バグパッチ
ーバグバグバグバグバグバグバグバグバグー
『バグ
を修正しました』
「俺、買っちゃったよ! バグパッチ!」
とある平凡な高校の教室の中。朝のホームルーム前。教室の片隅。スマートフォンを触っていた寺嶋慎太は聞こえてきた言葉に操作する指を止める。
「まじ!? かなり高かったんじゃね!?」
「いやー、高いのは結構高いけどさ。手を出せない値段じゃないし、やっぱ快適になるわ、これ!」
クラスの中心で話す男子生徒二人組の声を、会話の輪に入っていなかった寺嶋は耳だけを傾けて聞いていた。
誰かが聞いていることは気にしていない二人は、さらに会話を進める。
「パソコンにプログラムを入れたらバグを直していってくれて、最終的にバグが全部無くなるんだっけ?」
「パソコンだけじゃねーよ! スマホにも入れれるし、バグってほどじゃない微妙な使いづらいところまで直してくれるんだぜ!」
「なんだよ、それ! どういう仕組みだよ!」
今、高校生の間で、いや、SNSをやっている人間の間で密かに流行しているプログラムが『バグパッチ』である。
バグパッチは寺嶋の同級生が言っていたとおり、パソコンやスマートフォンのバグを自動で修正してくれる修正パッチで、その効果範囲はプログラムを導入した端末に限定されているが、その端末に入っているあらゆるアプリやソフトウェアにも影響する。
値段こそ少し高いが、高校生でもバイトを頑張れば買える程度の値段。そういった面もあり、バグパッチを買う人が増加傾向にあるのだ。
だが、いまだに爆発的に増えていない。それには理由がある。
「しかし、誰が開発したんだろうな、バグパッチ」
「絶対俺たちじゃ話も合わないような頭のいい人なんだろうな」
そう、バグパッチの開発者は誰か明かされていないのである。販売も個人サイトから通販で販売しているだけ。そのサイトにも開発者の名前は明かされていない。怪しすぎるという理由で販売本数が伸びていないのだ。
それでも頼もうと考える人間は、発注書をメールで送る。発送連絡の後に商品が届き、購入者の端末でダウンロードが確認され次第振り込みというシステムであり、商品が届かない、イタズラである、不具合が発生したなどの場合には支払い不要のため、最悪届かなくてもいいかという気持ちで注文する人間さえいるほどである。
そのようなシステムでありながら、ダウンロードが完了したにもかかわらず振り込みをしていない、代金を踏み倒したという人間はいない。
「なぁ、寺嶋」
考え事をしていた寺嶋に、先ほどまでバグパッチの話をしていた、購入した方の男子生徒が声をかける。寺嶋は、一瞬盗み聞きがバレたのかと挙動不審になりながらも、声をなんとか絞り出した。
「な、なに?」
「バグパッチって知ってる? あれ作ったの、どんな人だと思う?」
「さ、さぁ…」
「おい、急に話しかけたから寺嶋くん困ってるだろ。悪いな」
「べ、べつに…」
寺嶋の返事を聞く前に、二人は自分たちの会話に戻ってしまった。クラスメイトでクラスに馴染んでいる二人ということ以外の情報をあまりもっていない寺嶋としては、早々に切り上げてくれて助かったとも思った。これ以上話しかけられないように、イヤホンを耳にはめて朝礼まで音楽を聞いているふりをする。
寺嶋はこの学校に馴染んでいるとは言い難かった。元々勉強が好きというわけではなかったが、中学生時代に好きなことばかりをしていたツケが受験のタイミングでやってきたため、志望校に受かることができなかった。そして、枠が空いていたこの高校になんとか滑り込んだ。
さらに元々根明というわけではなかったため、中学生時代に友だちと遊んでばかりいたために勉強ができなかった、という人間が多いこの学校の校風と合わなかったのは必然であり、合わないと感じ萎縮した心には部活に入って仲間と汗を流すなり芸術センスを磨くなりという余裕はなかった。中学生時代の数少ない友人も同じ高校とはならなかったため、いまだに寺嶋と仲が良いという同級生はいない。
だが、寺嶋はそんなことを気にしたことはあまりなかった。もちろん、友だちと一緒に仲良く喋って、部活仲間と一緒に何かに打ち込み、彼女と一緒に帰るという青春に、一切憧れがないかといえば嘘になる。しかし、その生活を送ることができなかったからといって将来後悔に満ちた人生を送るとも思っていなかった。
「はーい、それじゃホームルーム始めるぞ」
担任の先生が教室に入ってくる。先生が言った言葉はイヤホンのせいで寺嶋にはわからなかったが、ホームルームが始まるということは日々の流れでわかる。勉強はできずとも不真面目というほどではない。イヤホンを外して真面目に前を向く。
こんな日々、俺の人生の1ページには入る隙間がない。寺嶋は、本気でそう思っていた。
「ただいま」
その日の授業を終えて学校から帰った寺嶋は、どうせ家族は仕事でいないと分かっていながらも癖で帰宅の挨拶をし、手を洗いうがいをする。弁当箱をサッと洗うと自分の部屋に戻った。カバンをベッドに投げ、制服を脱ぎ捨てて部屋着になり、いつも座っている椅子に腰掛ける。
寺嶋にとって必需品であるパソコンの電源を点け、起動するまでの間に携帯を触り、自分の口座を見る。ここまでの流れは毎日のように繰り返していることだった。
「ったく、振り込まれてないじゃないか」
寺嶋は自分の口座の金額が昨日から変わっていないのを確認すると、思わず舌打ちをする。
そうこうしているうちに起動したパソコンのキーボード上で指を滑らせ、メール画面を開いた。
「お振込がまだのようですが、いつお支払いいただけますか…と」
苛立ちを抑えながらキーボードを叩き、送信ボタンを押す。そしてそのまま、受信ボックスを開いた。
「お、さらにいっぱい来ているな。…バグパッチ、開発して正解だった」
受信していたメールの多くには、「バグパッチ購入申請書」が添付されていた。
そう、バグパッチの開発者は寺嶋慎太である。
エンジニアとして働く父と母に昔から教えてもらって蓄えた知識、さらに一般家庭には余りあるハイスペックなサーバーを与えられた寺嶋は、いつしかシステム開発のようなものをするようになっていた。
それは高校生の域を超えているなどというレベルではなく、実力だけでいうならば今からでも様々な会社から引く手数多と言っても過言ではないほどである。
自身の青春をこのバグパッチに捧げてきた。とはいえ、このシプログラムを思いつき、実現し、販売し、売り上げを手にした時には、自分でもうまくいき過ぎて何かの間違いではないかと考えたほどだった。
このバグパッチさえあれば、高校生活がどんなに灰色であったとしても、今後一生お金に困ることはないと寺嶋は自信を持っている。こんなに素晴らしいプログラムは今後自分が生きている間に生まれることはないだろう。なにせ、全てのバグを直してくれるのだ。まさに、最強のプログラムだ。
「さてと。それじゃ、さっきの末振り込み者は、どうしてやろうかな」
受信ボックスを何度か更新し、先ほどメールを送った人間から返信がないことを確認する。後払いシステムにしている都合上、こういったところで弊害が出ることは多々あった。
「普段はニートなんだし、メールを見てないこともないだろ」
寺嶋は画面を操作し、とあるデータを添付して送り付ける。
「貴方からのお支払いが確認できないこと、また、幾度とメールを送信しているにもかかわらず、お返事がないことから、振り込みの意思がないと判断いたします。このままお振込がないようでしたら、添付したデータをネット上に公開させていただくことも検討させていただきます。お支払い期日は本日中とさせていただきますので、よろしくお願いいたします」
メールに添付した内容は、相手の個人情報。バグパッチにはとあるシステムが組み込まれており、それはダウンロードした相手のパソコンに入っている個人情報を寺嶋の端末から確認できるということだ。
もちろん、犯罪。ウイルスもいいところである。だが、寺嶋は振り込みがない相手からしか情報をとらないということで、相手も悪いのだからこちらが何かをしても問題ないという自らの正義の元でこのシステムを組み込んだ。
そして、こういった支払いを渋ったりする輩は、大抵脅せばすぐに払うか、それでも無視する程度の知能しかないと寺嶋は考えている。実際、寺嶋は無視した相手の個人情報をネット上に拡散したことがある。そしてその結果、ネットリンチにあった人間を除けば、振り込みがないという現象は発生していないのである。
そして今回も、寺嶋の狙い通りすぐに返信が送られてきた。
「すぐに払います…さいしょからそうしておけっての」
「さてと。今日の処理も大方片付いたかな」
時刻は夜8時過ぎ。受信ボックスに届いていたバグパッチの注文依頼を全て片付けた時、ようやく寺嶋は自身の空腹に気がついた。
学校から帰ってきた寺嶋がすぐに部屋に篭り、勉強もせずにいたとしても誰からも何も言われないのは、両親が仕事で家にいない日が多いことが原因である。
毎食の食事代は帰ってきた時に置いていくし、休みがあって家にいれば話もするため、特に不満があるわけではなかった。しかし、それでも寺嶋の生活習慣が乱れていくのは自然であった。
何か外食でもしにいくか。と考えメール画面を閉じようとした時、新たに届いていた一通のメールに気がついた。
「今日はやたら多いな。えーと…マキハラ開発…? って、あの大手の?」
マキハラ開発は、現在のソフトウェア開発等を主としている会社の中ではトップレベルに有名な企業である。昔から存在したというわけではなく、創設者であり代表取締役の槇原宏がわずか数年で大手にまで引き上げた。
寺嶋もマキハラ開発の作ったソフトで使っているものは数多く、自分がバグパッチを作るときに参考にした部分も多い。
そのような会社から、直々に連絡が来たのだ。告白をされた時のように舞い上がってしまうのも仕方のないことであった。
「なになに…。バグパッチに興味があるから、一回会ってくれってことか」
本当は寺嶋が読んだ以上にビジネス用語が使われており、国語が得意ではない寺嶋にとっては読みにくいものであったが、解読した結果を自分にわかりやすく意訳する。そして、そのお誘いに対する回答はもちろん「イエス」であった。
自分が参考にしていた会社から、自分が作ったシステムに興味があると言われ、実際に会ってみたいと誘われる。これほどまでに、寺嶋の心を突き動かす要因はなかった。
「いつでも大丈夫ですが、もし可能なら、次の土曜日でいかがでしょうか…私の住んでいる所は〇〇です…と」
自分のメールにおかしいところがないか3度は確認し、少し震えながら送信ボタンを押す。その後すぐに来た返事には、土曜日の12時にという内容、そして待ち合わせ先の住所と連絡先が記載されていた。
すぐに寺嶋は住所を検索する。すると、行ったことは当然ないがランチですら高級であり、セレブ御用達として有名なレストランがヒットした。
「こんなところ、どんな格好をして行けばいいんだよ…」
とりあえず、制服でいいものかと思い、頭の中がずっと焦りと急な緊張で回っておらず、空腹だった腹が満たされていたことに気がつく。一度深呼吸をし、そして、抑えきれない興奮のもと、歓喜の雄叫びを上げる。
これは、大チャンスだ。ここで大企業の目に止まれば、卒業後すぐに就職ということもあるかもしれない。むしろ、バグパッチを超がつくほどの高値で買い取りたいという話もあるかもしれない。そうなったら、一生働かなくて済んだりするのだろうか。
そんな、気楽な未来予想図を描き、そしてその予想は、土曜日に概ね当たっていたと喜ぶことになる。
そして、この時のことを寺嶋は一生後悔することになった。
土曜日。
約束の時間の5分前に、寺嶋は約束の店にたどり着く。店員からは怪しい人を見るかのような目で見られたが、何とか「マキハラ開発の方と約束なんですけど」と絞り出し、どこかに確認された後に、席へと案内される。
やはり、制服は場違いだっただろうかと思いながら店員についていくと、案内された席には見たことのある顔の人間が座っていた。
「やぁ、君が、寺嶋くんか。初めまして」
「も、もしかして、槇原宏…さん!?」
そこに座っていたのは、テレビで何度も見たことがあった人間であった。バグパッチを作る時に何度もネットで検索し、何度も見た顔。マキハラ開発の代表取締役本人、槇原宏であった。
「知っていてもらって光栄だよ。はじめまして。マキハラ開発の代表取締役、槇原宏です」
槇原は慣れた手つきで名刺を渡してくる。一方寺嶋は、慣れない手つきで名刺を受け取り、それをマジマジと眺めた。
「寺嶋くんは随分と若いんだね、正直、驚いたよ。まさかバグパッチを作った人が、学生だったとはね」
槇原は寺嶋の格好を上から下に眺め、にこやかに笑う。会社の営業のような人が来ると思っていた寺嶋は、予期せぬ人物がいたことで、立ち竦んでしまった。
それをすぐに察知した槇原は、自分の対面の席を掌で指す。
「どうぞ、座ってくれ。遠慮はしなくていい」
「は、はい! 失礼します!」
ガチガチに固まったまま何とか席に座る。代表取締役ともなると、こういう店を利用しないといけないのかと、先ほどまで食べたことのないものが食べれるかもと浮かれていた寺嶋は恥ずかしい気持ちになった。
「折角、バグパッチという素晴らしいものを開発した方とお会いするのだから、今日は奮発させてもらうよ。どうぞ、好きなものを注文してくれ」
そんな寺嶋の気持ちを察したのかどうか。槇原はメニューを寺嶋に見せる。だが、既に頭の容量が一杯一杯の寺嶋はメニューに何が書いてあるのか、全くわからなかった。
「え、えっと…」
「あぁ、こういう店は高校生だと不慣れだよね。気が利かなくて悪かった。食べたいものがわからないなら、こちらでオススメを適当に注文させていただくけど」
「そ、それでお願いします」
寺嶋は渡りに船にホッとしながら、注文を槇原に任せる。店員がすぐにメニューを聞きに席にかけより、槇原は呪文のような料理名を注文する。
それらの注文を店員が聞き取り去った後、すぐに槇原は話し始めた。
「実は、バグパッチのことは以前から聞いていてね。我が社でも話題になっていたんだよ」
天下のマキハラ開発で話題になっていた。その言葉だけで緊張していた寺嶋からは自然に笑顔が溢れた。
「他の会社の人間も、噂は聞いているみたいだけどね。どうも、個人が開発しているにしては仕様が理解できないと、怪しんでいるみたいなんだ。我が社の社員も最初はそういった動きだったけど、私が会社の者に注文させたんだよ。これは、絶対に他社に先を越されてはいけないシステムだ。とね」
他社の怪しむ動きはもっともであろう、と寺嶋は思った。なにせ、身分も何もわからない人間が、どうやって作ったかも公開していないプログラム。普通に考えたら、乗っ取りなどを企んで作ったウイルスだろう。と慎重になるのは当然である。
「そして、バグパッチを使った結果、私は思ったよ。これを作った人は天才だ。我々にはこれは一生作り出すことができない、とね」
日本トップレベル、いや、世界で見てもトップレベルの企業だと言われるマキハラ開発の天才、槇原宏が言う天才という言葉に、寺嶋はさらに舞い上がる。自分はわかってはいたが、とんでもないものを生み出してしまったのではないか。
槇原の顔は、少年のように輝いて見えた。まるで、面白いおもちゃを見つけた時のような、そんな笑顔を。そしてそれは、寺嶋も同様であっま。
「そう考えたから、この前メールをさせてもらったというわけだよ。私が直接メールをし、直接君と話したいと考えた。それこそが最大限の誠意だと思うからだ。そして、その上でさせてもらう、こちらからの提案はこうだ」
その言葉は寺嶋にとって人生で最も忘れられない言葉となる。
「我が社の力となってほしい。一緒にバグパッチをさらに進化させて、世界で覇権を獲るんだ」
寺嶋の目は見開き、口は半開きになり、言葉は音にならない程度にもれる。
まだ高校生の自分が、世界の覇権を獲れる。その発言は他の人間から発されていれば、聞き流していたかもしれない。だが、目の前にいるのは実際に世界で戦う人間だ。何度も自分が参考にしてきた人間だ。そして、その人間が自分の力が必要だと言ってくれているのだ。
迷う余地は、寺嶋にはなかった。
「俺でよければ、協力させてください」
寺嶋の言葉に、槇原は安心したような笑顔を見せる。槇原もまた、高校生という自分よりも歳下の人間に対して緊張していたのかもしれないと、寺嶋はこの時ようやく相手のことを見ることができた。
「協力させてもらうのはこちらの方だよ。よろしく頼む、寺嶋くん」
その後の話も、バグパッチの話ばかりだった。
槇原の人の良さにすっかり緊張が解けた寺嶋は、料理が来ても、バグパッチをどのようにして作ったのか、どういうプログラムを使ったのか、他の人間は知らないようなオプションがついていることなど、槇原に話をした。槇原は寺嶋の言葉を遮ることなく頷きながら、時に質問をして、時間を過ごした。
寺嶋からすれば、自分の話をここまでわかってくれる人間は両親以外にはいなかった。その両親ですらわからない領域に自分はいるのだと思ってからは、特に周りに話ができる人間はいなかった。高校生活ではおおよそ送ることのできなかった青春を感じた。そして、大きな満足を得た。
この時間がずっと続けばいい。最初緊張していたのが嘘のように、寺嶋は楽しかった。
しかし、そんな夢のような時間も終わりを迎える。
「あぁ、もうこんな時間か。すまない、本当は今日一日を君との話に充てたかったが、この後会議が入っていてね」
「いえ、こちらこそ話してばかりですみません」
自分の前の席の料理が全然減っていないことに気づいた寺嶋は、急いで残りを食べた。皿に入っている料理の量が元々少なかったため、そこまで時間はかからなかった。
「いや、非常に楽しい時間だったよ。勉強になった。今日はこれで帰らせてもらうが、またメールでもいいから、どんな仕様なのかを教えてくれ。話しきれていない部分もあるだろうしね。こちらも、契約書などはまたメールさせてもらうよ。契約金の話もまたするが、期待しておいてくれ」
槇原は立ちあがろうとした。今しかないと思った寺島は、ポケットに手を突っ込む。
「それなんですけど。槇原さん、これを」
寺嶋は、槇原にUSBを差し出す。受け取った槇原は、少し首を傾げた。
「これは?」
「バグパッチのソフトと、仕様書…って言っていいレベルのものじゃないですけど、どんなものかってのをまとめたものです」
寺嶋は今日の日が良い日であった時のために、前もって準備をしていた。もし良い話であった場合は、できる限り協力しようと、マキハラ開発の力になろうと槇原から提案される前から考えていた。そして、その希望は当たっていたのだ。自分の準備の良さに我ながら感心する。
「なるほど。話が早くて助かるよ。それじゃ、これは預からせてもらうね」
「はい、ご連絡お待ちしています」
槇原は会計をカードで済ませ、寺嶋と一緒に外に出て、入り口で別れる。少し歩いたところで槇原は黒い車に乗りこみ、寺嶋の横を通過した。
今までにない経験、満ち足りた時間だった。メールをもらった時には大企業だし自分の利益になるだろうからという理由で協力するつもりだったが、槇原と話しているうちに、この人のために協力したいと思わされていた。そのような魅力やオーラが槇原にはあった。
だが、寺嶋はそれでも良いと思った。自分のことを認めてくれて、自分の作ったプログラムを認めてくれた。それだけで、十分だった。
後のやりとりはメールになる。帰ったら早速今日のお礼も兼ねて、メールして今後の話をしよう。帰り道も寺嶋は今までにないほどに上機嫌だった。
そして、マキハラ開発から返事が来たのは、それから二ヶ月ほど後のことだった。
とある日曜日。すっかり日課となってしまった、マキハラ開発からのメールが来ていないか確認した日の翌日朝。
リビングにおり、スマートフォンでニュースを確認した寺嶋の目に、とある記事が飛び込んできた。
『マキハラ開発。最強のデバッグシステム"バグパッチ"の開発者であることを正式発表。今後はさらなる展開を検討』
頭が回らない。何が書いてあるかパッと見で読み解くことができず、何度も読み返してようやく書いてある内容を理解しだした。そして、書いてある内容がおおよそ納得はできないものであることにも。
待て。
待て待て。
待て待て待て待て待て待て。
そんなわけがないと思いながら、記事本文を開く。タイトルだけを見たら、まるでマキハラ開発が自分たちで開発したと言っているようじゃないか。
だが、記事のタイトルだけではなく、本文を見てもそのように言っているようにしか書いていなかった。マキハラ開発の代表取締役、槇原宏が、自社で開発したシステムを開発元を隠しながら発売し、テストを行った結果、一定の成果が得られたため発表したのだと。
「それを作ったのは俺だろ…。どこかにそのことは…」
だが、寺嶋の名前は一切出てこない。それどころか、高校生の文字すら全く出てこない徹底ぶりだった。
慌ててテレビをつける。号外として放送されていたニュースでは、まさにマキハラ開発がとんでもないシステムを作り出した。デバッグ作業が不要になり、人件費の削減にもつながると褒め称えるような話をしていた。
「なんだよ、これ…なんだよ、これ!」
寺嶋は慌てて自分の部屋に戻り、パソコンを立ち上げる。そして、マキハラ開発に向けてメールを送信した。
「今日のニュース見ました。あれではまるで、マキハラ開発が作ったように見えるんですが、こちらとの協力はどうなったのでしょうか。まだお返事を一度もいただけていないのですが」
作成を終えると同時にメールを送信する。しかし、やはりメールの返信はありそうにない。意識せずとも舌打ちが漏れる。
「そうだ、名刺!」
槇原と話をしたあの日、寺嶋は確かに名刺を受け取っていた。その机の引き出しから引っ張り出し、代表電話にかける。
しばらくコールがあった後、電話がつながった。女性オペレーターの声が聞こえる。
〈はい、マキハラ開発でございます〉
「あの、代表取締役の槇原宏に繋いでほしいんですけど! 俺は、寺嶋慎太です!」
〈…少々お待ちください〉
不審げな声の女性の言葉の後、電話は保留になる。貧乏ゆすりが止まらない寺嶋だったが、それを気にしている余裕もなかった。しばらくの後、保留音が終わり、男性の声が聞こえる。
〈はい、槇原で〉
「槇原さん、寺嶋ですけど!」
槇原の声だとわかった瞬間、寺嶋は荒げた声をあげる。だが、槇原は何一つ気にした様子もなく、明るい声をあげた。
〈あぁ、寺嶋くん! ご無沙汰だね!〉
「ご無沙汰だね、じゃないですよ! こっちのメールに返事もしないかと思えば、今日のニュースはなんですか!」
〈あぁ、見てくれたんだね。返事がなかったのはすまなかったよ。忙しかったものでね〉
「忙しかった?」
寺嶋の聞き返しに、槇原は〈あぁ〉と呟き。
〈バグパッチをマキハラ開発用に改良して、発表するのに手間取ってしまってね。その間、君に構っている暇がなかったんだ〉
当たり前のように、その言葉を口にした。
「…改良…」
〈やはり、君は天才だと思ったよ。仕様を見ても、我々が理解するのに時間がかかってしまった。それを専門にしているプロ集団が、だ。そして、そのプログラムを構築し直し、我々の都合のいいように作り変えるのにも、時間がかかってしまったよ〉
「なんで、そんなことを!」
〈決まっているじゃないか〉
胸が怒りで熱くなり、情緒が安定しない寺嶋とは対照的に、槇原はそれが当たり前のように落ち着き払っていた。
〈こんな素晴らしいシステムは2度と生み出されない。我々には絶対作れないような代物。それを我々のものにできるなら、安いものだよ〉
「我々のものって…! さっきから聞いてれば、好き勝手言いやがって! それは俺が作ったシステムだ!」
槇原の言うことを理解できないまま、だがここで黙ってしまっては二度と連絡が取れない気がして、寺嶋は語気を強める。それでも、槇原は声色を変えない。
〈君のものだって言う証拠があるのかい?〉
「証拠…だと?」
〈たとえば、そうだな。契約書なんかがあればわかりやすいね。君が作ったシステムを我々に引き渡したとなれば、その契約書があると思うのだけれど、どうかな。君の手元の、紙でも電子データでもいいからあれば〉
「契約書は、あんたらが送るからって言って送ってこなかったんだろ!」
〈ということは、ないということだね。これは困った。ちゃんと契約書を交わすまでは勝手に行動してはいけないじゃないか。1つ勉強になったね〉
白々しい態度の槇原に、寺嶋は怒りを覚える。もし、目の前にいれば実際に当たったかはともかく、殴りかかっていたことだろう。
〈それか、君の元にバグパッチの元データがあれば、同じくデータを持つ我々と同じ土俵には立てるかもしれないね〉
槇原の言葉に、寺嶋は返事もせずにパソコンに飛びつく。そして、バグパッチのデータを保管している、いつもの格納フォルダを開き。
「……ない?」
そこにあるはずのデータがないことを確認する。
〈おや、元データもないのかい。なら、言いがかりと言われても仕方ないね〉
そんなはずはない。確かに、ここにあったはずだ。データをうっかり消すなんてこともあり得ないと思いながら、ゴミ箱を開きフォルダを探すが、一向に見つからない。
「あんた、何をした…」
〈君は、甘いね。バグパッチは個人のハードウェアのバグを直す? そんなことでは世界は変わらない。バグなんてものは、全て無くしてしまっていいんだよ〉
槇原の言葉の意味がわからず、寺嶋は黙ってしまう。それに構わず、槇原は話を続けた。
〈バグパッチは、インターネット上に流させてもらったよ。今、インターネット上にはあらゆる問題がある。高校の君にもわかる例えで言うと、そうだな。たとえば、原因不明のエラーでその日の仕事が全く進まないなんてのはよくある話だ。他にも我々が定義したバグだと、間違った情報の拡散。デマ。ネット上でのイジメ。誹謗中傷。これらは普通バグとは言わないけど、修正できれば素晴らしい世界になると思わないかい? こういう話は君の知らないところでも、君のわからない内容でも数えきれないほどある。それら全てをなくすことができるんんだよ、君の作ったバグパッチは〉
「それが、俺のデータが消えたこととどう関係があるんだよ…」
〈我々が改良した点としては、細かくはもっとあるが主に4つ。1つ目はインターネットを介して、誰のどの端末にでも干渉できるということ。君のシステムでは、インターネットへの干渉はしていなかったからね。2つ目は、先ほど話したバグの再定義。世の中の悪とも言えるものをバグと称した、と言っても良いかもしれないね。3つ目はバグ情報を学び、進化すること。これの構築に手間がかかったけど、君の仕様書があったから助かったよ。4つ目は、我々マキハラ開発にとって都合のいいように進化すること〉
寺嶋は、最後の4つ目を聞き、ようやく思い当たった。
「つまり、俺の元データはあんたらにとって都合が悪いから、消えたってことか…」
〈そういうことだね〉
さも、悪いことをしたという考えすらないような槇原の言葉に、寺嶋は膝から崩れ落ちる。もう、自分の元にバグパッチはない。マキハラ開発から取り返す手も、自分が本当の開発者だと主張することもできない。
なんでだ、なんでなんだよ。
「我が社の力になってほしいって言ったじゃないかよ…。あれは、嘘だったのか…」
寺嶋の力ない発言に、槇原は声色をこれもまた変えずに告げ、電話を切った。
「我が社の力になってくれたじゃないか。協力感謝するよ、寺嶋くん」
その後、寺嶋が槇原と話をすることは、金輪際なかった。
ーバグバグバグバグバグバグバグバグバグー
『悪意ある発言
を修正しました』
「マキハラ開発の社長って、なんか人を見下してそうで嫌いなんだよなぁ。でも、あいつなんかやけにSNSでも人気あるし…あれ、俺昨日マキハラ開発貶すような投稿したのに、褒めるような投稿になってる? なんでだ?」
ーバグバグバグバグバグバグバグバグバグー
『デマ情報
を修正しました』
「昨日投稿した異物混入のデマ写真、めっちゃ拡散されてさ! あー、やっぱバズるのってめっちゃ気持ちいいわ! お前も見てみろよ、この投稿なんだけど…あれ、確かに投稿したのに、どこにもない? 消された!? マジかよ!」
ーバグバグバグバグバグバグバグバグバグー
『ゲームのバグ
を修正しました』
「今日の生放送では、このゲームのバグ技を使って無双するってやつなんだけど…なんか、今日はバグ技使えないねー。あれ? 修正された? 案内とかなんもなかったじゃん! やだー、せっかく生放送したのに、皆ごめんねー! 超最悪なんだけど!」
「代表」
マキハラ開発の社内にある槇原が自分の時間を過ごすための一室。そこで新聞を読みコーヒーを飲みながらゆったりとした時間を過ごしていた槇原に、秘書が声をかけた。
槇原は目を細め、苦言を呈する。
「私がここにいるときは、極力声をかけるなと言っていたはずだが」
「申し訳ございません。急ぎの要件がございまして…」
普段は槇原のルールを破ることのない秘書である。何か余程のことがあったのだろうと槇原は新聞を読む手を止めた。
「なにがあった?」
「実は、バグパッチのことでして」
バグパッチは寺嶋から槇原の手に渡った後、バグパッチ専門の部署を作り、そこに管理させていた。その部署はマキハラ開発の中でも選りすぐりのエリートのみを配置し、機能が機能であるために取り扱いには細心の注意を払わせていた。
「バグパッチがどうかしたのか」
「…実は、インターネットに接続していない、我が社の電子レンジにバグパッチの文字が出まして…」
秘書の言葉に、槇原は思わず目を丸くする。
「何を言っている? そんなわけがないだろう」
あくまで、バグパッチはインターネット上にしか使っていない。インターネットに接続可能性のあるものならばともかく、電子レンジなどはインターネットとは全く無関係の代物だ。
「我々もそう思ったのですが…」
秘書はスマートフォンで撮影した電子レンジの液晶部分を撮影した写真を槇原に見せる。1枚目には。
ーバグバグバグバグバグバグバグバグバグー
そして、2枚目には。
『電子レンジの細かな故障
を修正しました』
と記載されていた。
「なんのイタズラだ」
「ですから、我々も訳がわからず…」
槇原は自身のスマートフォンを取り出し、ネットニュースを開こうとする。同様の事案があるかと調べようかと思ったが、その後すぐに電話がかかってきた。
槇原は通話ボタンを押す。
「なんだ、今忙しい」
〈代表! 実は先ほどから、あらゆるものにバグパッチが出ていると連絡が止まらなくて…!〉
電話の主は、オペレーターだった。その電話の向こう側では、問い合わせが殺到しているであろう着信音が鳴り響いている。
槇原はテレビをつける。だが、テレビではバグパッチの話題は一つもやっていなかった。
ーバグバグバグバグバグバグバグバグバグー
『バグパッチの異常性を示す放送
を修正しました』
「とりあえず、電話は確認中と言って切れ! いいな!」
槇原は電話を切ると、今度こそネットニュースを開く。だが、そこにあるのはなんとも平和ボケしたようなニュースばかりだ。
ーバグバグバグバグバグバグバグバグバグー
『バグパッチに関するネットニュース
を修正しました』
槇原は状況を確認するため、部屋の外に出る。社内が明らかに慌ただしい。
「急いで状況を確認しなくては…」
ーバグバグバグバグバグバグバグバグバグー
『コピー機のエラー
を修正しました』
「あれ、このコピー機って誰か修理しました?」
「いや、明日修理が来るよ」
「前まで使えなかったはずなんですけど、今使えますよ」
「えぇ? 何したって直らないからって言うから業者呼んだんだよ」
ーバグバグバグバグバグバグバグバグバグー
『エアコンの温度
を修正しました』
「誰ですか、温度上げたの。私寒いって言ってますよね」
「寒いって言ってるの、山田さんだけなんですよ。誰かが上げたんじゃないですか」
「私が耐えれないんです。上げますから、もう下げないでくださいね」
「…まったく、あの人自己中なんだよなぁ。…あれ? 設定温度変わってない? 山田さん、上げてないじゃん」
ーバグバグバグバグバグバグバグバグバグー
『信号機
を修正しました』
「なんかやたら混んでるな」
「なんかこの先で、信号待ちらしいよ」
「いつもはこんなに混まないのに」
「なんでも、国道側と町道側で信号の時間が一緒くらいになってるんだってさ」
「はぁ? 町道側の信号の時間長くしてどうするんだよ。使う人少ないだろ」
「俺に言われても知らねーよ」
「どうなっているんだ、これは…」
槇原はバグパッチの専門部署で、職員と共に数少ない拾うことができた情報を寄せ集めて、状況を確認した。
バグパッチが作用しているのは、電気が通るもの全て。作用した効果は、その人にとってどうか、などは一切関係なく、また、成長規則に入れていた『マキハラ開発にとって都合のいいように修正』とも別の修正を行なっていた。
「これはまるで、『バグパッチにとって都合のいい修正』じゃないか…!」
マキハラ開発にとって都合のいい修正であれば、わざわざ信号やエアコンを修正するといったことは必要ない。また、マキハラ開発でさえ動向を追えないほどにニュースを修正し、バグパッチの記事を消すというのもマキハラ開発の為とは言えない。まるで、バグパッチが自らの行方を追われないかのような修正のように、槇原は感じた。
「代表!」
「今度はなんだ!」
寺嶋との会話の時には出なかったほどの槇原の大声が、部屋に響く。入ってきた職員は一瞬怯みながらも、報告する。
「今入った情報によると、警察署がパンク状態だそうで…」
「それは、そうなるだろ。信号機が全て平等などとバカなことをやっているんだ。対応に追われるのも無理はない」
「いや、そうではなく…」
言いづらそうに、しかし覚悟を決めたように、職員は告げた。
「全国で、警察に自主する人が増えているそうで…」
「…どういうことなんだ、これは!」
ーバグバグバグバグバグバグバグバグバグー
『悪人の思考
を修正しました』
「頼む、俺を牢屋にぶち込んでくれ!」
「落ち着いてください!」
「いや、俺が先だ! 俺はずっと万引きを繰り返してきたんだ、反省しないといけないんだ!」
「俺なんて強盗だ! 万引きなんてもんじゃねえ!」
「俺は人だって殺した! 捕まらなかったのをいいことに、ぬくぬくと過ごしてきたんだ! 頼む、逮捕してくれ!」
「いいから落ち着いてください!」
「バグパッチは、人間の思考も操っている…?」
槇原の言葉に、職員たちは「まさか!」と反論する。
「そんな、我々は生物ですよ! ネットに繋がるどころか、電気だって…」
「生き物だって電気信号は流れているだろう。外からの刺激を電気の信号に変えているんだ。それをバグパッチが電気と判断して操っている。そう考えないと、説明ができない」
と言ったところで、そう考えても説明はでいないなと顔を顰める。槇原は急いでスマートフォンを取り出し、電話をかけた。
この状況を唯一どうにかできるとしたら、このプログラムを開発したあの高校生しかいない。最後に話をしてから1ヶ月ほど経ちいまだにマキハラ開発のことを許してはいないだろうが、頭を下げてでもどうにかしてもらうしかない。天才と言われた槇原にはそのような手段しか思い至らなかった。
ーバグバグバグバグバグバグバグバグバグー
『バグパッチを止めることができる可能性のある男への通話
を修正しました』
コール音が鳴り続ける。だが、寺嶋が電話に出ることはなかった。槇原は歯を食いしばり通話を切る。
「役に立たない男め…!」
スマートフォンを思わず床に投げつける。ハッと気がついた時には、液晶が割れ、すでに使い物にはならなさそうな惨状となっていた。
だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「いいか、全員よく聞け! このままでは我々もいつバグパッチに乗っ取られるかわから」
ーバグバグバグバグバグバグバグバグバグー
『バグパッチの危険性
を修正しました』
「…いや、世界をより良いものにしてくれるんだ。これで良いのだろうな」
槇原の言葉に、職員たちも頷く。
今までの騒ぎが嘘のように、社内が静かになる。
さっきまで、何を慌てていたのだろうか。バグパッチがこの世界を良くしてくれる。それは、自分の望みであったはずなのに。
世の中には悪いことがいくらでもある。それらが全て無くなってしまえばいい。寺嶋にあのように言った槇原の言葉は本心であった。そのためにバグパッチを使ったのも、また本心。
そして、それらの悪いことをなくすため。世界中の人たちが傷つかないようにするため。人だけではない。動物たちも、自然も、この地球上のすべてが安寧に生きていくために。何がいちばんのバグで、何を修正しなければいけないのか。
世界に最も必要のないものを。
世界を最も傷つけているものを。
世界で最も修正しなければいけないものを。
バグパッチは、そう判断した。
ーバグバグバグバグバグバグバグバグバグー
『人間のいる地球
を修正しました』
バグパッチ