『黒影伝説』〜時を駆ける軍馬〜
現代を生きる若き会社員・桜井勇馬は、亡き祖父の遺品整理の最中に、一枚の古びた写真を見つける。そこに写っていたのは、戦時中の日本軍とともに南方戦線へ送られた軍馬「黒影」と、祖父・岡田将一の姿だった。
興味を抱いた勇馬は祖父の過去を辿る旅に出るが、突如として時空の歪みに飲み込まれ、昭和十八年、激戦のビルマ戦線へとタイムトリップしてしまう。そこには、極限の戦場で戦火に翻弄されながらも、誇り高く駆ける黒影の姿があった――。
祖父の生きた時代を目の当たりにし、戦の愚かしさと命の尊さを知る勇馬。黒影と共に駆け抜ける日々の中で、彼は“生きること”の意味を見つけようとする。やがて時は、彼にある選択を迫る――過去に留まるか、未来へ戻るか。焼け跡に咲く絆が、時を超えて命をつなぐ。
戦火と祈りの果てに見出す、もうひとつの「生きる物語」・・・
祖父の遺品から戦時へ時空を超え、命と絆の意味を探す青年と馬の物語。
第一章 祖父の馬、黒影
1. 東京の夜景と桜井勇馬
高層ビルの谷間を縫うように吹き抜ける冷たい風。ネオンが反射するガラスの壁、遠くには東京タワーが淡いオレンジ色に輝き、首都高速をゆっくりと走る車のライトがまるで光の川のように流れている。
東京の一等地にあるオフィス街の一角。午後十一時を過ぎても、桜井勇馬は無機質な会議室に籠り、明日のアメリカのアパレルメーカーの日本進出における物流プロジェクトのプレゼンテーションに備えていた。勇馬は念入りに分厚い資料をめくり、何度も繰り返しリハーサルをする。数字の羅列、効率化の計算、最適化された輸送ルート。どれも重要なはずなのに、虚しさが拭えない。
勇馬は大手外資系の物流会社でベテランの中堅社員として、社内からも顧客からも好く評価されていた。だが、その評価に何の意味があるのか、時々わからなくなる。上司の顔色を伺い、無理な要求にも頷き、「頑張っている自分」を演じる日々。そうして積み上げた仕事は、誰のためになっているのか——いや、本当に必要とされているのかさえ疑わしく思えてくる。
ふーっと深いため息をつき、机に広がる書類の山から視線を逸らす。スマホを手に取り、SNSの動画をぼんやりと眺めた。南国の海をバックに、笑顔で語る若い男がいる。
「本当に大切なのは、自分が何をしたいかなんだ。会社のために働くんじゃなくて、自分のために生きよう——」。
勇馬の指が止まる。明日、このプレゼンが成功したら、また次のプロジェクト。さらに多忙な日々。その先に何がある?それを繰り返し、気がつけば人生の大半が仕事に消えていく。
「……俺は、何のためにこんなことをしてるんだ?」
スマホの画面を見つめたまま、思わず呟く。
学生時代から英語を学び、海外留学も経験し、憧れの外資系企業に就職した。成功するために、ずっとレールの上を走ってきた。でも、それが本当に自分の望んだ道だったのか……?
会議室の窓に映る自分の姿が、まるで別人のように見えた。どこか遠い場所で、本当の自分が別の人生を歩んでいるような気さえする。勇馬は物思いにふけりながら、カップに残った、三杯目の冷めたコーヒーを啜った。
その時、実家の母からのメッセージの着信音が鳴った。
“お爺さんの書斎、片付けないとね。気になる箱があるの、なんだか怖くて開けられないの、今度の連休には帰ってくるんでしょ?”
“気になる箱”…母のメッセージがなぜか勇馬の心を揺さぶった。そういえば、最近なぜか祖父の夢を見ることが増えた。
2. 祖父の夢
勇馬は何処か知らない東南アジアの、山間の農家の縁側に座っている。
陽射しが降り注ぎ、青々としたサトウキビ畑が広がる。鳥のさえずりと牛車の軋む音が響く中、ふと目を向けると、背の高い椰子の木の下から若き日の祖父・岡田将一が現れた。
「勇馬、飲んでみぃ。搾りたてのサトウキビジュースは、ほんまにうまいぞ!」
訛りの強い紀州弁で、祖父が笑顔で差し出した竹のカップから、黄金色の液体がこぼれそうになった。勇馬は一口飲む。甘さの中にほんのりとした酸味、喉を潤す冷たさは懐かしい味だった。
「お爺ちゃん……こんなところで何してるんだ?」
「馬、探しとるんや…」
「馬?」
「黒影をな……あいつは俺を助けてくれたんや」
「お爺ちゃんを助けた……?」
祖父、将一は遠くに見える森を指差して、ゆっくり空を見上げ言った。
「ワシの代わりに探してきてくれ…」
祖父の夢はいつもそこで終わる。
(……黒影? 祖父が探してる? 俺に探せと?)
夢の意味を考えながら、勇馬は母からのメッセージに返信を打とうとした。
3. 黒い馬の幻影
一瞬、外の喧騒が凍りつき、静寂が勇馬を襲った。
勇馬が見つめていたスマホの画面が、まるで生き物のように脈打ち、ゆらめく光とともに浮かび上がる。
轟々と燃え盛る炎の壁。その向こうから、一頭の黒い馬が疾風のごとく飛び出してきた。闇よりなお黒く、その身を煤で染めたような馬が、血のように赤い月を背に、戦場で荒々しく嘶く。
——ヒヒィィィンッ!
嘶きが空間を裂き、勇馬の鼓膜を震わせる。その馬の毛並みには燃え盛る火の粉がちらつくように光が揺らめいていた。その瞬間、馬の瞳が勇馬をじっと見つめ、何かを伝えようとしているようだった。まるで「来い」とでも言うように…
勇馬の心臓が激しく脈打つ。
その時一発の銃声がジャングルに響きわたった…
——バン!
真っ暗な会議室の天井の灯りが付き、部屋がぱっと明るくなった。視界が一瞬で元に戻り、勇馬は驚いてスマホを取り落としそうになった。
同僚の新田洋一が、ファーストフードのハンバーガーと勇馬にとっては四杯目のコーヒーを持って入ってきた。新田は剽軽に笑いながら部屋の灯りを点け勇馬に声を掛けて来た。
「おいおい、真っ暗な部屋でなにやってんだよ、灯りくらいつけろよ、さぁ、食えよ…」
「ありがとう、恩に着るよ、お互い遅くまで何やってんだか…もう少し頑張っていくよ。お疲れ様!」
勇馬はまだ心臓が激しく脈打っているのを感じていた。オフィスの明かりは煌々とついていて、周囲の喧騒も聞こえる。だが、さっきの映像は夢でも幻覚でもなかった ——そう確信できるほど、生々しかった。
「しかし、一体何なんだ、さっきのは……?」
勇馬は携帯の画面を閉じ、机のパソコンから新幹線の座席の予約を入れた。
「じいちゃん、俺は……何を見つけるんだろう」
4. 古びた木箱との出会い
勇馬は、東京駅のホームに静かに滑り込んできた新幹線に乗り込み、深く息を吐いた。都会の喧騒を後にし久しぶりの帰省。三連休とあって、ホームは帰省客や旅行者、さらには海外からの観光客で溢れかえっていた。しかし、勇馬の意識は周囲の雑踏を遠ざけるように、スマートフォンの画面へと向けられていた。そこには母サチからのメッセージが残っている。
(気になる箱があるの。なんだか怖くて開けられないの……)
――何のことだろう? そんな疑問を抱えたまま、新幹線に乗り込み窓際の席へと腰を下ろした。発車のアナウンスが流れ、列車がゆっくりと動き出す。流れゆく景色をぼんやりと眺めながら、勇馬は祖父との幼少期の記憶を手繰り寄せる。
ある日、母が作ってくれた手作りのぬいぐるみの“くまさん”を商店街のどこかの店で置き忘れたことがあった。小さな勇馬にとって、その柔らかなタオル生地の肌さわりが何よりも大切な存在だった。
“くまさん”を失くした日は家中が大騒ぎとなり、泣きじゃくる勇馬をよそに、家族総出で商店街を探し回った。しかし、その最中、普段は厳格で口数は多くなく、自宅の庭で大工仕事をしていた祖父・岡田将一は作業場から一本の木彫りの馬を取り出し、勇馬にそっと手渡した。小さな手には余るほどの木製の馬。赤茶色の塗装が施され、細部まで精巧に彫られていた。
しかし、柔らかく温もりのある“くまさん”を失った幼い勇馬には、それは代わりにはならなかった。涙をためながらもきょとんとする勇馬を見て、母が祖父に言った。
「おじいさん、勇馬にはまだ早いですよ……それに、その馬で何頭目ですか?」
祖父は何も言わず、木彫りの馬を作業台に戻した。そこにはすでに十頭以上の木彫りの馬が並べられていた。
結局、“くまさん”は商店街の菓子屋の店主によって発見され、無事に勇馬の元へと戻った。しかしその時、祖父の作業台の上に並ぶ木彫りの馬たちに、なぜか心を奪われたことを、勇馬は今でも覚えている。
母親が見つけた木箱というのも、恐らく祖父が器用に作ったものであろうということは想像がついていた。
勇馬を乗せた列車は速度を落とし、懐かしい故郷の景色が窓に映し出していた。勇馬はまた深く息を吸い込み降りる準備を始めた。
5.祖父の書斎と岡田組
幼い頃から、祖父、将一の書斎には足を踏み入れるのを躊躇っていた。分厚い本が並ぶ古びた本棚、独特の木の香り、そして祖父が大切にしていた古い机。そして木彫りの馬たち。あの部屋には何かがある——そう子供心に感じていた。
(……馬、探してるんや)
夢の中で祖父が呟いた言葉が頭の中にこだまする。
将一が言った“黒影”とは何なのか?
答えを求めるように祖父の書斎へ足を踏み入れると、埃をかぶった本棚や、壁にかけられた古い書体で書かれた日本語の地図が目に入る。何処か外国の土地なのだろうか、地名らしき箇所がカタカナで書きこんであるが、何語なのか見当もつかない。その中で目を引いたのは、机の上に埃を被った焦げ茶色の小さな木箱だった。
「なんだこれ……?」
「そう、それなのよ、なんだか気味悪くて、開けられないのよ…」
振り向くと母の幸子が、本棚の古い書籍を数冊段ボール箱に詰め込みながら、片手でその箱を指差して言った。
勇馬は木箱を手に取り、埃を手のひらで払いのけ箱の表面を指でなぞった。見たことのない文字が浮かび上がる。
「これって……何語なんだ? お母さん、見たことある?」
「知らないわよ…だから開けられなかったのよ……」
勇馬はゆっくりと蓋に手をかけた。
——キィーッ …
小さな音とともに、箱がわずかに軋む。しかし、それ以外は何も起こらない。母が怖がっていたほどのこともない。ただ、埃の匂いが微かに鼻をついた。
「なーんだ……」
軽く肩をすくめながら勇馬は中を覗き込んだ。そこには、色褪せた白黒の写真と、一冊の日記帳が収められていた。
「写真……?」
勇馬はそっと写真を取り出した。写っていたのは、精悍な顔つきの軍馬に騎乗している祖父の凛々しい写真。その下には祖父の筆跡でこう記されている。
“黒影(くろかげ)号 ―岡田組最後の名馬―”
「黒影号……?」
母が勇馬の肩越しに覗き込み、小さく息をのんだ。
「やっぱり、あの馬のことかしら?」
「え?」
「ほら、昔、おじいちゃんが話していた馬じゃない? でも、こんな写真……うちにあったかしら?」
勇馬は改めて写真を見つめた。古びた写真にしては妙にくっきりとしている。祖父が乗っている馬の目が、今にもこちらを見返してくるような気がした。
「……なんだろうな、これは」
祖父の日記帳に目を移す。ゆっくりとページを開くと、殴り書きのような血が付いたようなページや、汗か水で字が滲んだようなページには、戦地と思われる場所での馬の絵やジャングルのような地形図が描かれていた。勇馬には聞いたこともない、「一死報国」、「武運長久」などと大きな文字が書かれていたが、文章は唐突に途切れていた。
「……これで終わり?」
最後のページには、たった一行だけが書かれていた。
“黒影号、ビルマの地で消える、今もどこかで生きているはずだ…”
勇馬はもう一度、写真をじっと見つめた。
“黒影号…もしかしてあの時の…?”
その瞬間、オフィスで見た夢が鮮明に蘇る。燃え盛る炎の戦場を疾走する黒い影——あの馬だ。夢の中で確かに、何かを伝えようとしていたあの馬の写真に違いない。
「……まさか、あれが黒影号……?」
写真の中の馬の瞳が、今にも動き出しそうなほど、生々しくこちらを見つめていた。
勇馬が手に持った木箱の底には馬の蹄鉄が一つ嵌められていた…
「R.O.1944‥‥‥なんだこの刻印は?」
6.岡田組
それは、勇馬の家系がかつて営んでいた馬車輸送の会社だ。
明治時代から続く馬力運送業を営み、自動車の普及が始まるまで、馬による荷物運送を発展させてきた。創業当初は地方から届く農産物や木材の輸送が主であったが、次第に商人たちの護衛輸送や官庁への物資供給も請け負うようになり、地域に欠かせない運送業者へと成長していった。
勇馬の故郷の町の中心部には、堂々とした岡田組の営業所が構えられ、事務所に併設された広大な厩舎には、三十頭以上の馬が飼育されていた。馬たちは、種類や用途に応じて分けられ、力強い馬が重荷を引き、機敏な馬が商人たちの護衛や人の移動に用いられた。馬車の整備や蹄鉄の交換を行う、二階建ての厩舎に作業場が併設されており、馬具の点検や補修もここで行われていた。
従業員は十数名を超え、御者(ぎょしゃ)は長年の経験で馬を巧みに操り、悪路や吹雪の中でも正確に荷を運んだ。毛付(けづけ)人の職人たちは、馬の毛並みを整え、健康状態を常に気にかけた。装蹄師(そうていし)は、馬の蹄に合った鉄を打ち、長距離の輸送にも耐えられるよう工夫を凝らしていた。また、専属の獣医師が常駐し、馬の健康管理や怪我の治療を行い、長年にわたり岡田組の馬たちを支えてきた。
岡田組の馬運業は、ただの輸送手段にとどまらず、町の人々の暮らしを支える生命線であり、信頼と誇りをもって受け継がれてきた。
しかし、戦争によって国内の馬農家などから多くの馬が軍に徴用され、戦時中は軍との関わりを深めることとなり、馬匹徴発令により、岡田組の馬たちも軍馬としての供給を余儀なくされていった。
終戦直前には数度に渡る米軍の大空襲にて、残っていた馬たちも命を落とし、その後の混乱の中で岡田組の商売は衰退。祖父の代で歴史に幕を閉じることとなった。
当時、岡田組に飼われていた馬は主に駄馬や輓馬が多かったが、一頭だけ「日本釧路種」の黒鹿毛(くろかげ)の馬がいた。
【注:黒鹿毛(くろかげ)は、馬の毛色の一種で、全身が黒っぽいが、一部に茶色の毛が混じるのが特徴。英語では"dark bay"または"brown"と表記】
「日本釧路種」は、サラブレッドのような西洋の大柄な馬とは異なり、日本人の体格に合わせて生み出された、外来種と日本の在来馬・道産子との交配種である。戦時中、こうした馬の多くが軍馬として徴発され「戦場の活兵器」と評され重用されていた。
しかし、この黒鹿毛の馬は特別だった。北海道の将一の親戚が営む馬農家より、陸軍の「馬匹徴発令」が下る前に、密かに将一へ託したのである。軍馬として戦地へ送るよりも、馬を大切に扱う岡田組の将一のもとで生きる方が、この馬にとって幸せだと考えた。
そしてこの馬が、今後の将一と勇馬の運命を大きく変えることになるとは、誰にも予想できなかった。
7.黒影の誇り
将一は初めてその馬と対峙したとき、その毛色が漆黒の闇のように深く輝き、がっしりとした骨太の四肢、素朴で穏やかな表情の中に光る鋭い眼光、そして鼻筋に一本の大流星のマークを持つ、その黒鹿毛の馬に強く惹かれるものを感じた。
差し込む日差しを遮るように、厩舎の奥で静かに佇んでいたその馬は、まるで影そのものが形を持ったかのように周囲に溶け込みながらも、ただ泰然と将一を見つめていた。その目には妙な知性と誇りが宿っており、気安く触れることを許さぬ気高さがあった。
その佇まいに、将一はふと「黒影(くろかげ)」という名を思い浮かべた。
将一はゆっくりと「黒影」に歩み寄り、そっと手を伸ばしてみたがその“影”は微動だにせず、ただまっすぐに大きな瞳で将一を見つめ続けた。その視線の強さに思わず息を呑む。まるでこちらの心を見透かされているような気がした。
「ふん……ワイがどんな奴か、確かめようっちゅうんか?」
将一は苦笑しながら、ポケットから角砂糖を取り出しそっと差し出した。しかし黒影は鼻先をわずかに動かしただけで、まったく興味を示さない。それどころかフンと鼻を鳴らし、まるで溜息をつくように将一を見つめ続ける。
将一は覚悟を決め黒影の真正面に立ち、じっと馬の目を見つめる。黒影もまた、その鋭い眼差しを逸らすことなく将一と対峙した。
どれほどの時間が流れただろうか。やがて、黒影は右前肢で地面を描くように、小さく鼻を鳴らしゆっくりと頸を下げた。
まるで「お前を認めてやる」とでも言うように。
将一は静かに黒影の鬣に手をやりそっと頸をなでおろした。
「黒影、黒影号よ…」
それからの日々、将一と黒影は共に過ごした。
互いを知る時間を積み重ねていけばいくほど、将一は彼をただの馬ではなく、心を通わせるべき真の「友」として接するようになっていった。
将一は黒影の力強い首筋をそっと撫で、その逞しさに改めて感嘆の息を漏らした。無駄のない引き締まった筋肉は、まるで鍛え上げられた鋼のようにしなやかで強靭だった。
「お前、ほんまにええ躰しとるなぁ…」
黒影は力強い頸筋を将一の方へ向け、深い信頼の気持ちを示した。
ある日、ベテラン調教師の宮田が将一へ言った。
「将一さん、そろそろ試し乗りといきませんか?」
将一は、宮田がどこまで馴らしてくれたのか、正直なところまだ少し不安があったが、それ以上に黒影の実力をこの目で確かめてみたかった。 それに馬の調教においては、盤石の信頼を置く宮田が言うからには間違いないだろう。
「よっしゃ、ほな一丁、宮田はんの腕前、確かめさせてもらおか?」
将一は黒影の背に乗り、手綱を少し短めに持ち、厩舎の前の丘をゆっくりと下っていく。貨物列車の到着まではまだ時間があった。線路沿いを歩かせながら、遠くに広がる浜辺を目指す。 岡田組の厩舎の向こうには、トンネルのある小高い丘があり、鉄道の線路を越えると白砂の浜辺に出る。
浜辺へ降りる道の途中、大きな花崗岩がごろごろと転がる土手があった。将一は、黒影を砂地の緩やかな坂へと導こうとした。しかし、その瞬間、黒影が突然向きを変え、大きな岩の前に立ち止まる。そして、わずかに膝を折ると、次の瞬間には前肢を振り上げ、二メートルほどの高さの岩を一気に飛び越え浜辺へと着地した。
「——っ!」
将一は驚き、思わず手綱を強く握る。
黒影の飛越が浜辺に着地すると同時に、その四肢は砂を蹴り上げ、一気に駆け出した。将一は黒影の馬体の動きに咄嗟に身を前方へと傾ける。
海風が頬を切り、耳元で風が唸る。黒影のたくましい筋肉がしなやかに躍動し、広い砂浜を勢いよく駆け抜けていく。蹄が砂を掻くたびに、白い飛沫が舞い上がり、その軌跡を残していく。
最初は手綱を強く握っていた将一も、やがて黒影のリズムに乗り、わずかに手を緩めた。黒影はそれを察したかのように、さらに速度を上げる。海辺の潮騒が鼓動と混ざり合い、ただ風と馬の疾走する音だけが響く世界になった。
「おまえ、よぉ走るのぉ……!」
将一は思わず強い訛りで叫んだ。黒影の動きはまるで海を駆ける黒い稲妻のようだった。黒い鋼のような肢が砂を蹴り、力強く地を押し出すたびに、全身がしなやかに弾む。その走りには一頭の勇者の誇りすら感じられた。
やがて、黒影は徐々に速度を緩め、潮風に揺れる砂浜の端へと歩みを戻していく。将一は黒影の頸をそっと撫で、その温もりと鼓動を感じながら、心の奥底から沸き上がる興奮を噛みしめていた。
8.友情と誓い
馬小屋に戻った将一は、黒影の汗を拭きながら静かに言った。
「わしら、ええ相棒になりそうやなぁ…」
黒影はゆっくりと将一の肩に頭を預ける。それは服従の仕草ではない。対等な者同士の、信頼の証だった。
ある日、季節外れの豪雨が村を襲った。
未明から降り出した雨が激しさを増し、岡田組の厩舎裏を流れる小川がみるみる増水していった。
厩舎の馬たちは、小川が轟々と音を立て始めるのを落ち着かない様子で、馬房の中で脚をばたつかせたり、不安げに小さく嘶いたりしていた。
村の川沿いに住む住人たちは、慌ただしく荷物をまとめ高台へ避難し始めていた。現代のような立派な水防柵や堤防フェンスがない時代、激しい豪雨によって大きな被害を被ってきた歴史があったため、住民たちは素早く非難の準備をしていた。
将一は厩舎の馬たちを落ち着かせようと、馬房の中の馬を一頭一頭なだめながら、厩舎の一番奥の黒影の前に来た時、屋根の塗炭に叩きつける激しい雨音と雷鳴に交じって、微かな女性の叫び声が響いた。
「誰か助けてください! 子どもが! 向こう岸に取り残されて!誰か早く!」
掻き消されるような女性の叫び声に将一は気づき、慌てて厩舎を出ようとしたが、馬房にいた黒影が前肢で木の扉を蹴りながら、小さなうめき声を上げている。
将一は黒影に優しく声を掛け、
「おい、黒影、大丈夫だ、落ち着け!」
将一は黒影を落ち着かせようと頸を撫でた時、黒影の両耳がピンと立ち、声のする方へ向けた。
「お願いです!誰か助けてください、子供が! 子供が!誰か早く!」
今度は将一の耳にもはっきりと聞こえた。慌てて厩舎を飛び出し、川の対岸に目を凝らすと、対岸の崖の下に、小さな子どもがひとり泣いているのが見えた。そこは防空壕でもある小さな洞窟があり、普段は子供たちの遊び場になっていたが、川の増水で、急斜面の山肌を上って避難できない小さい子供が一人取り残されてしまったのだ。
しかし、対岸に渡る橋はすでに流され、川は濁流と化している。激しい流れが渦を巻き、漂流した木々や岩が押し流されていた。
「お母さん!助けて!お母さん!」
泣き叫ぶ子供を前に、母親は成す術がなく涙声になり助けを呼んでいた。
その光景を見て、将一が唇を噛みしめたその時——
厩舎の奥から大きく嘶き、前肢を高く上げて後肢で立ち上がっている黒影が見えた。
(もしや黒影なら…)
将一は黒影の馬房へ走り寄った。
「黒影、お前なら…」
馬は何も言わず、将一を見返した。その漆黒の瞳には、迷いのない決意が宿っている。
「黒影よ、やれるか?」
将一はゆっくりと馬房を開き、素早く鞍を置き馬装を整え、畑まで濁流でえぐられた岸辺に連れて来た。いつもなら深いところでも五十センチもない小川が、今は一メートルほどの深さになり濁流が岸を削り取っている。
将一は黒影にさっと跨った。
黒影が、静かに川を見つめた。
「よし、行ったれ!」
将一の掛け声が早いか、黒影はまるで風を切るように地面を蹴って、濁流の中へ飛び込んだ。
―――ザバァン!
濁流が黒影の脚をすくおうとする。将一は黒影の手綱を左右に引き寄せながら、頸を上流に向け慎重に進路を見極める。
「もう少しや…!」
猛烈な水流に飲まれそうになりながらも、襲い掛かる流木を避けながら黒影は懸命に川を渡る。将一との超絶な心の連携プレーを演じながらついに黒影の蹄が対岸の土を踏んだ。
「よっしゃぁ!黒影、でかしたぁ!」
将一は急いで子どもを抱え上げ、自分の胸で抱え込むように子どもを座らせた。
「大丈夫や、しっかり掴まってぇや!」
漆黒の巨体をさっと反転させたかと思うと、再び川へ飛び込む黒影。今度は、子どもを守るためにより一歩一歩慎重に進む。それでも、黒影の目には迷いがなかった。しかし、岸の手間に大きな流木と瓦礫が邪魔をして進路を塞がれてしまった。
「しまった…岸へ上がれん、くそぉ!黒影、どないする?」
将一は焦った声で黒影に尋ねた。
黒影は「大丈夫だ、跳ぶぞ!」とでも言わんばかりに浅瀬の岩の上に登ったかと思うと、そこから四肢を揃え川岸へ勢いよく岩を蹴った。
えぐられた赤土の土手を少し削り取りながらも、黒影は高台へと巨躯を動かした。
野次馬で見物に来ていた村人たちは一斉に歓声を上げた。
「助かった…!」
「なんちゅう馬や…!」
将一は子どもを抱き下ろし母親に返した。母親は泣きながら子供を抱きしめ、何度も頭を下げて将一に感謝の言葉を連ねた。将一は黒影の首筋をポンポンと撫でながら深く息をつき言った。
「あんた、礼を言うならワシやない、この黒影に言うたってくれんか?」
黒影は降りしきる豪雨の中、まるで守護神のごとく静かに佇んでいた…。
第二章 記憶の地へ
1.菜穂子の渡航許可
勇馬の心には、祖父、将一の日記に残された一文が、今も静かに揺らぎ続けていた。
“ワシの代わりに探してきてくれ…”
夢の中で祖父が語りかけるその声は、まるで何かを託すようだった。
将一の日記に記された「黒影号」のことが、どうしても頭から離れない。
“そうだ、祖父が戦った戦場へ―そして“あの馬”を探しに行こう”
翌朝、勇馬は実家から持ち帰った古い木箱を、押し入れの奥からそっと取り出した。色褪せた写真と、あの日見た日記。軍服に身を包み、凛々しく軍馬にまたがる将一。その馬の額には、うっすらと星型の白い模様が浮かんでいた。
“行くしかないな…”
会社に入って五年、有給をまとめて取ったことはなかったが、勇馬は夏に一週間の休暇を申請した。学生時代、バックパックを担いで各国を旅した頃の冒険心が、再び胸を騒がせていた。
勇馬には同い年の妻・菜穂子がいた。昨年結婚式を挙げ、彼女は映像制作会社に勤めている。タイへの新婚旅行以来、二人で旅行らしい旅行はしていなかったが、今回だけはどうしても一人で行きたかった。ある日の夕食時、勇馬は意を決して切り出した。
「前に話してた祖父のことなんだけど……この夏の連休に、ミャンマーに行こうと思ってるんだ。祖父が戦った戦地を巡る旅というか。それに……」
菜穂子は小首をかしげて続きをうながした。
「それに?」
「……“黒影”っていう馬のことなんだ」
「ミャンマー? 黒影?」
菜穂子は瞬きをして聞き返す。
「なんだか時代劇に出てきそうな名前ね?」
「将一爺さんの遺品に、その馬のことが書いてあったんだ。昔、戦地で一緒に活躍していたみたいで……ずっと気になってて」
菜穂子は首を縦に振りながら、ふんふん、と頷いた。
「で、その馬を探しに行くってわけ?」
「実は夢に出てきたんだ。じいちゃんが『黒影はまだ向こうにおる』って」
「夢に?」
少し驚いた顔をした後、彼女はふっと笑った。
「なんだかロマンチックね。お爺さんからのメッセージみたい」
「笑わないのか?」
「笑わないよ。むしろ、そういうの、あなたらしいと思う」
菜穂子はわざとらしく肩をすくめて、いたずらっぽく笑う。
「うちの制作班に持ち込んだら、番組一本できそうな話だわ」
勇馬は苦笑するしかなかった。
「……いいわよ。私は高校時代の女友達と熱海にでも行ってのんびりしてくるから。あなたもちゃんと帰ってくること。それが条件」
「うん、ありがとう。もちろん帰って来るさ、ははは」
意外なほどあっさりした妻の言葉に、勇馬は拍子抜けしつつも背中を押された気がした。だが心はすでに遠い熱帯のジャングルへと飛んでいた。
「ねえ、ちゃんと聞いてる? 私の手作りハンバーグ、美味しいでしょ?」
少し怒ったような菜穂子の声に我に返り、慌てて答える。
「う、うん、美味しいよ。いやぁ、実に美味しい!」
「もう、心ここにあらずって顔して! 美味しくないのかと思ったわ!」
呆れたように菜穂子は笑った。
―こうして妻、菜穂子からの“渡航許可”は難なく下りた。
それからというもの、勇馬は仕事を終えると夜な夜な戦時資料に没頭するようになった。
読書があまり好きではなかった勇馬だが、いきおい軍馬や戦争に関する書籍を買い集め読み漁った。ネットでは旧日本軍の輜重隊の記録映像や帰還兵の証言など調べ続けた。気になる書籍や資料があれば出版社や投稿者にも直接連絡をして情報を集めた。
そして祖父・将一の稼業だった馬車運送業、岡田組の馬たちが戦時中に徴発され、南方の激戦地へ送られていた記録の断片も見つけた。だが詳細な資料は戦後の混乱や空襲で失われたのか、何も残っていない。
なぜ自分のルーツに繋がる大切な手がかりだけが、歴史から抜け落ちてしまったのか、焦燥感が募るある晩、勇馬はふと一文に目を止めた。
―軍馬は物言わぬ兵器
冷たく胸に沈む言葉。
軍馬として徴発され戦地へ送られたが、彼らは恐れ、飢え、痛みに耐えながら命を賭して兵士と生死を共にした。砲弾をかいくぐり、死線を越えた彼らは、祖父の傍らにいた黒影は、まぎれもない戦友だったはずだ。
祖父の言葉がよみがえる。
「馬を探しとるんや……黒影をな……」
勇馬は目を閉じた。高層マンションの自宅の窓の外には都会のネオンが散らばり、灯火のように過去へ彼を導いているかのようだった。
2. 過去への旅立ち
数日後、朝の羽田空港。
磨き上げられたガラス張りのターミナル、滑らかな金属のアームが伸びる搭乗ゲート。電子音が控えめに響き、ぼんやりとした無機質なアナウンスが空港内に流れていた。
勇馬はチェックインを終え、出発ターミナルの奥まった静かなカフェの窓際のテーブルに、勇馬と菜穂子は向かい合って座っていた。
まるで世界の隙間にできた静かな止まり木のようだった。 控えめなジャズが流れ、磨かれたガラス越しに夏の朝の強い光が差し込んでいる。
冷めかけたカプチーノと、口をつけただけのサンドウィッチ。
「……本当に、ひとりで大丈夫?」
菜穂子がカップを両手で包みながら訊ねる。
勇馬はゆっくり頷いて口を開いた。
「たぶん、大丈夫。 というか……今、行かなくちゃいけない気がするんだ。多分、自分の心が呼ばれてる感じかな、“自分探し”というより、“先祖探し”っていうのかな?」
彼女は一瞬視線を伏せてから、窓の外を見た。滑走路に向かって飛行機がゆっくりと旋回していく。
「”先祖探し”…変なこと言うね。でも、なんとなくわかる気がする。今のあなた、ちょっと“ここ”にいない感じするから」
勇馬は目を細めて笑った。
彼女の言葉が、どこか正確に胸を射抜いた気がした。
「“心此処にあらず”、ははは、そうかもな?」
勇馬は少し照れ笑いをしてコーヒーを飲みほした。
滑走路で離陸していく飛行機のエンジン音が低く響き、熱気の揺らぎがガラス越しに風景を歪ませていた。二人は言葉を交わすことなく、その銀色の機影が一直線に空へと吸い込まれていく様を静かに見送っていた。
「そろそろ行くよ、すぐに戻るさ。……お土産、必ず買ってくるよ」
そう微笑んで菜穂子の頬にそっとキスをして、搭乗口へ歩き出した。
勇馬の乗った機体がゆっくりと滑走を始め、徐々に加速し外の風景が矢のように流れていく。一瞬で地上から引き離され、眼下には東京湾とビル群が広がり、機体は雲の海を突き抜けていく。
勇馬はエコノミーシートの窮屈な座席に体を沈めながら、“時の狭間”に吸い込まれるようにひとつの時代から、もうひとつの時代へと滑り込んでいくのを感じていた。
勇馬は学生時代、偶然誘われた乗馬体験をきっかけに、馬の魅力にのめり込んだ。オーストラリアの大自然や、南国タイのビーチでも、馬に乗る楽しさを追い求めた。
そして今の仕事…人とモノを運び、時をつなぐ「ロジスティクス」という仕事の選択も、どこかで先祖の稼業に導かれていたのかもしれない。馬を使って荷を運び、人とを繋ぐという営みの中に、勇馬は自分の中に流れる何かを感じていた。それは、もしかしたら先祖が代々馬と生きてきた、その“魂の記憶”に触れようとしているのではないか——
シートベルト着用のサインが灯る。
窓の外では、雲海が薄くちぎれ、その向こうに深い緑の大地がうっすらと顔を覗かせていた。緑のジャングルのところどころに黄金に輝くパゴダ(仏塔)が見え隠れする。国民の大半が上座部仏教を信仰しており、国中いたるところに仏教寺院が建っている。
祖父、将一の色褪せた日記帳のページの中に、黄金色の丸い仏塔のスケッチを見たことを思い出す。上空から見下ろすその景色を、間近で自分の目で確かめてみたい、毎晩、ネットの地図を開いてはアラカン山脈を縦断する細い道路を辿り、かつての戦闘の激戦があった、見慣れないビルマ語の地名や、蛇のように曲がるジャングルの川の名前も覚えた。
「過去への旅立ちだな…」
タイ・バンコクで乗り換えた勇馬の乗ったプロペラ機は、ミャンマー中央部のネピドー国際空港へ滑るように降り立った。
首都ネピドーは軍事政権になって以来、旧首都ヤンゴンから遷都された。軍部と民間の共用の空港内は殺風景で、数人の銃を肩にかけた兵士がロビーの片隅に立っていたり、発着の飛行機が少ないせいか、申し訳程度に営業してるラウンジにはほとんど人はいなかった。
入国審査のカウンターも閑散としていて、列に並ぶのは欧米からの観光客らしい男女が数組と、地元に戻ってきた感じの乗客だけだった。勇馬は肩から斜め掛けにしたバッグを握り直し、ゆっくりと順番を待った。
軍服のような制服を着た入国審査官は、無表情でパスポートをめくり無言のまま判を押す。その乾いた音がやけに大きく響いた。
勇馬は係官に軽く会釈しゲートを抜ける。拍子抜けするほどあっけない入国だった。到着ロビーに出ると、湿った熱気とともに、鼻をつく香辛料か熟れた果物のような匂いが鼻をくすぐった。
到着ロビーに人影はまばらだが、その中に手書きの日本語で「ユウマ・サクライ様」と書かれたボードを掲げている若い女性が立っていた。
「ミスター・ユウマ? こんにちわ、ミャンマーへようこそ!」
彼女は流ちょうな日本語で勇馬に声をかけてきた。
浅黒い肌に白い歯の笑顔、大きな瞳。胸元には旅行代理店の名札が揺れている。腰まで流れる藍と緑のロンジーをまとい、勇馬に話しかけてきた。
勇馬は反射的に少し上ずった声になり、
「ああ、あの…勇馬です。桜井勇馬。あの、今回は宜しくお願いします!」
手に持っていたパスポートを鞄にしまう手が何故か震えている。
「私はA,U,N,G…アンです、アンと呼んでください。これから村までご案内します」と告げた。
アン—これから先、勇馬が異国の地で長く行動を共にすることになるミャンマー人のガイドだった。
空港の外へ出た途端、太陽が頭上に居座り、熱気と湿気が一気に押し寄せる。
人気のない広い駐車場の片隅に、古い日本製の四輪駆動車がぽつんと停まっていた。アンに案内され勇馬は後部座席に腰を下ろす。
中古車とはいえ、海外でも日本車に乗れることにほっとした勇馬だったが、シートベルトが壊れていることに気づいたのは、すでに腰を落ち着けた後だった。
「アン、このシートベルト、壊れてますよ…」
金具が噛み合わず、カチッという音がしない。運転手とアンが覗き込み、二人そろってニヤッと笑う。
「ああ、ミャンマーの車ってたいていそんなものですよ、心配しないで、ほら?」
そう言ってアンが自分の席の脇を指す。助手席も、運転席のシートベルトも壊れていたのだ。
「我社の運転手はベテランですからご心配なく!」
勇馬は狼狽する気持ちを抑えながら作り笑いをするのが精いっぱいだった。
アンは、勇馬から渡航前に依頼されていた祖父の日記に記されたスケッチや資料を、丹念に調べていた。特に、スケッチに添えられたビルマ語の文字列については、彼女自身が解読し、その意味を突き止めていたのだった。
アンは調べた資料ファイルの数ページを揺れる車内で勇馬に見せながら、
「はい、では今からこの村を目指して出発しますね」
「勇馬さんの資料を調べたら、これらの文字は村の名前と地名を示しています。そして、この仏塔は…実は私が生まれた故郷の村の近くにあるんです!」
勇馬は “えっ、そうなの?” と息を呑んだ…
アンは少し間を置き、静かに続けた。
「以前祖父から、昔日本の兵隊さんが来たと聞いたことがあります。祖母は子供のころ、険しい山道を行く、たくさんの兵隊さんと一緒に数頭の馬を見たと言っていました…」
勇馬はまた同じように少し声が上ずって飛び上がらんばかりに、
「えっ、そうなの?」と叫んだ。
祖父、将一の描いた絵が、アンの故郷と結びつくとは驚きを隠せなかった——。その道筋は、勇馬が渡航前から想像を掻き立てながら、ネットの地図の上で何度もなぞっていたルートだった。祖父が残した痕跡を追い、かつての戦場で命をつないだ馬や人々の記憶を辿るためといえ、まさかアンの故郷の村を目指しているのかと思うと、勇馬は胸に不思議な鼓動を感じたのだった。 そしてアンの祖父が見たという、日本人の兵隊と馬たち…。
勇馬は道中の安全を祈りながら、その“日本車”は静かに走り出す。
空港周辺の無機質な政府建物の群を抜けるとすぐに赤土の道が始まった。窓の外には、バナナの葉や竹林が途切れなく流れ、時おり小さな村が現れては消えていく。赤土の道はさらに細くなり、湿った泥土の道に代わり、両側から迫るジャングルの緑が車を包み込むように覆い始めていた。
やがて、空の色がじわじわと鈍く濁り、湿った空気が肌にまとわりつく。遠くで雷鳴が低く唸った。雨季特有の重たい雲が山の稜線に垂れこめ、まだ昼間というのに、薄暗くなった森の上空からは今にも大粒の雨が降り注いできそうだ。
—あの日、祖父・将一が見たのも、空はこんな色だったのだろうか。
突然のスコールが行軍の列を襲い、視界は一瞬にして白い水煙に閉ざされた。ぬかるんだ山道で、前方で防戦を続ける陣地へ向けて、兵士と軍馬は荷の重みに耐えながら必死に踏ん張り、滑らぬよう慎重に足を運ぶ。自らは背に負った糧秣、弾薬箱、医療資材——どれひとつ欠けても前線は持たない。砲声と雷鳴が交互に響き、密林の湿った空気を震わせる。
泥に足を取られるたび、兵たちは歯を食いしばり、馬の首筋を叩いて励ました。その中に、泥と汗で顔を汚しながらも前を見据える若き日の将一の姿があった。手綱を握る彼の横には、黒い鬣を雨に濡らした軍馬の影——祖父が語った「黒影」が、黙々と荷を運び続けていた。
——次の瞬間、勇馬ははっと目を瞬いた。
耳に届いたのは砲声ではなく、天井を叩く大粒の雨音とワイパーがフロントガラスを擦る音だった。 現実の彼は、雨季の湿った空気と泥土の匂いの中、時折荒れた抜かるんだ道でスリップ音を立て、揺れる四輪駆動車の後部座席に座っている。
シートベルトの金具は壊れたまま、腰は時折、車体のバウンドで浮き上がり、窓の外ではジャングルの葉が雨に光って流れていった。 勇馬は少し不安になりながら、
「あの…なんだか豪雨のジャングルの中を走ってるようで、あの…この車で大丈夫ですか?」
不安そうな声で尋ねる勇馬を励ますようにアンは笑みを浮かべて言った。
「この辺りの山道は雨季にはすぐに川みたいになります。でも運転手は慣れてますから大丈夫ですよ」
それでも泥土の道にタイヤを取られ、左右に揺れながら坂道を上り、下りでは増水した小川が道路を横切り、さすがの運転手も慎重に減速して渡っていく。
「あああ…そうなんですね…」と、勇馬は一抹の不安に力なく答えるだけだった。勇馬の緊張のせいか、車内のフロントガラスが曇り、アンは手に持ったタオルで拭きながら、
「大丈夫ですよ、この谷を登れば村に着きます…」
勇馬はアンの言葉を信じるしかなかったが、なるほど、滝のように降り注いでいた豪雨の雨脚が少し弱まり、車は谷を登り切った。車の通気口からか、湿った空気に焚き火の匂いが混ざる。
平坦な道に出ると少し視野が広がり、低い雲の合間に竹の垣根や屋根の低い家が、ぽつぽつと現れる。
「あれが私の生まれた村です…」
アンが指差した先にひときわ背の高い木造家屋が現れた。それが彼女の生家だった。
竹とチーク材で組まれた高床式住宅は、地面から大人の背丈ほど持ち上げられており、軒下の空間には編みかごや農具が吊るされ、数羽の鶏がのんびり歩き回っている。屋根は椰子の葉で葺かれていて、家屋の裏の方からは炊事の煙がゆっくりと吹き上がり、煮炊きの香りがふわりと漂っている。
勇馬はその造りを見て、祖父の古いスケッチの片隅に描かれた、同じような高床の家を思い出した。戦時中、この高床の下で雨をしのぎ、馬の身体を拭き、蹄の手入れをした兵士たちがいたかもしれない——そんな想像が、湿った空気の中でふっと広がった。
村の中では子どもたちが裸足で走り回り、車を珍しそうに見に集まって来た。アンは空港を出る前に町のスーパーで仕入れて来た大量のお菓子の箱を車から取り出し、その子供たちに分け与えていた。アンは忙しそうに子供たちにお菓子を配りながら勇馬に言った。
「この辺にはスーパーもコンビニもないのよ、だからこうして時々、実家に戻る時は子供たちの好きなお菓子を買って帰って来るの…村の人々はほとんど自給自足の生活なのよ…」
「さぁ、うちの家族を紹介しますね、行きましょう!」
そう言って勇馬を手招きした。
アンの生家の高床式の階段を上りきると、広い板張りの縁側に出た。そこで勇馬を出迎えたのは、がっしりとした体格の中年の男だった。褐色の肌に深い笑い皺、胸元まで開けたシャツからは力強い腕がのぞく。アンが一歩進み、ミャンマー語で何かを告げると、男は白い歯を見せて笑い、勇馬の手を両手で包み込んだ。
「ようこそ、我が村へユウマさん、アンの父、サンです。この村の村長をしています」
サンはミャンマー人特有の抑制のない英語で自己紹介をしながら、勇馬の手を握った。勇馬は一礼をしてアンの父の大きな手を握り返した。
サンの横に立つ年配の女性はアンの母、ヘインだ。淡い花柄のロンジーを身にまとい、笑みとともに勇馬の長旅を労うように、勇馬の両腕を軽く叩き歓迎した。
奥からは、小さな足音とともにお菓子を手にした子どもたちが顔を出す。アンの弟や姪だろうか、好奇心に満ちた瞳が勇馬を上から下まで目で追っている。何処で覚えたのだろう、ミャンマーでも人気の日本のアニメの日本語を勇馬に浴びせ、初めて見る日本人の勇馬を歓迎していた。
3.古き影のさざめき
「そして…」
勇馬は、次に訪れる瞬間が、この旅の核心に触れる一歩になる予感を強く抱いた。 アンが奥の暗がりへ視線を送る。板戸が静かに開き、ひとりの老人が姿を現した。 背筋こそ少し曲がっているが、深い皺を刻んだ顔には、凛とした眼光が宿っている。
「私のおじいちゃん、ウー・ガン・ラインです」
その視線は、初対面の異国人を測るというよりも、はるか昔に会った誰かの面影を探すような深さがあった。勇馬は一瞬、背筋が伸びるのを感じた。ウー・ガンと呼ばれるアンの祖父は無言のまま、縁側の籐製の椅子に深く腰を落とし、勇馬の顔を見つめていた。
やがて、低くしわがれた声で問いかける。
「……おまえ、日本から来たのか」
勇馬は一瞬、息をのみ、ゆっくりと頷いた。
「はい。祖父が……かつて、この辺りに来ていたと聞いています」
老人の目が、わずかに細まる。
「その祖父の名は?」
「将一、岡田将一といいます。陸軍の……輜重隊にいました」
老人の眉が、かすかに動いた。
「……あの時の。馬と一緒に山を越えて来た日本の兵隊たちか…」
遠い記憶をたぐるように、老人はぽつりと言い目を伏せた。
暫く沈黙が流れ、軒下の鶏が場違いな鳴き声を上げた。ウー・ガンは勇馬の顔をしばらく言葉もなく見つめていた。深い皺の間に、かすかな笑みともため息ともつかぬ表情が浮かぶ。
やがて、老人は縁側の奥を顎で示し、低く一言だけつぶやいた。
「……あの時のことを、忘れた日はない」
勇馬はその言葉の重さを測りかねたが、胸の奥で何かがゆっくりと動き出すのを感じた。理由のわからない温かさと、得体の知れない緊張が同時に心に広がっていく。
—また雷鳴が低く唸り、重く湿った雨の匂いが近づいていた。
翌朝。
到着した日の午後の豪雨と、まとわりつくような蒸し暑さとは別世界のように、標高千五百メートルの山の冷気は、肺の奥まで澄んだ水を流し込むように沁みわたった。 夜明けの村の空気は冷たく引き締まり、勇馬は長い移動の疲れを抱えたまま、村の朝の気配を確かめようと身体を起こした。肌寒さに身震いしながら廊下の向こうに目をやる。
アンが、奥の部屋から祖父ウー・ガンの肩にそっと手を添えて現れた。
「おはよう、勇馬さん。さぁ、みんなで朝食をいただきましょう」
少し間を置き、彼女は笑顔を浮かべて続けた。
「今日は、あの仏塔のある寺院に行ってみましょう。何か手がかりが見つかるかもしれません」
階下では鍋から立ち上る独特の香りが家中を満たしている。鯰の出汁にレモングラスとバナナの茎を煮込み、揚げたひよこ豆粉でとろみをつけたモヒンガー粥。刻んだコリアンダーと揚げ米麺が彩りを添え、湯気とともに香りが膨らんでいく。
「私の母が作るモヒンガーは世界一美味しいのよ。どうぞ召し上がって」
「写真でしか見たことなかったけど、ほんとに美味しそうですね」
勇馬は器を受け取り熱いスープを口に運んだ。出汁の滋味が疲れた体に染み渡り、硬くなっていた心が少しずつほどけていく。
そのとき、奥の薄暗い部屋からウー・ガンが現れた。アンに支えられた両腕には、桐の木箱が抱えられている。席に着くことも、箸を取ることもなく、まっすぐ勇馬の正面へ。老人は勇馬の前で静かに蓋を開けた。古びた革の匂いが香り、食卓の湯気と混ざり合う。中には柄巻のほつれた一本の軍刀。鍔には細かな錆、曇りを帯びた刀身。
アンが祖父の耳元に身を寄せ、老人は短く言葉をつぶやく。言葉の切れ間に山鳥の声と子どもの笑い声が入り込み、空気が静まり返る。
「……おまえの祖父は、黒い馬を連れていたか」
アンがそのしわがれた声を日本語にして尋ねる。
「はい……その馬は“黒影”と呼ばれていました」
ウー・ガンはしばらく勇馬を見つめたまま沈黙し、やがて軍刀を持ち上げる。節くれだった手で鞘を軽く叩き、鉄と革の混じった匂いを確かめるように深く息を吸う。
その重みを確かめながら、刀を勇馬の両掌にそっと置いた。
山の冷たい空気が肌を刺す。だが、刀から伝わるぬくもりは、冷気とは違う不思議な重さを伴っていた。
次の瞬間——視界が白く弾け、耳の奥で雷鳴のような轟音が炸裂した。
世界が裏返ったかのように色と音が消え、気づけば勇馬は鬱蒼とした熱帯の森に立っていた。泥に足を取られ、灼けつく湿気が喉を焼く。鼓膜を突き破るような銃声、耳を裂く怒号。焼け焦げた枝の匂いと、硝煙の苦い臭いが喉を突く。
目の前を、漆黒の馬体が閃光を切り裂くように駆け抜けた。鬣を振り、泥を蹴り上げ、戦場を疾走するその軍馬。
——間違いない、「黒影」だ。
勇馬は息を呑む間もなく、唖然と立ち尽くしていると四方から銃声が木霊した。喉が乾き、心臓の鼓動が耳の奥で爆音のように響く。
茂みをかき分けて現れた兵士たちは、みなカーキ色の制服に泥と血をまとっていた。
その中のひとり——小柄な体に不釣り合いな大きなリュックと小銃を抱えた兵士が、勇馬に狙いを定める。
つば広のブッシュハットの影からのぞく瞳を見た瞬間、勇馬の心臓は凍りついた。
汗と泥に濡れた頬、結わえきれずに乱れた髪、敵を睨む鋭い目つき。しかし大きな瞳の奥に光る無垢な面差しは間違いようがなかった。
——アン…
銃を構えるその兵士は、信じられないことに——アンと瓜二つの若い女兵士だった。
「動かないで……日本兵!」
引き金にかけられた指は微動だにせず、勇馬を冷たく見据えていた…
第三章 戦火の序章
1.青紙と黒影
南海の春は足が早い。裏山の中腹には、もう桜の薄紅が点々とほころんでいた。凪いだ海から吹く潮風が黒影の鬣をさらりと揺らし、将一の頬をくすぐる。 白砂の浜へ続く畦道には朝露がまだ光っていた。
「黒影よ、朝駆けと行くかぁ!」
将一は黒影の頸をポンポンと叩き声を弾ませた。黒影は将一の“朝駆け”という言葉に反応し、浜に降りるや否や、勢い後肢を蹴って引き潮の砂浜を駆けだした。
こうして黒影と駆ける朝は、将一にとって何よりの喜びであり、変わることのない日々が続くように思われた。
しかし、その穏やかな時間は長くは続かなかった。
ある日、岡田組に軍部からの使いの役人、村井がやって来た。村井は将一の従妹の息子で、毎年の盆と正月には律儀に挨拶にきてくれる若い役人だった。幼いころは一緒に馬に乗って、小川に泳ぎに行ったりしたものだ。
彼は、申し訳なさそうに俯きながら、玄関先に立ち将一の名を呼んだ。彼の手には、一枚の手紙が握られている。
「……将一兄さん、すんまへん。岡田組にもとうとう順番が回ってきてしもうたんです。馬を、軍に供出せなあきません……」
村井の声は震えていた。
将一はその紙を受け取り、文字を目で追った。
“馬匹徴発告知書” …軍馬の”召集令状”のことである。
「……これって、わしらの馬が軍に連れて行かれてしまうんか?」
村井は黙って下を向いたまま、小さく“はい”と答えるのが精いっぱいだった。
「私の実家の馬も……つい先日、連れて行かれてしもたんです」
その声には、軍の命令に抗えぬ村井の苦悩が滲んでいた。
「お前んとこの馬もか…そら、えらいことやったのぅ…」
将一の胸に重苦しい沈黙が広がる。脳裏に見たこともない風景が広がった。
灼けつくような陽射しの下、黒影が泥濘に足を取られながら進む。鬣は汗に濡れ、瞳には怯えとも闘志ともつかぬ光が宿っていた。見渡す限りの密林と山岳地帯の細い獣道。そこは南の果て、熱気と緑に覆われた東南アジアの密林の戦場。
「黒影たちが……」
将一は空を見上げて溜息をついた。
まるで迫り来る危機を察したかのように、厩舎の馬たちが一頭、また一頭、低く嘶きコンクリートの地面を蹴り鉄の蹄を響かせた。その響きは軍靴の行進と重なって聞こえ、将一の胸を締めつけた。
昭和十八年の春、日本陸軍は英領インドのインパールへ進軍を開始した。その悪名高き作戦の噂は、すでに兵舎の隅々にまで広がっていた。
「鉄道も橋も壊され、物資は馬や牛で運ぶしかないらしい」
「密林のジャングルでは象まで使うそうや…」
断片的な声を耳にする度、将一の胸は重く沈んだ。岡田組の馬たちも、その運命から逃れられぬことはないだろう。
「黒影たちも、あの密林を越えていくのか……」
将一は熱帯の過酷な戦場を思い浮かべて身震いした。
「……生きて帰れる馬なんて、ほとんどおらんやろう……」
将一は震える指で、手紙の文字を何度もなぞった。
「これはえらいこっちゃ……ワシらの大事な馬が取られてしもうたら、商売もできんようになってまう…」
将一はこの“徴発”を免除してもらおうと、村井や彼の役人仲間を頼って奔走した。だが軍の監視は厳しく、岡田組の馬は仔馬のみを残しすべて名簿に記され、逃れる術などなかった。
その夜、将一は厩舎にこもった。黒影は何かを察したのか、静かに主を見つめている。
「……すまんなぁ、黒影……ほんまにすまん……」
将一は黒影の頸に額を押し当てた。黒影の体温は確かにそこにあり、力強く脈打つ鼓動が伝わってきた。だがその一拍ごとに、別れの時が迫っているようで胸が重くなる。
その時、黒影がふっと鼻を鳴らし、将一の頬をそっと撫でるように鼻先を寄せた。まるで“気にするな”と告げるかのように。
——黒影を、このまま戦場へ送るわけにはいかない。
——ならば、俺がお前と一緒に行こう。
将一の心にひとつの覚悟が静かに沸き上がった。
2.将一の決心
馬匹徴発令は将一の村だけでなく、近隣の畜産農家にも下りた。
どの家でも家族のように可愛がられてきた農耕馬が、次々と村の役人に引かれていく。
農夫たちは黙って縄を手放した。その目には、愛する者を戦場へ送り出す覚悟と諦めの色が浮かんでいた。
検査場にあてられたのは、かつて夏には海水浴客で賑わった「海の家」。潮の匂いが残る砂浜に、白いテントがいくつも張られ、そこに連れて来られた馬を役人たちが淡々と調べていった。
脚を持ち上げ、歯を覗き、首筋を叩き、記録簿に印をつける——その一つひとつの動作は、まるで生死を選別する裁きのようであった。
岡田組の馬たちも例外ではなかった。
黒影の番が来る。
係官は一瞥しただけで「合格、乗馬」と短く告げた。
村井は終始うつむいたまま、軍馬補充部の役人の声を黙って台帳に書き入れているだけだった。 漆黒の毛並み、強靭な脚、無駄のない体躯——軍馬として完璧過ぎたのだ。
名前もそのまま「黒影」と記録簿に残された。
かつて子どもたちの笑い声が絶えなかった浜辺は、今や戦場への玄関口となり、愛された馬たちを一頭残らず連れ去っていく。
検査場には、かつて川で溺れ黒影に救われた少女が、母に手を引かれて駆けつけていた。少女は母に抱かれると、小さな掌で幾度も黒影の頸を撫で涙で濡れた頬を寄せる。母親は何度も黒影にお辞儀をしながら囁くような声で言った。
「どうか、生きて帰ってきてください、武運をお祈りいたします」
黒影はその小さな肩にそっと鼻面を寄せ、別れを告げるように低く鼻を鳴らした。
翌朝、まだ暗いうちから、靄の残る村の畔道を将一は歩いた。
向かう先は村に設けられた軍馬補充部の詰所。
その背中には、もう迷いの影はなかった。
「馬の世話には長けております。黒影と共に戦わせてください」
詰所の机に向かい、将一は背筋を伸ばし、固く結んだ唇から言葉を絞り出した。
「……あの馬、いや、岡田組の黒影を活かせるのは、馬主である自分しかおりまへん」
兵舎の一角に静かな余韻が落ちた。将一の眼差しには揺るぎない光が宿っている。
師団の士官はしばし彼を見つめ、やがて深くうなずいた。
詰所で将一が名簿に署名するその場には、岡田組の古株の社員たちも居並んでいた。
誰もが複雑な面持ちで彼の背を見つめている。
「将一はん、親方だけにわしらの馬たちを託していけるかいな!」
声を上げたのは宮田だった。
岡田組の調教師であり獣医師でもある彼は、装蹄や馬具の手入れから調教に至るまで長年将一を支えてきた、右腕のような存在だった。
「馬の蹄を打つ音を聞いただけで体調がわかるんがワシの仕事ですわ、将一はん一人で行かせられまっかい! 岡田組の名にかけて、わしも馬たちと一緒に戦います!」
黒影を守りたいのは自分だけではない。
宮田の熱い決意に将一は胸を打たれた。
士官は腕を組み、しばし黙考したのち、低い声で告げる。
「……獣医部、装蹄手。確かに必要な人材だ。よかろう。志願を認める」
その言葉に、居合わせた者たちは互いに視線を交わした。
「大将!宮田はんも行きはるって、わしらはどないしたらええんや?」
不安げな年配の社員たちに、将一は低く太い声で応えた。
「心配せんでええ。わしらは必ず一緒に帰ってくる。せやから残りの馬は、お前らがしっかり守ってくれや!」
一瞬の静寂の後、老齢の一人が顔を上げ力強く言った。
「そうやな、親方らが行くんなら、わしらもここで必死にやらんと!」
続いてまた一人、拳を握りしめ声を張り上げる。
「残った馬たちも立派な働き手に育てるんや、岡田組の馬も商いもわしらが守るんや!」
心配より誇りが勝った瞬間だった。居合わせた者は互いに頷き合い、目に涙を浮かべながら将一と宮田の手を硬く握り頭を下げた。
こうして将一は決意を新たにしたのだった。
だが将一には、もう一つ、果たさねばならぬ大切な別れが残っていた。
家に戻れば、幼い娘サチと妻ユリが待っている――。
自宅では、ユリはすでに身支度を整え、穏やかな笑みで迎えた。
その目はむしろ凛とした覚悟が宿り、涙を見せまいとする覚悟に支えられていた。
「しっかり務めてきなされ。あんたの仕事は、うちらの馬を無事に連れて帰ることや。家のことは、私がちゃんと守る、心配しなさんな!」
頑固で強気な口調は、まるで将一自身を映したかのようだった。
けれど次の瞬間、ユリはふっと目を伏せ、わずかに声を震わせて言葉を継いだ。
「……せやけど、無茶はせんといてな。サチも、わたしも……あんたが帰ってくるのを、ずっと待っとるんやから」
その一言に返す言葉がなかった。胸の奥をぎゅっと掴まれるような思いがした。彼女は、ただの伴侶ではない。自分と同じように頑固で、不器用で、それでも誰よりも温かい女。
――その強さと優しさが自分を支えてくれている。
将一はただ黙ってユリを見つめ、心の中で固く誓った。
――必ず、戻る。
3.サチとの別れ
出発の朝。
蒸気機関車が不規則に吐く、黒と白の煙がプラットホームに広がる。
村から徴発された馬たちは、駅の貨物ホームに設けられた積込場で、木製の斜路を登り、一頭ずつ軍馬輸送用に改造された貨車へと押し込まれていった。 馬たちは港の軍馬補充部に送られ、出征前の訓練を受けなければならない。
いつもなら、荷下ろしの掛け声や笑い声で賑わう場所も、この日は涙で馬と別れる舞台に変わっていた。 岡田組の馬たちも一角に集められ、順番を待ちながら落ち着かぬ様子で蹄を掻いている。
やがて黒影の番がきた。
兵に手綱を引かれ、黒影は首を振りながら斜路を一歩ずつ上っていく。
蹄が板を踏むたびに鈍い音が響き、サチは思わず母の手を握りしめた。
「……くろかげ!」
サチはポケットから一本のニンジンを取り出し黒影に差し出した。
「さぁ、あんたの好きなニンジンやで、食べて…」
差し出された手に黒影は鼻面を寄せ、サチの震える手からかじり取ると、黒影は大きな瞳で別れを惜しむかのように、その小さな瞳を見つめ返した。
やがて兵が再び手綱を引き、黒影は貨車の方へと導かれていく。 斜路の上で黒影は頸を大きく曲げ、サチを見つめ続けた。
将一は深く息を吸い込み、妻と娘に向き直った。
「……ユリ、サチ。そろそろわしも黒影と一緒に行かんといかん」
鉄の扉が重々しく閉じられる音が響き、サチの肩がびくりと震えた。
「いやや! おとんも行ったらあかん!」
涙でにじむ小さな瞳に見つめられ、将一は膝をついて娘の手をぎゅっと握る。懐から取り出したお守り袋を差し出すと、その中には黒影の鬣が収められていた。
「おとんはすぐに帰る。これ、黒影のお守りや。サチ、お母ちゃんの手伝い、しっかりやるんやで」
サチは声にならない嗚咽をもらしながら、両手でその袋を胸に抱きしめた。
ユリは必死に涙をこらえて夫を見つめていたが、唇がわななき、ついに言葉がこぼれた。
「……あんた、絶対に帰ってきて。どんな姿でもええ、必ず……」
将一は小さく、しかし力強く頷いた。その手で娘の頭を優しく撫でると、振り返らずに貨車へと足を踏み入れた。
そして最後に世話役の馬丁兵が乗り込み、出発の汽笛が甲高く鳴り響く。
同時に貨車の奥から黒影の悲しく響く、別れの嘶きが響いた。
「くろかげ―っ!」
サチは叫び、両手を伸ばした。
汽笛と嘶きと娘の声が白い蒸気とともに空へ溶けていく。
列車はゆっくりと動き出し、やがて視界の彼方へ消えていった。
ユリはその姿を見送るしかなかった。 胸を締めつける不安に耐えながらも、泣き崩れはしなかった。
彼女はそう祈りながら、幼い娘の肩を強く抱きしめた。
4.波乱の旅立ち
軍馬補充部での訓練の日々は、戦の匂いよりもまず「馬の匂い」に満ちていた。岡田組の馬、黒影は上官用の乗馬に、鯨、梅、紀虎たちは、がっしりした体格を買われ、輓馬・駄馬として輜重隊へ振り分けられた。
夜明けと同時にラッパが鳴り、将一たちは厩舎に駆け込む。兵士よりも先に、馬が餌と水を求めるからだ。桶に張られた水を馬たちが勢いよくすすり、乾草をむしゃむしゃとかじる音が一斉に響く。
干草に混じった大麦を器用により分ける癖のある馬もいて、兵士たちは苦笑しながら桶を入れ替える。蹄鉄の緩みを確かめる装蹄手たちの金槌の音が、まるで合図のようにあちこちで響いた。
午前中は馴致の訓練だ。銃声に似せた爆竹の音が轟き、何頭かの若い馬が飛び退く。将一は黒影の首を撫でながら、低く声を掛けて落ち着かせる。黒影は耳を伏せたが、すぐに動きを止め、静かに呼吸を整えた。その賢さに、将一の胸はひそかに誇らしくなった。
午後には行軍訓練。荷駄を背負わせた列が、土埃を上げて坂を上る。兵士の膝は笑い、足取りも乱れていくが、馬たちは汗に濡れた肩を光らせながら、ただひたむきに歩を刻んだ。
鯨は名のとおり、ずんぐりとした巨体を揺らしながらのっそり歩く。重荷を背負っても滅多に弱音を吐かないが、行軍の途中で立ち止まり、道端の草をむしゃむしゃ食べ始める癖があり、兵士たちを何度も慌てさせた。
梅は雌馬らしく気立てが優しく、誰にでも鼻先を寄せて甘える。だがその愛嬌のせいで、兵たちが油断するとすぐに荷駄袋を噛んでいたずらをし、干し芋を盗み食いしてしまう。
「こら梅! またやっとる!」と叱られ、耳を垂らしてしょんぼりする姿が、兵舎の笑いを誘った。
紀虎は見た目こそ精悍な青毛だが、実際は臆病で、爆竹の音に一番最初に飛び退く。だが不思議なことに、仲間が怪我をすると真っ先に寄り添い、鼻で突いて励ますような仕草を見せる。
「紀州の虎や言うけど、こら虎やのうて猫やなあ!」と冷やかした。
兵士の一人が茶化すと周りに笑いが広がった。紀虎はむっと鼻を鳴らし、いじけたように耳を伏せる。
将一は黒影のそばで、黙々と蹄を確かめている男に近寄った。
「……宮田はんか?」
顔を上げたのは、岡田組で装蹄を担ってきた調教師であり獣医師である宮田だった。
膝をつき、蹄鉄の具合を点検していた彼は、将一に軽く頭を下げる。
そう言って、紙巻煙草とマッチをポケットから出して将一に差し出した。
「将一はん、煙草にマッチ、もろてきました、一服どないです?」
宮田は煙草は吸わないが、将一の為に配給の煙草とマッチを代わりにもらっておいた。
「遅うなりました。わしも装蹄手として輜重隊に配属になると思います、可愛い馬を守るのがわしの役目なんで、最後まで付き添わせてもらいますわ」
職人気質らしい簡潔な言葉に、将一は煙草に火を点けながらふーっと息をもらした。
「お前と一緒なら心強い。黒影も、ほかの馬たちも救われるわ」
宮田は無骨に頷き、再び馬の脚へと手を伸ばした。
「戦場じゃ鉄砲より、この蹄鉄がものを言いますよってね」
宮田の家は代々の鍛冶屋で、幼いころから火と鉄に囲まれて育った。将一とは一つ違いの幼馴染みで、岡田組の馬に混じって遊ぶうちに装蹄を手伝うようになり、そのまま農学校の蹄鉄専科に進んだ。
軍隊では落蹄した馬の世話役が、上官に殴られて交代させられる――そんな過酷な現場でも、宮田だけは自分の馬の蹄鉄の緩みを耳で聞き分け、その勘と技で何頭もの命を支えてきた。
軍部の中では「テッチン工」と揶揄され蔑まれることもあるが、誰よりも馬の肢を知り尽くしている。今も金槌を振るうその横顔には迷いがない。
将一は煙草をふかしながら、心の奥底でつぶやいた。
「……お前と一緒なら、黒影も、鯨も梅も紀虎も、最後まで走り抜けられる」
5.出征
出征の日の朝。
厩舎の静けさから一転、目の前に広がるのは港の喧騒と輸送船の重々しい影だった。
輸送船への積み込みを待つ軍馬たちは、岸壁脇に設けられた水飲み場へと順番に導かれていった。 それは半円形のコンクリート製の槽で、古びた金属の蛇口から冷たい水がかすかに音を立てて流れ落ちていた。
黒影は鼻先を近づけ、躊躇うように水面を揺らし、やがて喉を鳴らして飲みはじめた。水が槽の縁を伝い、馬の口元から滴り落ちるたびに、石の床には小さな水溜りが広がる。
“この水が、黒影にとって故郷で口にする最後の一滴になるかもしれない”
将一の不安を増すかのように、冷たい海風が一層鋭く頬を刺した。
港の岸壁沿いに停泊している、鈍く鉄錆びた船体の輸送船へと、 クレーンで吊るされ一頭また一頭と慎重に積み込まれていく。
船の脇の広場の端からクレーン台まで続く斜路には、重い木製の板が敷かれ、両脇の兵士に導かれて歩かされていた。興奮した馬は蹄で板を叩き、首を振り暴れる。馬がクレーン台に到達すると、作業員たちは素早く吊り具を首や胴に掛け、慎重に吊り上げて船の甲板まで運ぶ。吊り上げ中、馬は空中でバランスを崩すこともあり、暴れれば縄が外れ、落水する危険がある。
クレーンの鉄骨がきしむ音、馬の嘶き、作業員たちの怒号、港の空気は緊張で張り詰め、わずかな不注意が馬の命取りになることを示していた。
馬たちは次々と桟橋を渡り、吊り具で持ち上げられ、船倉の暗がりへと消えていく。
「おい、落ち着け! 前へ進め!」
兵士が荒縄を引き、汗を飛ばして怒鳴る。
「次、あの馬だ!」
号令が飛び、兵士たちが手綱を取って黒影を列に加える。
潮と鉄と煤の匂いに混じり、すでに収容された馬たちの嘶きや蹄の響きが船倉から響いてくる。黒影は鼻を鳴らし、一歩を躊躇う。
「ようし、黒影……大丈夫だ」
将一が頸筋を撫で、声を落として導く。宮田も横に回り込み、低い声で囁く。
“ゆっくりじゃ、ゆっくりな…”
黒影は将一と宮田に誘導され、難なく船倉へと積み込まれていった。
しかし、その後ろでは別の馬が斜路の途中で立ち上がり、兵士が必死に手綱を引き絞っていた。後ろから押す兵たちの罵声が飛び、鞭の音が響く。馬が後ずさりし、木の板がぎしぎしと軋んだ。
「止めろ!落ちるぞ!」
その時だった。
一頭の栗毛の軍馬が突然身をのけぞらせ、繋がれた縄を振り切った。
「危ない!」
将一が声を上げた瞬間、馬は桟橋の端から海へと身を投げ出した。
春先とはいえ、海水は氷のように冷たい。
水柱が上がり、白波に黒い影が呑み込まれる。
馬は方向性を失い、海水を掻きながら右へ左へ必死に足掻いている。
「沈むぞ!」
兵士たちの叫びが飛び交う。だが誰も助けようと飛び込む者はいない。
将一はすかさず上着のまま桟橋の手すりを蹴った。
「将一はん!」
宮田も後を追い、二つの人影が海に消える。
冷たい海水が新調された軍服を突き刺し、耳の奥で波が轟く。
馬は必死にもがき、四肢で水をかき乱していた。
「落ち着け……! 暴れるな!」
宮田が声を張り上げ、馬の頸に冷静に縄を掛け直す。
将一は沈みかける馬体を全身で支えた。
「……重い、くそ……!」
波に飲まれそうになりながら、二人は必死に綱を掴んだ。
「引き上げろ! 早く!」
桟橋の兵士たちが怒鳴り声を上げながら、岸の浅瀬めがけて数人がかりで縄を引き寄せた。
やがて大きな水音とともに、馬の体が岸へと引き上げられた。
砂地に崩れ落ちた馬は、しばらく息も絶えたかのように動かなかったが、 やがて鼻を鳴らし海水を勢いよく吹き出した。
「……大丈夫や」
将一は馬の頸筋を撫で安堵の息を漏らした。
「ああ、よかった…ふぅ」
びしょ濡れのまま宮田が隣に座り込み、肩で荒く息をつく。
「馬にここまで命を張るなんてな……」
見物していた兵士の一人が呆れたように吐き捨てた。
将一は静かに立ち上がり、低くしかし鋭い声で兵士を睨みつけた。
「戦場では、馬も人も同じ命や! それを軽く見るとは何事や! 貴様!」
その兵士は将一の怒りを込めた声に息を飲み、帽子を取って首を垂れた。
宮田はそっと将一の肩に手を置き、荒い呼吸を落ち着かせる。
「……ほんま、将一はんらしいわ」
助けられた馬も、かすかに鼻を鳴らして応えるように頭を押し付けた。
ほとんどの馬たちの輸送船への積み込みが完了したかに見え、数頭の馬を残して、岸壁の上では兵士たちが汗を拭い声を掛け合っている。
「さぁ、もう一息や、もうひと踏ん張り!」
「……ふぅ、なんとか終わりそうですね」
甲板で、宮田が肩で荒い息をつきながら濡れた軍服を絞った。
しかし、その安堵は長くは続かなかった。
鋭いサイレンが港を震わせ、空に鋭く響き渡る。将一と宮田は同時に顔を上げ、雲間に浮かぶ銀色の機影を目にした。遠くの見張り台からは兵士たちの怒号が飛び交う。
「空襲!空襲!」
輸送船の甲板からの叫び声で、将一と宮田はとっさに甲板に飛び出した。
「敵機接近! 全員退避!」
港全体が一瞬にして混乱に飲み込まれた。岸壁では物資を抱える兵士が走り、馬を抑える者たちが必死に叫んでいる。輸送船のサイレンが鳴り響き、港全体が緊迫した震動に包まれた。広場では、まだ積み込まれていない馬を数人の兵士が引き連れて右往左往している。
高度約八千メートル――
高い雲の切れ間から姿を現した爆撃機の編隊が、巨鯨のような銀色の機体を陽に光らせながら、港上空を悠然と進んできた。その腹部からは黒い塊が次々と切り離され、重力に引かれ矢のように落下してくる。
「はよ防空壕へ馬連れて行かんかい!」
将一は声を張り上げた。 宮田も腕を振り、大声で兵士たちを急がせる。
誰かの叫びと同時に、轟音が大気を震わせた。
爆弾が広場に落ち、砂煙と破片が舞い上がる。馬が嘶き、兵士たちが倒れ込む。逃げ遅れた数頭の馬と兵士が爆炎に呑まれ、地面に崩れ落ちた。
「……くそっ!」
将一は拳を握りしめ唇を噛んだ。宮田も息を荒げながら、黒影の耳元に手を添える。
――これ以上、馬たちを死なせられん!
輸送船は混乱の隙を突き、タービン動力を全開させ桟橋を離れ始めていた。
怒号を背に、輸送船は白波を蹴立てて逃げるように港を離れていった。
将一は甲板の手すりに身を乗り出し、地平線に低く唸るエンジン音の響きを聞いた。
――その時だった。
南方基地配備のため訓練飛行を行っていた、三式戦闘機「飛燕」の六機編隊が低空から鋭い矢のように、機首を天へと向け、まるで体当たりでもするかのように急上昇する。エンジンの咆哮が空を裂き、雲間の爆撃機群へ突き進む。
「行けっ……!」 将一は思わず叫んだ。
飛燕は爆撃編隊に割り込み、曳光弾の軌跡で空を薙ぐ。数発が敵機の翼に命中し、銀色の巨体が大きく傾いた。白い雲を切り裂くように機銃の閃光が走り、敵機は次々と翻弄されて退散していった。
「見てみぃ、宮田! あれ新型の“飛燕”や、わしの幼馴染の与四郎が設計したんや……!」
将一は誇らしげに軍帽を高く上げ、機影が見えなくなるまで振り続けていた。
港の煙が遠ざかり、海原の風が甲板を吹き抜けていく。だが将一の耳には、爆撃で命を落とした兵士と馬の嘶きが響いていた。失われた命を背負いながらも、船は南へ南へと進路を取っていく。
陽は傾き、海は赤銅色に染まった。
甲板では馬たちが落ち着きを取り戻そうと身じろぎし、馬丁兵たち黙って秣を与えている。爆撃で命を落とした仲間を思えば、誰も言葉を発する気になれなかった。
宮田はびしょ濡れの軍服を乾かす間もなく、甲板に腰を下ろして大きく息を吐いた。
「……ほんまに、波乱の旅立ちですわ」
将一は黙って頷き煙草をふかした。
「ほんまに…大事な馬を…こんなとこで死ぬことはなかったのにのぅ…」
やがて夜が訪れ、船は月明かりの下を進んでいった。暗い波間に白い航跡が残り、どこまでも続く闇の海に吸い込まれていく。
狭苦しい船室では兵士たちが肩を寄せ合い、不安を紛らわすように小さな声で故郷の話をしていた。笑い声もすぐに消え、代わりに沈黙と船の軋む音が支配する。
将一は眠れぬまま甲板に立ち、遠い水平線を見つめた。
――この先に待つのは、どんな戦場やろか。
胸の奥に重い影が広がる。月光に照らされた波が砕け、甲板にしぶきを散らす。
「生きて帰る。わしらは必ず……」
節くれだった指に挟んだ煙草が、強い海風に吹かれ、ひとすじの火花を散らして消えた。
――まるで、儚い命の灯火が一瞬にして漆黒の闇に消えていくかのようであった。
第四章 幻影の狭間
1. 黒影とゲリラの女兵
「動かないで……日本兵!」
汗と泥に濡れた女兵士の顔。その瞳を見た瞬間、勇馬の心臓は跳ね上がった。
——アンじゃないか!
信じられない。目の前の兵士は、あの穏やかな笑みを浮かべていた彼女と、同じ顔をしていた。
だが今は狩人が獲物を仕留めるような眼差しで、確かに勇馬を敵として見据えていた。
周囲からは乾いた銃声と怒号が絶え間なく響く。土煙の中、勇馬の足元に砲弾が弾け、土と血の匂いが肺を満たした。
森そのものが彼を呑み込み逃げ場はない。引き金にかけられた指が、わずかに震えた——。
その時、数発の擲弾が轟、大地が揺れた。
森の中から漆黒の影が疾風のごとく飛び込んでくる。
森を裂くような嘶きが響いた。振り向いた勇馬の目に、漆黒の影が飛び込んできた。
——黒影
夢の中で見たままの馬が、現実に勇馬を守るかのように割って入った。
銃口が逸れ、弾丸は樹皮を砕き火花を散らす。女兵士は弾き飛ばされるように茂みに倒れ込んだ。
勇馬の手に熱い息を吐く黒影の頸筋が触れた。
次の瞬間には、反射的に黒影の鬣を掴みその背に飛び移った。
銃声と怒号が嵐のように背後から追いすがる。
しかし黒影の蹄は地を裂き、森を貫く稲妻のように駆け抜ける。
——これは夢なのか、それとも……。
黒影の大きな背に揺られ、勇馬はその鬣に必死にしがみついていた。
黒影の蹄は止むことなく森を突き抜けた。木々の間を駆け抜け、谷を越えやがて視界が開ける。
そこには、苔むした石段と崩れかけた屋根を抱えたパゴダ(仏塔)があった。
荒れ果てた寺の境内の小さな堂の前に、軍馬が数頭つながれ、兵士たちが弾薬箱や糧秣の袋を乱雑に積みこんでいた。寺は既に補給部隊と師団本部の拠点として利用されていたのだ。
黒影はためらうことなく境内に駆け込んだ。
兵士たちが驚いた顔でこちらを振り向く。
「おい、黒影、黒影か?!」
「戻ったぞ!岡田伍長!黒影が戻ってきました!」
歓声が上がった。
誰もが知っている名馬の姿に、兵士たちの目が一斉に輝く。
その時、本堂の奥から一人の下士官が煙草を咥え乍ら姿を現した。
軍帽を脱ぎ、鋭い眼差しで黒影を見据える。
だがすぐに、その視線は黒影の背にしがみつく勇馬へと移った。
「……お前、誰や?」
勇馬は言葉を失う。兵士たちの視線が一斉に突き刺さり、喉がからからに乾く。
その男の顔は紛れもない——祖父、岡田将一その人だった。
「じ、じいちゃん…?」 勇馬は声にならない声を出した。
その下士官は、懐かしい紀州弁で話しかけてきた、若かりし頃の勇馬の祖父だった。写真でしか知らなかった顔が、目の前で汗を拭い、土の匂いをまとっている。まるであの“祖父の日記”から抜け出してきたように。
一人の兵士が近寄り声を張り上げ、
「貴様!今何と言ったぁ!!!」
問い質そうとした兵士を将一が遮った。
「おまえ、日本人なんか?」
低く呟き、じっと勇馬を見据える。
軍服も階級章もない。にもかかわらず、この戦地の奥深くに現れた。 なぜ此処ここにいるのか。理由はまるで掴めない。
だが——黒影が背に乗せて帰ってきた。
その事実だけで、将一の胸に言葉にならぬ感覚が広がった。
「何者だ!貴様、どこの部隊から来た?!」
先程の兵士がまた詰め寄ったが、将一はその場にいた兵たちに向かい、落ち着いた口調で諭した。
「黒影が選んで連れてきたんだ若造や。粗略に扱うたらあかん」
兵たちはざわめき、それでも勇馬を怪訝な目で見ている。
「しかし、岡田伍長!こいつは敵のスパイかもしれません!」
敵か味方かもわからぬ若者を、将一は“黒影が導いた者”として扱おうとした。
「まぁまぁ、待て待て…。ところでお前、その恰好はなんや?」
馬から降ろされ、兵士に腕を掴まれたままの勇馬は唇を開きかけたが、声にならなかった。
——どう説明すればいい?
気づけば自分は、見知らぬ兵士たちの中に立ち、夢に見た黒影に導かれてここまで来てしまった。しかし夢だと片づけるには、目の前の光景があまりにも現実的過ぎる。
「……俺は、その……」
言葉を探しても、喉は乾ききって声が出ない。ただ胸の鼓動だけが、耳の奥で騒がしく響いていた。
「その格好……何処の師団の者だ?」
一人の兵士が勇馬のジーンズを指でつまみ、怪訝そうに顔をしかめた。
「泥にまみれとるが、軍服でもなければ作業着でもない。……やはり怪しいぞ、貴様!」
兵士たちが色めき立つと、黒影が鼻を鳴らして勇馬の肩に頸を寄せた。
その仕草に、将一の目が光る。
「……黒影が落ち着いとる。こいつは敵やない。おそらく斥候か何かやろ。俺が預かる」
「岡田伍長!しかし——」
「黙っとれ。縄をかけるな。こいつを縛るなら、まず黒影を抑えなあかんぞ」
将一の一喝に、兵士たちは息を呑み、勇馬に近づくのを躊躇した。
勇馬は必死に唇を動かすが、言葉は出てこない。ただ胸の奥で、説明できぬほどの混乱と恐怖が渦を巻いていた。
2.夜営の一隅
焚き火の炎がゆらめく影の中、将一は勇馬を人目から離した。
「……正直に答えろや。お前、いったい何者や?」
鋭い眼差しが突き刺さる。
勇馬は必死に息を整え、声を絞り出した。
「……俺は、日本人、いや、日本兵です。イギリスの捕虜収容所から脱け出してきました」
将一の眉がわずかに動いた。
「……そのズボンは?」
「英軍の兵士から奪ったんです。脱走の時に。……だから、こんな格好で」
勇馬は泥にまみれたジーンズを指でつまみ、苦笑を浮かべた。 上半身は空港の有名衣料店で買ったTシャツは、汗と泥で黄ばんでいたためか、汚れた下着程度にしか見えなかったのだろう。
将一は黙って勇馬を見据える。
「……正直に答えろ。お前、どこの部隊のもんや。軍服もなく、この山奥で何をしておる」
勇馬は喉が焼けつくように乾き、唇を震わせた。
何を言えばいい。気は焦る一方だ。
「……俺は、その、あの……」
また声が詰まる。だが胸の奥から、勝手に言葉が零れた。
「……シッタン川を渡っちゃ駄目です。あそこは……地獄になる」
一瞬、静寂が落ちた。
「……今、何と言うた?」
勇馬は顔面が蒼白になった。
(しまった……!またどうしてこんなことを……)
「シッタン川の戦いなど、まだ軍の命令にも上がっとらん……」
今度は将一が訝しがった。
勇馬は震える声を絞り出した。
「敵の陣地は、この山を越えた先の谷にあります。谷を北から南へ川が流れ、その右岸の段丘上に砲座が二つ構築されている。高台からは谷全体が見渡せ、森を抜けて渡河する兵の動きもすぐに察知できます。夜間には斥候が森を巡回し、東側の斜面には小規模の見張り火がともる。南へ伸びる街道は補給路で、昼間はトラックがひっきりなしに行き来し、アメリカ軍に供与されたM3中戦車が数台待機している。ここで、撤退中の部隊を迎え撃つ――その作戦です、本当です!」
言葉を吐きながら、勇馬の心臓は破裂しそうだった。
——さっきスマホで読んだ戦史の断片を、まるで自分が見てきたかのように語っている。
将一は黙ったまま、改めて勇馬を見据えた。
その瞳の奥では、疑念と信頼がせめぎ合っていた。
(この若造……なぜ軍装もしてへんのに敵の動きを知っとるんや? 敵の手先かもしれん。しかし……)
ふと、勇馬の横顔が月明かりに浮かんだ。
その輪郭に、どこかで見たような面影が重なった。 将一は、戦死した弟の面影が、勇馬に重なり不思議な親近感を覚えた。もしかすると、遠い縁者なのか…
喉元まで出かかった問いを呑み込み、将一は低くつぶやいた。
「……お前、何者や?」
兵士たちのざわめきが遠のき、二人だけの空気が流れる。
やがて将一は一歩踏み出し、勇馬の耳元に押し殺した声で告げた。
「ええか、この話は俺とお前だけのことや。他の兵に知られたら、スパイ扱いで撃ち殺されるやもしれん。……だがわしの黒影が選んで連れてきたんや。それに……なんとなくお前を見てると、妙に身内のような気がしてしゃぁない」
勇馬は安堵と恐怖が入り混じる中、ただ必死に頷くことしかできなかった。
3.パゴダの連隊本部
鬱蒼とした森に佇む苔むした古寺は 、今や瓦は崩れ、柱には弾痕が残り、雨漏りを防ぐために軍用のシートが粗雑に張られている。 かつては僧の読経が響いたであろう仏塔内は、今や地図や伝令の声に満たされ、祈りの場は完全に戦場の心臓部へと変わり果てていた。
蝋燭とランプの明かりが揺らめき、仏像の影が壁に長く伸びて、どこか不気味な静けさを漂わせる。
勇馬は、その張り詰めた空気に未だに現実とは思われない感覚が全身を支配していた。
兵たちはなおも訝しげに唇を尖らせたが、将一は首を横に振った。
「この部隊は補給と兵站が命や。人手は多い方がええ。こいつに荷運びの一つも任せてみたらどうや」
勇馬はその瞬間、自分がもう後戻りできない道へと足を踏み入れたことを悟った。
「あの、お、岡田伍長殿、僕は…いや、私は馬に乗れます!実家はかつて、いや、馬力運送業をしております!馬の扱いには慣れております!」
勇馬はまたしても、“しまった!” と心の中で叫んでしまった。
将一は驚いたように目を大きくして、間髪を入れずに言った。
「ほぉ、馬力運送やと?お前んとこもわしと同じ商売をやっとるんか?偶然やなぁ、ほなわしの輜重部隊に入ってもらおか」
持っていた煙草をぽいと地面に投げ捨てて、“ほな、頑張れよ” とだけ言って去っていった。
4.ゲリラ討伐戦
夜明けとともに、古寺を拠点とした連隊本部に緊張が走った。
師団長から直々の伝令が下ったのだ。
――大河の対岸に孤立した撤退兵を救い出し、無事にタイ国境まで送り届けよ。
それは、連敗に次ぐ連敗で疲弊した友軍の最後の救出作戦だった。だが道中には、森の村落を拠点に日本軍の補給路を脅かすゲリラが潜む。彼らを排さねば渡河、救出作戦は成立しない。ゲリラの討伐、そして渡河――その成否が、本隊の命運を握っていた。
イギリス軍に雇われたゲリラ部隊は敗走する日本軍を殲滅するために、蜘蛛の巣のように散在していた。彼らの任務は二つあった。一つは、日本軍の補給線を襲撃し、糧秣や弾薬の流れを寸断すること。もう一つは、密林に覆われて外からは決して見えない日本軍の拠点や集積所を嗅ぎ当て、座標をイギリス軍に報せることだった。
日本兵が肌で感じるゲリラの脅威は、もっと切実だった。夜ごと響く銃声、補給隊の馬や牛がいつの間にか姿を消す。歩哨に立った兵士が朝には戻らず、見つかったときには喉を掻き切られていた。森のどこに潜み、誰が味方の顔をして密かにイギリス軍に通じているのか、誰にも分からない。
“やはり、史実は間違ってなかったのか?”
勇馬は事前に本や資料で調べていたことが、今まさに現実に目の前に起ころうとしていることに、背筋が凍る思いがした。
「おい、これ持ってけ!」
年配の兵が一丁の騎銃を手渡してきた。
「四四式や、最新式のやつや。心許ないが丸腰よりはマシやろ」
勇馬は震える手で騎銃を受け取り、手に馴染まぬ鉄の感触に身震いした。自分が持つにはあまりに場違いな道具。しかしこれを握った瞬間から、彼もまた「兵士」として数に数えられてしまったのだ。まだ状況がのみ込めぬまま、背嚢の重みと銃の冷たさだけが現実を告げていた。
鬱蒼とした森の獣道を隊列はゆっくりと進みだした。湿気を帯びた空気の中で鳥の声は次第に消え、代わりに兵たちの荒い息と、補給部隊の馬たちの蹄鉄の音が響きわたる。勇馬は、黒影の黒々とした背を目にとどめながら、自分がいまどこへ向かおうとしているのかを必死に問い続けていた。
列の先頭には、堂々たる黒鹿毛の軍馬――黒影が歩んでいた。だが、その背にいるのは勇馬が見知ったはずの主ではない。輜重兵の伍長である将一が黒影の手綱を取っていない。黒影の背を占めていたのは、小隊長の三田村曹長である。
「この馬、実に従順で力強い。戦場で生き残るのはこういう軍馬だ!」
手綱を握りしめながら、三田村は誇らしげに息巻いた。その横顔には、自信と同時にどこか苛烈な気配が漂っている。
一方、将一の傍らには、ぬかるんだ泥道を重荷を背負った駄馬たちが、四脚を取られながらも黙々と進んでいた。鯨は山砲の砲身を、梅は砲架を、そして紀虎は弾薬箱を両脇に括り付けられている。汗に濡れた毛並みが鈍く光り、一歩踏み出すごとに泥の中へ沈む。
「曹長、これ以上荷を増やすのは無茶ですわ。馬ら、持ちまへんで!」
将一の三田村に対する言葉に、幾何かの反抗の意思が混じっている。
三田村は振り返り、あざ笑うように言った。
「ふん、伍長! 所詮、馬は道具だ。使えるうちに使い潰す。それが戦だろう!」
黒影の耳が小さく揺れた。かつて主と駆けた誇り高き黒馬は、新たな主の冷たい声に違和を覚えているかのようだった。
三田村の甲高い声が続いた。
「遅れるな! この道は奴らが好んで仕掛けてくる。気を抜けば命はないぞ!」
三田村は将一とは同い年だが、三田村は陸軍学校を出た正統派だ。浅黒い顔に刻まれた皺は厳しさよりも苛立ちを思わせ、鋭い目つきで兵たちを睨めつけている。軍帽の下から覗く額には玉の汗が光り、声はどこか怒鳴り散らすように耳障りだった。
「曹長、そんなに喚かんでも兵はついてきますがな…」
将一が呆れたようにぼやいた。
「黙れ!貴様は馬の世話だけしておればいいんだ。俺がこの部隊を率いる以上、命令に口を出すな!」
その言葉に周囲の兵たちは小さく舌打ちをした。三田村の気性の荒さと自己顕示欲の強さはよく知られており、誰も進んで口を開こうとはしない。兵たちの中で彼は、指揮官であるにも関わらず部下の兵士たちから疎まれていた。
勇馬はただ黙ってやりとりを見つめていたが、胸の奥に冷たいものが流れ込むのを感じた。この男と同じ列に加わり、銃を握って進むことに奇妙な居心地の悪さを覚えたのだ。
三田村は勇馬の存在にもすぐに目をとめた。
「おい、そこの若造!見かけぬ顔だな。徴兵名簿にあったか?」
勇馬は返答に窮した。だが将一が一歩前に出て遮った。
「こいつは俺が面倒を見ますよって、余計な詮索はせんといてください…」
「ふん……怪しいもんだ。まあいい、役に立たねば置いていくぞ!」
吐き捨てるように言い放つと、三田村は前方へ歩みを進めた。
勇馬は撃ち方も知らない騎銃を担ぎながら、
――この部隊には、ただ敵だけでなく、味方の中にも争いの火種があるな、と憂鬱な気になった。
先行していた三田村曹長が黒影の歩みを止め、右手のこぶしを挙げて静止の合図を出した。茂みの向こうに何かの影を追っている。数人の兵士たちが音もなく前方に出て一斉に銃を低く構えた。
湿った土と葉の匂いが充満する細い泥道で、将一と勇馬は馬たちを留めて息を殺し草むらに待機する。
頭上に鉛色の雲が圧し掛かり、にわかに閃光が走り、轟き凄まじい豪雨が部隊を襲い始めた。
「いたぞ!攻撃開始!」
三田村の叫び声とともに茂みが割れ、森の木に身を隠していた数人のゲリラが飛び出してきた。粗末なライフルを手に、迷彩布で身を覆った彼らは素早い動きで撃ってくる。そして、すぐに森へ散っていく。
「一人も逃がすな!」
三田村の声が馬上から響き、兵たちが一斉に追撃を開始し、銃声が土砂降りの雨脚を突いて木立の中に鈍く響いた。
その中に——ひときわ勇馬の目を奪う影があった。
汗と泥に塗れ、破れた軍服を身にまとった一人の女兵士。黒く長い髪を頭巾で押さえつけ、瞳は鋭く光っていた。
女と目が合い勇馬は息を呑んだ。
——あの時、銃口を向けてきた女だ…アン
刹那、彼女の瞳には獲物を狙う冷たさと、どこか躊躇うような影が同時に宿っていた。
勇馬の胸が騒ぐ。なぜ撃ってこない? ほんの一瞬の間に彼女の唇が震えたように見えた。
しかし、彼女は背後にいた仲間に促されるように木立の奥へと消えてしまった。
勇馬は、自分も引き金を引けば狙える距離だったのに、身体が動かなかった。
アン、その女の眼差しには、怒りと悲しみ、そして説明のつかぬ迷いを感じたからだ。
銃弾が飛び交う中、三田村を乗せた黒影は電光石火の如く駆け出し、逃げるゲリラの一人を蹴り倒す。
「そいつを拘束しろ!」
銃声と怒号が遠ざかり、森は再び湿った沈黙に包まれる。ゲリラ兵たちは森の奥に姿を消し、日本軍は深追いを避けて陣へ戻ることになった。
縄で縛り上げられた男は、鋭い目つきで兵たちを睨み返していた。痩せた体格にくっきりとした鼻梁と褐色の肌。
「ビルマ人か、国民軍の兵士じゃないか、俺たちの味方じゃないのか?!」
日本語は通じず、部族訛りの英語で何かつぶやいている。
「おい勇馬、通訳せえ!」
将一が声をかけると、周囲の兵が一斉に勇馬を押し出した。
戸惑いながらも勇馬は得意の英語で通訳をすると、男はしばし沈黙した後、薄笑いを浮かべ途切れ途切れに言った。
“明日、朝、撤退する日本兵を、空と陸から焼き尽くす…”
撤退する友軍を襲う罠——それは動かぬ事実だった。
勇馬は思わず続けた。
「それで、あの女、彼女な何者なんだ?」
「……」
「答えろっ!」
三田村が拳で男を殴りつける。血が口端に滲むが、その顔には恐怖でも憎悪でもない、もっと深い何かが表れている。
その時、勇馬の目の前で男が兵の腰から刀を奪い、躊躇うことなく喉へ突き立てた。鮮血が迸り、絞り出すような慟哭の声を上げた。
「日本、万歳!」
血に染まった唇がわずかに動き、勇馬の耳へ囁きのように細い声が届いた。
「……ミオ……正義の戦いを……」
幻か現実か判然としない。だが、その言葉が勇馬の胸に鋭く突き刺さる。
今、目の前で命を絶った男は、彼女を守ろうとしていたのかもしれない――あり得ぬはずの推測が、逃げ場を失った影のように心の奥に居座った。
勇馬は声を飲み込み、その秘密をひとり抱え込むしかなかった。
“ミオ…?” ―アンにそっくりのその女の名は“ミオ”なのか?
将一は横目に勇馬の硬い表情をとらえながらも、あえて何も言わず前を向き続けた。
――その瞬間から、勇馬は知らぬ間に、後戻りのできぬ運命へと踏み込んでいた。
捕虜の男が自決するのを見ていた三田村は冷徹な眼差しで、
「撃ち殺せば済むことだ!」 と吐き捨てた。
将一は肩をすくめ、ため息交じりに言った。
「明日また出直すしかないな」
救出作戦を妨害するゲリラ掃討戦は、まだ終わりそうにない。
だが、勇馬の胸には別の思いもあった。
―もう一度、“ミオ”に出くわすかもしれない。
しかし、シッタン川までの道は遠く、二千メートル級の山々が幾重にも立ちはだかっていた。
勇馬の胸には本で読んだあの惨劇の記憶が重なり、不穏な影を落としていた。
試練は、まだ始まったばかりだった……。
第五章 森の友軍
1. ゲリラ討伐戦
夜明け前の河岸へ続く森は、不気味なほど静まり返っていた。
濃い靄が水面を覆い、雨期の豪雨で膨れ上がった大河は轟々と渦を巻いている。その流れは、いかなる者も一歩踏み入れば瞬く間に呑み込むだろう。
黒影は鼻を鳴らし、遠くに流れる大河の、その生臭い匂いを嗅ぐように頸を上げた。周囲の馬たちもそわそわと落ち着かない。
兵たちの表情には、これから始まる戦いへの緊張が昂っていた。
「渡る前に河岸の森に潜んどるゲリラ兵を叩くそうや、わしらが先にやられたら、対岸にいる友軍の救出どころやないで…」
将一の低い声にうなずき、補給部隊はそれぞれ馬の背に結んだ革紐の点検をする。
僅かに残った二機の山砲と、残り僅かな弾薬を丁寧にばらして、鯨と梅に装備する。そして紀虎にも尽きかけた糧秣を荷負わせた。
宮田は馬たちの脇に立ち、緊張した面持ちで一頭ずつ肢を上げて、念入りに蹄鉄を確認しながら額の汗をぬぐい、
「将一はん、こっちは準備万端でっせ!」
宮田の声が少し震えているの感じた将一は、落ち着いた声で言った。
「宮田はん、あんたは無理すんなよ、馬たちをしっかり守ってくれ…わしらの馬やからな…死なせたらあかんで」
「任しときなはれ、将一はん!」と白い歯を見せた。
三田村の小隊は、もはや往時の精鋭の影もなかった。飢えと病、絶え間ないゲリラの襲撃により、大部分の兵士はすでに土に還っていた。残るは十指に満たぬ歩兵とわずかな馬たちだけ。
かつて誇らしげに進軍していた軍馬の列は、いまや鯨、梅、紀虎の三頭と、雑役に徴したロバ一頭を残すのみ。彼らが抱えるものは、もはや戦力というより重く鈍い苦役の象徴のようでもあった。
三田村曹長の小隊は、森の獣道で息を殺して合図を待っていた。兵たちの握る銃剣には汗が滴り、引き金にかけた指が小刻みに震えている。
馬たちも異様な気配を察したのか、耳を伏せ鼻を荒く鳴らし、土を掻くように蹄を打ち鳴らした。
「……来るぞ」
将一の低い声が張り詰めた空気をさらに硬くした。
やがて、遠雷のような重低音が曇天に響く。敵軍の爆撃機の編隊が、靄を切り裂き頭上を旋回し始めた。
「小隊! 進軍開始! 前方のゲリラを叩け! その後に全軍渡河する!」
号令と同時に、兵たちは泥濘を踏みしめて森へ歩を進めた。
茂みから銃声が轟き静寂を切り裂いた。湿った土が弾け、叫びと怒号が交錯する。
小隊の先頭で黒影に騎乗する三田村は、怒声を上げて敵陣へ突進した。黒影が先陣を切り倒木を飛び越え逃げる影を蹴り倒す。
そして鉛色の空を割って降って来る爆弾——
敵軍の爆撃機が低空を旋回し、機銃の弾が雨のように降り注いだ。
土砂が跳ね、火花が散り、そして数発の機銃掃射が弾丸が三田村の胸を撃ち抜き、三田村は黒影から落ち河岸の土手に倒れた。
2. 濁流の傍らで
主人を失った黒影は、迫りくるゲリラ兵に対峙し鬣を逆立て、仁王立ちになって前脚を振り上げる。
ゲリラ兵が怯んだ隙を突いて勇馬が駆け込んだ。
「黒影!」
濡れた掌が手綱を掴んだ瞬間、黒影は待っていたかのように身を低くし、勇馬を背に迎え入れる。
轟音の渦の中で、二つの心臓が重なる。
炎と煙の向こうに、勇馬は一人取り残された小さな影を見つけた。
まだあどけなさの残る少年は、身の丈ほどもある銃も捨て恐怖に凍りつき、敵弾の雨の中に立ち尽くしていた。
「まだ、子供じゃないか!」
勇馬は躊躇うことなく駆け出した。
「黒影、行くぞ!」
勇馬の叫びと同時に黒影は力強く地を蹴り、勇馬は身を沈め馬と一体となった。
銃弾を縫って駆け抜け、少年を片腕で抱き上げると、少年は驚きと怯えのまま勇馬の胸に縋りついた。
黒影の背は二つの命を軽々と受け止める。
——敵も味方もない。
その思いが勇馬の胸を熱く灼いた。
その光景を茂みの陰から一人の女兵が見ていた。
ミオだった。
銃口は勇馬に向けられている。
だが——彼女の指は動かない。
日本兵が、敵であるはずの男が、少年の命を救ってくれた。
それは本来自分が守ろうとしてきたものだった。
ミオの心臓の鼓動が激しく響き視界が揺らぐ。
——撃てない。どうしても……。
その瞬間、泥に塗れながら起き上がった三田村の弾丸がミオの肩に命中した。
衝撃に身体が仰け反り、構えた小銃がはじき飛んだ。
「ミオ!」
勇馬は叫び声を上げるが、その声は届かない。
ミオは河岸へと滑り落ちていく。
「掴まれっ!」
黒影の背から咄嗟に手を伸ばすが、敵機の銃弾が水面を穿ち黒影の嘶きが彼を押しとどめる。
——ミオ……!
白波が砕け、彼女の姿は一瞬で飲み込まれて消えた。
黒影が悲痛な嘶きを上げ、勇馬は悔しさとともに
「くそっ!」と叫び、
ミオが流された水面を睨みつけた。
勇馬は黒影の手綱を引き馬体を反転させ、泥に崩れ落ちた三田村のもとへ駆け寄った。
血に濡れた顔で空を仰ぐ三田村は、すでに息も絶え絶えだった。
握りしめた銃が泥に沈み込み、わずかな声が漏れる。
「……結局、俺も……兵器のひとつにすぎなかったのか」
そのとき、黒影が低く嘶いた。
まるで答えるようなその響きに、三田村の口元がかすかに緩む。
「……馬に、慰められるとはな……」
黒影が低く嘶く。その声にわずかに微笑みを返すと彼は静かに息絶えた。
3.三田村の死と佐藤軍医
その少し下流。将一は河岸を駆け降り、迷うことなく川縁に膝をつき、腕を伸ばしてその細い身体を引き上げた。
冷えきった肌、かすかに震える指先、彼女はかすかに息をしている。
「まだ生きとるんか……!」
やがてミオの唇が震え、濁った川水を吐き出す。
瞳が薄く開き将一の顔を映した。
「……お前は……」
掠れた声が漏れたが、その先は言葉にならなかった。
将一は周囲を見回し低く囁いた。
「声出すなよ、仲間に見つかったらお前も俺も殺されてまうがなぁ…」
将一の馴れ馴れしくも優しい言葉が、ミオの心に言いようのない迷いを滲ませた。
勇馬が少年ゲリラを助けた時の光景が、彼女の脳裏をかすめているのかもしれない。
「……なぜ、助けた?」
かすかな問いに将一は答えず、ゆっくりとただ森の奥を指し示した。
「もう行け、ここに居たらあかん…」
ミオは濡れた体を震わせながら立ち上がり、森の闇に吸い込まれるように消えていった。
一瞬振り返った瞳に、戦うべき相手への戸惑いと、命を繋がれた者の複雑な情が交錯していた。
河面は鉛色に沈み、夕暮れの光をかすかに映していた。
小隊長の三田村を失くした部隊はわずかな歩兵と、将一の率いる輜重隊のみとなった。
鯨と梅が運んでいた山砲も、すでに弾薬が尽き無用の長物となり、紀虎の背に結んだ僅かな食糧を残すのみとなった。
宮田が将一に歩み寄り、
「将一はん、馬動かせるん、もうあんたしかおりまへん、このまま河渡りましょうや」
宮田の眼が将一の決断を待っている。
将一は濡れた手のひらを衣で拭い、溜息をつきながら黒影の鼻面を撫でながら、
「そやけど… もう弾薬も糧秣もあらへんがな…」
かすかな囁きに応えるように、黒影が低く嘶く。
勇馬は二人の会話を聴きながら、胸の奥で自問の声が囁いていた。
―なぜ自分はこの時代にいるのか。
―弾薬も食料もなく、もしかしてここで死ぬのか?
本当に元の世界へ戻れるのか、考えるほどに答えは遠のき、勇馬の心は揺らぐばかりだった。
それでも腕の中には、自分が救った少年の身体の温もりが残っている。
勇馬は迷いを抱えたまま、前へ進む覚悟を固めた。
帰り道を探すことも、生き抜くことも、すべてはこの一歩から始まるのだ。
程なくして、遅れて数名の工兵たちが追いついてきた。
それぞれ持てるだけの工具を背負っている。
つるはしやショベル、測量器具など、しかし渡河に必要な筏を組めるほどの充分な装備ではないことは一目でわかった。
それでも、三田村を失った小隊にとっては願ってもない援軍だった。
そして、その中に見覚えのある男がいた。
「……佐藤軍医殿!」
将一の声が弾む。
驚きと安堵が入り混じった笑顔で彼を迎えると、佐藤軍医少尉は疲れをにじませながらもきびすを正し、敬礼を返した。
「おおお、佐藤軍医やないですか!よくぞ御無事で!まさか、こんな所で再会できるとは夢にも思いませんでしたわ!」
将一は興奮して声を上げた。振り返った軍医の佐藤少佐は、やせ細った顔に微笑を浮かべる。
「岡田曹長こそ、お達者で安心しました!」
二人の記憶が一瞬で蘇る。戦況が激化するその年の正月、タイの日本軍駐屯地の庭でついた餅つきの思い出。杵を交代で振り下ろし、白くふくらんだ餅を前に今は亡き若い兵士たちと笑顔で過ごした日。そして、馬好きの二人が意気投合し、早朝に駐屯所の裏山を駆け上がったこと。
あの短い温もりの時間が、将一と佐藤に束の間の穏やかな光景を思い起こさせていた。
佐藤軍医は、乗馬の両脇に結わえた荷の中から布袋を大事そうに取り出した。
「薬だけじゃないですよ、ほら……これ」
佐藤軍医は静かに微笑み布袋を開いて見せた。
「後方の衛生部隊から少しだけですが……持ってきました、腹の足しになれば」
布紐を解き、中から現れたのは緑豆を漉して餅に詰めた大福餅だった。
その姿は決して贅沢なものではなかったが、疲弊した兵たちの目が一斉に吸い寄せられた。
「……大福餅だ、懐かしいなぁ」
誰かが小さくつぶやいた。
貴重な糧秣を手にした兵士たちは、その素朴な甘みに思わず胸を熱くした。
佐藤軍医の大福餅は疲労困憊の兵士たちにわずかな望みを与えた。
その時、森影から人の気配が現れた。
粗末な装束に古びた銃を抱えたゲリラ兵たちが、枝葉を押し分けて進んでくる。
そして大きなニッパヤシの葉を揺らしながら現れたのは、ゲリラ兵を乗せた二頭の大きな象だった。
その巨体は森の緑を背にして、まるで古代の石像が歩き出したかのようであった。
その場にいた兵士全員が殺気立ち、銃を構えた。
森の切れ間から差し込む月明かりが、両手を上げたゲリラ兵たちを薄く照らしていた。全員が銃を高く上げて、攻撃してくる気配もない。
その中から肩から包帯を巻いたミオが現れ、勇馬の目を見つめる。
小さな声で絞り出すように言った。
「信じて、我々は、あなたの敵じゃない」
勇馬は目を凝らし彼女を見つめ、思わず声を漏らした。
「……お前、生きてたのか……」
ミオは小さくうなずき、喉の奥でつかえた声を押し出した。
「日本兵、お前は、あの子を……助けた」
「急いで河を渡れ…夜が明ければ、対岸の日本兵は全滅する」
森のざわめきが二人の間を満たす。
「われらはお前たち、日本人と一緒に戦う…」
彼女は肩を強ばらせるようにして言った。
4.渡河 ― 月下の神馬
河面は月明かりを反射し、銀色の筋となって荒々しくうねっていた。
先頭の象にはミオが跨がり、長い鼻で筏を導く。
二頭目の象が後ろから筏を押し出し、ぎしぎしと軋む。
今では “森の友軍” となったゲリラ兵はそれぞれに分かれ象の上に乗り指揮を執る。
そして筏の上には将一や工兵、佐藤軍医の姿。
誰もが息を詰め、弾薬や薬箱を必死に押さえていた。
黒影の手綱を将一が掴み、勇馬は鯨、梅、紀虎は筏に乗った輜重兵が手綱を持ち、筏に沿って慎重に泳がせることにした。
濁流を切り裂いて進む筏。その先頭には巨大な象が立ちはだかる水流を押し分けていた。
流れの中ほどに差しかかり、順調に渡河が成功するかに見えたその時―。
対岸近く、激しい流れに洗われた黒々とした岩が、牙のように突き出していた。
その瞬間、黒影が耳をぴんと立て、将一の手綱を振り切って前へ飛び出した。
「黒影! どうした、どこへ行くんや!」
驚きの声を背に、黒影は流れを蹴り、先頭を行く象の前へと泳ぎ出す。
黒影は後躯を踏ん張り、前方を塞ぐ岩の上に駆け上がった。
蹄は滑りながらも踏みとどまり、濡れた鬣を揺らして高々と頸を掲げる。
その姿は、月下に現れた幻の神馬が嘶くかの如く河面を震わせた。
「ヒィィィィン――!」
黒影の甲高い嘶きに兵の叫びが響く。
「岩だ! 左舷に岩!」
先頭の象に乗る兵士でさえ見抜けなかったその岩を、黒影は鋭い眼で射抜いていた。
工兵たちが必死に櫂を操り、象が縄を引き絞り、筏は大きく軋みを上げながらも岩をかすめて流れに戻った。
やがて対岸の闇をの中から、いくつもの灯が空気を揺らした。
それは友軍が掲げる居場所を知らせる松明の炎――待ち望んだ合図である。
岸辺に身を潜める兵たちは、やせ細った体を寄せ合い、渡河の成功を祈り続けていた。
―うっすらと東の空が白み始める。
それは希望の兆しであると同時に、夜の闇を越えた者たちに、敵の総攻撃が迫り来ることを告げる暁の光でもあった。
第六章 激流を越えて
1. 渡河
激流を越えた兵たちは、岸辺にへたり込み、泥と水にまみれた身体を投げ出した。
浅瀬では葦が行く手を塞ぎ、筏は進めず兵たちは這うようにして岸へと上がる。
誰もが口を開けば息が切れ、肩で荒く呼吸するばかりだった。
「渡り切ったぞ!」
誰かの叫びにどっと安堵の笑いが河原に広がる。
黒影は岸辺の草を踏み鳴らし、水滴を振り払うように鬣を揺らす。
鯨、梅、紀虎の三頭も傍らに集まり、無言でその偉業を称えるようだった。
森の象たちは、何事もなかったかのように鼻を振り、穏やかな目を向けていた。
その光景に、兵たちの胸にも束の間の静けさが訪れた。
勇馬はまるで力が抜けたようにその場に尻を落とした。
——生きて渡れた。それだけで奇跡だ。
しかし森の友軍は緊張を解かず、ミオを囲んで険しい顔で言葉を交わしている。
彼女は兵を数人ずつに分け、斥候を四方へ走らせた。
やがてミオは勇馬に近づき低く告げる。
「お前たちの仲間はこの辺りの洞窟や壕に身を隠しているはずだ。重病人も多く、武器弾薬も尽きている。急いで探し出し、敵の攻撃に備えねばならない……明日にも攻撃が始まる」
傍らの将一が眉をひそめる。
「おい、若造。この女狐は何ちゅうとるんや?」
ミオは構わず続ける。
「首都はすでに敵に奪還された…このまま南下して鉄道を使うことはできない。再び河を渡り、タイ国境を目指すしかない。だが傷病兵を運ぶには危険すぎる…奴らだけでは無理だ…」
顎で示した先には、二頭の巨象がゆっくりと瞬きをしながらその巨体を休めていた。
黒影、鯨、梅、紀虎の岡田組の馬は、宮田が集めてきた「ナツカゼ」と呼ばれる草を食んでいる。
将一の指示で、動ける兵士たちは、上空から見えぬ大木の下に臨時の野戦病院を設け、砲兵は獣道の坂に二門の山砲を据え付けた。
その時、斥候に出ていた兵が数人の日本兵を伴って戻ってきた。
彼らは皆傷だらけで、血に濡れた包帯や膿んだ裂傷に顔を歪めていた。
竹で作った粗末な担架で運ばれる者、痩せ衰えて仲間に支えられる者もいる。
佐藤軍医は野戦病院とは名ばかりの救護所に詰めて、血と消毒薬の匂いの中で手当を始めた。
「動ける者からだ……薬は足りん」
一人一人の瞳孔を確かめ、助かる見込みのある者を優先する。
半数は栄養失調とマラリアに蝕まれ、亡霊のような顔で虚ろに天を仰ぐ。
佐藤も非情にならざるを得なかった。
食糧班がわずかばかりの握り飯や乾パンを配る。
自力で歩ける兵たちは、飢えた獣のように手を伸ばし、泥だらけの指でそのまま口へ押し込んだ。
勇馬も背嚢から湿った乾パンを取り出し、ゆっくりと齧った。
「これは戦争ではなく……ただ生き残るための地獄の試練なのか…?」
胸を押し潰す現実の重みの中で、勇馬は深い空虚に包まれていった。
2.月下の灯
その夜、ジャングルはいつになく明るかった。
雲一つない夜空に青白い満月が昇り、密林の梢の隙間から幾筋もの光が差し込む。
湿った葉は銀色に濡れ、靄は淡い光をまとって漂い、森全体が異国の祭りに迷い込んだようだった。
兵士たちは野営地の片隅に集まり、ひそやかな宴を始めた。
飯盒に小さな行軍ローソクを立て、蓋をずらして被せる。
炎は外に漏れず、内側だけを赤く揺らめかせ、即席の灯籠が彼らの顔を照らした。
「おい、今日は月が味方だな…」
誰かの呟きに皆が声を押し殺して笑う。
ある兵は袖に忍ばせていた娘の手紙を読み上げる。
幼い字で綴られた「とうちゃん、はやくかえってきてね」の一文に場が一瞬静まった。
別の兵は小声で子守歌を口ずさみ、仲間が鼻歌を重ねる。
やがて誰かが叫んだ。
「よぉし、“ひそひそ”のど自慢大会だ!」
演歌も軍歌も調子外れ、声を抑えねばならず、余計に滑稽だった。
森の友軍から乾燥トウモロコシの差し入れが届き、静かな歓声が上がった。
将一が十八番の「愛馬進軍歌」を歌い始め、宮田と肩を組んで合唱する。
二人の眼には故郷の馬と、ここへ連れて来られた岡田組の馬たちの影が重なり涙が二人の頬を伝う。
「おい、若造!お前も歌えや!」
突然の指名に、勇馬は困惑した。
彼らの口ずさむ歌は一つもわからなかった。
みんなの冷やかす笑い声に、ただ俯くばかりの勇馬だった。
――束の間の安らぎ。
そこへ従軍カメラマンの井上が現れた。
首から提げたドイツ製のライカを掲げて微笑んでいる。
「お前ら、いい顔してるじゃないか! 今のうちに一枚撮っておこう」
薄明かりの中、一人ひとりの笑顔や横顔がフィルムに焼き付けられていく。
井上は、黒影のたてがみを撫でながら勇馬に訊いた。
「お前とこの馬、ええ面顔してるな。明日の朝、走ってみせてくれ」
勇馬は苦笑しながら頷いた。
やがて夜は更け、兵士たちは束の間の平穏を満喫し、静かに眠りへ落ちていく。
翌朝、まだ朝靄が森を包む頃、森の友軍が近くの集落から数頭の象を連れてやって来た。
森で切り出した材木を引き摺り、簡易の病床や雨除けの梁に加工する。
動ける兵士たちが手分けして作業に加わり、井上は象と一緒に働く彼らの姿をフィルムに収めていった。
兵士の中には、象の背に乗って銃を掲げ万歳をする者、わざと落ちそうに身を傾け仲間の笑いを誘う者…まるで生れてはじめて象を見る子どものように楽しそうに騒いでいた。
「勇馬と言ったな? お前と黒影の写真も撮らせてくれよ」
井上から唐突に訊かれたので、将一が顎で“いいぞ”と合図するのを確かめて、勇馬は黒影に跨ってレンズに顔を向けた。
黒影は静かに嘶き、勇馬を背に乗せたまま、しかし遠い森を鋭く睨み据えていた。
3.黒影の嘶き
その時、空を裂く轟音が響いた。
西の空から銀色の偵察機が現れ、大きく旋回する。
やがて峠の敵陣上空に、いくつもの落下傘が白い花のように開き、ゆるやかに降りていった。
束ねられた木箱には “Ration” の文字。
日本兵たちは悔しげに空を仰ぎ、数人が駆け出したが、すぐさま制止の怒声が飛ぶ。
「馬鹿者! 敵に居場所を知らせる気か!」
物資も食料も尽きかけた今、なんとしても敵の物資を盗む意気込みだった。
木陰に繋がれた黒影が鼻を鳴らし、前脚で泥を叩いた。
勇馬はサッと黒影の背に飛び乗り、制止を振り切って落下傘めがけて突進する。
黒影が跳ね上がり、鼻先で傘を受け止めると、勇馬は素早く縄を切った。
「糧秣だ!」
「敵さんからの差し入れだ!」
歓声が上がったが、木箱の中身は缶詰と少しの弾薬、衣料品、消毒液、煙草、英字新聞……食糧はわずかだった。
ため息が湿った空気に溶け、二十日間続いた無補給の行軍を思えば、喜びはすぐに霧散した。
勇馬は木箱に残されていた一丁の“拳銃”を掴み、腰のベルトに差し込んだ。
束の間の青空は、みるみる鉛色に変わり、雷鳴とともに滝のような雨が森を叩きつける。
そこへミオが部下の兵を率いて駆け寄った。
「敵は河の対岸にも集結し始めている……このまま河を戻れば挟み撃ちにされて全滅だ!」
彼女の声は雨と砲声にかき消されながらも、低く鋭く響いた。
――南へ抜けるしかない、もはや退路はそれだけだ。
将一の眉間に深い皺が刻まれる。
兵たちも顔を曇らせ、誰もが事の重さを悟った。
その時、森を震わせる銃声が静寂を切り裂いた。
そして大地を揺るがす砲声。
煙幕の向こうから敵兵がなだらかな丘を下って、中戦車から砲弾を放ちながら、雪崩のように押し寄せてくる。
黒影が甲高く嘶き、馬上の勇馬は本能的に身を伏せる。
―敵の総攻撃が始まった。
すでにこちらの位置は探知されていたのだ。
対岸に布陣していた敵兵からも一斉に砲弾を浴びせてきたのだ。
「こりゃいかん! 挟撃されている!」
将一の怒声が飛ぶ。
兵たちは泥に伏せ、必死に銃を構えるが、火力の差は歴然だった。
その時、ミオが血走った目で叫んだ。
「森の獣道がある! だが敵も待ち伏せしている、突破するしかない!」
返事を待つまでもなく、将一が立ち上がり、怒鳴るように叫んだ。
「全員、突撃用意! ここで止まれば全滅や!」
―獣道。
鬱蒼と茂る竹林の奥に伸びる一本の細い道。
そこはすでに敵の銃座と地雷が仕掛けられた死地であった。
象の背に乗った森の友軍が、鬨の声を上げて勢い突入する。
長槍を振りかざし、 象は長い鼻で敵兵を叩きつけ、竹の幹ごと薙ぎ倒した。
日本兵も後に続き、竹林の中で白兵戦が始まった。
銃剣が閃き、泥にまみれた男たちが互いの影に組み付く。
だが、敵の機関銃座が火を噴くと、兵列はたちまち崩れ、誰もが死を覚悟した。
―その刹那。
漆黒の影が閃光を放った。
黒影だ。
勇馬を背に弾雨の中を疾走し、銃座に突っ込む。
目にも止まらぬ速さに、敵兵は銃を振り回すが影を捉えられない。
雨に濡れた獣道を稲妻のように突き抜け、闇を切り裂く嘶きが森に響き渡った。
爆炎と爆音の中で、その姿は幾重にも分かれて駆け抜けていく幻影のように見えた。
追いすがる敵の罵声も、木々を砕く弾雨も、黒影の疾走に吸い込まれていくようだった。
森の友軍の火線が樹々の合間から走り、敵の追撃を裂いた。
黒影はさらに加速する。
「悪魔の馬だ! ―Devil’s Horse!―」
敵兵の叫びが戦火の森を震わせた。
黒影は一気に敵の銃座を蹴散らし、勇馬の銃撃が火花を散らす。
退路を見失いかけていた兵士たちの耳に、黒影の嘶きが高らかに響き渡った。
「ついて来い!」
勇馬の声と黒影の嘶きが重なり、兵たちは一斉にその影を追った。
樹々の上方に照明弾が放たれ、幾筋もの光に黒影の鬣は銀に輝き、森の闇に一筋の道を切り拓く。
日本兵は次々と獣道へ雪崩れ込む。
道はぬかるみ、狭い山肌の斜面は崩れ落ちそうに脆かった。
だが黒影は一度も躓かず、まるで森そのものが道を開いているかのように敵陣を駆け抜けた。
黒影は最後の力を振り絞り、坂を駆け上がると、大地を打ち鳴らすように四蹄を叩きつけて止まった。
兵たちは次々とその背後に転がり込み、息を荒げて泥土に倒れ込む。
誰もが黒影を見上げた。
漆黒の馬体は蒸気を纏い、燃えるような眼光を放ち、前肢を高く掲げて仁王立ちになった。
まるで死地を裂き、命を運んだ神軍馬そのものだった。
この光景は、のちに兵たちの間で語り継がれることになる。
——黒影の嘶きが、彼らを地獄の淵から救ったのだと。
4.白骨の森
激戦を潜り抜け、勇馬たちの小隊は辛うじて敵の追撃を振り切った。
雨はなお森を叩きつけ、ぬかるみに足を取られながら進む。
やがて鬱蒼とした林を抜けたところで、彼らは小さな窪地に出た。
そこには爆撃で半壊した小さなお堂があり、屋根は落ち、柱は炭のように焦げ付いている。
だが、その背後の苔むした古い仏塔が静かに無傷で佇んでいた。
戦火にさらされながらも崩れず、長い時を越えて人々を見守ってきたその姿は、今まさに死地を逃れた兵士たちの目に、ひと時の不可思議な安らぎを与えた。
兵たちは次々とお堂の陰に転がり込み、肩で息をつきながら床に伏す。
周囲には日本兵の白骨や焼け焦げた軍帽が散乱しており、つい数日前、この場所で仲間が敵の猛攻を受け、ほぼ全滅したことを物語っていた。
骸骨の腕に絡まった錆びた銃。
泥に沈みかけた頭蓋。
ミイラ化した馬や牛の背骨の間からは、草が伸びていた。
「……ここで、何があったんや」
将一が低く呟くと、誰もが息をのんだ。
佐藤軍医が、骨の間に残された古びた飯盒を拾い上げる。
「同じ日本兵だ……補給を絶たれ、ここで餓え死にしたのだろう」
湿った風に乗って、どこからか腐臭が漂う。
勇馬の喉は焼けるように渇いたが、胃の底からこみ上げる吐き気を必死に抑えた。
白骨の森――。
それは、彼らの行く末を示す冷酷な未来図のように思えた。
将一は後に残してきた傷病兵たちのことが脳裏に浮かんだ。
勇馬は荒い呼吸のまま、ふと仏塔を仰いだ。
その瞬間、胸の奥で何かが弾ける。
——見覚えがある。
あの古びた写真。
若かりし将一が黒影に跨り、凛々しく笑っていた背景の仏塔。
間違いない、ここだ。
そして焼け落ちた馬車の傍らに転がる、黒ずんだ鉄片に目を留めた。
ぬかるみから引き上げると、それは一枚の蹄鉄だった。
泥を拭い落とすと、刻まれた文字が雨粒に濡れて銀色に浮かび上がる。
――R.O 1944 (*)
勇馬の心臓がどくんと跳ねた。
見覚えがある、いや、確かに知っている。
——実家の将一爺さんの木箱に入っていた蹄鉄だ。
胸の奥で説明のつかない感覚が広がっていく。
誰も言葉を発せず、雨と風が木立を揺らす音だけが続く。
すると窪地の奥に青白い光がひとつ浮かんだ。
湿った空気に灯球が揺らめき、白骨の上をかすめて森の陰に消えていく。
「……見たか」
小さな声に、数人が蒼ざめて頷く。
それが何であったのか、誰も確かめようとはしなかった。
「……行こう」
将一の声に、兵たちは黙って歩を進めた。
雨の飛沫と時間の流れが捩れ、過去と未来の境が曖昧になる感覚。
勇馬はしばし立ち尽くした。
「勇馬……急げ!」
将一の“勇馬”と呼ぶ声に我に返り、蹄鉄を懐に押し込むと将一の背を追った。
再び雨の森に、銃声が遠く木霊する。
逃避行はなお続く‥‥‥
(*) Royal Ordnance(1944年イギリス軍兵器工廠製の意)
第七章 銃声の果てに
1. 渡河
激流を越えた兵たちは、岸辺にへたり込み、泥と水にまみれた身体を投げ出した。
浅瀬では葦が行く手を塞ぎ、筏は進めず兵たちは這うようにして岸へと上がる。
誰もが口を開けば息が切れ、肩で荒く呼吸するばかりだった。
「渡り切ったぞ!」
誰かの叫びにどっと安堵の笑いが河原に広がる。
黒影は岸辺の草を踏み鳴らし、水滴を振り払うように鬣を揺らす。
鯨、梅、紀虎の三頭も傍らに集まり、無言でその偉業を称えるようだった。
森の象たちは、何事もなかったかのように鼻を振り、穏やかな目を向けていた。
その光景に、兵たちの胸にも束の間の静けさが訪れた。
勇馬はまるで力が抜けたようにその場に尻を落とした。
——生きて渡れた。それだけで奇跡だ。
しかし森の友軍は緊張を解かず、ミオを囲んで険しい顔で言葉を交わしている。
彼女は兵を数人ずつに分け、斥候を四方へ走らせた。
やがてミオは勇馬に近づき低く告げる。
「お前たちの仲間はこの辺りの洞窟や壕に身を隠しているはずだ。重病人も多く、武器弾薬も尽きている。急いで探し出し、敵の攻撃に備えねばならない……明日にも攻撃が始まる」
傍らの将一が眉をひそめる。
「おい、若造。この女狐は何ちゅうとるんや?」
ミオは構わず続ける。
「首都はすでに敵に奪還された…このまま南下して鉄道を使うことはできない。再び河を渡り、タイ国境を目指すしかない。だが傷病兵を運ぶには危険すぎる…奴らだけでは無理だ…」
顎で示した先には、二頭の巨象がゆっくりと瞬きをしながらその巨体を休めていた。
黒影、鯨、梅、紀虎の岡田組の馬は、宮田が集めてきた「ナツカゼ」と呼ばれる草を食んでいる。
将一の指示で、動ける兵士たちは、上空から見えぬ大木の下に臨時の野戦病院を設け、砲兵は獣道の坂に二門の山砲を据え付けた。
その時、斥候に出ていた兵が数人の日本兵を伴って戻ってきた。
彼らは皆傷だらけで、血に濡れた包帯や膿んだ裂傷に顔を歪めていた。
竹で作った粗末な担架で運ばれる者、痩せ衰えて仲間に支えられる者もいる。
佐藤軍医は野戦病院とは名ばかりの救護所に詰めて、血と消毒薬の匂いの中で手当を始めた。
「動ける者からだ……薬は足りん」
一人一人の瞳孔を確かめ、助かる見込みのある者を優先する。
半数は栄養失調とマラリアに蝕まれ、亡霊のような顔で虚ろに天を仰ぐ。
佐藤も非情にならざるを得なかった。
食糧班がわずかばかりの握り飯や乾パンを配る。
自力で歩ける兵たちは、飢えた獣のように手を伸ばし、泥だらけの指でそのまま口へ押し込んだ。
勇馬も背嚢から湿った乾パンを取り出し、ゆっくりと齧った。
「これは戦争ではなく……ただ生き残るための地獄の試練なのか…?」
胸を押し潰す現実の重みの中で、勇馬は深い空虚に包まれていった。
2.月下の灯
その夜、ジャングルはいつになく明るかった。
雲一つない夜空に青白い満月が昇り、密林の梢の隙間から幾筋もの光が差し込む。
湿った葉は銀色に濡れ、靄は淡い光をまとって漂い、森全体が異国の祭りに迷い込んだようだった。
兵士たちは野営地の片隅に集まり、ひそやかな宴を始めた。
飯盒に小さな行軍ローソクを立て、蓋をずらして被せる。
炎は外に漏れず、内側だけを赤く揺らめかせ、即席の灯籠が彼らの顔を照らした。
「おい、今日は月が味方だな…」
誰かの呟きに皆が声を押し殺して笑う。
ある兵は袖に忍ばせていた娘の手紙を読み上げる。
幼い字で綴られた「とうちゃん、はやくかえってきてね」の一文に場が一瞬静まった。
別の兵は小声で子守歌を口ずさみ、仲間が鼻歌を重ねる。
やがて誰かが叫んだ。
「よぉし、“ひそひそ”のど自慢大会だ!」
演歌も軍歌も調子外れ、声を抑えねばならず、余計に滑稽だった。
森の友軍から乾燥トウモロコシの差し入れが届き、静かな歓声が上がった。
将一が十八番の「愛馬進軍歌」を歌い始め、宮田と肩を組んで合唱する。
二人の眼には故郷の馬と、ここへ連れて来られた岡田組の馬たちの影が重なり涙が二人の頬を伝う。
「おい、若造!お前も歌えや!」
突然の指名に、勇馬は困惑した。
彼らの口ずさむ歌は一つもわからなかった。
みんなの冷やかす笑い声に、ただ俯くばかりの勇馬だった。
――束の間の安らぎ。
そこへ従軍カメラマンの井上が現れた。
首から提げたドイツ製のライカを掲げて微笑んでいる。
「お前ら、いい顔してるじゃないか! 今のうちに一枚撮っておこう」
薄明かりの中、一人ひとりの笑顔や横顔がフィルムに焼き付けられていく。
井上は、黒影のたてがみを撫でながら勇馬に訊いた。
「お前とこの馬、ええ面顔してるな。明日の朝、走ってみせてくれ」
勇馬は苦笑しながら頷いた。
やがて夜は更け、兵士たちは束の間の平穏を満喫し、静かに眠りへ落ちていく。
翌朝、まだ朝靄が森を包む頃、森の友軍が近くの集落から数頭の象を連れてやって来た。
森で切り出した材木を引き摺り、簡易の病床や雨除けの梁に加工する。
動ける兵士たちが手分けして作業に加わり、井上は象と一緒に働く彼らの姿をフィルムに収めていった。
兵士の中には、象の背に乗って銃を掲げ万歳をする者、わざと落ちそうに身を傾け仲間の笑いを誘う者…まるで生れてはじめて象を見る子どものように楽しそうに騒いでいた。
「勇馬と言ったな? お前と黒影の写真も撮らせてくれよ」
井上から唐突に訊かれたので、将一が顎で“いいぞ”と合図するのを確かめて、勇馬は黒影に跨ってレンズに顔を向けた。
黒影は静かに嘶き、勇馬を背に乗せたまま、しかし遠い森を鋭く睨み据えていた。
3.黒影の嘶き
その時、空を裂く轟音が響いた。
西の空から銀色の偵察機が現れ、大きく旋回する。
やがて峠の敵陣上空に、いくつもの落下傘が白い花のように開き、ゆるやかに降りていった。
束ねられた木箱には “Ration” の文字。
日本兵たちは悔しげに空を仰ぎ、数人が駆け出したが、すぐさま制止の怒声が飛ぶ。
「馬鹿者! 敵に居場所を知らせる気か!」
物資も食料も尽きかけた今、なんとしても敵の物資を盗む意気込みだった。
木陰に繋がれた黒影が鼻を鳴らし、前脚で泥を叩いた。
勇馬はサッと黒影の背に飛び乗り、制止を振り切って落下傘めがけて突進する。
黒影が跳ね上がり、鼻先で傘を受け止めると、勇馬は素早く縄を切った。
「糧秣だ!」
「敵さんからの差し入れだ!」
歓声が上がったが、木箱の中身は缶詰と少しの弾薬、衣料品、消毒液、煙草、英字新聞……食糧はわずかだった。
ため息が湿った空気に溶け、二十日間続いた無補給の行軍を思えば、喜びはすぐに霧散した。
勇馬は木箱に残されていた一丁の“拳銃”を掴み、腰のベルトに差し込んだ。
束の間の青空は、みるみる鉛色に変わり、雷鳴とともに滝のような雨が森を叩きつける。
そこへミオが部下の兵を率いて駆け寄った。
「敵は河の対岸にも集結し始めている……このまま河を戻れば挟み撃ちにされて全滅だ!」
彼女の声は雨と砲声にかき消されながらも、低く鋭く響いた。
――南へ抜けるしかない、もはや退路はそれだけだ。
将一の眉間に深い皺が刻まれる。
兵たちも顔を曇らせ、誰もが事の重さを悟った。
その時、森を震わせる銃声が静寂を切り裂いた。
そして大地を揺るがす砲声。
煙幕の向こうから敵兵がなだらかな丘を下って、中戦車から砲弾を放ちながら、雪崩のように押し寄せてくる。
黒影が甲高く嘶き、馬上の勇馬は本能的に身を伏せる。
―敵の総攻撃が始まった。
すでにこちらの位置は探知されていたのだ。
対岸に布陣していた敵兵からも一斉に砲弾を浴びせてきたのだ。
「こりゃいかん! 挟撃されている!」
将一の怒声が飛ぶ。
兵たちは泥に伏せ、必死に銃を構えるが、火力の差は歴然だった。
その時、ミオが血走った目で叫んだ。
「森の獣道がある! だが敵も待ち伏せしている、突破するしかない!」
返事を待つまでもなく、将一が立ち上がり、怒鳴るように叫んだ。
「全員、突撃用意! ここで止まれば全滅や!」
―獣道。
鬱蒼と茂る竹林の奥に伸びる一本の細い道。
そこはすでに敵の銃座と地雷が仕掛けられた死地であった。
象の背に乗った森の友軍が、鬨の声を上げて勢い突入する。
長槍を振りかざし、 象は長い鼻で敵兵を叩きつけ、竹の幹ごと薙ぎ倒した。
日本兵も後に続き、竹林の中で白兵戦が始まった。
銃剣が閃き、泥にまみれた男たちが互いの影に組み付く。
だが、敵の機関銃座が火を噴くと、兵列はたちまち崩れ、誰もが死を覚悟した。
―その刹那。
漆黒の影が閃光を放った。
黒影だ。
勇馬を背に弾雨の中を疾走し、銃座に突っ込む。
目にも止まらぬ速さに、敵兵は銃を振り回すが影を捉えられない。
雨に濡れた獣道を稲妻のように突き抜け、闇を切り裂く嘶きが森に響き渡った。
爆炎と爆音の中で、その姿は幾重にも分かれて駆け抜けていく幻影のように見えた。
追いすがる敵の罵声も、木々を砕く弾雨も、黒影の疾走に吸い込まれていくようだった。
森の友軍の火線が樹々の合間から走り、敵の追撃を裂いた。
黒影はさらに加速する。
「悪魔の馬だ! ―Devil’s Horse!―」
敵兵の叫びが戦火の森を震わせた。
黒影は一気に敵の銃座を蹴散らし、勇馬の銃撃が火花を散らす。
退路を見失いかけていた兵士たちの耳に、黒影の嘶きが高らかに響き渡った。
「ついて来い!」
勇馬の声と黒影の嘶きが重なり、兵たちは一斉にその影を追った。
樹々の上方に照明弾が放たれ、幾筋もの光に黒影の鬣は銀に輝き、森の闇に一筋の道を切り拓く。
日本兵は次々と獣道へ雪崩れ込む。
道はぬかるみ、狭い山肌の斜面は崩れ落ちそうに脆かった。
だが黒影は一度も躓かず、まるで森そのものが道を開いているかのように敵陣を駆け抜けた。
黒影は最後の力を振り絞り、坂を駆け上がると、大地を打ち鳴らすように四蹄を叩きつけて止まった。
兵たちは次々とその背後に転がり込み、息を荒げて泥土に倒れ込む。
誰もが黒影を見上げた。
漆黒の馬体は蒸気を纏い、燃えるような眼光を放ち、前肢を高く掲げて仁王立ちになった。
まるで死地を裂き、命を運んだ神軍馬そのものだった。
この光景は、のちに兵たちの間で語り継がれることになる。
——黒影の嘶きが、彼らを地獄の淵から救ったのだと。
4.白骨の森
激戦を潜り抜け、勇馬たちの小隊は辛うじて敵の追撃を振り切った。
雨はなお森を叩きつけ、ぬかるみに足を取られながら進む。
やがて鬱蒼とした林を抜けたところで、彼らは小さな窪地に出た。
そこには爆撃で半壊した小さなお堂があり、屋根は落ち、柱は炭のように焦げ付いている。
だが、その背後の苔むした古い仏塔が静かに無傷で佇んでいた。
戦火にさらされながらも崩れず、長い時を越えて人々を見守ってきたその姿は、今まさに死地を逃れた兵士たちの目に、ひと時の不可思議な安らぎを与えた。
兵たちは次々とお堂の陰に転がり込み、肩で息をつきながら床に伏す。
周囲には日本兵の白骨や焼け焦げた軍帽が散乱しており、つい数日前、この場所で仲間が敵の猛攻を受け、ほぼ全滅したことを物語っていた。
骸骨の腕に絡まった錆びた銃。
泥に沈みかけた頭蓋。
ミイラ化した馬や牛の背骨の間からは、草が伸びていた。
「……ここで、何があったんや」
将一が低く呟くと、誰もが息をのんだ。
佐藤軍医が、骨の間に残された古びた飯盒を拾い上げる。
「同じ日本兵だ……補給を絶たれ、ここで餓え死にしたのだろう」
湿った風に乗って、どこからか腐臭が漂う。
勇馬の喉は焼けるように渇いたが、胃の底からこみ上げる吐き気を必死に抑えた。
白骨の森――。
それは、彼らの行く末を示す冷酷な未来図のように思えた。
将一は後に残してきた傷病兵たちのことが脳裏に浮かんだ。
勇馬は荒い呼吸のまま、ふと仏塔を仰いだ。
その瞬間、胸の奥で何かが弾ける。
——見覚えがある。
あの古びた写真。
若かりし将一が黒影に跨り、凛々しく笑っていた背景の仏塔。
間違いない、ここだ。
そして焼け落ちた馬車の傍らに転がる、黒ずんだ鉄片に目を留めた。
ぬかるみから引き上げると、それは一枚の蹄鉄だった。
泥を拭い落とすと、刻まれた文字が雨粒に濡れて銀色に浮かび上がる。
――R.O 1944 (*)
勇馬の心臓がどくんと跳ねた。
見覚えがある、いや、確かに知っている。
——実家の将一爺さんの木箱に入っていた蹄鉄だ。
胸の奥で説明のつかない感覚が広がっていく。
誰も言葉を発せず、雨と風が木立を揺らす音だけが続く。
すると窪地の奥に青白い光がひとつ浮かんだ。
湿った空気に灯球が揺らめき、白骨の上をかすめて森の陰に消えていく。
「……見たか」
小さな声に、数人が蒼ざめて頷く。
それが何であったのか、誰も確かめようとはしなかった。
「……行こう」
将一の声に、兵たちは黙って歩を進めた。
雨の飛沫と時間の流れが捩れ、過去と未来の境が曖昧になる感覚。
勇馬はしばし立ち尽くした。
「勇馬……急げ!」
将一の“勇馬”と呼ぶ声に我に返り、蹄鉄を懐に押し込むと将一の背を追った。
再び雨の森に、銃声が遠く木霊する。
逃避行はなお続く‥‥‥
(*) Royal Ordnance(1944年イギリス軍兵器工廠製の意)
第七章 銃声の果てに
1.灰の中の白い紙
終戦間際
雨上がりの森を勇馬たちは息を切らせて行軍していた。
ある者は担架で運ばれ、ある者は両肩を抱えられ、最後の力を振り絞って南のタイ国境へと続く高い峰を目指している。
背後では、遠く迫撃砲の音が尾を引く。
敵の包囲をどうにか突破したものの、弾も食糧も尽きかけていた。
森を抜けた先には、最近まで人が住んでいた村があった。
今はただ瓦礫と化した家屋の跡、崩れた塀、黒く焼け残った竹の柵が風に鳴るだけだった。
勇馬は、焼け跡の中央にぽっかりと口を開けた井戸の前に腰を下ろし、瓦礫で埋まった井戸の内側を覗き込んでため息をついた。
灰色の雲が重たく垂れ込め、陽の光すら色を失っている。
「どこへ行けばいいんだ……」
思わず漏れたその言葉に、誰も応えるものはいなかった。
ミオは焼けた地面に跪き、焦げた木片を拾い上げた。
それは、木彫りの小さな仏像の欠片だった。
「この村には仏の慈悲はあったのだろうか…」
彼女はそれを両手で胸に抱きしめるように包み込んだ。
──その時、空が低く唸った。
みな、反射的に銃を構える。
頭上をかすめるように、一機の銀色の機体が滑るように通過した。
爆撃の気配はない。
代わりに風の中を無数の紙片が舞っていた。
「……なんだ、あれは?」
白いビラが焼け跡の灰と混ざり、まるで雪のように地面を覆っていく。
将一が一枚を拾い上げ、指で泥を払い落とす。
そこには英語と日本語でこう書かれていた。
『日本は降伏した。武器を捨て投降せよ』
誰も声を発しなかった。
一人の兵士が鼻で笑い、紙を握り潰す。
「敵の罠だ。こんなもの、信じられるか!」
勇馬は無言で空を見上げた。
風に乗って舞う白い紙片は、平和の白い鳩のように広がっていく。
これは罠ではないことは、誰もが内心わかっていた。
「戦争が……終わったのか……」
勇馬はゆっくりと立ち上がり、鉛色の空を見上げた。
遠くに微かに響く雷鳴が、終戦を告げる祝砲のように思えた。
「……あの峰を越えて国境を目指そう、まだ終わりじゃない、みんな生きて祖国に帰ろう…」
2.ぬかるみの果てに
林の向こうから、エンジン音が近づいてくる。
泥を噛むキャタピラの唸りが、森の空気を押し潰すように響いた。
やがて、木々の間から鉄の塊が姿を現した。
連合軍の戦車だ。
続いて、兵を満載したトラックが泥に車輪を取られながら、車列を成して進んでくる。
「まずい! 連合軍だ!」
将一が叫び、散開を指示するが既に遅かった。
銃口が、雨に濡れた銃身の光を放ちながら、一斉に取り囲まれてしまった。
英語の怒声が飛び交う。
将一は皆に銃を捨てるよう、勇馬に目で合図をした。
将一は肩に掛けた騎銃を降ろし、泥溜まりの地面に放り投げ両手を挙げた。
背後の黒影が低く嘶き、前肢で土を掻いた。
その蹄音を聞いた将一が、掠れた低い声で言った。
「……黒影、逃げろ!」
だが、馬は一歩も動かなかった。
熱い風がすり抜け、黒影の鬣を揺らす。
将一の横で、勇馬は唇を噛みしめた。
「行け……! お前は生きろ!」
しかし、黒影はただその場に立ち尽くし、じっと将一と勇馬を見つめていた。
その瞳は、まるで主人と自らの運命を共にしようと訴えるかのようだった…
湿気を帯びた空気の中、竹林の向こうからかすかにエンジン音が近づき、一台の米国製ジープが現れる。
ジープから降りた将校は、トーマス少佐(Major Thomas Hargreaves) と名乗った。
淡いカーキの長袖シャツをきちんと着こなし、開襟の下には細い黒いネクタイを結んでいる。
胸には“S.E.A.C.(South East Asia Command)”の徽章──白星の上に赤いライオン。
浅黒い肌、緑色の瞳、深く刻まれた皺――。
彼の表情には、勝者としての高慢さよりも、長い戦を終えた者の疲労と静かな敬意が浮かんでいた。
彼は整った軍帽を被り直し、英国訛りの英語で静かに告げた。
“You are surrounded. Surrender, lay down your arms, and come with us”
下士官の通訳が日本語で話した。
「あなた方は包囲されました。降参して武器を捨て、我々と同行していただきます」
彼は英軍の制服に身を包んだ通訳の下士官で、ケン・マクリーンと名乗った。
金髪で彫りの深い顔だが、どこか日本人のような眼差しで流暢な日本語で話した。
3.処分命令
朝靄が薄く立ちこめる。
捕虜収容所の空気は、冷たく湿っていた。夜明けの光がまだ地を照らしきれない。
勇馬たちは鉄柵の内側に整列させられていた。
向こうの柵には、馬たちが一列に並べられている。
駄馬として、黒影を後方から支えてきた鯨、梅、紀虎が、 何も知らぬ子供のように首を振り、空気を嗅いでいた。
黒影もまた、じっとその様子を見つめている。
大きな瞳が、朝霧の中で微かに光った。
数名の日本兵が列をなし、黙して立つ。
トーマス少佐が、通訳のマクリーン下士官を連れて現れた。
“The war is over. No more fighting” ―戦争は終わった、もう戦う必要はない。
彼の声は低く、しかしどこか温かみがあった。
トーマス少佐は、帽子のつばにそっと手を当て、軽く会釈した。
その穏やかな仕草に呼応するように、日本軍の将校も深く頭を下げる。
互いの動作は、言葉を介さずとも敬意を交わすようだった。
トーマス少佐はそれだけを言うと踵を返し、ゆっくりと兵舎へ帰っていった。
***
その日の午後、トーマス少佐は英国本部から届いた命令書を手に、捕虜収容所を再び訪れた。
焦げつくような陽射しが、日本軍捕虜収容所と化した英軍の野営地を覆っている。
熱気は地面から立ち上り、湿った泥土を乾いた硬板へと変えていく。
宮田は黙々と草を束ね、痩せた軍馬の口元へ差し出していた。
額を流れる汗を拭う仕草は、疲弊を隠そうとするかのように淡々としている。
長い道のりを、黙して物資や兵器を運び続けてきた三頭の軍馬―梅、鯨、紀虎。
その脇腹には無数の擦り傷が走り、皮膚の下には赤黒い痣が沈んでいた。
宮田は小さな陶器の鉢に薬草をすり潰し、指先で静かに混ぜる。
鼻を衝く薬草の匂いが空気に溶け込んでいく。
「もう少しの辛抱だぞ……一緒に日本に帰ろうな」
囁くように呟きながら、宮田は牝馬の梅、痩せ細ってしまった鯨、紀虎の傷口にそっと薬を塗り込む。
馬は鼻を鳴らし、痛みに身を震わせながらも、逃げようとはしなかった。
三頭の馬は、黒影のように西洋種と釧路種を掛け合わせた大型の馬ではなく、道産子を基に改良された日本土着の馬であった。
黒影に比べれば小柄であるが、がっしりとした肢と深い胸を持ち、しなやかな強さを湛えている。
風に抗い、弾雨を浴びる濁流をも越えてきたその姿は、まさに野に鍛えられた強さそのものだった。
トーマス少佐はしばし足を止めた。
少佐の胸裏に故郷の光景が蘇る。
競馬の聖地と呼ばれるサフォーク州。
俊敏さを誇るサラブレッドが風を切って駆け抜ける草原。
国が違えば馬もまた違う。
その違いは単なる体格の差に留まらず、生まれた土地の息吹や、人々の営みをも映し出しているように思えた。
トーマス少佐には、兵役に就くまで故郷で、競馬の騎手を夢見ていた過去があった。
夢を追いかけるはずだった自分が、今は戦場で馬たちに銃弾の雨を越えさせている。
兵器を運び、砲火を越え、ただ黙々と人の命令に従う馬たち。
―なぜ人は、これほど健気に尽くす生き物を戦に駆りたてるのか。
少佐は胸の奥でその皮肉を苦い思いで噛みしめた。
宮田は少佐の視線を感じながらも、顔を上げずただ手を動かし続けている。
二人の間に言葉はなかった。
馬の噛む音と草の匂いだけが、静かなリズムを刻んでいた。
トーマス少佐はゆっくりと梅に歩み寄った。
宮田は何も言わず、静かに梅の脇腹の傷に薬を塗りこんでいる。
梅は鼻面を少佐の掌に当て小さく鼻息を鳴らした。
少佐は静かに息を吐き、掌に残る梅のぬくもりを感じながら低く呟いた。
(……ああ、どうしても、この馬たちに銃を向けねばならぬのか……)
軍務として与えられた射殺命令が、いま自分の手の中にある。
梅がそっと少佐の掌をなめる。
その無垢な眼差しに、少佐の胸は重く揺れていた。
“Captured Japanese horses are to be destroyed” ― 捕獲された日本軍馬は、すべて射殺処分せよ。
“If any Japanese prisoners resist, shoot them as well” ―抵抗する日本兵捕虜がいたら銃殺せよ
トーマス少佐は息を詰め、紙をゆっくり折りたたんで胸にしまった。
4.旋律の蹄
―処分の日の朝。
どんよりとした空に、湿った生ぬるい空気が立ち込めていた。
“Sergeant, translate” (通訳しろ)
トーマス少佐は軍帽を直しながら、馬たちの方を見て低く言った。
通訳のマクリーンが一歩前に出て、日本兵の列に視線を移す。
「これらの馬は射殺処分とします」
ざわめきが走る。
その中から一歩前に出たのが将一だった。
軍帽の跡が残る額に泥がこびりついている。
「……処分とは、わしらの馬たちを殺せっちゅうことか?」
マクリーンが言葉を探す間に、トーマス少佐は短くうなずいた。
“They are too weak to work. Better end their suffering” ―これ以上苦しませるより、楽にしてやる方がいい。
将一は唇を噛み、拳を握りしめた。
「……わしらは、この馬たちと戦場を生き延びてきたんや、飢えも、弾雨も、共に潜って来たんや、それを殺せとはいったいどういうこっちゃ!」
勇馬が声を上げた。
「命令だろうと、馬を殺すことなんて馬鹿げてる!」
怒気が漂う中で、マクリーンは静かに二人の間に入った。
「……気持ちは分かります。でもこれは命令です」
トーマス少佐が静かに低い声で続けた。
“This is an order. One of you shoot them...” ―命令だ、お前たちの手で処分しろ。
勇馬は首を横に振った。
「できません!……この馬は、俺たちの仲間です。」
その言葉に、英兵の一人が咥えていた煙草を捨てて、舌打ちをした。
「命令を拒否するのか? なら、見ていろ!」
兵士は銃を構え、梅のこめかみに銃口を押し当てた。
ミオが叫んだ。「No!やめてっ!」
だが、乾いた銃声が響いた。
梅の頭が大きく垂れ、前膝を折るように地に崩れた。
血と土の匂いが一気に広がる。
勇馬は声にならぬ叫びを上げ、地面に拳を打ちつけた。
兵士は冷笑しながら、次に黒影へと銃口を向けた。
「次はこいつだ!」
その瞬間、将一が飛び出した。
「やめろっ!」
二度目の銃声が鈍く響く。
将一の身体が大きくのけぞり、右胸を押さえながら倒れ込む。
トーマス少佐が目を見開いた。
“Stop it! You idiot! Cease fire!!”
だが、兵士の指はまだ引き金の上にあった。
トーマス少佐は飛び出し、怒りに任せてその兵士を殴りつける。
切れた口から血を流しながらも、泥の中でまだ薄笑いを浮かべている。
その隙に、ミオが走り出し、隠していたナイフで黒影、鯨、紀虎の綱を切っていく。
「行け――! 走れっ!」
黒影が甲高く嘶き、鯨と紀虎を引き連れて柵を蹴り破った。
突如、雷鳴が轟き、まるで馬たちの逃走を助けるかのように、鉛の粒のような雨が地面を叩き始めた。
黒影に遅れまいと鯨、紀虎も全力の襲歩で森の奥へ消えていく。
英兵たちが慌てて銃を構えるが、トーマス少佐が手を上げた。
「撃つなっ!」
雨音だけが響く。
少佐は地に膝をつき、倒れた将一の身体を抱き上げた。
彼の軍服が、瞬く間に赤く染まっていく。
将一はゆっくりと息を吐き、小さく笑った。
「……俺の代わりに……生かしてやってくれや……梅よ、すまんことしたなぁ…」
その手が黒影の走り去っていく方角を見つめ、やがて力なく落ちた。
竹林の向こうから、馬たちの嘶きがかすかに響いた。
それはまるで、将一と殺された梅のために祈る声のように、雨脚に溶けていく。
トーマス少佐は顔を伏せ自問するように呟いた。
(……本当の勇気とは、奪うことではなく守ることなのか……)
かすかに鼓動があった。
「……生きている……医療班を呼べ! 今すぐだ!」
兵士たちが慌てて駆け出していく。
勇馬は、雨粒が頬を伝い泥にまみれた手を額にあて、遠ざかる蹄の音に向かって敬礼をした。
濡れた大地に雲間から一筋の光が差し込んできた…
第八章 破れた軍旗
1. 破れた軍旗
黒影、鯨、紀虎… 三つの影
霧に包まれた夜明け前の密林を、人を背に乗せぬまま、弾痕の残る戦場の跡を駆け抜けていく。
まだ敗戦を知らぬ日本軍の小隊が、性根尽き果て彷徨っていた。
道端には力尽きた仲間の亡骸が散り、白骨の間を蛍火が淡く流れている。
その霧の奥から、黒い影が姿を現した。
兵たちは幻でも見るように立ち尽くす。
黒影の鞍には、破れた軍旗が巻き付けられている。
片腕を失くした一人の兵が、片方の手で泥に塗れた布切れを掴み息を呑んだ。
「……これは、三田村小隊の、いや岡田組の馬じゃないか……」
黒影が低く嘶きぬかるんだ地を前肢で叩く。
―まるで「ついて来い」と促すように。
背後では敵の残党狩りが迫り、砲弾が木々を砕き炎が夜を裂いた。
三頭の馬は身を翻し、閃光の中を薄暗い獣道へと兵を導き歩き出す。
火の粉を掻い潜り、炎風の如く燃え盛る枝をすり抜けて進む。
兵たちは無我夢中でその後を追った。
泥に刻まれた蹄の跡が北へ――国境の村へと続いていた。
「ここまで来れば、もうタイの国だ……助かった……」
夜明けが森を照らすころ、彼らは小さな集落に辿り着いた。
村人は彼らを迎え入れ、仏塔の中へ匿い、寺の僧たちが粥を振る舞った。
馬たちにも干し草と水が用意されたが、馬たちは動かず、ただ荒い息を吐くだけだった。
黒影は仲間に鼻先を寄せ短く嘶く。
三頭の馬の脚は擦り傷で血に染まっている。
輜重兵の一人が黒影の後肢を優しく触りながら、
「この脚では、長くはもたぬ……ここで暫く休ませよう」
だが黒影は「触るな!」と言わんばかりに兵士を遠ざけた。
「そうか…主人のもとへ戻るのか……お前たちにも帰るところがあるんだな」
一人の兵が呟いたとき、黒影が荒い鼻息を上げた。
黒影の心には、戦場を共にした主、盾となって倒れた主・将一の姿が浮かんだ。
そして勇馬、ミオ、仲間たちのもとへ帰ろう―
僧たちは祈りの言葉を唱え、馬の脇腹に白墨で経文を描き、兵たちは敬礼し、頭を垂れた。
後躯をうねらせ三頭は、小さく嘶き駆け出した。
三頭は走り続ける…
草に埋もれた鉄兜、倒れた標柱、風に翻る破れた軍旗、そして屍を超えていく……
その蹄音は、朝の光を裂くように響き渡った。
2.兵士の誇り
雨季が明け、乾季の風が吹き始めた。
空はどこまでも高く、地面は焼けたように硬い。
その大地の裂け目のような乾いた場所に、日本軍の捕虜収容所があった。
竹と椰子の葉でしつらえた粗末なバラック群の中に、何百という男たちが詰め込まれている。
敗戦国の兵士たちは“JSP(Japanese Surrendered Personnel)”として扱われ、過酷な肉体労働を強いられていた。
炎天下での道路建設、資材運搬、川の堤防工事――骨が軋むほどの労働の中で、飢えと疲労が日々を蝕んでいった。
収容所での暮らしは、決して穏やかなものではなかった。
それでも、トーマス少佐の管理する収容所には、他よりいくらか人間らしい空気があった。
彼は捕虜を敗者ではなく、同じ戦場を戦った“兵士”として見ていた。
過酷な労働命令が下るたびに司令部へ異議を唱え、日本兵をかばった。
そのため、この収容所では暴行や理不尽な懲罰はほとんどなかった。
将一たちの部隊は、黒影を庇って重傷を負った将一の治療をきっかけに、トーマス少佐と信頼を築いていった。
片腕に包帯を巻いたまま、将一は勇馬や宮田と並び、二百頭を超える日本の軍馬の世話を任されていた。
戦火をくぐり抜けた馬たち――だが、その運命もまた、静かに終わりへと向かっていた。
ある日、作業を見回りに来たトーマス少佐が、将一の手際をしばらく見つめていた。
サングラスの奥の瞳は何を考えているのか読めなかったが、やがて少佐はポケットから一本の煙草を取り出し、火を点けて将一に差し出した。
少佐が手にしていたのは、日本軍から没収した「興亜」という銘柄の煙草だった。
将一は一瞬ためらったが、片手で拝むように受け取り、深く煙を吸い込む。
焦げた煙の香りが、遠い故郷の土の匂いと重なった。
「なぜ君は、そんなに落ち着いていられるのか」
トーマス少佐の問いに、将一はわずかに笑い、空を仰いだ。
「……戦が終わったからですよ。あとは、“あの馬たち”と生きて帰るだけです」
少佐は何も言わなかった。いや、言えなかった。
二人の煙草の煙が暫しの沈黙を生み、少佐は傍らの通訳マクリーンに目をやる。
マクリーンはうなずき、両腕に抱えていた一振りの軍刀を差し出した。
鞘は焦げ、鍔には泥がこびりついている。
「これは……君のものだろう、岡田伍長」
少佐は静かに言った。
「私は、あなたを誇り高き侍のように思う。お互い、もう使うことはないだろう」
将一は言葉を失い、目の前の金髪の男を見つめた。
やがて震える手で刀を受け取り、鞘を撫で、深く頭を下げる。
「……ありがとうございます、少佐」
少佐は小さくうなずき、静かに背を向けた。
3.風に鳴る柵
乾いた風が竹の柵の隙間に流れ、かすかに「キィキィ」と鳴った。
静かな収容所に、風の声だけが響き、砂埃が舞い上がる。
勇馬は将一、宮田らと、椰子の葉を乗せただけの粗略な馬房の桶に水を注いでいた。
そんな時だった。
守衛が立つゲートから、カゴを抱えた一人の若い女性が歩いてきた。
褐色の肌、目元にかかる黒髪。
ミオ――収容所への出入りを許された、“森の友軍”の一人だった。
捕虜への給仕を任され、ときおり果物や食料を運んでは、勇馬たちの作業を手伝った。
勇馬はいつしか、その姿を目で追うようになっていた。
「これ、森の集落から分けてもらったの」
差し出された籠には、熟れたパパイヤやバナナが詰まっていた。
勇馬は受け取りながら、そっと俯き笑みを向ける。
「ありがとう。……ミオが来ると、少しだけ風が柔らかくなるよ」
ミオはその言葉に、わずかに笑みを返した。
かつて戦場の彼女は、銃を背負い、密林を駆ける女兵士だった。
だが今、目の前にいるミオはまるで別人のようだった。
濡れた黒曜石のような瞳。
東洋的な顔立ちに、混血を思わせるやわらかさ。
すっと通った鼻筋、小さく引き結ばれた口元。
そこにあるのは戦士の鋭さではなく、静かな優しさの眼差しだった。
馬房を掃き、馬の背を撫で、飢えた兵たちに食を分ける。
「あなたたちも早く日本のおうちに帰れるといいね…」
馬たちが鼻面を寄せて甘えると、ミオはにっこり微笑み、まるで母親のような手つきで毛並みを整える。
貧しい村で育ちながらも、誰よりも他人を思いやる―
そんな素顔のミオが、今ようやく姿を現したのだ。
勇馬はふと、その笑顔に見覚えがあった。
―どこかで見たような…
それは、“あの世界”で勇馬のガイド、アンが見せた微笑と重なっていた。
勇馬の脳裏には二つの時空が、静かに溶け合うように浮かんでは消えた。
思い浮かべようとしても、あの喧騒の都会の空も、街のざわめきも、駅のホームの匂いも、夢のようにぼやけていた。
―過去でも未来でもない、今、俺はここに生きているんだ…
今の世界は、馬たちの息づかいと、ミオの笑い声がそのすべてだった。
ある日の夕暮れ時、彼女は勇馬にそっと尋ねた。
「この子たち……もうすぐみんな、殺されるの?」
勇馬は答えられなかった。
ミオは既に知っていたのかもしれない……すべての馬たちが射殺処分されることを。
代わりに将一が吐き捨てるように言った。
「連合国の命令や、これは誰も止められへん…血も涙もない奴らや!くそっ!」
ミオはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吸い、勇馬に振り返った。
「……もし、逃がせるとしたら?」
勇馬は思わず顔を上げた。
ミオの瞳は、夕陽を受けて深い琥珀色に光っていた。
「山を二つ越えた国境の谷間に集落があるの、地図にも載っていないけど、湧き水があって草も生い茂ってる。岩壁と密林に囲まれていて、空からも見えない。森の要塞みたいな場所……」
「夜のうちに連れていけば、追っ手も見つけられないはず」
将一が息をのんだ。
「……そんな遠くまで? 途中で見つかれば、全員終わりやがな…」
ミオはかぶりを振った。
「獣道をたどれば、二日のうちに着ける…もう道を知る者は少ないけど、私は知っている」
勇馬は茜色に染まる空を見上げ、ミオに言った。
「よし、今夜決行だ…」
勇馬の言葉に、将一が息を呑む。
「ほんならワシも行かなしゃぁないな…」
ミオはその言葉に小さく頷き、意気込んだ。
「決行は夜明け前、私の仲間が柵を開ける。その隙に馬たちを逃がすわよ」
勇馬は深く息を吸い込んだ。
「こんな時に黒影がいてくれたら…」
4.自由への嘶き
夜明け前、青白い月の明かりが残る頃。
頂には三つの影が鬣を揺らす――中央に黒影、左に青毛の鯨、右に栗毛の紀虎。
彼らは幾多の戦いを共に越えてきた、絆で結ばれた戦友だった。
見下ろす先には、狭い馬房の中に押し込められた仲間たちの群れ。
何かを察したのか、馬房の馬たちは一斉に頚を上げ、丘の上を見つめた。
黒影が低く嘶く―
鯨が耳を立て、紀虎が鼻を鳴らすと、三頭は一斉に丘を蹴った。
蹄が砂を裂き、乾いた地面が震え、三つの影が一直線に駆け降りる。
黒影が先頭に立ち、竹の柵を勢いのままに蹴り倒す。
竹が裂け、縄が弾け、乾いた音を立てて柵が崩れた。
警鐘が鳴り響き、監視兵の怒号が交錯した。
鯨と紀虎はその前に立ち塞がり、前肢を高く掲げて威嚇する。
黒影がその隙に、将一の前へと駆けてきた。
「……黒影!戻ってきたんか!なんちゅう奴やお前は!」
黒影は荒い鼻息を吐き、地を踏み鳴らした。
「わしらに乗れっちゅうんか?」
勇馬が息を呑み、ミオと目を合わせる。
ミオが小さく頷いた。
「この子たち……私たちを迎えに来たのよ!」
将一が素早く黒影の背に飛び乗り、勇馬が鯨の鬣を握って鞍に跨ると、ミオも紀虎の背へと軽やかに跳び乗った。
「よし、行くぞ!」
将一の声が風を貫き、人馬一体となった三つの影は一斉に地を蹴った。
―黒影、鯨、紀虎、そして将一、勇馬、ミオ―
囚われていた二百頭の馬たちが、砂煙と蹄の響きを巻き上げながら、竹組みの柵を蹴り倒し、怒涛の如く走り出していく。
―その時、砂塵の向こう、兵舎の影から宮田が叫んだ。
「将一はん!!どうかお達者で!」
振り返った将一が軍刀を高く上げ叫び返した。
「宮田はん!今まで、ほんまに世話になったなぁ!岡田組は、あんたに任せるで!」
宮田は息を詰まらせ、ただまっすぐに将一を見つめる。
唇がわずかに動いたが、声にはならなかった。
宮田は姿勢を正し、右手を額に上げて敬礼をする。
黒影が嘶き、舞い上がる砂塵が二人を隔てた。
まるで、その別れを包み込むように――。
監視兵たちが将一、勇馬、ミオに照準を合わせ銃を向けている。
監視塔の上から、トーマス少佐が叫んだ。
"Don't Shoot!!! " ― 撃つな!
"Let'em go! This is an order!" ― 行かせてやれ!これは命令だ!
監視兵たちは銃を下し、兵舎の前をまるで大河の奔流のように、流れ去る群れを茫然と眺めていた。
その光景を見つめながら、トーマス少佐は静かに敬礼をした。
それは、敗者への慈悲ではなく将一たちへの“自由への敬意” だった。
彼は「興亜」を一本取り出し火を点け、踵を返しゆっくりと兵舎へ戻って行った……
第九章 黒影、時を駆けて
1.自由への旅
草の匂いが、朝の光とともに広がった。
かつての戦場の緊張感は、ここにはもうない。
遂に国境近くの廃村まで到達した将一、勇馬、ミオ――そして黒影、鯨、紀虎。
二百頭もの馬たちは広い草地で思い思いに駆け回り、長かった束縛から解放されていた。
廃墟だった集落の瓦屋根に光が差し込み、煙突からは久しぶりに煙が上る。
それは鍋を煮る匂いであり、火を囲む家族の温もりだった。
いつの間にか村人たちは戻り、壊れた小屋を建て直し、倒れた木を積み上げ、子どもたちの笑い声が再び谷を満たしていく。
将一は斧を振るい、勇馬は杭を打ち、ミオは新しい柵に縄を結ぶ。
馬たちと人々の営みが一つに溶け合い、廃墟だった村は再び生命を取り戻していた。
老夫婦は馬の背に荷物を載せ、畑から野菜を運び、村の小さな市場へ通う。
子どもたちは仔馬の手綱を持って、冒険ごっこをして遊ぶ。
風が木々の間を抜け、焼け跡の土の匂いに草の香りが混じる。
朝駆けを終えた将一は、村の人々へ向かって言った。
「この馬たちはみんなの力になる。大切に育ててくれ」
村人たちは深く頭を下げ、感謝の言葉を返した。
夜、焚き火の明かりが風に揺れていた。
村人たちは一日の労をねぎらい、焚き火を囲んで歌をうたっていた。
子どもたちの笑い声、草の上を渡る風、そして馬たちの静かな息づかい――
それは、かつての戦場では決して聞けなかった平和の音だった。
将一は少し離れた丘の上で、一人、夜空を見上げていた。
月光が黒影の鬣を白く照らし出し、その影が彼の足元で揺れていた。
――この地で、人も馬も、もう二度と奪われぬことはないやろう……
ぽつりとつぶやく声が、夜気に溶けた。
目を閉じれば、遠い故郷の白砂の浜を黒影と共に駆けた、あの時の潮風の匂い、あの景色が浮かんでは消える。
そして、妻・ユリの笑顔、幼い娘・サチの小さな手――。
その記憶は優しくもあり、胸を締めつけた。
――約束した。
「必ず帰る」と。
その言葉が、今も胸の奥で湧き上がる。
けれど今のわしには、その前に見つけねばならんものがある。
この地で、人がどう生き、どう助け合えば、もう二度と争わずに済むのか。
黒影たちのように、自由の中で、何を信じて生きていけるのか。
それを見つけん限り、わしの旅は終わらん…
―ユリ、待たせてすまん。いつか必ず帰る…
風が頬を撫で、遠くの谷で馬がいななく。
将一は、黒影の鬣を指で梳きながら、しばらく無言で立っていた。
その傍らには、焚き火を囲んだミオと勇馬がいた。
「……ほんとうに、行くの?」
ミオの声はかすかに震えていた。
将一は、少し笑ってうなずいた。
ミオは将一を見つめながら言った。
「……将一さん、私たち、またどこかで会える気がするの。たとえ違う時代でも……」
将一は、黒影の頸筋をポンと叩いた。
「わしらも、ようここまで来たもんや!大したもんやで!」
将一は懐から小刀を取り出し、黒影の鬣を一束切り取った。
黒影がわずかに鼻を鳴らした。
「ミオ、これを持っとけ」
将一は切り取った鬣を小さな麻布に包み、ミオの手のひらにそっと載せた。
「……忘れません。きっと、また会えますよね、岡田伍長!」
勇馬が直立して敬礼をした。
「そらそうと、お前、苗字は何と言うた?」
勇馬は一瞬、戸惑いながらも答えた。
「はい、僕は、いや、自分は桜井……いや、岡田勇馬上等兵であります!」
大きく見栄を切ったつもりの勇馬だったが、
「ほほぉ……わしと同じ苗字かぁ。ほなご先祖様は同じかもしれへんな……」
将一は笑い飛ばして、黒影の鬣に手を添え静かに呟く。
「人も馬も、どこまでも自由に生きられる――そんな世界を見に行くんや……さぁ、行くで、相棒!」
将一は黒影の手綱を握り締め、軍刀を抜いて高々と掲げた。
「達者でな!」
黒影が嘶き、前肢で地を蹴り上げる。
その瞬間、青白く輝く月の光が刃に反射し、天からの閃光が走った。
森の闇が裂け、白い奔流となって渦を巻き大地が溶けていく。
轟きの中、将一と黒影の姿は、光の中へと溶けていった。
――世界が音もなく反転し、勇馬の視界が霧のように白く弾けた。
2.帰還―森の要塞―
まぶたの裏を光が貫き、世界がゆっくりと反転した。
目を開けると、濃い緑の壁が迫る密林の小道を、車は揺れながら進んでいた。
助手席のアンが振り向いて、心配そうに勇馬を覗き込む。
反射的にこぼれた声――「ミオ!」
その名を呼んだ瞬間、勇馬ははっとして言葉を飲み込んだ。
目の前にいるのは、夢の中のミオではない――今を生きるアンだ。
車が大きな凸凹を越えるたび、左右に揺れ、窓ガラスに頭を打ち付け、勇馬は眉をしかめた。
「勇馬さん、……夢、見てたのね。頭大丈夫?」
アンが少しからかうように言いながらも、声には優しさが滲んでいた。
勇馬はぼんやりと頷く。
「……夢、夢だったのか。いてて……」
アンは少し心配そうに勇馬を見ながら、話を続けた。
「この森を越えた谷の奥に、私の生まれた村があるの。昔から“森の要塞”って呼ばれてね。戦いから人や馬を守るために造られた集落なのよ、今では平和な小さな村だけど…」
車は鬱蒼とした谷を下り、小川を渡る。
枝葉が窓をかすめ、湿った風が車内に流れ込む。
「馬?……森の要塞?」
勇馬の胸がざわめいた。
「家々は谷の斜面に沿って建てられて、谷を見下ろす広場もあるの。放牧場もあってね、人も馬もみんなそこで暮らしてる。時間がゆっくり流れる村なの……」
――夢の中で見た光景が、目の前の現実と重なっていく。
やがて道は細くなり、木々の切れ間から光が差し込む。
谷がぱっと開け、放牧場に馬たちの影が見えた。
勇馬の心臓が高鳴る。
――夢の中のあの世界。馬たち、家並み、谷を囲む木立。
「ここは……」草の匂いに懐かしさが蘇る。
「もうすぐよ、勇馬さん」
そう言って微笑むアンの胸元で、小さな麻の布のペンダントが静かに揺れていた。
――アン、そのペンダントの中身は……?
言いかけて、勇馬は口をつぐむ。
胸の奥にひとつの疑念が灯る。
――もしかしてアンも、あの夢を見ていたのではないか。
あの時代を、ミオとして生きていたのではないか。
確かめたい――けれど、確かめてしまえば、何かが壊れてしまう気がした。
勇馬は窓の外へ目線を変えた。
「雨季もそろそろ終わりね」
アンは前に向き直り、ぽつりと言った。
過去も夢も、そして今も――すべてがひとつに溶けていくようだった。
*
車が谷を抜け、小さな広場の前でアンがハンドルを切り、古びた木門の前に車を止めた。
「着いたわ。ここが私の実家」
エンジンを切ると、森のざわめきが一斉に戻ってきた。
遠くで鳥の声がこだまし、ひんやりと乾いた風が頬をかすめる。
勇馬が車から降りると、土と馬草の匂いが胸いっぱいに広がった。
家の前には古い井戸と馬が数頭繋がれた小さな馬房。
どこかで見た風景――“あの世界”の村と、まるで同じだった。
馬房の馬たちが耳をぴんと立て、興味深げにこちらを見ている。
「アンの家、馬を飼ってるんだ……」
勇馬は独り言のように呟いた。
「そうよ、祖父が若い頃からずっと馬を飼っているのよ……」
アンはそう言って馬たちに手を振った。
ふと、風が止み、鳥の声が途切れ、空気がぴんと張り詰める。
勇馬が顔を上げると、軒下の影から一人の老爺がゆっくりと姿を現した。
杖をつきながら、静かな足取りでこちらへ歩み寄る。
その顔を見た瞬間、勇馬の心臓が止まりそうになった。
深い皺の奥に、見覚えのある面影――額の古い傷、口元に浮かぶ穏やかな笑み。
「……岡田伍長?」
そう口にした瞬間、勇馬は我に返る。
老爺は小さく目を細め、かすかにうなずいた。
「やっと来てくれたか……勇馬、いや、岡田上等兵」
将一の声の響きが、遠い時代から風に乗って届いたようだった。
「……岡田伍長? 将一爺ちゃん……?」
アンが驚いたように振り返る。
「勇馬さん……え?」
アンは言葉を失い、勇馬を見つめた。
老爺――アンの祖父、ウー・ガンは、静かに勇馬の前に立った。
「黒影を探しに来たんやろう……?」
勇馬の喉が鳴った。
「なぜ……僕がここに来るって……」
老爺はふっと微笑み、ゆっくりと秣を食んでいる馬の方を見やった。
「そろそろ来る頃やないかと思てたんや。でも黒影はもうおらん。あいつの子らは、今もこの谷で息づいとるんや」
馬房の黒鹿毛の牡馬が、小さく鼻を鳴らした。
その漆黒の鬣が揺れ、勇馬の脳裏に“あの世界”の光景がよみがえる。
アンは戸惑いを隠せない様子で、それでも無理に微笑もうとした。
「ゆ、勇馬さん……ええと、紹介するわ。私の祖父よ、ウー・ガン。……細かいことは、また後でね…」
アンの声が少し震え、どこか焦るように言葉を継いだ。
「さあ、中に入りましょう。家族のみんなを紹介するわ」
しかし勇馬の目はまだ老爺の顔から離れなかった。
――あの穏やかな眼差し、静かな笑み。
まぎれもなく“将一”だった。
勇馬の胸の奥で、過去と現在が静かに重なり合っていく。
3.風の記憶
飛行機が雲を抜けて上昇していく。
眼下には、あの谷と森の稜線が雲の切れ目に見えては消え、見えては消えて行った。
出発の朝…
アンとウー・ガン――かつての将一が、木門の前で見送ってくれた。
「もう行くんかい……」
老爺の声は穏やかだったが、瞳の奥にはどこか寂しさがにじんでいた。
「ええ……でも、またいつかきっと来ます」
勇馬は深く頭を下げた。
ウー・ガンはうなずき、杖をついた手でそっと勇馬の肩を叩いた。
「黒影の魂は、おまえの中にも流れとる。……忘れたらあかん」
その言葉に、勇馬は静かにうなずいた。
ふと見ると、アンが門の陰に立っていた。
風に髪を揺らしながら、何かを言いかけて言葉を飲み込んだようだった。
勇馬は微笑み、ただ一言だけ残した。
「ありがとう、アン」
アンは明るく笑って言った。
「またどこかで会えるよ、きっと」
その声が森の風に溶け、どこか遠い時の記憶を呼び覚ました。
――まるで、彼女もあの世界を知っているかのように。
その声が、時間を越えてミオの笑顔と重なった。
ウー・ガンの杖が静かに地を打ち、その音がまるで別れの合図のように響いた。
飛行機の降下音が、勇馬を現実へと引き戻した。
窓の外に広がる雲海が、遠い記憶の波のように見えた。
「……忘れないさ」
勇馬は小さくつぶやいた。
飛行機は羽田の滑走路に静かに降り立った。
東京の秋は乾いた冷気を帯びている。
勇馬はタラップを降りながら、胸の奥にまだ残る土と草の匂いを既に懐かしく思った。
自宅に戻る前に、勇馬は実家の母・サチを訪ねた。
「おかえりなさい。お爺ちゃんのこと、何かわかった?」
懐かしい畳の部屋に上がると、母の声が旅の疲れを癒すように胸に沁みた。
勇馬は押し入れの奥から、“あの”木箱を取り出した。
「あら、まだその木箱にこだわってるの?」
母は少し呆れたように言った。
「それは戦死した将一爺さんの遺品なのよ。もう目新しいものはないんじゃないの?」
勇馬は埃をかぶった蓋をそっと開けた。
中には、祖父の日記帳のような紙片に挟まれていた、もう一枚の古びた写真と、小さな御守りのような色褪せた布袋が現れた。
写真には、笑顔の将一、鯨に乗る少年・勇馬、紀虎にまたがる少女・ミオ、
そして梅の枝の下に立つ宮田の姿があった。
写真の裏には、かすれた文字――撮影:従軍カメラマン・井上
「あら、こんな写真、見たことないわ……。将一爺さんの横にいる若い人、なんだかあなたそっくりね」
母が不思議そうに写真を見つめる。
「案外、僕だったりしてね……ははは」
勇馬が真顔で言うと、母は声を出して笑った。
そして、母はその色褪せた布袋を懐かしむように手に取って言った。
「これはね、私がまだ幼い頃、将一爺さんが“守り神”だって渡してくれたの。大好きだった黒影の鬣よ」
――やはり、将一爺さんだったのか。
夢ではない。“あの世界”での記憶は、時を超えて確信に変わった。
その夜、勇馬が自宅に戻ると、玄関の灯の下に菜穂子が立っていた。
懐かしい微笑み――
「おかえりなさい。……どうだった? 楽しかった?」
菜穂子の声は穏やかで、まるで遠足から帰った子どもを迎える母のようだった。
勇馬は少し照れくさそうに笑う。
「ははは……なんというか、長い旅だったよ」
菜穂子はじっと彼を見つめ、ふと穏やかに微笑んだ。
久しぶりに二人で過ごす夜、都会の夜空に一筋の流れ星が走った。
「あなた……なんだか、以前より優しい顔になったわね」
妻の優しい声と笑みの奥に、どこかで見た面影が一瞬よぎる――
森の陽だまりで微笑んだアン、そして遠い記憶の中のミオ。
勇馬はただ、静かに微笑む菜穂子を抱きしめた。
4.エピローグ
翌朝、柔らかな朝日が部屋に差し込んでいた。
コーヒーを淹れる菜穂子の背中を見つめながら、勇馬は優しく声を掛けた。
「なあ、菜穂子……馬を見に行かないか?」
菜穂子は振り向き、少し首を傾げて笑った。
「馬? いきなり何よ……」
「ああ。風を感じに行こう――あの頃みたいに」
「え、あの頃……? あの頃って何よ? まぁ、どうでもいいけど」
いつもの菜穂子に、勇馬はほっとして歯を見せて笑った。
窓の外では、金木犀の花びらが風に舞っている。
勇馬はその香りを胸いっぱいに吸い込み、新しい旅立ちの予感に、そっと目を閉じた。
アンの微笑、ミオの声、そして時を超えて繋がったすべての記憶が、ひとつの光となって二人の未来を照らしていた。
――さあ、行こう。俺の、俺たちの新しい旅がはじまる…
その瞬間、遠い森の彼方から、黒影の蹄の音が風にまぎれて聞こえたような気がした…
(終)
『黒影伝説』〜時を駆ける軍馬〜