千四百三字の夜

 本作は作品化可能な絶望の、ほぼ最深部を描いたものであり、死を想起させる表現があります。
 決して無理はしないようにお願いします。

 なお、個人的共有として、私は強度の高い場面でも読解より制作の方が負担が軽い場合があります。浸るというより吐き出す感覚に近いためです。これは私固有の経験であり、誰にでも当てはまることではありません。

 僕は正常なのだと思う。

 けれど一度だけ、この瞬間だけは、絶望が優しさを上回ったのだと思う。

 気がついた時には僕は、遠いところにある地面を、ぢっと見ていた。
 そうしている僕とはまた別の僕が、足音を感じ取る。
 この頃には既に、「虫の気配を感じた」くらいの幻覚から、徐々に、「虫を見た」「自転車に乗る女がこちらに向かってきているのを見た」に変わりつつあったのだけれども、やはり、躊躇いがないわけではなかった。

 足を震わせながら、立ちすくんでいる。
 音が鳴らないように硬く結んでいた鈴の紐をほどき、それを女の方へと転がす。
 鈴が段差を跳ね、金属の輪が夜にほどける。
 女は淵に居るわけではないし、鈴の音がすれば驚いて気が逸れる。鈴を拾わなければ連絡。拾って持ってきたならば、彼女の中にも優しさ生きているということなので、連絡するだなんて言葉で傷つけることなく、相手の心にある隙間に潜り込む。僕ならば、十分に可能なはずだ。
 けれどそんなことはしない。境界は僕が先に出す。
 鈴の音がして数秒、
「ごめん、そっちに鈴、転がってなかった? 暗くてよくわからなくて」
 女の側に鈴。スマホのライトに照らされて、キラキラと光を反射している。
 女は、足元に転がる鈴を拾い、口元を手で覆う。吐き気でも思い出したのだろう。
 ならば、鈴を受け取った僕は左側。
「触れていい?」
 そっと頭を抱きしめる。
「通話の画面は開いておく。あなたが望めば今すぐ押す。危険なら、望まなくても押す。
ここは高い。降りよう。明るい場所で、人のいる所へ。
今は仮の名で呼ぶ——“ななさん”。呼べる名があれば、戻る道が一本できる。
ここから先は、第三者と一緒に決めよう。ひらけた場所で」
 救いは彼女を殺してる。殺しているだけじゃないのか。僕はやはり、倫理的な正しさってやつが嫌いらしい。
 けれども、境界はきっちり先に出す。傷つけないために。
【本当は、大人として警察にでも連絡すべきなのだろうけど、緊急時で現場の判断を優先すべき状態であるという口実を適応しておいてあげるのです。】
 にこやかにあどけなく、そう言ったような気もしたが、抑え込んでいたはずである。女は相変わらずである。
【それと優しくて親切で心の広い善人が、家の前で鍵を落としてしまうかもしれません。冷蔵庫にあるスムージーだとか、机の上のシャケだとか、勝手に食べられてもきっと怒りはしないはずですよ?】
 考えただけだ。
「人のいる場所に寄ろう。飲み物はそこで。歩幅、合わせる」
 外灯、車、低木にマンホール……夜道が視界を過ぎて行く。
【コンビニにでも寄りますか?】
 女は既に俯かせていた顔を、更に下へと向けた。コンビニから漏れ出す光さえ、眩しく見えてしまったのだろうか。
【ふふふ、可愛いな〜悲しいな〜絶望してるな〜。今更だけど、"我家に帰宅する"を選んでもいいのですよ? 僕としては、もう少し可愛がりたいところなのですが、世間は許してくれませんからね。鍵を失くしてしまっている間は、家にも入れないのです。】
 飲み込む。言わない。
 支えを外して、前に立つ。
【"ななさん"と一緒に居ては、僕が社会に居られなくなってしまいます。
やっと顔を上げてくれましたね、ななさん?
僕が名前を与えてあげるのは珍しいことなのですよ?】
 僕は、静かに微笑した。

〈作者注〉
 誤読リスク防止の為、本作で“未統制”と見えかねない箇所について補足します。
1. 冒頭の「思う」の二連打は、解離を可視化するための文体操作です。
2. “躊躇い”は〈人の気配で躊躇〉と〈その気配自体が幻視〉の二層を同時に重ね、具体的手順には踏み込まない設計にしています。
3. 優しさは救済ではなく containment(拘束)として描き、通報基準と第三者関与を台詞で明示しました。
4. 鈴は“儀式の記号”であり、操作の手段としては扱っていません。なお、症状名の断定は避け、体験の層として描いています。
5. 主人公は、絶望していない人にも、極限の絶望を正常に感知しながら処理している人にも見えるように設計されています。
6. 本作は、作者注まで含めて完結する設計です。

〈注記〉
 現実で少しでも危ないときは、一人で抱え込まないことを推奨します。 可能な限り、安全を最優先で。 必要だと感じた場合にはホットラインなどをご活用下さい。

千四百三字の夜

千四百三字の夜

短編という枠組みだからこそ可能な密度と深度。長編に引き伸ばすと倫理的・統制的に持続しにくい構造。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-10-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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