百合の君(83)
夜が明けて来た。浪親は一人、庭に立っていた。もう何から悔やめばいいのか分からない。このままでは穂乃も珊瑚も殺してしまう、そう思って始めた戦で珊瑚を殺しそうになってしまった。
浪親は、穂乃の言葉を思い出した。穂乃は、野に降り手習いの師匠になろうと言った。それは正しかった。政とは、悪い事を斥け、善い事を成そうとする作用だ。したがって、排斥されようとする者との対立を避けて通れない。政では、戦をなくすことはできないのだ。
私はもう遅い、浪親は思った。しかし、珊瑚ならまだ間に合う。
浪親は、見捨てようとした我が子を呼んだ。
赤い目が、父親の顔を見ようともせず伏せている。これなのだ、と浪親は思った。喜林義郎と同じ赤い瞳。これを見ると憎しみで我を忘れそうになる。なぜなのだ、なぜこの子は、父親からその瞳を受け継いだのだ。穂乃は真っ黒な目をしているというのに。もし穂乃と同じ瞳なら、私はこの子を愛せただろうに。
「珊瑚」
呼びかけに、嫡子は身じろぎもしなかった。
「野に降り、手習い師匠になる気はないか?」
ようやくその肩がぴくりと揺れた。
「父上は、そんなに私が信用できないのですか?」
父親はその誤解に驚いた。
「そんなことはない」
「ではなぜそんなことを仰せになるのですか? 私が跡継ぎとして相応しくないとお考えだからではないのですか?」
血のにじんだようなその瞳を見て、浪親は説得をあきらめた。自分もこの手を血で汚して、やっと気が付いたのだ。この若者に、言葉だけで理解されるはずがない。
「昔、帝がおっしゃった」
浪親は、自分の心とは違うことを言った。
「人は皆、自分が正しいと思わねば何事も成せぬが、自分が正しいと思った時には、その道を誤っているとな」
珊瑚は目を伏せた。
「ならば私は、偉大な二人の父の、正義の歪みなのでしょうか」
珊瑚が否定されたがっていることには、すぐに気付いた。しかし、今さら慰めなどしたところで、埋まるものでもない。
「お前だけではない。人が生きると言う事は、そういうことなのだ」
珊瑚は何も言わなかった。春の暁が朝を拒んでいるかのように、時間はゆっくりと流れていた。
「政がしたいか?」
浪親の言葉は、もはや心から遥かに離れたところにあった。
「出海の子ですから、当然です」
「ならばお前を真津太の守護に任ずる。今後は領民のために尽くすがよい」
笑顔を作ろうとして、果たせなかった。「ははっ」短く言い終えると、子はすぐに去っていった。
これでいいのだ、浪親は思った。自分はいずれ喜林に敗れ討たれるだろう。珊瑚は真津太の一大名として、その命を全うすればよい。喜林に逆らいさえしなければ、不自由のない人生を送ることができよう。
その考えが狂気から出た妄想なのか、浪親にはもう区別がつかなかった。とにかく妻子は守らねばならない。それが最初に穂乃とした約束だ。そのためには、勝てぬ戦でもせねばならない。
春の暁は朝に負け、すっかり明るくなっていた。浪親は、珊瑚の去った方を見た。ここまで嫌われれば、仇を討とうなどとは思うまい。
百合の君(83)