映画『爆弾』レビュー
①盛大なネタバレを含みます。前情報なしに『爆弾』を観たい方はご注意下さい。
一見して①メインの爆弾事件と②刑事であった長谷部有孔(刑事)の不祥事は無関係なようでいてその実、シンボリックに深くリンクしている所が本作のミソ。
②の不祥事の中身は刑事である長谷部が事件現場で自慰行為を行なっていたというもの。つまり長谷部は殺意や恨みといった人間の激しい感情に性的興奮を覚えるタイプだった。スズキタゴサクも長谷部と全く同じ。事件が深刻化する程に昂揚する点で、染谷将太さん演じる等々力刑事も同系統の「変態」に括られると考えていい。
加えて、スズキタゴサクはすこぶる頭が切れるタイプという点で山田裕貴さん演じる類家刑事と共通する存在。二人とも自分以外の全員がバカに見えて仕方なく、こんな奴らと足並み揃えて社会生活を送ることに嫌気がさしている。
この整理で事件全体を俯瞰すると、映画『爆弾』にはスズキタゴサクを中心にして社会不適合者が集結していると分かる。ここにスズキタゴサクと対峙する刑事の面々がその人間性を暴露され、善悪の一線をいとも容易く踏み越えようとする様を容赦なく描くことで「社会に適合して暮らす」なんてただの戯言。変態じゃない人間なんてどこにもいないし、社会に暮らす全員がいつ爆発してもおかしくない爆弾なのだという真実を本作は鋭く指摘する。
そうやって浮き彫りになる〈個人の倫理と社会の調和との緊張関係〉。それが本作のメインテーマであり、このテーマとの関係でスズキタゴサクの動機が理解可能な範囲で明らかになる。その内容に認められるのはスズキタゴサクが彼なりのやり方で尽くしてきた努力であり、それを全部止めてしまえるほどの絶望だった。これとの対比で際立つのが終幕の場面において類家と等々力のそれぞれがスズキタゴサクに向けて放つ言葉であり、その真価が先のテーマとの関係で磨かれるのが映画として極めて俊逸。
「あなたこう思ってるでしょ?こんなクソみたいな社会、壊してもいいと」
スズキタゴサクにそう問われて「ああ、そうだ。こんなクソみたいな社会、壊してもいい」と同調する類家は「けどな、そんなの簡単すぎるんだよ。壊すのを食い止める方がよっぽど難しい。だからやりがいがある」と言い放ち、これからも刑事としてずっと綺麗事を口にし続けると宣言する。(変態な)自分を隠すの、苦しくないですか?とスズキタゴサクに挑発された等々力の方も面と向かって彼にこう言い放つ。
「けどな、スズキサン。俺はそれを不幸せだとは思わないんだよ」
性向と知能という点で最もスズキタゴサクに似通った二人が、スズキタゴサクという存在を決定的に突き放す。この事実が持つ意味は非常に大きかった。というのも、それまで少しも悪びれた態度を見せなかったスズキタゴサクを支えていたのは「社会に適合できない自分が悪いんじゃなくて、自分の何もかもと適合できない社会の方」という転倒した価値判断であったと推測できる所、自分と同じでありながら、なおも社会秩序を守る側に立つ類家と等々力の姿が真に化け物となった自分自身を写し出す鏡となったからだ。
だからスズキタゴサクは自分の負けを認め、類家宛に以下の伝言を等々力にお願いする。
「今回は引き分けです。」
この「引き分け」という部分にたっぷりと塗された人間性こそが倫理を体現する。この暗示が余りにも文学で感銘を覚えた。本当に素晴らしかった。
スズキタゴサクは正真正銘の化け物で、どうしようもない程に人間。アンビバレントに感じるこのキャラクター描写が最悪な物語を牽引し、最後の決着まで演出してみせるのだから映画『爆弾』はエンタメ作品としても評価に値する。そんなスズキタゴサクを演じる佐藤二郎さんが、伊東蒼さんと共演された『さがす』の時の「あの」佐藤二郎さんだったことを添えれば、劇場に足を向ける方が爆発的に増えることを私はここに確信します。むちゃくちゃ面白かった。全方位でお勧めしたい。
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