懐古堂奇譚(参) 不揃いのイヤリング
いつもの通り、いつもの街並み、いつもの景色。
唯一違うのは今が平日の昼間ということだけ。
日常が少しだけ新鮮に感じた。
清水響香は嘘をついて学校を早退した。
3時間目の現国の授業、今回だけどうしても嫌で仕方がなかった。
別に三浦綾子が嫌いな訳でもない。
むしろ読んだことも無いが【母】というタイトルに受け入れ難い嫌悪感があった。
ただそれだけだ。
(いつもと違う道を通ろう)
響香は後ろめたい気持ちを嫌なものから逃れた開放感で締め出すように、少し丈の短いスカートをはためかせ軽やかに歩き始めた。
路地を曲がり駅へのメインストリートから外れる。
古びた看板の商店、チェーン店とは全く違う趣の喫茶店。
純喫茶.....
(純ってなんだろう)
目に映る全てが新鮮だった。
まるで知らない街にでも訪れたようだった。
不意に足が止まった。
古びた日本家屋のような店。
数枚剥がれた屋根瓦の庇ひさしの上には【堂古懐】と看板があがっていた。
斜塔は言い過ぎだが少し歪いびつに見える佇まい。
響香は引き寄せられるように戸に手を掛けた。
見た目通り立て付けの悪い引き戸が幾度か引っ掛かりながら開く。
最後は勢いよく三方枠に当たり大きな音と共に中桟なかざんから埃が舞った。
まだ午前の低い陽光がそれに乱反射するように輝いていた。
取り立て美しい光景とは言い難いがその輝きの奥、陽射しの向こうから人影が幽然と現れた姿に息を飲んだ。
「壊さないでくださいね。それとあまり陽射しを入れてしまうと品物が褪せてしまいます」
店主と思しき和服を着た若い男性が静かにそう言った。
「あ、ごめんなさい」
慌てた響香は後ろ手にピシャリと音を立てて閉めてしまった。
ふう、というため息が聞こえた。
足音が近付いて来る。
叱られる。
バツが悪そうに立ち尽くす響香に和服の男性はおおよそ客商売とは思えない言葉を掛けた。
「何をしに来ましたか」
一瞬虚を突かれた響香だったが意味を理解すると思わず言い返していた。
「確かに騒がしかったかもだけど、買うか買わないかも分からないけどこれでも一応客よ!」
「だいたい堂古懐って何よ何屋よ」
そう続けて言ったのは失言だったようだ。
店主は一瞬視線を上に泳がせ何かに合点がいくと肩を震わせて笑った。
「いいですかお嬢さん。この店の屋号は懐古堂、そして扱う品物は.....」
響香の間近まで顔を近付けた店主はそこまで言うと「まぁいいでしょう」と奥へ促す仕草を見せた。
-資格もあるようです-
そう言ったようにも聞こえた。
「それにしても堂古懐ですか」
どうにも店主には可笑しかったようだ。
昔は右から読むと知識としては知っていたがいざそれが目の前にあって古いものと知らなければ左から読むのが普通ではないのか。
そう思う響香だったがこれ以上蒸し返したくなかった。
「誠一郎さん。女性に恥をかかせるものではありませんよ」
上の方で声がした。
場に似つかわしくない女の子の声に響香は反射的に見上げてギョッとした。
沢山のアンティークドールが並べてある壁面の棚。
(まさか)
そう思った刹那、1体の人形が動き出した。
「ひゃっ」
声にならない悲鳴をあげると店主、誠一郎の腕を掴んでしまった。
「あら、レディを見て悲鳴だなんて失礼ではないかしら?」
自らをレディと名乗る人形を恐る恐る見てみると確かに人間だった。
年の頃は14,5歳か。
とても整った顔の造作に白磁のような肌。
まるで血が通っていないかのような美しい白。
だがうっすらと薔薇の花弁のように頬が上気している。
この世のものとは思えない美しさに見蕩れてしまった。
よく見れば今自分がしがみついている誠一郎も切れ長の目に通った鼻筋、頤おとがいにバランス良く集約される輪郭線.....十分に美しい。
響香は思わず手を離した。
何か言い返したいが毒気を抜かれてしまったようだ。
「紗綾は人形遊びが好きなもので」
誠一郎が詫びると「本当に紗綾は子供ね」と後ろでまた別の声がした。
振り向くとそこには紗綾と同じ顔があった。
普通に考えれば姉妹か双子と思い至るところだが響香は混乱していた。
理解が追いつかない。
なんだろう、この店に来てから何かがおかしい。
体調も情緒も居場所を無くしたように不安定だ。
そう思う頃には意識が遠くなっていた。
人の話し声に目が覚めた。
まだうすぼんやりした景色に白磁の人形....
「紗綾.....さん?」
響香が探るように尋ねると紗綾はコクリと頷いて人差し指を口許に立てた。
「お客様が見えているから此処で静かにしていてね」
紗綾はそう囁くと先程声のした方向を見た。
つられて響香も視線で追う。
接客をする誠一郎の背中が見えた。
どうやら響香は店の奥の座敷に寝かされていたらしい。
「ごめんなさい、私気を失ったみたいで」
「帰ります」と身体を起こそうとすると布団に両肩を押さえつけられた。
少女とは思えない力に抗えず声も出せずにいると「あなた名前は?」と不意打ちのように聞かれた。
顔が近い。
鼻先が触れそうだった。
紗綾の青い宝石のような瞳が響香の瞳の中、心の奥底までを見透かすようで心臓が凍りつきそうだった。
「キ、キョウカ」
絞り出すように言えたのは単語のような名前だった。
「いい名前ね、響香」
紗綾は殊更優しく微笑むと続けた。
「あなた知りたがっていたでしょ、ここが何屋かって。特別に誠一郎さんとお客様の会話を聞かせてあげる。でも絶対に声を出してはダメよ。あのお客様にとって響香は居てはいけない人なのだから」
どうやらお客様が帰るまでは此処にいろということらしい。
完全予約制の店なのだろう。
なるほど、誠一郎のあの失礼な最初の応対も合点がいった。
響香は紗綾に促されると座敷の店側の隅に座った。
障子の隙間から僅かに覗き見れる様子に不謹慎にもワクワクしていた。
障子に額がつきそうなくらいに近づく。
垂れる髪が邪魔でヘアゴムを取り出して束ねる姿に紗綾は苦笑していた。
「あら、珍しいわねイヤリング」
あらわになった耳元を彩るアクセサリーに紗綾が気を惹かれる。
「どこにでもありそうだけど...」
右耳がルビー、左耳がパールのイヤリングを外して紗綾に見せた。
同じデザインで中央の石だけが違う。
「そうじゃなくて今どきはピアスかなって」
紗綾はそう言うと「素敵なデザインね」と付け加えて響香に返した。
「これはお母さんから貰ったの」
「左右不揃いで?」
「うん、6月生まれのお母さんと7月生まれの私の誕生石なの」
怪訝な表情の紗綾に響香はそう説明した。
「じゃぁお母様もバラバラに石を付けているのね」
「多分」
「多分って何?」
紗綾のその質問に響香は顔を曇らせた。
「これをお願いします」
30代だろうか。
少しやつれた様子の女性だ。
綺麗な顔立ちをしているが、化粧っ気もなく実年齢よりも上に見えた。
女性は一枚の写真を差し出していた。
子供と撮った写真らしい。
遊園地だろうか、固く握られた手と笑顔の母娘。
誠一郎は一蔑すると事務的に尋ねた。
「良いのですか?」
「....はい」
女性は絞り出すように返事をした。
「では、契約書にサインを頂きます。真綾、書類と珈琲をお願いします」
抑揚を抑えた声が響く。
何か芝居がかって聞こえた。。
「珈琲が来るまで一応の確認と説明をしましょう」
誠一郎は女性をカウンターへ座らせると言葉を続けた。
「御依頼は記憶の除去ですね」
「はい」
女性はうつ向いている。
「除去する記憶は?」
「写真の娘です。先ほど施設へ預けて来ました」
小刻に肩が震えている。
「では、お嬢さんの誕生から今日迄の記憶の一切ですね」
一片の感情もなく確認が続く。
「除去した貴方の記憶は、私共の所有となり、利用・転売することが有りますが、同意頂けますね」
「はい」
「最後にひとつ。お嬢さんを忘れて貴方、死ぬつもりでしょう」
うつ向いていた女性は、はっと顔を上げたが何も答えずに再びうつ向いてしまった。
「紗綾、記憶の除去って何?どういうこと!?」
響香は目を丸くして紗彩に聞いた。
「人は忘れてしまいたい事や、忘れなくてはならない事があるでしょ」
「うん」
「私達の仕事はそのお手伝いなの。忘れる事で次に進めるように」
紗綾が大人びた仕草で説明をする。
「進む先が【死】でも?」
響香は少し意地の悪い言い方をした。
「死ぬ事を特別に考えているのなんて人間だけよ。生まれて来ることは天文学的奇跡だけれども、生まれた以上、死は平等なのよ」
紗綾は少し声をあらげた。
「誠一郎さんも甘いのよね」
最後に誠一郎への愚痴も付け足した。
「でも、都合良く忘れる事なんてできるの?大体、記憶を利用するってのも意味が分からないし」
質問が矢継ぎ早だ。
「まるで尋問ね。まぁいいわ、どぉせ・・・・ね。誠一郎は特殊な能力者なの。記憶を抽出して物質に定着させる事が出来るのよ」
呆気にとられた表情の響香を他処に話を続けた。
「そして、その記憶が欲しい人に売ったり、店で蓄積したりするの。除去する人から貰うのは、金銭ではなくて思い出にまつわる品物。それがイチバン定着しやすいの」
「だからあの女の人は写真なんだ」
さすがに響香ももう驚かない。
「写真とアクセは多いわね」
辟易した風な言い方だ。
「私には写真すら無いケド」
響香はポツリと言った。
「何が?」
「私もね、あの女の人の子供みたく施設に預けられたの・・・・3歳の頃ね」
「それでさっき【多分】って?」
「うん。ママ先生・・・・園長先生の話だと、私は手紙を握ったまま正門の前に立っていて、その手紙に名前とイヤリングの事が書いてあったんだって」
「..............」
紗綾は黙っていた。
「ママ先生、言ってた。手紙の文字が滲んでいたから、児童相談所と談判して直接私を引き取ったって」
「苦労してたんだ。」
「私は意外とお気楽よ」
「なんとなく分かるわ」
響香の作り笑いにワザとそっけなく返した。
そして悪戯っぽく微笑むと響香を促した。
「契約するわよ」
珈琲と書類を手に、紗綾と同じ姿の少女がしずしずと歩く。
カウンターへ着くと女性に会釈して珈琲を差し出した。
誠一郎は書類を受け取ると、女性に珈琲を勧めた。
自らも口をつけながら書類を一通り確認して女性へ渡す。
「この鉛筆で囲ってあるトコロに記入して下さい。まぁ、店を出たら記憶なんて無いですから契約なんて実際、形式でしか無いのですけれどね」
誠一郎なりの精一杯のジョークのつもりだったのだが、女性はニコリともしなかった。
今まで同じ事を言ってきたが笑った人は未だに居ない。
女性は黙々と書き込んでいる。
真綾は怖い顔で誠一郎を見ていた。
「真綾さん」
真綾の表情にも沈黙にも耐えきれず誠一郎が声を出した。
「準備をお願いします」
その言葉に小さく頷くと真綾は店の奥の暗がりに消えた。
「.....これで」
女性は呟くように言うと書き上げた書類を誠一郎に向けて差し出した。
「ありがとうございます」
誠一郎はそう言って大きく頷くと書類を置いた。
そして不備の無いことを確認し終えた頃合をはかったように「準備出来ました」と真綾が誠一郎の元に戻ってきた。
精緻な細工が施されたワゴンに黒い革手袋が一双乗せられている。
恭うやうやしく手渡された革手袋にゆっくりと指先を入れていく。
革の軋む音だけがあった。
「紗綾、あの手袋は?あの手袋にも何か力が秘められているの?」
響香はすっかり手袋の秘密に興味をひかれていた。
紗綾は小さくため息をつくと素っ気なく答えた。
「あれはただの革手袋」
「へっ?」
「軍手でもゴム手袋でもなんならトングでも構わないわ」
「ふざけてる?」
響香の頬がピクピクとひきつる。
「ううん、大マジメ」
努めて無表情の紗綾。
「説明・・・・求めていい?」
マジックのタネを知りたがる子供の目でねだる。
「暗示よ。響香もアレを見て何かスゴイ物だと思ったでしょ」
「うん」
「あれを仰々しくはめて、更に強い光を当てて催眠状態にするの」
「催眠術なの!?」
「違うわ。余計な事を考えられると、不完全な抽出になって記憶の断片が残る事が有るのよ」
「ふ~ん」
「この店が薄暗いのも光を浴びせかけるのも手袋の演出も、全ては完璧な仕事の為よ」
紗綾の説明に感心しきりの響香だ。
どうみても響香の方が子供にみえる。
「響香、ほら始まるわ」
紗綾は再び響香を促した。
椅子に座った女性の前に誠一郎は立っていた。
真綾が女性の髪をカチューシャで留めた。
セミロングの髪が後ろに流れまとめられた。
同時に、誠一郎の合図で照明が女性に浴びせられる。
全体が光虻に包まれ、覗き込む響香の視界からも白く消えた。
コツコツコツ。
誠一郎が女性の周囲を一定の速度で廻る。
丁度、女性と照明の間に誠一郎が立った時だった。
強烈な光が遮られ、響香の目に女性の姿が見えた。
「えっ!?」
思わず叫んでいた。
ルール違反だ。
紗綾は唖然として固まっていた。
次の瞬間、響香は店に飛び出していた。
突然の出来事に真綾は照明を落とすので精一杯だった。
「お母さん!!」
響香は女性に向かってそう叫んだ。
女性はキョトンとした顔で響香を見る。
数秒の沈黙の後、響香はイヤリングを外して差し出した。
「同じ物が見えたの」
差し出した手のひらのイヤリング。
響香は必死でそれを見せていた。
「響香......なの?」
「うん。でも、どうしてお母さんは若いままの姿なの!?13年、13年も経っているのに?」
「説明しますか?」
状況の分からない二人に誠一郎が声を掛けた。
「此処は現在に在って、現在に無い空間です。響香さんから見て、お母さんは13年前に此処を訪れました。貴女が捨てられた日です。そしてその日から13年後の今日、貴女は此処へ迷いこんだ。つまり、過去と現在の時間がこの店で繋がっているのですよ」
そう言うと誠一郎は二人を交互に見た後、母親に尋ねた。
「さて、お母さん。記憶は消しますか?二度と逢えなくなると思いますが」
女性はかぶりを振ると消え入りそうな声で言った。
「いいえ、消さないで」
短い答えが嗚咽混じりに途切れる。
誠一郎は深くため息をつくと左手で眼鏡を直し、右手を軽く振って二人に告げた。
「では、お引き取り下さい。但し、此処を出たならお二人はそれぞれの時代へ、そしてこの店も此処で出会ったことも全て忘れてしまいます。さあ、それぞれの未来へお引き取りを」
二人は互いを確かめる様に抱き合うと短く言葉を交して手を繋ぎ店を後にした。
最後に一度、振り返り深く頭を下げて。
「誠一郎さん。知ってたんでしょ」
紗綾が軽く肘で脇腹をつつく。
「タダ働きね。ホント甘いわ誠さん」
真綾は帳簿を見ながらため息をついた。
「甘くは無いですよ。あのお母さんは、これからもずっと捨てた子を思いながら生きて行きます。後悔と罪の意識を持ち続けて・・・・・」
「赦される事の無い・・・」
真綾の呟きを紗綾が続ける。
「・・・・・贖罪の路」
クラクションの音に我に返った。
何か白昼夢を見ていたのだろうか。
何故か涙が止まらなかった。
何より不思議なのはこんなさびれた裏路地に立ち尽くしてたこと。
でも響香はなんとなく満たされた、暖かい気持を感じていた。
園へ帰ろうと大通りへ出た時、人とぶつかってしまった。
「ごめんなさい」
響香がそう言って相手を見上げると、同じイヤリングをした女性が驚いた顔で立っていた。
FIN
懐古堂奇譚(参) 不揃いのイヤリング