
百合の君(77)
暮れには祭りの見物客で犇めく大噛山だが、春は春で道中の花を励みに登って来る人が絶えない。特にかたくりの花が一面紫に咲いている姿は、巡礼者の心を大いに和ませた。
しかし、明殉二年の春、登山者はほとんど見当たらなかった。絵師、花村清道は一人、山頂から奥嚙山を眺めていた。
山裾は深い海のように青く、山頂に近づくにつれそこが神の棲み処であることを示すかのように白く雪化粧をした、あの偉大な山容は、もはや見る影もない。冷たい風が目に染みて、清道は自分が泣いているのではないかと思った。
「なぜ喜林が御薪を落としている最中に、横からあーんなにもたくさん火を付けなさったのか」「そもそも最初は出海というお約束でございましたろう」「それは去年の話」「いや、去年はまだ喜林は独立していなかった」「出海の傘下として、御薪を寄進いたした」「そのようなことは記憶にない」「ここに記録が」「こちらにも」「そもそも喜林の御薪は多すぎた」「出海のも」「喜林が多いから、増やしたのだ」「それはこちらも」
火を消すよりも相手に責任を押し付けた方が君主から評価されると思ったのか、陣頭指揮を執るべき両家の重臣は、まるで目の前の炎が見えていないかのように不毛な言い争いを繰り広げた。その結果、火事は正巻川を隔てた大噛山まで燃え広がり、お社も焼失した。当然、清道の寄進した『正巻四季図』も運命を共にし、灰燼に帰した。
清道の足元には、未だに灰が風の吹く度、飛び立つのをためらうように震えている。私が馬鹿だったのだ、と清道は思った。なぜ出海浪親に、誰も成しえなかった天下泰平の世などというものを期待したのだろう。あの方は、私の描いたみなし児の絵を諸国に配り、民の義憤を煽った。私も自分の絵が世を変えるのだと喜び勇んだものだったが、あれは結局、人々の憎悪を掻き立てただけだったのだ。この山を焼いたのは、私の撒いた憎しみの炎だ。
強い風が吹いた。まるで焼けた木がお互いの消息を確かめ合うように、灰を空中に撒き散らした。
きっと『正巻四季図』を失ったのは、政とつながり絵師の本業を忘れた私への神罰なのだろう。清道は目を閉じた。彼の心には、今でもありありと春の山々の美しい姿が浮かんでくる。聞こえてくるのは、うぐいすの声だ。彼は手を伸ばした。指先に一羽のうぐいすがとまった。
これを描こう、彼は思った。世のためでもない、民のためでもない。誰のためでもなく、ただ私の心の望むままに。私にできるのは、それしかないのだ。
苦みを感じたのは、口に灰が入ったからだった。清道はそれを飲み下した。灰が肥料になるという話を、かつて百姓から聞いた。それは確かにそうなるべきだ。そうでなければ、人の世に希望はないではないか。
百合の君(77)