映画『旅と日々』レビュー
本作は漫画家であるつげ義春さんの作品の中から三宅唱監督がチョイスした「海辺の情景」「ほんやら洞のべんさん」を夏編/冬編の二部作に実写化したものです。二部作といってもオムニバス形式ではなく、シム・ウンギョンさん演じる脚本家の李がリンカーの役割を果たします。李が脚本を手掛けた「海辺の情景」の映像が本編と重なってスクリーンに流れた後、李に視点が戻って物語が始まる。彼女が次回作の脚本に苦戦し、スランプに陥って旅に出る。その道中で遭遇する出来事が「ほんやら洞のべんさん」となっています。
つげ義春さんの作品である「海辺の情景」を作った李が、旅を通じてつげ義春さんの作品である「ほんやら洞のべんさん」に入りこんでいく。その構造からして三宅監督が「つげ義春」という作家に向けて並々ならぬ尊敬の念を表明していると言えますが、監督はさらにつげ義春さんの『貧困旅行記』をも参照し、李にカメラを持たせて何気ない風景を撮らせていきます。このアプローチは直接ストーリーには関係しないものの、創作においてつげ義春さんの霊感源になったであろうその眺めを丁寧に切り取り、言葉に言い淀む李の、所在なげな佇まいと一緒に映し出すことで、非言語的な空間へと観客を誘います。
ところで目の前にある物を指差すだけで「それ」という言葉を発するのと同じコミュニケーションが取れてしまう私たち人間は、李が言うとおり、言葉の檻に囚われているといえます。そこから抜け出すことは至難の業です。だって言葉の外に出る、と考えるのにも言葉を用いなければならないのですよ?言葉を覚えた時点で、私たちがそれ以前に戻る可能性は失われたと評しても過言じゃない。言葉の真の恐ろしさがここにあります。
それを承知する三宅監督は、だから非言語的な領域を表現しません。それとなく見えるものをただただ真摯に撮ることだけを心掛けています。その徹底ぶりは凄まじいものです。
というのも、映画『旅と日々』では「そこに何が映っているのか分からない」というショットがむちゃくちゃ多い。その原因も①真っ暗すぎて見えないとか、②遠すぎてよく分からないとか、③意図がよく分からないとか種々様々。実験的な作品を好んで観る私でも「あ、迷子になる」と感じたぐらいですから、その突き放し方は半端なもんじゃありません。つまらない映画を観た時に私は嫌になるぐらい冷静になってしまうのですが、それによく似た感覚を『旅と日々』を観ながら何度も覚えました。
そんな私が縋り付いたのが李の台詞です。皮肉にも、彼女が発する言葉にこそ視界をクリアにする力が宿っていました。
劇中、李は言葉を使って生計を立て、言葉に悩み、独りごちて、出立した旅先で写真を撮るというルーティンを繰り返すのですが、その流れが混乱する私(たち)観客と李をリンクし、意図を窺えないカットを前にしても李のようにただただ黙ってその有り様をじっと観察できるようにしてくれる。それがまた非常に心地よい時間で、次第に『旅と日々』を作る色彩の豊かさや生活音の気持ちよさを単純に楽しめるようになります。その時々の瞬間的な充足感には言葉が追い付かないんですよね。ああ、これか。これなのか、と納得できた頃にはいつも以上に前のめりになって、映画に夢中になる幸せを味わうことができました。
振り返れば、李が表現者であることが重要だったんだと私は考えます。
その悩む先には常に言葉にならない時間が流れていて、そこを無事に潜り抜けた彼女がまたペンを取って書き出す。そうして生まれる言葉が人称性を得たり失ったりして、物語になったり、あるいはただただ辺りを彷徨うだけになったりして立ち止まる時、言葉にならない瞬間が必ず立ち現れる。その時に覚える感動を表現するのか、しないのか。ここが肝要になると直観するのは大学で催されたイベントで学生から質問された時、李は顔を上げて真っ直ぐにこう答えていたからです。
「私には才能がないんだなって」
そう自覚しながら、誰もいない宿にあってひとり新たな脚本を書き始める姿は羨ましくなるぐらいのワクワク感に満ちていました。あれだけ書けない書けないと悩んでいたのに、その全部をすっかり忘れたかのようなニヤニヤ顔でノートを埋めていく。その姿を監督が敬愛するつげ義春さんに重ねるのは当然で、それ以上に膨らんだメッセージを私は丸ごと受け止めて劇場を後にしました。
前述したように本作は人を選ぶところがあります。レビューとして私が付ける評価も数値化すれば決して高くはありません。けれど、むちゃくちゃ愛せる。独り占めしたい。お気に入りすぎて誰にも教えたくない気分を引きずったまま、本レビューを書いた私です。
なので、はっきりと言います。本作に興味がない方は観に行かなくても大丈夫です。その代わりに私(たち)が死ぬまで本作を愛で続けます。誰にも渡しません。
『旅と日々』。最高でした。
映画『旅と日々』レビュー