本の虫とカフェオレ

人生は本とともに。本が大好きな、ある青年の日常

 ある地方都市の図書館。市内にはいくつか図書館の分館があるが、唯一夜間も開いている図書館。そこが路仁(みちひと)の職場である。路仁は司書資格を持ち、市役所の職員である。公務員の採用試験を受け、採用された。館長も定年退職後、再雇用された人であるので、図書館の業務より、館内の管理、業者とのやり取り、予算担当、一般業務はすべて路仁の仕事となっている。役職は「主任」だが、入庁した時から同僚からは「ろじん先生」と呼ばれている。
 おもはゆいからやめてほしいと思いながら言い返せないふがいない思いを何年もしている。
「ろじん先生、これお願いします」
「この書類作ってください」、「電球替えてください」・・
と、図書館の業務以外の仕事をやらされている。
 公務員になって5年目、図書館以外の業務をしたのはそのうち2年、最初の配属は教育委員会だった。図書館で働くことは子供の頃からの夢で、図書館に異動になった時は一人でお祝いしたものだが、本来の司書の業務はあまりさせてもらえず、実に役所らしい机上の仕事を一日中することになるとは思わなかった。
 大正時代に建設され、舞踏会でも行われているような石造り風の建物。何度か耐震工事を重ね、外観だけは当時のままを保つ図書館だが、内部は時代に即した設備もある。
 本に埋もれて、本と会話して、新しい本を自分が選んで、書架に並べる。路仁が思い描いた毎日だった。
 しかし現実は、備品が壊れたといっては修繕にだし、予算書を片手に支払伝票を作ったり、退職や産休に入る司書のための手続のため、市役所の本庁を往復する。そんな毎日で、本と触れ合う時間はあまりなかった。
 今日は、夜間の勤務で、その前に市役所にいかなくてはならない。来週の支払いの書類を今日中に会計課に持ち込まなければならない。しかし本来の図書館業務ができる夜勤は嫌いではない。
 市役所は、終業まであと少しというところだが、まだがやがやとしていた。ずっと図書館にいると、よほど同級生とか親しい同期でない限り、同じ市役所に勤める職員の顔も名前も分からない。首から下げた名札でかろうじて市役所の職員と認識する。この人は誰だったかな?お互いにあいまいに会釈しながら、会計課を目指す。
 会計課からぱっと人が出てきた。路仁が市役所で一番会いたかった人で、他の同期は覚えなくてもその人だけはすぐ覚えた。
 その人も「あ」という形の口元がほころぶ。
「お疲れ様。久しぶりだね」
 路仁を「ろじん」と呼ばない一人だった。ちゃんと親からもらった名前を呼んでくれる。
 (今日はいい日だ。)
久しぶりに同期の、高城真冬に会えて、路仁の一日に一気に陽がさした。
 同期の、いや市役所の中でも、今まであった女性の中でも、抜きんでて可愛い、と路仁は思っている。同期と言うだけで、二人きりで会ったことも、個人的な話をしたこともないが、おそらく気立てもいいはずだ。
「けっこう来てるんだけど、あまり会わないよね。」
「私はいつもこの時間くらいにこのあたりを通るよ。会計課に毎日来るから」
「そうなんだね。僕もこれからなるべくこの時間に来てみる。そしたら会えるから」
 気持ち悪がられてないかな。我ながら、初心であきれてしまう。キザな感じもする。路仁にしてみれば「会えてうれしい」という精一杯の好意の表現だった。30歳も間近の路仁だが、恋愛経験は少ない。
 学生時代の部活は山岳部で女子部員はいなかった。読書好きとの出会いは時にあり、好きな本や作家の話で盛り上がり、交際につながることもあるが、本を介しての付き合いには限界があるのか、それ以外のつながりがうまくできず、何となく終わってしまうことばかりだった。
 真冬はどんな本が好きだろうか。読書が好きだろうか。同期であることしか共通点のない真冬とどうやって距離を縮めて、どんな話題を振ったら喜んでくれるだろうか。
「そうだね。たまには庁内めぐりをしたら?うちの課にも寄ってね」
 飾らない笑顔、目も口も笑っている。終業を知らせる音楽が流れだした。路仁はあわてた。
「これ今日中に持ち込まないといけないから」
「そうだね、ごめんね、引き留めたから」
 会計課の職員に一緒に頭を下げてくれた。受け取る相手が、迷惑そうなだけでなく冷やかにみえたのは路仁、真冬どちらに対してだったのだろうか。路仁は小さくなりながら、会計課の職員に何度も頭を下げた。明日中に処理をお願いします、とお願いする中、頭の中の半分は、真冬がまだそのへんにいてくれたらということだった。
 ぺこぺこしながら、会計課を出ると、果たして真冬はまだそのあたりにいた。だが、一人ではなく細川蒼澄(あおと)と立ち話していた。彼ほど真冬のとなりにいて、似合うと思う男性職員はいない。真冬と話せるだけで、「よい一日」が数日続く路仁もそう認めざると得ない。感じがよく、洒脱で、仕事もできて・・。市のロゴのはいった支給のポロシャツにエプロン姿の路仁はあらためて蒼澄との違いを思い知る。
 何を話しているのかな。話題はなんだろう。二人は通りすがりに話すだけの間柄かそれとも頻繁に話す間柄か。さっきあいさつしたから、そのまま帰ってもよいのだが、やはりいつもの日常に戻る前に、もう一度真冬の笑顔がみたい。人が話している間に割り込むのは行儀が悪いが、路仁は思い切って声をかけようとする。短い時間にいろいろ考えてしまって、いい年してすぐ行動できない自分が情けない。
 だが、路仁が話しかける前に、真冬がこちらを向いてくれた。
「書類受け取ってもらえた?よかった」
 名前は「真冬」なのにすべてが暖かい。麗らかな春の日差しのようだ。
「ありがとう。今から夜勤だからもう行くよ。お疲れ様」
 せめて蒼澄の顔は見たくない。だが蒼澄の方は、庁舎内ではあまり見かけないが、同じ役所の職員である路仁を誰だか思い出そうとしている。名札に書かれた名前を確かめようと目の焦点を合わせている。
「図書館の伊藤です」
 どうせすぐ忘れるだろうと路仁は自分から名乗った。庁舎内に伊藤は何人もいる。
「図書館の・・ああ、ろじん先生!」
 蒼澄はぱっと明るい表情になる。反対に路仁は「どうしてその呼び方を・・」と憮然とする。
「図書館の男性職員と言ったら、一人しかいないよね。司書の女性たちがうちのろじん先生が・・と言っていたから」
 そういえば、本庁にとてもすてきな人がいると同僚たちが話していた。合コンでもしたのだろうか。路仁の思っていることが顔に出たのか、蒼澄は少し気まずそうにしている。あだ名で呼ばれるのは大人になってもいい気持ちがしない。いちいち反応はしないが。
 気がついたら、真冬はいなくなっていた。「もういくね」と小さく頭を下げるのが目の端に入ったが、蒼登と向き合っているうちに、機会を逃してしまった。
「高城さんと知り合い?」
「同期です」
「それなら高橋も宮田も同期だね」
 あまり覚えていない同期の名前がどんどん出てくる。路仁の勤める市役所は職員数が多い。同期の人数も多い。
 新人研修のときに顔をあわせるが一人ひとり覚える前に研修は終わる。全員で会食するのは、顔合わせの一回だけで、あとは気の合う者で定期的に集まる同期もいる。路仁の同期は仕切りたがり、集まろうと音頭をとるような者がいない。かなり絆の深い世代もいるが、蒼澄の世代はそんな集まりのようだ。
「あまりうちの同期はつるまないから・・。その高橋や宮田がどこの課か正直把握していないんだ」
 蒼澄はそんなことあるのか、と珍しいもののように路仁を見ている。さして話すこともないので、そろそろ行こうかと思ったとき、
「でも高城さんとは話すんだね。聞いていた感じと違うね、ろじん先生」
 真冬への好意や、親しく話す姿にもやもやする気持ちを抱えていることを見透かされたようで路仁の心のシャッターが閉まり始めた。こういう人は苦手だ。仙人のような意味をこめて「ろじん先生」と言われているのだろうが、仙人でもなければ、達観しているのでもない。蒼澄にラベルをはられたくない。卑屈になってしまうのはどうしてか。たまたま会って話していただけかもしれないのに、これが嫉妬なのか。会っていないときは思わないのに一目会うと「可愛いな」、「もっと話したい」、「毎日会えたら」と思いが募る。手が届きそうな近くにいると、真冬は偶像から一人の生身の思い人に変わる。

「久しぶりに高城さん笑っていたなあ。最近悩んでいるようだったから」
「え?」
もうそろそろ図書館に帰らないといけない。庁舎内から職員がどんどんいなくなっていく。でも立ち去れなかった。
「俺も今は違う部署だから今日みたいに偶然会った時しか話さないけど、最近気がないというか、影があるというか」
「何か話聞いてない?顔が広そうだから噂とか聞いているだろう?」
 蒼澄は急に問い詰めるような口調に変わった路仁に驚いていた。さっきまで逃げ腰だったのに、目をそらしてしまうくらい真剣なまなざしだった。
「ろじん先生も、そんなに気になるんだね」
「・・それは同期だし。同期なのに気づいてあげられないじゃ悪いだろ」
「さっき、同期ではあまり付き合いがないって言っていたと思うけど?悪いけど悩んでいると思うのは、俺の想像かもしれない。それをほんとうに悩んでいるかのように言って広まるのは本意じゃない。現にろじん先生だって俺がいうまで、高城さんが悩んでいるなんで思いもしなかったろう?」
「そんなこと・・」
「ごめん。よけいなこと言ったかも。気になるようなら本人に直接聞いて。同期だから聞けるよね。それともろじん先生にはハードルが高いかな」
 一言多いとはまさにこの男のことだ。初めて話すのに、遠慮がない。
「もう帰ろう。夜勤がんばってね」
 言うだけ言ってさよならですかい。路仁はぐうともいえずぽつんと取り残された。
 去り際に気づいたが、蒼澄はとてもいい香りがする。上等な香水をつけているのだろう。そういうところからして自分とは違う。
(そんなことより・・)
 学生時代に取得した資格を生かせる希望の部署に配属され、思っていたのとは違う業務もしなければならないが、大好きな本に囲まれ、毎日過ごしている。本にかかわる仕事ができることが幸せだった。本が好きと言うだけでは務まらないというのはこの数年で知った。好きな本だけ選ぶことはできない。予算の関係もある。利用者の雲をつかむような話から希望の本をさがしてあげることもある。そして存外体力が要る。
「図書館の仕事はサービス精神が必要」
 司書講習の講師はそんなことを教えてくれた。お目当ての本に出会えた利用者のうれしそうな表情に満足感や充実感を感じている。
 今は、事務室でお役所仕事をしているがやはり自分は恵まれたところにいると思っている。真冬は今の課の仕事がつらいのだろうか。自分にあわない業務内容が圧迫しているのか、残業が多いのか、窓口対応がつらいのか、家庭の不和か、彼と別れたのか・・・。
 今まで読んだ本の中からさまざまななやみごとを抜き出していく。
「幸福の形はどれも似たり寄ったりだが、不幸の形はそれぞれである」
 うろ覚えだがそんな一文が浮かぶ。
 真冬のことはくわしくは知らないが、蒼登の言うとおりなら何かに悩んでいる。心身を病んで退職する職員は少なくない。はたからみれば、身分も保証され、安定した職場とされている。
 それでもふとしたことで心が風邪をひき重症化して治らない病気により、何日も休職した結果退職していく。 
 他にやりたいことがあり退職する者もいるが、心身が壊れて退職する公務員はそれより多いと聞く。
 真冬が悩んでいるのが仕事のことなら自分になにかできることはあるか。でも真冬のような人が、つらく当たられているとか、仕事を押し付けられているようなことをされるだろうか。
 真冬を美化しすぎかもしれない。路仁は冷静になろうと返却された本の山から一冊ずつとりだしチェックする。お菓子のかす、コーヒーの染み、こどものらくがきがないかとぱらぱらとめくる。もし見逃せない汚れを見つけたら連絡をして、場合によっては弁償してもらわないといけない。「証拠はあるのか」と怒り出す利用者もいる。比較的苦情が少ないとされる図書館だが、時にはそういうこともある。
 ある時は、若い女性の司書が一時間以上利用者からの電話につきあっていたことがある。いつもの問い合わせと思っていたら雑談、到底答えられないような難解な、もしくは個人的な質問を繰り出し、ようやく満足したのか一方的に電話がきれたあと、彼女は口から魂が抜け出ていくのがみえるくらい疲弊していた。
 冷静になって、業務に没頭しようとしたが、真冬のことがまた思い出されて、彼女への思いに沈んでいく。
 美化ではない。本当に真冬はいい人なのだ。可愛いだけでなくたまにしか会わない路仁にも笑顔で接してくれる公平でやさしい女性なのだ。利益にならない相手は歯牙にもかけないような冷たい人ではない。
「ろじん先生、手がとまってますよ」
 この日の夜勤が一緒の園田詠夏(えいか)に路仁は引き戻された。
 詠夏は23歳、昨年採用された新人司書である。若くて身軽なので、夜勤や力仕事で行動を共にするうちに兄妹のように話す間柄となった。路仁の数少ない友人の一人でもある。お互いに異性を感じていない。真冬とはタイプは違うが、ショートカットがよく似合う快活な女性である。努力家で行動が早い。
 夜間図書館は午後10時までで、それなりに利用者も多い。費用対効果の面から閉館時間についてはたびたび議論になるが、根強い反対にあい、閉館時間はずっと午後10時のままになっている。夜間なので防犯上出入り口は一か所に限られる。隠れて残ったりしないように夜間の際は、入り口の名簿に利用者番号を書くことになっている。
「ああ、ごめん」
「ろじん先生が魂ぬけているのはいつものことですから。」
「気をつけます」
「でも、ろじん先生の目に今日はちょっと光がある感じなんで、空想にふけっているのではなくてリアルな物思いだと思います。」
 リアルな物思い、初めて聞く言い回しだ。
「そうかな・・」
「はい、ろじん先生はとってもわかりやすいです。気のないときと興味あるときと」
「えー・・」
「自覚ないんですね。そういう人ってみんな同じなのかな。ろじん先生、人に対しても同じですよ。私は少しは打ち解けているから?そういう顔されないけど、まったく興味ありませんって顔してるの見たことあります。まあ、相手にも伝わってはないでしょうけど」
「・・・」
 もう言葉も出ない。自分はそんなにわかりやすいのか。相手によって態度が変わる人がいる。損か得か。役に立つか立たないか対応が違う。路仁もそういう対応をされ、自分は役立たずだと憂鬱になったことがある。自分も同じことをしていると他人から指摘され、身の置き所がなく、今度こそ手が止まってしまった。
「あー、でもそんな露骨じゃないですって。ろじん先生をよく知らないとわからないくらいです。私はよく一緒に仕事をするから気づくだけで」
 言うだけ言って、フォローしようとしているのか詠夏は早口で言い添えた。
「そんな傷ついた顔しないで下さいよ。悪いことじゃないですよ。みんな大なり小なりそうでしょ?誰にでも同じようにできる人の方が少ないですから。私が言いたいのは、ろじん先生がいつものぼんやりじゃなくて何か実体のあるものか、人を思って考え事しているのが新鮮だなって思ったんです」
「すごく人間らしくていいことですよ。ほんとに。ろじん先生って本の虫か、図書館に住んでいる妖精じゃなかったってわかって・・」
「僕のことなんだと思ってるのさ。」
 怒るのもなんだか違う。たぶん本当にそんな顔をしていたのだろうから。妹にやりこめられた兄の心境だった。けっこうな失礼発言をされているが今後、詠夏を嫌いになることはない。詠夏はそういう子だった。
「でもほんとにどうしたんですか?私の想像じゃなくて本当にリアルな物思いですか?」
 心から心配しているような口調に変わる。たまに返答に困るような物言いをしても、詠夏はやはり妹のようだと、路仁は兄の気持ちで、真冬がするように大げさなくらい顔全体で笑って見せた。それが伝わったのか、詠夏も照れくさそうに微笑んだ。利用者も少なくなってきた。もう9時半になっていた。
「あのさ、そこまで親しくないけど、明らかに悩んでいる知り合いがいて、そして、本当に深刻に悩んでいることを知った時、僕に何ができると思う?」
「抽象的すぎてまったくわかりません。どうしたいんです?」
「だからそれを聞いているんだよ。そこまで親しくはないけど、でも力になりたいって思うってことだよ」
「へー、で、よければもっと親しくなりたいと?」
 詠夏は文字通りニヤリとした。
「たとえ話下手ですね。本をたくさん読んでいる人とは思えませんね。ひそかにいいな、と思う人がいて何かに悩んでいて力になりたいんでしょ。相談に乗っているうちに、親しくなれれば・・って。ろじん先生も下心ありありの男の人なんですね。安心しました」
 あけすけな物言いに何を言っても勝てそうにない。本は一向に片付かない。残業になるかな。
「心から安心してるんですよ。ろじん先生、本か山歩きにしか興味なさそうだしほっといたら、本の登場人物になっちゃいそうなくらい現実味がないときもあるし。生身の男の人なのかなって。草食系を通り越して性別のない微生物系男子と言うか」
「微生物に失礼だぞ。えいさんの彼氏なんか肉食を通り越して猛獣か怪獣系だろ」
「そうなんです。いつの時代の?っていうくらい。私は正社員で長く働けるところを探しているのに、そんなことしなくていい、アルバイト程度でいい、俺がいるからって」
「いまどき、そんな考えの人いるの?えいさん、僕にはズケズケ言うのに、彼に、あなたの考えは古い。って言えないの?」
「彼のこと悪く言わないでください。今はろじん先生の話でしょ?」
「えいさんはそれでいいの?えいさんは彼の前で自分らしくいられてる?えいさんはこれから何にでもなれるしどこにだって行けるんだよ。主人公を支える恋人の役回りじゃなくて自分自身が主人公としてさ。」
 詠夏が、彼のことを思い出したのか、目がうるんでいる。妹を泣かせてしまった兄の心境になり、路仁は言い過ぎたかとあわてた。
 詠夏の彼氏はとてもわかりやすく“男”で、それをみせつけることを躊躇しない。甲斐性も頼りがいもありそうだ。しかし、詠夏の言うとおりならそれは彼女を愛していることにはならないと路仁は思う。男らしさを否定はしない。肉食系でも猛獣系でもかまわないが、彼女の人生を指図するのは愛情とは違う。
「・・ちゃんと言えるじゃないですか、ろじん先生。その人にも私に言うように言ったらいいんですよ。心配してる。自分らしく生きてほしい。いくらだって道はあるって」
「そうだね。でもえいさん、彼は本当にそんなこと言うの?えいさんがせっかく自立しようとしているのに・・」
「初めはそんなことなくて・・。でもそうやって言われて幸せ、って思う自分もいるんです。このままの方が楽かなって」
「僕はえいさんの選択に口をはさむ立場じゃないのは分かっている。でも彼氏もその立場じゃない。好きな人を否定されるのはつらいけど、自分をごまかしてはいけないと思う。考えることをあきらめたらだめだよ」
「ろじん先生・・」
「ごめんね、偉そうに。自由でハキハキした僕のイメージの中にえいさんを当てはめようとしている。彼に愛されて、守られて、生きる幸せもあるかもしれない。彼に従順な女の子が、真実の詠さんかもしれないけど、どっちになってもえいさんが心から納得して後悔しない生き方をしてほしい。少し長く生きている愚かな兄貴のことばだと思ってくれていい」
「ろじん先生ありがとう。そんなこと言ってくれる人いなかった。で、話を戻しましょう。ろじん先生の知り合いの方が、優先度が高い気がします」
 閉館までの残り時間で、あらかた路仁の物思いの内容は詠夏に話してしまった。詠夏はもう茶々をいれず真剣に聴いてくれた。
「当然ですが、力になりたいなら何に悩んでいるか知ることからですよね。話が分かる相手、信頼できる相手って思ってもらわないと」
「でも、今まで個人的な話したことないし、仕事でも接点がない異性から“お悩み事は?”なんて聞かれるのは、警戒レベルだよ。それこそえいさんのいう“下心みえみえ”だよ。弱みを握ろうとしているとかしか・・」
「確かに。わたしもそう思うかも。ろじん先生は今はその人にとって可もなく不可もなく、毒にも薬にもならない存在なのにそれで一気に印象が変わってしまうかも」
 詠夏のずけずけな物言いはこの際聞き流して、路仁は片づけをしながら話を続ける。
「生死にかかわるような悩み事じゃないならまずは仲良くなりましょう。何かにお誘いしては?いきなり海の見えるバーなんて無理ですよ。ろじん先生には敷居が高すぎます。」
簡単なようでそれは難しい。今時の女性が喜ぶようなことや場所は何も思いつかない。
「ろじん先生、すごく立ち入ったこと聞きますけど、私も知っている人ですか?」
 路仁はやはり相談する相手を間違えたかと後悔し始めていた。生まれたときから様々な情報に囲まれている超現代っ子の詠夏がどんな恋愛の手管を持っているか想像がつかない。
 だが、古風な価値観の彼氏に不満を言いながらも「でも好き」と言い切る純情な面も持っている。
 恋愛については知識と情報だけが先行して、高校生の頃からの付き合いという彼氏が男性の代表のようになっている。彼の前では路仁は端から男性ではなく女友達の恋愛相談につきあっている感覚なのだろうか。
「多分知らない・・と思う。」
「なんだー。知っていたらまずは私が先に接触してもいいかなって。ろじん先生より警戒されないでしょ。名前だけでも言ってみてください。案外知っているかも」
「いや、本当に。ここに来たこともないし、絶対に知らない」
「えー、私が余計なことすると思ってます?ろじん先生よりうまく聞き出せる自信ありますけど?」
「気持ちはありがたくもらっておくよ。もう閉館だ。この話は終わり」
 上の階にいた司書たちが、片づけと点検を終えて降りてきている。詠夏はまだ聞きたそうに目をきらきらさせているが、路仁は話を打ち切ろうと正面玄関を内側から閉めようと立ち上がった。
「わかりました。その人が誰かはもう聞きません。でもろじん先生が普通に食事とかに誘って聞き出すのは無理でしょうから、ほら、あれにお誘いしたらどうです?」
 そう言って詠夏が指したのは、図書館のイベント情報などを貼っている掲示板だった。
《夜長読書の会》
「来るかなあ。ていうかえいさん、やっぱり誰が来るか気になっているの?」
「いいえ、ぜんぜん。誘ってすぐ来てくれると思ってるんですか?自信あるんだかないんだか・・。けっこう人が来るじゃないですか。女の人も多いし、だれかなんてわかんないですよ」
「でもなあ・・けっこう個性的な人も来るし」
「だったらろじん先生がよくいく読書ピクニックはどうですか。今キャンプとかはやっているし。」
「二人でなんて、『夜長読書の会』より難しいよ。さっきの話とぜんぜん違うじゃないか」
「もうー!どっちかにしてください。自分のフィールドじゃないとろじん先生はちゃんと話せないと思うんですよ。じゃ、『夜長読書の会』にしましょう。次回のチラシ、私が本庁の全部の課に持ち込みます。連絡先をろじん先生にして。」
「いや、それは僕がするから」
「いえ、私にやらせて下さい。ろじん先生がその人に直接渡せるならいいですけど。」
「でも、やっぱりそれは・・」
「ああもう!とりあえず私が持ち込んで広めてみせます。ろじん先生はそのあとに本庁に行ったときにその人に会うでしょ?その時、あれ見た?って感じで誘ったらいいんですよ。何回か持ちこんだら一回くらい来ますよ」
「なんでそんなまわりくどいことするのさ」
「まわりくどいとか、ろじん先生が言えますか?今だってまわりをぐるぐるまわってるだけじゃないですか」
 結局、詠夏に押し切られてしまった。たまには市役所に行って、気分転換したい気持ちは分からなくもない。詠夏は市役所内に同級生や知り合いが多い。情報をキャッチするアンテナの高さは路仁の比ではない。
「私の方が顔が広い自負があります。アルバイトだからって侮ってもらっては困ります。ろじん先生はきっと一つか二つの課をまわって終わりでしょ。多分その人がいる課の前は三往復した挙句に行けませんでした・・ってなりそうです」
 実際、詠夏はやってのけた。問い合わせ先を路仁にして、持ち前の人懐っこい話術と愛くるしい笑顔で、チラシを配りまわった。対応したものはほぼ全員、相好を崩して、課内で回覧することを約束してくれた。
「あとは、担当者のがんばりですよ。思い人が来なかったからって手抜きはだめですよ」
「そんなことしないよ。というかこれは職権乱用って言われないかな。誰も来なかったらどうしよう」
「いいじゃないですか。本庁の方が来てくれるだけでも。お互いの業務内容を知るのも大切です。」
 詠夏は館長にも直談判して各部署から最低一人は参加させるように配慮するよう、各部署に依頼させた。
「一般の利用者が参加しにくくなるんじゃないかな・・」
「今更何言ってるんですか。もともとそんな来てないじゃないですか」
「それは・・そんなことないよ、たぶん・・」
《夜長読書の会》はこの図書館が夜間も開館するようになってからの常設の企画である。
○最近読んだおすすめの本を、他の参加者にプレゼンする回
○話題の新刊を読んで語り合う回
○有名な文学賞を次はだれが受賞するかをあてる回
○極上のコーヒー、紅茶を飲みながらそれぞれ本を読む回
○大人向けの読み聞かせ
○夏限定百物語の回
などいくつかの内容を繰り返しながら続いている。
 毎月するときもあれば不定期の時もある。のらりくらりと続いているようで根強い人気がある。
 そしてほんの少しだが市民の役にたっている面もある。昼夜逆転して家にこもっている青年が夜の図書館と言う非日常空間の居心地の良さで少しずつ昼の世界にもふみだすきっかけになったこともある。
 こだわりが強く難しい話ばかりするので、家庭内で孤立していた男性が思う存分自分の話ができる場所として、開催を楽しみして表情も穏やかになったといったこともあった。話をされる方は少々辟易するが、総じて本への愛着が深いので、話好きでいろんな方向に話が飛んでも意に介さず本を読むとき以外はおしゃべりに夢中になっている。
 路仁もはじめはたまにいる強烈な個性に緊張していたが、うまくいなしていけるようになった。司会進行をすることもあるので、いちいち気にしていてはあっという間に時間がたって本来の目的が達成できなくなるからである。一人のための場所ではなく、眠りにつく前に好きな本のことを話したり、本に没頭したりするための会なのだ。路仁も《夜長読書の会》を通して、彼なりに社会人として成長していた。
「おまえはほんとうにやさしくていい子だ。でもだからこそ心配だ」
 親たちは今の路仁をみて安心してくれるだろうか。認めてくれるだろうか。大切に育ててもらったが今一つ信頼されていないという思いをずっと抱えてきた。どんな業務でもするつもりで公務員になった。司書は夢だったが、履歴書に書くだけの資格だったとしても一人前に就職して親たちにもう心配しなくていいよと言いたかった。
「来てくれるかな」
「そうですね。願わくは常連さんになってほしいですね。・・やっぱり教えてください。誰なんですか?」
 それから、真冬が何に悩んでいるかは《夜長読書の会》よりも前に知ることになった。
半分想像した通り恋愛トラブルで、“おおかたそうだろうと思っていた”と受け止めることで、ショックを受けないように自分に言い聞かせた。
 真冬のようにかわいくて感じの良い人なら恋人がいても当然だと思っている
 恋愛には気持ちの擦れ違いなど、多少の悩みやストレスは必要であり、波風立たない恋愛の方が少ない。
 波風は別れのきっかけになるかもしれないが、絆をより深めるリボンのような役割をすることもある。
 何千回と小説や映画の題材になった許されざる恋人たちの片割れが真冬だった。妻子ある先輩と恋仲になり、妻の知るところになり、二人そろって注意処分を受けた、というのが事の顛末だった。
 人々の空想力はたくましく妻子ある先輩に熱烈に迫った、「奥さんがいてもいいから」と開き直ったとか・・。主導したのが真冬だということになっていた。その先輩が見るからに清廉潔白でそれまで浮いた話もなく、愛妻家で、代替のきかない有資格者であることも、真冬が浮気をもちかけた側だという印象をつくってしまった。
「あの仕事ができて、家庭を大切にしている彼に身の程もわきまえず迫った性悪女」
「前から思っていたんだよね。あの笑顔には裏があるって」
「あてが外れたから焦っていて誰にでもチャンスあるらしい」
「楽勝ってこと。まじめそうなのに来る者拒まずっていいねえ」
 真冬の評判はどんどん下品になる。イージーで誰でもよくてまじめそうなのに気が多い女。
「ろじん先生、この人来ますかね。」
 詠夏ともう一人の司書が参加者名簿を見ながら話しかけてきた。路仁は季節の変わり目なので館内の飾りつけを季節にあわせて差し替えようと倉庫の中を物色していた。
 詠夏がさしているのは真冬の名前である。市役所とは少し離れた図書館でも耳敏いうわさ好きのところへはすぐにこの手の話は届いてくる。
「どういうこと?」
「だって有名なんですよね、悪い意味で」
「一般の参加者は知らないでしょうけど、今回は各部署に案内を配ったおかげで市役所の職員さんも来るでしょう?そんなところに一人で来られるかなあ」
路仁も気にならないわけではない。むしろ誰よりも気になっている。

 以前読んだ小説、好きな女性を他の男に取られた主人公。弄ばれた女性は傷つき姿を消す。主人公にとって上司にあたる件の男は甘い言葉で女を自分のものにする。好きな人が勝ち目のない立場の男と夜を過ごす。主人公は泣きの涙で苦しみ、思い出の浜辺でのたうつ。
 
 路仁は、恋愛でのたうちまわるほど苦しんだことはない。別れるときは、胸の痛みを感じ、「好きな人ができた」とふられたこともある。
 でも泣いて泣いて傷だらけになって砂だらけになって転げまわって苦しむほどの思いをしたことはない。
 当初の感想は、ちょっとおおげさな・・そんな風な感想だった。
 しかし身悶えるほどの恋の苦しみを経験したことのある者ならば主人公に共感できるかもしれない。行くなととめたいのに止められなかった後悔。君がいいなら、と理解あるふりをしながら胸が苦しくなる。
 真冬は恋人ではない。真冬に関する話が本当で、真冬が自分に利益のありそうな男性なら既婚者だろうがすりよっていくような女性だとしても、路仁は何かいえる立場ではない。この小説の主人公とは立場が違う。
 しかし、路仁は今やっとこの主人公ののたうちまわるくらいの気持ちが分かった。
 自分だって今、ほこりをかぶった本の中に永遠に埋もれながらも、現実の世界には出ていきたくない。泣きの涙で苦しんで体が汚れるのも構わず砂の上でのたうつ彼の気持ちが自分のことのように感じられる。
 恋人が目の前ではかなく消えてしまうのをどうにもできない。この憎しみは恋人に対してか、恋人を奪った男に対してなのか。
 路仁は、大人になっても時折、自分を遠くから見つめることがある。本当に自分は伊藤路仁という人間なのかという変な感覚。悩んでいる自分はほんとうに今を生きる自分か?
 しかし、はっきりしているのは、真冬のことが好きだという気持ち。
 今回のことで同情的な気持ちで好きなのか、初めて会った時から時々顔を合わせる中でじわじわと好意が育ったのかはまだはっきりしない。現実を生きる自分も遠くから入れ物の自分を見つめる自分もどちらも真冬が好きで、今回の真冬の醜聞に激しく動揺していることに気づいてしまった。
 真冬を信じたい気持ちと、そんな女だったのかという残酷な気持ちがもみあっている。誰かを好きになることはこんなに苦しいことだっただろうか。恋をするとこんなにもひとりよがりになるものだっただろうか。
 あの小説の主人公はどうなったんだったか。ただのたうって苦しんで最後には命を絶ってしまったか。それとも恋人を取り返しにいったのだったか。
「来ても来なくても《夜長読書の会》には影響ないよ。一度始まったら終わりまでする。本と一緒。始まったら必ず終わる。その人のうわさが本当でもそうじゃなくても本を読んだらいけないということにはならない。来られたら何ごともなく迎えてあげるように」
 詠夏たちは何も言わずに視線を下げた。詠夏もいつもの毒舌も茶化すこともない。路仁は決して命令口調を使わない。先ほどの言い方も明らかな命令口調ではないが、言い知れぬ圧力を感じさせる。図書館を訪れる人を分け隔てすることはしないしさせないという強い意思表示だった。
 路仁は館内のディスプレイの差し替えに没頭した。高いところにも脚立を持ち出して古くなったモビールを新しいものに変えたり時計の電池も交換した。
 翌日は夜勤明けの遅番だった。一日休みの時は日帰りキャンプに出掛け。小さなテントをはり、簡単な昼食とコーヒーで夕方まで読書をする。
 しかし、今日はそこまでの時間はないので近所の大型の公園で簡易テントをはり、折りたたみ椅子に座り読書をする。家での読書もいいが、気候が良いときは、外で景色とコーヒーと読書を交互に楽しむのも好きな時間だった。
 長い休みが取れたときは、一人でキャンプに出掛け星空の下、読書しながら眠りにつく。または、山に登り頂上で少し読書をする。山頂を目指すのをリュックの中の本が応援してくれるような気になる。
 真冬の方から声をかけてきた。職場での服装の違いにどきどきしてしまう。
「今日はお休み?」と声をかけられ顔をあげると真冬だった。読書を中断されたのとまぶしいのとで少し不機嫌な顔をしていたかもしれない。
「今日は遅番。待ち合わせ?」
 家族連れやカップル、グループでにぎわうところには場違いだけど、とか言わなくてもいい言い訳をした。実際、一人で読書をする姿に視線を感じて気が散っていたがもう慣れた。
「今日は一日お休み。一人でぶらぶら。買い物もカフェもあきちゃってこの公園にたどりついたんだ」
 椅子はひとつしかない。自分だけ座って見上げているのは居心地が悪くて、路仁は立ち上がった。
「コーヒーでも飲む?カフェめぐりで飽きてるかな?」
「いいの?ありがとう」
 真冬に椅子をすすめ、路仁はテントの中に座った。黒くて苦いだけのインスタントコーヒーよりよいかと、ひとつだけあったカフェオレにした。
「何冊もあるね。これ全部読むの?」
「一冊にしぼれなくて欲張って持ってきたけど、今日は読んでも一冊かな。ちょっとずつつまみぐいしながら全部に目を通すこともあるよ」
 真冬は感心したように積まれた本が何冊あるかを数えている。
「《夜長読書の会》申し込んでくれてありがとう。貴重なプライベートに・・」
 ありがとう、で止めておけばよかったと、路仁は真冬の表情の変化にとても後悔した。無粋なことを軽口にのせてしまった。自分は野暮で最低だ。
「行ってもいいのかな、私」
「もちろん、もちろん!ぜひぜひ!万難を排して万障繰り合わせて来てください」
 路仁の必死なお役所言葉全開の言い方に真冬は吹き出した。
「伊藤君、おもしろいね。楽しみにしてるね。でも私、本当に参加して大丈夫かな」
「どうして?大丈夫だよ。絶対大丈夫にするから。」
「私のこと、みんな何か言ってない?出先の機関でも知られていると思って」
 知らない、何のこと?と話をそらすのは簡単だった。そしてそっちの方が優しい対応だったかもしれない。
 でも、真冬は聞いてほしそうだった。自分の中の真冬が、みんな言うような軽薄な人間ではないことを本人の口から聞きたい。
 親身なふりをして話を聞き出そうとする輩と同類のような気がした。せめて聞いたからには、そのとおりだったとしても態度をかえないようにしようと路仁は誓った。
「正直に言うよ。みんな何があったか知りたがっている。どんな面白い百冊の本より一つの本当の話の方が興味引かれるものだから。僕も本当のことが知りたい。軽蔑するよね。僕も他の人たちと変わらない。でも高城さんがうわさに出ているようなことをしていないってことを知りたい気持ちが強い。でもうわさが本当だとしても高城さんを見る目を変えたりしない。この際だから言うけどこの気持ちははじめに会った時からずっと変わらない」
 言い出したら止まらなくなった。何を言っているかわからなくなった。好きだとは言っていないが、告白も同然のことをつらつらと述べている。
「勝手にこうだって、こういう人だって言われるのいやだよね。僕も嫌いだ。心外だ。ろじん先生って言われるのもほんとうは好きじゃない。路仁、みちひとを音読みしたらろじん。でも言い返せなくて。ごめん、余計な話だね。でも高城さんは最初から今まで僕への態度を変えたことがない。僕をみんなみたいにろじん先生って呼ばない。それが今まで僕を支えてくれたというか・・なに勝手なこと言ってるの?って感じだよね」
真冬はカフェオレだ。苦いコーヒーとまろやかな甘さのミルク。苦いも甘いも知っている。路仁よりはるかに知っている。
「信じなくてもいいよ。今になってあまりにも都合のいい言い訳だって。」
 そう自嘲気味に真冬は話してくれた。
 恋愛だと思っているのは相手とまわりの人たちで、真冬にとっては最初からセクハラだった。先輩で仕事を教えてくれる立場を利用して、真冬を口説いた。断りきれず何度か食事に行ったりするうちに交際していると疑われ、不倫関係にあると断定されてしまった。
 あれほど高潔な人物が部下を口説くわけがない、と。真冬は経緯を話すこともできなかった。
 しかし、会って食事にいった以上のことは本当にない。断りきれなかった負い目もあり真冬は事実と認めさせられ、不倫して風紀を乱したとして厳重注意を受けた。相手も無傷ではないが、真冬の方がダメージが大きかった。
 何をするにも失敗しないかとびくびくするようになった。何より誰とでもOKなのだろうと「さびしいだろう。次は自分とどう?」などと誘ってくる者がいることが信じられなかった。新人だった頃、親切に仕事を教えてくれた先輩や上司もいた。親切だったのもしれが目的だったのかと真冬は鳥肌が立った。
 庁舎内では一人にならないように気を付けた。かばってくれる人も変わらず接してくれる人もいた。蒼登などは一見派手で調子がいいように見えるが、中身は違った。
「弱みにつけこむのはもてない男のすること」と表だって行動はしないが真冬が一人にならないように気遣ってくれていた。
 路仁は、蒼登の何か言いたそうな、人を試すような言動の意図が分かった。こいつは信用できるかを見られていたのかもしれない。真冬が打ち明けてくれている間、路仁は相槌以外は言葉を発しなかった。
「・・だから、こんな私が行ってもいいのかなって」
 真冬は泣いていなかった。泣いたら認めることになる。決して泣かない。
 どんな感情も涙を見ると多少揺らぐ。泣いて相手の感情を操ることはしたくない。
「いやな思い出なのに話してくれてありがとう。つらかったね。信じるよ。どんな目にあっても泣かない高城さんが、奥さんや子供を泣かせるようなことをするわけない。ハラスメントはする方が悪い。どんな隙があっても派手な格好でも夫婦間や恋人同士であってもそいつが悪い。興味があるならぜひ《夜長読書の会》に来てほしい。今度は大人への読み聞かせをする。高城さんみたいに芯が強くて誠実で泣かない女性が出てくる本を読むよ」
「うん。楽しみにしてる。伊藤君が読み聞かせするの?」
「そうだよ。僕は上手だから感動したら泣いちゃっていいよ。」
 真冬はいつもの笑顔になった。路仁の心に元気と勇気を灯す笑顔。

 《夜長読書の会》は午後七時から二時間の開催だが閉館時間まで話が尽きないことがある。
 今回は、一階の新聞や雑誌を置いているスペースを少し移動させて場所をつくる。二階へ続く階段をきれいに拭いて階段に各々座ってすることもある。今日は『大人だって本を読んでほしい』と銘打って大人向けの読み聞かせ会をする。
 読む側は二人。時間が限られているので超短編か長いものは第一章などキリのよいところまで読んで、気に入れば、あとは自分で借りて読んでくださいと好きに選んでもらう。
 たまにしかやらない企画なので、路仁が担当になるのはめったにない。そして路仁は読むことは好きだが人前で本を読み聞かせをするのは苦手だった。
 いつもは、裏方の路仁が今日は自分がやりたいと言い出したので同僚たちは驚いていた。真冬に「僕読み聞かせ上手だから」と言ったのは嘘である。
「ろじん先生、シフト変えてもらいました。私も手伝います。」
「頼もしいな。えいさん、よろしくね」
「ろじん先生がどんな本をどう読むか楽しみです。来てほしい人はいらっしゃっていますか?」
 路仁は、かすかにうなずいた。詠夏はここぞというときは茶化したりはしない。
 さびしいとき、孤独な時、最低な一日も良いことがあった日も路仁は本さえあれば、気持ちをどうにか保つことができた。逃避と言われれば、まったく現実逃避だが、現実に立ち向かう気持ちにしてくれるのは幼いころからの読書習慣だった。
 今日の参加者がどんな感想でも、マイナスな感想でも何かを感じてくれたらうれしい。
 今日の参加者は30人程度。一人目の読み聞かせは常連の利用者で朗読ボランティアもしている女性で、SFの超短編を、落ちついた声で読む。内容は風刺とウィットに富んでいて辛口だが、最期にはくすくすと笑いが起きた。
 路仁が選んだのは、ある女性の一生を書いた小説。長編なので、少女だった主人公が因習にがんじがらめになった故郷を離れ、一人旅立つところで読み終える。
「僕はこの本を折に触れ読み返しています。読んだ人はご存知と思いますが。結末はそれぞれの解釈です。ずっと主人公の視点で話が進んでいくのに結末は主人公の視点ではなくなっています。彼女が幸せになったのか、まだ闘わなくてはいけないのかはっきりしない。それが僕が何度も読み返す理由です」
 この本を選んだ理由を質問され、路仁はこう答えた。参加者はうなずいたり隣とひそひそ話している。
 司会の館長が締めくくりをする。
「それでは、《夜長読書の会》を閉じたいと思います。御参加誠にありがとうございました。もう少し時間があります。本を借りる方はどうぞ。今日読み聞かせした本もみなさんをお待ちしています」
 《夜長読書の会》はお開きとなり、帰る者、本棚を行き来する足音で静かにざわめきだした。
「ろじん先生、よかったですよ。読み聞かせもですけど、本を選んだ理由も」
 詠夏がめずらしく素直にほめてくれる。いつにない詠夏に面喰らいながらも、路仁は真冬を探した。読み聞かせの間、真冬の方ばかり見ないように気をつけていた。
 これは真冬のために選んだ本でもあるが、それだけでなく一人の人間の生き方に若い自分がどれだけ感動したか公平な目で選んだつもりである。様々な年齢、性別、価値観をもつ参加者が、好感にせよ、批判にせよ一人の人間の生き方になにかを感じてほしかった。
などと理由をあげながらやはり真冬のために、真冬にきいてほしいと私情にまみれている自分に気づく。
(だめだな。失格だ)とため息をつく。
 何の力も借りず同情でもなく、ただ好きだという気持ちだけで真冬と向き合えたら。
 難しい内容の本が並ぶ書架、あまり人気がないが、珍しくこの時間帯に人の気配がする。男女の声、路仁は本能的にスマホを握りしめる。女の方は真冬だった。男の方はたぶん参加させられた職員だろう。立ち話を装っているが、どう見ても誘われている。
 相談に乗るよ、とかこのあと時間ある?とか口説きの常とう句をささやいている。真冬は顔は見えないが、奥へ行くまいとじりじり移動している。
 路仁は反対側の書棚に隠れてスマホの録音ボタンを押した。男はさあさあ行こうと真冬の背に触れるか触れないかの距離で手をまわそうとする。路仁は二人を通せんぼする。
「何?誰?」
 いきなり現れた路仁に男は不審な目を向ける。
「ここでそういうことはつつしんでください。このあとどこへ行こうとご自由ですが、その人は行かないと言っています。今回はこれで解散しましょう」
 路仁はスマホをかざした。さきほどのやりとりが録音されている。真冬は小さな声だがはっきりと「行かない」と言っている。
「盗撮?そういうことってどういうこと?」
「残念ながら決定的なものではないかもしれません。だけどその人が嫌がっているのは明らかです。盗撮だと訴えてもらって構いません。このまま解散するか、僕を訴えるか、むりにその人を連れて行くというなら、僕もおおごとにします。」
 何かが頬をかすめた。男がその日に配られた今日の次第がかいた紙でスマホを振り払ったようだった。紙は時としてナイフのようになる。頬に痛みが走る。
 はずみでスマホを落とした。固い床に落ち嫌な音がした。割れたかもしれない。真冬の息遣いが聞こえる。細かく震えている。
(泣かないで、こんな奴に泣き顔を見せないで。)
「行くはずないだろ、こんな女と。読めもしない本のところでうろうろしているから案内しようとしただけだよ」
「でしたらそれでいいです。御親切に感謝します」
「君、次から本庁に来るとき気をつけた方がいいよ。盗撮した上にあらぬ疑いをかけるような妄想癖のある男がいるって評判になるだろうから」
 男はどこまでも強気だった。
「わかっています。どう言われても構いません。僕の判断でしたことですからちゃんと説明します」
「あのー、そういうことにはならないですよ」
 詠夏が首から下げたスマホを奪われないように距離を取りながら見せつけている。
 強気な男の表情が揺らぐ。まわりを気にしている。
「いつから撮ってたんだ?」
「一足遅れちゃって。どこからかなー。再生しましょうか?」
「バイトの言うことなんて信じられるか」
「事実を撮っているのにバイトもなにもないですよ。人にけがさせてスマホを叩き落としてずいぶん強気ですね。あなたの方が今は圧倒的に不利ですよ」
 何ごとかと他の利用者がこちらをみている。男が少しそわそわしている。
「男女のもめごとは関係ない人間には最高に面白いですね。なんなら今まで何があったかみなさんに説明してもいいですよ」
「・・もう閉館だ。帰る。動画消しとけよ」
「いやでーす」
 閉館を知らせる音楽が流れだした。
(今日のわざをなしおえて心軽くやすらえば・・)
 路仁はこの歌詞が今日の自分と真冬のためのように思えた。
危ないからと送っていこうと申し出たが、真冬に一人で大丈夫と柔らかく断られた。詠夏が彼に迎えに来てもらうから送っていくと言ってくれた。
「今日は本当にありがとう。改めてお礼させて?」
 真冬は目の周りに涙の跡があるが、すっかり落ち着いていた。
「スマホ、もし壊れていたら弁償するから」
「気にしないで。でも肝心なものが撮れていなかったら申し訳ない」
「だいじょうぶ。もう私だいじょうぶ。何言われてもどんな女だと思われても平気。ちゃんと断れるから」
「高城さんならそうなれる。でも一人で抱え込まないで。今日みたいなことがあったら相談してほしい。みんなが同じように思っていると考えないで」
 彼が着いたらしい。真冬と詠夏、昔からの友達のように寄り添って帰って行った。
 カウンターの中を照らしていたおぼろなあかりが消え、真っ暗になり路仁の持つ小さな懐中電灯がひょこひょこ動きながら歩く先を照らした。このまま泊まっていきたいな。真っ暗な図書館を戸締りするのをこわがる者は多い。路仁は本があれば一晩中過ごせる。
 明日は一日お休みだ。何をしよう。また外へ読書にでかけようか。路仁が外へ出て図書館は非常灯以外は完全に真っ暗になった。
 《夜長読書の会》から一か月、日常は大きく変わっていない。真冬をとりまく現状も劇的に改善されたとはいえないらしい。相変わらず冷たい目を向けられ、一度ついた印象はそう簡単には変わらないらしい。
 だが、相変わらず恥知らずがもてない面をさげて真冬にちょっかいをかけるが真冬の表情に怯み、勝機はないと悟るらしい。
《夜長読書の会》で真冬に声をかけてきた男も特におとがめはなかった。しかし、あれから少しずつ話をするようになった蒼登に思い切って打ち明けると、蒼登はすぐに動いた。
 蒼登は信頼に足る人物だった。懇意にしている人事課の上司に報告したらしい。その上司は元部下である件の職員をよびつけものすごく叱ったらしい。公にはしないが、彼は上司と事情を知る数名の信頼を失った。今後、誰かに知られるのではとおびえながら過ごすことになるだろう。
「しかし、その場に俺もいたかったな。かっこいいね、ろじん先生」
「細川君に言われたら恥ずかしいな。本当はこわくてふるえていた。なぐりかかってきたらって。非力で喧嘩もしたことない僕は高城さんどころか自分も守れないって思った。えいさんが来てくれなかったらと思うと」
「蒼澄でいいよ。でも、引き下がれなかった。見て見ぬふりはできなかったろう?むりやり連れて行かれるのを阻止しようとした。ろじん先生はじゅうぶん強い」
「もうやめてくれ。本当に何もできなかったんだ。証拠のスマホも壊れてしまったし」
「必要ないよ。あいつはもう絶対変なことはできない。また話そう。飲みにいかない?香流さんもその詠夏さんもいっしょに。本庁にきたら声かけてよ。堂々と来いよ」
 蒼澄のような晴れやかで洒落た人と友達になれるとは考えてもいなかった。今日もばっちり決まっている。
 昼休み中だからと、颯爽と帰っていった。様子をうかがっていた同僚たちが色めき立っている。
 図書館の入り口がにぎやかだ。小学生の集団が入ってくる。社会の授業で「図書館のお仕事」とテーマに調べ学習をするようだ。高い天井を見上げ光が反射するガラスよりもキラキラした目をしている。
 週末、真冬と初めて二人で待ち合わせしている。壊れたスマホを一緒に買いに行く。
 ある日、仕事帰りに図書館の事務室に現れた真冬は、どうしても弁償すると言い張った。困っていると
「じゃあ、いっしょに選んでもらったらどうですか?で、ランチをおごってもらう、と」
 詠夏が困っている路仁の隣で携帯ショップの予約をし始めている。
「いいや、いまどきネットでも買えるのにわざわざショップにいかなくても」
 詠夏は答えず、さっさと予約を完了させてしまった。
「いろいろ言わずに行ってきなさい。こんな機会二度とないですよ」
「でも、恩義を感じてくれているのはありがたいけど、それにつけこんでいる気がして・・。
ランチだっておごってもらういわれは・・」
 詠夏の有無を言わせない視線の圧力が怖かったのと、真冬のしょんぼりした顔を向けられ、路仁は何も言えなくなってしまった。
 二人でお出かけ、の甘美な響きの前に路仁は週末のキャンプの予定をキャンセルする連絡をしなければと考え始めていた。
「これから真冬さんがろじん先生を友達以上にみてくれるかは、ろじん先生次第ですよ!」
詠夏が路仁に返却された本の束を押し付けてくる。重たい本ばかりだ。
「週末楽しんで下さい。」
詠夏が可愛くニヤリとした。路仁もへたくそなウィンクを返してみた。詠夏は一瞬きょとんとして「似合わないー。真冬さんにする前にもっと練習してください」と大笑いした。

本の虫とカフェオレ

本の虫とカフェオレ

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-09-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted