残業帰宅
書きたいことがなかった。書くべきこともなかった。ましてや書かなければいけないことなど、何一つ持ちあわせていなかった。作家などにはなれそうもなかった。湯水のように言葉が内側から溢れ出る様な状態を、一度は味わってみたいと思っているのだが、書こうとすれば手はすぐに止まってしまう。流れにまかせているうちに、何か得体の知れない力に引っ張られて、すらすらと書けるような経験をしてみたかったが、自分はそんな才覚には恵まれていないらしい。書く体制に持っていくために、いちいち自分を奮い立たせる毎日である。
今日も仕事、明日も仕事、これからも仕事は延々と続いていく。今の仕事に何の充実も感じないまま、それでも無理に仕事に打ち込んで、何かを得ようと躍起になっている自分が滑稽だった。誰よりも仕事に打ち込んでいながら、心の内ではいつか今の仕事を投げ出せる日を夢見ているのだから、自分の努力はまったく矛盾している。全身が矛盾に満たされ、腐敗し、意識は身体から離れて宙に浮いている。毎日、目の前にある課題をこなしながら、達成感は微塵も得られず、多大な疲労だけを心と身体に刻み、着実に矛盾の階段を登っていく。その階段を頂上まで登りきったときには、憔悴に打ちのめされて晴れて自由になれるのかもしれない。少なくとも今の僕には、そのときが実現することを信じて仕事に精進するしかなさそうだ。
直観に逆らって生きてきた。直観をできるだけ遠ざけるために、直観に従わないようにずっと努力をしてきた。自分の内面から直観を排除するためならいかなる労も惜しまなかった。正しい人生に導いてくれる澄んだ直観を精神世界から追いやり、ずっと間違った人生を邁進している。直観を撲滅したことにより内面には歪んだ観念が堆積され、この観念は自分の力では除去することができず、今日も執拗に内面に固着しているのだ。
僕は表向きは勤勉な人間だったので、外部世界ではそれなりに他人から評価を得られることもあったが、内面の世界は歪んだ観念で満たされ、すでに浄化不能な状況であった。自分の直観を信じておらず、内面から発せられる声に耳を傾けてこなかった。頭の中でひねくり回して作り出した理屈を、進んで自分の人生に適用することで、本音からは遠ざかり、嘘と欺瞞で塗り固めた道を直進する日々をずっと積み重ねている。直観を受動的に受け止めることを拒否して、能動的に自分で判断して生きていこうという考えがそもそも間違っていたのかもしれない。
世の中は、直観に従って成功した数少ない人を、直観に逆らって負の感情に満たされている多くの人々が支えるという構造で成り立っている。世の中を支えているものは負の感情である。嫉妬、憎悪、怨恨、様々な悪意が土台となっているおかげで、今日も社会は寸分狂わぬように機能しているかのように見える。現在生きている僕たちを支える精緻な機構、制度、技術、論理など、これらすべては表面上は実に見栄えがよく機能性に満ちており、無駄がないように見えるが、一皮向けば呪詛に満ちている。
大多数の人々が自分に向いていない仕事に従事しているから、社会の秩序はかろうじて平和に保たれているのだ。みんながみんな自分に向いている仕事に就くことができたら、世の中はすぐに破滅へと向かうだろう。
今まで内側ばかり見てきた。自分の内側にしか興味がなかった。外側の世界がどうなっているかにはまったく無関心であった。目に映る世界は自分にとって重要ではなかった。人間の見ているものが、すべて疑わしいことを科学が証明する日はそう遠くはないのかもしれない。
誰もが賞賛している文物や、社会で崇高なものとして認知されている芸術品、または文化的価値が高い作品や、すでに古典として確固たる地位を築いているものなどを鑑賞したとしても、それを頭の中に大切にしまっているだけでは何の役にも立たないだろう。それどころか、頭に留めているだけでは徐々に腐ってゆき、精神に害をもたらすかもしれない。鑑賞したものを自分のものにするには、作品に対して抱いているよけいな先入観を一度捨てて、自分でゼロから吟味してみなければいけない。奥の方に収めてただ拝んでいるだけでは何の役にも立たない。一度は勇気を持って、崇高な作品を自分自身で馬鹿にしてみないといけない。
頭に詰め込んだ知識は身体化しなければ意味がない。僕などは、これまでずっと詰め込むことばかりに熱心だったので、頭はどんどん重くなり、体を動かすことが次第に億劫になってしまっていた。頭の中の知識はそれぞれまったく関連性がなく、てんでばらばらで無秩序に散在している状態だった。自分の部屋を掃除できない人の習性がよくわかる気がした。行動を起こそうとするといつも苦しくなって、何かに抑えつけられるような日々をずっと送っていた。
だが、文学に触れたことで、使えなかった数々の無駄な知識に関連性が見出せるようになり、今まで頭の中に持ち腐れていたものを身体化できるようになった。文学はほんのわずかではあるが、僕を自由にしてくれた。頭に閉じこめられて行き場を失っていた観念を、多少ではあるが身体に浸透させることができたのは、僕にとって救いであった。
揶揄しておけばよい。批判しておけばよい。横やりを入れておけばよい。揚げ足をとっておけばよい。自分には関係ないという面をして冷笑しておけばよい。笑いにもっていけばよい。モラルを踏みにじるのがかっこいいと思っておけばよい。事件が起こったのなら、事実を把握することなどは後回しにして弱者と被害者の立場に立って、惜しみない同情の念を与えておけばよい。誰でもいいから加害者を見つけ出して攻撃しておけばよい。正義を声高に叫んでおけばよい。わかりやすくおもしろいものに飛びつけばよい。わかりやすい説明を感謝なく受け取って、発信者の苦労などは想像せぬ方がよい。機械の利便性だけに目を向けておけばよい。
自分の内側ばかりに目を向けてきたおかげで、外側の世界を見るほどの余力はもう残っていない。外側の世界に存在している物質の形状、色彩などを明確に認識することが、僕にとってはものすごく労力のいる作業だった。常に脳裏では邪念が暴れ回っていたので、いつもそちらの方に気をとられっぱなしで、外側に注意を向けるほどの余裕がなかったのだ。
視覚に徹することは難しい。僕の思い込みで作った世界がまず存在しており、その世界を自分が見たものに対応させるために、目は存在しているかのようであった。僕の脳と自然界の間には大きな隔たりがあるのかもしれない。外側に存在している現実の世界と、自分が見ているものを合致させることは不可能なのだろうか。脳と自然界の隔たりをなくすために、内側と外側の間をつないでくれる歪みのない写像を手に入れるために、あとどれだけ自分の心と身体を危機的状況に追い込まなければいけないのかと思うと気が滅入るのだった。
人づきあいではいつも体裁を重視してきた。心の充足よりも体裁の方が優先であった。どこまでいっても体裁だった。こんな感じで生きてきたので、「自分の人生」という名の劇で僕が主人公を演じることはできないだろう。それどころか、僕はどの役柄も与えられず、劇中で存在すらしていないのかもしれない。その劇には、主役も脇役もエキストラもチョイ役もそろっており、演出も舞台装置もそれなりで、脚本も悪くはなく、観客もいる。しかし、その中に僕の存在はどこにも見当たらない。「自分の人生」という名の劇でありながら、僕の存在なしでストーリーは勝手に進行していくことを歯がゆく思いながらも、僕はどうすることもできずにいる。僕は「自分の人生」から疎外されているらしい。
書くことで何も癒されないことには気づきつつあった。書くことで何か新しい認識に到達することは難しいことにも気づきつつあった。書くだけでは現状維持さえもままならないことにも気づきつつあった。それでも書く以外に道はないので、書き続けるしかなかった。
感情に振り回されて生きている人たちがうらやましかった。僕自身は、選択を迫られる場ではいつも感情を排して理性的に判断してきたので、ずっと感情と縁のない日々を過ごしてきた。
だが、理性などというものは案外役に立たないもので、これまでに自分が下した判断で人生が好転したことはほとんどなく、むしろ悪い方向に進んでいく場合がほとんどだった。いつも、ここぞという場面で理性が邪魔をして感情を押しつぶして、僕に間違った道を歩むように進めてくるのだ。理性の独断は自分の意志ではすでに制御がきかなくなっていた。
そんな僕でも、時に感情に流されることはあったが、それは自然なものではなく、あくまで理性によって強いられた感情の発露だった。理性が常に感情よりも強権を発動するおかげで、今ではどれだけ自分の身体、五臓六腑をえぐっても、自然な感情を見つけることができずにいる。すべては疾しい理性に汚染されていた。きっとこれからも頭の中だけで無理に作り上げた歪んだ理屈を、何が何でも自分に押しつけて、直観は弾圧して、見たくないものからは執拗に目をそらし続けて、欲望からはできるだけ遠ざかり、精神の不具者であるために、真摯に努力する日々を送るのだろう。僕は死ぬまで同じことをくり返すのだろう。無難に人生を全うさせておきながら、まるで自分は存在していなかったかのようにしてみせようと企んでいるのだ。
ねじ曲がった理性、いかなる時でも体裁を優先しようとする理性の裏をかきたいと思っている。僕の中に巣食う狡猾な理性の背後をとることは容易ではない。いまわしい理性が、常に僕の人生を支配しようとしてくるのだ。僕の判断、行動、思考、感情の細部に至るまですべてを支配して監視しようとしてきやがる。狡知に長けた理性が、いつもそれなりに筋の通った理屈を押し付けてきて、僕に理屈通りに実行するよう命じてくる。そうして、僕にはもはや逆らうほどの気力もなく、いつも忠実な下僕に成り下がってしまい、気づけば実験体のようである。理性が今日も僕のやることなすことすべてを検閲している。僕は心の奥のそのまた奥底では途方に暮れていたが、もうどうすることもできない。理性による過度の人生操縦が、僕の場合うまくいきすぎていたので、今さら操縦を停止させることは困難になっていた。
もし停止させることができたとしても、今の理性よりさらに強権をもった理性によって行われるのだとしたら、何の解決にもならない。そんなことは望んでいない。僕は、情念が理性による強固な操縦を打ち崩してくれることを望んでいる。下から突き上げてくる情念が、理性で作り上げられた城を破壊してくれる日を待っているのだ。僕の精神世界の中で、革命のような物騒な出来事が起こってくれないと、今の状況は何も変わらない。今の自分は理性に支配され、囚われ、侵され、頭も心も身体も精神も意識も腐食されてしまっている。
理性が何だというのだ。僕の人生を牛耳ろうとする、脳内を徘徊する小汚い理屈の数々。なぜここまでして自分に言い聞かせようとするのだろう。強迫観念だけが日に日に成長していく。自分が本当は何を求めているかという重要な題目からは逃げ続けている。
僕はあまり普段本を読まないので、正しい読書の在り方というものがわかっていない。そんな僕にでも、読書法には受動的な読み方と能動的な読み方の二種類があり、これまでの人生で能動的に本を読んだことは数えるぐらいしかなく、専ら受動的に読んできたことは何となく実感している。能動的な読み方というのは、読むごとに全身が震え、ひとつひとつの文章が肉体に刻まれ、全身が弛緩していく錯覚を感じさせるようなものなのだ。こんな読み方を頻繁にしていると、心も身体も、いや命さえも長くもたないような気がするので、たいていは適当に受動的に読むようにしている。
人それぞれ読書のしかたは違うのだろうが、自分の読書法がひどいということは自覚しているつもりだ。僕はいつも目で字面を追うばかりで、身体は一向に反応しない読書ばかりしており、それでたくさん本を読んだつもりになって満足している。そもそも読書は勉強のためではなく、快楽を得るためのものであり、むやみに読んだ本が積み上がっていく様はおぞましい。やたらに知識が増えているだけで何も昇華できてはいないような気がするのだ。
詩を書くことができなかった。詩的感情に浸る余裕がなかった。現代社会はとにかく細分化したがるので、もはや詩などはすでにばらばらにされて、マイクロスケールぐらいの小粒になっているのかもしれない。詩を見つけたいのなら、顕微鏡が必要なのかもしれない。今の人たちが描く小説に詩を発見するのは難しくなっている。もはや詩は、せいぜい工学的技術の隙間くらいにしか生息できなくなったように思える。
人類はいつ頃からか言葉を話すようになり、その後文字を書けるようになった。それ以外に人類の歴史で特筆すべきことはあまりないのかもしれない。
あらゆる小説には、自分が抱えている傷を臆面もなく人前にさらすという態度が、少なからず含まれていると思う。時代を経るにつれて自分の傷を巧妙に隠す小説が増えてはいるが、基本は変わらないだろう。僕はといえば、自分の傷は絶対に知られたくないから、卑しい批評的文章でこれからも社会をどんどん批判したり、他人を攻撃したりして、自分を守っていきたいと思う。
正の観念にしても負の観念にしても、今の世の中には過剰な観念は存在していない。機械化、分業化、均質化、平坦化によってあらゆる観念は薄められている。観念を伴わない軽薄な行為に熱中し、機械によって次々に人間の観念は浸食され、情念は物質化されていくのだろう。
なぜ僕は書いているのだろうか?書きはじめたときの動機は何だったか?
行動を起こそうとするときに、いつも自分を縛りあげようとしてくる、どうしようもない違和感から解放されて楽になりたいと思ったからである。内面の奥の方にあって、僕を操作しようとしてくる歪んだ情念を浄化したいと思ったからである。これまでの人生で、いちいち僕の上にのしかかってきた、言葉では表現しがたい重くてねじ曲がった忌まわしい嫌なものを、何とか言葉で表現して少しでも軽くしたいと思ったからである。脳裏に沈殿する諦念を抽出して落ち着きたいと思ったからである。
しかし、どれだけ文章を書いても、これらの願望は成就できないと思われる。書くことによって築かれる世界は、僕の内側に存在する歪んだ暗くて重い世界、根本的な違和感を生み出している世界には何の影響も与えない。書けば書くほど、外側に無意味なものを積み重ねているだけであり、むしろ書くことが習慣化するにつれて、内面に存在している歪んだものは、より巧妙に形を変えて目立たないようにさらに奥の方に逃げ隠れたらしい。歪みは相変わらず僕の中に存在しており、これまでと同じように歪んでいた。
これから、よりいっそう科学技術が進歩して、自分の内面を可視化することができれば、人間はもっと生きやすくなるだろうか?多分ならないだろう。そんな技術が生まれたとしても、人間はまた新たに内面を作り出すだけだろう。これからも僕は歪みを抱えて、その歪みを浄化できるような表現手法は体得できず、誰にも理解されないまま、ひそかに悩み苦しみ痛み続ける人生を送ることを余儀なくされるのだ。
会話の流れを崩さないような無難な対応というものがある。会話の間で、その都度求められる適切な感情表現というものがある。僕はといえば、いつも感情を表現するタイミングが遅かったり早かったり、ときにはその場に調和しないような言動を露呈したりして、場の空気をまずくしてしまい、きまりの悪い思いばかりしていた。そんなことをくり返すうちに、人前で自然な感情を表出することを避けるようになり、今では意識的に感情を制御するのが癖になってしまっている。この制御を解放して感情を噴出させたいという願望はあったが、一度暴走した意識を止めることはできず、ますます肥大化して醜くなるばかりであった。意識はさらに小ずるくなり、人前で誇張したり、他人を笑わせたり、自分を貶めて面白おかしくさせるための感情表現を僕に強いるまでになった。
意識はまちがいなく僕自身の意識のはずであったが、どこまでが自分のものなのか、もはやわからなくなっていた。僕の人生がどこまでが自分のものなのかさえもわからなくなっていた。僕の人生は、もともと自分に備わっていた直観や情念を、理性によって生み出される狡知に長けたあざとくて貧しい理屈でねじ伏せる醜悪な倒錯劇であった。すべては理屈であり、感じてはいけなかった。自分から発露した感情はすべて理屈で説明可能にしてやりたかった。人前で披露するための適切な感情はいつも用意されていた。解答用紙をめくれば一目瞭然であるかのように。
意識的な説明に明け暮れているうちに、僕の人生は幕を閉じるのだろう。僕は意識という監獄の服役囚であり、脱出は何度も試みられたが、結果はいつもうまくいかなかった。過度に意識的になるたびに、僕の身体の奥底、精神の深淵では、静かに確実に憎悪と呪詛が堆積されていく。これらがいずれ僕の存在を突き破り、破滅と自由が同時に押し寄せるときが来るのを、僕は密かに期待していたりするのだから質が悪い。
書くたびに嘘の世界が広がる。書く前に自分が描こうと思っていた世界と、実際に自分で書いて作り上げた世界はまったく異なっている。はじめに抱いていた動機はごみくずのように捨て去り、なかったものとして、なにくわぬ顔をして自分の人生をそれなりに満喫した気になっている。
自分は社会の中でそう悪くない位置にいるという、とんでもない勘違いをしている。動機をどんどんゴミ箱の中に押し込み、行為者の権化になっていく習性を変えたいとは思っているのだが、有効な解決法もなくますます行為に熱中している。動機を捨て去ったと思い込んでいるだけで、それはいつまでも変わらず確かに存在しており、いつしか呪いに変貌して心と身体に執拗に取り付いている。この呪いのおかげで、僕は少しずつ不自由になり、腰が重くなり、精神が怠惰になっていくのだ。
卑屈な笑みを浮かべながら、内心では相手に屈服してたまるかと気負っている。酒の席、仕事上での打ち合わせ、合コン、見合い、面接、テレビ番組に至るまで、見せかけの自虐ばかりがはびこっている。相手に対する敵意に満ちた、絶句するような卑しくてあさましい自虐ばかりが蔓延している。この自虐の観念があらゆる創作意欲を踏みにじっている。神経症的お笑い劇が、今日も人々の頭上に襲いかかる。抹消神経が痙攣するばかりで、中枢神経はそのうち本来持っている機能を失うだろう。
僕らが住んでいる世界は、優れた機能性と、無駄のないデザインと、シンプルな箴言と、感覚を満たしてくれる享楽と、感傷に満ちた人情劇と、暴力的なボランティア精神と、笑いたくもないのに笑わなければいけないバラエティ症候群に満ちていた。世の中はますます小刻みになり、さらに細分化して、均一になり、サービス業が隆盛をほこるようになるだろう。
逆説が必要なのだ。逆説は人を自由にしてくれる。逆説的思考は意識の弛緩に有効だ。こんな世の中では意識も心も身体もがちがちに硬直するばかりだ。まるで視覚以外の感覚は忘れ去られてしまったかのように。
自分に対して自分を飾り立てたい、虚勢を張りたいだけなのだ。自分はさも深くて暗いものを持っているかのように、自分に対してふるまっている僕は愚か者だ。自分に対して自分が行っている演技に疲れ果てていた。
ドラマや映画に出ている俳優の演技なんかより、僕自身の存在の中だけで完結している演技の方がよほど達者なのだと思いたい。演技を勉強したいのなら、まずは自分が自分に対してどれだけ演じているか考えてみればいい。精神病の患者とか殺人犯とか色のついた役柄より、日々黙々と働いているサラリーマンを演じる方がずっと難しいのだから。
矛盾した二つ以上の論理を、より高度な一つの論理の下に統一させようとする方法は、無限の統一を求めて、階段を果てしなく登っていくはめに陥るだろう。さらなる統一を求めて、自ら進んで矛盾を探し出すような不毛なことまではじめるだろう。普遍性を求めるのはほどほどにするべきなのだ。
構想を練ることが著しく不得手であった。自分が思ったこと、感じたことをとりあえず一文書いて、そこからだらだらつないでいく書き方しかできなかった。しっかりした構想を築いて、それに従い書いていくことができれば良いのだが僕にはできそうもない。いつも行き当たりばったりなのだ。構想を考えるのは息苦しくて、つらくて楽しくない。感覚的に適当に生きていたいと思っている。
やりたいこととできることは違う。悲しいことだが、やりたいことをやろうとしても、うまくはいかない。結局は自分のできることに専念するしかない。なかなか自分の特性に気づくことは難しい。やりたいこととできることの間にある溝を少しでも埋めるために、今自分ができることに励むしか道はない。
いつまでも自己の内側にとどまって非生産的にぐるぐる回っていたかった。何も作り出したくなかった。効率とか実用性だとかには断固として背を向けていたかった。目標を定めて一直線に前進して生きていくようなことはしたくないし、そもそも僕にはできそうもない。僕には直線よりも曲線を、円よりも楕円を好む性質がある。何事も少しくらい歪んでいる方がいい。ただし、僕のように歪みすぎると困るが。
あまりに理路整然としていて、初めから終わりまでひとつの論理で説明がつくようなものは実際には何の役にも立たないだろう。
みんなが簡単にできることができずに、何をやってもいちいちつまずいた。いちいち食い違った。みんなが平易にやり終えることに苦労してしまい、いつも人より多くの時間を費やした。何かをやろうとする意志が沸き起こると、同時にその意志を撲滅しようとする負の強迫観念による襲撃に遭い、全身が硬直するのであった。この硬直から解放されたいと思いながら、僕はずっと生きている。
僕は人に気づかれない内面の世界で、実にばかばかしくて何の実りもない葛藤を、これまでずっと続けてきた。自分の人生で継続してきたものといえば、この葛藤くらいである。
この葛藤状態に集中できるならまだ良いのだが、自分のことはさしおいて、とりあえず目の前の業務に没頭せよと社会では命令されるのだから、たまらない。自己の存在の本質に関わる葛藤はなかったものとして、非人間的に業務に打ち込めというのはあまりに酷であるが、僕のような何の能力もない人間は命令に従うしかなかった。
健全にものを考えてみたい、澄んだ状態で思考してみたいのだが、それができずにいつも苦労している。なぜかといえば、僕の思考には何かねじれた情念が含まれていつもねばねばしているからなのだ。澄明な思考を妨げようとして、情念があらゆる努力をしている。いつも情念に満たされた泥沼に引きずり下ろされて、思考は自由がきかなくなるのだ。
外側の世界に向けて存分に思考をめぐらすことができず、内面に抱えている腐敗したものを抑えつけるために、いつも内省を強いられる。外側の世界をありのままに観察することが僕には極端に難しかった。小説を読んでいても、情景を描写した文章はからきし頭に入らないのだから。
僕はいつも内側ばかり見てきた。内側にしか興味はなかった。著しく内省に偏った歪んだ思考では、世界を正確に把握することは困難だったので、僕の世界観は偏見に満ちており、科学的、客観的な視点が欠けていた。
書いて文章を作り出すという行為によって、自分の内面に抱えている歪んだもの、脆弱なもの、忌まわしいもの、ねじれて収拾がつかなくなったもの、醜くて腐ったもの、あるいは細やかで美しいものを取り出したいと思っている。内面では様々な情念が入り乱れて混沌としており、それらはひとつずつ文章として表現して自分の外側に表出する以外、整理する方法はないように思われる。のしかかってくる負荷を軽くするためには書かなければいけない。書くことで、自分を救いたい、慰めてやりたいと考えている文才のない一成人である。夜もふけたというのに、今時書くことに救いを求めている古いタイプの人間なのだ。リア充からは遠くかけ離れている。社会での出世など望むべくもない。
ただし、内面の汚物の浄化を試みて書きはじめたつもりが、何も考えずに書き上げてたどり着いた場所は当初とは予定が違い、見当のつかないところにいるのが常であった。文章を作るという歪曲行為をこれからもくり返して、僕はどこに行ってしまうのだろう。どこに連れ去られてしまうのだろう。
残業帰宅