
恋した瞬間、世界が終わる 第94話「儀式」
楽団の端に、何故ここに自分が居るのか?と自問自答を繰り返しながら、出番を待つバンドネオン奏者が、人目につかない格好で椅子に座っていた。
人目につかない格好というよりも、この空間の中では誰も気にして見ることがないだけで、ただただ場を飾るための装置の一部となっていた。
楽団のリーダーがそんな彼を呼んだのは、大広間のワルツのリズムが済んだ頃だった。
やれやれ、と彼は思った
自分はこれでも本場のアルゼンチンに行って学んできた男なんだよ。それが、こんな誰もが自分のリズムに酔いしれて、音楽に耳を傾けてもいない連中の前で、ただのBGMの役割をするのかい?
楽団の手前に出て来て、椅子に腰掛けたあとで、ため息をついた
ピアソラ もこんな経験をしたのだろうか? いや、ピアソラ よりも先の先人たちは、例えば海外での演奏では物珍しいだけの客寄せパンダにもなれない程の屈辱にどれほど耐えて、このタンゴという芸術を世に認めさせたのだろうか。
まあ、いいさ
こんな誰も聴いていないだろう場所でこそ、自分が好きで本当に演奏したい曲をやれるわけだ。
そうさ、俺たちがただの飾りではない。
この何を聴かされているのかも分からない連中こそが、飾りなんだよ。
「Tristezas de un Double A」
ーー聞き覚えのあるそれは、ピアソラ のタンゴだった
曲名は、Tristezas de un Double A(AA印の悲しみ)
私の感情に居残っていたテネシーワルツは、その独特の曲の気配で空間の外に押し出されて消えた。
消失した感情の反作用が、空間に希求されたその時、大広間の階段から降りて来る仮面を被った男女の姿が見えたーー
男は、さっきの背の高い男だ。
あれは、GIなのだろう。
赤い仮面を被っている。
一方の女は、青い仮面を被っている
女は、背の高い男の前で、ドレスの裾を少し持ち上げて、片足を後ろに引き、もう片方の足の膝を少し曲げて、仮面の目線を下に向け、ダンスに誘った。
あのカーテシーの所作…さっきの女性なのか?
階段下の開かれたスペース……ワイドオープンスペースに降り、ピアソラ のタンゴに合わせ、お互いの距離を一旦、離した。
一呼吸と、一つの間、それぞれの手の先で線を辿るように確かめた後、魔法陣を描くように距離感を道筋に変え、隣り合う男女の形になった。
ーーバンドネオン奏者のソロの脈打ちに合わせて優雅にステップを踏んだ
大広間には、二人のステップの靴音が際立ったーー
大広間の眼たちが、それぞれの官能に没頭していたのが、特に眼を惹く二人に関心に吸引されてゆくのが分かった。
速いステップと、瞬間の停止、複雑なステップの中での縺(もつ)れあった感情の仕草ーーそれぞれの官能に没頭していた眼たちが求めていた、“それ”がある。
ーーバンドネオンの長いソロの後に、不意に現れた重い響きーードラマが、二人の男女の中で動き出したーー割って、ピアノが感情の底に落とすーーバンドネオンがそれでも続く生の脈打ちから葛藤させるーー感情の走りが、二人のステップを乱立させるーーそしてーーまた重い響きが、心を重厚に打ってゆくーー乱立するーーピアノがまた、ドラマを作るーーリズムが変わり、次々へと二人の人生を駆け巡るーーまた、重い響きと共に感情の底に至るーーバンドネオンが残りの置き所のない感情をバイオリンと共にーー二人の姿をカーテンで覆ってゆくとーー男女が、離れ離れにステップを踏み合いーー息の根を止めるーー渇望する深い海の底から、ドラマが再び始まるーー
ーー大広間に、新たなワイドオープンスペースが開かれた
それは、【ひとりでに】行われた
ーー見えてきたのは、ダンディズムに徹しているような男が一人ーーそして、一人の黒いドレスを着た女性が預けるように置いた左手ーーそれを紳士的に、何かを重んじるかのように、或いは、調伏されたもののように、ダンディズムの男がその左手を丁重に扱いながら、歩いていったーーそうしてーー新たに開かれたワイドオープンスペースを辿って、大広間の階段下まで来た後ーー複雑なドラマをステップで見せた赤い仮面を被った背の高い男と、あの青い仮面を被った女性が道を開けるように左右に分かれ、会釈をしたーー
預けていた左手から、重力を感じさせないような手つきで離れたのは、来客たちの方に向き直おるためたっだのだと分かったとき、黒いドレスの女性の胸元は花弁のように開かれているのが目についた
乳香が広がるように、感情を乱される色気が辺りに舞った
黒いドレスの女性は、仮面の上からでも分かる色目で微笑みを含むと、詩を朗読した
冴え渡る月の、辺りの星々は
その輝く面輪(おもわ)を隠す
月白(つきしろ)の満ちて、その光
地の面に、耿々(こうこう)と降り注ぐ時
※水掛良彦氏の訳に漢字を当てています
※耿々の意味には、光が明るい様子以外に、気に掛かることがあって心が安らかでないこともある
朗読した後、エスコートしていた男に、何かを手渡したーー
それから、左右に分かれた背の高い男と、あの女性は、会場の来客たちを仮面の下で微笑しながら、手招きするような仕草を見せたーーその仕草に来客たちは集って、それぞれの対の異性となる背の高い男か、あの女性かの下まで来て、何かを受け取っていったーー私は、眼の前の現実に、立ち遅れたかのようになり、その引き寄せられるようなあの女性の微笑に、自制心を乱された
ーー会場のどれほどの人が【それ】を受け取ったのか、おそらく全ての人だったのか
「会場の皆さま!」
エスコートしていたダンディな男は、大広間の階段の下から、来客たちの眼を引きつけるように声を上げたあと、階段を上っていった
そして、先ほど手渡された【それ】を口に含んだ
ーーその仕草を見た後、来客たちがそれぞれに手渡された【それ】を口に含んでいった、次から次に
私は口に含むのを躊躇ったが、その横では、隣り合った人物たちが次々と、何の躊躇もなく、【黒い種子】のようなものを呑み込んでゆくのが見えた
大広間の階段上に、一人の仮面を被った女性の姿が見えた
「今夜の会場の皆さまは、数奇な機会に巡り合わせたのです!!」
ダンディな男が、聞こえるようにか、聞こえていなくても全く構わない、そして、大事なことを後から付け加えて話すかのように云った
「これから始まる“ある”ダンスは、観る価値がありますよ
それを踊る演者も経験を積んだトップダンサーです!」
階段の上から、一人の女性が降ってくるのが見えた
「彼女の名は、リリアナ
またの名を、マタ・ハリ」
階段上の女性は、仮面を外した
「リリアナ!!」
私は叫んでいた
その女性は、間違いなくリリアナだった
でも…
私が知るタンゴを踊るリリアナの姿は、そこには無かった
ーー私の声は届かず、大広間の演奏と来客たちとの掻き乱す動きとで、空気中の気圧が変化していった
音【地獄】楽が始まったーー
ーー大広間に、ストラヴィンスキーの「春の祭典」の第一部【大地の讃仰】が、この瞬間まで押し留められていた不協和音の展開をリリースするかのように、リズムの解釈を拒みながら、壁という壁をノックし始めた
リリアナであり……ーー“マタ・ハリ”とされる女性がーー階段から降り、黒いドレスを着た女性と上下で入れ替わりーーワイドオープンスペースまで降ったーー黒いドレスの女性が降って来たそのマタ・ハリの指揮を取るかのようにーー或いはーー不安をかき混ぜるかのようにーー右手で前方の空間に右回りの回転を描き始めたーー何度か繰り返したあとーー左手を円を描くように挙上し、空間を掴むようにして、引っ掻いたーーすると、マタ・ハリは、引きつった動きになりーー予測されない何かに侵入されてーー咀嚼される肉体を演じ始めた
ーー来客たちは、ぎこちない動きに変わったーー肉体の中に侵入した病原体に寄生されたかのように苦しみ、悶えーー曲線上にはない、不定形の他動ーーそのぎこちなさは変容しーーそしてーー葛藤し、両極の中で暴れ回っていたーー
無数の魂の入れ喰いが始まった!
ーーストラヴィンスキーの「春の祭典」の第二部【いけにえ】
《助けて…ーー奇声…誰かーーすごいわ…ーーウッ‥.・…ー人・・…全部ーー…おんな、おんなーー…おとこ、おとこ…犯す……ーー助け・・・ーーキイッーーああっ!ーー‥
喘ぎーー唸り……ーー恍惚にーーーー声…ーー獣のような唸り》
大広間の来客たちは楽団の演奏とはかけ離れた……いや、その曲目のある側面を強調した、観客であり、登場人物にすり替わったーーもはや、仮面は存在せず、身に付けていたものは乱れた飾りとして、陰部は剥き出しになりーー知性がないーー私は、隣り合う人々の獣的な変容に、人間の情を失った本性のようなものに支配され嘆き、惨めな思いになったーーリリアナ……マタ・ハリもまた、肉体の中で動き廻る獣との境界線を奪い合う動きが、知性を失った人々を刺激しーー煽動する行為となっていた
私の失意に、今度は、階段上の黒いドレスを着た女性が仮面を外した
誰かの面影を感じた……
それは、真知子だった
「……真知子なのか?」
その真知子と思われる黒いドレスを着た女性は、大広間の混沌の中にいる私に気づいたのか、気づいていたのか、視線を一点に絞って、“左目”を閉じ、“右目”を開けた機械的な忠誠心としてのチャームを浮かべたロボットのような仕草をした
【ぎこちなさ(不自然さ)】が見えた
その瞬間、私の中に万華鏡の錯乱が押し寄せた。
イメージの崩壊のように。
瓦解してゆく記憶の万華鏡
私は、処女性のようなものを真知子に抱いていたのだろうか?
清らかな恋心であろう真知子が、誰かの黒い種子によって犯されている。
奈落の底へ、白昼夢が襲い、不協和音が盛んに響いた。
ーー大広間では、いつの間にか複数のマタ・ハリが狂い踊っていた
真知子は自分の顔を手でなぞり、そっと唇の感触を確かめるように中指で口唇をなぞり、触れた
その仕草が何かを、私が思い出すように
私の中に想い出が通りーー真知子は口唇から指を離した
大広間の中に、無いはずの風が吹いて口唇をなぞってゆきーー真知子の肉体を持った女性は感じ入ったーー恍惚した緩みを魅せたあと、左手を顔の前まで挙げた
一人のマタ・ハリが、開かれた場所へと押し出されるような格好で倒れた
間違いなく、それは、リリアナだった
それから、
鮮血が、血飛沫となって辺りに飛び散った
黒いドレスを着た真知子は、自らの左眼をくり抜いていた
【これは、タンポポではないのよ
あなたに観てほしかったもの
血の気の多い、野蛮でサディスティックなもの】
頭上に掲げた左眼を、タンポポの茎を回すようにくるくる、と魅せた
それが何かの合図であるかのよう、大広間の階段下から、GIと思われる赤い仮面を被った背の高い男に右手を預けてエスコートされながら、青い仮面を被ったあの女性が階段を昇り、黒いドレスの真知子の下まで来たーー
開かれた場所では、リリアナが情を失った人々に取り囲まれていた
「ワタシをどうする気なの!?」
取り囲む人々を押し退けようとしたり、罵ったりして、足掻いていた
ーー風が吹いた
大広間の中に、無いはずの風が再び吹いた
青い仮面の女性は、仮面を外した
その容姿は、ココだった
「ココ……どうして?」
私の白昼夢は、完全な悪夢になった
鮮血が再び、血飛沫となって辺りに飛び散ったーー
ーーココの容姿を持った女性が、左眼をくり抜き、その眼球を黒いドレスの真知子の左眼の眼球と入れ替えた
リリアナは、取り囲まれながらもタンゴのリズムを刻もうと抵抗していた
ウノ 、ドス…トレス
ウノ …ッ
無いはずの風が再び吹いて、階段の上から眼下に広がる大広間の獣と化した来客たちの間という間を掠(かす)め取るかのように吹き抜けーー【それ】が、黒いドレスを着た真知子の肉体に集約し、その肉体から降り立った空間からの息吹のように、混り流れた
その流れた煙のような息吹が、通り道を求めて、見つけた
ーー駆け抜けることなく、秘儀を教えるように、青い仮面を外したココの容姿を持つ女性の体内に宿り場を繕(つくろ)った
音楽は何も救わず、床という床にある重力に逆らえず
真知子と、リリアナは意識を失ったように倒れた
【御身には、祭壇に乗せ、真白なる仔羊(の肉)、(捧げたきもの)】
※水掛良彦氏の訳に漢字を当てています
階段上に立っていたのは、
ココの容姿の【サッポー】
恋した瞬間、世界が終わる 第94話「儀式」
次回は、11月中にアップロード予定です。