた影響が大きかったと、解釈することで決着となった。
族長の後釜には、カンジェーンが就くこととなった。カンジェーンもジュノー同様、森の子どもたちに誤った知識を教えたとして深く反省し、今後は族長として正しい知識を子どもたちに教えるとシオンに誓った。シオンはカンジェーンの顔をしばらく眺め、ふぅと息を吐くと、手を差し出した。その手を不思議そうに見つめるカンジェーンに対してシオンはその意味を教えた。カンジェーンがシオンの手をとったことで、エルドリクス掃討作戦は終止符を打ったのだと言う。
作戦が終わった後、変わったことと変わらなかったことがある。変わらなかったことの代表例で言えば、エルドリクスの討伐が続いているということ。これまでもその命を奪い、食していたという文化は変えようがなく、また以前にシオンが自然の常と言ったように、ニンゲンもそのことを咎めはしなかった。ただ、これまで以上に命に感謝し必要な分の討伐しかしないという体制は徹底されるのだろうと思う。
また、メルカドは氷売りへと戻った。あくまで討伐隊に戻ったのは今回限りであり、やりたい事を辞める気はないと。友であり隊長でもあるジュノーは複雑な表情をしたらしいが、深くは追求しなかったらしい。
変わったことで言えば。カンジェーンが族長になったこと。そして、教長にはクランツが就いたこと。牢の見張り番を辞めたクランツは、教長を自ら志願した。カンジェーンは最初から後釜にはクランツをと考えていたようで、既に授業を任せきっている。それでもやり切るのだから、クランツの知識量には改めて驚いたそうだ。
討伐隊で言えば、シュナはリマナが務めることになった。実力ではナナパラフやルルミルに劣るものの、ピッチラをはじめとした周囲からの助けを得ながら、協力して討伐に臨んでいる。ナナパラフやルルミルよりも良いシュナになるだろうとは、ジュノーの談である。
そして、ルルミルはというと、あれ以来家に籠り、最低限の生活以外では姿を見せていないという。多くのリュフリスが洗脳状態であったルルミルを庇った。ナナパラフを死なせてはルルミルが苦しむと判断し、治療に努め、実際ナナパラフは生還した。それでも、ルルミルは家から出てきて何かをしようという気配がなかった。ルルミルがいつか自分で自分を許す時がくることを信じるしかないと、新教長は判断した。
そして、ナナパラフも変わらなくてはいけない。
それを思い出したのは、クランツの一言であった。
「ナナは、何の仕事をするつもりなの?」
生まれて60季の同期たちは、自分の進路を決めた後であった。
♢ ♢ ♢
ナナパラフの傷が癒え、快調になった後。
多くの荷物を抱えたナナパラフはルルミルの家を訪れていた。
誰かがいる気配すら感じることができない扉に向かい、一度深呼吸をしてから声をかける。
「ルルミル、聞こえてると思って話すよ」
返事はない。だが、それでもいい。
「わかってると思うけど、私、ルルミルのこと恨んでないよ。ルルミルはただ命令に従っただけで。その事を責めるなんて、誰にもできっこない」
ルルミルはシュナとして命令に従っただけで何も悪いことはしていない。そんなことは誰もがずっとわかっている。その事を責めているのは、ルルミルだけ。
「ルルミルに怒られたから今度はちゃんと伝えておくね。私、外の世界に行くことにした。今度はちゃんと、正規の手順で。クランツやジュノー隊長、カンジェーン教……族長にも話して、皆から認められた上で、もう一度外の世界を知る旅に出たい。またいつか帰ってくるから、その時にルルミルが行きたいって思ったら、ついてきてよ」
外の世界を見て、知らないことがこれでもかというほど多くてワクワクした。もっと見たいと思った。そして今は、この世界の広さをもっと広めたいと思っている。だからこそ、ナナパラフは外の世界へ行く事を決めた。
「それじゃあね、ルルミル。また会おう」
ナナパラフは扉にそっと手を触れ、名残惜しむように離した。これで、別れは済んだ。次に会うのは、いつになるだろうか。その時は、来るのだろうか。
「……またね」
ぼそりと呟いて、ナナパラフは歩き出す。ルルミルの家はしんと静まったまま。だが、伝わったはずだとナナパラフは信じて、顔を上げ。
「……あ」
早速、次に会う時が来てしまった。果物や野菜を大量に詰めた荷物を両手に抱えたルルミルと。
「ルルミル!? え、なんで!? 家に籠ってるんじゃなかったの!?」
「……いや、買い物とかには出ますよ、さすがに。最近は外に出る回数も増やしてますし。ナナ先輩に会わなかっただけで」
つまり、誰かがいる気配を感じることができなかったわけではなく、本当に誰もいなかっただけの話であったわけであり、返事があるわけもなかった。
「え……どこから聞いてた?」
ナナパラフは恐る恐る訊ねる。
「深呼吸してたところからです」
「最初からじゃん! そんな気はしてたけど!」
こういう時に、何も聞いていないということはあまりないらしい。お約束というやつだ。
ルルミルはクスクスと笑う。ナナパラフがよく知っている、朗らかなルルミルの笑顔であった。ルルミルが素直に笑っているのを見るのが久しぶりな気がして、綺麗だった羽は元に戻りつつあることも確認し、ナナパラフは意図せずとも綻んだ。
「じゃあ、思っていた形とは違ったけど、伝えたいことは伝わってたみたいだし、私はもう行くね。ルルミルも元気で」
ナナパラフはルルミルに背を向け歩き出す。今更、新しく伝えなければいけないこともない。最初から聞いていたのなら、もう一度言わなくていいならいっそ好都合であった。
「ナナ先輩!」
しかし、ルルミルはそうではなかった。まだ、目が覚めたナナパラフに、何も伝えることができていなかった。
「謝らせてください。ナナ先輩に手をかけたことはもちろんですが、それよりも、私自身が弱かったこと。ナナ先輩から託されたシュナを、全うできなかったこと」
違う。ルルミルが手をかけたんじゃない。フィロメナのせいなんだよ。
違う。ルルミルは強かった。だからフィロメナに目をつけられて、利用されたんだよ。
違う。シュナは自分がやりたいことのために、押し付けただけ。ルルミルは私にもっと恨み言を言ってもいいんだよ。
ルルミルが何度も言われたであろう言葉たちを、ナナパラフは言うことができなかった。それらの言葉をナナパラフが言ったとしても、ルルミルには響かないとわかっていたから。
「だから私は、強くなります。誰かの言うことに従うだけじゃない。自分で考えて、自分のことは自分で決めます。だから、ナナ先輩に言われたからってついて行ったりしません」
ナナパラフはルルミルへと振り返る。満面の笑みで、ルルミルは力強く宣言した。
「私が考えて、私が決めて、そうしてナナ先輩と同じ道を歩みたいってなったら。私自身が、私自身の選択で外の世界へ行きます。その時まで、『ナナパラフの選択は失敗だった』なんて言われないでくださいね!」
あぁ、本当に何と強いんだろう。ルルミルは、やはり弱くなんてない。励ましではなく、本当にそう思った。もう、心配はいらないだろう。
ナナパラフはルルミルに負けない笑顔で返す。
「当然! じゃあね! ルルミル!」
「はい! ナナ先輩!」
自分も、強くならないと。リュフリスの今後を自分の意思で担うであろう、自慢の後輩に負けないために。
♢ ♢ ♢
「で? 見送りに来てくれたのが、クランツとシオンだけなのは寂しくない?」
ナナパラフは大荷物を抱えながら不満を漏らす。ニンゲンとダンゴムシの棲家へと通じていた薮は整備され、今ではしっかりと道ができている。木々のトンネルのようになったニンゲンの棲家への道は、討伐隊の随行を前提とするが、人気のスポットとなっていた。
クランツが半笑いでナナパラフに応えた。
「どうせまた会えるから見送りはいらないって言ってたのはナナでしょ」
「そうだけどさぁ。そうは言っても見送るのが筋ってもんでしょ。リュフリスで初めての冒険家誕生の瞬間だよ」
先ほどまで半笑いだったクランツは、笑みは崩さずに、しかし真剣で優しい声色で言う。
「リュフリスは元々外の世界を旅してた種族でしょ。それに、これからは"初めてこれをやった"ってリュフリスは増えていくし、僕が教えて、増やしていく。僕は、外の世界を中に広めていく」
クランツが教長ならば、そして森の未来を護ることに努めたカンジェーンが族長ならば、きっとそうなるだろう。冒険に出たいというリュフリスは、いつかきっと珍しくなくなる。
自信をもった顔をするクランツの肩をシオンが組む。
「僕が、じゃなくて、僕たちが、だろう? わたしも当然、協力させてもらうとも」
エルドリクス掃討作戦が終わった後、シオンをはじめとしたニンゲンとの交流が少しずつではあるが始まっていた。以前のように一緒に暮らして共生していくというわけではなく、定期的にお互いの棲家へ赴き、意見を交わしたり子どもたちと交流したりしようということが、ナナパラフが眠っている間に決まったことである。
そして、その交流の中で、早速クランツとシオンは意気投合した。相手の話を聞くことが大好きなクランツと、話すことが大好きなシオンであるため、お互い需要を満たしたのであろう。集落間の交流とは関係なく会うことすらあるらしい。
「シオン、ありがとうね。遠いところを見送りに来てくれて」
「なに。礼を言うのはわたしの方さ」
シオンはクランツに組んでいた肩を離し、深々と頭を下げる。
「言うのが遅くなった。わたしたちへの被害を止めてくれて、ありがとう。フィロメナを止めるという約束を果たしてくれて、本当にありがとう」
あまりにまっすぐな感謝に、ナナパラフは照れを隠すように左上に視線を逸らす。
「いや、まぁ、確かにね。誰にでもできることではないし、私の活躍は大きいけど」
「まーた調子に乗る」
クランツに冷ややかな視線を向けられる。この感じも、随分と久しぶりに感じてしまう。
「でも、私だけじゃどうにもできなかった。皆がいたから、なんとかできたんだって、本当にそう思う」
ナナパラフは自然と手を前に出していた。シオンはポカンとした。
「私も、シオンがいたから私のやりたいことができた。私はクランツとは反対に、外の世界に中の世界のことを教えたい。私たちはここにいるんだって。間違ったことをしたこともあったし、誇れることばかりじゃないけど、それも含めて私たちの、『精なる森のリュフリス』の歴史だって。今度こそ、正しく私たちの歴史を広く伝えるんだ」
『精なる森のエル』の歴史は、嘘に塗り固められていた。エルはリュフリスを導き、ニンゲンたちとの共存を望み、叶えうる信頼を得た。そしてフィロメナを始めとしたリュフリスの一部が、共存を拒否し、自分たちだけの生活を得た。それらの歴史を、無くしてしまってはいけない。正しく、間違いなく伝えなければいけない。それが、ナナパラフのやりたいことであった。
シオンはナナパラフの手を取り、軽く二、三度振る。
「期待しているよ。エルの分もね」
その短い言葉に、シオンの想いは詰まっていた。ナナパラフは、しっかりと受け取る。
「さて、それじゃあ。行ってきます!」
クランツとシオンに手を振り、別れを告げた。誰もが、どこか晴れやかな顔での暇乞いであった。
ナナパラフは空を見上げる。木々の隙間からは、旅立ちを祝福するかのように葉漏れ日が集まっていた。
精なる森のリュフリス