さよなら夏の日
戦後80年--
その記憶が薄れていく......いや、失われていく。
経験するべきでは無いことを実体験とした世代は私たちの、人類の宝だと私は思います。
邂逅
翔太のペケJのバックファイヤーが深夜にこだまする。
俺はしつこく追い回すパトカーの前でフルブレーキをかけた。
キキーッ!!
ゴムが溶ける異臭とけたたましい金属音。
激しく擦れて鉄粉がホイールにまとわりつく。
後ろで激しい衝突音がした。
ミラー越しに複数のパトカーがドアやボンネットを凹ませて煙を噴いていた。
俺は手首を捻ると再びアクセルを開けてZⅡの咆哮を響かせて翔太のペケJを追った。
先の信号は赤だったが往来する車は居ない。
翔太達がきっちり仕事をしているようだ。
俺がリズミカルにアクセルを煽ると両車線をバイクの集団で塞ぐ翔太達が同じようにアクセルで応えた。
それを合図に翔太達が交差点の封鎖を解除して俺に続く。
せき止められた川の水のように押し寄せる車。
赤色を回して追尾するパトカーも遮られてミラーから消えた。
短くキレのあるアクセルのコールが遠くに聞こえる。
やがて音が大きくなるにつれてガソリンとオイルの焼ける匂いが強くなる。
京さんのケッチの匂いだ。
2ストのコール音と匂いだ。
俺たちは京さんの本隊目指して夜を駆けた。
少し先に道路を埋め尽くすように蛇行する赤い光が無数に見えた。
京さんの本隊に違いない。
今この関東でこれだけの台数を呼べるチームは他に無い。
俺はこのチームで特攻隊を務める自分を誇りに思っていた。
............そう、この夏までは。
突然黒と白のツートンが路地から飛び込んできた。
躱しきれなかった数台が弾き飛ばされて火花を上げて路上を滑っていった。
一緒に吹き飛んだパトカーのドアが仲間のバイクを潰した。
呆然とする俺たちの前にソイツはそのまま回り込むとようやく赤色を点灯させた。
交機の狂犬、飯島だった。
一斉に他の路地からもパトカーが押し寄せる。
俺と翔太は京さんとの合流目前で分断された。
「上等じゃねぇか」
俺は飯島の真正面でアクセルを煽った。
激しい咆哮が夜にこだました。
飯島はハイビームを俺に浴びせて挑発していた。
俺はタンクにペイントした日章旗を撫でた。
「特攻隊一番機、舐めてんじゃねーぞポリ公!!」
全開にしたスロットルで一気に突っ込む。
仲間のバイクを押し潰したドアに前輪が乗り上げた瞬間にZⅡがウィリーした。
そのままアクセルを開け続けてジャンプすると飯島のフロントガラスにリアから着地した。
フロントタイヤはパトランプを踏み抜いてそのまま止まった。
俺は拳を突き上げた。
捕まった連中の歓喜の声が響いた。
膝をついたままの姿で拳を突き上げる奴もいた。
そのままパトカーを駆け下りた。
リアガラスがミシミシと音を立て、トランクが大きく凹んだ。
俺は飯島に背を向けたまま中指を立てると、仲間を押さえているお巡りたち目掛けて突っ込んだ。
蜘蛛の子を散らすようにお巡りが逃げる。
翔太は包囲の薄い場所のお巡りを蹴散らすとそのまま一気に走り抜けた。
これで全員逃げられたか?
俺と翔太は車の入れない路地裏を選んで走った。
さびれたバーの裏口や、廃墟のような公住を縫うように抜けた先にソイツは居た。
ZⅡのヘッドライトがスポットライトのようにソイツを照らした。
路上でうつ伏せに倒れるソイツを。
前後タイヤが煙と悲鳴をあげる。
フルブレーキだった。
後ろを走る翔太も超反応だった。
俺とソイツをギリギリ躱して止まった。
場末の路地裏、こんな酔っ払っいが居てもおかしくは無い。
でもソイツは何かおかしかった。
「瞬彌さん、轢いたんすか?」
ZⅡに跨ったままソイツを見下ろす俺に翔太が言った。
「轢いてねーよ。ってかコイツどこのチームだ?」
「見たことない特攻服ですね」
「まぁ俺らのシマに特攻服着て転がってるんだ、ちょっと分からせてやらんとな」
「マジで言ってます?飯島来ちゃいますって」
翔太が焦って俺を止める。
「いや、飯島なら俺らがこの路地から出てくるのを環七で待ってるさ」
飯島は狂犬だが猟犬だ。
確実に俺らを狩りに来るだろう。
それならこのまま路地にバイクを隠して夜に紛れるのが正解だ。
「さっきの公住、空き部屋だらけだろ」
そう言うと翔太は察して路上の越境者を引き摺って歩いた。
バイクは先輩の飲み屋の裏に預けることにした。
適当にドアノブを壊して入った部屋はカビ臭く、思わず腕で鼻と口を覆った。
翔太はソイツを部屋に転がすと「起きろや」と両頬を平手で数回打った。
スマホのライトの中でソイツは意識を取り戻すと半ば焦点の合わない目でこちらを見ていた。
そして徐々に目に光が戻ると「ここは?」と呑気に弱々しく言った。
「ここは?じゃねぇよ。てめぇどこのチームだ」
翔太が両手で胸ぐらを掴んで凄んだ。
次の瞬間、鼻から血を流した翔太がうつ伏せに組み伏せられていた。
ソイツは胸ぐらを掴む翔太の鼻から眉間にかけて強烈な頭突きをすると、怯んだほんの一瞬で手首をキメて組み敷いた。
「嘘...だろ」
翔太は空手の有段者だ。
喧嘩で空手を使ったことを理由に破門されたが、チーム内でも猛者のひとりだった。
それがさっきまで軽々と引きずっていた相手に一瞬でやられた。
「なんだてめぇ」
俺はソイツを睨みつけたが、ソイツの目を見た俺は背中にとてつもない悪寒が走った。
強さもそうだったがソイツの目は今まで生きてきて見たことも無い目だった。
陳腐な言い回しをすれば『地獄を見てきた...いや、地獄の住人の目』だった。
「ここは何処だ、お前達は日本人か?」
少しの睨みあいのあとにソイツは静かに言った。
翔太の手首と頚椎はソイツの支配下にあった。
「ここは東京だよ。板橋の...細かい住所は分からない」
俺がそう言うとソイツは翔太からよろよろと離れて「どうしてどうして」と頭を抱えてうずくまった。
拘束の解けた翔太が襲いかかろうとしたが肩を掴んで制止した。
次は首を折られるのがオチだ。
俺は翔太に食い物と飲み物を買って来るように言って財布を渡した。
「なぁ、オマエ名前は?俺は瞬彌。シュンって呼ばれてる」
俺は混乱しているソイツに声を掛けた。
「自分は坂上嘉三郎、故郷は広島だ」
「国?まぁよく分からんけど嘉三郎...かっちゃんな」
俺は右手を差し出した。
きっとそうするのが正解だと思った。
かっちゃんは俺の右手を握ると初めて頬を緩めた。
そうして張り詰めた糸を切ったように再び気を失って崩れた。
かっちゃんが目を覚ました頃にはもう夜が明けていた。
俺たちは窓と玄関を開けて換気をした。
鼻はもうすっかり慣れてしまってカビ臭さは分からなくなっていた。
かっちゃんは翔太がコンビニで適当に買って来た弁当とお茶を美味い美味いと全て食べてしまった。
すっかり落ち着いてからかっちゃんは翔太に深々と頭を下げて謝った。
翔太は「俺が弱いから負けただけだ」と憮然とした面持ちだった。
それからかっちゃんは妙なことを言い始めた。
いや、最初から出身地を言い出したりして妙なヤツだったが。
「東京駅は空襲で焼けたと聞いたが鹿屋へはどうやって戻ったらいい?」
俺たちは顔を見合わせた。
「くうしゅうって九州か?」
「鹿屋は九州にあるけど空襲は空襲以外無いだろ」
「B29が来ただろ」
呆れ顔のかっちゃんが続けて言った。
そこで俺は中学の授業で聞いた東京大空襲を思い出した。
「かっちゃん、東京が焼け野原になったのは何十年も昔のことだよ」
そう言うとかっちゃんの目が大きく開いた。
「つまらん冗談は言うもんじゃない。今も戦友はお国の為に命を捧げてる!」
かっちゃんが声を荒げた。
おかしい。
言動もそうだがこの特攻服。
なんだあのエンブレム?
錨のエンブレムのチームなんて聞いたことも無い。
それに明るくなって分かったけど、かっちゃんの顔の白いのは塩か?
まるで波飛沫が乾いた跡だ。
それにこの足に巻いてる包帯みたいなのは何だ?
「かっちゃん、かっちゃんは何年生まれの何歳だ?」
「自分は昭和3年生まれ、数えで18になる」
...マジで言ってるんだろうか?
「かっちゃん、今は昭和から平成に元号が変わって、さらに令和って時代に変わった未来の世界なんだ」
俺は翔太から財布を返して貰うと小銭を広げて見せた。
「令和、平成....おっ昭和48年」
かっちゃんは首を捻りながらも納得したようだった。
そこで翔太の腹が鳴った。
そうだ俺たちの分もかっちゃんが食べたんだった。
さすがにもう飯島は居ないだろう。
俺たちはバイクを引き取ったついでに先輩からメットを借りた。
かっちゃんの分だ。
そして俺たちはかっちゃんを乗せてファミレスに向かった。
「腹はいっぱいだ」と言うかっちゃんにドリンクバーと適当にポテトを選んだ。
その後運ばれてきた俺たちのデミソースハンバーグとカルボナーラをマジマジと見て来るので一口あげたらそのまま半分食われた。
俺たちは腹も立たずに笑ってしまった。
そしてかっちゃんは「勝ったんだな、大日本帝国は米英に勝ったんだな」と泣きながらコーラを飲んでむせてまた泣いた。
翔太はここに来てまだ理解していなくて「WBC?」とか言っていた。
「かっちゃん...」
俺は言葉を選ぼうと思ったがどう言っていいか分からずに「負けた」と最も直接的な言葉を使ってしまった。
「なんでじゃ!?これが敗戦国なわけなかろうが。こんな豊かで美味いものが食えて、ここまでの道中も車や人で溢れてバカ高いビルだらけじゃ。これが敗戦国なんて有り得ん。米英の連中から戦勝領土と賠償金をたんまり取って一等国になったんだろ?」
周りの客が一斉に俺たちを見た。
店員もチラチラとこちらを見ながらインカムで何か連絡している。
「かっちゃん、目立つから落ち着いてくれ」
俺はかっちゃんをなだめると、とりあえずかっちゃんがどういう人で何をしていたかを聞くことにした。
タイムスリップだなんて、きっとどこかでボロが出るだろう。
ほんの気まぐれの暇つぶしだった。
でもどこかで退屈な日常を壊してみたい俺がいた。
予科練
当時の日本は戦時体制下にあり、嘉三郎も例外なく軍国少年だった。
広島生まれの彼は、呉の港でずらりと並ぶ軍艦を目にするたび、大声で日本海軍の歌を歌い、胸を張った。
鉄の匂いと潮の香りに彼の小さな足音が溶けこんでいった。
12月8日の興奮と熱狂は嘉三郎にとって忘れられない日になった。
映画館、食堂、銭湯、各家々から喝采が上がりラジオに向かって万歳をする人々が大勢居た。
あの仇敵、アメリカのハワイに南雲中将が大艦隊を率いて殴り込みを仕掛けたのだ。
振る舞い酒を始める商店もあった。
嘉三郎もいつかアメリカを倒すんだと拳を握り締めて、高鳴る胸に頬を紅潮させた。
この時はまだ日本が辿る過酷な運命を予測出来る者は僅かしか居なかった。
昭和19年、16歳の年に嘉三郎は予科練への入隊を希望した。
前年は身長が足らずに臍を噛んだが成長期を迎えた今年は一気に伸びて160cmになった。
傷を付けた柱の前で弟と何度も万歳をした。
試験も難なく通過した嘉三郎は海軍航空隊のある土浦に向かった。
祖母が「これからお国のために捧げる身体じゃから」と東京で遊山してから行くように小遣いと1泊分の米を嘉三郎に握らせた。
出立の日は町内会総出見送りに駅は大混雑の熱狂だった。
出征兵士を送る歌の大合唱が蒸気機関車の車輪の軋みよりも大きく遠くまで聞こえた。
4つ下の妹の、いつまでも手を振る姿がいじらしく思えた。
上野駅は噂に違わぬ立派な駅舎だった。
汽車を降りた瞬間、呉では見たこともない人の群れとざわめきに胸が高鳴った。
あまりにキョロキョロと注意散漫に歩いたせいで、京成電気軌道の通路でアーチ型の柱にぶつかり、周囲の人たちに笑われてしまった。
嘉三郎には東京でどうしても見たい場所があった。
それは前年に廃止された万世橋駅前に立つ軍神・廣瀬中佐の像だった。
教科書で何度も読み、唱歌で何度も歌った廣瀬中佐。その像だけはどうしても拝まなければならぬと思っていた。
念願かなって像を仰いだ瞬間、嘉三郎の目からは知らぬ間に涙がこぼれ落ちていた。
老婦人がそっとハンカチを差し出したことで、初めて自分が泣いていたことに気づいた。
気恥ずかしさから思わず「呉から出てきて、明日から予科練に入るんです」と言葉がこぼれた。
老婦人は黒い着物の裾を正し、深々と頭を下げて「ありがたい護国の軍人様じゃ」と呟いた。
嘉三郎の胸は熱くなり、泣き顔のまま精一杯に胸を張った。
翌朝一番の列車に乗って土浦を目指した。
朝の空気はまだ冷たく身の引き締まる思いだ。
だがそれも帝国軍人となる第一歩と思えばむしろ感謝しかない。
周りを見回せば嘉三郎と変わらない歳の少年達が頬を紅潮させて列車の進行方向を見詰めていた。
期待と決意満ちたいくつもの瞳。
きっと皆、同じ兵学校の同期の桜たちだろう。
大丈夫、この国は必ず米英西欧を打倒して八紘一宇の大東亜共栄圏を築くに違いない。
嘉三郎は胸が炎のように熱くなるのを感じていた。
熱かった。
頬が、背が、尻が焼け付くように熱かった。
理由は分からない。
いや、理由なんてどうでもいい。
とにかく今は嘉三郎たちは殴られる時間で、彼らは殴りつける時間なのだ。
声が小さい。
整列が遅い。
中には気に食わないと殴られる隊員も居た。
つまり殴る理由などどうでもいいのだ。
軍隊としての上下叩き込む時間で通過儀礼の時間なのだ。
ドサッと米袋を放ったような音がした。
比較的小柄な同期が背中からの竹刀の一撃に倒れた。
すかさず怒号とバケツの水が浴びせられた。
それでも起きない彼に二杯目が浴びせられようとしたその時、嘉三郎たちを殴り付けていた下士官の動きが止まった。
両足の踵をピタリと付けて直立のまま敬礼をした。
敬礼を向けられた男は下士官の前に立つと無言でその右頬に裏拳を叩き込んだ。
「この予科練の隊員は陛下から下賜された隊員だ。理由なき体罰は全て禁じる」
その力強い宣言に嘉三郎たちは心酔した。
一瞬でこの男、八代教官が嘉三郎たちの絶対となった。
故に以降の『理由ある体罰』の全てが殴られる側にも納得された。
畳んだベッドのシーツの角が合っていない。
小銃の組み立てが3秒遅い。
土嚢の背負い方が美しくない。
その度に竹刀が振るわれた。
やがて竹刀は精神注入棒という名を賜ったありがたい棒切れに変わった。
結局は理由を作られては殴られる生活だった。
結局は八代教官の人心掌握術だった。
それでも納得することが嘉三郎たちの心の拠り所になった。
後藤誠之介という同期が居た。
麦飯をいつも美味そうに食う男だった。
「美味いか?」
一度小声で聞いたことがある。
すると誠之介は「軍隊っちゅうのはいい所じゃ。メシも服も寝床もあたる」と嬉しそうに答えた。
後で聞いたが誠之介は東北が大凶作に見舞われた際に身寄りを無くしたそうだ。
誠之介はそんな生い立ちを微塵も感じいさせない男だった。
食い詰めた生活で恵まれたとは言えない体格だったが誰よりも大きく見える時があった。
同期は皆、誠之介を慕っていた。
坂田 剣という男は名が表す通りの近寄り難い男だった。
どれだけ殴られても前に出る男だった。
剣はいつしか教官にも一目置かれるようになっていた。
土嚢を背負い走っている所を精神注入棒で殴られて転倒したことがあった。
剣は黙って土嚢を背負い直すとそのまま走り出した。
その日の訓練の終わり、別の同期が剣を見て大声を上げた。
教官がまた殴りに来たが、指を指した先の剣を見ると慌てて医務室へ連れて行った。
剣の小指は外側に直角に曲がっていたそうだ。
転倒した時に折れていたらしい。
以来、剣は殴られる事がほとんど無くなった。
予科練は選抜された者たちが集まる場所だけに嘉三郎の成績は可もなく不可もなくというところだった。
座学も訓練も頭抜けて優秀というものはなかった。
良く言えば万能、実際は器用貧乏だった。
「嘉三郎、俺はダメだ」
重荷訓練の最中、田崎は実に簡単に弱音を吐いた。
「田崎お前何を言うとるんじゃ」
嘉三郎は呆れ果てたように田崎の背嚢を叩いた。
田崎は座学の成績はすこぶる優秀だったが体力面は絶望的に軍隊向きではなかった。
「俺はトンツーをやりたいんじゃ」
息も絶え絶えに。
それでも歩くのを止めない田崎に、根性は向いていそうだと嘉三郎は思った。
日々訓練に勤しむ嘉三郎たちに衝撃的な報せが届いたのは10月26日のことだった。
レイテ沖海戦にて敷島隊が神風特別攻撃隊を編成し体当たり攻撃にて敵空母セントローを撃沈せしめたという大戦果のだった。
そして敷島隊の五人、そのうちの四人が嘉三郎たちの土浦の先輩たちだった。
その事実に全身の血が滾った。
湧いた。
この日、予科練出身の軍神の誕生に教官も訓練生も歓呼の雄叫びをあげた。
日本は必ずや米英を屈服させ勝利を英霊に捧げると肩を抱き合い誓った。
この時の嘉三郎達はまだ知らなかった。
特別攻撃隊が特別では無くなる近い未来を。
そしてこの敷島隊の成功こそが特攻推進派を後押しするきっかけとなったことも。
11月、敷島隊の興奮まだ冷めやらぬ中だった。
嘉三郎たちの練習機の操縦訓練が始まった。
晴れて予科が取れて飛行練習生となった。
九三式中間練習機、通称赤とんぼ。
これが嘉三郎たちの最初の愛機となった。
意外な才能を見せたのは誠之介だった。
とにかく着陸が抜きん出て上手かった。
あれなら飛行甲板にも着艦出来そうな腕前だ。
教官も「無駄に上手いな」と皮肉混じりに褒めるほどだった。
「お前たちに当たるかは分からんが、零戦はもっと難しいぞ」
操縦桿を必死で引く嘉三郎の後ろから教官の檄が飛んだ。
嘉三郎は「はい」と返事するのが精一杯だった。
年が明けての訓練でこんなことがあった。
剣の操縦する赤とんぼのフラップが飛んだ。
左翼から何かが外れたかと思った次の瞬間には整列する嘉三郎たちの脇に落ちて地面に突き刺さった。
後に分かったことだが原因は金属疲労だった。
フラップが巻き起こした砂ぼこりが晴れた向こうに剣の赤とんぼが見えた。
運命に抗うように必死で羽ばたく蜻蛉のように見えた。
誰しもが剣の死を確信に近い予感で抱いていた。
「剣ーーーーっ」
声を張り上げ喉が裂けんばかりに皆が叫んだ。
キャノピーも無い複葉機の赤とんぼ。
それでも人間がどれだけ叫ぼうともエンジンと風の音で届くことは無い。
それでも声をあげ続けた。
剣の赤とんぼが揺れながらも右旋回を始めた。
ゆっくり回りながら下降する。
剣は低速でも安定飛行出来る複葉機の特性を上手く利用しているように見えた。
エンジンを絞り下降し、機首が下がりすぎる前に速度を上げ機首を上げる。
皆の絶叫はやがて応援へと変わっていった。
機体のバンクをエルロンで調整すると剣は着陸体制に入った。
フラップが使えない以上はエンジンのコントロールで機首角度を調整する以外に無い。
皆、固唾を飲んだ。
さっきまでの応援が嘘のように、息すら止めて着陸の瞬間を見守った。
土埃が舞う。
主脚が滑走路を捉えた瞬間だった。
再び歓声が上がった。
剣の機体は滑走路の端まで走ってようやく止まった。
剣は機体から降りると駆け寄る同期達を制して教官の前に立ち敬礼をした。
そして「報告します!坂田剣、畏れ多くも陛下より拝借しました機体を損傷させてしまいました」と開口一番言ってのけた。
これには教官も一瞬言葉を詰まらせた後に「整備班と原因の特定をせよ」と命じて全員を解散させた。
その晩、消灯時間を過ぎても就寝する者は居なかった。
剣はもちろん嘉三郎ら他のパイロット候補生、そして整備班の全員が赤とんぼを囲んで事故の原因を探っていた。
誠之介は何度も何度も「剣君は格好良かったなぁ」と言い、その度に田崎が「報告します!」とモノマネをして剣に蹴られていた。
その度に皆が大笑いをした。
その様子はきっと教官たちも分かっていたはずだが今夜ばかりはお目こぼしをくれたようだった。
嘉三郎の中でこの国の勝利はもはや揺るぎないものになっていた。
皇紀も2600年を超え、千代に八千代に皇国の繁栄は約束されたものだと胸を熱くした。
七つ釦
「シュン君、これは不敬だよ!ダメだ絶対に」
突然両目を手で覆いしゃがみ込む。
さっきまで展望台から見える高層ビル群に興奮していたのに、支離滅裂だった。
「未来の東京の街を見てみたい」
そう言うのでサンシャイン60の展望台に連れて来た。
かっちゃんが「あっちが土浦の方で、向こうに陸軍の飛行場」と子供のように指をさして教えるから人目が気になって恥ずかしかった。
そして一旦黙り込むと「あの焼け野原が...」と言葉を詰まらせた。
俺は次にかっちゃんが話し始めるのをじっと待った。
かっちゃんから聞いた話だ。
3月10日の東京大空襲の時、かっちゃんは迎撃に出ることも叶わず基地に詰めていた。
未明の東京方面の空が昼間のように明るく見えたそうだ。
飛来したのはB29だと音ですぐに分かった。
4発(多分プロペラのことだと思う)のこもった反響音が特徴的だった。
ガソリンと想像もしたくない何かが焦げる臭いが基地まで届いた。
炎に照らされた無数の爆撃機の影が空を覆い尽くしていて、あの下には地獄があるのだと思った。
かっちゃん達の戦闘機では夜には戦えなくて、後日壊滅した帝都の瓦礫に呆然とした。
そうしてビルに溢れる東京に唖然としてはしゃいでいたら突然これだった。
「どうした、かっちゃん」と声を掛けると「皇居を見下ろすなんて不敬罪で捕まってしまう」と理解に苦しむことを言い出した。
いやそもそもファミレスでの話から怪しさ満点だった。
予科練とか空襲とか、ガチでやべぇ奴だと思ったけどクスリやハッパの匂いはしなかった。
キマってる訳ではなさそうだった 。
そして着ている服が昔、学校で観た戦争映画によく似ていた。
「なぁ、かっちゃん。さっきのファミレスの話、マジか?」
「嘘は何も言っていない」
真っ直ぐ目を見て顔を上げる。
「じゃぁ、かっちゃんが未来に来たのは何か意味があったんじゃないのか?」
「分からん」
「例えば未来の出来事を知って過去の...かっちゃんの時代の誰かを救うとか日本を勝たせるとか」
そう言うと寂しそうに首を振った。
その意味を俺は最後まで知ることは無かった。
「でも、そうだな。未来を知っておいてもいいかもしれないね」
かっちゃんは立ち上がると「何かそういうのが分かる所に連れて行ってくれ」とざっくりとしたお願いをしてきた。
俺はスマホでググると近くに(と言っても新宿だが)良い場所を見つけたのでかっちゃんをZⅡのケツに乗せた。
生ぬるい湿度をビル風が運ぶ。
アクセルを開けるとマフラーから爆音がこだました。
車の間をすり抜けながら明治通りに出た。
そこから雑多な街を通り新宿通りを曲がると駅の方向かった。
かっちゃんは今のこの街を、人の群れをどう見て感じているんだろうか?
「................」
かっちゃんが首を折れんばかりに曲げて上を見上げている。
「なぁシュン君、東京は、日本はこんな高いビルディングばかりなのかい?」
「いやぁ、分かんね。でも地方はこんな感じまではなってないんじゃないのかな」
「そんないいから」と俺はかっちゃんを引っ張って目の前の高層ビルに入った。
ここの33階に戦争の資料館があるらしい。
エレベーターを降りるとかっちゃんは少しよろけた。
酔ったらしい。
エレベーターで酔うやつを初めて見たので笑ってしまった。
資料館でかっちゃんは呆然と言葉を失っていた。
ここは敗戦時に命からがら引き揚げた人やシベリアに抑留された人についての資料館だった。
唇がわなわなと震えていた。
「どうして...」
振り絞った言葉が小さく零れた。
展示をいくつか回るうちに「知ってる!」と立ち止まったブースがあった。
義烈空挺隊とパネルにあった。
「予科練にまでこの戦果報告が届いたよ」
「この人達は予科練の人じゃないの?」
俺が尋ねると「彼らは陸軍で自分は海軍だ」そう答えた。
「陸軍って飛行機持ってるんだ!それとかっちゃんって空軍じゃないの?」
素朴な疑問だった。
「陸軍は陸軍で開発した航空機を持ってるし、大日本帝国に空軍は創設されてないよ。海軍、陸軍それぞれに航空隊があるんだ」
「へー」
素直に感心したが、ともすれば気の無い返事に聞こえたかもしれない。
そんな事を気にしていたらかっちゃんが「これって何だ?」と俺の袖を引いた。
そこには『ヒロシマ』『ナガサキ』『原子爆弾』の文字があった。
街ひとつ消えるヤバい爆弾ってのは知ってるけどイマイチ詳しく分からない。
「ごめん。俺な、勉強キライなんだ。それに歴史とか社会に出てからは必要ないじゃんってナメてて...」
俺じゃぁもう答えきれなくて、あの人を頼ろうと思った。
待ち合わせ場所を靖国神社にしたのはかっちゃんの希望だった。
「なんか、不思議な気持ちだ」
静謐で厳かな空間にかっちゃんが清しい顔をした。
二礼二拍手一礼、かっちゃんは暫くの間深々と最後の一礼をしていた。
そこに来たのは京さんと案内をする翔太だった。
俺は京さんの元に駆け寄ると前屈に近いくらいに腰を曲げて挨拶をした。
「総長を呼び付けるようなマネをして申し訳ありません。お越しいただき」
「あぁ、いいよそういうのメンドイから」
京さんはそう言って俺の言葉を制すると「で、ソイツ?」とかっちゃんを見た。
「坂上嘉三郎です。故郷は広島です」
俺たちとの初対面のときと同じ挨拶だ。
昔の人には出身地を名乗るルールでもあったのだろうか?
「ダークアズラエル初代総長、御影京だ」
そう言って京さんが差し出した右手をかっちゃんは力強く握った。
「京さん、自分この国がやった戦争とかイマイチ分かんなくて、その京さん超詳しいっつーか」
俺が緊張でしどろもどろで説明していると京さんの視線がかっちゃん胸元へ吸い込まれた。刹那、表情が変わった。
そして次の瞬間にはもうかっちゃんの胸ぐらを掴んでいた。
俺はかっちゃんが何か失礼をやらかしたんじゃないかと焦って、とにかく謝ろうと口を開きかけた瞬間だった。
「嘉三郎君、この七つ釦どうした?」と京さんは驚いた風で見詰めていた。
「総長、信じられないかもですが、かっちゃんはこの時代に...」
「いや、信じるわ。こんなんコスプレとか有り得ねぇし」
京さんは続けた。
「空手崩れの翔太が組み伏せられたって聞いてどんな大男かと思えば、失礼ながら小男だ。だが嘉三郎君のこの手は本物の兵士の手だ」
京さんはそう言って再び豆とタコだらけの手を取った。
「なぁ嘉三郎君。キミがこの時代に来た意味は分からない。でもきっと意味はあるだろう。そしてその一助になる場所を紹介するよ」
「ありがとう、御影さん」
礼を言うと「京でいいよ。それにこれから見るものが、嘉三郎君にとっては絶望かもしれない」
厳しい表情の京さんに僅かに影を見たような気がした。
「ここだ」
京さんが俺たちを案内した場所は遊就館と書かれた施設だった。
俺はこの先で見るだろう事実に少し震えた。
かっちゃんにとっては生きた時代の結果だ。
表情は硬く、唇は真一文字に結ばれていた。
鹿屋
帝都が大規模な空襲に晒され、街は灰と瓦礫に埋もれた。
その爪痕もまだ生々しい3月の末、嘉三郎たちに鹿屋航空基地への異動命令が下った。
即日の命令。
背嚢にあれもこれもと詰め込むや否や、追い立てられるように土浦駅へと向かった。
「おお、貴婦人がお出迎えか」
ホームに停車していたSLを見て、田崎が嬉しそうに声を上げた。
茶色の客車を従者のように引き連れたC57。
その優美な姿に貴婦人の愛称を与えた人の感性は確かに素晴らしい。
田崎じゃなくても感嘆したに違いない。
「いいから乗れ」
だが田崎を小突いた剣にはそうした感慨はまるで無いらしい。
客車の中は行商人や荷物を抱えた人々でごった返していた。
それでも七つ釦の嘉三郎たちを見た乗客は道をあけ、席をあけてくれた。
老婆と子供までもが譲ろうとするので「これも訓練です」と剣が固辞し、嘉三郎たちは上野に停車するまでは立って過ごした。
件の空襲で罹災を免れた上野駅は、家を焼け出された人々や親を失った子供達で溢れていた。
とても直視出来る様ではなく、早く出発して欲しいと念じて嘉三郎は下を向いてしまった。
親類縁者を探すためか、大きな荷物を抱えた人達が上野で降りて行った。
蒸気を吐き出す音と、汽笛に続いて車輪が動き出す鈍い金属音と振動。
そこに嘉三郎の早鐘のような心音が重なった。
あの日想像した地獄からようやく逃げ出せた気がした。
帝都を抜けると車窓は一気に開けていった。
遥か水平線の彼方を一望したかと思えば菜の花の咲く丘、雪解け水の混じる川面のきらめき。
誠之介は子供のように窓に額を押し当てて外を見ていた。
富士山を見た時は誠之介だけじゃなく皆ではしゃいだ。
あの剣でさえ満面の笑みだった。
誠之介が窓を開けた。
関東よりも季節が早い。
少し暖かい空気が草花の爽やかな匂いを車内に運んだ。
「俺は親が居ないから、井戸と親戚の家と尋常小学校の道しか知らんかった」
誠之介の言葉に皆が黙った。
田崎にも剣にも嘉三郎にも帰る家と親がいた。
「でも予科練さ入ってメシが食えて服も下着も貰えて、今は旅まで出来てる。軍隊万歳じゃ、大日本帝国万歳じゃ」
誠之介は本当に両腕を高くあげて万歳をした。
嘉三郎たちも釣られて万歳をしてまた皆で笑った。
「おっ、鳥が飛んどる。キレイじゃぁ。なんて鳥じゃろな」
誠之介がまた外を見てはしゃぐ。
「あれはオオルリだな」
田崎が得意気に言う。
「田崎くんは物知りだなぁ」
誠之介は感心しきりだ。
嘉三郎はそんな光景にふと笑みがこぼれた。
澄み渡る青空を鮮やかな瑠璃色がひとひら舞う。
空はどこまでも自由だ。
「伏せろ!!」と剣の鋭い声が飛んだ。
短い連続した破裂音の後に空気を震わせるプロペラの音。
薄い屋根を機関銃の弾丸が貫通して窓ガラスがあちこちで割れた。
「グラマンか?」
「ああ、間違いない。零戦と同じ位置から翼の出てるヤツだ」
嘉三郎の問い掛けに剣は冷静に答えた。
「新しい方か、厄介だな」
田崎が悲観する。
「ヤツら、ついでに遊んでやがるんだ。多分どこかに爆撃した帰りだ」
グラマンには爆弾が付いていなかった。
既に落として来たのだろう。
剣が憎々しげに言った。
グラマンは2機で斉射すると戻っては来なかった。
本当に気まぐれの襲撃だったのだろう。
そしてこの気まぐれで若い女性と、老婆。老婆の下で子供が死んだ。
庇った老婆を貫通した弾が、そのまま子供を貫いていた。
傍に赤い握り飯が潰れて転がっていた。
嘉三郎は自分の握り飯ひとつを笹の包みから取り出すと子供に持たせて見送った。
帝都の空襲も今も嘉三郎は何も出来なかった。
見ているだけから伏せているだけに変わっただけだった。
想定外の出来事に道行きが遅れ、呉での一泊を余儀なくされた。
嘉三郎たちは呉の海軍航空隊の軒先を借りることになった。
呉駅に降り立つと懐かしい顔に会った。
実家の近く新聞屋の若旦那だった。
「ご両親に伝えておくよ」
そう言って手を振って別れたが、嘉三郎は軍の任務中なので行先を告げることはできなかった。
「呉航空基地は大正14年に水上機を置いたことからなるんじゃ」
嘉三郎が胸を張って話すと「おい田崎、仲間がふえたぞ」と剣に茶化された。
何とも言えない表情で黙った嘉三郎に基地を案内してくれた兵隊が「よくご存じですね」と言いかけて言葉を止めた。
そして「坂上少年?」と言い直す。
嘉三郎が顔を真っ赤にすると「そうか、予科練に入ったんだね。1年も経たないうちに随分逞しくなった」と旧友に再会したかのように嬉しそうに歯を見せた。
不思議そうな顔をする三人に嘉三郎が地元で有名な軍国少年だった話を披露した。
「キミが来なくなって皆随分心配したんだ」
そう言って彼は姿勢を正して直立すると嘉三郎に敬礼をした。
「改めてご挨拶します。自分は吉田二等水兵であります。坂上二等飛行兵曹殿、本日ご案内させていただくこと光栄であります!」
驚いた嘉三郎は「は、はい。よろしくお願いします」と何とも締まらない返事をして皆に笑われた。
釣られて嘉三郎も声を出して笑った。
その晩、予期せぬ来客があった。
急ごしらえの寝室で寛いでいると吉田が嘉三郎を呼びに来た。
訝しげに詰所へ出向くと、灯りの下に四つの影があった。
一歩、二歩と近づくにつれて胸の鼓動が速まる。
まさか──そんなはずは──。
けれど、そこに居たのは紛れもない父と母、そして佳代子と末男だった。
「きっとここだと思って」
母のセツはそう言うと、痩せ細った手で嘉三郎の手をぎゅっと握った。
煤で黒ずんだ頬に皺を寄せながら、それでも目は少年の頃と変わらぬ優しさを宿していた。
言葉が出ない嘉三郎に代わって、佳代子が「兄さま!」と声を上げた。
末男はまだ幼く、ただ恥ずかしそうに兄の袖を掴んだ。
嘉三郎の目に熱いものが込み上げた。
父の留男は背負った風呂敷から沢山のサツマイモと、手に提げた包みからは重箱を嘉三郎に渡した。
重箱を開けるとぼた餅が入っていた。
久しく嗅いだことの無い甘い香り。
(ああ、桜の季節に仏壇に供えたぼた餅を食べてこっぴどく叱られたっけなぁ)
そんな記憶さえ嬉しく思えた。
「お父さんがね、ほうぼう訪ねて回って砂糖と小豆を集めてくれたの」
その言葉に厳しいだけの父と思っていた嘉三郎は雷に打たれたような衝撃を覚えた。
自分は父の何を見ていたのだろうか。
感謝と罪悪感が同時に去来した。
すかすかの重箱により強い感情が押し寄せて遂に嗚咽を漏らしてしまった。
「兄ちゃん痛いか?どっか痛いか?」
末男が心配そうに覗き込む。
嘉三郎は末男を抱きしめると「兄ちゃんは強いから平気じゃ。大和男に生まれたなら七生報国、末男も強ぉなれ、な」と言った。
「七度生まれ変わってお国に尽くすの」佳代子が末男の頭を撫でた。
「うん!」
末男の大きな返事が静かな詰所に響いた。
「俺たちも食っていいのか?」
田崎の声が上ずっていた。
「ああ、食え。お国のために飛ぶのは皆一緒じゃけぇ」
「嘉三郎、甘い美味い、あまいなぁ」
田崎は身をよじらせて指までしゃぶった。
剣は無言でつまむと「甘いな」と目を瞑った。
誠之介は「幸せの味だぁ。こんなん初めて食うた。ぼた餅言うのか。おかしな名前だなぁ」と本当に幸せそうに笑った。
嘉三郎もひとつつまんだ。
家族が届けてくれた必死で作ってくれたぼた餅を仲間と分け合う。
もう仲間ではない、家族だと思った。
夜はゆっくりと更けていった。
甘味の喜びと四人の笑い声を包むように。
幸せな一夜が明け、再び鹿屋を目指し出立した。
呉駅のホームで「おおデゴイチじゃないか」と土浦での記憶を呼び起こす田崎の感嘆に「早く乗れ」と剣が再び小突くものだから可笑しくてたまらなかった。
旅の再開は客車ではなく貨物列車だった。
急ぎ鹿屋へ行くために貨物列車の一両を与えられた。
無数の荷物との相席というか相部屋だったが。
各々が木箱や紙袋に腰掛けて列車に揺られた。
下関駅までだからさほどの長旅ではない。
そこから連絡線に乗って門司駅から鹿屋へ向かう。
そうすればいよいよパイロットだ。
嘉三郎は胸が踊った。
ふと見ると誠之介が指の匂いを嗅いでいた。
いやきっと昨夜の記憶を辿っているのだろう。
他の皆は?
周りを見回してみた。
田崎は木箱を指でトントンと叩いている。
トンツーの練習だろうか。
さすが速い。
嘉三郎は何を打っているのかと聞き耳立ててみた。
「おいおい田崎くん。それは芝浜じゃないか」
嘉三郎は大笑いした。
芝浜は江戸人情物の落語。
大人気の題目だ。
「嘉三郎、黙って聞いてろよ」
瞑想するように木箱に座っていた剣がたしなめた。
どうやらずっと前から気付いていたようだった。
「爺さんがよく寄席に連れていってくれたんだ」
少し照れたようにいつもよりいっそうぶっきらぼうに言って横を向いた。
「剣くん、俺出来るよ。芝浜」
誠之介が立ち上がった。
「俺、腹が減ってどうしようもくなった時は道端で落語をやったんだ。そしたらメシか金を貰えたから」
「メシも金も無いぞ」
「要らないよ。話したいんだ、落語」
誠之介は紙袋を木箱の上に積むと即席の高座を作って話し始めた。
「えー、昔から『さんだら煩悩』ってことを言われておりまして...
」
芝浜、子別れ、紙入れと誠之介はよどみなく演目を披露した。
これには剣も大いに笑い、目を潤ませ、喝采した。
その日、鹿屋航空基地は曇天の下にあった。
嘉三郎たちは歩哨に所属を告げ命令書を見せると中に案内された。
整列した嘉三郎たちを出迎えたのは上官の罵倒と平手打ちだった。
理由は到着の遅延だった。
グラマン襲撃を易々と受けて当然の顔をして期日に到着しないのは帝国軍人の面汚しだと延々と喚かれ続けた。
そしてその日、配属先が決まった。
嘉三郎と田崎が『伊吹隊』
誠之介が『光武隊』
剣が『大鷲隊』
腫れた頬のままそれぞれ部隊に別れて行った。
嘉三郎は別れ際「同期の桜じゃ、靖国で会おう」と言った。
そして小声で「その時はぼた餅と落語で」と囁いた。
いい笑顔で別れることが出来たと思った。
桜花
むせかえるような蝉の声に押されて俺たちは扉を開いた。
京さんが「こっちだ」と呼ぶ。
そのまま引率されるようについて行くとそこには無数の写真があった。
「靖国に祀られる御祭神は現在246万余柱だそうだ」
京さんの言葉にかっちゃんが絶句した。
「驚くよな、嘉三郎くん。大東亜戦争前の御祭神はそこまでではなかったよな」
かっちゃんは唾を飲んで頷いて言った。
「16万余柱」
正直、俺にはよく分からなかった。
「ここにある写真はご遺族が奉納されたもので1万柱ほどあるらしい」
「総長、柱って何ですか?」
俺には京さんのような学が無かった。
「日本男児は戦で命を落とすと靖国神社で神様として祀られるのは分かるか?」
「はい。それは知ってます」
「そして神様を数える時の単位が柱なんだよ」
そうやって世間の常識を教えられているうちにかっちゃんは奥の方へ行ってしまった。
それにしても若い人の写真がとても多い。
俺と変わらない人達が、時を止めたそのままにここに居ると思うと、柱ひとつ知らずにいた自分が恥ずかしく思えた。
かっちゃんを見つけた。
ガラスの向こうの墨で書かれた何かを見ていた。
「ああ、中将は約束を守られたのですね」
震える声でそう言った。
そして滂沱のごとく涙を流しながら展示物に敬礼をした。
美しい...
俺はしばらくその姿に見惚れていた。
一般の、周りにいた人達には奇異に見えたかもしれない。
それでも指をさしたりスマホを向けたりする人は居なかった。
「かっちゃん、この遺書は?」
俺は何度目かの逡巡の後に声を掛けた。
「これは大西中将の遺書です。日本は本当に負けたんだね。」
「ああ」
「大西中将は特攻隊の出撃の日に『俺もあとから行く』と約束して我々を空に送ったんです」
俺はもう一度この遺書に目を落とした。
「かっちゃんは特攻隊員だったんだね」
「.........そうだ」
絞り出すようにそう答えた。
直後、近くでそれを聞いていた翔太が馬鹿なことを、本当に愚かなことを言ってしまった。
「えっ、俺らと同じ特攻隊だったの!?」
驚いた顔でかっちゃんは振り向くと「どういうことだ?戦争は終わったんじゃないのか!?」と翔太に詰め寄った。
そして俺を見た。
「シュン君?」
俺は右手で顔を覆った。
「俺たちバイクで赤信号とかぶっ込んでチームが通れるように交差点停めたり、敵のチームとの抗争の時には一番槍で突っ込む特攻隊なんすよ」
(おまえは喋るな)
そんな願いも虚しく翔太がくだらない武勇伝を話す。
かっちゃんの表情が見ていられないくらいに紅潮して目が険しくなる。
あの顔だ。
翔太を組み伏せた時の表情。
マズイと思った。
駆け寄ろうとした時、かっちゃんの手が翔太の肩に置かれた。
「それ以上、散華していった特攻隊を貶めないでくれ」
静かにそしてとても悲しい顔だった。
きっと翔太は一瞬の鬼神のような表情を見たのだろう。
呆けた顔で「はい」と答えた。
京さんが翔太を連れて行った。
「未来は...この国は嘉三郎くんが守るべきものか、見ていってくれ」
そう言い残して。
それからかっちゃんは館内の展示を見て回った。
俺が話しかけた時だけポツポツと話してくれた。
「かっちゃん、この人形は?」
俺はくすんだ人形とも呼べないような人形を指して聞いた。
「隊員の多くは十代後半から二十代前半。結婚もしないで死地に赴いたんだ。それを不憫に思った家族や女学生達が花嫁の代わりに持たせたり死後に贈ったりしたものだよ」
そう言うとかっちゃんは懐に手を入れて一体の人形差し出した。
「妹がくれた人形だ。シュン君にあげるよ」
俺はそれをじっと見詰めて本当に貰っていいのか考えてしまった。
『兄さま。どうぞ銃後の守りは心配なさらずに、お国のために死んで下さい』
あの日、妹の佳代子はそう言ってこの人形を嘉三郎に渡した。
『これは花嫁ではなく私です。同じモンペでしょ』と揃いの生地を見せて屈託なく笑った。
そういう時代だった。
それが正義と疑わない時代だった。
「頼む、貰ってくれ」
かっちゃんの強い言葉に押されるように手が出てしまった。
俺の手のひらに人形を乗せると「ありがとう」と笑顔を見せた。
人形はとても軽くて薄かった。
特攻隊員の遺書を悲しそうに見詰めるかっちゃんの隣で俺は不覚にも号泣してしまった。
そんな俺にかっちゃんはまた「ありがとう」と言った。
とても優しい顔だった。
俺たちは再び入口のロビーに戻った。
戦車や零戦が展示される中、かっちゃんは吊るされた小さな飛行機の前に立った。
他の機体に比べるととても貧相で頼りなく見えた。
しばらく見上げると深々と頭を下げ小さく呟いた。
誰かの名前を呼んだようにも見えたが俺の位置ではよく聞こえなかった。
『桜花』
銘板にはそう記されていた。
空へ
翌朝、自分たちの任務が特攻だと知らされた。
神風特別攻撃隊。
通常三年はかかる予科練の教育が一年に満たない期間で終わった理由がようやく分かった。
あまりに唐突で理不尽な命令はどこか他人事のように思えた。
(剣や誠之介も特攻なのじゃろか)
そのせいかそんな心配も浮かんだ。
(ああ、いつか誠之介の着陸が『無駄に上手い』と教官が言っていたのはこのことか。もうあの時には決まっていたんじゃの)
二度と着陸の必要の無い離陸。
「特攻か...」
つい口に出すと急に実感が湧いてきた。
それでもしばらくは訓練の日々だった。
目標に低空で進入する訓練が特に難しかった。
海面すれすれを飛ぶ。
高射砲の仰角に入らないで敵艦戦に肉迫して一気に操縦桿を引いて艦上に出後に急降下して突撃する。
急上昇する時の操縦桿が恐ろしく重たく、必死で両腕を使って引いても上手く上がらなかった。
その度に機を降りては怒声と共にバッターで殴られた。
そんなある日、誠之介の光武隊で事故が起きた。
急降下の後の姿勢制御が出来ずに海面にまっすぐ墜ちた。
搭乗員が死んだと聞いた嘉三郎と田崎は食堂で誠之介の姿を探した。
「誠之介!!」
食堂の隅の席でメシをかき込む姿を見つけた。
その向かいには剣が居た。
きっと剣も探して駆けつけたのだろう。
久しぶりに四人が揃ってのメシだった。
ただ、事故の後。
はしゃぐような雰囲気ではなかった。
その夜、隊ごとに集められて上官からの叱責と制裁が行われた。
特に光武隊は連帯責任の名のもとに厳しいものとなった。
「畏れ多くも陛下からお借りした機体を事故で失うなどあってはならんことだ。お前たちの代わりなど掃いて捨てるほど居るが失った機体は替えが効かんのだ!」
激しい檄が飛んだ。
「では何故、特攻で機を失う作戦なのですか!?爆撃して帰投すれば何度も戦え」
隊員の一人が発言を終える前にバッターが顔面襲った。
背や手足に振られることはあったが頭部に向けては初めて見た。
メキっという音がして吹き飛んだ彼に追撃のバッターが振り下ろされようとしたので誠之介たち数人が覆いかぶさって庇い、先輩隊員が上官を必死で止めた。
鉄錆のような臭いが漂う。
バッターには赤黒い染みが見えた。
それはまだ滴っていた。
正論に対して暴力以外で返す術を持ちえないほどにこの組織は堕ちていた。
桜も散り、隊の先輩たちへ幾度『帽振れ』を行ったか...
鹿屋の隊員も随分減った。
嘉三郎たちは日に日に死に鈍くなっていくのが自分でも分かっていた。
仲間が飛び立ち機体の不調で戻った隊員への冷遇。
生きて戻ったこと恥と思い「飛ばせてくれ」と懇願する。
仲間と死ぬことだけが責務であるような錯覚を錯覚だと、多くの者は気づいていなかった。
そんなある日、誠之介が嘉三郎を呼び出して『後藤誠之介』と書かれた紙きれを渡した。
「誠之介くん、なんじゃこれは」
嘉三郎は名前だけの紙片を訝しげに見た。
「出撃が決まったんだ。でも俺には遺す形見がないから...嘉三郎くん、俺の名前を忘れんでくれ」
絶句した。
初めて死を身近に感じた。
そして、喪う恐ろしさが染み渡るように体温を奪っていった。
「明日、三角兵舎に移る」
誠之介はそう言って去って行った。
半地下のような三角兵舎は蒸し暑く、最後の数日を過ごすにはあまりな待遇だった。
数名の女学生が身の回りの世話に付いてくれたのは有難いがこそばゆかった。
誠之介は特に遺言を渡す相手も髪の毛を遺す身内も居なかった。
後顧の憂いの無い身上。
誠之介が予科練に入れた理由の大きな部分だった。
光武隊は件の事故以来、訓練内容が変わった。
グライダー飛行の練習だった。
母機から切り離された機体での滑空飛行。
誠之介はじめ光武隊の隊員は皆、自分が乗る機体が何かを察した。
「後藤誠之介です。本日お務めを果たすに何卒お願いいたします」
一式陸攻操縦士の長島一等飛行兵は誠之介の敬礼を受け「必ず成功するよう送り届ける」と返した。
水杯から帽振れ--
嘉三郎が友を見送るのはこれが初めてだった。
一式陸攻のプロペラが速度を増して回転を始めた。
その下に小判鮫のように張り付く桜花があった。
機体が滑走路を走り出すと嘉三郎は共に駆けた。
剣も田崎もそれに続いて駆けた
腕がちぎれんばかりに帽子を振った。
もう誠之介にしてやれることはそれしか無かった。
機影はみるみる小さくなり空に昇っていった。
つい先程までの轟音も強風も何も無かったように滑走路は押し黙っていた。
飛んでしまえば意外と平静だった。
食堂でトミさんが食わせてくれた親子丼。
あの時が一番逃げ出しそうなほどに怖かった。
今は......嘉三郎たちとぼた餅を食べながらもう一度笑えたらいいと思う。
「軍隊っちゅうのはいい所じゃ。友達も出来て俺の為に泣いてくれる」
独りごちた刹那、大きく機体が揺れた。
迎撃のグラマンが上がって来ていた。
桜花の操縦士は必ず死ぬ。
だが桜花を積み速度の落ちた一式陸攻もまた多くが撃墜されて散っていった。
『被弾した、これより切り離す』
一方的に無線が切られ桜花が放たれた。
ロケットエンジンが点火されグラマンの追撃を一気に突き放した。
その後ろで爆音が聞こえた。
きっと母機は墜ちたのだろう。
桜花の射程外で誠之介を捨てれば生還出来たかもしれない。
今、この場で安全圏で嗤う者は誰一人居ない。
それは敵も味方も同じだった。
誠之介は託された。
空母が見えた。
レキシントン級ではない。
単なる軽空母だった。
それでも撃沈すれば...一式陸攻には五名の搭乗員が居た。
託された命の重さは加速でのしかかるGの強さなど比べものにならなかった。
ロケットエンジンの加速に血流が偏り意識が途切れ途切れになった。
今見えているのは敵艦か海面か...
混濁する意識の中操縦桿を引いたのは無意識だっただろう。
機首が僅かに浮いた。
誠之介の桜花は敵艦の数m手前に墜ちて爆散した。
だがその衝撃で米軽空母は航行不能となった。
大本営発表ではレキシントン級空母一隻轟沈。
重巡、軽巡合わせて七隻大破及び中破。
今日の戦果は軽空母中破一隻だ。
軍神後藤誠之介たちの文字通り命を懸けた戦果だ。
真実を知る嘉三郎たちは誠之介に大してどんな顔をして靖国で会えば良いか、悔しくてたまらなかった。
いつか靖国で再び誠之介と語り合おうと心に誓った。
「誠之介...」
嘉三郎の小さな囁きは誰の耳に届くことなく虚空に消えていった。
7月-
その日は蝉の声が時雨のように注いでいた。
夏の雲が水平線の彼方に沸き立ち、嘉三郎たちは近所の農家さんが差し入れてくれた西瓜を頬張っていた。
この頃になると訓練以外に農作業もするようになっていた。
「嘉三郎、俺は操縦桿よりもクワを握ってる時間の方が長いかもしらん」
田崎が西瓜の種飛ばしながらボヤいていた。
「戦争はどうなるんかなぁ」
「案外すぐに終わったりしてな。アメ公だってこれ以上死んだらたまらんだろ」
田崎の楽観的な言葉はいつ出撃が決まるか分からない身には気休めにすらならなかった。
「はやく食いたいな、このさつまいも」
嘉三郎はそう言いながら農具を担いだ。
「まぁ、食えるのは秋だな」
田崎も笑いながら農具を片付け今日の作業を終えた。
兵舎に戻る前、嘉三郎たち伊吹隊は会議室に呼ばれた。
そこで特攻が伝えられた。
上官の言葉が遠くで聞こえるような気がした。
身体中の血液がスーッと下がる。
やけに空気がひんやりとした。
嘉三郎の隣で直掩機への搭乗を命じられた田崎は驚いた表情していた。
「自分も」
嘉三郎は言いかけた田崎を止めた。
「田崎、俺たちを死んでも守れよ」
そう言って肩を叩いた。
他の皆もそれに倣った。
三角兵舎に移る前に嘉三郎は田崎に遺書と髪の毛と、誠之介の名前を託した。
あの日の誠之介と同じように...
「うわ、これが明日の軍神様への待遇か?」
蒸し風呂の三角兵舎に嘉三郎が毒づくと皆がどっと笑った。
誠之介の時にはあった女学生の奉仕活動も憲兵隊からの横槍で廃止になっていた。
身の回りの事は全て自分ですることになっていた。
その晩、剣が兵舎を訪れた。
「うわ、酷いな」
その第一声に苦笑した。
「嘉三郎、俺は貴様のおかげで田崎や誠之介と仲良くやって来れた。貴様にどれだけ救われたか分からん」
真剣な様子に背筋が伸びた。
「俺も後から行く。靖国で会おう」
嘉三郎は差し出された右手を強く握り返した。
「きっと田崎は随分あとじゃ。ジジイになった田崎を、俺たちは若いままで出迎えて馬鹿にしてやろう」
そう言うと剣は「貴様のそういうところに本当に救われたんだ」と言って微笑んだ。
更に翌晩、今度は田崎が嘉三郎を訪ねた。
「馬鹿、お前は来るな」
小声でそう言ったがもう遅かった。
生き残れる役の田崎への怨嗟とも言える視線が向けられた。
「嘉三郎、来い」
田崎はそう言って嘉三郎の腕を引いた
「どこ行くんじゃ」
「街じゃ」
「なんでじゃ」
「なんでもじゃ」
「なんで広島弁じゃ」
「あ...そうだな」
田崎が戻った。
「合わせたい人がトミさんところに来てる」
田崎はそう言ってますます嘉三郎の腕を強く引いた。
トミさんの店は真っ暗だった。
でも実は中は明るい。
特攻隊員が深夜まで酒宴を開いたりするので灯火管制の遮光幕を完璧に施していた。
特に入口は厳重で、奥と手前で二重になったいた。
嘉三郎が奥の遮光幕をくぐった。
折り曲げた腰をのばし顔を上げるとそこには母の顔があった。
「嘉三郎!!」
セツがよろよろ手を伸ばす。
呉からの長旅で随分と消耗し憔悴したようだった。
「兄さま」
「兄ちゃん」
佳代子と末男が腰と足に手を回した。
三人が嘉三郎と抱き合う上から最後に留男が抱擁した。
「父さん」
嘉三郎が呼び掛けると返事の変わりにきつく抱きしめられた。
トミさんの計らいで一席が設けられた。
末男は見たこともない料理に目を白黒させていた。
無理もない。
末男が生まれてまもなくしてこの国は開戦したのだ。
嘉三郎は自分のオムライスを取り分けて末男に分け与えた。
末男は一口食べるとぶるぶると身体を震わせて花が咲いたような笑顔を見せた。
「田崎さんが電報で知らせてくれたの」
セツが不安気に言った。
軍規も検閲もあるから本当のことは打てなかっただろう。
それでも田崎は両親が察するように知らせてくれた。
留男がテーブルに静かに石を置いた。
懐からまるで慈しむように。
一瞬の無言のあと「一太郎だ」と告げた。
嘉三郎は石と父を交互に見た。
「インパールから骨箱にこれだけ入って帰ってきた」
「...兄さん」
嘉三郎には兄が二人居た。
ひとりは幼くして夭折した次兄の健二。
そしてひとりが今対面している一太郎だった。
海軍では遺体や遺品の回収が困難なことが多いが、今や陸軍までこのような難局とは...
「お父さん、お母さん。私は近々作戦に参加することになります。17年間、返し切れないほどの御恩と愛情を頂きました。その一切を返せぬままとなるかもしれません。でもその時は嘉三郎は立派に務めを果たしたと褒めてやってください。今まで大変お世話になりました。七度生まれこようとも、またお父さんお母さんの子供に生まれて来ます。ありがとうございました」
深々と頭を下げた。
遺言を読み上げるような、そんな挨拶だった。
「兄さま。どうぞ銃後の守りは心配なさらずに、お国のために死んで下さい。これは花嫁ではなく私です。同じモンペでしょ」
佳代子が歩み寄り屈託のない笑顔で言った。
差し出した人形は有り合わせの布地で作られた粗末なものだった。
佳代子が差し出した粗末な人形を、嘉三郎は両手で受け取った。
小さな布切れの温もりが、どんな軍令よりも重かった。
「佳代子は私と一緒に空を飛ぶのだね」
そう言うと佳代子はとても嬉しそうだった。
「帽振れー」
そんな掛け声があったのだろう。
プロペラとエンジンの唸りで嘉三郎には何も聞こえて来ない。
だが隊員達が高々と帽子を掲げて振る姿にそう思った。
嘉三郎達に与えられた機体は赤とんぼだった。
零戦は直掩機に回された。
桜花に至っては一式陸攻の犠牲も鑑みると一時中止が妥当だった。
嘉三郎は今となっては懐かしい複葉の練習機の計器を撫でるように指で辿った。
隊長機が飛んだ。
ふわりと浮くように滑走路から車輪が離れた。
皆それに続いて離陸する。
田崎ら直掩機は僅か数機。
赤とんぼの上で護りについた。
田崎の姿が見えた時、嘉三郎は一度手を振りぼた餅を食べる真似をした。
そして敬礼。
田崎もそれに倣う。
刹那、火線が走った。
迎撃のグラマンの歓迎の咆哮だった。
数機の赤とんぼが墜ち、海面で砕けた。
田崎達が必死の反撃をする中、赤とんぼ達は標的に向かった。
不思議だと思った。
高射砲や艦砲射撃、敵味方の銃声に撃墜音。
むき出しのコクピットに否応なく音は飛び込んできている。
なのに嘉三郎の心は静寂そのものだった。
低速でも安定する赤とんぼ。
空よりも海が近かった。
「誠之介、俺も空母が相手じゃ」
低空からそびえ立つ灰色の壁を駆け上がるように嘉三郎が操縦桿を引いた。
甲板から見れば海から飛び出したように見えたかもしれない。
空母直上に位置を取ると背面を向く。
そしてそのまま機首を真下に向けると速度を増して落ちて行った。
薄雲
「嘉三郎くん、僕の曽祖父は特攻隊員だったんだ」
遊就館を後にして入った喫茶店。
京さんがアイスコーヒー手にして言う。
「呉で同期に貰ったぼた餅が美味かった。別の同期は落語が達者で爺さんと行った寄席を思い出したとか、手紙には訓練のことなんてひとつも書いていなかったって」
アイスクリームに至福の笑みを浮かべていたかっちゃんの動きが止まった。
「飛ぶ前に戦争は終わったのかい?」
「8月15日に飛んだって。そして祖母はその日に生まれた」
京さんは首を振って遠い目をした。
見知らぬあの日を見通そうとしているように見えた。
「そうか...飛んだのか」
最後に多分『アイツも』と唇が動いたように見えた。
「なぁ、かっちゃん。なんか他にやりたいこと知りたいことは無いか?」
俺がそう聞くとかっちゃんは首を横に振った。
「逃げてもいいんじゃないっすか?ぶっちゃけ俺みたいに昔のことを知らない奴も多いっす。そんな未来人の為に死ななくてもいいっす」
翔太が不思議と必死だった。
さっきの遊就館での件で翔太なりに申し訳なく思っているようだ。
「ありがとう、でも無理なんだ」
「なんとかして逃げてさ、そうだ爺さんになったかっちゃんと俺たちで再会しようよ!!俺たちとって明後日、8月15日かっちゃんにとっては...」
「80年後だ」
俺が計算に手間取っていると、京さんが横から続けてくれた。
「なっ」
京さんからかっちゃんに視線を再び移した。
「ありがとうな、シュンくん。でもそれは手遅れで無理なんだ」
「未来は変えられるって」
我ながら臭いセリフだと思った。
「変えなくていい。未来の日本はとても素晴らしい世界だ」
そう言ったかっちゃんが薄く見えた。
「ボクは未来を奪われるんじゃないんだ。シュンくん、キミたちに託すんだ」
気のせいじゃない。
ソファーの背もたれが透けて見える。
「ちょ、」
俺はかっちゃんの手を掴もうと手を伸ばした。
「人形、頼むな。妹は連れていけな...」
一瞬、触れた。
指先にかっちゃん温度が確かにあった。
でも次の瞬間俺の手は空を切り、そのままバランスを崩してテーブルのグラスや皿を落としてしまった。
グラスと皿の割れる大きな音と共に大きな喪失感が残った。
「!?」
一瞬、夢を見ていたようだ。
不思議な夢だった。
高層ビルに囲まれた東京と屈託のない若者。
きっと平和な未来を望んだ自分の白昼夢だったのだろう。
懐に妹のくれた人形の感触が無かった。
ふっと笑いが零れた。
「夢じゃないんだな、シュンくん」
次の瞬間、轟音と衝撃と光が嘉三郎を包んだ。
この日12機中2機が突入に成功。
軽空母大破、軽巡中破の戦果だった。
大本営は相も変わらず誇大な...いや虚偽の発表を報じた。
直掩機は2機が未帰還となった。
田崎は帰還すると便所で吐いていた。
胃には何も無かったが吐き気が止まらなかった。
(戦果の有無に関係無く国民に知らせるなら、特攻などさせずに発表だけすればいい。誠之介が逝った。嘉三郎が逝った。このままでは我が国は大戦果を上げ続けて滅亡するぞ)
田崎は口元を拭うとその手で壁を殴った。
「田崎!!」
廊下を幽霊のように歩く田崎を呼び止めたのは剣だった。
「嘉三郎は...勇敢だったか」
「聞く必要はあるか」
いつも飄々とした風の田崎ではなかった。
「すまん。嘉三郎に対して失礼だった」
「直掩機なんて無意味だった。俺は俺の身を守るだけで精一杯で、嘉三郎は爆弾だけ抱えてあの赤とんぼで突っ込んだんだ!その問いは、その問いは......臆病者の俺にこそすべきものだ」
田崎は剣の胸に拳を当てて叫んだ。
最後の言葉は喉の奥から搾り出すようにかすれ震えていた。
剣は田崎の拳を受けたまま何も言わなかった。
空襲は日に日に激しくなり、先日は三角兵舎付近で女学生がひとり犠牲になった。
20mmの直撃。
遺族ですら名札を見るまでは判別出来ない程に凄惨なものだった。
少女ひとりを機銃掃射で葬らなくてはならないほどにアメリカは逼迫しているのか。
もう誰の目にもこの戦争の帰結は明らかだ。
(ならば本当の敵は誰だ)
剣は大きなため息を吐いて万年筆を置いた。
考えても詮無きことだ。
(俺は俺のすべき事をすべき時にするだけだ)
剣はそれが家族を守る為の唯一だと思っていた。
新妻と今度生まれて来る子供を守る唯一だと。
拝啓ツル様
隊で友人が出来きました。
ひとりは愛国心の塊のような男で私よりも4つも年少です。
彼の家族からの差し入れのぼた餅をひとつ頂きました。
この戦時下にあんな甘いものが食べられるとは思いませんでした。
ひとりは落語が達者な男です。
彼の芝浜に祖父と行った浅草の寄席を思い出しました。
彼は気持ちのいい男です。
私たちは彼の人柄で繋がっていました。
ひとりは掴みどころのない皮肉屋で、正直私は彼を好いてはいません。
好いてはいませんでした。
でもそれは彼の表面しか、彼が見せようとしていた所しか見ていないことに先日気付きました。
誰よりも熱く、その想いを決してひけらかさず胸にしまう男の中の男だと思いました。
いつか彼らと靖国で会えるなら、どんな強大な敵にも立ち向かえそうです。
もうすぐ赤ん坊が生まれますね。
男なら智和、女なら桜子はどうでしょうか。
きっとこれからの時代は叡智を以て和を築く世となると信じて。
キミと出逢った桜の季節を想って。
どちらでもキミに似て可愛らしい子になると思います。
どうかお身体ご自愛ください。
坂田剣
7月も末になると直掩機隊も解体された。
田崎は航空基地横にある壕に移動となり毎日モールス信号を受けることになった。
念願のトンツー。
だがこれは悪夢の始まりだった。
『我 敵艦二 突入ス』
ツー
長音がヘッドホンから聞こえる。
この長音が途切れた時が隊員の死を意味する。
死神の音。
断末魔。
その長音を数える。
1、2、3、4.........
10秒なら命中、未満なら撃墜。
気が狂いそうだった。
来る日も来る日も隊員が死ぬ瞬間を聞き続けた。
そして8月--
剣が田崎を訪ねて来た。
嘉三郎が特攻した日からひと月。
剣の手には封筒が1通あった。
「決まったよ」
田崎が生唾を飲み込む。
動揺していたのは田崎の方だった。
「お前には辛い役目負わせることになるが、これを俺の妻に渡してくれ」
その言葉に内心、死ぬより辛い役目があるものかと田崎は強く反発したがそんな正論など剣がよく分かっている筈と「必ず」それだけ言って封筒を受け取った。
別れ際の剣の顔は記憶に無い。
すりガラスの向こうを見るように滲んでいた。
蝉時雨の中、田崎たちは滑走路に集められた。
久しぶりに見る滑走路には零戦も艦爆も無かった。
何よりもあれだけ居た隊員の姿ももう僅かだった。
整列した田崎たちの前にラジオが置かれた。
「これより天皇陛下より勅旨を賜る!」
直立した上官の怒声の方が後の聞きなれない声よりも印象的だった。
『朕深ク世界ノ大勢ト 帝国ノ現状ト二鑑ミ 非常ノ措置ヲモッテ時局ヲ収拾セント欲シ ココニ忠良ナル汝臣民二告グ
朕ハ帝国政府ヲシテ 米英支蘇四国二対シ ソノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ』
田崎は膝をついた。
周りではすすり泣く者、意味を尋ねる者と多様だったが田崎は膝をつき空を見上げ放心していた。
青く澄んだ空にかかる薄い雲が美しかった。
つい2時間前に剣が飛んだ空だった。
鹿屋へ
「鹿屋に行こう」
集会の帰り、そう言い出したのは翔太だった。
「かっちゃんの基地か?」
「そうっす。だって最初に会った時に鹿屋に行きたい的なこと言ってたじゃないっすか」
「そうだな」
俺は喫茶店でかっちゃんが消えていった瞬間を思い出していた。
(鹿屋...基地だっけな。)
「俺もあんな消え方されて何か意味を探したいし、行くか!」
「はい」
「で、カネはどうする?」
俺は現実的な問題を翔太に提示した。
「...」
「お前、鹿屋ってどこか知ってるか?」
「...埼玉とか群馬とか?」
ああ、やっぱり。
翔太は思っている以上に知識が無い。
まぁ正直なところ俺もそうだ。
学力は中卒以下だ。
「九州だよ、それも地図の1番下のあたり」
「マジっすか」
自販機の前でしゃがんだままうなだれた。
誘蛾灯のジッジッという音だけが不規則にしていた。
「嘉三郎くんに会いに行くのか?」
見上げると声の主は京さんだった。
「いやぁ、行きたいんすけど俺たちカネ持ってないっす」
言ってますますうなだれた。
「総長、俺新幹線初めてっす」
「ここで総長って言うな」
リクライニングを動かしてはしゃぐ翔太に京さんが言う。
「京さん...でいいですか?」
俺が聞くと京さんは頷いてくれた。
「分かったな、翔太」
「了解っす」
今度はテーブルを出したりしまったりしてる。
グレた原因を他のせいにするのは卑怯だが、翔太は所謂ネグレクトで修学旅行にも行けてなかった。
そんな反発から中学にも行かなくなってチームで走るようになった。
「京さん、本当にありがとうございました。帰ったらふたりでキッチリ返します」
俺たちは京さんに旅費を借りた。
条件は京さんと行くことと、帰ったら分割で返すこと。
俺たちに断る理由は無かった。
「富士山ですよ、京さん!!」
「小学生かよ」
翔太が大声を出すので思わず言ってしまった。
京さんは笑っていた。
「車内販売来ませんね」
俺が通路の前後をキョロキョロすると「今はもうやってないよ」と京さんが教えてくれた。
「どこかで止まったら自販機にダッシュだな」
京さんがニヤリとする。
なんだか今日の京さんは妙に機嫌がいい。
もうすぐ名古屋だ。
もう喉がカラカラだった。
序列から言えば翔太にパシらせる場面だが、多分何かやらかしそうなので俺も一緒に行くことにした。
「いいか翔太。キヨスクだ。キヨスクで京さんのコーヒーとお茶とあとなんか食い物買ってダッシュで戻るぞ」
俺と翔太はドアの前に立って新幹線が止まるのを待った。
「シュンさん、ここなんか面白いっすね」
キヨスクの所狭しと並ぶ商品を見て翔太は楽しそうだった。
「いやいや、楽しんでる場合じゃねぇから。あ、おばちゃんこのチョコも」
発車メロディがホームに流れた。
俺はレジ袋を受け取ると翔太の腕を掴んで走った。
(小学生の引率の方がマシかも)
息も絶え絶え乗り込んだ俺は通路にへたりこんでそんなことを思った。
両手に袋を持った翔太を従えて戻った俺を見て京さんがゆっくり手を叩いて迎えてくれた。
「動き出しちゃったからさ、間に合わなかったかと思ったよ」
今日イチの最高の笑顔だった。
この人は他人が焦る姿を見るのが楽しい部類の人だと思った。
「美味しいね、これって名古屋コーチンかな」
「え、なんすか名古屋コーチン?」
「鶏だよ。俺も食べたことないからさ」
俺は、京さんってこんな屈託の無い人なんだと思ってしまった。
これがあのダークアズラエルの総長だなんて今更ながらに...
「シュンくん。さっきの店員さん計算機も何にも使ってなかったけど凄くない?」
翔太は翔太でいつも屈託が無い。
「あれは所謂、特別な訓練を受けてるんだよ」
面倒だし翔太にはこれで十分だろう。
「京さん、口直しにチョコどうですか」
デザート代わりに最後に買ったチョコを出した。
「甘いな」ひとつ摘まんで言った。
翔太は「美味いっすね」とふたつ、みっつと口に放り込んだ。
そんな皆の様子に「かっちゃんが食ったらなんて言うかな」と思わず呟いてしまった。
「かっちゃんの時代って甘いものあったのかなぁ」
翔太が車窓から空を眺めて言う。
まるでこの空があの時代に続いているみたいに遠くの空を眺めて。
雲の向こうで何かが光った。
「おっ、アパッチっす!!京さん、アパッチっすよ」
自衛隊の戦闘ヘリだ。
キャノピーが太陽に反射していた。
「なんか撃たれたりして」
「そん時は伏せてやり過ごすか」
翔太の冗談に冗談とも本気とも言えない京さんの返事だった。
「いやいや、自衛隊は俺たちの味方じゃないですか」
思わず俺が口を挟む。
「ま、そうだな」
そんなやり取りのうち、いつの間にかヘリは見えなくなったいた。
代わりに鳥が1羽。
一瞬で行き過ぎた鳥は宝石みたいに美しい鳥だった。
京さんなら知ってるかもと聞いてみたが、京さんはその鳥自体見ていなかった。
「そんなキレイな鳥ならオオルリかもな、知らんけど」
オオルリ。
ググって見ると似ていたからきっとそれだと思った。
(この人、なんで総長なんかやってるんだろう?)
俺はつくづく本気で思った。
「ところで...」
広島を過ぎたあたりだった。
ずっとニコニコしていた京さんの表情が変わった
「はい!」
俺と翔太は姿勢を正した。
「どうしてこんなに嘉三郎くんに肩入れするんだい?」
京さんはさらに続ける。
「経緯は聞いたけど、僅か1日程度でしょ。それが俺を呼び出したり借金までして鹿屋に向かったり。どうして?」
真っ当な疑問だった。
そして俺たちはそれに対して説明する術を持たなかった。
「分かんないです」
俺は京さんの目を見て言った。
「正直、分からないです。ただ、かっちゃんの目が俺たちとは違いました。同じくらいの年齢であんな目をしているなんて、かっちゃんが見てきた物は、時代はどんなだっただろうって」
「あんな消え方もしたしな」
京さんの言葉に(確かにそうだ)と思った。
どこかで疑っている自分がいた。
かっちゃんの言葉を疑ったことは恥ずかしいとは思わない。
タイムリープやらタイムスリップやらなんて現実で有り得ないのが常識だ。
でもそれが全てひっくり返ったのがあの瞬間だった。
戦時中から来たと言っていた人間が目の前で消えたらもう信じるしか無かった。
同時に興味もわく。
「それと七生報国です」
「?」
京さんが不意を突かれたような顔をした。
「かっちゃんが言ってたんです、七生報国。かっちゃんなら本当に七度生まれ変わってどこかにいるんじゃないかなって」
「そうだな。平和な時代に生まれ変わっていてほしいな」
京さんはとても優しい顔で俺を見た。
よく分からないが俺は顔が赤くなるのを感じた。
鹿屋航空基地。
それはとても立派で大きい航空自衛隊の基地だった。
ひこうき雲とジェット機の轟音。
それすらかき消すような夏の象徴、蝉の声。
土の匂い、草の香り、そして南風。
あの日も、同じ匂い、同じ風が吹いていたのだろう。
国を守る人たちの想いは、あの日からずっと変わらない。
この向こうに、かっちゃんが歩いた痕跡がある--
そう思うと、胸の奥がざわついた。
あの時代の空気、匂い、そして人々の息遣いに、少しでも触れたい。
翔太は草の匂いに顔をしかめながらも、手をかざして空を仰いだ。
「うわ…なんか、時代を感じるっす」
京さんは静かに目を細め、遠くの建物を見つめた。
「過去の人たちの想いは、今に続いてるんだな」
俺たちは三人でしばらく、ただその場に立っていた。
目の前に広がる景色は変わっても、確かにそこには、かつての時間の痕跡が刻まれている。
そしてその痕跡を追うことこそ、あの消えた人に近づく唯一の方法なのかもしれない--
帰郷
燃やせる物は全て燃やした。
ガソリンをかけて基地の機密を焼き尽くした。
上官は命令だけ告げると早々に撤収...いや、逃げ出した。
数時間のうちにここ鹿屋航空基地は米軍機が降り立つだろう。
田崎ももうここを発つ。
剣の手紙を、誠之助の名前を、嘉三郎の遺品を守らなくてはならない。
米軍に奪われてしまえば靖国で会った時に土下座をしても許されない。
いや、彼らは「ドジだな」と笑って許すだろう。
許さないのは田崎自身だ。
彼らの最期を伝えなくては生き残った自分の使命を果たさなくてはならない。
背嚢に詰め込んだ彼らの生の証を背負って基地を後にした。
最後に二度、三度振り返った。
頼りない細い煙が八月の青い空へ消えていった。
戦争に負けた...勝つと思い込んでいた戦争に負けたという事実は一部に自棄を起こした集団を生み出した。
野盗だ。
一度田崎も襲われて、なんとか逃げることが出来た。
これが陛下の臣民の成れの果てだった。
敗戦の絶望からか、米兵への恐怖からか自殺や心中のあとも見掛けた。
無理もない。
鬼畜米英と教えられてきた連中が来るのだ。
つくづく酷い放送をしたものだ。
田崎はそんな事を思いながら呉を目指した。
門司まではなんとか辿り着くことが出来たが、そこから本州へ渡るのが難儀だった。
連絡船に乗れないのだ。
田崎は順番待ちの群れに身を寄せて門司でしばらくの足止めを食うことになった。
順番を待つ間、数人の赤ん坊と幾人かの傷病者が死んでいった。
蝿が止まりだらしなく口を開けた赤ん坊に自分の乳に必死で押し当てる母親の姿は流石に不憫で目を逸らした。
弱い国が負けた。
それは当然の帰結だ。
だが弱い者が死んでいい道理などない。
戦争を始めた軍部、政治家、貴族、財閥はまだのうのうと生きているはずだ。
国が戦争をやめた時から国民の凄惨な生存への戦いが始まったのだ。
ただどんなに怒りを募らせても田崎も単なる敗残兵だった。
この奔流に抗う術など無かった。
呉に辿り着いたのは鹿屋を発って三週間ほどしてだった。
その間に日本はミズーリ艦上で降伏文書に調印した。
途端に町を挙げての米軍歓迎には田崎も目を丸くした。
どの町も老若男女誰彼構わずだった。
もっともそれが屈辱を噛み殺してのものだとは承知している。
だがこれが皆が命を投げうって守ろうとしたものなのかと思わずにはいられなかった。
『坂上』の表札をようやく見つけた。
格子の戸を数回叩くと懐かしい顔があった。
あの日、鹿屋を訪ねて来た佳代子だった。
佳代子は目の前の田崎を訝しげに見て「どちら様でしょうか」と戸に半身を隠して尋ねた。
無理もない。
汗と埃で赤黒く煤けた上に頬が骸骨の様にこけてしまっている。
田崎の母親だって同じことを尋ねたかもしれない。
「嘉三郎くんの戦友の田崎です。一度鹿屋でお会いしましたね」
そう言うと佳代子は驚いて「お母さん、お母さん!!」と田崎を戸の外に置き去りにして行ってしまった。
割烹着の前掛けで手を拭きながら母親のセツが小走りでやって来た。
「すみません、不躾な娘で。こんな場所で立たせて待たせるなんて」
セツは呆れ声でそう言うと何度も頭を下げた。
「いいえ」
田崎はそう言うと背筋を伸ばし踵を揃えてセツに敬礼した。
「本日は嘉三郎くんから託された遺品をお持ちしました」
戦死の報せは既に届いていた。
「軍神様の御母堂じゃ」
「英霊のご家族じゃ」
近所の人達がそう労い讃えた数日後の降伏だった。
セツは玄関に正座をすると床に額がつくほどに頭を下げた。
「わざわざ遠路はるばる嘉三郎を送り届けて下っさってありがとうございます」
田崎は玄関の土間に膝まづくと「お母様、どうか顔を上げてください」と大慌てで言った。
和紙で束ねた嘉三郎の髪。
父、母、妹、弟への遺書。
お祖母さんへの遺書もあったが嘉三郎の戦死を知る前に逝去されたので仏壇に供えられた。
田崎は逗留を請われ、固辞したものの「嘉三郎の想い出を聞かせて欲しい」と言われて泊まることを決めた。
父親の留男は雨戸を薪にして風呂を沸かしてくれた。
(これから台風の季節なのに)
田崎は有難いやら申し訳ないやらで、せめてもの気遣いで嘉三郎との思い出は少し美化して話すことにした。
翌朝の出立のとき、セツが「お口に合えばいいですけど」と竹皮の包みを差し出した。
ぼた餅...いや、おはぎだった。
以前のような大きな物ではなく随分小ぶりのおはぎだった。
戦時下どころか更にものが無い状況で『息子の代わりにお前が飛べば良かった』と言われても仕方の無いこの状況で。
嘉三郎は本当に良い家族に恵まれたのだなと思った。
あとで聞いたがこの時のおはぎは佳代子のお手玉が化けたものだった。
田崎は一路、東を目指した。
次は剣の妻が居る東京だ。
呉駅から出ていた列車に乗った。
乗ったと言うか貨物列車に無賃乗車だった。
同じことをする人間が他にも大勢居た。
実のところ、駅員も車掌も見逃してくれていた。
もう多くの人が故郷に帰りたかった。
故郷の山に川に、大切な人たちに会いたかった。
そんな人達を引きずりおろす事は彼らには出来なかった。
(富士山だ)
ああ。嘉三郎達と見たのはつい数ヶ月前だったはずなのに、懐かしかった。
対面の座席に膝を付き合わせて、四人腰を掛けたあの日が瞼に浮かんだ。
「俺たちは死ぬことの本当の意味を分かっていたのかな」
瞼の向こうの嘉三郎に話し掛けた。
嘉三郎はそれには答えず静かに笑っていた。
(誠之助、お前なんて紙切れに書いた名前しか残ってないじゃないか)
「田崎くんが時々思い出してくれれば俺はずっと生きられるよ」
「死んだように生きる連中も居れば死んでも人の心に生き続ける奴もいるさ」
誠之助と剣の声が聞こえた。
「この国は再び世界の一等国になるよ。俺たちはこの国に命の種を撒いたんだ。育ててくれよ、田崎くん」
そう言うと三人は光の中へ歩いて行った。
「嘉三郎!!」
自分の叫び声で目が覚めた。
どこから眠っていたのだろう。
列車は小田原を過ぎていた。
やがて列車は高島の貨物集積所に止まった。
かつての賑わいは無く、建物の多くが空襲で焼失していた。
降りて大きく伸びをすると田崎は歩き出した。
(明日には着くだろう)
剣の自宅の入谷はあの空襲で大きな被害を被った地域だった。
(問題は着いたあとか)
自宅をどう探すかが思案のしどころだった。
上野駅を目印に入谷へ歩いた。
陶器の欠片や釘、ガラス片、トタンの一部と道が道の体を成していない。
江戸時代から大正初期まではこの辺りは朝顔市が行われて大変賑わったと聞いたことがある。
田崎が生まれた頃にはそんな風物詩も失われてしまっていた。
そして今やここにあった市街地も失われ、無数のバラックがひしめいていた。
板切れを寄せ集めて作られた住居とはとても呼べないものや、とても冬は越せなさそうなものまで...
そこにはかつての帝都の面影は無かった。
田崎は周囲の人達に坂田剣の家を尋ねて回った。
ようやく手掛かりを得たのは陽もだいぶ傾いた頃だった。
「剣さんとこね、あんな乳飲み子抱えて可哀想に。奥さん、言問橋の方に行くって言ってたよ。どっちの実家か知らないけれど、両親がそこに逃げてきたらしくてねぇ」
田崎は何かよく分からないものを煮込んでいた女性に礼を言うと言問橋へ向かった。
食べ物の匂いはしなかったがきっとあれが夕食なのだろう。
ここでもまたこの国の現実を思い知らされた気がして身震いがした。
一日の終わりに、それもこのような地獄の底でこんな報せを受けたら彼女はどのような気持ちだろうか...
ようやく見つけた言問橋の集落。
そこで田崎は剣の細君ツルさんに会った。
一瞬言葉を飲んだ。
この世界にあって一輪の花を見つけたような...とても美しい女性だった。
そんな女性が赤ん坊を抱えたまま、差し出された遺品を受け取って立ち尽くしていた。
そして剣の手紙を読み終えると「主人の...主人の言葉を届けて頂きありがとうございます。そうですね、この子は桜子と名付けることにします」と言って「桜子」と赤ん坊に呼び掛けた。
そして深く息をつくと田崎に向かってこう話し始めた。
「今、私の目の前に居らっしゃるのが田崎さん、あなた様で本当に感謝しています。きっともう二度と会うことのない人でしょうから。ですから私は私の本心を話すことが出来ます。嫌な女だと、心根の醜い人間だときっと思うでしょう。でも二度と会わないあなた様だから話すことが出来ます」
田崎は平静を装ってはいたが狼狽していた。
(罵られるのだろうか)
(それが彼女の一時の慰みになるのなら)
「あの人が、剣が生きていてくれるのならこの国が滅びようと私は構わなかった。剣さえ居れば焦土の街でも瓦礫の都市でもいいえ、たとえ地獄でも良かった。桜子の頭を撫でてずっとずっと長生きして孫を抱いて、凛々しい顔が台無しになるくらいに目尻を下げて笑うの。剣さえ...剣さえ生きていてくれたらもう何も...」
最後は何と言ったかは聞き取れなかった。
この人の心根が醜いなどとは思えなかった。
いや、思うわけなどない。
靖国で会おう
日本男児して潔く
死して英霊たらん
今、田崎は価値観が混乱していた。
確かに戦場で死ぬことは恐れてはいなかった。
誠之助のことも嘉三郎のことも剣のことも誇らしく思っている。
そして生きながらえたことを恥じている自分もいる。
なのに何だろう。
故郷の父や母や弟や姉、妹を思うと急に恐ろしくなってきた。
目の前で本心を吐露するツルさんの姿に自分はなんと恐ろしいことをしてきたのだろうと全身の血液が熱を喪っていくのを感じた。
同時に気が遠くなっていった。
気が付いたのは翌朝だった。
夕焼けは朝焼けに変わっていた。
まだふらつく頭で身体を起こすとツルさんが土下座をして謝罪をした。
いや、ツルさんだけではなくご両親もあらん限りの謝罪の言葉を述べて土下座をしていた。
田崎もすっかり驚いてしまって「こちらこそご迷惑をお掛けして申し訳ありません」と土下座をした。
皆で地面にひれ伏している様子を見かねた周囲の人が「ほら、赤ん坊がむずかってるよ」と助け舟をくれた。
田崎はツルさんとご両親に改めて礼を言った。
「私は昨日ツルさんに命をもらいました。私は戦友たちを見送ってむざむざ敗残兵として生きながらえました。散華の瞬間を見届けた友も居ました。そんな私が何故生きているのか......戦友たちを家族のもとに送り届けたら靖国に行こうと思っていました。ええ、それが私たちの約束でしたから。でも、昨日のツルさんの言葉に急に怖くなったのです。臆病者と誹りを受けても生きたいと思ってしまった。願ってしまいました。ツルさんは昨日、私に命をくれました。ですからお礼を言うのは私の方なのです」
田崎はそう言って深くお辞儀をした。
なんだか身体が軽くなった気がした。
言問橋のバラックを後にした田崎は(故郷へ帰ろう。島根に帰ろう)そう思った。
「お前も一緒だ」
そう呟いて誠之助の名が書かれた紙を大切に折りたたんだ。
佳代子
かっちゃんがいた。
写真の中のかっちゃんは、大人びて見えた。
飛行帽を被り、ゴーグルは額に当てている。
「ゴーグル付きの半キャップみたいっすね」
翔太が隣から覗き込んできた。
俺は、かっちゃんとの再会を邪魔されたような気分になって、少しムッとした。
『坂上嘉三郎 飛行特務少尉 17歳』
写真の下に添えられた銀色のプレート。
「かっちゃん、偉かったんだな」
俺がそう言うと、京さんが教えてくれた。
「多分それ、二階級特進後の階級じゃないかな」
「京さんって、やたら詳しいですよね」
かねてから思っていたことを、つい口に出してしまった。
「んー。田崎の爺さんのせいだな」
「誰です、それ?」
「ああ。特攻で死んだ俺の曾祖父さんの戦友でさ。まぁ、色々教えてくれたよ。おかげで自分でも知りたくなってね」
京さんは、少し間を置いて付け加えた。
「もう死んじゃったけどな」
遺族から寄贈された遺書があった。
かっちゃんが父親、母親、弟妹、祖母に宛てたものだった。
「昔の人ってさぁ」
また翔太だった。
「めちゃくちゃ字、上手くないっすか?」
それは俺も思った。
「上手いよなぁ」
「シュンさんとタメっすよ」
「ぅっせーな」
俺は翔太を肘で小突いた。
と、その時ある名前に目が止まった。
『田崎(旧姓 坂上)佳代子様より寄贈』
「京さん!」
思わず大きな声を出してしまった。
「京さん。この田崎佳代子って、さっき言ってた田崎の爺さんの?」
京さんは黙り込んだ。
何か考えているようだ。
「鈴木や高橋なら偶然もあるけど田崎って学年に一人すら居ないかもな苗字だよな」
京さんは俺に話し掛けたのだろうか、それとも考えをまとめる為の独り言だろうか。
「行こう!」
「行こうって?」
「田崎の爺さんの家だ」
京さんはそう言うと出口に向かって歩き始めた。
東京を出て鹿屋に来て、俺たちは今、島根に向かっていた。
予算の都合で高速バスに揺られている。
カーテンの隙間から覗くと、灯りが点在する太い道だった。
「京さん、家知ってるんですか?」
「小学生の頃、1度だけ行った」
「忘れてないんですか!?」
「大丈夫。田舎だからそんな景色も変わってないだろ」
さりげなく失礼だ。
「京さん、見ましたか?」
翔太が思い出したように言う。
「かっちゃん、遺書にも七生報国って書いたっすね。座右の銘ってやつっすかね」
「翔太も座右の銘って言葉、知ってたんだな」
京さんが可笑しそうに言った。
「嘉三郎くんはこの国を愛していたんだよ」
そして少し寂しげに言った。
その言葉にそこまで国を愛せる意味を考えてしまった。
正直俺は何も考えたことが無かった。
国を愛するって何だろう。
カノジョとかを大事に思うのと同じだろうか?
それとは違う気がする。
チーム同士の抗争で地元を守るとか仲間を...いや、一緒にするとかっちゃんが怒るな。
ああ、でも地元が好きってのはどうだろう?
商店街の肉屋のコロッケとか、八百屋のおっちゃんとか。令和の時代にぶら下げたザルに金入れてるとかエモ過ぎる。
不思議だな。
SNSやインターネットで世界が広がったと思っていたけど俺は地元しか知らない。
かっちゃんはこの国を、この国そのものを愛していた。
視野は俺より遥かに広かった。
そして狭いコックピットで世界を知ることなく、たった一人で逝った。
バスの揺れとエンジンの唸りが単調なリズムを刻む。
......寝よう。
明日、何か分かるかもしれない。
俺はブランケットに身を包んでシートに沈んだ。
相変わらずの蝉の声。
見渡す限りの田園。
きっと京さんが来た頃から、嘉三郎の時代から大きく変わっていないだろうなと思った。
京さんは大きく伸びをすると迷いなく歩き出した。
そこは立派な佇まいの日本家屋だった。
呼び鈴を鳴らすと奥から「はーい」と女性の声がした。
カラカラと軽い音とともに扉が開かれた。
インターホンが付いてはいるが無警戒に扉を開くのは田舎ならではだろう。
都内ではありえない応対だった。
だが流石に見知らぬ男が三人も居れば対応も訝しくもなる。
警戒した様子で「どちら様?」と扉に身体を半分隠して言った。
「ご無沙汰しています。田崎の爺ちゃんによく遊んでもらっていた御影京です。覚えていらっしゃいますか?」
京さんが一歩前に出てそう言うと「あらぁ!京ちゃん大きくなって」
女性はそう言うと「中に入って」と三人を招き入れた。
「実は...」
京は鹿屋航空基地へ見学に行ったことと、そこで見た特攻隊員の遺書を大婆ちゃんが寄贈したと知った旨を説明した。
当然だが嘉三郎との話は伏せた。
「大婆ちゃんとは話せますか?」
京さんが聞くと「今日は調子が良いからきっと大丈夫よ」
そう言って奥の方へ歩いていった。
しばらくしておばさんは大婆ちゃんの手を引いて来てくれた。
京さんは部屋の隅にあった椅子をごく自然に用意して「こんにちは」とゆっくりと大きな声で言った。
「あら、京ちゃんよく分かったわね」
おばさんは感心しきりな様子だった。
肘掛けの他に手すりのついた座面の高い椅子。
考えてみればこの家の廊下には手摺りが付いていた。
大婆ちゃんはゆっくりと少し震えるような動きで席に着いた。
「佳代子婆ちゃん、今日僕達は鹿屋航空基地に行ってきたよ」
京さんの言葉に大婆ちゃんはうんうんと頷いていた。
(そうか、京さんは歴史をこういった人達から聞いて学んだから接し方が上手なのか)
俺は勝手にそう得心していた。
「嘉三郎さんについてお話ししてもらえますか?」
そう言うと大婆ちゃんはピクりとして手を合わせた。
「私は兄様にとんでもないことを言ってしまったんよ」
京さんは隣で大婆ちゃんの手の甲に自分の手を重ねて話の続きを促している。
「兄様に『お国のために死んで下さい』って私は言ってしまったんだよ。それが正しいことだとずっと信じて...」
大婆ちゃんがポロポロと涙を零しながら言葉を詰まらせた。
京さんはハンカチを渡して「誰も悪くないよ。時代がそれを正しいことだとしていたんだから。大丈夫、悪くないよ」と優しく言った。
「私はね、あの日兄様に人形を渡したんだよ。同じモンペの生地を使って作った」と言いかけて大婆ちゃんは目を丸くして俺を見た。
いや、俺のリュックを見ていた。
「あっ」
俺もそれに気付いて思わず声を出した。
そしてリュックにぶら下げていた人形を、かっちゃんから貰った人形を大婆ちゃんに渡した。
「まるで昨日渡したようじゃないか。この柄は私が穿いていたモンペの柄。どうしてあなたが持っているんだい」
俺は返答に困った。
正直に話す訳にはいかない。
ダメじゃないけど理解されないだろうし、万が一侮辱と取られたら傷付けてしまう。
俺が何も言えないでいると「当時の女学生たちが作ったマスコットの複製品です。似てたんですね」と京さんが助け舟を出してくれた。
知覧ってどこだろう?
俺にはよく分からなかったけど、とにかく話を合わせた。
「シュン、これ差し上げてもいいか?」
京さんの言葉に俺は頷いた。
「嘉三郎さんにお供えください」
京さんの言葉に大婆ちゃんは人形を愛おしそうに撫でて「ありがとう」と言った。
俺は「ちょっと待っててください」
そう言って家を出た。
引っ掛けるように靴を履くとバスから見えたコンビニに走った。
それからまた田崎家に戻ると「仏前に」と言ってコーラとアイスを渡した。
「シュン、アイスは...」
京さんは言いかけて「いや、一度お供えして皆で食べるか」と言い直してかっちゃんの位牌に手を合わせた。
「あれ?」
俺は仏壇の位牌に違和感を覚えて言った。
「この戒名の無い後藤誠之助さんってどなたですか?」
位牌はかっちゃんと田崎さんに並んで置かれていた。
「兄様と田崎には、京ちゃんの曾お祖父さまの坂田さんと後藤さんという仲間が居たんです。その中で桜花という特攻の為だけに作られた飛行機で最初に征かれた方だそうです」
あの時の聞き取れなかったかっちゃんの呟きが、声を伴ってフラッシュバックした。
「後藤さんには身寄りも形見も無くて」
そこまで言うと大婆ちゃんは仏壇の引き出しから袱紗を取り出した。
恭しい手つきで袱紗を開くと端の方が茶色く変色した紙切れが現れた。
「『名前しか残せない』って紙にご自分の名前を書かれて兄様に...そして兄様は田崎に託したのです」
ああ、俺は今きっと泣いている。
頬を熱いものが滴り流れるのが分かった。
「戒名を付けようと何度か考えたのですが、後藤さんのお名前を残すことが一番良いと田崎と決めてこうしたのです」
「戦争って、何なんだろう」
俺は意図せず口にした。
その言葉に「さぁ、何なんでしょうね。その時は善悪なんて何も分からないのです。私が兄様にお国のためにと無邪気に言ったように。そうしてあとになってその愚かさに残酷さに気付くのです」と大婆ちゃんは言った。
そして「その痛みを知る私ら年寄りが生きている限りは、若者に後悔させないよう伝えるんです」と大婆ちゃんは続けて言った。
とても優しい顔をしていた。
「美味しいねぇ」
少し溶けてしまったアイスを大婆ちゃんがすくって口にした。
その姿にファミレスでのかっちゃんが重なって見えた。
「嘉三郎さんはアイスは好きでしたか?」
俺がそう尋ねると「あの時代、アイスクリームは高級品で庶民には手が届かない物だったんだよ」と教えてくれた。
「でも」
大婆ちゃんは続けて話す。
「兄様の口癖は七生報国だったから生まれ変わってアイスをお腹を壊すくらい食べているかもねぇ」
そう言って笑った。
俺たちも釣られて笑った。
そして、そうだったら良いなと思った。
エピローグ
「最後の特攻っすね」
ペケJに跨りながら翔太がニヤリとした。
「気合い入れてくぞ」
俺はメットを被るとZⅡのキーを捻った。
いつもの自由な夜とは違って昼の道路は窮屈だった。
でも今日は、今日からはその窮屈なルールを守ろうと翔太と誓った。
目指すは警察。
それも交通機動隊、狂犬飯島だ。
約束は取り付けていた。
俺たちが交機の玄関前にバイクを停めると飯島が直々に出迎えに来た。
今、飯島を目に前にすると拍子抜けするくらい優しい顔をしていた。
俺たちとやり合っていた時のお巡りらしからぬ荒っぽさも何も無かった。
俺が毒気を抜かれたように突っ立てると「中に入れ」と案内された。
取調室みたいなとこに行くのかと思っていたら職員室みたいな事務所へ連れて行かれた。
パーテーションで仕切られた応接室でソファーに座った。
オレンジジュースが出てきた。
(ガキ扱いかよ)
そう思ったが美味かった。
飯島はほうじ茶だった。
少し呼吸を整えた。
決心は揺らいではいない。
「俺たちチームを抜けます」と飯島に伝えた。
飯島は「そっか」と素っ気なかった。
「俺は抜けることに興味は無いんだ。大抵の連中は少年Aじゃなくなった途端に逃げて引退すっからな」
辛辣だった。
正直喜ぶと思った。
予想外の反応は更に予想外の言葉で上書きされた。
「俺の興味はお前たちの未来だ。なにかやりたいことは無いのか?」
その言葉に素早く反応したのは翔太だった。
「俺、警察なりたいっす」
「警察になって俺みたいなヤツをどうにかしたいっす」
まとめてから話せよと思ったが、それだけに翔太の本音と本気の言葉なのだろうと思った。
「シュン、お前は?」
柔和だった飯島の表情が引き締まった。
「俺は大検取って大学行って、歴史を教える先生になりたいです」
飯島は俺たちの頭を撫でると「翔太は交機で勉強しろ。手の空いてる隊員が交代でみっちり教えてやる」と言った。
俺にはNPO団体を教えてくれた。
俺みたいな連中に勉強を教えてくれるらしい。
そして最後に「京には話したのか?」と尋ねた。
鹿屋から帰ったあの日。
8月がもう終わろうとしていた。
間もなく東京駅に着く。
アナウンスが終点を告げていた。
川崎か大崎か、その辺を過ぎて明らかに速度が落ちていた。
いつだって全てに終わりがある。
終わらざるを得なかった者。
終わらさなければならない物。
俺は何度か飲み込んだ言葉を言う決心をつけた。
「京さん。俺と翔太、抜けます」
「ケジメはつけます」
翔太が続けて言った。
「ケジメ...か。半端な覚悟で言ってるんじゃないよな」
(あ、これ詰んだ)
京さんの険しい表情に俺たちは終わったと思った。
俺は生唾を飲み込んだ。
もう腹を括るしかないんだ。
「はい」
京さんの目を見た。
「嘉三郎くんに恥ずかしいことはするなよ。それがケジメだ」
京さんはそう言って明かりが灯り始めた窓の外に顔を向けた。
ガラスに映るその表情はどこか嬉しそうだった。
駅での別れ際、最後に言葉は交さなかった。
ただ三人で拳を合わせた。
「だからママ、七生報国だってばぁ」
雑踏の中、遠くで声が聞こえた。
俺たちはお互いの顔を見て驚き、笑った。
さよなら夏の日。
蝉時雨はもう聞こえなかった。
-了-
さよなら夏の日
戦争を知らない世代の私達は、どれだけその悲惨さを学んでも痛みまでは分からない。
青春を奪われる痛み、命を失う痛み、愛しい人を亡くす痛み、信じていたものが間違っていたことを知る痛み......
国家の為の自己犠牲や、愛する人を守るための死を【戦争を知らない】私たちはつい美化し過ぎてしまう。
世界が恐ろしい方向へ舵を切ろうとしている今、その痛みを分からないまでも想像してほしい。
その犠牲の意味を、恐ろしさを考えてほしい。
人はそうして過ちを糺すことが出来るのだから。