灰色の庭園

 世界の何処かで、誰かの悲しみと幸せが紡がれていく。


 そこは一面が塗り上げられたかのように灰色に染まった、とても広い庭園だ。すべてが同じ色であった、というよりも世界中でその区画だけがそっくり抜け落ちたように色の失われた場所、というような印象だろうか。
 いたる所、無数のバラが咲いている。それらさえ色が無ければ造花のように見えた。足元に敷き詰められたレンガの道は不気味であり、庭園中央にそびえたつ大木も色が無くてはどこか頼りなく、空さえも雲に覆われて今にも雨が降り出しそうな天気だ。不自然でなかったのは、庭園中央の大木を囲むようにして置かれた、大小三体の人の形を模した像だけだろうと思う。
 そんな不思議な場所を、小柄な着ぐるみのクマが楽しげに案内する。片手には大きな風船をいくつも持っていた。それは何かよくわからない言葉で話していた。もちろんその話し相手は私だが、私にはよく聞き取れない。よくよく見ると着ぐるみにはいくつも傷があり、薄汚れているのが目についた。
 私の背後では、先日結婚したばかりの愛する妻が、私の座る車椅子を押してくれている。何か話そうと思うのだが言葉は見つからない。ひどく疲れているようで気にかかる。
 こうして一色に染められ、一体何なのだろう? 此処は何処なのだろう? それが私の考えていた事だ。こんな場所が、何のために在るというのだろう? 疑問の答えは見つからない。気付いたらこの庭園を歩いていて(もっとも私は脚の利かない身体であるわけだが)、見覚えのないこの薄汚れた着ぐるみが私達夫婦に愛嬌を振りまいてまとわりついている。妻はその姿を眺めながら、瞳の奥でいたたまれなく思っている様子だった。
 私達以外にも何人かの人がその庭園にはいた。私には顔の判別できない人々だったが、皆がこの場所が楽しげであった。その事は感じ取れた。彼らが恋人同士か、または家族連れか、そういった関係であるのもわかった。そして、私は自分自身に何かもどかしさを覚えた。私達には欠けた幸せを、その人々は大切に抱いているように思えた。
 それが何なのか、それさえも今の私にはわかない。その事実がどうしようもなく悲しい。
 そう遠くない位置に、白い建物が見える。大きな、特徴的な建物だ。そこは私には見覚えのある場所だった。そこは、私の帰る場所だった。妻とは違う、私の帰る場所だった。

 夫を病室から連れ出し、ひさしぶりの散歩に出たのは、まだ幼い息子の頼みだった。医師からは二時間だけの許可を受けているため、あまり遠出はできない。そのため病院が見える距離にある公共のバラ園に来たのである。息子は「ずっと小さなお部屋に閉じ込められたパパに、この公園を案内してあげる事ができる」とはしゃぎ楽しんでいる様子だった。それが私に気負いさせないための、小さな彼なりの精一杯に強がった演技であるのはわかっている。わかっているからこそ胸が痛んだ。
 まだ生まれてもいない我が子と、若い妻を残し、彼は仕事から帰っては来なかった。病室のベッドに置かれていた夫に似たそれは、糸の切れた人形だった。あの時はそう思いたかった。突きつけられた現実は、私が一人で背負うにはあまりにも残酷過ぎた。
 仕事中の、突然の事故。夫は全身に重症を負い、とくに頭部の外傷がひどく、なんとか一命を取り留めた程度だった。そして、夫は脳に重度の障害を負った。
 今、夫の知能や記憶がどれほど回復しているのかは医師にさえわからない。自分を表現するあらゆる術を、彼はあの日一瞬にして奪われてしまったのだ。同時にあの日から待っていたであろう未来も、幸せも、すべて。完治する見込みはなく、おそらくこの先も彼の入院生活は続く。
 それでも私は夫を愛し続け、看病を続けた。実家の両親の協力もあって、息子もここまで育てる事ができた。私に出来るのは、それくらいの事だったから。
 常に心配なのは息子の事だった。父親の事で、彼には負担をかけ続けたはずだ。傷つけてしまった時もあった。他の子にいじめられる事もあるんだろう。それでもこの子は、自分の気持ちを殺してまで、私の負担になるまいとしていた。こういう家庭で育てるしかない事がいたたまれない。
 私達には僅かしか許されない、尊い家族の時間。私は夫の車椅子を押しながら、息子の無邪気な笑みに微笑み返していた。
 色鮮やかな庭園で、失われた時を想いながら過ごす。

 世界の何処かで、誰かの悲しみと幸せが紡がれていく。

灰色の庭園

灰色の庭園

以前執筆したショートショートです。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-01-31

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