『北の薔薇に消えた寝台特急』タイ・トラベル・ミステリー・シリーズ
タイの夜行列車を舞台に繰り広げられる、濃密なサスペンスミステリー。日本人刑事・坂本とタイ公安警察の通訳リサは、詐欺事件の容疑者・村瀬を追って「北方の薔薇(バラ)と呼ばれるチェンマイ行きの寝台特急9列車に乗車する。動画に映り込んだ蜘蛛の入れ墨を持つレディボーイ、ニーナの存在が、事件の深層へと導く鍵となる。村瀬は人身売買組織の資金を横領し、USBに収めた機密情報を使って黒幕を脅迫しようとするが、情婦ニーナの手によって毒殺される。列車内で次々と起こる殺人、幽霊伝説が絡むクンタントンネルの怪奇、そしてチェンマイで明かされるニーナの過去と復讐。USBに記された少女たちのリストが、闇の帝国を崩壊へと導く。列車が終着駅に近づくにつれ、真実と正義が交錯する――。タイの風景と交錯する人間関係を背景に、疾走する列車とともに物語は加速する。
第1話 バンコク発寝台特急9列車
1.午後5時15分 ―バンコク・フアランポーン中央駅
タイの十月はまだ雨季の真っ只中、スコールが止んだばかりの駅の広い構内には、雨上がり特有の湿った空気と、ほんの少し冷えた風がゆっくりと流れ込んでいた。
駅の正面玄関のロータリーに沿うように、飲食店や屋台がずらりと並び、列車の出発前に腹を満たす人々の姿が集っている。
ガイヤーン片手にシンハ・ビールを飲む男、香辛料の煙にむせる西洋人観光客。
ドーム型天井のガラス越しに差し込む雨上がりの日差しは、濡れた床に反射してオレンジ色の光を散らし、鉄骨の梁を鈍く輝かせている。
古い駅舎は長い年月を経てもなお、静かな威厳を保っていた。
ホームには夜行寝台列車が並び、機関車のディーゼルエンジンの低い唸りが構内に響き、発車のベルと車掌の笛の音が遠くで反響するたび、旅の始まりを告げるようだった。
改札前では、荷物を抱えた出稼ぎ労働者が、ひんやりとした大理石の床に座り込み、世界からの旅人たちが切符売り場に行列を作り、駅員の笛の合図で押したり引いたりを繰り返している。
橙色の袈裟をまとった僧侶が静かに座禅のように佇み、バックパッカーが地図を広げ、出発までの興奮を分かち合っていた。
屋台からのガパオライスや炒飯の香ばしい匂い、焼きバナナの甘い香りが入り混じり、坂本の鼻をくすぐる。
―午後5時50分
スピーカーからは少し歪んだアナウンスが駅構内に響いた。
“チェンマイ行き寝台特急9列車、4番線よりご乗車のご案内をいたします”
やがて列車のドアが開き、車掌のソムバットが乗客の切符を確かめながら手際よく案内していく。
低いプラットホームのため、乗り込むには急なステップを数段上らねばならない。
ソムバットはお年寄りや子どもに手を貸し、気の早い乗客たちを一人一人丁寧に案内していく。
スーツケースを抱えた欧米人、僧侶、家族連れ、若い男女が続いて乗り込んでいく。
外では茜の空が群青に変わり、駅舎のアーチに灯りが点り始めた。
光が濡れた天井のステンドグラスに滲み、夜の始まりを優しく告げていた。
駅構内の切符売り場の上、黒地に電球を埋め込んだだけの案内板の表示。
「チェンマイ行き寝台特急9列車 発車予定時刻18時10分」
空港の発着便のような24時制の時刻表示に、夜行列車の旅愁を感じさせる。
坂本は、待合広場の椅子に座り、その案内板を見上げ呟いた。
「珍しく定刻通りだな……」
―坂本啓介、36歳。
警視庁公安部外事第一課の刑事。
日本と東南アジアを結ぶ人身売買ルートを追い続けてきた。
学生時代から、この国の熱気と混沌に魅せられていた。
香辛料の匂い、渋滞、屋台――その雑踏の中に、人の生き様が見える気がした。
タイ語もそこそこ覚えて来たが、屋台の親父に「辛くしないで」と頼んでも、必ず二倍の辛さで提供されるのにも慣れて来た。 そんな不思議な優しさもこの国の魅力だ。
公安警察の捜査官になってからは、タイには頻繁に来るようになった。
東京でデスクにかじりつくより、現場の空気に触れる方が性に合っている。
だが今夜の目的はある事件の日本人容疑者の身柄確保だった。
捜査線上の男――村瀬達夫を追ってタイにやって来たのだ。
坂本はふと上げた視線の先に、白いシャツに麻のジャケット、焦げ茶の帽子を目深に被った男が、足早に改札ゲートを抜けて4番線へ向かう姿を見つけた。
坂本の直感が反応した――村瀬だ。
追っているのは、東南アジア文化交流財団の職員を名乗る男、村瀬達夫、53歳。
金融詐欺の容疑で国際指名手配中で、坂本は東京で既に村瀬の情報を掴んでいた。
今朝、村瀬はスクムヴィット通りの高級ホテルから忽然と姿を消した。
向かう先は、“北方のバラ”と呼ばれるタイ北部の古都、チェンマイ。
村瀬は空路ではなく、あえて鉄道でフアランポーン中央駅から寝台特急に乗るという。
理由は明確だった―飛行機は監視の目が多く、動きを把握されやすい。
列車なら群衆に紛れて移動できると考えたのだろう。
早朝、スワンナプーム空港に降り立った坂本は、チェンマイ日本領事館の情報を得て、フアランポーン駅で村瀬の動向を張っていた。
―午後6時00分
“よし、そろそろ行くか……”
坂本はパソコンと書類の詰まった、重いリュックの肩紐を締め直し席を立つと、駅構内のスピーカーからタイの国歌が流れはじめた。
それは、国家への敬意と忠誠を示すため、タイ全国の公共施設、公園、駅、市場などで毎日、朝8時と夕方6時に流される。
列車へ急ぐ旅人たち、駅員たち、売店の売り子、そして紛れ込んだ野良犬までもが動きを止め、静止画のように直立の姿勢を取る。
駅全体が水を打ったようにざわめきが止む瞬間、そこにタイという国の一体感と誇りが凝縮されているように感じられた。
観光客もこの習慣に驚き、携帯操作も止めて、タイの文化的敬意を体感する瞬間となる。
そして国歌が終わると、再生ボタンを押したようにまた人々が動き出す。
坂本は改札ゲート正面に掲げられたラマ五世、チュラロンコン王の肖像画に軽く頭を下げ、出発を待つ9列車へ向かって歩き始めた。
坂本は数時間前に、タイの公安警察職員から受け取った切符を確認しながら、12号車の二等寝台車の前で足を止めた。
乗車口に立って乗客の案内をしている車掌、ソムバットに声をかける。
「すみません、さっき“麻のジャケットに焦げ茶の帽子”を被った男を見かけませんでしたか?」
彼は、意外にもすぐに答えてくれた。
「――ああ、あの方なら隣の9号車、最後尾一等個室寝台の乗客です。ええと……確か10号室、二人分のチケットを買っておられました」
坂本は車掌の名札に書かれた〈Sombat〉の文字をなぞり軽く微笑んだ。
「二人分? まぁ、いいや、ありがとう、ソムバットさん。コップクンクラップ!」
タイ式に拝むように礼を言うと、軽くステップを踏むように車内へ乗り込んだ。
「快適なご旅行を!」
ソムバットはその背中を見送りながら、静かに敬礼をした。
(あの男なら信頼できる…ソムバットは敬礼の手をそっと下ろした)
2.発車ベルと蜘蛛の影
「サカモトさーん!」
坂本が背後から聞き慣れた声が飛んだ。
派手なサングラスに赤いバンダナでまとめたポニーテール。
タイトなジーンズに白いカウボーイブーツ…
タイ公安警察の日本語通訳官、リサが狭い車内を大きく手を振り追いかけて来た。
「お久しぶりでーす!元気してますかぁ!」
「……なんでお前がいるんだ?」
「だって、心細いでしょ、日本のオジサン一人旅は」
「オジサンて言うな。まだ三十六だ、それに今度も仕事だ、だからなんでここに来たんだ?」
「私、今日から三日間非番なんです、だからチェンマイの実家の母に会いに行こうと思って…」
「非番って、リサ、よりによってなんでこの列車なんだよ」
「ふふふ、私が国際公安部に言って切符は2枚取ってあるんですよ…感謝してくださいよ!」
「非番なのに、俺の通訳に来たのか?」
「心配だからに決まってるでしょ。今回はプロの通訳付きの仕事ですよ、ふふふ」
「……ったく、手伝いに来たんじゃなくて、からかいに来ただけかよ!」
二人が乗り込んだのは、エアコン付きの上下二段仕様の二等寝台12号車。
リサは事前に日本大使館からの要請を受け、坂本が乗る列車の切符を用意していたのだ。
チェンマイ行き寝台特急9列車は、フアランポーン駅を出発しても、1時間ほどは向かい合った座席として利用される。
車掌が1号車から順番に1時間ほどかけて、コンパートメントごとに、座席を折りたたみマットレスやシーツを敷いて寝台へと整えていく。
リサは上段の客が来ないことを確認すると、向かい合わせの座席の坂本の前にちょこんと座った。
座席シートの上に置かれた坂本のリュックを「よいしょっ」と掴んで座席下に押し込む。
「重いわねー、男の人って何でも詰めすぎるんですよ。捜査資料とか下着とか一緒にしてるタイプでしょ」
「おい、勝手に想像するな」
「図星ですね、ふふふ」
軽口の裏に、職業柄の観察眼が光る。
そしておもむろに、スマホを取り出して自撮りモードをオンにし、自分の顔を映しながら、車内の様子やホームで見送る人々の様子を撮り始めた。
「さて、みなさん、今日は寝台特急女子旅シリーズで~す! 今回は日本から来た刑事さんと一緒で~す!」
「やめろ、肖像権侵害だ」
「いいじゃないですか〜! 事件の推理、バズりますよ!」
「馬鹿なことをするんじゃない、止めないか、このやんちゃ娘が!」
「はい、じゃあ笑って〜」
「……(笑えねぇ)」
二人の軽口が、発車ベルの音に紛れて消えた。
―リサのカメラのフレームの隅。
プラットホームを小走りで駆け込み、黒いフードにサングラス、黒のジーンズを履いた人物が手ぶらのまま列車に飛び乗った。
リサがカメラを引いたその一瞬、フードを被り直した襟元に、蜘蛛の刺青がチラリと光った。
「今動画に映った人、ちょっと怪しくない?……あれ、女? 男? 男にしては、あまりに美形ですよね」
「たぶんレディボーイだな。タイじゃ珍しくないだろ?」
「でも、蜘蛛のタトゥーって、影の組織のコードらしいですよ」
リサはいつもの調子でいい加減なことを言った。
坂本は、ふぅ、と深くため息をついた。
だが、その何気ない動画が、のちに事件の“決定的な証拠”になるとは、二人とも思っていなかった。
―午後6時10分
定刻出発―列車のドアが閉まり、車掌の笛が鳴る。
先頭でけん引する、吊り目ライトのディーゼル機関車は、ワインレッドとライトグレーの塗装で“ウルトラマン”の愛称を持ち、その姿は夜のホームに一際目立っていた。
短い警笛と共に黒煙を吐き、連結器が「ガチャン…ガチャン…」と鈍く響く。
眠っていた巨体が目を覚まし、ゆっくりと動き出すかのように…
3.夜の車窓に映る影
窓の外、バンコクの夜景がゆっくりと遠ざかっていく。
ネオンの明滅がレールの継ぎ目に反射し、都市の鼓動のように列車の窓に映る。
悪名高きバンコクの渋滞が通勤時間帯と重なり、踏切には車の列が途切れず遮断機が下ろせない。客を乗せたバイクタクシーが、その隙間を忙(せわ)しなく縫うようにすり抜けていく。
フアランポーン中央駅を出ても、しばらくは徐行が続く。
線路脇のスラム街の屋台から立ちのぼる、ガイヤーンの煙が、夜風に乗って窓ガラスを撫でていき、香ばしい匂いが密閉された窓の外に漂うのを感じる。
―午後6時34分
やがて列車は高架を上り、新しいバンコク中央駅―クルンテープ・アピワット駅のプラットフォームに滑り込む。
地方からの長距離バスが発着し、近郊からはMRTやBTSが接続する、近代的な巨大ハブ駅だ。
ガラスのドーム天井に蛍光灯の光が幾重にも反射し、白く眩しく輝いていた。
電光掲示板には、タイ語と英語、そして中国語までもが並び、構内放送の声が機械的に響く。
「これが……新しい時代の玄関口か」 ―坂本は小さく呟いた。
便利で、清潔で、効率的…だが、その完璧さの裏で、かつて自分が惹かれた“タイの良さ” …人のぬくもりや混沌とした活気が、少しずつ薄れていくような気がした。
列車は短いベルの音とともに、北へ向かい、一路、夜の帳へと滑り出した。
点々と浮かぶ灯りの向こう、稲穂が月明かりに淡く揺れ、線路脇のバナナの葉が車内灯を受けては消えていく。
次の停車駅はアユタヤ。
十六世紀に栄えたタイの王都であり、かつて“山田長政”が治めた日本人町の跡が残る。
夜には寺院の遺跡群がライトアップされ、観光名所の一つとなっている。
車内放送の英語とタイ語の案内が流れ終わるころ、リサが口を開いた。
「サカモトさん、寝台を用意し始めたようね、今のうちに食堂車へ行きませんか? 私、お腹ペコペコなんです」
坂本は腕時計を見て、ゆっくりと息を吐く。
「日本は……もう八時半か。そりゃ腹も減るよな」
9号車のエアコンが効いた食堂車は、想像以上に明るかった。
天井の蛍光灯が白く反射し、赤いビニールシートのボックス席には、欧米の旅行者や、カップルが英語併記のメニューを選んでいる。
窓際には模造のバラが飾ってあり、カーテン越しに夜景が流れ、奥のカウンターでは、白衣のスタッフが料理をプラスティックの皿に盛り付けていた。
しかし、漂う匂いは相変わらず下町の屋台そのものだった。
炒め油とナンプラーの香りが、まるでこの国の素顔を忘れるなと言わんばかりに食欲を煽る。
リサはメニューを見ながら「タイ風照り焼きチキン」とコーラを注文し、坂本は辛さ控えめの「ひき肉のガパオライス」とハイネケンのノンアルコールビールを頼んだ。
「サカモトさん、辛いの苦手なんでしょう?」
「いや、好きだが……翌日まで引きずるんでな」
「かわいい言い訳ですね〜」
「いちいちうるさいなぁ…俺の勝手だろうが、アルコールは売ってくれないし、ったく…」
楽し気なリサの笑い声が踊り出す。坂本はその笑顔を見ながら、久しぶりに“任務”の匂いがしない和やかな一時を感じていた。
―だが、その笑顔の裏で…
窓の外を走り抜ける闇の中に、どこか落ち着かぬ気配が潜んでいる…
そんな予感が、坂本の胸の奥をかすかにざわつかせた。
リサは、自分が撮った短い動画の背景に、一人の影が通り過ぎていくのに気づいていた。
黒いフードにサングラス――間違いない。
発車ぎりぎりで飛び乗ってきた、あの“レディ・ボーイ”だ。
リサもまた、言いようのない胸騒ぎのようなものを感じていた。
4,静寂の車両と“午後10時”の謎
―午後7時25分
食堂車から戻ると、車掌のソムバットが、ちょうど二人の座席を寝台へと整えているところだった。
坂本はその間、12号車のデッキに出て、隣の9号車――最後尾の一等個室寝台車の様子を覗いた。
最後部のデッキに立つ男は、村瀬。
携帯電話を握りしめ、太くよく通る声を低く響かせていた。
「……ああ、 “午後10時”到着予定だ。いいか、午後10時だ、間違えるなよ…」
男はロレックスの腕時計を何度も確かめながら、電話の相手に念を押している。
機関車のディーゼル音から最も遠く離れた9号車。
アユタヤまでの区間はロングレールが敷かれており、あの「ガタンゴトン」という継ぎ目の音もない。
車輪は滑るように鉄路を進み、車内には異様なほどの静けさが満ちていた。
そのため、12号車のデッキに立っていても、村瀬の話し声はまるで隣室の会話のように鮮明に届いた。
―村瀬達夫
坂本はかつて、日本で一度だけ彼と顔を合わせたことがある。
一見、穏やかで人当たりのよい男―しかしその裏で、村瀬は人身売買組織の資金を巧妙に着服し、資金洗浄によって闇に隠していた。
さらに、裏帳簿や顧客リスト、未成年売買の映像――組織の急所を握る情報を詰め込んだUSBを持ち出し、今度はその情報を盾に、タイ側の送出し組織のボスを脅迫し、巨額の金を引き出そうとしていた。
―それが、村瀬達夫のもうひとつの顔だった。
「午後10時」という言葉に、坂本はどこか引っかかるものを感じた。
だが、今はまだ“動く”時ではない――そう判断し、職務質問を控えた。
ふと視線を落とした携帯の画面には、午後7時30分の表示とともに、待ち受けに映る優しく微笑む妻と幼い娘の笑顔が輝いていた。
坂本は村瀬への視線を外し、セットされた寝台に腰を下ろす。
リュックから書類を取り出し、村瀬に関する資料をもう一度確認した。
反対側のベッドでは、リサが携帯電話をいじっている。
誰かとチャットでもしているのか、ニヤリと笑ったかと思えば、次の瞬間には小さくため息を漏らす。
そしておもむろに坂本のベッドのほうへ身を寄せ、彼の腕を掴んで上目遣いに囁いた。
「ねえ、サカモト刑事さん、もう寝ようよ。村瀬なんて、明日チェンマイで捕まえればいいじゃない?」
「お前こそ、自分のベッドに戻れ」
坂本が呆れ顔で言うと、リサは舌を出して笑い、「はーい」と言って自分の寝台に戻り、すぐにカーテンを閉めた。
「……ったく。なんなんだ、あいつは」
坂本は深く息をつき、再び書類に目を戻した。
アユタヤ駅まで、あと20分――
午後7時55分、アユタヤ到着。定刻より10分遅着。
列車は静かにアユタヤ駅に滑り込んだ。
ホームの向こうには、ライトアップされた寺院遺跡が夜霧の中に浮かび上がり、古都の輪郭を淡く照らしている。
「サカモトさん、アユタヤですよ。まだ起きてますか?」
坂本は書類を閉じ、眠そうに答えた。
「ああ、起きてる。それがどうした」
「夜行列車って眠れないものですね、どうも目が冴えちゃって…」
リサがあくびをしながらカーテンを開け、窓の外を覗き込む。
その瞬間、彼女の声が一段高くなった。
「あれっ、あの人……黒いフードの! 蜘蛛の刺青の、あのレディボーイ!」
リサは慌てて携帯を構え、録画ボタンを押す。
「おい、リサ。ちゃんと撮れよ、今の撮れたか?」
「え? あ……たぶん!」
「逃すんじゃない、撮り続けてくれ!」
「はいはい、わかってますよ~」
夜風がふっと吹き抜け、停車している列車の車体がかすかにきしんだ。
発車までの時間が、妙に長く感じられる。
乗り込んでくるのは、袈裟姿の僧侶、荷物を抱えた帰省のタイ人、西洋人バックパッカー、出張サラリーマン、車内販売のスタッフ…
だが――降りたのは、あの“レディボーイ”一人だけだった。
9号車の方からは、誰一人降りた気配がない。
リサは携帯で撮った動画を見なおして、坂本に親指を立てて、
「ばっちり!」とペロッと舌を出した。
そのとき、一等寝台車の扉から三人の男が乗り込んできた…。
先頭の男は、恰幅のよい体をダークグレーのスーツに包み、鋭い眼光を光らせている―胸にはタイ警察の徽章。
―タナチャイ警部。タイ警察麻薬取締局の刑事として、その名を知らぬ者はいない。
後ろに続く二人は、紺色のサファリスーツを着た部下のディオとレッド。
一人はサングラス越しに車内を舐めるように見回し、もう一人は無造作にポケットの中で拳銃の感触を確かめていた。
坂本は胸の奥に、かすかな不安を覚え、リサと目を合わせた。
「私、あの人、知ってます…この世界ではかなりヤバイ人ですね…」
車掌ソムバットの声が駅に響いた。
「当駅発車時刻は20:00、午後8時00分になります…」
それを聞いたリサが、携帯を持って列車の外へと慌てて飛び出して行った。
「おい、リサ!何処へ行くんだよ!」
坂本は声を飲み込み、ただ車内の窓から、駅の外へ駆けて行くリサの背中を見送るしかなかった。
――それが、 “事件の幕開け”となることを、坂本はまだ知る由もなかった。
(第2話へ続く)
第2話 王都の鎮魂歌
1.復讐の序曲
―午後7時55分
雨季の雨は途切れることを知らず、夜空を濡らし続けていた。やがて再び勢いを増し、車窓を激しく叩き始める。
タイ中央部を流れるチャオプラヤ河の本流と、支流のパーサック川に沿うように線路は続いている。だが歴史ある観光地にしては意外に簡素な駅舎だ。
宵の帳が降りかかるというのに、駅前にはまだ、赤、黄、青、緑――絵の具のような原色をまとったトゥクトゥクが客待ちをしている。運転手たちは、地図やスマートフォンを片手に降りてくる観光客へ向かって、威勢よく声をかけていた。
駅の西側を流れるパーサック川との間には、ゲストハウスや川エビを焼く屋台、レンタル自転車の店が軒を連ねている。
リサは黒いフードを深くかぶった“レディボーイ”の後を追い、列車を勢い降りていき、未だ戻らない。
彼女の姿が、薄暗い駅の端のフェンスを乗り越えたかと思うと、次の瞬間――赤いスポーツカーが低い唸りを上げ、闇の中へ滑るように走り去った。
構内の蜜柑色のライトに照らされた時計の針は、午後7時59分を指している。
出発まで、あと一分。
「いったいどこへ行ったんだよ……まったく」
坂本が呟いたその時、閉まりかけたドアの隙間から、リサが息を切らせて飛び込んできた。
「急に飛び出して、何をしていたんだ!」 ――坂本の声には苛立ちが混じっていた。
もしかして、駅前の露店でアユタヤ名物の「*ローティ・サイ・マイ」でも買ってきたのではないかとさえ思ったが、意外な答えに驚いた。
《≪(* タイ・アユタヤ名物。線状の綿あめを緑やピンクのクレープ状の生地で包んで食べる甘いお菓子) ≫》
「私、見たの、あのレディボーイ――いいえ、女よ。黒いフードを脱いで、腰まである長い髪をほどいたの。赤いベンツに乗って走り去ったわ。あの女、絶対に怪しいわ」
身振り手振りで、大げさに話すリサの頬は興奮で紅潮していた。
坂本は眉をひそめ、窓越しに駅前の通りを見やった。
“なんだ、買ってこなかったのかよ…食べたかったのに”
坂本は率直にそう思ったのだが、しかし、こういう時の女の勘は意外と馬鹿にできない――。
アユタヤ到着の少し前から、今も13号車の一等個室寝台車の通路を行き来する、車掌ソムバットの姿が目に入った。落ち着きのないその挙動に、坂本の胸の奥がざわめく。
ここからリサの得意な推理が始まった――
役職は日本語通訳だが、本人は捜査官並みの洞察力を持っている、と本人は思っているはずだ。
「あの女、13号車の最後尾の個室に隠れていたのよ、きっと。でも車掌が気づかないわけがないのに……」
リサは早口で言い、13号車の通路に立つソムバットを指さした。
「隠れるってことは……あの車掌が匿っていたってことか?」
「私たちが食堂車にいた午後7時30分ごろ、私が撮ってた動画の前を横切ったのがあの女だったとしたら、13号車へ行って、アユタヤ到着までの25分間、空いている個室に隠れることはできるわ。でも……なぜ?」
「13号車の最後尾には乗降扉がないわ。進行方向側の12号車の扉からしか降りれない。アユタヤでは多くの乗客が乗ってきた。人目を避けるなら……誰かが最後尾の非常扉を開けたとしか考えられないわ」
「じゃあ、開けたのは村瀬か? いや、奴が非常扉の鍵なんて持っているはずがないしな」
「ということは――」
リサは坂本と顔を見合わせ、同時に言った。
「車掌だ!」
二人の声と同時に列車は、静かに拝謁を終えるように、悠久の王都を後にした。
2.赤いベンツの女
ニーナの携帯の待ち受けは午後7時45分を表示していた。
村瀬の個室の扉の前―
黒いフードにサングラス、栗毛色の髪を束ね、深紅の口紅。
ニーナは通路の窓ガラス鏡に映った自分の姿を一寸見つめ、深く息を吸い込んだ。
ドアを軽くノックをする。
少しの間のあと、ドアがわずかに開いた。
隙間から現れたのは、険しい顔の男――村瀬だった。
「おい、誰だ。ルームサービスなんて頼んでないぞ」
一瞬、警戒の色が浮かんだが、相手を悟ると村瀬の口元が緩んだ。
「……ニーナか? 早いじゃないか。午後十時に来いって言っただろ?」
「あなたの時計、日本時間のままじゃない? いつもそうなんだから……」
ニーナはふっと笑った。
「そうか、タイはまだ八時だったな。まぁいい、とにかく入れ。ちょうど終わったところだ」
村瀬は無造作に言い、ニーナを部屋へ迎え入れると、内側からドアのロックをかけた。
ニーナはアユタヤの寺院遺跡での撮影を終え、私服に着替えてトゥクトゥクに乗って来たのだと話した。その声は軽やかだったが、瞳の奥にわずかな翳りが宿っていた。
村瀬はバッグから銀色のスキットルと、二つのショットグラスを取り出した。
「どこにいても、日本のウィスキーが一番だな……」
村瀬はそう言いながら、琥珀色の「山崎」を注いだ。二人のグラスが触れ、澄んだ金属音が静かな部屋に響く。
村瀬が一口含み、グラスを置くと、ニーナの腰を抱き寄せた。唇が重なり、ニーナの吐息が村瀬の頸筋をなぞる。その甘美な香りは、どこか哀しみの影を纏っていた。
村瀬が身体を捻り、ベッドの上のパソコンへ手を伸ばしたその瞬間――。
黒い革手袋をはめたニーナの指先がわずかに動き、白い粉が村瀬のグラスに落ちた。
――琥珀色の雫が小さな閃光を放つ。
村瀬は、「ダウンロード終了」と表示されたパソコンからUSBメモリを抜き取り、ニーナの頬に押し当てた。
「……これが、俺たちの未来だ」 と言ってグラスを手に取り、一息に飲み干した。
ニーナは紅い唇を村瀬の耳元に寄せ、低く囁いた。
「あなたの未来も…今、終了するのよ」
次の瞬間、村瀬の顔色がみるみる赤紫に変わる。喉を鳴らし、息を詰まらせながら、虚ろな目でニーナを見た。
「ニーナ……お前……俺を……裏切ったのか……」
村瀬は胸を掻きむしり、壁を叩きつけ、倒れ込んだ。机の上のグラスが転がり、琥珀の雫が床に散る。左手の腕時計がドアノブにぶつかり、ガラスが砕けた。
ベッドの上で、村瀬は空を掴むように手を伸ばし――やがて、指先が力なく垂れた。
村瀬の未来は、虚しい静寂の中に堕ちていった。
ニーナは無言のまま、彼の硬直した指からUSBメモリを抜き取り、ドアの施錠を外した。
村瀬のロレックスは、午後9時59分を指して止まっていた。
発車ベルが鳴り終わる寸前、ニーナは村瀬の個室を出ると、最後尾の非常扉から身を躍らせた。
「……ありがとう、兄さん――」
車掌のソムバットは、非常扉の鍵をそっとポケットにしまった。
列車が「村瀬の死」を知らせるのは“二時間後”のことだった…
*
駅の駐車場の片隅に佇む、赤いベンツSLK250の滑らかなボディが街灯に淡く反射する。
黒いフードが滑り落ち、夜風が束ねられていた栗毛色の髪をほどく。絹糸のような光沢が背をなで、変装を脱ぎ捨てた女―ニーナの素顔を浮かび上がらせた。
ニーナは滑らかなレザーシートに身を沈め、エンジンをかけた。軽やかな唸りが夜の静寂を破る。
列車がホームを離れるのとほぼ同時に、ベンツはヘッドライトを灯し、闇を切り裂くように走り出した。
アユタヤからナコンサワン駅まで、飛ばせば一時間ほどで着く。
―列車より早く着ける。
フロントガラスを叩く雨音が、車内に流れる哀しいバラードに震える。
―記憶の中のあの夜も、同じ雨が降っていた。
3.復讐の決意
―まだ十二歳の頃。
タイ北部の貧しい村で生まれたニーナは、親の借金のために売られた。
「明日からはバンコクで働くんだ」
そう言って彼女を連れ去ったのは、村瀬の率いる日本人ブローカーと、タイの裏社会で“Redback Spider”(通称・レッドバック)と呼ばれる人身売買組織の男たちだった。
村瀬は、東南アジア文化交流財団という看板の裏で、少女たちを違法なマッサージ店や外国人クラブへと“輸出”する裏取引の仕掛け人として暗躍していた。
―狭い部屋。閉ざされた窓ガラスを叩く哀しい雨の音。 逃げ出すこともできず、ニーナは幾日も辛く寂しい日々を過ごした。
やがて、娘を取り戻しに来た両親は、村瀬の部下たちに撃たれた。母は血に染まり、父は声を上げる間もなく倒れた。
―その夜から、ニーナの世界は希望を失った。
十六歳のとき、脱走に成功した。だが、逃げた先で再び村瀬に拾われた。
「運がいい女だな…」
そう言って村瀬は笑い、別の“仕事”を与えた。
情報収集と、色仕掛けによる潜入工作―― 裏口座、麻薬資金、政治家、警察幹部への裏献金……。 すべての証拠は、彼のUSBメモリに収められていた。
その存在を知ったとき、ニーナの胸の奥で何かが静かに燃えた。
―あの夜の血の代償を、今こそ返す時だ。
彼を惹き付けるためなら、村瀬の「情婦」となり、どんな役でも演じた。
化粧を覚え、声を変え、愛のない微笑を作った。
“あとは、最後の毒蜘蛛に、一発の銃弾と冷たい微笑みを与えればいい…”
4.ロッブリーの猿
「次の停車駅はロッブリー、到着時刻は午後八時四十分の予定です」
車内放送が小さく響いた――列車は夜の闇を突き走り続ける。
―午後8時38分
アユタヤを出発した13列車は、遅れを取り戻すためかなりスピードを上げて、予定よりも早くロッブリー駅に到着した。
ロッブリー…日本人の旅動画でも“猿の街”として紹介される、クメール王朝からの古い歴史を持つ街。ヒンドゥー教の猿神「ハヌマーン」が神聖視されてきたせいか、猿は「神の使い」として保護され、何千頭もの猿が現地住民との共存を続けている。
夜中だというのに、駅前の通りには猿の気配が絶えない。
街灯に照らされた歩道を、毛並みの乱れたボス猿が子分の猿を数匹連れて、悠然と歩いていた。猿に支配された街の人間たちは、その脇を何事もないように通り過ぎる。
―まるでこの街の主が誰なのか、暗黙の了解があるかのようだった。
停車中の車内――。
リサが「夜食」と称してバッグからポテトチップスを取り出すと、ベッドで書類に目を通していた坂本が眉をひそめた。
「音、立てすぎだろ。静かにしろ!」
「だって美味しいんだもん。いいよ、少しだけならあげる」
「いらねぇよ。しまえよ、猿に盗られるぞ」
その“パリパリ”という音が、ホームの暗がりに潜む“ギャングたち”に気付かれた。
窓の外をのぞくと、猿たちがまるで映画でも観ているかのように、じっとこちらを凝視している。
坂本が「まさか列車にまでは入ってこないだろ」と笑った、その瞬間――
開け放たれた扉から、一匹の猿が飛び込んできた。
リサの悲鳴とともに、その切り込み隊長は、リサの持っていたチップスの袋を見事に奪い去る。猿は軽やかに宙を舞い、完璧な着地で袋を抱えたまま、車内を駆け抜けて夜の闇へと消えた。
「えええ、信じられない…私の大切なおやつが…!」
呆然とするリサの横で、坂本が「……ロッブリー、油断ならんな」と声を出して笑った。
リサは「ほんとにもう! 今度来たら許さないから!」と真顔で怒った。
―猿の街では、夜食すら命がけ…そんな教訓が刻まれた時間だった。
―午後8時46分
ロッブリーの猿騒動のあと、列車はゆっくりと動き出した。
すぐ左手の窓に、ぼんやりと影が浮かび上がる。
それは、トウモロコシを突き刺したような三基の塔を持つ、クメール朝時代の古寺――プラ・プラーン・サームヨート。ロッブリーを象徴するその寺院は、闇の中にひっそりと沈み、まるで二人にその後に起きる、不吉な何かを語りかけるかのように静まり返っていた。
「おい、リサ……それより次の停車駅はナコンサワンだ、 “午後十時” 着だぞ」
車掌のアナウンスが、低く車内に響く――ナコンサワンまで、あと1時間14分。
アユタヤ駅から乗り込んできた三人の男――
タイ公安警察司令部のタナチャイ警部と、部下二人は、2号室と3号室をつなげたコネクティングルームに陣取り、ソムバットにセットされた寝台をまた座席へと変えさせた。
部屋のドアは開けっ放しにして、時おり10号室の村瀬の個室を確認していた。
しかし、村瀬の個室のドアは内側から鍵がかけられ、外からは何も見えない。
《≪ 実際には、車掌ソムバットが特殊な鍵で外側から施錠し、あたかも村瀬が中にいるように見せかけていた… ≫》
「間違いない、奴は中にいるな…」
低くつぶやいたタナチャイ警部が、頬に刻まれた古傷を撫でながら部下に目配せする。
「奴の部屋の出入りは絶対に見逃すな」
二人の部下が無言で頷いた。
窓の外には、漆黒の田園が広がり、ところどころに民家の灯りが点々と浮かぶ。すれ違う貨物列車の轟音が、時折、車体を震わせていった。
タナチャイ警部は座席に腰を下ろし、時折電子タバコをふかす。
「ナコンサワン着は午後十時ちょうどか……」
隣の部下ディオが答える―「はい、警部…」 素顔を隠すように黒いサングラスは夜の闇でも外さない。金のネックレスがシャツの襟元でちらりと光る。派手な身なりだが、タナチャイが最も信頼する部下の一人だった。
警部は無言のまま白い煙を吐き出し、その向こうに苦々しい表情を浮かべた。
「USBだ、例の組織の“情報”がすべて入っている。奴はタイ側の組織からも金を脅し取るつもりだ。プラサート将軍からの情報だ、間違いない‥‥‥」
無表情な瞳と、刈り上げた赤茶の髪。 レッドは拳銃のグリップを指先でなぞりながら、感情のない声で言った。
「将軍からの…はい、わかりました…」
二人とも公安警察というより、裏社会の“仕事人”のような風貌だった。
「よし、この車両の全室へ職務質問しろ、だが、村瀬の部屋は覗くな。奴を泳がせておけばもっと大きな魚が釣れる…」
タナチャイ警部の瞳の奥に微かな憎悪の色が宿った。
村瀬――かつて捜査の協力者として信頼していた男。だが三年前、タナチャイの同僚を裏切り、死に追いやったのもあいつだった。
タナチャイ警部は懐中時計を確認し、また白い煙を吐いた。
遠くで夜汽車の長い汽笛が聞こえた――針は午後9時55分を指していた。
「到着時刻の十時になれば奴は動く。USBの受け渡しか、逃走か――どちらにせよ、勝負はナコンサワン駅だ…」
カタンコトン、カタンコトン――13列車は車輪の音を規則正しく刻みながら、ナコンサワンの小さな町へ辿り着こうとしていた。
5.ナコンサワンの夜
ナコンサワンの町の灯りが、夜霧の向こうにぼんやりと浮かび上がっていた。
列車は“ハイウェイ2131”と呼ばれる国道沿いを、並走する車の灯を横目に、ゆっくりと速度を落としていく。
そのころ、駅前の市場の駐車場に、一台の赤いベンツがひっそりと停まっていた。
運転席に揺れる黒い影――ニーナ。
黒革のジャケットにミニスカート、膝上までのブーツのジッパーを静かに上げる。
両腕には肘までの黒革のガントレット。
最後に、唇を紅く染め、村瀬が好んだ男物の香水をひと吹き。
バックミラーに映る自分へ、氷のような微笑を投げかけた。
人気のない駅前を、ヒールの音がコツコツと響く。
その音が霧に吸い込まれるころ、列車の汽笛が低く響いた。
—午後10時00分
薄灯りのホームに、売店の蛍光灯が滲むように差し込む。
やがて13列車がブレーキを軋ませ、珍しく定刻に滑り込んだ。
黒い革のジャケットに包まれたニーナのシルエットを、列車の車内灯が照らし出す。
腰まで流れる艶やかな髪が、光を受けて亜麻色に変わる。
―村瀬の情婦、ニーナ。仄かな明かりの中でさらに妖艶さを露にする。
夜勤の駅員が切符を確認し、彼女を13号車の乗降口へと案内する。
ニーナは静かに10号室へ向かい、黒革の手袋に包まれた指でドアを二度叩いた。
「村瀬さん……?」 ――応答はない。
ドアは内側から鍵がかかっている。
「村瀬さん、わたし、ニーナよ、ドアを開けて…」
今度は少し強くドアを叩いた―
異変を察した車掌ソムバットが駆け寄り、ドアをドン、ドンと叩くが反応はなかった。
「お客様、失礼しますよ!」
そう言って腰の鍵束から一本を抜き取り、10号室のドアに差し込んだ。
扉が開いた瞬間、鼻を突くような匂いが車内に広がる。
ベッドの上――村瀬が仰向けに倒れていた。
口から血を流し、白いシーツが真紅に染まっている。
ニーナは息を呑み、声にならない悲鳴を押し殺す。
ハイヒールの踵が硬い床を打ち、ニーナは震えるように後ずさった。
その静寂を破るように、車内の通路を駆ける足音が響く。
張り込んでいたタナチャイ警部が、ディオとレッドを伴って現れた。
「何があった? そこをどけ!」
タナチャイ警部は、ニーナと車掌を突き飛ばすように部屋へ入った。
血の匂いを吸い込みながら、現場をくまなく見回す。
“やられた、USBがなくなってる……”
その低い声は、ニーナにも車掌にも届かなかった。
ベッド脇のテーブルには携帯電話とヴィトンのポーチ。中からパスポートと航空券が覗いている。床には銀色のスキットルとショットグラスが二つ。黒みがかった液体が、静かに広がっていた。警部の視線が村瀬の左腕に止まる。
村瀬の腕時計のガラスは割れ、針は午後7時45分を指していた。
「……妙だな。今は十時過ぎだ、時計が狂っていたのか、それとも――」
白い手袋をはめ、村瀬の左腕をそっと持ち上げる。
その手首には小さな蜘蛛の刺青があった。
そして振り返り、ディオとレッドを鋭く見据えた。
「お前たち、ちゃんと見張っていたんだろうな!」
ディオがサングラスを指で押し上げながら、
「はい、警部。車掌以外、誰も近づいていません。」
レッドは終始、無言で拳銃のグリップを撫でていた。
凄惨な情景に震えるニーナをソムバットが、タナチャイ警部の部屋へ案内する。
タナチャイ警部は、ニーナを座席に座らせ、自分は立ったまま、紳士的な落ち着いた声で質問を始めた。
「驚かれたことでしょう、少しお話を聞かせてくれませんか?」
タイ公安警察のバッジとIDを見せ名を名乗り、そして横に立つ二人の部下を紹介した。
「彼らは私と同じ公安警察の部下でね、ディオとレッドです…」
二人は黙って小さくお辞儀をした。
「えーと、殺された方は、村瀬達夫、五十三歳、日本人。東京都出身…」
タナチャイ警部は村瀬のパスポートをテーブルに置いた。
「そして、あなたのお名前を教えていただけますか?」
紳士的な口調――だが、彼の本性を知る彼女には、それが芝居にしか聞こえなかった。
「……ハンサ、ハンサ・ラタナクンです」
ニーナは偽名を名乗った。
「村瀬とは知り合いですか?なぜ彼の個室を訪ねたのですか?」
矢継ぎ早の質問に、ニーナは少し間をおいて答える。
「私は……ナコンサワンで撮影の仕事があって。夕方に終わって、村瀬さんに旅行に誘われていたんです…」
バッグからスマートフォンを取り出し、画面を差し出した。
そこには“午後十時に13号車の10号個室で待つ”というメッセージ。
村瀬の携帯からも、同じ文面が送られていた。
タナチャイは深く眉をひそめた。
「……わかりました。明日の朝、チェンマイ警察署で詳しい話を聞かせてもらいます、今夜は空いている個室でゆっくりとお休みください…」
立ち上がりながら、タナチャイは二人の部下に12号室へ案内するよう目で合図した。
そして、車掌のソムバットに向かって、厳しい口調で告げた。
「地元警察への報告は私がやる。この列車は予定どおりすぐに発車させるんだ、いいな」
ソムバットは無線機のスイッチを切り、運転席へ発車の指示を出した。
―午後10時45分。
列車の出発は大幅に遅れ、ナコンサワン駅を離れた。
先頭の機関車が短く汽笛を二度鳴らす。
それが、これから始まる“第二の殺人”の幕を開けるベルの響きだった。
6.沈黙の10号室
12号車と13号車をつなぐ連結部—
車両間を仕切る通路扉は、センサー式の自動ドアになっており、軽く触れるか近づくだけで開閉してしまう。
坂本とリサはセンサーに触れないように、しゃがんで通路の先をじっと見つめていた。
黒いサングラスに、腰まで伸びた長い髪――あの女だ、間違いない。
リサには、その姿がアユタヤ駅で赤いベンツに乗って走り去った“レディボーイ”、いや、“女”のように見えてならなかった。
通路灯の明かりが微かに揺れ、車体のきしむ音が耳に残る。
ドア越しに見えるのは、その“女”……ニーナと車掌のソムバットだった。
二人は村瀬の個室の前で、何かを話している。声は聞こえないが、張り詰めた空気が伝わってくる。
やがてソムバットが腰の鍵束から一本を抜き取り、10号室の鍵穴に差し込んだ。
ドアを半分ほど開けた瞬間、彼の顔がみるみる青ざめていく――。
「お客様、お下がりください……危険です!」
ニーナは顔を背け、口元を押さえながら後ずさった。
リサは息を呑み、思わず立ち上がった。
「……村瀬の部屋よ。まさか――?」
坂本が眉をひそめ、低く呟く。
「その“まさか”かもしれないな……見ろ、あれを」
直後、三人の男が現れ、立ちすくむニーナと車掌を押しのけて部屋に飛び込んだ。
坂本とリサは息を詰め、顔を見合わせる。
「アユタヤから乗ってきた刑事たちか……。どうやら、彼らも村瀬を監視していたらしい」
列車は緩やかなカーブに差しかかり、車体の軋みが二人の足元を震わせる。
通路の中央で、ニーナは呆然と立ち尽くしていた。
「坂本さん……あの女、いったい何者なの?」
闇の中、稲光が閃き、ふたりの顔を白く照らす。
「わからない。ただ……この事件、思った以上に深いかもしれない」
リサは小さく頷き、自分のベッドに座り、ふぅっと息を吐いて横たわった。
「……なんだか疲れちゃった。せっかくの非番の休みが台無しね」
坂本が苦笑する。
「なんなんだよ。非番なのか、それとも俺の手伝いに来たのか、どっちなんだ」
返事はない―
覗き込むと、リサは列車のリズムに揺られながら、小さな寝息を立てていた。
坂本は静かに立ち上がり、トイレへ向かうふりをして、最後尾の13号車へと足を向ける。
村瀬の個室の前では、まだニーナとソムバットが立っていた。
すれ違いざま、坂本はニーナから微かに男物の香水の匂いを感じ取った。
“やはり……食堂車で見かけた“女”と同一人物か、この香水の匂いは…”
背筋を冷たい汗が伝う。
自分も同じく村瀬を追っている日本の刑事であることを、まだ誰にも悟られてはいけない。
座席に戻ると、リサは無防備に眠っている。
その横顔を見つめながら、坂本は静かに心の中でつぶやいた。
――この列車には、すでに得体の知れない思惑が蠢いている。
列車は遅れを取り戻すかのように、闇を切り裂く雷鳴と闘いながら、ディーゼルの轟音を上げて北へ北へと爆走していく。
(第3話に続く)
第3話 トンネルの幽霊
1. 坂本の独白
遠い闇空に閃光が走り、タイの広大な水田地帯に稲光が沈む。
銀色の雨粒が、流れ星のように窓を滑り落ちていく。
増水した川の水は鉄橋のレールに迫り、列車は歯ぎしりのような軋みを上げながら、逃げるように通過した。
ノートのページに、鉛筆で走り書きの数字が並んでいる。
―17時15分バンコク・フアランポーン駅 村瀬を見張る
―17時50分 村瀬、乗車確認
―18時10分 発車間際に乗車した黒いフードのレディボーイ?気になる
―19時00分 リサと食堂車へ リサの動画に黒いフードのレディボーイが横切る
―19時55分 アユタヤ着 山田長政で有名 村瀬の電話”午後10”きになる
リサがレディボーイを追って降りる 赤いベンツ、発車寸前に目撃
―20時00分 アユタヤ発 ローティ・サイ・マイを食べ損ねた(笑)
村瀬:異常なし
―20時38分 ロッブリー 猿の群れ、リサのおやつを奪う(どうでもいいか)
村瀬:異常なし 個室から出る気配なし トイレは?
―22時00分 ナコンサワン(“天国の都”の意) 村瀬、遺体で発見
―01時15分 どこを走っているのだろう?雷雨が激しい。列車が揺れて眠れない。
坂本はペン先を止め、車窓に映る自分の顔をじっと見つめた。
――この列車の中に、誰かが仕掛けた“意図”が潜んでいるのか?
俺は村瀬をチェンマイまで追い詰めた。そこで終わるはずだった。
しかし、村瀬はアユタヤで“消された”—まるで時間そのものが奪われたように。
現場にいた三人の公安警察。
奴らの視線は、協力者のそれではなかった。
リサが言っていた――「やばい人たち」だと。
その言葉が、今になって重く響く。
タナチャイ警部に身分を明かすべきか。
味方か、敵か。
そして――あの香水の匂い。
食堂車ですれ違った黒いフードのレディボーイがつけていた、男物の香水。
10号室の前を通り過ぎたとき、同じ香りがした。
村瀬の死も、公安の影も、すべてが――繋がっている。
2.馬車の街 ランパーン
ピッサヌローク駅を出発したのは、時計の針が午前一時を少し回ったころだった。
列車は深い闇を切り裂くように北西へ鉄路を向け、シラアット、デンチャイを過ぎ、終着のチェンマイを目指していた。
事件を知らない乗客のほとんどは眠りに落ち、車内にはエアコンの唸りと、レールが軋む低い金属音だけが響いている。
やがて、窓の外にナコン・ランパーン駅の薄闇が流れ始めた。
車輪が分岐レールを跨ぐと、金属の擦れる乾いた音が短く弾け、ガタン、ガタン――と震えたのち、列車はゆっくりと本線を外れ、退避線へと滑り込んでいく。
未明の停車――時計の針は午前五時を少し過ぎていた。
ナコン・ランパーン駅。
ランナー王朝の面影を残す、コロニアル様式の二階建ての駅舎。
その前のロータリーには、第二次大戦中に日本から持ち込まれたC56型蒸気機関車が、今も静かに佇んでいる。 長年の風雨に晒されながらも、その姿は日本とタイを結ぶ鉄路の証として、どこか誇り高く見えた。
駅構内には馬車のモニュメント―今もなお“馬車の街”として知られるランパーンでは、蹄の音が石畳を叩き、夜明け前の静けさを優しく揺らしていた。
―午前5時05分。
坂本はふと目を覚ました。腕時計に目をやる。
車内はまだ半ば眠りの中にあり、通路の照明も半分ほどが落とされている。
運行調整のための停車だと、旅慣れた直感で理解した。
次のクンターン駅までは山岳地帯の勾配が続く。
単線区間のため、上りの貨物列車を先に通すのだ。
遠くで車掌の無線がかすかに聞こえた。
「……十五分待機、出発は午前五時二十分……」
短い車内放送のあと、再び静寂が戻った。
カーテン越しの柔らかな明かりの向こうで、リサの寝息が聞こえる。
坂本は彼女を起こさぬよう、静かに寝台を抜け出した。
ホームに降り立つと、ひんやりと湿った空気が肌を撫でた。
彼は両腕を広げて背伸びをし、軽く屈伸をする。
肩の奥で血がゆっくりと流れ始めるのを感じながら、深く息を吐いた。
駅舎の前では、いくつもの屋台がすでに明かりを灯していた。
湯気の向こうから、米粥と香草の香りが鼻をくすぐる。
さらに、豆乳を温める甘い匂いと、炙った豚肉の脂の香ばしさが入り混じって漂ってくる。
坂本の腹が、ぐう、と小さく鳴った。
「……腹、減ったな」
思わず笑みがこぼれる。旅先で嗅ぐ匂いというのは、どうしてこうも食欲を煽るのか。
もち米に豚肉のソテー……想像するだけで唾が溜まる。
だが、腕時計を見れば、発車まで残り十分。
買いに行くには中途半端すぎる。
「もう少し我慢だな」と小さく呟き、ポケットに手を突っ込んだ。
遠くで僧侶の読経が風に乗って流れてくる。
駅前の馬車馬が短く嘶き、蹄音が石畳を叩く。
――馬車の街、ランパーン。
坂本は、いつかロマン溢れるこの地を訪れ、ゆっくりと歩いてみたいと思った。
束の間の空想を遮るように、坂本は顔を上げ、列車の方に目を向けた。
そのとき、13号車の通路の窓から、一人の男の視線を感じた。
――誰だ? 13号車の個室の乗客か?
「あのサングラスの男……」 ―アユタヤから乗ってきた公安警察の一人か?
その時、車掌のソムバットが乗降口のステップに足をかけながら、13号車の窓を見つめる坂本に声を掛けた。
「お客さま、早く! もう出発しますよ!」
坂本は一瞬我に返り、車掌に軽く頭を下げた。
「あ、ああ、そうですね。ありがとうございます」
窓の方に視線を戻したとき――その影は、もうどこにもなかった。
謎を乗せた列車が再びゆっくりと動き出す―
3.兄妹の絆
―午前5時20分
東の空が茜に染まり始めたが、俄かに空は藍に沈み、まるで誰かが夜を引き戻したかのように、暗雲の隙間から車窓を叩く大粒の雨がゆっくりと流れだした。
終着駅、チェンマイまではあと1時間と50分。
ニーナは激しい雨音と興奮で眠れずにいた。
個室の天井灯がぼんやりと滲んでいる。
その時――扉を叩く音。
「開けろ、俺だ……」
「……」
聞き慣れた低い声。
ニーナはゆっくりと立ち上がり、鍵を外した。
扉の向こうに立っていたのは、車掌の制服を着た男――兄のソムバットだった。
「兄さん……」
「ニーナ……これ以上、手を汚すな。次の駅で降りて、お前は逃げるんだ」
その声は、鉄の車体を叩く雨音にかき消されそうだった。
ニーナは栗毛色の髪をかき上げて、黙ったまま窓の外を見つめる。
雷鳴が遅れて響き、車内に一瞬、青白い光が流れた。
「村瀬を|殺ったこと……まだ取り返しはつく…」
「もう遅いのよ、兄さん。奴らは私たちの人生を奪ったの」
「復讐なんて……そんなことで父さんや母さんが喜ぶと思うのか!」
「父さんが死んだ夜を、兄さんは覚えてる? “事故”で片づけたのは誰? 全部、あのプラサート将軍よ…」
「……」
「母さんを撃ったのは、将軍に情報を流していたあのタナチャイ警部よ……」
ニーナの瞳は、黒い憎悪に濡れていた。
プラサート将軍――タイ軍・警察の頂点に君臨する男。
だが裏では、少女人身売買と密輸を手がける組織の支配者でもあり、国家事業を装い、政府高官さえ黙らせる闇のボス。
兄はゆっくりと帽子を脱いで諭すように言った。
「ニーナ、兄さんはお前にこれ以上罪を犯してほしくない。それだけだ…」
「……」
ソムバットがため息を一つついて部屋を出た。
ニーナは拳を握りしめ、胸の奥で小さく呟いた。
――プラサート。必ず、あなたの血で終わらせてみせる。
ソムバットが部屋を出ると、廊下の灯りが一瞬揺らいだ。
そこに、サングラスの男――公安警察のディオが立っていた。
「よぉ、車掌さん。こんな時間にお仕事とは、勤勉なこった」
皮肉を含んだ声。
「ご苦労様です……」 ―ソムバットは軽く会釈してすれ違う。
だが、その瞬間。
ディオの視線が兄の腰に止まった。
個室の合鍵か……
腰から下がる数本の鍵の束が、微かな金属音を立てて揺れる。
ディオの口元に、薄く笑みが浮かんだ。
―午前5時29分
12号室の扉がノックされた。
「兄さん?」
ニーナは、何の疑いもなく鍵を外した。
だが、扉の向こうに立っていたのは――ディオだった。
彼は素早くドアを押し開け、ニーナを奥へ突き飛ばす。
「村瀬から奪ったUSBを出せ。さもないと――」
ディオは腰のコンバットナイフに手を掛けた。
「お前が村瀬の情婦だってことは知っている。秘密を握って俺たちを強請ろうとは……大した度胸だな。黙ってりゃ、俺が代わりに可愛がってやるのによ」
ディオが腕を掴み、ニーナの華奢なボディを引き寄せる。
「そういや、お前の母ちゃんも……いい女だったぜ」
ディオの唇の端がゆがみ、冷たい笑みが滲む。
ニーナの胸に、怒りが閃き、憎悪が静かに燃え上がった。
だが彼女は紅い唇に微笑の影を灯し、銀の爪先がディオの首筋に触れる。
まるで、芳香の毒のように甘く、静かに艶やかに撫でていく。
「母さんのことなんて……もう忘れたわ。村瀬なんて、どうでもいい。私、自由とお金があればそれでいいの…」
サングラスに映る、ニーナの偽りの微笑。
女豹のような甘い香りが、ディオの警戒を静かに溶かしていく。
ニーナはディオの胸元に身を預け、唇を寄せて囁いた。
「ねぇ……教えて。母さんは最後に、何て言ってたの?」
「さあな。泣きながら“娘を頼む”とか言ってたっけな」
音のない稲妻が、室内を白く切り裂いた。
その閃光に、ニーナの顔が青白く浮かび上がる。
――氷の微笑。
次の瞬間、彼女の手が閃き、ディオの腰からナイフを抜き取った。
銀色に光る刃が喉を裂く。
小さな呻き声を上げ、ディオは列車がカーブの揺れに合わせるように崩れ落ちた。
「……お母さん、忘れてなんかいないわ。けっして……」
赤黒く濡れた、ナイフの柄を握るニーナの手は、冷たく、震えていなかった。
4. トンネルの幽霊
ナコン・ランパーン駅を出た列車は、深い森を縫うように、轟音を闇に残しながら勾配を進んでいく。
樹々に光る稲妻が窓の外を白く照らし出し、人の形を作っては消えていく。
―午前5時32分
リサは、どうやら起きているらしい。
激しい雷鳴と、窓を叩く雨音で目を覚ましたのだろう。
カーテン越しに、シーツの上でもぞもぞと動く影が見える。
坂本は手を止め、メモから目を上げた。
やがて、リサがカーテンを開けて坂本にヒソヒソ声で話しかける。
「ねぇ、坂本さん……起きてますか?」
その声が、いつになくどこか心細い。
「この先のトンネル、出るのよ……」
「何が…?」坂本はメモを見ながらめんどくさそうに訊いた。
「雨の夜明けに、トンネルの奥から青白い顔の女が現れて、寂しく泣きながら、殺された恋人を探しているんだって‥‥‥」
真顔で話すリサに、坂本は吹き出しそうになった。
「なんだよ、いきなり…。ほんと、タイ人ってそういう“お化け話”が好きだな。そういうの、日本じゃ“|都市伝説”って言うんだよ、ただの作り話だろ?」
しかし、リサの目は本気だ。
「都・市・伝・説…だって、ここは田舎だもん!」
リサは口を尖らせて、たまらず坂本のベッドに飛び込み、カーテンを閉め、膝を抱えた。
「こんな雨の夜明けにね、青い光がトンネルの壁に浮かび上がるの……すると、乗客の誰かが消えるんだって…」
坂本は煩わしそうに、リサのベッドを指差して、
「つまらん、くだらん、いい加減にしろ、自分のベッドに戻れ」
と、まったく相手にしない。
「本当よ!クンタントンネルの怪奇現象って、有名なんだから」
―午前5時39分
列車は土砂崩れの危険を避けるため、少し速度を落とし始めた。
やがてクンターン・トンネルの闇が、列車を呑み込もうと待ち構えている。
ラムパーンとラムプーンの県境を貫く、標高578メートル、全長1,362メートルのタイ国鉄の中で最長を誇るトンネルだ。
―午前5時45分
デッキに立つ車掌ソムバットの声が無線に混じる。
《これよりクンタントンネル通過。トンネル内減速、十分に注意せよ》
《こちら線路保守区。トンネル出口付近の斜面で、小規模な崩落を確認‥‥‥》
《――確認のため列車を停止させよ》
まさにその瞬間を狙ったように、ソムバットは電源車のブレーカーを落とした。
5. 亡霊の正体
―午前5時47分
その時、車輪が悲鳴を上げるような音を残して、停止した。
「停まった?」 ―その瞬間、車内灯が一斉に落ちた。
通路のどこかで女性の悲鳴が上がる。
「……なんだ、停電か? 勘弁してくれよ…」
リサは短く悲鳴を上げ、坂本の腕を強く掴んだ。
坂本はポケットの小型ライトを取り出し、窓の外を照らす。
リサは窓に顔を寄せ、息を詰めたまま坂本のライトの先を見た。
トンネルの壁が雨水に濡れて、鈍く光っている。
そしてその奥、かすかに――青白い人影が浮かび上がった。
二人は息を呑んだ。
コツ……コツ……と、ヒールの靴音が静まり返ったトンネルに響く。
「……っ! 何よあの音…」
リサが口を押さえて息を呑む。
坂本も思わずライトを落とした。
「なんだあの青白い光は……」
――列車全体が、息を潜めたように静まり返った。
ただ風の唸りだけがトンネルの奥から響いてくる。
―午前5時50分
ニーナとソムバットは、ベッドシーツで包まれたディオの死体を、音を立てぬように床へずるりと引きずっていた。
「急ぐんだ……非常電源は切った。今のうちだ」
ソムバットの懐中電灯が二人の足元を淡く照らし、13号車の最後尾の鉄扉を静かに開き、重いシーツの塊を線路へ降ろした。
トンネルの中は、濃い湿気とカビ臭いに満ちている。
ニーナが履いているブーツのヒールが線路脇のぬかるみに深く沈み、バランスを崩し死体を落としそうになる。冷たい感触が足首を這い上がる。
「ここでいいだろう…」
ソムバットの合図に、ニーナは小さく息を呑み、ニーナは一瞬だけ目を閉じた。
次の瞬間、シーツに包まれた塊を線路脇の深い溝へと死体を投げ込んだ。
鈍い音がエコーとなってトンネル内に広がった。
―そのときだった。
列車の窓に、かすかな光が差す。
リサはカーテンの隙間からそれを見て、息を詰めた。
雨で濡れたガラス越しに、懐中電灯の青白い光がぼやけて映る。
「……出た……ほら、みて!白い顔が浮かんでる!」
坂本には、それがただの光の反射なのか、本当に“何か”がいたのか分からなかった。
しかし、窓の向こうに広がるのは、ただ黒く濡れたトンネルの壁だけだった。
「何もないじゃないか、ライトの反射だろ、さぁ、もういい加減俺の腕を放せ‥‥‥」
坂本の声にまだ怯えているリサはしぶしぶ坂本の腕を放し、ふぅと息をついた。
ガチャン――列車は息を吹き返したように、かすかなモーター音が唸りを上げた。
―車内に照明が戻り、列車は動き出した。
機関車の低い重音が響き、車輪がゆっくりと鉄を噛む。
トンネルの出口では保線員たちが線路上に崩れ落ちた土砂を取り除いたところだった。
列車は、失われた時間を背負うように静かに闇のトンネルを抜けると、霧雨に煙るクンターン駅が姿を現した。 山あいの国立公園に抱かれたその駅には、早朝の冷気を含んだ空気が満ちていた。
遅延に苛立ちながら、部屋を出てきたタナチャイ警部が、眠気といら立ちを隠せない表情で車掌室に現れ、ソムバットに尋ねた。
「まさに災難な夜だな。そう、一つ尋ねるが、私の部下の一人、ディオの姿が見えない。君は見かけなかったか?」
ソムバットは無表情のまま首を振り、曖昧に返事をした。
「先ほど食堂車でお休みになられてたような…」
タナチャイ警部は何度も頷き、レッドを連れて食堂車の方へと歩いて行った。
ソムバットは二人の背中を見送りながら、ポケットの中のUSBをそっと握りしめた。
12号車の個室では、ニーナは穏やかな寝息を立てていた……
(第4話に続く)
『北の薔薇に消えた寝台特急』タイ・トラベル・ミステリー・シリーズ