百合の君(80)

百合の君(80)

 義郎(よしろう)(のぞむ)に酌をすると、自分も一息に飲み干した。その瞳だけではなく、頬にも一気に赤みが差した。
百鳥(ももとり)という名だけではなかったのだな」
 義郎のこれほど満足そうな声を聞くのは、ずいぶん久しぶりのことだ。征夷大将軍に任じられたときも、これほどではなかった。
「さすがは百姓、武士にはとても思いつかぬ策でございます」
 木怒山(きぬやま)の皮肉は通じなかった。義郎も元々武士ではない。武士でないどころか山で育った野生児で、初めて会った時には字も書けなかった。木怒山は卑しい者共に踏みつけにされる屈辱を感じた。木怒山は、元々喜林(きばやし)家の二男だったのだ。喜林を継いでもおかしくなかった。
出海(いずみ)は国を守るという民の力でもっているような軍でございますので、攻める戦は苦手と心得ます。ちょっと引っ掻き回すだけで、御覧の通りでございましたな」
 望も頬を赤くさせ、目を潤ませている。ついこの間まで老人のようだったくせに、ここ数日ですっかり若返った。木怒山は、白いものの混じった自分の髭を撫でた。
「しかし百鳥殿、次は気を付けなされよ、もう敵は油断しませぬぞ」
 ようやく二つ目の皮肉を義郎は受け取った。赤い目にいつもの殺意が戻って来る。
「確かに木怒山の言う通りだ、次の戦では先鋒を任せる。その実力、しかと示してみよ」
「ははっ」望は頭を下げた。「しかし将軍、一つお願いがございます」
「何だ、申してみよ」義郎はすぐに応じた。
「若くして妻を亡くし、私にはいなくなった(その)しか子がおりませぬ」望は懐から御薪のお守りを取り出した。「あれから八年ずっと息子の無事を祈ってきました。必死に田畑を耕したのも、飢えて死ぬ者を見殺しにして商人の足元を見たのも、全て息子に財を遺さんがため。私が手柄を立てた暁には、親子共々将軍に仕官しとうございます」
 ふっ、と義郎が笑った。木怒山には嫌な予感がした。この男、戦にはめっぽう強いが、それ以外のことにはほとんど執着がない。
「よかろう、出海を滅ぼした褒美には、八津代(やつしろ)上嚙島(かみがみしま)城をやろう。出海浪親の首、取って参れ」
「ははーっ」
 木怒山は一口飲むと、この味はあの時と同じだと思った。十二年前、七夕の武道大会の夜、兄上の杯を受けた蟻螂(ぎろう)に私は追い越された。あの後蟻螂は蝶姫を娶り、喜林の娘婿、喜林義郎となって今や私の主君だ。
 木怒山の脳裏に、ある光景が浮かんだ。回る天井。稽古をつけてくれとせがむ息子。あのとき幹丸(みきまる)は言った。侍は主の恩のために戦うのだと。私がそう教えたのだと。しかし、そんな侍見たこともない。
 人は何のために戦うのだろう? 日々の鍛錬に耐え、恐い思いをしてまで。
 気が付くと、銚子が空になっていた。義郎と望は木怒山を置いて会話に打ち興じている。とにかく、あの時のような宿酔は二度とあってはならない。

百合の君(80)

百合の君(80)

あらすじ:対立する喜林と出海は、双方征夷大将軍を名乗り、戦の準備を進めていました。その一環として喜林は百姓となっていた武家の名門、百鳥家の望を味方に引き入れました。望は奇抜な策により、その初陣を飾ります。味方に引き入れるよう進言しながらも、ただその名前を利用したいだけだった木怒山は、心中穏やかではありません。 作中に出てくる木怒山と義郎の初対面は(6)に、二人の関係の転機となった七夕の出来事は(9)(10)(12)に出てきます。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-10-25

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