『諏訪敦|きみはうつくしい』展
一
ホームページにも掲載されている通り、本展は府中市美術館で開催された『眼窩裏の火事』展以来の諏訪敦(敬称略)の大規模個展である。
前回の展示会は諏訪が罹患した目の病気を梃子にして目に見えるものを描こうとするだけでない画風の深奥に迫る展示会であったと記憶するが、今回は描くのが嫌になったという人物画とコロナ禍に熱心に取り組んだ静物画を往復し、諏訪自らが「汀の絵」と評するに至った作品表現の実際にスポットを当てる構成がとられている。展示スペースは一階と二階に分かれて六つあり、第一から第三展示室で主に人物画を、第四展示室では専ら静物画。その奥に設けられた第五展示室で①人物画と静物画の狭間にあるような《うたたね》などの絵と②《汀にて》の制作風景を撮った短編ドキュメンタリー映像を鑑賞でき、二階のHALLにて生の《汀にて》の作品群とじっくり対峙する機会を得られる。
二
諏訪敦という画家に対する筆者の印象を素直に記せば、その確かな技術をもって写実の極みといえる絵画表現を行う一方で、画面から窺えるテーマないし画家としての関心は裏腹なものが多い。
例えば本展のプロローグを飾る第一展示室にある《水の記憶》。たたえられた水に裸の女性が浸かる様子を描いた一枚は視れば視るほどに具体的になる肌の質感、髪の毛や陰毛の濡れ具合などが精緻に描かれていて、体表に伝わる水の冷たさ、重さといった直接には描かれていない部分まで想像が及ぶ。この点で見事なリアリズムを体現する絵画と評し得る一方、女性の生々しい身体に向けられる眼差しが余りにも冷徹で、かの九相図のように死体として腐乱するのを待っているかのような観察っぷりが過剰な写実に思えてきて生と死、どちらを狙っているのか分からなくなる。
この混乱の感覚は、第二展示室で鑑賞できる故人を描いた肖像画を目にするとさらに深まる。
遺族からの依頼を受けて諏訪が描く肖像画は「現在する故人」という矛盾を孕んだもので、両親や兄弟姉妹といった近しい血縁の人たちのスケッチや石膏像を資料とし、それを元に故人の姿を描くという写実的なアプローチが取られている。もっとも、その正しさのジャッジは誰にも行えない。モデルは既にこの世を去っているからだ。したがって、描くにあたってはどうしても想像的な羽ばたきを施さずにはいられない。その仕上がりについても、依頼主である遺族の中で生き続ける故人の記憶を動かすに至らなければ仕事として成功しないというシビアな条件が課せられている。かつてないほどに画家としての誠実さが激しく問われる中、けれど実際に目にする画面には献身的で柔らかいタッチが走っており、故人の人柄をありありと感じさせる絵となっていて、感銘を覚えるばかりだった。
三
諏訪の筆に馴染む死の気配は生者に対して厳しく、死者に対して酷く優しい。
第二展示室を後にしてから自然と頭に浮かび、第三展示室にて寝たきりの両親が臨終を迎えるまでの様子を描いた絵やスケッチを鑑賞してから頭の中をすっかり占領するに至ったこの言葉は、第四展示室で鑑賞できる静物画の、故人の肖像画に覚えたのと同じポジティブさが前面に現れた絵画表現にも激しく反応し、諏訪敦という画家の立ち位置をより明らかにする。
絵をよりよく見せるために究められた構図をもって、客観視できる物の様子を驚くほど様変わりさせる静物画はセザンヌといった巨匠の名前が刻印される西洋画ならではのジャンル。そこに集積されたメソッドに習って諏訪が描くのは、けれど純然たるアジアの神話であり、神殺しから始まる穀物の起源。土師器、須恵器、縄文土器のそれぞれに乗せられた小石丸、十穀米、食用ひまわり、あるいは引っこ抜かれた状態のままで切り分けられたタロ芋などの様子はその命を奪って繋げられる人間の生命活動を残酷なまでに謳い、その罪を洗い流すことなく、他なる存在の有難さへと鑑賞者を導いていく。
殺さなければ語れない命は、殺しても死なない永遠の領域に通じ、語り継がれては再帰する。正しき神話の構造と並べて俯瞰する諏訪の絵画も①人物画として「もの」らしさが突き詰められ、②「もの」らしさを超えて蘇り、③「もの」として存在する静物画を経由して命を得る。思えば、諏訪が使う「汀」の語が意味する波打ち際は行ったり来たりの運動が繰り返される場所で、そこに認められる現象はどっちつかずの曖昧さをもってあるようでないような境界をイメージさせるものだった。短編のドキュメンタリー映像で諏訪が語る《汀にて》も自身の骨格を象った造形物を描いた作品でありながら、その個性を削ぐように加工が施され、アノニマスになるのを目指されている。人そのものを描いた訳ではないから静物画、などという短絡を既にもう行えなくなった筆者はかかる《汀にて》を前にして想像できる誰かを想い、そこにぴたりと当て嵌まりはしない彼や彼女を打ち消して、自分ひとり、たった一人でその揺れ具合を追ってしまう。確かめてしまう。
「西洋画の技術を用いて日本人ないしはアジア人が描く絵画という宙吊り状態、それをこそ表現したかった」という画家の意志。その終着点のようでいて、新たな始まりを予感させる現在地は画家としての圧倒的な技術が霞んでみえるほどの思索に満ちている。トレンドに逸るような活動をする現代作家が少ない中で、諏訪敦という画家の名は筆者の中の特異点としてより深く刻まれることとなった。
四
『諏訪敦|きみはうつくしい』展は東品川にあるWHAT MUSEUMで開催中。期間は来年の3月1日まで。最寄駅は天王洲アイル駅。見逃し厳禁の素晴らしい展示会なので、興味ある方は是非、会場に足を運んで欲しい。お勧めです。
『諏訪敦|きみはうつくしい』展