本の虫と真冬の月
小さな、ささやかな、それでいてはかりしれないほどの幸福。
後輩の詠夏が、公務員採用試験を受験するというので、路仁は、試験までの勉強計画を一緒に作った。
記憶を呼び起こしながらできるだけ詠夏のペースにあわせて勉強につきあうことにしている。自分が受験したころとあまり変わらないが、忘れていることもあり、正直力になれているか自信がない。思い切って専門学校に行った方がいいのではないか。
それでも、泣きそうな顔で彼氏としばらく距離を置いて勉強に集中したいという詠夏の思いを汲んで参考書をめくる。
たまに自信を失い、不安定になった時は、同期の真冬が精神面を支えてくれた。そのことを真冬に相談した時快諾してくれた。
最近、詠夏の勉強にかかりきりで、「もっと早く相談してほしかった」と言われた時、真冬のそのすねたような口調がいつも菩薩のように柔和な微笑を浮かべる彼女らしくなく、また新しい発見をしたような思いだった。
「路仁君は詠夏ちゃんのこと、やっぱり特別なのかなって」
ここは何と答えるべきか。まだ正式に気持ちを伝えていないのだ。好意は伝わっていると思うが、ここで君の方が特別に決まっているとどさくさまぎれに伝えた方がよいだろうか。
しかし、それが真冬の望む伝え方でなかったらと思うと「そんなことないよ」としか言えない。
久しぶりに二人で街に出た。書店、アウトドア物品の店、真冬の好きなネコの雑貨を扱うお店をみてまわる。
特に目的もなくぶらぶらするこの時間は、数年前なら望んでも得られないものだった。
「重たいこと聞いてしまったね。どっちが大事なの?なんて聞くつもりなかったのに。忘れて。」
と言いながら真冬はやはり気持ちを抑えられないのか、目をあわせずに話し続ける。
「路仁君、誰にでも優しいのはいいと思う。そしてそれでいいと言いながら、もやもやする自分が嫌になる。だって、人のためにしていることってわかっているし私も詠夏ちゃんのこと大好きだから。でも、久しぶりに一緒に出掛けているのに、本屋でみるのは参考書ばかり」
「ごめんなさい。僕、だめだね。配慮に欠ける。」
「そうじゃない。そうやって謝ってほしいわけじゃない。人を支えることがだめなんじゃない。なんていうかもっと頼ってほしい。頼られるのが私って思ったらすごくうれしいのに。でも、いつの間にか重たいこと考えてしまう自分がいやになって。こんな矛盾した考えをするのは誰のせいって思ってしまう」
「それはやっぱり許していないってことかな。僕どうしたらいい?詠さんのことはもう話さないよ。そろそろ彼女も一人でやってみるべきだ。ごめんね」
真冬に嫌われたくない一心の路仁の言葉がうれしいようではがゆい。なぜこの人はこんなに優しいのか。それなのに嫌味が口をついて出る。
「今の私の話聞いてましたか?がんばっている詠夏ちゃんのはしごを外すようなこと言ってほしいんじゃない。どうしたらいい?なんて聞かないで」
真冬がどうして機嫌を損ねてしまったのか分からない。どうこたえるのが正解なのか。
恋愛指南本に似たような事例が書いていないだろうか。分かるのは、今までの短い期間に終わった交際相手達も同じような顔をしていた気がする。
詠夏のことをよく思っていないのか、でもそういうことではないと言うし、好きな相手の本心を理解して気の利いたことをいうのはどんな試験より難しい。
「僕、今まで何かに執着したり誰かに追いすがったりしたことない。縁がなかったんだろうと考えてすぐ身をひいていた。でも今、あなたが、がっかりしたような顔を見てすごく焦っている。何でもなおすからどうしたらいいかって。未練たらしく引き留めたい。考えていること知りたい、理解したい。でも足りない。情けないかもしれないけど、こんな風に思ったのはあなただけなんだ」
瞼に薄く色を乗せただけで映える真冬のきれいな目、石を投げ込んだ時の水面のようにゆらゆらとした。
深く澄んだ湖のような目、こんなに近い距離で人の目をみるのは初めてだ。
「満足いくようなことはすぐに言えるようになれないかもしれない。でも僕努力するよ。もう少し待ってほしい。このまま見限らないでほしい」
本当にはいつくばってすがりついてきそうな勢いに、泣きそうで笑えてくる。何事にも達観したような彼にはこんな必死な一面があるのか。本来ならわずらわしいはずのそれが可愛かった。
饒舌ではなく滑らかな口説き文句や上手な誘い方を知らない。いつも余裕なく話を続けようと必死なところさえかわいらしく感じる。
既婚者との関係を疑われた時、「愛人顔」と揶揄された。本当に悲しかった。自分が嫌いになった。
この顔は男性を、一部の、遊びの関係を求める年上の男性を引き寄せるらしい。
路仁は「最初からずっと同じ対応をしてくれる。同じ笑顔であいさつをしてくれる」と今までにない評価をしてくれた。
一緒にいても自分の趣味に無理に誘うこともなく、自分の博識をひけらかすこともない。真冬はあまり本を読まないが好きなものがあわなくてもあまり気にしていない。むしろその違いを理解しようとしている。
「好きなものが違うって新しい発見がこれからあるってことじゃないかな。僕は犬派だったけど猫もかわいいね」
猫のグッズをにこにこと眺め、カフェのカタカナだらけのメニューを食い入るように見ていたり、一緒にお出かけするようになってまだ数回だが、彼なりに真冬と向き合おうとしていることが分かった。
もう少し待ってと言われなくても待つつもりだ。自信満々に真冬を口説く男性たちは確かに完成されていた。
だから、待たされることもなくついていけばよかった。女性が望むことを心得ていて真冬の好みにもあわせてくれてはいた。
路仁は何でも初めて見るようになんでも興味津々だ。真冬の好きなことを知ろうと一生懸命だ。
こういうことが女性は好きだろ?というふりもしない。生まれたときから今の年齢のような老成した雰囲気なのに、まるで全てが初めてのようにひとつひとつ確かめてみようとする。
「いいよ。もっと話そう。私のもやもやが晴れるまで付き合ってね」
路仁は胸をなでおろすようなしぐさをする。本当にうれしそうだ。
(よかったな、自分。情けなくてあきれるが、言ってみるものだな)
さあ、どこで話そうかと二人は歩き出す。しかしすぐに真冬は歩みを止めた。広いショッピングモールの中で、そうそう知っている顔に出くわすことは少ない。すれ違ったとしてもお互いの連れのことに夢中で、気づくこともない。
その上、市外のショッピングモールを選んだ。市内にも大型店はあるが、ここなら知った顔に会う確率は格段に低い。それなのに出くわしてしまった。職場ではまったく畑違いの部署におり、階も違うのであまり会うこともない。
真冬がかつて交際を疑われた元の上司、家族連れでこちらに歩いてくる。洗練された大人の男性、若々しく気力あふれるまさに男盛り。
あのあとも何事もなかったように上役の覚えめでたく、出世街道を歩んでいると聞く。連れている家族の方も、妻は細身で美しく、子どもたちは無邪気でかわいらしい。幸せそうな家族、夫が荷物をすべて持った上に、乳児を抱っこひもで抱き、妻はもう一人の幼児をベビーカーに乗せ、ウィンドウショッピングを楽しんでいる。
この隙のない幸福な状況で、どうして他の女性に目移りすることがあるだろうかと周囲は思うだろう。
真冬は覚えている。この人がどういう表情で真冬に近づいてきたかを。男の顔をしていた。
今、妻子に向ける顔とは違う。妻にも同じ言葉をささやくのかと疑いたくなるような甘い言葉を。そして不覚にも一瞬でもそれにときめきかけた自分を。
すれ違う時、夫は赤ちゃんをあやすことに集中しているのを装い見て見ぬふり、妻は何か言いたげに視線を向けた。
それもほんの束の間ではあったが上から下へと全身を見られた。そして隣にいる路仁にもそれは向けられた。
そう見られたと思わなければ分からないくらいのひそやかなもので、声などかけるはずがないと分かっていても寒気がした。
全ては双方が認め、真冬の場合は認めざるを得ない状況に追い込まれ、注意を受けたところで終わっていることだ。
しかし、少なくなったとはいえ、真冬はいまだにそういう女性として思われている。将来有望な男性を手に入れるために家庭を引き裂いても構わないと自ら迫った、と。
女性職員の中にはまだ対等に話をしてくれない人もいる。男性職員は興味本位の視線をチラチラ向けてくる。
職員の数が多いので、全員ではない。一度でも一緒に働いたことのある人は、今まで通りにしてくれる。
しかし、今回のことで、真冬は相手以上に痛手を負った。人々の好奇の目と聞こえよがしな好色な声、自分の顔を「愛人顔」と評された時は心底冷たくなった。
何も聞こえなくなるように聴覚が自衛を行い、耳の奥がキーンとした。これでもし本当に流されて関係をもっていたとしたら真冬は自分を許せない。
「もうこのようなことはいたしません」
「このようなこととは?具体的にそれを文章にして顛末を提出してください」
年上の男性ばかりの職員の前で、宣言させられたとき、屈辱とはこういうことかと思い知った。家族にも絶対言えない。
もっとも耐え難かったのは、彼が周囲には「言い寄られた」と困り顔で吹聴する一方で、皆のいないところで真冬には「君にはもっとふさわしい人がいるよ。」と慰めるように言ってきたことだった。
まるで真冬が迫ったのをなだめるように頭を撫でながら。好きでない人に頭を撫でられることはなんと気持ち悪いのだろう。真冬は髪が何本も抜けるほど髪をかきむしり、シャワーで洗い流しつづけた。
では、彼から本心は好きだったとか、本気だったと言われればいいかと問われたらそれは否、である。自分としては上司として線をひいて対応してきたつもりだった。
妻子があることを知っているから尊敬はするが異性としてみるつもりはない。誰に対しても。性的な対象に見られること、好きでもない相手から向けられる邪な好意への不快感は決して理解してもらえない。
むしろもてる自慢か?とねたみを買う。そう思い返せば子ども時代からこれまでそういう経験とは無縁ではなかった。大きな被害はなく、誰にも言わずに心に封じ込めてきた。
だが、それが今一気に押し寄せてきた。幸せな家族の姿がはっきりと頭の中に残ったまま消えてくれない。
もう大丈夫なはずなのに、これからはまわりに相談して仕事にがんばると決めたのに。
ふと、体の横に触れる感覚。顔を上げると路仁が寄り添っていた。暖かさを分けるように、手の甲がぎこちなく触れている。
「あの人?」
はっきりとした声で尋ねてくる。取り繕っても仕方がないのでうなずく。
「私、愛人顔なんだって。あんな愛人顔に迫られたら男の人はひとたまりもないって」
「誰が言ったの?」
自嘲気味な真冬に、路仁の声が固い。
「お手洗いで何人かで。私に気づくとみんな黙ってしまったから私のことと思う」
路仁は言葉を探しているようだった。唇をかみしめまぶたがぴくぴくしている。
触れている手がこわばっている。なんと言うつもりだろう。彼に限ってこんな場所で、あの人に詰め寄ったりはしないだろうが、路仁は確実に怒っている。
「つらかったね。僕、こんなに怒りを感じたことないよ。ちょっとすれ違っただけであなたが、こんなに動揺しているのにあの人はふつうに家族を営んでいる。暴力はよくないけど、はじめて人を殴ってやりたいと思った。それに愛人顔っていう言葉にも怒っている。同じ職場にこんな言葉を使う人がいるなんて信じられない。・・・真冬さん。」
路仁の静かな怒りよりも、この場で、初めて下の名を呼ばれたことに驚いてしまう。
「嫌な思いをしたね。悲しかったね。僕には想像もつかないくらい。でも、真冬さんの顔は人に愛される顔だと思う。人を優しい気持ちにさせる。僕は真冬さんといると楽しい。いろんな新しいことがあるんだ」
路仁の言葉は凍りかけた心にしみていく。氷の池が解けてその隙間から水がしみでてくるように心にながれこんで、暗い水底にに陽の光がさしこんでくる。
いつの間にか路仁は向き直り、真冬と目線をあわせる。
「急に名前呼びしてごめん。真冬さん、明日も僕と出かけませんか?山歩きをしよう。きつい山じゃないから。いやなこと忘れられないなら忘れなくていい。ただ、整理しよう。頭の中の引き出しの中に。真冬さんならできる。翌日にひびかないくらいのゆるやかな山だから軽装でだいじょうぶ。心配しないで。今日は明日に備えて解散しよう。いいかな?」
最後のいいかな?は自信なさげだったが、真冬は、うなずいていた。はじめて路仁が自分の世界に誘ってくれた。
翌朝、路仁は車に乗って迎えに来た。軽自動車だがテレビCMで「アウトドアにも最適!」とうたわれている。それほど前のCMでもないが、走行距離はかなりの数字であり路仁があちこちの山に登っていることがわかる。
「帰りは疲れていたら寝ていいよ。そのために車で来たから」
二~三時間程度で到達できる山だといいながら、路仁は完全山登りスタイル、足も登山靴、重そうなリュック。あわてて片付けたであろう助手席をすすめる。後ろは寝袋や本の入った箱が積まれている。
「後ろは見なかったことにして。片づけが間に合わなくて」
長袖、長ズボンで、動きやすい恰好なら何でもいい、と言われた真冬は長袖Tシャツにジャージ、足元はあまりはかない捨てる寸前の布製スニーカー、風でとばないようにひものついた帽子、本当に動きやすさ重視の服装だが、路仁はまぶしそうに目を細めて微笑んだ。
「一応、日焼け防止とけが防止」と言いながら新品の軍手を持たせてくれる。
何が入っているのかわからない重そうなリュックを軽々と背負い、その日の彼は饒舌だった。この山を選んだ理由、前回登った時の感想、目に入る植物の説明、学生の時は山岳部で、重たいものをいれたリュックを背負い坂を駆け上がるトレーニングをしていたこと・・それで今でも無駄に大きいリュックを使っていること話してくれた。
健脚に驚かされる。真冬がいなければもっと早足で行ってしまいそうだ。おそらく学校の行事以外では山に登ることもなかったであろう真冬のため、会話をしても息が切れない程度のペースで歩き、何度も休憩をとってくれた。
「きつい練習だったのね。」
「いやいや、大会に出るまでじゃなかったから、ただ好きな山を登っていただけ。途中でおいて行かれないようにトレーニングしていたようなものだよ」
のんびり歩くことを楽しんでほしいと言うように、各所に木製のベンチや座れそうな石がある。
路仁は、話しながらずっと真冬の様子に気を配っている。疲れていないだろうか、辛くないだろうか。カフェでまったりお茶や買い物が好きであろう真冬を山歩きに誘って楽しいだろうか。ただ、気晴らしになってくれればと思った。
山に登るときは仲間はいるし。何かあれば助けあう。しかし基本は人工的なざわめきとは無縁であり、あるのは風のそよぐ音、鳥のさえずり、木々がゆれるときの歌声、山が持つ静けさ、孤独では登れないが、頼りになるのは自分の足しかない。自分の足で歩いて頂上をめざし、また自分の足で下山しなければ帰れない。
真冬の心の整理になっているかは分からない。疲労と消えないわだかまりがさらに大きくなってしまったら、 彼女はもう二度と山には登らないだろう。
予定通り山頂に到着した。山頂と言っても低い山なのでかなりはっきりと町が見渡せる。
「おにぎりをつくりました。おかずはおにぎりの中に入っています」
路仁は、無駄に大きいリュックから、敷物と冷たい飲み物、食後のコーヒーのためのお湯の入った水筒、デザートのリンゴを取り出す。真冬には水分とタオルくらいでいいと伝えていた。おにぎりの中の具は卵焼きとから揚げと明太子を入れている。路仁の手で握ったおにぎりは大きい。
「食べきれなかったら残していいよ。僕が食べるから。まだお昼前だし、下山してからでもいいかと思ったけど、おやつだと思って」
「おにぎりがおやつって・・。ああ、でもおいしい~」
真冬は結局、三種類の具が入ったおにぎりを全て食べてしまった。
「大食いだって思っている?」
「いい食べっぷりだ。おにぎりたちもそれを作った人も喜んでいます」
路仁が冗談を言う。そしてリンゴを食べながら話し始めた。
『粗忽者な上に毎日大忙しの母親がいました。一生懸命一人息子を育てています。
母親は忙しいうえに、覚えることが苦手。息子の大切な行事も忘れてしまい、仕事に行ってしまいます。
よりによって、今日が遠足であることを忘れてしまっていたのです。あわてて握ったのりさえ巻いていない塩だけのおにぎり、かろうじて家にあったりんごをおやつに持たせます。息子はふくれっつらで遠足に行きます。
友達とおやつの交換もできず隠すようにしてお弁当を食べました。
母には悪気はありません。でも覚えることが苦手。そして、この世の何よりも誰よりも一人息子を愛しています。でも息子は遠足の日からしばらく母と口をききませんでした。
やがて母は年老いて、息子は大人になります。息子は一人立ちし、遠くの町で就職しました。
母はだんだん親しい人や自分のことも覚えていられなくなりました。家の場所も忘れてしまうのです。
そして息子のことさえも。何を忘れても息子のことだけは忘れさせてほしくない。母は祈りました。忘れるはずはないと信じていました。しかし、母の見える世界から、息子も消えてしまいました。
息子は久しぶりに会った母に強い衝撃を受けます。そしてあの時の塩おにぎりとリンゴを思い出しました。
あわてて握ったので形もばらばら、りんごにはところどころ皮がついていました。友達の見た目もおいしそうなお弁当と比べてしまって恥ずかしかった。
それでも、そのあと食べたどんなおにぎりよりもあのおにぎりはおいしかった。
ある日、お見舞いに訪れた息子はお弁当箱いっぱいにおにぎりとリンゴを詰めて持っていきました。
食が細くなっていた母でしたが、涙を流しておにぎりもりんごも平らげました。そして、ごちそうさまでした。おいしかったと言いました。あの時はごめんね。とも。
でも、数分後には、ところであなたはどちらさま?と息子に無邪気に笑いかけます。
息子も涙を流しつつ笑いながら、何度でも同じように答えます。
お母さん、あなたの息子です。あなたが作ってくれたおにぎりが大好きなあなたの息子ですよ。
母が天に召されるまで、息子は同じ答えを返し、語りかけ続けました。』
路仁はこの短い小説を、真冬に読んで聞かせた。真冬は息子の言葉に泣き出してしまった。
「何もかも忘れても、この二人の間にはおにぎりとりんごの記憶だけは残っていると思った。この母親はもう何も覚えていない。息子も思い出してくれるとは期待していない。それでいい。うっかり者で忘れん坊のお母さんだけど、息子より大切なものはなかった。息子もそれを知っていた。そしてそんな母親の思いをしっかり受け取っていた」
「今日、ここに来たこと僕は忘れない。真冬さんのために握ったおにぎりのことも。今日で心が整理できたとは思わない。またつらいことを思い出すかもしれない。でも僕は何度でも真冬さんが心を整理できるようにそばにいたい。真冬さん、ずっと好きだった。どんなことでもして君を支えていきたい。」
それから二人は、会話もなく、下山した。初めて手をつないで、坂道の時は、真冬が万が一、砂利道に足をとられそうになっても支えられるように足先に力をこめた。
路仁に、おにぎりを作ってくれる親はもういない。あの母親のように、息子さえ忘れてしまうようになる前に、いなくなってしまった。
誰かのためにおにぎりをつくり、誰かのために明日することを考える。真冬はそれを自分にさせてくれるだろうか。自分の親のようにすぐにいなくならないでほしい。いつまでもそばにいてほしい。
助手席で真冬はうとうとしている。無事に送り届ける。明日は仕事だ。太陽と競争するように車を走らせた。
ある寒い日の夜半、路仁に腕枕されて、読み聞かせをしてもらう真冬がいた。
真冬の目が閉じ、長いまつげがぴくりとも動かなくなるのを見届けて路仁は本を閉じた。明日は何を読もう。
それとも続きを読もうか。路仁も幼いころ、親に腕枕されて本を読んでもらった。真冬に読み聞かせをするときに感じる幸福は、あの頃と同じだ。明日がきて、一日が終わり、また同じように本を読んでもらえる。そんな日々が永遠と思っていた幼いころ。
何度も同じ本を読んでもらった。うつらうつらとしだすのはいつも母親の方が先で、結末がわからないままの時もあった。
「お母さん、僕にも寝る前に読み聞かせをしてあげる人ができました」
路仁は何もない天井に語りかける。そして手を伸ばしてみる。空をさまよう手。両親との時間は短かったけれど、それを上回る長さの幸福な時間を、この人を過ごせますように。
路仁は、さまよわせていた手をおろし、真冬の肩の上に置いた。
本の虫と真冬の月