映画『君と私』レビュー
本作は韓国で起きた大型旅客船セウォル号の転覆事故を題材にした映画です。この事故で犠牲になった299人のうち、250人は修学旅行で乗船していた檀園高校の学生でした。本作の主人公であるセミとハウンは当該高校に通う二年生。修学旅行に行く前日に二人の間で起きた出来事が本編として描かれます。
ハウンのことが大好きなセミは彼女に関する不吉な夢を見てしまい、学校を早退してハウンの元へと急ぎます。ハウンは自転車に轢かれる事故にあって足を骨折し、現在入院中。修学旅行にも行かない予定でした。
不在だった病室でハウンの鞄にお揃いのキーホルダーを付けようとしたセミは偶然にも彼女の手帳の中身を見てしまい、焦ります。その頁にはセミが知らない名前の人物と「キスをしたい」と望むハウンの言葉がはっきりと記されていたからです。
ただでさえ不吉な夢を見て不安いっぱいだったセミは病室に戻ってきたハウンに詰め寄り、こう懇願します。
「一緒に修学旅行に行こう!」
ギブスで固めた足を引き摺ってどうにか歩ける程度にしか足が回復していないハウンは、もちろん無茶なその提案を断ります。でもセミは一向に引きません。夢の中でハウンは一人で死んでいた。セミの周りで修学旅行に行かないのはハウンひとり。このままだと死んじゃう。たとえそうならなくても、手帳に書かれた他の誰かにハウンを取られちゃう!そんなの絶対に嫌!!とハウンの腕を引っ張り続けます。
その熱量に根負けしたハウンが「分かった、分かったから」とばかりに修学旅行に行く段取りを立て始める。彼女が先ず取り掛かったのが旅行費の捻出でした。ハウンの家は借金まみれで、入院費の捻出にも難儀するような状態にあったからです。実はその他にもハウンには〈修学旅行に行けない事情〉が山ほどあって、その一つひとつが外出先で明らかになっていくというのが本作の基本的な流れとなります。
この話の流れに内在するアンビバレントな解釈の可能性は『君と私』を傑作に押し上げる重要なポイントです。すなわちセウォル号の事故を知る私たち観客にとって、ハウンが修学旅行に行かないのはある意味で救いとなります。けれどセミが想い、セミに想われるハウンの物語として見れば、彼女が修学旅行に行かない/行けないのは決して救いにならない。劇中に描かれるセミの痛切な願いや、ハウンがその胸に隠すものを知ればその思いは深まるばかりです。
神の視点に立つ私たち観客「だからこそ」抱いてしまうこの不安定な感覚は、けれど一見するとセウォル号の事故とは関係のない場面のあちこちに忍び込み、スクリーンに映るありとあらゆるカットをダイヤモンド並みに磨き上げる文脈として機能します。①セミとハウンの話を中核に②セウォル号の事故に関する様々なことが間接的に語られる構造はあまりにも見事で、約2時間の上映時間があっという間に溶けていきます。
本作の良心といえる映像美については、映像監督を務められたDQMさんがすべては「彼女」が見る夢であるというニュアンスを本編に取り入れる狙いで、光の入り方をほぼ全カットにわたって計算したそうです。ガラスのように繊細で、浅く思えた底に注がれる汗や涙がきらめいて仕方ないその画作りは多層な物語に耐える強度を備えたまま、スクリーンの向こう側で交わされる言葉の数々を鎮魂に域にまで高めていきます。OHHYUK(オ・ヒョク)さんの劇伴も最後までこれに伴走し、第二の台詞としてエモーショナルな仕事を成し遂げていました。
論理的な言葉で、非論理的な領域を感じさせるのが詩の本領ならば本作が果たしている物語の多層性はまさに詩的描写の極みに位置するものと言えるでしょう。俳優でもあるチョ・ヒョンチョル監督が描いたストーリーボードもパンフレットに載っていましたが、コマ割りごとのイメージとして潤沢。リズムも完璧。韓国国内で名だたる賞を受賞しているのも納得です。大絶賛。
「事故の記憶が全員の中に留まらなくてもいい。ただ、春が来るたびに心を痛める人がいることを思い出して欲しい。」
同じくパンフレットの本扉に短く添えられたこの一文は、映画『君と私』がセウォル号の遭難事故を文化的に消費する立場からかけ離れた場所で成立する作品であることを如実に語ります。意地悪く捉えればドラマ要素を取り入れるだけの仕掛けのように思えるセミとハウンの恋愛描写についても、チョ・ヒョンチョル監督がはっきりと答えられていました。
「僕にとって二人の恋愛は自然なもの。それだけです」
多分どの作品にもつけることはないだろうと思っていた☆5の満点評価を本作には躊躇わずに行います。紛うことなき傑作です。都内だとホワイトシネクイントなどで絶賛公開中。映画好きは特にお見逃しなく。後悔必至案件。急ぎ劇場へと足をお運びください。
映画『君と私』レビュー