『北のバラに消えた寝台特急』タイ・トラベル・ミステリー・シリーズ
第1話 バンコク発チェンマイ行き
1.午後5時15分 ―バンコク・フアランポーン中央駅
タイの十月はまだ雨季の真っ只中、スコールが止んだばかりの駅の広い構内には、雨上がり特有の湿った空気と、ほんの少し冷えた風がゆっくりと流れ込んでいた。
駅の正面玄関のロータリーに沿うように、飲食店や屋台がずらりと並び、列車の出発前に腹を満たす人々の姿が集っている。
ガイヤーン片手にシンハ・ビールを飲む男、香辛料の煙にむせる西洋人観光客。
ドーム型天井のガラス越しに差し込む雨上がりの日差しは、濡れた床に反射してオレンジ色の光を散らし、鉄骨の梁を鈍く輝かせている。
古い駅舎は長い年月を経てもなお、静かな威厳を保っていた。
ホームには夜行寝台列車が並び、機関車のディーゼルエンジンの低い唸りが構内に響き、発車のベルと車掌の笛の音が遠くで反響するたび、旅の始まりを告げるようだった。
改札前では、荷物を抱えた出稼ぎ労働者が、ひんやりとした大理石の床に座り込み、世界からの旅人たちが切符売り場に行列を作り、駅員の笛の合図で押したり引いたりを繰り返している。
橙色の袈裟をまとった僧侶が静かに座禅のように佇み、バックパッカーが地図を広げ、出発までの興奮を分かち合っていた。
屋台からのガパオライスや炒飯の香ばしい匂い、焼きバナナの甘い香りが入り混じり、坂本の鼻をくすぐる。
―午後5時50分
スピーカーからは少し歪んだアナウンスが駅構内に響いた。
“チェンマイ行き寝台特急13列車、4番線よりご乗車のご案内をいたします”
やがて列車のドアが開き、車掌のソムバットが乗客の切符を確かめながら手際よく案内していく。
低いプラットホームのため、乗り込むには急なステップを数段上らねばならない。
ソムバットはお年寄りや子どもに手を貸し、気の早い乗客たちを一人一人丁寧に案内していく。
スーツケースを抱えた欧米人、僧侶、家族連れ、若い男女が続いて乗り込んでいく。
外では茜の空が群青に変わり、駅舎のアーチに灯りが点り始めた。
光が濡れた天井のステンドグラスに滲み、夜の始まりを優しく告げていた。
駅構内の切符売り場の上、黒地に電球を埋め込んだだけの案内板の表示。
「チェンマイ行き寝台特急13列車 発車予定時刻18時10分」
空港の発着便のような24時制の時刻表示に、夜行列車の旅愁を感じさせる。
坂本は、待合広場の椅子に座り、その案内板を見上げ呟いた。
「珍しく定刻通りだな……」
―坂本啓介、36歳。
警視庁公安部外事第一課の刑事。
日本と東南アジアを結ぶ人身売買ルートを追い続けてきた。
学生時代から、この国の熱気と混沌に魅せられていた。
香辛料の匂い、渋滞、屋台――その雑踏の中に、人の生き様が見える気がした。
タイ語もそこそこ覚えて来たが、屋台の親父に「辛くしないで」と頼んでも、必ず二倍の辛さで提供されるのにも慣れて来た。
そんな不思議な優しさもこの国の魅力だ。
公安警察の捜査官になってからは、タイには頻繁に来るようになった。
東京でデスクにかじりつくより、現場の空気に触れる方が性に合っている。
だが今夜の目的はある事件の日本人容疑者の身柄確保だった。
捜査線上の男――村瀬達夫を追ってタイにやって来たのだ。
坂本はふと上げた視線の先に、白いシャツに麻のジャケット、焦げ茶の帽子を目深に被った男が、足早に改札ゲートを抜けて4番線へ向かう姿を見つけた。
坂本の直感が反応した――村瀬だ。
追っているのは、東南アジア文化交流財団の職員を名乗る男、村瀬達夫、53歳。
金融詐欺の容疑で国際指名手配中で、坂本は東京で既に村瀬の情報を掴んでいた。
今朝、村瀬はスクムヴィット通りの高級ホテルから忽然と姿を消した。
向かう先は、“北方のバラ”と呼ばれるタイ北部の古都、チェンマイ。
村瀬は空路ではなく、あえて鉄道でフアランポーン中央駅から寝台特急に乗るという。
理由は明確だった―飛行機は監視の目が多く、動きを把握されやすい。
列車なら群衆に紛れて移動できると考えたのだろう。
早朝、スワンナプーム空港に降り立った坂本は、チェンマイ日本領事館の情報を得て、フアランポーン駅で村瀬の動向を張っていた。
―午後6時00分
“よし、そろそろ行くか……”
坂本はパソコンと書類の詰まった、重いリュックの肩紐を締め直し席を立つと、駅構内のスピーカーからタイの国歌が流れはじめた。
それは、国家への敬意と忠誠を示すため、タイ全国の公共施設、公園、駅、市場などで毎日、朝8時と夕方6時に流される。
列車へ急ぐ旅人たち、駅員たち、売店の売り子、そして紛れ込んだ野良犬までもが動きを止め、静止画のように直立の姿勢を取る。
駅全体が水を打ったようにざわめきが止む瞬間、そこにタイという国の一体感と誇りが凝縮されているように感じられた。
観光客もこの習慣に驚き、携帯操作も止めて、タイの文化的敬意を体感する瞬間となる。
そして国歌が終わると、再生ボタンを押したようにまた人々が動き出す。
坂本は改札ゲート正面に掲げられたラマ五世、チュラロンコン王の肖像画に軽く頭を下げ、出発を待つ13列車へ向かって歩き始めた。
坂本は数時間前に、タイの公安警察職員から受け取った切符を確認しながら、12号車の二等寝台車の前で足を止めた。
乗車口に立って乗客の案内をしている車掌、ソムバットに声をかける。
「すみません、さっき“麻のジャケットに焦げ茶の帽子”を被った男を見かけませんでしたか?」
彼は、意外にもすぐに答えてくれた。
「――ああ、あの方なら隣の13号車、最後尾一等個室寝台の乗客です。ええと……確か10号室、二人分のチケットを買っておられました」
坂本は車掌の名札に書かれた〈Sombat〉の文字をなぞり軽く微笑んだ。
「二人分? まぁ、いいや、ありがとう、ソムバットさん。コップクンクラップ!」
タイ式に拝むように礼を言うと、軽くステップを踏むように車内へ乗り込んだ。
「快適なご旅行を!」
ソムバットはその背中を見送りながら、静かに敬礼をした。
(あの男なら信頼できる…ソムバットは敬礼の手をそっと下ろした)
2.発車ベルと蜘蛛の影
「サカモトさーん!」
坂本が背後から聞き慣れた声が飛んだ。
派手なサングラスに赤いバンダナでまとめたポニーテール。
タイトなジーンズに白いカウボーイブーツ…
タイ公安警察の日本語通訳官、リサが狭い車内を大きく手を振り追いかけて来た。
「お久しぶりでーす!元気してますかぁ!」
「……なんでお前がいるんだ?」
「だって、心細いでしょ、日本のオジサン一人旅は」
「オジサンて言うな。まだ三十六だ、それに今度も仕事だ、だからなんでここに来たんだ?」
「私、今日から三日間非番なんです、だからチェンマイの実家の母に会いに行こうと思って…」
「非番って、リサ、よりによってなんでこの列車なんだよ」
「ふふふ、私が国際公安部に言って切符は2枚取ってあるんですよ…感謝してくださいよ!」
「非番なのに、俺の通訳に来たのか?」
「心配だからに決まってるでしょ。今回はプロの通訳付きの仕事ですよ、ふふふ」
「……ったく、手伝いに来たんじゃなくて、からかいに来ただけかよ!」
二人が乗り込んだのは、エアコン付きの上下二段仕様の二等寝台12号車。
リサは事前に日本大使館からの要請を受け、坂本が乗る列車の切符を用意していたのだ。
チェンマイ行き寝台特急13列車は、フアランポーン駅を出発しても、1時間ほどは向かい合った座席として利用される。
車掌が1号車から順番に1時間ほどかけて、コンパートメントごとに、座席を折りたたみマットレスやシーツを敷いて寝台へと整えていく。
リサは上段の客が来ないことを確認すると、向かい合わせの座席の坂本の前にちょこんと座った。
座席シートの上に置かれた坂本のリュックを「よいしょっ」と掴んで座席下に押し込む。
「重いわねー、男の人って何でも詰めすぎるんですよ。捜査資料とか下着とか一緒にしてるタイプでしょ」
「おい、勝手に想像するな」
「図星ですね、ふふふ」
軽口の裏に、職業柄の観察眼が光る。
そしておもむろに、スマホを取り出して自撮りモードをオンにし、自分の顔を映しながら、車内の様子やホームで見送る人々の様子を撮り始めた。
「さて、みなさん、今日は寝台特急女子旅シリーズで~す! 今回は日本から来た刑事さんと一緒で~す!」
「やめろ、肖像権侵害だ」
「いいじゃないですか〜! 事件の推理、バズりますよ!」
「馬鹿なことをするんじゃない、止めないか、このやんちゃ娘が!」
「はい、じゃあ笑って〜」
「……(笑えねぇ)」
二人の軽口が、発車ベルの音に紛れて消えた。
―リサのカメラのフレームの隅。
プラットホームを小走りで駆け込み、黒いフードにサングラス、黒のジーンズを履いた人物が手ぶらのまま列車に飛び乗った。
リサがカメラを引いたその一瞬、フードを被り直した襟元に、蜘蛛の刺青がチラリと光った。
「今動画に映った人、ちょっと怪しくない?……あれ、女? 男? 男にしては、あまりに美形ですよね」
「たぶんレディボーイだな。タイじゃ珍しくないだろ?」
「でも、蜘蛛のタトゥーって、影の組織のコードらしいですよ」
リサはいつもの調子でいい加減なことを言った。
坂本は、ふぅ、と深くため息をついた。
だが、その何気ない動画が、のちに事件の“決定的な証拠”になるとは、二人とも思っていなかった。
―午後6時10分
定刻出発―列車のドアが閉まり、車掌の笛が鳴る。
先頭でけん引する、吊り目ライトのディーゼル機関車は、ワインレッドとライトグレーの塗装で“ウルトラマン”の愛称を持ち、その姿は夜のホームに一際目立っていた。
短い警笛と共に黒煙を吐き、連結器が「ガチャン…ガチャン…」と鈍く響く。
眠っていた巨体が目を覚まし、ゆっくりと動き出すかのように…
3.夜の車窓に映る影
窓の外、バンコクの夜景がゆっくりと遠ざかっていく。
ネオンの明滅がレールの継ぎ目に反射し、都市の鼓動のように列車の窓に映る。
悪名高きバンコクの渋滞が通勤時間帯と重なり、踏切には車の列が途切れず遮断機が下ろせない。
客を乗せたバイクタクシーが、その隙間を忙(せわ)しなく縫うようにすり抜けていく。
フアランポーン中央駅を出ても、しばらくは徐行が続く。
線路脇のスラム街の屋台から立ちのぼる、ガイヤーンの煙が、夜風に乗って窓ガラスを撫でていき、香ばしい匂いが密閉された窓の外に漂うのを感じる。
―午後6時34分
やがて列車は高架を上り、新しいバンコク中央駅―クルンテープ・アピワット駅のプラットフォームに滑り込む。
地方からの長距離バスが発着し、近郊からはMRTやBTSが接続する、近代的な巨大ハブ駅だ。
ガラスのドーム天井に蛍光灯の光が幾重にも反射し、白く眩しく輝いていた。
電光掲示板には、タイ語と英語、そして中国語までもが並び、構内放送の声が機械的に響く。
「これが……新しい時代の玄関口か」 ―坂本は小さく呟いた。
便利で、清潔で、効率的…だが、その完璧さの裏で、かつて自分が惹かれた“タイの良さ” …人のぬくもりや混沌とした活気が、少しずつ薄れていくような気がした。
列車は短いベルの音とともに、北へ向かい、一路、夜の帳へと滑り出した。
点々と浮かぶ灯りの向こう、稲穂が月明かりに淡く揺れ、線路脇のバナナの葉が車内灯を受けては消えていく。
次の停車駅はアユタヤ。
十六世紀に栄えたタイの王都であり、かつて“山田長政”が治めた日本人町の跡が残る。
夜には寺院の遺跡群がライトアップされ、観光名所の一つとなっている。
車内放送の英語とタイ語の案内が流れ終わるころ、リサが口を開いた。
「サカモトさん、寝台を用意し始めたようね、今のうちに食堂車へ行きませんか? 私、お腹ペコペコなんです」
坂本は腕時計を見て、ゆっくりと息を吐く。
「日本は……もう八時半か。そりゃ腹も減るよな」
9号車のエアコンが効いた食堂車は、想像以上に明るかった。
天井の蛍光灯が白く反射し、赤いビニールシートのボックス席には、欧米の旅行者や、カップルが英語併記のメニューを選んでいる。
窓際には模造のバラが飾ってあり、カーテン越しに夜景が流れ、奥のカウンターでは、白衣のスタッフが料理をプラスティックの皿に盛り付けていた。
しかし、漂う匂いは相変わらず下町の屋台そのものだった。
炒め油とナンプラーの香りが、まるでこの国の素顔を忘れるなと言わんばかりに食欲を煽る。
リサはメニューを見ながら「タイ風照り焼きチキン」とコーラを注文し、坂本は辛さ控えめの「ひき肉のガパオライス」とハイネケンのノンアルコールビールを頼んだ。
「サカモトさん、辛いの苦手なんでしょう?」
「いや、好きだが……翌日まで引きずるんでな」
「かわいい言い訳ですね〜」
「いちいちうるさいなぁ…俺の勝手だろうが、アルコールは売ってくれないし、ったく…」
楽し気なリサの笑い声が踊り出す。坂本はその笑顔を見ながら、久しぶりに“任務”の匂いがしない和やかな一時を感じていた。
―だが、その笑顔の裏で…
窓の外を走り抜ける闇の中に、どこか落ち着かぬ気配が潜んでいる…
そんな予感が、坂本の胸の奥をかすかにざわつかせた。
リサは、自分が撮った短い動画の背景に、一人の影が通り過ぎていくのに気づいていた。
黒いフードにサングラス――間違いない。
発車ぎりぎりで飛び乗ってきた、あの“レディ・ボーイ”だ。
リサもまた、言いようのない胸騒ぎのようなものを感じていた。
4,静寂の車両と“午後10時”の謎
―午後7時10分
食堂車から戻ると、車掌のソムバットが、ちょうど二人の座席を寝台へと整えているところだった。
坂本はその間、12号車のデッキに出て、隣の13号車――最後尾の一等個室寝台車の様子を覗いた。
最後部のデッキに立つ男は、村瀬。
携帯電話を握りしめ、太くよく通る声を低く響かせていた。
「……ああ、“午後10時”到着予定だ。いいか、午後10時だ、間違えるなよ…」
男はロレックスの腕時計を何度も確かめながら、電話の相手に念を押している。
機関車のディーゼル音から最も遠く離れた13号車。
アユタヤまでの区間はロングレールが敷かれており、あの「ガタンゴトン」という継ぎ目の音もない。
車輪は滑るように鉄路を進み、車内には異様なほどの静けさが満ちていた。
そのため、12号車のデッキに立っていても、村瀬の話し声はまるで隣室の会話のように鮮明に届いた。
―村瀬達夫
坂本はかつて、日本で一度だけ彼と顔を合わせたことがある。
一見、穏やかで人当たりのよい男―しかしその裏で、村瀬は人身売買組織の資金を巧妙に着服し、資金洗浄によって闇に隠していた。
さらに、裏帳簿や顧客リスト、未成年売買の映像――組織の急所を握る情報を詰め込んだUSBを持ち出し、今度はその情報を盾に、タイ側の送出し組織のボスを脅迫し、巨額の金を引き出そうとしていた。
―それが、村瀬達夫のもうひとつの顔だった。
「午後10時」という言葉に、坂本はどこか引っかかるものを感じた。
だが、今はまだ“動く”時ではない――そう判断し、職務質問を控えた。
ふと視線を落とした携帯の画面には、午後7時30分の表示とともに、待ち受けに映る優しく微笑む妻と幼い娘の笑顔が輝いていた。
坂本は村瀬への視線を外し、セットされた寝台に腰を下ろす。
リュックから書類を取り出し、村瀬に関する資料をもう一度確認した。
反対側のベッドでは、リサが携帯電話をいじっている。
誰かとチャットでもしているのか、ニヤリと笑ったかと思えば、次の瞬間には小さくため息を漏らす。
そしておもむろに坂本のベッドのほうへ身を寄せ、彼の腕を掴んで上目遣いに囁いた。
「ねえ、サカモト刑事さん、もう寝ようよ。村瀬なんて、明日チェンマイで捕まえればいいじゃない?」
「お前こそ、自分のベッドに戻れ」
坂本が呆れ顔で言うと、リサは舌を出して笑い、「はーい」と言って自分の寝台に戻り、すぐにカーテンを閉めた。
「……ったく。なんなんだ、あいつは」
坂本は深く息をつき、再び書類に目を戻した。
アユタヤ駅まで、あと20分――。
―午後7時55分。定刻より10分遅着
列車は静かにアユタヤ駅に滑り込んだ。
ホームの向こうには、ライトアップされた寺院遺跡が夜霧の中に浮かび上がり、古都の輪郭を淡く照らしている。
「サカモトさん、アユタヤですよ。まだ起きてますか?」
坂本は書類を閉じ、眠そうに答えた。
「ああ、起きてる。それがどうした」
「夜行列車って眠れないものですね、どうも目が冴えちゃって…」
リサがあくびをしながらカーテンを開け、窓の外を覗き込む。
その瞬間、彼女の声が一段高くなった。
「あれっ、あの人……黒いフードの! 蜘蛛の刺青の、あのレディボーイ!」
リサは慌てて携帯を構え、録画ボタンを押す。
「おい、リサ。ちゃんと撮れよ、今の撮れたか?」
「え? あ……たぶん!」
「逃すんじゃない、撮り続けてくれ!」
「はいはい、わかってますよ~」
夜風がふっと吹き抜け、停車している列車の車体がかすかにきしんだ。
発車までの時間が、妙に長く感じられる。
乗り込んでくるのは、袈裟姿の僧侶、荷物を抱えた帰省のタイ人、西洋人バックパッカー、出張サラリーマン、車内販売のスタッフ…
だが――降りたのは、あの“レディボーイ”一人だけだった。
13号車の方からは、誰一人降りた気配がない。
リサは携帯で撮った動画を見なおして、坂本に親指を立てて、
「ばっちり!」とペロッと舌を出した。
そのとき、最後尾の扉から三人の男が乗り込んでいた…一等寝台車の乗客だろうか。
短いベルが鳴り、列車はゆっくりと再び動き出した。
先頭の男は、恰幅のよい体をダークグレーのスーツに包み、鋭い眼光を光らせている―胸にはタイ警察の徽章。
―タナッチャイ警部。タイ警察麻薬取締局の刑事として、その名を知らぬ者はいない。
後ろに続く二人は、紺色のサファリスーツを着た部下のディオとレッド。
一人はサングラス越しに車内を舐めるように見回し、もう一人は無造作にポケットの中で拳銃の感触を確かめていた。
坂本は胸の奥に、かすかな不安を覚え、リサと目を合わせた。
「私、あの人、知ってます…この世界ではかなりヤバイ人ですね…」
その時、車掌ソムバットの声が静かに響いた。
「当駅発車時刻は午後8時00分になります…」
それを聞いたリサが、携帯を持って列車の外へ飛び出して行った。
「おい、リサ!何処へ行くんだよ!」
坂本は声を飲み込み、ただ車内の窓からリサの背中を見送るしかなかった。
―それが、“事件の幕開け”となることを、坂本はまだ知る由もなかった。
(第2話に続く)
『北のバラに消えた寝台特急』タイ・トラベル・ミステリー・シリーズ