花物語
英雄も偉人も居ない。
ごく普通の人達の、ささやかな人生の一片を描きました。
第一章 紫陽花①
『花言葉は家族ね』
そんな言葉に目を覚ました。
懐かしい優しい声だった。
「パパ、大丈夫?」
夢に良く似た声は次女の美禰子だ。
「ん、ああ。ちょっと眠ってしまったみたいだ」
案じる美禰子にそう言うと、私は支度の続きを始めた。
今日は妻の小夜子の墓参りに行く日だ。
私とふたりの娘達は、この日を一年で一番の楽しみにしている。
思春期を迎えて難しくなってきたが、この日だけは数日前から準備を始めていた。
「紫陽花を切って来てくれないか」
「もう用意したよ」
我が娘ながら頼もしい。
「紫陽花って小さな花が集まって、家族みたいだね」
美禰子が花束の向こうで言った。
一瞬、小夜子がそう言ったように見えた。
私と小夜子は施設で出会った。
私はへその緒が付いたまま、病院が併設した保護設備に投函された。
名前すら与えられず薄布一枚で。
小夜子は私が小五の頃に施設に来た。
冬の寒い日だった。
最初は何も話さない子だった。
頷くか下を向くかだった。
彼女は、育児放棄を理由に施設が保護した子供だった。
当時確か九歳だった。
新生児から施設で暮らした私にとって、そこは家だった。
だが、小夜子にとっては知らない場所だった。
まるで、拾われたばかりの野良猫のように周りに怯えていた。
もっとも、ここではそんな子供も珍しくはなかった。
中庭の桜が淡い紅色に染まる頃には、小夜子もよく笑うようになっていた。
桜の押し花を私に見せてくれたのもその頃だった。
押し花帳とでも言うのだろうか?
鉛筆で『純潔・高貴』と書いてあった。
丁寧な字だった。
「綺麗だね」
「クラスで流行ってるの」
多分これが私達の、挨拶以外の初めての会話だったと思う。
長梅雨に時間を持て余していた日曜の朝。
集会室の床に足を投げ出して座っていた。
ガラス越し、遠くの雲の切れ間がこちらに来ないかと詮無きことを考えていた。
サーという雨の音にパラパラという音が混ざった。
視線を上から下に移すと、すりガラスを赤い色が通り過ぎた。
ガラス戸を開けて外を見ると、傘をさした小夜子を見つけた。
大きめの黄色い長靴は動きにくそうに見えた。
私たちは大体が誰かのお下がりで、調度良いサイズのものはなかなか当たらなかった。
それでも小走りに施設の正門の方へ向かって行った。
正門の横。
晴れていても日当たりの悪い塀の陰に、青い水彩で淡く染めたような一角があった。
そこに屈むと小夜子の姿が赤い傘に隠れた。
僅かに黄色を覗かせて。
(何をしているのだろう?)
退屈に背を押されるように、好奇心が私を動かした。
玄関に回ると、引っ掛けるように靴を履いて小夜子のもとへ駆け出す。
泥がふくらはぎに跳ねる感覚は不快だったが、好奇心が勝まさった。
リズミカルな雨音を乱す私の足音に、小夜子が振り向いた。
私は急に気恥ずかしくなって一旦足を止めた。
そしてそこから、ぎこちなくゆっくりと近付いていった。
そんな私の意図を気付いてかどうかは分からない。だが小夜子は、両手に乗せた花を私に見せた。
紫陽花だった。
「紫陽花は散らないって、拓兄ちゃん知ってる?」
何年も正門横の紫陽花を見ていたが、全く知らなかった。
「いや」
つっかえるように返事をした。
「花を少し切ってあげないと来年の紫陽花が困るから切っていいよって、ママ先生が言ってたの」
「ああ、そうなんだ。小夜子ちゃんはそれをどうするの?」
そう聞いて以前に見せてくれた押し花を思い出した。
「そうか、押し花だね」
私がそう続けると小夜子は嬉しそうに「うん」と頷いた。
傘と紫陽花と、その手には余る剪定鋏を持って立ち上る。
私は小夜子の手から傘と鋏を「持つよ」と受け取って歩いた。
新聞を貰って集会室の床に敷いた。
小夜子は濡れた花弁はなびらをひとつずつ切り離すと、丁寧に水分を取り始めた。
「本当は晴れた日の朝とかがいいの」
茎や葉もひとつひとつ切っていく。
押し花は花弁だけを使うものだと思っていたので意外だった。
「紫陽花って、小さな花が集まってひとつの花になるの」
呟くように小夜子は言った。
「移り気、浮気、高慢…紫陽花の花言葉は良くないものが多いけど、家族って意味もあるの」
そこまで言って顔を上げた。
「私はね、この家族って花言葉が好き」
私はこの時、この笑顔を見た時に彼女を意識し始めたのだと思う。
憧れと寂しさの入り交じった笑顔だった。
第一章 紫陽花②
「…うさん、お父さん」
美禰子の声に我に返った。
「ああ、ごめん。考え事をしてた。昔ママも美禰子と同じことを言ってたんだ」
「紫陽花?」
「紫陽花は家族みたいだって」
その言葉に花が咲いたような笑顔を見せた。
「私、ママに似てる?」
美禰子には写真の小夜子の記憶しかなかった。
「ああ、似てるよ。みぃ子と同じ16歳の頃のママそっくりだ」
「聞きたいな、ママのこと。ね、お姉ちゃんの支度が終わるまででいいから聞かせてパパ」
前かがみで私の顔を下から覗き込む姿は本当に小夜子に似ていた。
私はよくそうねだられて、断れずに言うことを聞いていたものだった。
「拓兄ちゃん、約束覚えてる?」
小夜子がいつものお願いの姿勢で覗き込んできた。
もちろん覚えていた。
だから今年は工場長に連休をもらって戻ってきた。
私は中学を卒業すると、北関東の紡績工場に就職をして施設を出て行った。
その出発の前日。
荷造りも終わり、柄にもなく感慨に耽りながら施設の中を歩いていた。
ここで転んで大怪我をしたな。
里親が決まって出ていったアイツは元気だろうか。
あの日の紫陽花はまだ持っているのだろうか…
集会室の窓から外を見た。
紫陽花の季節にはまだ遠い。
正門の向こうに梅の花が見えた。
「拓兄ちゃん」
不意に掛けられた声に振り向くと、小夜子が立っていた。
小夜子は腰を曲げで私を覗き込むと「私が中学を卒業したらお祝いをして」と言った。
「プレゼントが欲しいのかい?」
そう尋ねると「ブブーッ」と不満そうに口を尖らせた。
「私、定時制に行くから最初の夏休みにどこかに連れて行って!」と姿勢を戻して言うとくるりと翻って走って行った。
あれを約束と思っていたのは自分だけではないだろうかと思いながらも、私はこの年に施設に里帰りをした。
中古で買った小型車は軽自動車よりも安く、信号待ちでは随分と頼りなくエンジンが震えていた。
それでも小夜子を乗せる為に用意した愛車だった。
「覚えてるさ。どこにでも連れて行ってあげるよ」
私がそう答えると小夜子は花が咲いたような笑顔を見せた。
あまりの笑顔に車を見たらガッカリしないだろうかと急に不安になった。
そんな不安は杞憂だった。
小夜子はカーステレオを見ると一旦部屋に戻ってカセットテープを手にして助手席に乗り込んできた。
「これ」
渡されたカセットケースのレーベルには曲名の代わりに押し花があった。
「家族、か」
私がそう呟くと「覚えてたの!?」と小夜子が大きな声を上げた。
「ああ」
覚えていないわけが無い。
あの日の出来事は私の中の特別だった。
でもそれを悟られまいとぶっきらぼうに答えた。
小夜子は地元のスーパーのレジをしながら定時制高校に通っていた。
車内ではやたら読みにくいバーコードについて熱弁された。
きっと嫌なこともあっただろうが、小夜子は一言も触れなかった。
「学校は楽しいかい?」
緩い左カーブ。
私はハンドルを切りながら視線を小夜子に移した。
「楽しいわ。70歳のお婆ちゃんが同級生なの!!順子さんは40代のパートさんで、持久走で死にそうなくらい息切れしてるオジサンも居るわ。あと歳の近い人も居るけどチョット不良っぽくて苦手」
小夜子はニコニコと本当に楽しそうに級友や学校のことを教えてくれた。
私の車を同年代の青年が大きな車で抜いて行った。
高級そうなシートや締め切った窓を見て劣等感が頭をもたげた。
ビニールシートの座席に全開の窓。
中古車屋では『クーラー付いてないけどいいのかい?』と聞かれたが私に出せる精一杯がこの車だった。
小夜子の額に薄らと滲む汗を見てもう少しメシ代を削れば良かったと思った。
そうして一瞬、私が無言になったのを見て小夜子が不安げに「楽しくない?」と言った。
私は慌てて否定すると「あっ、見えてきたよ」と遊園地の看板を指差して誤魔化した。
「ディズニーランドじゃなくて良かったの?」
入場口で係員に聞こえないよう小声で聞いた。
「順子さんが娘と行って並んだ記憶しか残ってないって」
小夜子は思い出し笑いをするように口を押さえた。
「拓兄ちゃん、行くよ!」
半券を受け取ると小夜子は私の手を掴んで子供のように走り出した。
急に掴まれたて走り出したことと、小夜子の手の柔らかさに心臓が早鐘を打ったように鳴り出した。
火元はここだと言わんばかりに頬も熱くなっているのが分かった。
メリーゴーランドは賑やかな音楽と装飾で彩られ、歓声を乗せて回っていた。
「懐かしい」
ふたり同時に言ってしまった。
施設では年に一度、小学生以下の入所者を遊園地に連れて行ってくれていた。
私はいつも小夜子にこのメリーゴーランドに連れて来られていた。
遠くで乗りたかったゴーカートのエンジン音が響いていたのを覚えている。
「ふたり乗れるかな?」
小夜子の提案で馬車ではなく馬に跨ることになった。
まさかふたりで乗るとは思ってもみなかったが。
ポールを掴む私の腰に手を回して自転車の後ろに横乗りをするような姿勢になると「いつもゴーカート我慢させてごめんね」と悪戯っぽく囁いた。
小さな頃は遊園地の広場で配られたおにぎりとおかずのセットでお昼を食べた。
サンドウィッチの年は妙に嬉しかった記憶がある。
「なぁに、拓兄ちゃん。そこで食べるの?」
私が懐かしそうに眺めていると小夜子は後ろ歩きでからかうように言った。
「サンドウィッチの年って嬉しくなかった?」
「うんうん。だってその時はほうじ茶じゃなくてコーヒー牛乳が付いてくるじゃない」
思い出したのか小夜子も嬉しそうだった。
「美味しかったね」
私がそう言うと「やっぱりそこで食べる?」と微笑んだ。
「敷物も持ってきてないし、第一、小夜子の白いスカートが汚れちゃうよ」
「そうね。なんか、そんなこと気にするくらいに大人になっちゃったね」
小夜子はスカートの裾を持って左右に振ると少し感傷的に言った。
陽が落ちる頃、私たちは観覧車に乗った。
オレンジ色の扉が金属の軋む音を立てて閉まった。
さっき閂を掛けた係員がもうゴンドラの下に見えた。
小さな揺れが落ち着く頃には夕闇と夜の帳の間に私たちは二人きりだった。
青い闇がゆっくりと影を伸ばすと街に明かりが徐々に灯る。
夜光虫のようだと思った。
「綺麗」
小夜子が呟く。
気の利いた男ならここで何か言えたのだろうけど、私は「うん」としか言えなかった。
気が付くと空には白く輝く満月が昇っていた。
「小夜子、上を見てごらん」
「わぁ」
感嘆の声を上げた瞬間だった。
身体に響く大きな破裂音が鳴った。
小夜子は小さく悲鳴をあげてよろけた。
私が立ち上がって小夜子を支えた瞬間、満月の隣に大きな丸い花火が色とりどりに上がった。
牡丹という種類なのだろうけど「紫陽花みたい」ふたり揃って口にした。
ふたり並んで花火を見ていた。
花火の高さまで届きそうなくらいにゴンドラが上がる頃、私たちは指を絡めて手を握りあっていた。
「卒業したら…」
私は花火の音にかき消されないよう、小夜子の耳元に口を寄せて言った。
「結婚しよう」
次の瞬間、花火の音と同時に頬に柔らかいものが触れた。
第一章 紫陽花③
季節は秋に変わり、レストランからの帰り道。
金色の絨毯を敷き詰めた銀杏並木で小夜子の指に婚約指輪を嵌めた。
白く細い指に小さなダイヤが控え目に煌めいた。
「ママ先生に報告しなくっちゃ」
左手を光にかざす小夜子の声は弾んでいた。
ひとりで報告してしまいそうな勢いだったので「一緒にね」と頭を撫でて肩を抱いた。
足元で銀杏が秋風に舞った。
園長先生は小夜子以上に喜んでくれた。
「あんなに小さかった拓が…ねぇ」
何度も何度も呟くように言っては目頭を押さえていた。
小夜子も涙を流して園長先生に抱きついて背中をさすられていた。
小夜子のそんな姿は子供の時ですら見たことはなかった。
結婚式は施設で挙げた。
小夜子の希望だった。
私たちには施設外の友人は数える程で、私もなるほどと思った。
小夜子は定時制高校と職場の友人数人を招待した。
私の方は『身内だけで』と職場に話して特に誰も呼ばなかった。
正門には番線と和紙で作った花のアーチ。
風船や折り紙のリングで装飾された集会室。
低学年以下の子達が数日掛けて作ってくれたそうだ。
園長先生からのサプライズでウェディングドレスが用意されていた。
控え室に置かれていたドレスに感激した小夜子が目を泣き腫らしてしまい、式の開始が遅れたのはいい思い出だ。
私にもサプライズがあった。
上司が会社の名前で祝電と花を贈ってくれていた。
招待をしなかった不義理への痛みと、居場所のある喜びが、私の胸に二重の波紋描いていた。
入刀した少し不格好なケーキは、上級生の子達が作ってくれた苺のケーキだった。
メインの料理以外は全て子供たちの手作りの結婚式だった。
受付や裏方は中高生の仕事だった。
学校祭で覚えた手際の良さに、彼らの幼児期に世話をした私たちも「小さかったあの子たちがねぇ…」と嬉しくて仕方なかった。
「それにしてもみぃ子がねぇ」
支度を終えた長女の四葩がサンドウィッチをつまんで言う。
「何その上から目線?」
美禰子が不満気な声をあげた。
「いやいや、カレシが出来ると料理も上手になるんだなって」
初耳だった。
「ちょ、お姉ちゃん!パパあのね違うの。いや、違うくないの。ママに報告してからって思ってたの」
私は苦笑いでお茶を啜るしか出来なかった。
娘たちの成長の折々に男親の限界を感じる。
四葩の時は生理用品すら買えずにオロオロして園長先生に泣きついたものだった。
専用の下着があることすら思い至らなかった。
小夜子が託した、いや負託したこの子達を私はちゃんと育てられているのだろうか。
押し黙った私に四葩も美禰子も黙ってしまった。
「ああ、すまない。さぁママが待ってるから行こうか」
場の雰囲気を誤魔化すように私は立ち上がると車の鍵を手にして外に出た。
梅雨の晴れ間の車内はエアコンのおかげで快適だった。
窓を全開にして小夜子と走った20年前が遠い昔に思えた。
「パパ、なんかニヤけててキモイんだけど」
ミラー越し、美禰子に見られていた。
「うわっ、何?久しぶりの愛娘たちとの外出に嬉しくなっちゃった?」
四葩からの追い討ちが放たれた。
「いや、最初の車にはエアコンが無くてさ。ママと窓を全開にして走ったなぁって」
「それってデート?」
今度は娘ふたりがニヤニヤしていた。
「まぁ、そうだな」
「せっかくセットした髪がぐちゃぐちゃになりそう」
「それもう帰りたいわ」
口々に好き勝手を言われた。
「わかるぅ」と盛り上がっていたふたりだったが、美禰子の一言に一瞬の沈黙があった。
「お姉ちゃんはママのことを覚えてるの?」
車内の温度が冷えた気がした。
「そうね、6歳だったから」
四葩の声の抑揚が消えた。
「そっかぁ。覚えていたかったな」
「鏡見なよ。みぃ子はママにそっくりなんだから」
上手に話を逸らしてくれた四葩に安堵した。
その日は二人目を身篭った小夜子の定期健診だった。
いつものように待合室に居ると診察室に呼ばれた。
四葩の時には無かったことで少し困惑した。
医者は沈痛な面持ちで、かつ事務的にこう言った。
「子宮頸がんが疑われます。妊娠の継続は可能ですが、母体へのリスクを考えれば今回は諦めるのも選択のひとつです」
頭を不意に殴られでもしたらこんな衝撃なのだろうか。
「これは比較的ゆっくり進行するので今が初期なら出産後に手術は可能です」
その後の説明もあったがあまり頭に入ってこなかった。
後日の精密検査の結果、出産は母体の生存に関わる程に進行していることが分かった。
そのことを知って尚、小夜子は産むことを選んだ。
「そうね、今回を諦めれば次があるかもしれない。でも、この子には今しかないの」
そう言うと、愛おしそうにまだ小さなお腹をさすった。
「......分かった」
私は喉の奥から絞り出すように答えた。
言葉がまるで固いものを吐き出すように喉につかえていたのを覚えている。
そこからは四葩を連れて毎日見舞った。
四葩は毎回ベッドで小夜子に抱きついて離れなかった。
そしてお腹の子に「お姉ちゃんだよ」と呼びかけていた。
ここが病室でなければどこにでもある家族の風景だったのだろう。
小夜子もそんな四葩に楽しそうに笑って、四葩も笑って...私だけがそれに耐えられずにいた。
「寝ちゃったわ」
寝息を立てる四葩の隣で少し痩せた小夜子が身体を起こした。
「心配性ね。まだダメだって決まった訳じゃないわ」
私に向けて気丈に笑顔を見せた。
「ああ、もちろんだ。大丈夫に決まってる」
釣られた私は、ほぼ勢いだけで言った。
それを見た小夜子は今度は本当に可笑しそうに笑った。
冬の入口だった。
冷蔵庫のビールに手を伸ばした時だった。
電話のベルが鳴った。
慌てて閉めて受話器を取った。
小夜子の陣痛が始まった。
私は夜分で気が引けたが上司に電話をして翌日の休みを貰った。
以前から相談していたこともあり「早く奥さんのところに行ってやりなさい」と言って貰えた。
四葩は小夜子がかねてからお願いしていたアパートの隣家に預けた。
同じ保育所に通う子がいたおかげで、四葩も素直に言うことを聞いてくれたのは本当に助かった。
乗り込んだ車のビニールシートは冷たく思わず身震いした。
私は暖気もそこそこに車を走らせて、小夜子の元に向かった。
それにしても病院はこんなにも遠かっただろうか。
赤信号のひとつひとつが長く感じられる。
頼りないヘッドライトと点在する街灯。
小夜子の手を、早く握ってやりたかった。
裏口の救急受付に駆け込むと、そのまま分娩室へと向かった。
分娩室前に居た看護師が分娩室横の部屋に案内してくれた。
額に汗を滲ませた小夜子が、ベッドの上でこちらを見て安堵の表情を浮かべた。
私は小夜子の手を握るとベッド脇の丸椅子に腰を下ろした。
「陣痛の間隔が3分になったら教えてください」
事務的な看護師の言葉に「5分じゃないんですか?」と聞き返すと「奥様、二人目ですよね」と言われ、初産とは違うものなのかと納得した。
「初産じゃなくてもお産は大変なんです。ご主人、しっかり手を握ってあげていて下さいね」との看護師の言葉に、最初の事務的な印象と打って変わった印象を受けた。
四葩の時もそうだったが正直な話、どれほどの痛みなのか想像もつかなかった。
か細い小夜子の指が、私の手が折れんばかりに握りしめる度に片方の手で腰をさすり続けた。
後で見ると右手には小夜子の指の跡がくっきりと赤く凹んで残っていた。
間隔が3分になり分娩室に入ると、意外とすぐに産声が聞こえた。
瞬間、私は立ち上がって入口の前に立っていた。
「奥さん頑張りましたよ」
看護師はそう言って私を小夜子の元に案内してくれた。
カーテンの向こうに、まだ肩で息をする小夜子が赤ん坊を抱いていた。
「四葩の妹よ」
小夜子はそう言って赤ん坊のピンクの頬に指で触れた。
「妹!!妹!!妹!!」
病院に連れて行く車中の四葩は大はしゃぎだった。
「私の一番好きなピンクのワンピースとお人形をあげるの。それからママキッチンで一緒に遊ぶの」
昨年の誕生日にプレゼントしたキッチンのおもちゃのことだろう。
四葩の妹フィーバーは微笑ましいが、流石にこのまま病院は困る。
「四葩はもうお姉ちゃんになったんだから、病院では静かにお行儀良く出来るね」
私がそう言うと神妙な面持ちでコクコクと頷いた。
「ママもきっと喜ぶよ、四葩お姉ちゃん」
その言葉に四葩は、パァっと花が咲いたような笑顔を見せてくれた。
それはいつかの小夜子の笑顔のようだった。
病院に着くと新生児室の妹のこともそこそこに、四葩は小夜子から離れなかった。
「あらあらお姉ちゃん、どうしたの」
小夜子がそう言うとパジャマを強く握りしめて「お姉ちゃんじゃない」と小夜子の胸に顔を埋うずめてしまった。
一瞬驚いた表情の小夜子だったがすぐにいつもの優しい表情を浮かべると、そっと四葩の頭を撫でていた。
四葩のご機嫌取りに大好きな紙パックのりんごジュースとビスケットを売店で買った。
病室に戻ると、既に小夜子の膝の上で上機嫌の四葩が居た。
(敵かなわないな)
小夜子にも四葩にもそう思って、私は思わず頭を掻いた。
赤ん坊への授乳の時間だった。
「美禰子」
勢いよく母乳を飲む様子を見ながら小夜子が言った。
「ミネコ?」
私の様子に小夜子は『美禰子』と紙に書いて見せた。
「三四郎?」
「ストレイシープ」
私の言葉に小夜子はそう続けて笑ってみせた。
夏目漱石の三四郎は私も小夜子も施設の図書館で読んでいた。
夏休みの読書感想文はそれで書いたものだ。
ただ『禰』の文字に少し心がざわめいた。
改めて小夜子を見ると見透かしたように「考えすぎよ」と言った。
思えばもう既に心は決まっていたのだろう。
美禰子は小夜子の忘れ形見だと。
投薬は、小夜子の希望でひと月待ってからとなった。
美禰子に最初のひと月までは、母乳をあげたいということからだった。
手術は体力の回復を待ってからという事で、出産の40日後が手術の日に決まった。
出産1週間後に帰宅して、そこからまたひと月後に入院。
四葩の赤ちゃん返りは、それは酷いものだった。
12月の雪がちらつく日だった。
積もることなくアスファルトに消えてゆく雪に縁起でもないことをつい思ってしまう。
その度に小夜子は今、闘っているんだと頭かぶりを振って自分に言い聞かせた。
妊娠の継続を選んだ小夜子の病状は、予想よりも進行が早く広汎子宮全摘出術となった。
既にもう開始から6時間が経過していた。
朝から園長先生が駆けつけてくれて、四葩と美禰子を施設で預かってくれている。
きっと泣きそうな顔だったのだろう。
園長先生は私の尻をパンと叩くと「パパは一家の勇気」と言って叱咤してくれた。
リノリウムの床に滲む照明。
薬品と消毒液の混じった匂い。
消える気配の無い赤いランプ。
現実味が無い。
あの扉の向こうに小夜子が居るなんて。
まるで悪い夢だった。
手術は8時間に及んだ。
ランプが消え立ち上がった私の前を、ストレッチャーに乗せられた小夜子が過ぎていった。
執刀した先生は私の前に立つと「除ける部分は全て切除しました。ただ、リンパ節への転移の可能性が疑われるので今後は経過を観察しながら治療方針を決めることになります」と言って去っていった。
今夜だけ小夜子は個室に移った。
看護師の言う通り小夜子は30分程で目覚めた。
私は転移の可能性以外の話を伝えた。
これが小夜子への初めての隠し事だった。
きっとこれから増えていくのだろう。
話せないこと、隠すべきことが。
聡い小夜子のことだ、きっと簡単に見破るのだろう。
そして知らない振りをするだろう、私の為に。
第一章 紫陽花④
薬の種類が増えた。
来週から放射線治療が始まる。
柔らかだった手指は骨ばり、頬は少し窪んできた。
それでも子供たちを見る目は変わらず優しいままだった。
「あとどのくらい?」
涼やかな声は変わらなかった。
「あの子たちの孫くらい見れるさ」
「うそつき」
そう言って優しく笑った。
私はそれには答えずに小夜子の手を握った。
「四葩、おいで」
小夜子の言葉に四葩がベッドに駆け寄った。
靴を脱ぎ散らかしてよじ登ると、上体を起こした小夜子の隣に座った。
「大きくなったね、四葩。もうお姉ちゃんになれたかな?」
小夜子は四葩を膝に乗せた。
一瞬苦しそうに顔を歪めて、また優しい顔になって...
「四葩はもうお姉ちゃんだよ」
「そう、偉いねぇ」
ぎこちなく頭を撫でた。
もう肩で息をしている。
私が四葩を降ろそうと近寄ると小夜子はそれを目で制した。
「四葩にこれをあげる」
小夜子はベッド脇の引き出しから何かを取り出すと四葩の首に下げた。
「綺麗なお花!ママ、これはなんてお花?」
「紫陽花よ、紫陽花の押し花」
「紫陽花、もっと大きいよ」
四葩は振り向いて不思議そうに言った。
「そうね。いい、四葩。紫陽花はね、この小さな花びらが集まってひとつの紫陽花になるの」
四葩は振り向いたまま小夜子の言葉を聞いていた。
「それって、パパとママと四葩と美禰子が集まって家族になってるのと似てるでしょ」
四葩がコクコクと頷く。
「そしてね、四葩の名前はこの紫陽花から貰ったの」
「四葩、紫陽花すき」
「ママも紫陽花が大好きなの。だから大好きなあなたに四葩って付けたのよ」
そう言って小夜子は四葩を強く抱いた。
きっと涙を見せない為だったのだろう。
四葩を不安にさせない為に。
そんな四葩は小夜子の腕の中で、満足そうに笑顔を浮かべていた。
不意に美禰子がグズり始めた。
甘えていた四葩が、ベッドから降りて美禰子のオムツを替えだした。
目を丸くして驚く小夜子と目が合った。
ふたり顔を見合って笑った。
久しぶりに笑ったような気がした。
四葩もそんな私たちを見て意味も分からずに笑った。
「四葩、美禰子と一緒にいらっしゃい」
「うん」
そう言うと四葩はまず美禰子を小夜子に渡した。
それから靴を脱いで綺麗に揃えると再びベッドに上がった。
「美禰子は甘い匂いがするねぇ」
小夜子が頬に鼻を当てると四葩も同じようにした。
「いい匂いする」
「いい匂いだねぇ」
春にはまだ少しだけ早い季節。
病室の一角、陽だまりのような景色だった。
「で、美禰子に鼻を押し当ててママと匂いを嗅いでたの」
「えっ、ウッソ!やだもぉ」
美禰子の顔に鼻を近づけた四葩が匂いを嗅ぐ真似をした。
「ほら、遊んでると水をこぼすぞ」
桶の水が左右に揺れて波立っていた。
「お姉ちゃんが紫陽花なら私の名前は何になるの?」
美禰子は揺れる水面を上手くいなしながら言った。
「忘れ形見」
「えっ」
「美禰子は小夜子の忘れ形見...いや、ストレイシープかもな」
「思春期の迷える仔羊ね」
四葩がからかうように言った。
「ちょっと、意味わかんないよ」
「ふたりとも、小夜子の名付けの願い通りに育ってるということだよ」
私はそう言うと「なぁ、小夜子」と紫陽花が刻まれた墓石の前に立った。
墓前で線香の煙が細く立ち上ってゆく。
あの日、煙突から立ち上る煙をこの子たちと見たのが昨日のように思えた。
陽だまりの日から悪化と小康を繰り返していた。
「窓を」と言った小夜子。
カーテンを揺らした初夏の風。
運ばれた清涼な青い香りは小夜子に届いただろうか。
活けられた紫陽花が小夜子を見つめていた。
呼吸が荒くなり計器が騒ぐ。
それは死神があげる歓喜の声に思えて震えた。
ナースコールに駆け付けた看護師がマスクをつけるのを、小夜子は拒んだ。
もう声の出ない唇から「ありがとう、すき」と言葉が零こぼれた。
私と四葩で握った小夜子の手に美禰子の小さな手を重ねた。
口々に「小夜子」「ママ」と呼び叫んだ。
最期、もう機能を失った肺に息を吸い込もうとしたのか。
繰り返す浅い呼吸の後に大きく胸を膨らませて、次第に萎んでいった。
繋いだ手に重みがかかり、握る指から力が失われていった。
私は項垂うなだれて額に手を押し当てた。
医師が無機質な言葉で何かを告げていたが、私の耳には届かなかった。
立ち上る煙と込み上げる虚無と絶望。
小夜子の居ない世界に、私の居場所など感じられなかった。
不意に腕の中の美禰子が、煙を掴もうとするように無邪気に手を伸ばした。
我に返った。
右手には私の手を気丈に握る四葩。
腕の中の美禰子。
希望はここにあった。
小夜子が遺してくれた紫陽花の花弁。
「行こう」
私たちは煙に背を向けた。
鼻腔をくすぐる線香の香り。
墓碑銘の小夜子の名を指でなぞった。
紫陽花に彩られた墓石は華やいでいた。
それはまるで小夜子の笑顔のように。
-了-
第二章 菫①
「花は散るその瞬間も花なのですよ」
そう教えてくれたあの人の真摯な眼差しも、声も、温もりも...昨日のことのように覚えている。
「香織、おばあちゃんの荷造りありがとうね」
母、公子からの労いの言葉が背中で空虚に響いた。
「荷物が多過ぎるのよね」
額の汗を拭いながら愚痴るように呟く。
「それだけ人生で色々と背負ってきたのよ」
「ふーん」
そんなものかと香織は荷物の分別を続けた。
時折舞う埃が、午後の陽射しに乱反射する。
要るもの、要らないもの、確認するもの...
祖母の菫子は来週には施設に入所する。
荷物は出来るだけ最少にまとめる必要があった。
(でも、本当に要るか要らないかなんて本人にしか分からないだろうな)
そう思いながら明らかに壊れている何かの部品や、以前使っていたテレビのリモコンを、要らないものへと分別した。
淡々と繰り返す作業の中、ここに在るべきでは無いものを指先が見つけた。
「ママ、これって」
人目に触れないようにひっそりと。
記憶の奥底に閉じ込めたような木箱の中。
まるで隠すようにしまわれたそれは、位牌だった。
「北浦将吉って人、親戚に居た?」
「聞いたことの無い名前ね」
公子は記憶を辿るように視線を彷徨わせた。
そして首を傾げて「やっぱり分からない」と言った。
「なんか、おばあちゃんには聞きにくいね」
香織が眉を寄せる。
「ねぇ、没年とか書いてない?」
「えぇと、昭和19年6月30日......うわぁ、22歳だって」
香織は年齢を見て胸が痛んだ。
(私よりずっと若い)
「若いわねぇ。その頃だとおばあちゃんの実家は、まだ有数の資産家だった頃ね」
「え?聞いたことない」
「パパだって産まれる前よ」
「でも、パパも子供の頃は裕福だったんでしょ」
「子供の頃はね。でも今だって困らない暮らしは出来てるでしょ。パパが頑張ってくれてるんだから」
これ以上は話が逸れていきそうに思えて香織は素直に同意した。
「遅くまで頑張ってくれるパパには本当に感謝だね」
そう言って立ち上ると「用事出来た」と続けた。
「ちょっと香織、どこ行くの!?」
「だって気になるでしょ、将吉さん」
最後まで言い終える前にドアは閉まり、香織は小さく息を吐いた。
「眩しっ」
思わず手でひさしを作って目を細めた。
落ちかけた陽射しがオレンジ色に周囲を染めていた。
「さてどうしたものか」
香織は小さく独りごちると思案を巡らせた。
退屈な日常の違和感に高揚したまま飛び出したはいいが、あてがあるわけでは無かった。
香織が知っている範囲の祖母の歴史は、事業を営む祖父と結婚して父と叔父を産んで、晩年は事業をたたんだ祖父と二人暮し。
4年前に祖父と死別。
来週、サービス付きの高齢者施設に入居する...
それが香織の知る祖母の全てだ。
「うーん」
夕暮れの風に揺れる木の葉を見上げながら香織は小さく唸った。
この胸の高鳴りをどうするか少しの間迷う。
(決めた)
「まずは叔父さんだ」
スマホを取り出すとディスプレイが仄明るく光る。
(丁度定時のはずだ)
アドレスの叔父、秀一の名前を呼び出すと、一瞬だけ逡巡した後にタップした。
平日の夕方にも関わらず、待ち合わせ場所の居酒屋は賑わっていた。
個人経営の居酒屋で叔父の行きつけの店だ。
何度か一緒に来たこともあって、マスターも香織の顔を覚えていた。
「いらっしゃい。秀さん、奥の個室で先にやってますよ」
愛想良くそう言われて「じゃぁ、とりあえず生よろしく」と返した。
(なんだか定型文みたい)
可笑しくて吹き出しそうになったのを、咳をする振りをして奥へと小走りで急いだ。
障子を開くと上機嫌の秀一が既に顔を赤らめて座っていた。
「おお、香織。お疲れさん!今日は公子さんと一緒に、母さんの荷造りの手伝いをしてくれたんだってな」
ネクタイを緩めて「ささ、座って」と向かい側に手のひらを向けた。
座布団に腰を下ろすと、紙コースターが敷かれビールが置かれた。
お通しはカブの千枚漬けだ。
香織は店員が戻った後に、そっとお通しの小鉢を秀一の側に押した。
叔父がニヤリと笑った。
「苦手なの」
バツが悪そうに香織は言った。
それを誤魔化すようにグラスを叔父のコップに当てると「お疲れ様」と言ってグラスの半分を飲んだ。
そして大きく息を吐くとコースターにグラスを置いた。
「それでね、叔父さん」
そう言われて秀一は身構えた 。
「北浦将吉って名前に心当たりはある?」
「は?」
拍子抜けした声が出た。
「なんだ、仲人のお願いじゃなかったのか」
「は?」
今度は香織の番だった。
「ちょっと叔父さん、どうしてそうなるのよ」
そうしてふたりはひとしきり笑うと「その北浦なんとかってのは誰なんだ」と秀一が切り出した。
「実はね」
香織は菫子の家で見つけた位牌についての話をした。
「気味が悪いな、他人の位牌なんて」
秀一が身体を後ろに逸らすと、眉根を寄せて嫌そうな表情をした。
その様子に(本当に知らないみたい)と察すると質問を変えた。
「このことを知ってそうな人は居ないかな?」
「それなら良寛寺の住職はどうだ?あそこは母さんの実家が檀家をつとめていたから」
「そっか、この人自身よりも位牌から追うのね」
「追うって、刑事か探偵みたいだな」
秀一はそう言って笑った。
「あ、ところでおばあちゃんの旧姓って何て言うの?」
「柘植だよ」
秀一はそう言ってスーツからペンを取り出すと自分の名刺の裏に書いて渡した。
「言われなきゃ読めないね」
香織は「ありがとう」と言うと名刺をバッグにしまった。
生ぬるい夜の風が髪を撫でる。
(これで何か知れるかもしれない)
そんな不快な湿度も気にならないほどに、足取りは軽い。
(良寛寺、住所はどこかしら)
香織はバッグからスマホを取り出した。
「あっ」
思わず声が出て立ち止まった。
母からの着信とLINEの件数がとんでもない数になっていた。
『スマホなんて、LINEなんて』と言ってた母だったが、数ヶ月前の未曾有の災害を機にガラケーから切り替えた。
以来、ことある事にLINEだ。
香織は額に手を当てると回れ右で駅に戻った。
(パパもよく使ったこの手で)
香織の父は公子の機嫌を取るのに駅前の洋菓子屋でケーキを買って帰っていた。
ブルーベリーのタルト。
一緒に香織にはショートケーキを買って帰って来た。
飲み会や接待が続く時は(そろそろかな)と期待したものだった。
「ごめんなさい!!」
開口一番そう言って、ケーキの入った箱を前に突き出した。
公子は半ば呆れながら「パパに似てきたわね」と満更でも無い顔で受け取った。
中のブルーベリータルトとショートケーキを確認すると「紅茶でいいでしょ」とキッチンに向かった。
「明日は早めに行くわよ」
ケトルに入れる水の音が声に混じって聞こえた。
(これはマズイ)
公子の言葉に香織は返事が出来なかった。
紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。
ケーキに紅茶を出したのではなく、紅茶にケーキを添えたような気がしてきた。
公子は紅茶に一家言ある人だった。
「素敵な香りね、ママ。これはアールグレイかしら?」
「ダージリンよ」
呆れたような声。
「そもそもあなた、アールグレイが何か分かって言ってるの?」
「...知りません」
(うわぁ、やぶ蛇だ)
香織は口は災いの元という言葉を身をもって感じた。
「まぁ、いいわ。それで香織、明日は早めに出るわよ」
ため息で一度言葉を切って、公子が言った。
「あのねママ...」
おずおずと香織は切り出す。
こんなに歯切れ悪く話し出すのはいつ以来だろう。
今、公子を前にして、小学生くらいに戻ったようなそんな気分だった。
「あのねママ。今日あの位牌を見つけてから、おばあちゃんのことを色々考えてたの」
公子はテーブルを挟んで香織をじっと見ている。
「そうしたら、私ね、おばあちゃんのことを何も知らなかった。何十年も生きた人に28年も可愛がってもらって、何も知らなかったの」
香織は紅茶を一口啜って言葉を続けた。
「旧姓すら知らなかった。私...知りたいの。柘植菫子の人生。日下菫子の人生」
「女はね、男の人以上に人生に過去があるものよ」
公子が静かに話しだした。
「本人が話さなかったこと...お義母さんが胸の奥にしまうように大切に封じてきた秘密を暴くことは『知ること』とは違うわ」
タルトにフォークが刺さる音がした。
香織は返す言葉も無かった。
そもそもが説得しようと思いつきで言った言葉だった。
公子の言葉とは重みが違い過ぎた。
「ごめんなさい。私の思いも行動も軽率でした」
香織は真摯に謝罪をした。
そして謝罪をした上で再び言った。
「おばあちゃんを傷つけたり、貶めたりするつもりは無いの。だって大好きだもの。でも知りたい。菫子の人生に北浦将吉がどう関わったか。おばあちゃんが大切にしてきた記憶、暴くのではなくて継ぎたいの」
想いを上手く言葉に出来なかったが本心を語った。
これでダメなら諦めよう、そう思った。
そして公子を真っ直ぐに見詰めた。
同様に公子も香織を見詰めていた。
二人の間に沈黙が横たわる。
空気の音すら騒がしく思える長い沈黙。
実際はほんの数秒。
でもこの数秒が永遠に感じた。
「結果はパパにも公造義兄さんにも言わないで。これは、女同士の秘密」
「約束します」
「女の秘密なんて男には背負えないもの。それと、紅茶は啜るものではないわよ」
公子はそう言うと悪戯っぽく笑った。
第二章 菫②
当日の電話にかかわらず良寛寺の住職は快く応じてくれた。
やはり柘植の名が効いたのだろうか。
ただ午前中は檀家さんの法事で、午後からの約束となった。
空いた午前中は郷土史で柘植家について調べてみようと思った。
(それほどの資産家だったなら何か資料があるかもしれない)
香織はかつて柘植家が隆盛を誇った帯壁町に向かった。
電車で五つ離れた駅が帯壁駅だった。
ただ都心と違って北関東の地方都市、しっかり1時間は揺られていた。
帯壁町は戦国時代、日本では稀有な城塞都市だった。
今ではその名残すら無いが、壁が帯のように長く延びていたことから帯壁と呼ばれるようになった...と郷土史にあった。
町営図書館で開館と同時に郷土史を漁る香織の姿は人目を引いた。
「こんにちは。今日はどのような資料をお探しでしたか?」
書架に見える背表紙を指で辿る香織の隣に女性が立った。
「えっ」と視線を向けると『図書館司書 大塚』とネームストラップが下がっていた。
「お手伝いしますよ」
人懐っこい笑みを見せた。
午後からは住職との約束がある香織は、渡りに船とばかりに「ありがとうございます」と頭を下げた。
「柘植さんと言うと柘植紡績の柘植さんですかね」
大塚は香織の『資産家』『柘植』と言う少なすぎるワードにも関わらず書架から数冊の本を抜き出した。
「この辺りでは戦前は柘植財閥と呼ばれていたそうですよ。紡績、林業、金融...ああ、それらは資料を見ればきっと書いてますね」
「詳しいんですね」
「実は去年まで郷土資料館でアルバイトをしていたんです。柘植紡績跡地で」
「そうだったんですか」
香織が妙な縁に驚くと「空襲や火事、破産後の差し押さえで、現存する当時の建物がひとつあるだけなんですけどね」と少し残念そうに大塚は言った。
「その建物が資料館になっているので、お時間が許せばぜひお立ち寄りくださいね」
最後にそう言うと大塚は受付カウンターに戻って行った。
柘植家は1590年の秀吉による小田原討伐で北条軍隷下で参戦した。
(こんなに昔に遡るのかぁ)
ほんの80年くらい遡るつもりだった。
歴史上の人物の名前まで出てきたことに、香織は戸惑いを覚えた。
今や天下人たらん秀吉自ら率いる豊臣軍。
破竹の勢いの進軍は、天下の険なる箱根峠の護りも数時間で突破すると小田原に迫った。
箱根十城をはじめ、北条の城は次々と陥落していった。
しかしこの地にあるは戦国随一の堅城、小田原城。
北条軍は、籠城による徹底抗戦にこそ勝機有りと豊臣軍を待ち構えた。
搦手の豊臣軍は水軍による海上封鎖を実行。
陸路も海路も断たれた北条軍は士気も落ちていった。
(えっ、それってもう絶望的じゃないの)
香織は負け戦の最中に籠城する城から見た相模湾を想像した。
湾を埋め尽くす豊臣水軍の船、船、船...
心中察するに余りある状況だった。
そんな中で一縷の望みだった伊達政宗が、豊臣軍として参戦したことを知り北条氏は降伏を決意した。
およそ4ヶ月に及ぶ戦いは終わった。
そして柘植は、助命の代わりに武士の身分を剥奪され帰農郷士となったと記されていた。
その後は江戸の世となり再度士官しようと試みるも、天下泰平の時代に武士の職は無く農民の身分は変わらなかった。
(なんか面白いんだけど)
香織は遥か遠い先祖が歴史の中で息づき、こうして資料として残っていることに心踊った。
それが偉人のような活躍ではなくとも。
その後は土地一帯を支配する豪農に成長し、数多の農奴を使役するようになった。
時代は大政奉還を経て明治に変わる。
多くの武士が職と身分を失ったが、300年も前に失職して農家として大成した柘植家には全く影響が無かった。
むしろ文明開化、富国強兵の号令により山林の木々は売れに売れた。
これにより柘植家は林業から頭角をあらわすようになった。
(なんかライトノベルでありそう)
資料を見ながら込み上げる笑いを噛み殺してこらえた。
(あれって結局は、人間万事塞翁が馬って話よね)
そう思うとやはり可笑しくて声を押し殺した。
明治26年は柘植家にとって飛躍の年となった。
紡績工場(現郷土資料館)を立ち上げ翌年に稼働開始。
日清戦争勃発により需要が増加し、経営の安定化から金融、先物取引と多角化した。
柘植財閥と呼ばれた柘植家だったが戦後のGHQからは財閥認定されずに解体はまぬがれた。
しかし戦後の農地改革や、金融の破綻等で柘植家は斜陽を迎え昭和30年頃には事業悪化により破産した。
一気に読み終えた香織は大きく伸びをした。
首周りがポキポキと鳴った。
(柘植菫子かぁ...想像もつかないくらいにお嬢様だったんだね、おばあちゃん)
数枚のお屋敷の写真や工場の写真が資料にあった。
韓流ドラマで見るような豪華なお屋敷。
レンガ造りの大きな工場は、それだけで文化遺産のような趣だった。
「さて」
香織はスマホで時間を確認すると資料を書架に戻していった。
帰り際、貸出手続き中だった大塚に頭を下げると、闊歩するように大きく足を踏み出した。
意気揚々と良寛寺に向かった香織だった。
途中でふと自分が手ぶらなことに気付いた。
慌てて近くにあったスーパーに立ち寄った。
そこのテナントに入っていた洋菓子屋で、お土産用の詰め合わせを買うついでに郷土資料館の場所を尋ねた。
「ああ、柘植紡績ですね」
それほど年配でもない店員が、柘植紡績と呼んだことに香織は少し驚いた。
「柘植紡績って大昔に無くなったんですよね?」
香織の問い掛けの真意を察した店員は「地元の団塊世代以上は、自身や親の多くが関わった企業ですから」といかに住民に根差した企業だったかを教えてくれた。
郷土資料館は良寛寺からほど近く、徒歩数分の場所だと教えてもらった。
香織はお土産を携えて良寛寺へと向かった。
「いやぁ、確かに菫子さんの面影がありますわ」
住職は開口一番そう言って目を細めた。
住職は尋常小学校時代の同窓生でよく一緒に遊んだそうだ。
「立ち話もなんですから、さぁ中へどうぞ」
住職にうながされて香織は応接間に通された。
「お口に合うか分かりませんが」
そう言ってお土産を渡しながら(定型文って便利よね)と考えていた。
「早速なのですが、住職さんは北浦将吉という名前に心当たりはございませんか?」
香織は単刀直入に切り出した。
祖母の思い出話などが始まってしまうと長引きそうだと思った。
住職は少し黙ったあと静かに口を開いた。
「優書院護慶学将信士...将吉さんに戒名を付けたのは私です。位牌をご覧になったのでしょう」
「はい。でもその...」
香織は一度口ごもってから「戒名の方は読めなかったのでよく覚えてないです」と一気に言った。
そして最後に「ごめんなさい」と付け加えて。
これには住職も絶句した後に「これは参った」と、大きな口を開けて笑った。
そして笑顔がすっと消えると遠くを見るように話し始めた。
「あの日、境内に幽霊を見ました。蒼白い顔でゆらゆらと歩く様には生気が無く、本当に幽霊そのもののようでした」
午前中の空襲警報でお勤めが遅れていました。
お勤めと言っても経を読むだけです。
鐘は軍への供出物として持っていかれてしまい、突くことは出来ませんでした。
昭和19年の秋のことです。
一区切りついたところで、境内の掃き掃除をしようと外に出た時でした。
ゆらゆらと揺らめく陽炎のような人影が近付いてきました
その相貌は生気を失ったように蒼白く、瞳は力なく光がありませんでした。
ひと目見ただけでは菫子さんだとは分かりませんでした。
幽霊が現れたと本当に思いました。
菫子さんは私の袈裟を掴むと、そのまま倒れるように膝を着いてしまいました。
袈裟を引くその手を見ると1枚の紙が握られていました。
すっかり折れてシワが寄った紙を受け取り開くと、それは戦死の通知でした。
北浦将吉さんの名前が6月30日の日付けで書かれていました。
あの頃はまだ父が住職として健在で、私は菫子さんを本堂に休ませると住職を呼びに走りました。
住職と一緒に本堂に戻ると、菫子さんは幾分落ち着きを取り戻していました。
ただ、我々を正座で待っていました。
本堂の板の間にです。
私は慌てて、お勤めの時に使う座布団をひっ掴んで差し出しました。
ですが菫子さんは一瞥もくれずに真っ直ぐ住職を見て言うのです。
「どうか北浦に戒名をください」と。
これには弱りました。
柘植家は良寛寺の檀家衆ですが、北浦さんは柘植家の書生。
単なる丁稚や従業員の類です。
今でこそ違いますが、当時は檀家以外に戒名を与えるなんて、まず無いことでした。
私は一旦席を外しました。
ここから先は住職と菫子さんのお話です。
そしてなにより、あんなに憔悴しきった菫子さんを見るのは私自身が辛かったのです。
程なくして私は本堂に呼ばれました。
住職は私に北浦さんの戒名を付けるよう言って出て行きました。
「お願いいたします」
菫子さんはか細い声でそう言うと、握りしめていた戦死広報を私に手渡しました。
先程拝見した戦死広報でしたが、よく見るとインクも朱印も所々に水の滲んだ跡がありました。
戒名を付ける。
私には初めての大役でしたが、お二人にしっかりと向き合おうと思い約束しました。
「良いもの考えようと思います」
そう言うと菫子さんは「よろしくお願いいたします」と平伏していました。
私はそのお姿に一途な神々しさを感じて、思わず手を合わせていました。
説法を語るように優しく滑らかな語り口で話した住職は静かに手を合わせた。
まるであの日の菫子が目の前に居るかのように。
「そうすると北浦将吉さんは柘植紡績の従業員だったのですか?」
香織の質問に住職は首を振ると「書生さんでした」と答えた。
「ショセイ」
そう口にする香織に「柘植家に住み込みで働きながら勉学に励む人のことです」と住職は教えてくれた。
「新聞奨学生みたいな?」
香織がそう聞くと苦笑いしながら「まぁイメージとしては」と言った。
「実は私は生前の北浦さんのことはよく存じ上げませんのです。柘植家で女中をしていた方が、当菩提寺の檀家さんなので連絡を取りましょうか?」
香織はその申し出にありがたく頭を下げた。
第二章 菫③
長い冬が明けた。
太陽の匂いをたっぷりと吸い込んだ洗濯物を取り込むのが、一日の数少ない楽しみ。
冷たい水での洗濯は憂鬱な仕事のひとつ。
旦那様は『お湯をつかいなさい』って言ってくれるけど、女中頭のすゑさんがいい顔をしない。
先だって、奥様が『お湯の方が汚れ落ちがいいらしいわ』とお口添えくれたから使えるようになるといいな。
「トミ子さん!」
ぼんやり考え事をしながら取り込んだ洗濯物を抱えていると、後ろから鋭い声が心臓を射抜いた。
本当に心臓が止まるかと思った。
「はい、ごめんなさい」
振り返ると、やはりすゑさんだった。
「シーツの裾を引き摺ってますよ」
ああ、またやってしまった。
ぼんやり屋の私は、しばしば気もそぞろで仕事をしてしまう。
こうしてまた怒られるのだ。
失敗ばかりで憂鬱なことが多いけど、私には楽しみがあった。
それは、だいたい洗濯物を片付けた後の時間。
二階のこのリネン室の窓から、あの二人の様子を眺めること。
背の高い書生の将吉さんと、華奢な菫子お嬢様。
手を繋ぐ訳でもなく、寄り添う訳でもない。
川向うの土手の上。
いつも少し離れた所を歩く二人。
まるで少女画報を読んでいるような気持ちになれて、甘酸っぱいのだ。
将吉さんが両手を頭の後ろに組んで、土手の草むらに寝転んでいたある日...
重たそうな足取りの菫子お嬢様が、遅れてやって来た。
遠目にも、いつもと様子が違うのが分かる。
(どうしたのかしら)
まるで嵐の小夜曲の小夜子のよう。
困難を前に圧倒されながらも立ち向かう小夜子。
菫子お嬢様の姿が重なって見えた。
お嬢様は寝転ぶ将吉さんの隣に腰を下して、何かを話しているようだった。
口が動いているかは分からない。
でも顔が将吉さんの方を向いて、将吉さんもお嬢様の方を向いたから、きっと。
その後、草むらに生える花に手を伸ばしたお嬢様とまた何かお喋りして。
お嬢様はこちらに背を向けるように身体をひねると、将吉さんの顔に覆い被さるよう見えて...
びっくりしてシーツを棚にしまって、そうして階段を駆け下りて逃げてしまった。
絶対に顔が真っ赤だった。
熟れたトマトみたいだったと思う。
顔中熱くてたまらない。
これは絶対に秘密。
私だけの...いえ、私たちの秘密。
その数日後、菫子お嬢様のお見合い相手が決まった。
私はお嬢様の着物の仕立ての手伝いを申し付けられた。
手伝いと言ってもお嬢様に付いて回って、反物を身体に合わせて見せるを繰り返すこと。
「その程度なら出来るでしょ」とすゑさんに嫌味っぽく言われた。
でも、憧れのお嬢様の付き人みたいで悔しさよりも嬉しさの方が大きかった。
「お嬢様、こちらの反物は友禅だそうです」
「どちらの友禅かしら?」
「大谷呉服店の...」と言いかけた私にお嬢様は苦笑いを見せた。
私は苦笑いの意味が分からずに、反物を抱えたまま立ち尽くしてしまった。
「見せてくださる?トミ子さん」
「はっ、はい!」
嬉しかった。
菫子お嬢様の涼やかな声で私の名前が呼ばれた。
私の名前を知っていてくれた。
もう舞い上がる気持ちになってしまった。
私が献上するように反物を差し出すと、お嬢様はそれを手に取り「加賀友禅ね」と小さく言った。
そして意味も分からずに友禅と言った私に、色々と教えてくれた。
「綺麗ね。これにしようかしら」
いくつかの反物を運んで戻して、ふくらはぎに力が込められなくなった頃、ようやく気に入る物が見つかった。
「よくお似合いになると思います」
そう言うと「でも着たくはないのよね」とお嬢様はため息混じりに、私だけに囁いた。
そして驚いた表情の私に唇の形だけ変えて微笑んだ。
それからは、たまに小声で本心を打ち明けてれた。
そんな日はエスの小説を読み返したりして悶絶するものだから、同室の先輩に「うるさい」とよく怒られらりした。
「菫子お嬢様は、お見合いに前向きではないのでしょうか?」
失礼ながらそんな質問をしたのは、反物の生地合わせからひと月ほど経ってから。
呉服屋が仕立てた着物を納めに来るのを翌日に控えた日だった。
「前向きよ、前向きにお断りするの。まだ学校も辞めたくないですもの」
とても素敵な笑顔で言うものだから、お受けするのかと思ってしまったくらい。
そして風のような軽やかな足取りで学校へ向かってしまった。
(そうよね。小説でも結婚の決まったお姉様は辞めていくもの)
柘植家も、それに嫁ぎ先の家だって学校は辞めるように言うに決まっている。
(若奥様で女学生だなんて...吉屋先生書いてくださらないかしら)
またそんなことを考えてニヤけてしまったところをすゑさんに見られてしまった。
(怒られる)
そう思って身構えた私に「トミ子さん、最近の菫子お嬢様に変わった所はありませんか?」とすゑさんは尋ねてきた。
普通に話しかけられたことに唖然としつつも感動を隠しきれなかった私は、いつも以上にぼんやりしてしまって結局怒られてしまった。
「もういいです」
そう言って廊下の奥の方へ行ってしまった。
また失敗だ。
でもどうしてお嬢様の様子を尋ねたのだろう?
お見合いを断るつもりなのが知られてしまったのだろうか?
翌日からお嬢様の登下校に付き添うよう、私は命じられた。
これは旦那様からの直接のご命令だった。
最初、旦那様の書斎に呼び出された時は暇を出されるのかと絶望の縁にあった。
すゑさんが私を心配そうに送るものだから、余計に緊張してしまった。
お嬢様と一緒に歩けることが嬉しくて、相好を崩すことを憚らずにいた。
すゑさんは、そんな私を呆れ顔で見ていた。
お嬢様の付き人という事で、いつもの女中の給仕服ではなく、上等な生地で作られた付き人用の洋服を宛てがわれた。
なんだか私も上等になった気がして、背筋がピンと伸びた。
お嬢様の鞄を両腕に抱えて少し後ろを付いて歩く。
心做しかお嬢様のご機嫌が良くない気がする。
不機嫌とか苛立ちではない。
それは憂いに近いもののように感じた。
お見合いのせいだろうか?
でも、前向きに断ると仰っていた。
......ああ、きっと私だ。
私のせいだ。
お嬢様の心を曇らせているのは私だ。
そう気付いた時には私はボロボロと泣いていた。
お嬢様の涙が真珠なら、私の涙は小石のように、水の中から世界を見るように溢れ流れてもう何も見えなかった。
「トミ子さん!」
堪えきれない嗚咽にお嬢様が気付いてしまった。
「大丈夫?何があったの!?」
お嬢様は私を落ち着かせようと鞄を抱き抱える私ごと包み込むように抱きしめてくれた。
お花のようないい匂いがした。
でもいけない。
私の涙も鼻水も、全部お嬢様のお洋服に付いてしまう。
私は両腕を突っ張ってお嬢様を拒絶した。
「お嬢様、私はぼんやり屋の役たたずです」
私の言葉の真意が分からず、訝しむように私を見た。
「私は今日の帰り道、お嬢様の鞄を忘れて戻ります。半刻ほど...そのくらい遅れて、この連理桜の木まで来ますので待っててください」
私はこの堤防にある、二本の桜が絡み合った桜の木を示して言った。
ひとひら舞った。
それを二人の視線が絡むように行方を追った。
そこでお嬢様は悟ったのか、静かに頷いて「ありがとう」と目を潤ませた。
お嬢様を学校まで送った。
駆け足で戻った。
次の仕事は屋敷に戻っての雑用だ。
その前に足で稼いだ時間を使って将吉さんを探さなくてはいけない。
私は人目を避けて屋敷に戻ると荒い呼吸を整えた。
この時間ならまだ屋敷で仕事をしているはず。
裏口から身をかがめて庭に入った。
庭師の吾平さんが剪定をしている。
気付かれないように更に腰を落として進んだ。
(どこだろう)
数人居る書生さんは、いつも同じ仕事をしているわけではない。
私たちとは少し違う使用人だ。
かがめた姿勢のまま辺りを見回す。
いた!
旦那様の書斎から一礼して出てくる姿が、ガラス越しの廊下に見えた。
私はその背中を追うように、そして吾平さんの視界に入らないように庭を進んだ。
ああダメ、このままでは見失う。
かがんで追う私はどんどん引き離されてしまう。
ついに思い余って小石を投げてしまった。
息を止めて小石の行方を見守る。
コツン。
小石はガラスに当たって乾いた音を立てて落ちた
私は大きく息を吐いた。
将吉さんは振り向いて外を見回している。
私は庭木の茂みから出ないように手をあげると、必死で左右に振った。
将吉さんはようやく私に気付くと一、度頷いて廊下を行ってしまった。
私も再びその後を追った。
角を曲がると庭木も無くなる。
ここはお客様の目に触れない裏口のさらに奥。
資材や道具小屋がある場所だ。
屋敷のこちら側には窓もない徹底した作りだ。
私はようやく窮屈な姿勢から立ち上がれた。
身体中の関節が軋むような感じがした。
でも開放感に浸っている場合じゃない。
将吉さんに会わなくては。
そう駆け出した次の瞬間、すゑさんを見た。
何かを取りに来たのだろう。
すゑさんは道具小屋の入口を覗いていて、こちらには気付いていない。
私は咄嗟に物陰に隠れて様子を窺った。
(そうだ、清明祭だ)
紡績工場の従業員や家族、近隣住民を集めての柘植家主催のお祭りの準備だ。
二十四節気になぞらえて先代社長が考案されたもので、今ではすっかり地元のお祭りに定着していた。
すゑさんは来賓用の椅子やテントの確認に来ているようだった。
遠くに見えた将吉さんもすゑさんの様子を窺ってる。
足音が近付いてきた。
土を踏む音がどんどんこちらへと向かってくる。
その時ようやく気付いた。
今私が隠れている資材は、多分テントだ。
どうしよう、どうしよう。
もう間に合わない。
すゑさんの影が、身を縮ませて固まる私の上に落ちた。
終わった。
私も、お嬢様の恋も将吉さんも...
(ごめんなさい、菫子お嬢様)
目を固く閉じて叱責を待った。
「さーん、すゑさーん」
将吉さんがすゑさんを呼んでいる。
すゑさんは「どうしましたか」と大きな声で返事をすると足早に向かって行った。
私はそれでもまだ、心臓を押さえて動けなかった。
手を離してしまうと、すゑさんにこの鼓動が聞こえてしまうのではないかと思えて仕方なかった。
再び足音が近付いて来た。
でも今度の足音は固い音がする。
靴を履いている人の足音だ。
私は足音の主を、地べたにへたり込んだ姿そのままで待った。
「君は...」
私の格好を見て言葉を切った。
「あ、あの、私腰が抜けてしまって」と言うと笑いもせずに手を引いて立たせてくれた。
「トミ子...さんだね。君は決死の覚悟で何を伝えようとしたんだい?」
そう言うと唇の形を少しだけ変えて笑った。
それはとても優しい微笑みだった。
(ああ、お嬢様とお似合いの美貌)
心臓の音が再び大きくなった。
「あのですね私ですねお嬢様の菫子お嬢様の」
「大丈夫、ゆっくり息を吸って...吐いて..,」
将吉さんの合図に合わせて呼吸整えると気持ちが落ち着いてきた。
「お嬢様の下校の時間に合わせて、連理桜の木の下で待っていてください」
(言えた!)
将吉さんは一瞬驚いて、それから優しい眼差しになって「ありがとう」と私に言った。
夕方。
半刻遅れて連理の桜に向かった。
桜の下に佇むお嬢様は、まるで抜け殻のようだった。
その様子に驚いて何も言えない私に、倒れるようにもたれかかりお嬢様は嗚咽を漏らした。
「お...お嬢様」
「将吉さんが戦争に行ってしまう」
言葉が出なかった。
「お父様の差し金よ」
聞いた事の無いお嬢様の声。
いつもの涼やかで美しい声とは違う。
冷えた抑揚の無い声だった。
そして涙を拭ったその目は冷徹な光を宿し、暗い何かを心に秘めたように見えた。
ほどなくして私は暇を出された。
それは清明祭の翌日のこと。
お嬢様は最後まで私を庇ってくれたけど、決定が覆ることはなかった。
第二章 菫④
「これが私の知っている全てよ」
トミ子さんは矍鑠とした口調で、まるで昨日のことのように話してくれた。
『守ってあげられなくてごめんなさい』
最後はそう言って別れたそうだ。
「でもね、菫子お嬢様は十分に手を尽くしてくれたの。御学友のお家を紹介してくださって、そこで伴侶にも出会えましたし」
そう言って大きな声で笑った。
色々とお話は聞けたけど......
住職とトミ子の話だけではまだ霧は晴れなかった。
香織はとりあえず旧紡績工場を見るべく郷土資料館へ向かった。
良寛寺の近くだったがトミ子の家を訪問したので、調べた道とは違う道となった。
夏草が茂る堤防沿いの道。
護岸工事のされていない土と川と草の匂いは、鮮烈で心地よかった。
「あっ」
堤防の道の脇に煉瓦と柵で囲まれた桜があった。
根元を煉瓦で囲われ、そこの下草は綺麗に手入れされていた。
囲む白く細い柵には[連理桜]とプレートが貼られていた。
「この下で...」
香織は70年前のロマンスを想像した。
叶うことのなかったロマンスを。
満開の桜の下で向かい合うシルエットが、一瞬見えた気がした。
郷土資料館に着いたのは閉館の1時間ほど前だった。
「今からでも回れますか?」
受付でそう尋ねると「よほど熱心に見なければ30分程度で回れますよ」と愛想の良い笑顔で言われた。
入館料200円なら確かにその位の見学時間かもしれない。
「あのう」
香織がもう一度声を掛けると「はい?」と今度は怪訝そうに振り向いた。
「建物の周りとか回れますか?」
「17時までなら大丈夫ですよ。美しい建物ですからね」
再び表情が柔らかくなる。
「写真はいいですか?」
「展示品は撮影NGですが建物の外観でしたら良いですよ」
「ありがとうございます。祖母の実家だったので見せてあげたいんです」
そう言うと「え!?」と目が大きく開かれた。
コロコロと猫の目のように表情が変わる女性だ。
反応がいちいち面白かった。
「柘植さん?」
「母方の祖母なので私は日下と言います」
「日下さんと言いますと日下商事の?」
「ご存知なんですか?でももう倒産してしまいましたけど」
「違いますよ」
受付の女性は香織の言葉を否定した。
「日下孝之助さんは会社を解散したのですよ」
久しぶりに他人から祖父の名前を聞いた気がする。
「バブル崩壊からの業績悪化にご自身の体調もあったので、清算と従業員の再就職の斡旋を済ませて廃業されたんです。採算の取れていた部門は独立させて、そこに流れた従業員も多数居ましたよ」
「お詳しいんですね」
香織が感心すると「日下家は戦後にこの街の経済を牽引した名家ですからね」と教えてくれた。
最初に目にしたのは柘植家の年譜だった。
大方は図書館と同じ年譜で新しい発見は無かった。
展示物には揚羽蝶の家紋が入っている物が多数あった。
(整理したおばあちゃんの荷物にもあったなぁ)
(戦前に映写機がある)
(あっ、ジブリの電話だ)
いくつかは声に出てたかもしれない。
戦前の経済格差、恐るべしだった。
「あれ?」
展示物は柘植家の物のはずなのに寄贈元の多くがワイオーレ財団となっていた。
(あとで聞いてみよう)
香織は先程の気さくな受付の人を思い浮かべていた。
[柘植から日下へ]の記述が順路の最後、受付の手前にあった。
農地改革で柘植家は土地の多くを失い、生糸の先物相場の下落、労働組合の台頭による労働者保護等、戦後の改革はどれも逆風となった。
辛うじて財閥の指定は免れたが、基幹産業や下支えを失った柘植家は斜陽の一途だった。
(うわぁ、私だったら世界が敵って思いそう)
柘植家の血が流れていると思うとなんだか悲しい出来事に思えた。
代わりに戦後成金として揶揄されながらもGHQを相手に堅実な商売をしつつ、裏で闇市の主催を行ったりと如才無く台頭したのが日下家だった。
(闇市...必要悪は分かるけどなんか複雑だわ)
日下姓を名乗る身として肩身の狭いワードだった。
この日下家が柘植家と婚姻関係になる。
市民の間ではこの政略結婚が大きな話題だった。
そうして日下は血統を、柘植家は経済的後ろ盾を得た。
結局は柘植家はその後に破産。
自らの労働において対価を得るという事を、数百年に渡りしてこなった柘植家は時代の大きな変化に付いて行けずに淘汰されてしまった。
(厳しいけれど歴史の必然ね)
香織は小さくため息をついた。
それはまるで鎮魂のような吐息だった。
「あっ」
香織は思わず声をあげた。
おばあちゃんだ。
モノクロの写真の中、角隠しを被ったおばあちゃんが写真の中央に座っている。
知らなければ女優さんかと思うくらい整った顔をしていた。
その隣には当然だがおじいちゃん。
丸っこい身体に丸い顔。
そして黒縁の丸眼鏡。
絵描き歌で描けそうな姿のおじいちゃん。
緊張し過ぎて無表情なのが可愛かった。
小さい頃から「香織ちゃんは、おばあちゃん似だね」と言われて育った。
おじいちゃんには申し訳ないけど、良かったと改めて思った。
順路を巡って受付に戻ると、気さくな女性は接客中だった。
少し離れた場所で待っていると女性は気付いて「どうぞ」と声を掛けてくれた。
「いいんですか?」
香織が尋ねると「友人なんです」とバツの悪そうな顔をした。
「そうだったんですね」と会釈しようと先客見ると、目が合ったところで「あっ」と言った。
図書館司書の大塚だった。
「こちらに足を運んで下さったんですね」
大塚は人懐っこい笑顔で「嬉しいです」と近付いてきた。
「私も祖父母の結婚式の写真が見れて嬉しかったです」
香織も歩み寄って手を差し出した。
「えっ!?」
驚く大塚に「日下香織です。祖母の旧姓は柘植です」と言った。
大塚は握手をしながら友人を見ると、彼女は頷いていた。
「それで日下さん、何かご質問があったのでは?」と聞かれて「あ、いけない」と受付の女性に向き直った。
「ワイオーレ財団からの寄贈が随分多いのですが?」
香織の質問に意外な言葉が帰ってきた。
「あと5分で閉館なので、お時間あれば私達とお茶でもいかがですか?」
「良いですね。日下さん、是非」
大塚も相変わらずの懐っこさで微笑んだ。
「お邪魔でなければ」と香織も微笑み返して頭を下げた。
ドアを開けるとカウベルのカランカランという音が響いた。
「いらっしゃいませ」と静かに、それでいてよく通る声がふたりを迎えた。
大塚は「あとからもう1人来ます」と告げ、空いていた奥のテーブル席に向かった。
郷土資料館から5分ほど歩いた所にある喫茶ボストン。
道すがら大塚は大塚秀美と名乗り、受付の友人は湯浅圭子と教えてくれた。
2人は女子校の同級生で、菫子の遠い後輩になるらしい。
聞けば香織とも年齢が近く、お互いに急に親近感を覚えていた。
カランカラン。
ドアが開いた。
走ってきたのだろう、圭子が息を整えながら店内を見回す。
香織の向かいに座る秀美が大きく手を振り、ちょうど店員も奥の席を促していた。
3人揃った所にケーキセットが運ばれてきた。
本日のケーキにお好みのドリンクが選べるセットだった。
フルーツタルトのセミフレッドが3つ並べられた。
ブルーベリー、ラズベリー、白桃、キウイ。
それらが半解凍のメレンゲと生クリームに包まれていた。
「わぁ」と全員の顔が華やいだ。
ドリンクは香織がアイスティーで秀美がエスプレッソラテ、圭子はアイスカフェオレだった。
圭子は秀美に「よく分かっていらっしゃる」と少しおどけで言った。
ストローを差し入れると重なった氷が崩れる。
涼し気な音がした。
圭子は喉を湿らせてひと心地ついた。
そしてまだ少し上気した頬のまま「ワイオーレ財団のことよね」と香織を見た。
「ワイオーレ財団の運営母体は北翔という総合商社です」
「北翔さんは祖父の会社の取引先でした」
香織が驚いた表情を見せた。
「当時の部長さんがよく祖父とゴルフに行ってたと思います。田所さん...だったかな。私も随分可愛がって貰った記憶がありますよ」
「現在の社長が田所さんですね」
圭子はそう教えてくれた。
「では田所さんが、祖母の実家のものを買い戻して寄贈したのですか?」
「うーん、多分違うと思います。『もっと上の指示がね』って前に言っていたので」
「会長さん...とか」
「ああ、あるかもしれませんね。柘植家ゆかりの人が恩返しにとか」
圭子がそう言ったところに「国井義光会長」とスマホを手にした秀美が教えてくれた。
香織はその名前をメモすると(これはおばあちゃんに聞くしかないな)と思った。
一応検索エンジンに国井義光と入れると4件ヒットして、条件を絞ると国井義光(北翔会長)と1件が残った。
しかしその経歴は柘植とは一切関わりの無いもので、香織は混乱してしまった。
(もっと上って?)
「進みかけて振り出しって感じ?」
秀美が心配そうに聞いた。
「田所さんにアポとってみようかな」
「いやいや無理でしょ!」
香織の呟きにふたりの驚きが重なった。
「香織さん、いくら子供時代に面識があっても...」
圭子が改めて諌めた。
「逆にお祖父様の部下の方をあたってみたらどうかしら?きちんと清算して解散した会社ですもの、恨みに思っている人は少ないと思うの」
更に圭子から提案が出された。
これには香織も大きく頷いて納得した。
「美味しい!!」
不意に響いた感嘆に香織と圭子がビクリと身体を震わせた。
見ると秀美がフォークを咥えたまま、左手で頬を押さえている。
セミフレッドがふたつ、手付かずのまま汗をかいていた。
第二章 菫⑤
「おばあちゃん」
少し鼻にかかった柔らかい声。
香織がおばあちゃんと呼ぶ時のイントネーションはいつも甘えた風だ。
それはきっと言葉を喋るようになってからずっと、呼吸のように身に付いた撥音。
「荷造りありがとうね」
その言葉に後ろめたい気持ちが湧き上がってくる。
(ごめんなさい、ママがしてます)
「あのね、おばあちゃん」
香織はもう一度。
隣に座って少しトーンを落として。
深く息を吸ってゆっくりと吐く。
その勢いに乗せるように言った。
「北浦将吉さんって、おばあちゃんの大切な想い出?」
大切な人と聞かなかったのは無意識の防衛反応と配慮だった。
菫子は窓の外、遠くに視線を遣った。
そして隣で緊張する孫娘に視線を戻すと口を開いた。
記憶の糸を紡ぐように。
お父様から頂いた英国製の自転車が嬉しくて、つい夢中になって漕いでしまったの。
気付いた時には坂を下っていて、どんどん早くなってしまって。
ごうごうと風を切る音が、怖くて痛くて。
もう、ブレーキを掛けることも出来なくなってしまった。
そうしているうちに道路がカーブしていて、私は自転車と一緒に宙を舞ったわ。
あまりのことに声も出なかった。
私は空高く放り投げられて、下には側溝に落ちていく自転車が小さく見えたの。
その後は回転しながら落ちて行って、途中に使用人達が何人も追い掛けているのが見えて...私、死ぬんだって思ったの。
きっと一瞬だったの。
でも落ちるのは随分と時間が長く感じたのよ。
空を飛ぶ鳥でさえゆっくりと見えるくらい。
そうしたら、ボスッという音と柔らかい衝撃。
ザザーッという音がして、あちこちが擦れてチクチクして。
私は畑に作ってあった藁の山に落ちたのね。
収穫後の畑に規則正しく並べて積み上げられた藁の山。
そうしたらすぐに「お嬢様、菫子お嬢様!!」という呼び声が遠く、くぐもって聞こえて...
人の声に安心した私は意識がだんだんと遠くなっていったわ。
そうして目の前がスーッと暗くなっていったの。
気を失っていたのは、多分ほんの短い時間。
目を開けた私は抱き抱えられていたの。
その人は全身藁まみれで、私を何度も呼んだのでしょうね。
口の端から藁が出ていて、顔中傷だらけだったの。
私は傷ひとつ無かったのに。
心配そうに私を呼ぶ、その人の汚れてしまった顔。
その奥に、高く澄んだ秋の空。
私の意識は空に吸い込まれるように再び遠く消えていったの。
耳には大きな声で「菫子お嬢様!!」と何度も叫ぶ声が残ったけど嫌じゃなかった。
それが北浦将吉さんとの最初だったわ。
将吉さんは関東大震災で孤児になったそうなの。
1年くらい親戚をたらい回しにされて、最後は柘植家に奉公に出されてきたの。
奉公と言っても当時は5歳くらい。
とてもじゃないけど何かが出来る年齢ではなかったの。
でも、私がその震災の年に生まれた。
最初に話を持ちかけられたお母様は、赤ちゃんだった私と将吉さん重ねてとても胸を痛められたの。
お父様も将吉さんを迎えることをすぐにお許しくださったわ。
そうして将吉さんは柘植家の使用人になったの。
もちろん最初はほんのお手伝い程度で、学校にも行って。
そうして将吉さんの、尋常小学校最後の年の秋。
私が飛んだ秋、彼の人生が変わったの。
傷ひとつ無かった私と傷だらけの将吉さん。
お父様は何度も「ありがとう」と言った後、将吉さんの手を握ってこう言ったの。
「なんでも望むものを言いなさい」って。
そうしたら将吉さんは「勉強がしたいです」って間髪入れずに答えたの。
私は将吉さんとは違う学校に通っていたから知らなかったのだけれど、とても成績が優秀だったみたい。
それでお父様も書生として扱うことで望みに応えたの。
でもお父様、随分と驚いたみたい。
あとで言っていたもの。
「報奨金の類を言ってくるものと思っていた」って。
昭和17年。
私が高等女学院の二年生の頃、大学に進んだ将吉さんは三年生だったわ。
この頃の日本はアメリカとの戦争が激化していて、学徒動員と言って大学生も戦地に送られる時代。
ただ医療の勉強をしている将吉さんは、まだ徴兵が猶予されていたの。
私たちは帰り道、時間が合えば一緒に堤防を歩いて帰ったの。
ううん、本当はあの堤防の連理桜の下で将吉さんを待っていた。
偶然なんて、作らなければ起きない奇跡よ。
帰り道、他愛のないお喋りをしながら歩くだけの奇跡。
夕暮れ、眩しい横顔を見ながら。
でもそんなささやかな日々も、終わる日が来る。
唐突に。
お父様のお仕事のお相手のご紹介。
男爵家のご長男で、いずれ家督を継ぐ方。
ひと回りも歳上のお見合い相手は、額装された写真の中で肥大した身体の上で澄まし顔を作っていた。
柘植家の女として生まれたからには政略結婚の姫としての心構えは持っていた。
抱いた恋心が叶うことも、望んだ愛が実ることも無いと知っていた。
そしてそれが今では無いことも。
翌日は憂鬱だった。
学友が結婚を理由に退校した。
それが昨日のお見合い写真と重なって気分が重たい。
それが帰り道の足取りにも影を落としたみたい。
連理桜の下、将吉さんが先に着いて寝転んでいた。
私は隣に座って川面を見ていたの。
ずっと押し黙ったまま。
流れゆく水を、目で追うこともなく。
将吉さんはそんな私に何を言うでもなく、ただ無言でいてくれた。
千の言葉を尽くされるよりずっと真心を感じたわ。
どれくらい経ったのかしら。
きっと私の方が無言に耐えられなくなったのね。
「お見合いが決まったの」
そう言って将吉さんを見たのよ。
そして傍らに咲いていた菫に触れて「この菫は私ね。いつか花を散らして枯れてしまうの」と嘆いたの。
「花は......」
将吉さんは身体を少し起こして言葉を切ったの。
そして私の目を見詰めて「花は散るその瞬間も花なのですよ」と優しく微笑んだ。
ずっと抱いていた憧れが形を変えた瞬間だった。
胸の奥がトクンと鳴ったの。
そして締め付けられるような痛み。
少女の時間の終わりを感じたわ。
そして彼の瞳に吸い込まれるように自然に顔を寄せたの。
でもやっぱり将吉さんは大人で、私は子供だった。
将吉さんは私の頭をそっと撫でて「お嬢様」と言ったの。
私の自尊心とお父様への義理の両方を守ったのね。
翌月のお見合いは予想通りのつまらないものだったわ。
もちろんお断りして頂いたの。
うんと昔に白蓮事件なんてものもあったけれども、女性の自立なんてまだまだ考えられない時代。
自由には出来ない。
でも輿入は、今この相手では無いと思ったの。
自惚れとかではないわ。
いつか望まぬ相手に嫁ぐのなら、それは柘植家の大事の時と思ったの。
そして将吉さんが出征していったの。
私の破談と引き換えのように。
私が知ったのは......知らされたのは、既に発った後だったわ。
特例の適用が廃止されたの。
お父様は......ううん、お父様も将吉さんのことは好きだったのね。
ズルい話だと思うかもしれない。
賄賂のようなお金を渡して、後方勤務となるように手を尽くしたみたい。
もしかすると、男爵家とのお見合いも助力を得るためだったのかもしれない。
思えば随分急いでいたから。
やっぱり私は子供だったのね。
将吉さんの居ない部屋で、残り香に面影を浮かべて泣くだけの毎日だったわ。
残していった本。
折り曲げた頁の端に、声を想い読み返したわ。
ノートの文字に姿を。
せめて戦地からの手紙をと、毎日ポストを何度も開けたの。
そうしてようやく届いた手紙は、彼の死を告げるものだったの。
「おばあちゃん、ごめんなさい。もうやめて......もういいの、もういいの」
香織は菫子の手に右手を重ね、左腕で縋るように抱きつくと、彼女の独白を制した。
菫子に刻まれた皺を撫でるように雫が零れていた。
(なんてことをさせたのだろう)
後悔の念に責め立てられる香織の頭を、少し固くなった指先が撫でた。
優しい優しい指先が、その人生の全てで包むように香織を撫でていた。
第二章 菫⑥
雨音に紛れてスマホの着信音が鳴った。
休日のまだ眠っていたい時間。
ベッドの中から手だけを伸ばして探り当てた。
「はい」
気だるい声で番号も見ずに出た。
「なんだ寝てたのか、香織」
叔父の秀一が電話の向こうで呆れ声を出した。
そして「例の件、会ってくれるそうだ」と言った。
秀一は父親のかつての部下に、約束を取り付けてくれていた。
「ありがとう、おじさん!」
目が覚めたように声が弾んだ。
「そう思うなら早く仲人をさせろ」
秀一はそう言って笑った。
面会場所は都内のホテルのラウンジだった。
歴史ある屈指の名門ホテル。
初めて訪れた香織は、いささか緊張気味に周囲を見回す。
古いがよく磨かれた調度品。
意匠を凝らした柱や壁。
先日見学した歴史資料館と柘植家の展示品を思い出させた。
ロビー入口から見てすぐの場所にラウンジがあった。
一歩踏み入れると芸術的な壁面に圧倒されそうになった。
思わず見惚れているところに、柔和な表情の男性が近付いて来た。
「いやぁ、奥様の若い頃にそっくりです」
彼はそう感慨深げにいうと「さぁ、こちらへ」と席へ案内した。
席にはもう一人、菫子と同じくらいの年嵩の男性が車椅子で待っていた。
「四宮と申します」
男性は改めて会釈をすると名刺を差し出した。
名刺には㈱四宮商事代表取締役社長とあった。
「私は竹田です。昔は柘植家で下働きをしておりました」
車椅子の老人は、かすれたような声で名乗ると香織を見上げた。
香織は「日下香織です。本日はありがとうございます」と腰を折るように頭を下げた。
そして竹田の前に屈むと、手を取ってもう一度「ありがとうございます」と言った。
竹田は目を細めると「血ですかね」と懐かしそうに香織を見た。
香織は、その眼差しを推し量るように見返した。
「菫子お嬢様も私たちに優しくしてくださいました」と竹田は嬉しそうに、過去を思い出すように言った。
「竹田さんは柘植家の次は日下商事に雇われて、日下商事解散後は弊社にて、定年までご尽力頂きました」
四宮から紹介に「祖母の人生を知る生き証人なんですね!」と香織は思わず興奮して言ってしまい、慌てて非礼を詫びた。
絵付の無い白磁に波のような紋様が美しい、小ぶりの上品なカップが運ばれた。
湯気に纏わせた芳醇な珈琲の香りが立ちのぼる。
「実は北浦将吉さんとワイオーレ財団について調べています」
香織は魅惑的な珈琲には手を付けず、単刀直入に言った。
「ああ、ワイオーレ財団は北翔さんが運営する組織ですね。福祉や文化遺産や歴史遺産の保全、保管が目的と聞いています」
四宮はごく一般的な回答をした。
取り引き先の別組織への知識としてはそれで十分だろう。
「はい。その財団が、主に柘植家を保全していることが不思議なのです」
「そうなのですか?あれですかね…日下商事時代からのお付き合いですから、奥様のご実家に興味を持たれたとか」
そう言いながらも、四宮自身も自分の言葉に納得していない様子だった。
「私、知らなかったので調べたんです。ワイオーレの意味を…」
一瞬の沈黙の後。
「すみれ」と続いた言葉に、四宮と竹田は驚いた表情を見せた。
「偶然ではなさそうですね」
各々口にすると竹田は黙り込み、四宮は何か思案する様子だった。
「あのですね」
四宮はかつての日下商事での腑に落ちない出来事を語った。
日下商事の経営は順風満帆というものではなかったそうだ。
深刻な経営不振からの倒産危機を迎える度に、突然の大型案件の受注や不採算部門の高額買収などがあって難局を乗り越えたことがあったと教えてくれた。
「そして全て単発なんですよ。普通はそこからお得意先になってくださったりするものなのですが......無いんです。その先が」
四宮は今、不思議というより恐怖を覚えた。
「菫子お嬢様はお元気ですか?」
口を噤んでしまった四宮の隣で、竹田が沈黙に支配されそうな空気を払った。
「実は足を悪くして祖母も車椅子なんです」
「そうでしたか。それはお嬢様もご家族も大変ですね」
竹田は自らの境遇に重ねて香織を労った。
「でも来週から施設に入居出来るので今は荷造りの最中なんですよ」
香織がそう言うと「よく見つかりましたね」と竹田は驚いた声を上げた。
今は公営も民間も見つからないらしい。
余程の高級介護施設でもない限り順番待ちだそうだ。
「そうなんですか。まるで奇跡......」
そこまで言って香織は言葉を止めた。
そうしてスマホをバッグから取り出すと、LINEを1件送ってテーブルの上に置いた。
そしてカップに手を付け琥珀の液体が揺れた瞬間に、ピンとスマホが鳴った。
珈琲の香りが舌から鼻腔に抜けるのをゆっくりと楽しんだ後で、スマホを手にした。
それはもう既に何かを確信しているように。
「祖母の入居先は、サービス付き介護施設さくら」
読み上げたのは、どこにでもありそうな施設の名前だ。
「四宮さん」
香織は竹田ではなく四宮の名を呼んだ。
「運営はワイオーレ財団です」
四宮は何か恐ろしいものでも見たような顔をしていた。
逆に香織はとても悲しげで、それでいながら何か暖かいものに触れたような表情を浮かべてこう言った。
「北浦将吉さんは生きていると思います」
香織は深く息を吸った。
そして吐ききるまでの数秒。
竹田の目を見詰めて「そうですね」と静かに言った。
竹田は頷くでもなく、ふっと表情を緩めた。
戦争が終わった。
もう夜中のサイレンに飛び起きることも、プロペラの轟音に怯えることもない。
敗戦の悲しみは何も感じなかった。
生き延びた安堵と明日からの不安だけがあった。
竹田は事故で欠損した指先を陽にかざしてそう思った。
GHQの布告によって柘植家は多くの農地を失った。
竹田も独立すべきか随分と悩んだが、結局は柘植家で主人を支えようと決めた。
菫子はあの日以来部屋を出ていなかった。
位牌を抱いて戻った日。
人形のように美しい菫子は表情を喪い、本物の人形のようだった。
柘植も憔悴しきっていた。
菫子のこともそうだが、安全と思い送り出した戦地だった。
後にインパールの実態が明らかになるにつれて柘植は心を病んでいった。
そして戦後の民主主義の風は、容赦なく柘植家を斜陽へと追い込んでいった。
柘植家が朽ちてゆく。
その様と引き換えのように、この頃の菫子は外へ出るようになった。
あれほど嫌っていた社交界の場に、だ。
菫子の評判は年頃の男子を持つ家や、年頃を過ぎた独身の資産家の間に瞬く間に広まっていった、
そして菫子を日下が見初めた。
多額の支度金と援助を提示された柘植だった。
しかし日下の申し出に首を横に振るばかり。
柘植は北浦と菫子を離したかっただけだった。
死なせるつもりは毛頭無かった。
激しい後悔と自責の念は、家の救済も再興も拒むものとなった。
そんなある日、幾度目かの日下の訪問の日。
拒む柘植と懇願する日下のいつもの光景。
そこに菫子が現れて求婚を受け入れた。
誰しもが驚いていた。
日下自身も。
これは菫子の自殺。
もしくは自傷行為だったのだろう。
北浦の居ない世界にひとり。
1億の中の孤独。
腕に抱いた位牌だけが唯一の温もりと。
結婚式は実に質素なものだった。
かつての名家とは思えない程の。
その頃の柘植家は柘植夫妻と使用人の竹田のみだった。
日下の援助により柘植家は生活に苦労しない程度には持ち直していた。
順調に思えていた。
あの日まで。
菫子の二人目の妊娠が分かった日。
吉報とともに北浦が現れた。
ボロきれのような軍服姿で柘植の前に現れた。
柘植は喜びと困惑でどうしていいか分からない様子だった。
北浦の補給部隊は飢えと細菌性の病により壊滅した。
ただ一度の発砲も無く、見えない敵にひとり、またひとりと倒れていった。
北浦も例外なく飢えと病の中にいた。
先に逝った戦友の白骨が転がる中、蒸し暑い原生林に崩れるように倒れた。
倒れても何度も立ち上がり本隊への合流を試みた。
しかし遂には意識を失い死体のように転がってしまった。
北浦は軍用品を拾い集めていた現地民に助けられて一命を取り留めた。
だが、北浦の消息は戦死と認定されて国内通達されてしまった。
あのインパール作戦は全てにおいて杜撰だった。
生死の判別においても。
全国で同様のことが起きていた。
北浦は柘植に恨み言を言うでもなく、ただ純粋に柘植家の力になろうと戻ってきた。
そして菫子の結婚を知って尚、柘植家への恩義が変わることは無いと言った。
そして菫子の前に名乗り出ることも無いと。
翌日、竹田は多額の金と共に暇を出された。
正確には日下の会社に就職を斡旋された。
妻も実家に戻され、その数日後に柘植は死んだ。
屋敷の一部が焼け落ち、書斎から遺書がみつかった。
竹田はあれきり北浦と会うことは無かった。
ふたりに謝意を述べ見送った。
香織は北浦が高齢となった今も生きていると確信した。
そして北浦がいる場所も分かるような気がした。
会おう。
北浦将吉に会おう。
もう香織の心に、迷いという得体の知れないものは無かった。
雨はもう上がっていた。
第二章 菫⑦
菫子の入所日になった。
今日の午後、菫子は『さくら』の戸をくぐる。
香織はその前にどうしても会いたかった。
まるで自分が菫子になったかのように、北浦将吉に会いたかった。
約束はすんなり取り付けられた。
午前9時から2時間。
入口で、深く深く息を吸った。
目の前の5階建てのビルの看板を見上げた。
『介護付き高齢者入居施設 さくら』
その下には、連理桜を模した円のロゴが柔らかな陽光を受けていた。
インターフォンを押すと職員の女性が応対してくれた。
香織はロビーの一角に案内されると席について北浦を待った。
吹き抜けのロビーは多くの光が降り注ぐような作りだった。
暖かくそれでいて眩しくない柔らかな陽射し。
まるで木漏れ日の下にいるような、懐かしい錯覚を覚えた。
北浦は、あの連理桜の下で過ごした日々を今も忘れられないのかもしれない。
香織はそう思った瞬間、彼という人間の輪郭が少し見えた気がした。
「お待たせしました」
グレーがかった髪に整った目鼻立ち。
人目を引く端正な容姿。
だがその肌に刻まれた深い皺は、彼の平坦ではなかった人生を雄弁に物語っていた。
そして柔和な瞳で香織を見詰める。
祖母の記憶を生きる老紳士が、目の前に立っていた。
「日下香織です。本日はありがとうございます」
立ち上がった香織に「似ていますね」老紳士は静かに言った。
「北浦将吉です」
そう言って差し出された右手を香織は握った。
乾いた、そして少し低めの体温を感じた。
どの指からも、手のひらからも硬くなった皮膚の感触があった。
(この人は今も、こうして生きているのね)
働く人の手を香織は感じた。
「教えてください、貴方の人生を」
香織は自らの言葉に少し驚いていた。
もっと違うことを聞くつもりだった。
でもこの人の手を握った時、北浦将吉を知りたいと思ってしまった。
「菫子お嬢様はどうなさっていますか」
北浦も北浦が一番知りたい質問をした。
『お嬢様は幸せでしたか』ではない。
それを問う残酷さは全てに向けられるものだと、北浦は知っていた。
だからこそ老人は今を尋ねた。
だが香織はそれには答えなかった。
あと数刻で北浦の質問の答えは叶う。
ふたりの歳月を香織の言葉で汲むことは出来ないと思った。
北浦はじっと香織を見詰めていた。
そして沈黙はやがて、ふたりの間を繋ぐ橋となった。
北浦は静かに目尻に皺を寄せ、頷いた。
光の中で、その頷きだけが穏やかに揺れていた。
作戦の失敗は明らかだった。
雨季に入り氾濫した河川は物資を飲み込み部隊を寸断した。
(ここで死ぬのか)
飢えと赤痢で意識が混濁する。
同じ幹に身体を預けている戦友は、もう数日声もなかった。
砲声も怒号も無い。
最前線から離れた場所で静かに朽ちる。
最悪な運命だが、誰かの命を奪うことなく死ねるならそれは有り難くもあると思った。
ただ、旦那様の計らいでの補給部隊への配属。
ご厚意を無駄にするようで申し訳なかった。
ふと視線を落とした北浦の口許から笑みが零れた。
(こんな時にまで何を考えているのか)
視線の先には一輪の菫があった。
「菫子さん......」
あの日言えなかった言葉が口をついた。
(生きて菫子さんに会う)
北浦はよろめきながら立ち上がった。
部隊がどこへ向かったのかすら分からなかった。
だが北浦は午後の太陽を背に歩き出した。
一歩でも日本に、一歩でも菫子に近付きたかった。
目覚めると、粗末な竹小屋にいた。
北浦はイギリス軍に再占領されたビルマを辛うじて抜け、タイの国境近くで倒れたところを現地の老夫婦に助けられていた。
しばらくは言葉も通じぬまま、木陰に咲く菫を眺めて過ごした。
視線の行方に気付いた老婆は「ワイオーレ」と言って北浦の枕元に菫を飾った。
症状も快方に向かい、北浦は老夫婦の農作業や力仕事を手伝うようになっていた。
カタコトと身振りで意志の疎通が出来るようになったある日、老夫婦が告げた事実は北浦を打ちのめした。
日本が戦争に負けた。
それは数ヶ月も前のことだった。
北浦は突如揺り起こされた。
老夫婦だった。
曰くバンコクから引き上げ船が出ているという。
彼らは夜のうちに北浦を牛車に乗せ、闇の道を進んだ。
竹林を抜け、湿った土を踏む音だけが響いていた。
老夫婦は一言も発さなかった。
ただ、老婆が北浦の手に何かを渡した。
それは老夫婦に拾われた日に着ていた軍服だった。
今、北浦を日本人だと証明するのは、ボロ切れのようなこの軍服だった。
船が見えたのは夜明け前。
「行け」と老人は笑った。
北浦は何度も頭を下げ、甲板へと駆け上がった。
波間に浮かぶ国の名を、涙で滲む視界に思い描いた。
(帰る。あの人のもとへ)
船は香港経由で大阪に入った。
戦争が終わって、既に三年の月日が流れていた。
「菫子は嫁いだよ」
力無く言った柘植の言葉は、北浦の心を砕くに十分だった。
それは自身の戦死認定よりも強い衝撃だった。
「全て私の過ちだった」
柘植が続けたこの悔恨が北浦を支えた。
「柘植家の繁栄という打算が菫子の心を殺し、君の人生を奪い、君たちの未来を潰してしまった。私は愚かな父親だった」
(この方はやはり私がお仕えすべき方だ)
「旦那様、私は柘植家に命を拾われました。これからも柘植家に尽くす機会をお与え下さい。そして菫子お嬢様には私は戦死したままに......」
北浦はそう言って深く頭を下げた。
お嬢様が柘植家の為に嫁いだのならば、私も柘植家の為に影となろう。
そう心に誓いながら。
下がる北浦に何か言いたげな竹田がいた。
北浦は竹田の肩に手を置くと、小さく頷いて去って行った。
翌日、竹田は柘植に呼び出され書斎を訪れた。
柘植は厚みのある封筒を差し出すと「竹田君、長い間ありがとう。君さえ良ければだが紹介状を同封してある」と言った。
「旦那様」
「日下君の会社だ。きっと良くしてくれるよ」
そう言ってもう一度「ありがとう」と手を差し出した。
竹田はこの時の柘植の手の暖かさを生涯忘れまいと思った。
北浦が柘植家を再訪したのはその数時間後だった。
柘植は北浦の復職を頑なに認めなかった。
そして述懐した。
「君の戦死の報せを受けた菫子は錯乱して手の付けようがなかったよ。そして数日の間、何も食べずに部屋に籠りきりになった。ある日やっと出て来た菫子は、頬はこけ落ち目は虚ろでどこを見ているのか分からないものだった」
「お嬢様......」
北浦は唾を飲んだ。
「そして目を離した隙に、君の戦死広報を手にしたままフラフラと出ていってしまった。最悪の事態を想像したよ。使用人全てと警官を使って川や空き家を捜索させた。もちろん私も加わって探した。どこにも見当たらないまま夕刻をむかえた」
柘植はそう言うと戸棚から新しいブランデーを取り出し開けた。
北浦の前にも注がれたグラスが置かれた。
柘植はひと口喉を潤すと続けた。
「陽が沈む頃、菫子が戻ってきた。安堵して迎えた菫子の右手には君の戒名が書かれた位牌があった。それからの菫子は、位牌を抱いたまま毎日を過ごすようになった。取り上げようとすれば暴れて手が付けられなかった」
これ以上は耳を塞ぎたかった。
菫子の痛みが千のナイフのように北浦の心を切りつけるようだった。
「終戦を迎えたある日だった。菫子が社交界に顔を出し始めた。その様子に私も使用人たちも皆で胸を撫で下ろしていた。しばらくすると菫子を見初めた御仁達が我が家を訪れ、結婚の許可を得にやってくるようになった。一度で諦める者、何度も訪れる者と様々だった。私はその全てを断り続けた。君と娘の為に」
柘植はそこで言葉を切った。
書斎に沈黙の幕が降りる。
これがシェイクスピアの戯曲ならクライマックスへ向けての期待に満たされるだろう。
だが柘植はリア王でもマクベスでもない。
ここには何にも抗う術を持たない、ただの人間しかいなかった。
もっとも二人とも運命を退けることは叶わなかったが。
「だがある日のことだった。求婚者の前に菫子が姿を現し結婚を承諾した。その時の私には目の前にいるのが娘には見えなかった。私の知る菫子ではなかった。その真意を知るまでは......」
柘植はブランデーを煽るように飲み干すとグラスを置いた。
「あれは娘なりの後追いだったのだな、ひと回りも離れた男に嫁いだのは。そして潤沢な援助と支度金で斜陽にあった柘植家は持ち直す。そして菫子は私に娘を殺して売った男のレッテルを貼ったのだよ!」
そう言って力無く柘植は笑った。
「それは考えすぎです、旦那様」
北浦があまりに酷いその思い込みを否定したが、柘植は頭を振って聞かなかった。
「いや、いいんだ。家の存続も繁栄も、それは娘の幸せの先にあることに気付かなかった私が愚かだった」
そして最後に柘植はこう言った。
「私はこれから君の忠義と善意、そして娘への好意につけ込む。これが最低の父親が娘にしてやれる最後で全てだ」
「それから三日後でした。奥様と離縁した旦那様が自ら彼岸へ発たれたのは」
静かに語る北浦の様子を香織は身じろぎもせずに聞いていた。
トミ子、住職、祖母、竹田。
それぞれから語られたふたりの人生が、北浦の語りで絡み合い、まるで連理の枝のように紡がれていった。
「曽祖父は貴方に何を背負わせたのでしょうか?」
香織は最後のピースをはめる質問を投げかけた。
連理桜の下に咲く花。
未完の絵を描く一片を。
鬱陶しい雨が続いていた。
もう数日、髭も剃っていない。
柘植は死に、菫子は嫁いだ。
北浦の心は行く先を失い、虚空を彷徨うだけだった。
四畳半の壁に背中を預け、ただ言葉もなく。
(あのまま戦友と共に朽ちていれば)
そんな何度目かの思いが浮かんだ時、薄いドアが叩かれた。
鬱陶しい...
現実の音は全て鬱陶しい。
ドンドン。
叩かれる度にドアも部屋も軋む。
ささくれをめくるような不快感に耐えかねてドアを開いた。
そこにはこうもり傘の下で上等な仕立てのスーツの肩を僅かに濡らした男が、柔和な表情で立っていた。
「北浦将吉様でいらっしゃいますね」
柔和な表情を崩さずに男は言った。
「誰だ、アンタ」
そんな言葉は人生で初めて使った。
北浦自身、自分の中にそんな言葉を吐く自分がいることに少し驚いていた。
「失礼しました」
男は畏まって言うと左手に傘、左脇に鞄を挟むと名刺を取り出し「片手で失礼します」と差し出した。
【太田弁護士事務所 弁護士 太田秀俊】
「旦那様......」
北浦は名刺を見詰めてそう呟いた。
後日、北浦は太田の元へ向かった。
薄汚れたランニングシャツにあの風体では外出もままならず、四畳半の湿気った部屋に招く訳にもいかなかった結果だ。
新宿区角筈......改めて名刺を見ると馴染みの無い地名だった。
戦前は旦那様の使いや大学の講義の都合で帝都には度々来ていたので知らない土地ではない。
とりあえず新宿駅まで行って街ゆく人を呼び止めると呆れた顔で「新宿駅で新宿区はどこだって、お前さん」と言われた。
そこまで言って彼は「ああ、復員兵か」と途端に「苦労したね」と優しくなった。
彼は戦後数年して淀橋区が他区と合併して新宿区になったと教えてくれた。
「昔の淀橋区角筈に向かうといいよ」
そう言って人混みに消えて行った。
ようやく見つけた太田の事務所は四階建ての立派なビルディングの中にあった。
「これは眺めの良い事務所ですね」
応接室の窓からの眺望は、いつまでも見ていられる程だった。
「ありがとうございます」
そう言って太田は自らお茶を運んでテーブルにふたつ置いた。
「ひとりでやってるもので」
苦笑いを見せ席に着くと「こちらを」とお茶をよけてアタッシェケースを置いた。
「これは!」
よく見るとそれは柘植のものだった。
「分かりますか」
「もちろんです。旦那様のお供で出掛けた時などは私が運んだのですから」
まだ小さい時分の私が抱えて歩くのを微笑ましそうに見てくれていた柘植の姿を、身長が並ぶ頃には片手に持って半歩後ろから見た柘植の横顔をありありと思い出した。
アタッシェケースの中にはそんな思い出とは真逆の現実があった。
遺言書と鍵だった。
最後の使用人だった竹田へは十分な支度金を与えたこと。
実家へ戻した奥様へは現金や証券で半分の財産を渡したこと。
そして北浦へは残りの現金や証券と土地建物を引き渡すと書かれていた。
鍵は貸金庫のもので権利書の類があると記されていた。
『忠義と善意、そして好意につけ込む』
柘植の言葉が脳裏に声を伴って浮かんだ。
「わかりました」
北浦の呟きは太田に向けたものではなかったが「では署名捺印を」と書類をいくつかテーブルに広げた。
香織の前に革のアタッシェケースが置かれた。
元の色はタンだったのだろうか。
古いがよく手入れされていて琥珀に色を変えていた。
まるで時を閉じ込めたように。
「もう中には何もありませんが、曾お祖父様のものです。貴女にお返しします」
香織は革を指先で辿り撫でるように触れた。
そして「中には貴方の人生と曽祖父の願いが詰まっているのでしょう」とそっと押し戻した。
押し戻されたアタッシェケースに視線を落とした北浦は「貴女のお爺様はとても素晴らしい方でした」と言った。
「彼は自分が愛されて選ばれたわけでは無いと知りながら、それでも誠実に菫子お嬢様を愛し慈しみました」
北浦は少し胸の痛みを覚えながら青春の思い出を語るように話した。
「もうご存じだと思います。私は旦那様の資金を元に事業を起こしました。タイで私を助けてくれた老夫婦のツテを使い、東南アジアからの商材の輸入と輸出。復興やオリンピックへ向けて好調だった建築業。これらを軸に始めました」
「それが北翔なのですね」
香織の言葉に北浦は頷いた。
「高度経済成長が続く中、我々はオイルショックの冷水を浴びせられました。その時に日下商事の事業が大きく傾きました。私は忠義と善意と好意につけ込まれることを決めました。私は財団を立ち上て北照から退きました」
「名前が出ないように?」
「はい。そして日下商事にいくつかのペーパーカンパニーで発注をして支えました。並行して北翔に縁もゆかりも無い男を会長に据えました。香織さんのような名探偵を躱すためにね」
突然茶目っ気のある笑顔を見せるものだから、香織はつい笑ってしまった。
これが北浦という男の懐の深さなのだろう。
北浦は咳払いをひとつすると少し冷めたお茶で喉を潤した。
そして再び口を開いた。
「財団ではお嬢様と柘植家の歴史の保全を始めました。それがワイオーレ財団で、今日に至ります」
「でもなぜ北浦さんが人生の全てを掛けておばあちゃんの為に尽くしたのか、私には理解できないです」
香織はごく当たり前の疑問を投げ掛けた。
「先程申し上げた通りです。貴女のお祖父様が素晴らしい方だったから、私は影になりました。日下さんは一途に愛し尽くしました。彼ほど誠実な人は珍しいでしょうね。ある時の彼は、お嬢様の生家を買い戻そうと動いていました。旦那様と奥様、そしてお嬢様の思い出の詰まった場所が人手にあるのが我慢ならなかったのだと思います。でもそれは突然の不況に会社が耐えられない結果を招きました。そこで私はあのお屋敷を帯壁町に寄付したのです」
「それで祖父は諦めたのですね」
「はい。彼の一途さは時に危うく、でもそれは私にとって眩しいものでした」
北浦はかつて菫子の気持ちに真っ直ぐ応えられなかった自分を重ねて、そう言った。
「でもね、香織さん」
北浦は香織の目を真っ直ぐに見て名前を呼んだ。
「菫子さんに愛が無かったのはきっと初めだけですよ。日下さんの献身は菫子さんの心を開かせて未来へ歩ませるに十分だったと思います。そうでなければ日下さんと添い遂げることも無かったと思います。それに何より、香織さんのような素敵なお孫さんが育つこともね」
真剣な眼差しで、そして最後だけ悪戯な少年の照れ笑いのような顔を見せた。
その日の午後、香織の運転する軽自動車が菫子を乗せて【さくら】に着いた。
スライドドアを開けた後部座席の横に車椅子を置いた。
父親と二人がかりで苦戦していると施設から北浦が出てきた。
「手伝いますよ」
北浦は菫子に「ドアのポケット掴んで」とか「片足ずつ地面におろして」とかアドバイスをしてほぼ身体に触れることなく移乗を終えてしまった。
祖母は何度も小さく頭を下げて「ありがとうございます。すっかり身体も言う事を聞かなくなって」とぶつぶつ呟くように言った。
「大丈夫ですよ、菫子さん。花は散るその瞬間までも花なのです」
北浦がそう言うと祖母は顔を見あげて驚いた表情を見せた。
途端に両目から溢れるように涙を零して「私、私......お婆ちゃんになってしまった」としゃくりあげるように言った。
「行きましょう、菫子お嬢様」
北浦は私たちに会釈をすると、車椅子を押して自動ドアの向こうに歩いて行った。
吹き抜けの陽射しの中、華やいだ笑顔を向ける菫子が一瞬、少女のように見えた気がした。
-了-
花物語
※花物語は現在第三章を執筆中です。